[映画秘史] 1928年 クロード・フランス自殺報道から読む仏映画界の実情

192312 - Les Modes

1928年(昭和3年)、年明け間もないフランスの映画界に不幸な報せが届きました。女優クロード・フランスの遺体が自宅で発見されたのです。

1月5日付の日刊紙が逝去のニュースを伝えています。踏みこんだ記事を書いていたのがル・マタン紙で、「クロード・フランス嬢自死」の題で事件前日から、翌朝の死体発見までの流れを追っています。

昨日の朝、フェザンドリ通り31番地、女優クロード・フランスさん(本名ヴィティニ夫人)宅に女中が出勤すると、寝室の鍵が閉まったままだったので驚いた。扉を叩いて名を呼んでも返事はない。女中は怖くなって警官を呼び、女優の友人にも連絡を入れた。

錠前士が扉を開く。クロード・フランスはベッドに横たわったままだった。部屋に充満したガスの匂い。ガスヒーターの弁が開いたままになっている。医者が呼ばれたが、女優の息はすでにこと切れていた。

訃報を受けた両親がパリに到着。1月9日に葬儀が執り行われました。当初は教会が難色を示したようですが、死亡診断書にしたためられた「突然の発作で自分をコントロールできなかった」の一文で許可を取りつけたとされています。

映画界から同僚の俳優たち(シュザンヌ・ビアンケッティ、ジャック・カタラン、ルネ・アリベル、ガブリエル・ド・グラヴォヌ、ジャン・ケム)が参列、貴族の名を持つ参加者も目につきました。教会前には人々の持ち寄った花束が多数置かれていたそうです。

クロード・フランスはどのような女優だったのでしょうか。

1920年にデビュー。初期芸名のディアンヌ・フェルヴァル名義で出演した『真実のカーニヴァル』で注目を浴びました。以後は年に2、3本のペースで映画に出演、1925年から大きな役が付くようになります。主役を果たした連続物『剣の栄冠』はパリだけでも20以上の劇場で封切られ、日本でも公開されています。私生活では貴族将校と結婚。1920年に離婚し、事件時にはパリの一角で召使らに囲まれて優雅に生活していました。

19280201 - Le Petit journal

惜しまれつつ亡くなった
クロード・フランス最新作『愛の島』

2月初頭、遺作のひとつである『愛の島』が公開されました。

そしてこの頃、奇妙な噂も立ち始めていました。

『ルクセンブルグ映画』誌の最新号に「マタハリとクロード・フランス」という記事が掲載された。先日惜しまれつつ亡くなった女優の死にこれまでにない奇妙な光を投げかけている。

「多くの人が信じているように、失恋の痛手から死を選んだわけではない」、同誌はこのように書いている。「クロード・フランスは大戦中に特殊な業務を任されていた女性だった。そもそもフランス籍ではなくスイス生まれ、大戦中はジュネーヴで看護師をしていた。フランス諜報機関のリーダー格と知りあい、その男のために働き始めた。[…] 諜報機関から見張りを受けるようになった彼女。ある日二人のフランス人士官が警官二人を伴って邸宅を訪れた。何が起こったのかは知られていない。だが二日後にクロード・フランスは自殺した」

シネマガジン誌 1928年2月3日付

クロード・フランスの父親は獣医で、本人も一時期薬学の勉強をしていました。戦中は怪我人の治療に従事。この時に知り合ったのが後の夫ドゥ・チリィ伯爵でした。

同氏はスイスでフランス側の諜報活動を行っていた。クロード・フランスは彼のため踊り子マタハリと仲良くなり、スパイ活動をしていることを突き止め伯爵に連絡した。この情報のおかげでマタハリのパリ逮捕が実現、クロード・フランスは裁判にも重要証人として出廷したとされている。

セントルイス・ポスト・ディスパッチ紙 1928年4月28日付
(「ベルリン情報筋による」の但し書きあり)

二種類の噂が広まっていきます。ひとつはクロード・フランスが戦前に諜報活動に参加、マタハリの逮捕~処刑を決定づける活躍を見せるも裏切った後悔に苛まれ自殺したというもの。もうひとつは諜報機関に「自殺させられた」の内容です。

女優とスパイの取りあわせは想像力を刺激したようです。5月には早くも映画化まで話題にされていました。

ベルリンのナショナル社が『クロード・フランス』と題された映画を作ることになった。フランス人の看護婦よって裏切られるマタハリの物語だそうである。

コメディア紙 1928年5月14日付

ドイツの映画製作会社が『クロード・フランスの宿命』と題された映画を撮ることになった。大戦中、反スパイ活動で何がしかの役を果たした女優の生きざまが明らかにされるとの話だ。

リュマニテ紙 1928年5月12日付

マタハリは2017年に没後100年を迎えています。当時の裁判記録が公開され検証は進んでいます。現時点で明らかになっている資料にはクロード・フランス/アンナ・ウィティグ関与の証拠は出てきていません。1928年前半の喧騒はデマに踊らされたものだったのです。

マタハリ関連の噂はドイツ方面から流れてきていました。独仏語を併せたスイスに生まれ、両親がドイツ人だった環境もあり、現地で独自の情報が見つかっていた可能性はあります。しかしそれ以上に、これらの噂にはドイツ側の反仏感情が大きな影を与えています。

戦時中に仏将校と恋に落ちて結婚。戦後はフランス風芸名の女優として成功、フランスのアンティーク高級家具に囲まれて贅沢な生活を送る。ドイツ視点から見ると裏切り行為に他ならない訳です。自殺が伝えられた時、後悔があった、罰が当たったなど願望を交えた噂が広まり始めたのも不思議ではありません。

極めつけは1929年にドイツで出版された『スパイ!』(H・R・ベルンドルフ)です。翌年に英語訳、1932年に仏語訳が出るなど評判を呼んだ一冊で、第9章がマタハリとクロード・フランスを扱っています。

アンナ・ウィティグは看護師の服を脱ぎ捨て、派手な衣服を身に着けた愛らしい女性に姿を変える。ローザンヌのカフェ、食堂、喫茶店に出没し始めた。ある日、聞こえてきた会話が偶然耳に留まった。男二人がホテルのレストランで話しこんでいる。ドイツ語だった。不意に漏れ聞こえたのは「H21」、アルファベットと数字を組みあわせた単語だった。[…]

アンナもまた死を遂げた。戦後、伯爵夫人となった女は俳優として名声を手に入れる。映画界、愛好家にクロード・フランスの名で知られた女優がそれである。名声の頂点にありながらマタハリの死を思うたび、女の心は乱れるのであった。2年後、美しく整えられたフェザンドゥリ通りの自宅で女は自身の頭を撃ち抜いて果てた。

『スパイ!』H・R・ベルンドルフ著

ガス自殺を銃に改変しているだけでなく、ご都合主義の展開、本人しか知らない細部を勝手に付け加える、心情やセリフの創作…など資料に基づいていない記述が随所に含まれています。1930年頃、こういった読み物風の書籍も研究書と同列に扱われていました。

死者を冒涜する動きにフランス側も反撥を見せます。

ベルリンの映画社が描こうとしているマタハリ告発の話は根拠のない与太話である。[…] 故人をそっとしておくことは出来ないのだろうか。

コメディア紙 1928年5月14日付

シラノ誌にも次のような所感がつづられています。

亡くなった女優をスパイ扱いし、謎の将校の命で自殺させられたとまである。
[…]
我々は女優に近しい人物より自殺に至るまでの真相を聞くことができた。クロード・フランスは幾つもの映画スタジオの長で、映画会社の大株主でもある男と数ヵ月生活を共にしていた。だが甘言を弄する男にも弱かった。大晦日の夜はそんな類の男優と仲良くしていたのだが、運悪く件の大株主に見つかってしまった。別れ話を切り出され、週8千フランの契約で結んでいた今後の映画計画も全て白紙にされてしまったのだ。

シラノ誌 1928年3月4日付

自殺直後からあった失恋話の続報です。金銭の動きも含めた生々しい記述もあります。シラノ誌は常に信頼できる情報源ではないのですが、ここで触れられている「幾つもの映画スタジオの長であり、映画会社の大株主」は注目に値します。パテ・エクスチェンジ社のGMを務め、一時期はシャルル・パテと並ぶ権力を持っていたポール・ブリュネ氏とも言われています。

1920 Paul Brunet

ポール・ブリュネ、1920年。
ズーカーやフォックスの上位互換、という構図。

クロード・フランスは写真映えのする美貌の持ち主でした。歴史劇の貴婦人役を任せると雰囲気の良さを発揮します。でも果たして一流女優だったか、というと疑問符がつきます。感情の深みや機微を表現できる実力はなく、パテ・ナタン社などで立て続けに主役を張っていたのが不思議だったりします。何らかの後ろ盾はありえそうな話です。

彼女に限らず1920年代の仏映画には偏った配役やミスキャストが多く見られ、しかもそういった状況を批判できない雰囲気が漂っていました。製作会社のイメージを悪化させたり、俳優の経歴、作品の売り上げに損害を与えかねないスキャンダルやトラブルは表面化しません。例えば1924年の『通り過ぎる影』(A・ヴォルコフ監督)製作中、乗馬事故で撮影が中断された話は記事になっています。しかし主演男優が助演女優と不倫仲になり、激怒した妻が発砲した出来事の方は表沙汰になりませんでした。

自殺する少し前、苛々している彼女を見ることが多くなった。ある監督の元を訪れた時など表情が動揺していて訳もなくいきなり泣き始めた。一瞬気弱になったのを詫びると、何も言わず立ち去った。

クロード・フランスは「自殺させられた」のか
シネ・フランス誌 1938年10月19日付

没後10年に監督レイモン・ベルナールが残した回想では奇行や薬物中毒の話が取り上げられています。存命中にこんな話が出ていればイメージダウンは避けられないはずですが、当時一言も触れられることはありませんでした。

日刊紙や専門誌越しに見える映画界とは業界や経営陣、現場やメディアそのものの都合で加工された現実に他なりません。1920年代の仏映画界のスキャンダルの大半(マックス・ランデの心中など)はそういった思惑でうやむやにされていきました。クロード・フランスの自殺報道が興味深いのは、想定していなかった海外の動きが絡むことで対応の足並みが乱れ、自衛と自賛のシステムにほころびが生じて本来表に出てこない張りぼての現実が一瞬垣間見えた点にあるのだと思われます。

Claude France 1927 Autographed Postcard

[初稿] 2017年4月15日
[最終稿] 2018年5月26日