[映画秘史] 『ファルコネッティ伝』を読む

1987-Falconetti 01

『裁かるるジャンヌ』で主演を務めたルネ・ファルコネッティの伝記。三部構成となっていて、下積み時代(1892年出生~1923年)、全盛期(1924~29年)、没落と忘却(1930~46年)の3つの時期を扱ったものです。著者は娘のエレーヌさん。肉親による伝記物としては唯一で、生活を共にしていた者にしか語ることのできない証言が多く含まれています。

ただし『ファルコネッティ伝』は女優の人生を丁寧に追った書物ではありません。その理由は伝記の執筆経緯から見ていくと分かります。

母について書いてほしいと言われてもこれまでお断りさせていただいておりました。嫌いだと言い続けてきたあの女の言動、死に様も含めて何十年にも渡ってどれほど苦しまされてきたことか。[1]

しかし1984年に息子(『クレールの膝』に出演していた俳優ジェラール・ファルコネッティ。ルネにとっては孫)が急逝。息子の死と母の死に重なる点があったため、ジェラールの話を含める条件で伝記の執筆を受けたとされています。

最終章が息子に割り当てられているだけなく、母の伝記部分にもその追想が繰り返し登場、時間軸が錯綜した感もあります。そのため戦前女優ルネ・ファルコネッティの伝記だけを期待して読むと当惑しかねません。

伝記として失敗なのでしょうか。必ずしもそう言い切れない気がします。

◇◇◇

舞台女優の才能と実績は高く評価するが、私人として、特に母としてのルネ・ファルコネッティを認めない、というのが『ファルコネッティ伝』の基本的な立ち位置です。

ルネは幼い頃から舞台女優に憧れていた少女でした。恵まれているとはいえない家庭環境から家族の反対にあい、一旦は工場で働き始めます。仕事の都合でドイツとイギリスに渡る機会があり[2]、そこでユダヤ人実業家アンリ・ゴールドステュック氏と出会っています。

港湾保険で一財産を築いた人物で、ルネと出会った時は50才を越えていました。女手一つで育てられたルネにとっては貴重な助言をもたらす父親代わりだったのですが、関係はすぐ肉体的なものへと発展していきます。資金力のあるパトロンを見つけ出したルネは夢の実現に取りかかり、20才になった1912年に親から独立[3]。資金援助を受けて首都パリに転居し演劇の勉強を始めたのです。

アンリ・ゴールドステュック氏(中央)とルネ(左)
アンリ・ゴールドステュック氏(中央)とルネ(左)

理想的な環境を与えられ、次第に女優としての才能を開花させていきます。1915年に妊娠が発覚。子の父親はアンリ氏でした。同氏は結婚を申し出ますがルネはこれを固辞、認知も拒み単身で出産、子供を育て始めました[4]。この子供が『ファルコネッティ伝』著者のエレーヌさんです。

『ファルコネッティ伝』を公にするということは、自身が認知されなかった私生児である事実を公にすることでもありました。筆の進まない作業だったのも納得できます。

1915年はルネがオデオン座でデビューを飾った年で子育てに手が回らなくなっていきます。実母のリュシーさんに頼る機会が多くなり、エレーヌさんも祖母になついていきます。惨状を見かねたリュシーさんは養育を引き受ける提案をします。

「代わりに育ててあげましょうか」、祖母がルネに言った。「でも約束よ、後で取り返しに来たりしないでね」
ルネはこの作戦にまんまと引っかかった。自由の身になれると思ったのだ。かくして私は救い出された。ファルコネッティ嬢の金切声、怒りっぽさ、虐待ではないかと思える気まぐれやありえない気分の波から救い出されたのだ。優しくていつも明るい、落ち着いたお祖母ちゃんの所へ![5]

気分の波が激しく子供への八つ当たりもあったようです。母と娘の溝、距離感がはっきり分かるのが『ファルコネッティ伝』での呼び方で、序文を除くと「私の母(ma mère)」の言い回しが意図的に避けられています。「ファルコネッテイ嬢」や「ルネ」という他人行儀で冷たい呼称が使われているのです。

幼少時に大事にされなかった記憶はそれだけでも禍根を残すものですが、二人の対立はさらに深い根を持っています。

1915年以降、ファルコネッティは舞台の実績を積み上げていきます。「批評家の意見も一致していた。リュマニテ紙からタン紙まで賞讃の嵐」[6]。集まってきた賛美者には怪しげな人物も多々見られました。

見るからに俗物で貴族の出自らしからぬドゥ・ドーヴル男爵はファルコネッティを豪奢な宝石で贈り物攻めにした。彼一人にとどまる話ではなかった。ルネは母親にまで「何かと引き換えという訳ではないの…」の言い訳をしなくてはならない始末だった。[7]

それを見つめるエレーヌさんの目は醒めています。ファルコネッティが身に着けていた「高価な香水」を思い出しながら「おぞましかった」と記述する[8]など、贅沢を快く思っていない様子は伝わってきます。エレーヌさんは成人後に弁護士の道を選びました。堅実な職業選択からも伺える価値観・感性の違い。母親だからといって無条件に肯定できない複雑な心境だったのだと思われます。

その一方で女優としてのルネは高く評価されています。演技は憑依系と呼んでよく「自分でも経験からよく分かっていたように、役の設定がしっかりしていれば筋立てが悪くても結果を出せる」[9]自信を持っていたほどです。それは天賦の才などではなく、時に周囲から「正気の沙汰ではない」と諫められる「完璧主義」の賜物でもありました。

1916~23年にかけてのルネの軌跡は丁寧に追われており、メディアの反応も多く引用されています。「人としての辛さと優しさを強く感じさせる」[10]「ファルコネッティは紛れもなく最良の喜劇女優に数え上げられる」[11]

順風漫歩だったわけではありません。30才となったファルコネッティは自身のキャリアを考え直す時期にきていました。同期俳優が自分より先に成功を収めている様子に焦りを感じたり、引き受ける役柄が喜劇から悲劇まで多岐にわたり役者のアイデンティティに自信を失う[12]など迷いや葛藤も描かれています。『ファルコネッティ伝』第一部で描かれている若き女優の姿は、当時の多くの演劇評と整合性が取れており信頼のおける記述だと思われます。

◇◇◇

『ファルコネッティ伝』第二部は「キャリアの頂点へ」と題され、コメディ・フランセーズ参加と脱退(1924~25年)、『裁かるるジャンヌ』(1928年)を扱っています。

本書の101頁から103頁にかけて、ルネがコメディ・フランセーズと交わした当時の契約書がそのまま掲載されています。

「コメディ・フランセーズ座支配人(甲)
ルネ・ジャンヌ・ファルコネッティ嬢(乙) 1896年7月21日生まれ、役者、パリ・シャンゼリゼ通り32番地在住 は以下の内容に合意し契約を締結する」

「女優研修生(actrice pensionnaire)」の位置付けで、1924年6月朔日から同年末まで7ヶ月契約となっていました。給料は月給千フラン。直筆で書かれた生年は「1896年」、年齢を4つごまかしての入団でした。

イレギュラーな編入時にまず見習い扱いで様子を見るのは同劇団の通常の手続きでした。この期間内に結果を出せなければ契約終了となり、結果を出せば昇格していくシステムです[13]

ルネが研修生として参加した頃のコメディ・フランセーズは人間関係で紛糾していました。新旧派の対立、ベテラン同士の反目、同期の足の引っ張りあい、政府要人の愛人女優がのさばるなど火種が多く、しかも厳然とした上下関係が要求されていました。「役者同士が貪り喰らいあっている」[14]環境で勝気なルネが果たして上手くやっていけるのか不安視する向きもありました。

1924年2月に契約書を正式に交わし、6月18日に『セビリアの理髪師』でデビューを果たします。劇団内の暗黙のルールを把握せぬまま挑んだ初舞台は「役者人生で初めて人を失望させるレベル」[15]で、当時の演劇雑誌からも「フワフワしていて心ここに在らず、自分が何をしに来ているのか分かっていない有様」と酷評される始末でした[16]

9月に行われた第二回目のチャレンジで業界の評価は持ち直すものの、「舞台に敵意が満ちている」[17]とまで書かれた対立関係を解消するには至りませんでした。相談相手もおらず「要らない子」[18]扱いで陰口を叩かれる状態に疲弊し1925年1月にコメディ・フランセーズを離脱しています。

フランスで舞台演劇を志す者にとってコメディ・フランセーズ座は頂点であり、そこで除け者にされたルネの屈辱、失意は大きなものでした。ただ、何が幸いするか分かりません。ここで自由契約になったからこそ『裁かるるジャンヌ』(1928年)に出演できたとも言えるからです。

残念なことに『ファルコネッティ伝』では『裁かるるジャンヌ』の章段は充実しておらず、後年に出版されたインタビュー類をまとめた程度の内容となっています。親子関係が以前に増して希薄となり、独自の情報に接する機会が少なかったようです。

ルネ(左)とエレーヌ(右)の家族写真
ルネ(左)とエレーヌ(右)の家族写真

伝記では『裁かるるジャンヌ』(撮影1927~28年)があってすぐに劇団立ち上げ(1929年)と続いていきます。抜け落ちている要素が多々ありますのでその部分を補っていきます。

監督のカール・テオドア・ドライヤーがファルコネッティに接触したのが1926年夏でした。この半年後にルネはサラ・ベルナール劇場と契約を結んでいます。19世紀末を代表する女優サラが1923年に亡くなった後、1926年に大物興行師イゾラ兄弟が同劇場を買収。サラに代わる花形女優を探している中で、コメディ・フランセーズ座を辞めたばかりのルネに白羽の矢が当たります。1927年1月に契約。デビュー作の演目も決まっていたのですが、5月にクランクインした『裁かるるジャンヌ』の撮影が長引いたため稽古に参加できなくなりました。

同年10月に舞台の主役変更が発表されました。一旦契約をキャンセルした形ながらイゾラ兄弟は諦めた訳ではなく映画の撮影完了後に再契約。この後すぐに当たり役となったのが『椿姫』でした。同作はサラ・ベルナール劇場のロングランとなり、1920年代末フランスでファルコネッティ=椿姫のイメージが定着するまでになっています。

『椿姫』第一幕の終わりがけに「ラ・トラヴィアータ」の有名な旋律が響いたのはサラ・ベルナール劇場だった。彼女の声は魅力的で、もぎりの女性たちまで観衆と声をあわせてブラボーと叫んでいた。[19]

コメディ・フランセーズ座と比べ「格」こそ落ちるものの、サラ亡き後の大衆劇場で連日の大入りは見事な実績です。この1928~29年が舞台女優キャリアのピークだと思われますので、『ファルコネッティ伝』での記述の少なさ(引用した一か所のみ)は物足りなさが残ります。

◇◇◇

1929年1月、長きに渡りルネのパトロンだったアンリ・ゴールドステュック氏が事故で亡くなりました。エレーヌさんにとって実父に当たります。訃報を伝えたのは母ルネではなく伯父のシャルル氏でした[20]

長きに渡る庇護者、愛人のアンリの死を以てルネの没落が始まります。

アンリ氏の遺産を受け取ったルネはラヴニュー劇場を買収、自身の劇団を立ち上げました。コメディ・フランセーズ離脱以来の悲願を果たしたものですが、生前のアンリ氏はこの計画に反対していました。

ゴールドステュック氏がルネの企画に否を突きつけた。劇場経営など彼女の才能を台無しにしかねないし、どだい無理な話だと考えていた。[21]

第一弾に選ばれた作品は『赤錆び(ラ・ルイユ)』。不眠不休の準備にもかかわらず批評家の反応は鈍く、客席も「半分ほどしか埋まっていない」[22]。興行は大赤字で劇団員の給料支払いにも困るようになります[23]。アンリ氏が預言した通りでした。

『ファルコネッティ伝』では『赤錆び』の失敗を「政治色の強さが鼻についた」の一行で済ませています[24]。政治色とは何か、補足が必要のようです。

『赤錆び』はソビエト劇作家の作品を下敷きにし、プロレタリア劇の要素を含みこんでいました。ジャンヌ・ダルク映画で成功を収めたルネにとって、自己犠牲で世の中を変えていく労働者の娘の配役に勝算はあったのでしょうが、それまでルネを支持していた古典劇や軽喜劇の愛好家を納得させるには至りませんでした。役柄がしっかりしていれば筋立ては重要視しない、の過信が裏目に出た形です。

Falconetti in La Rouille (1929-30)
『赤錆び』でのファルコネッティ
仏ヴォーグ誌1930年1月号より

ルネは当時の女性としては進歩的で、自由恋愛を貫き、古い慣習に盾突くことも厭いませんでした。エレーヌさんはそんな母の劇場経営を「呪われた企画」と切り捨てています。遺産はエレーヌさんの将来を配慮したものでもあり、それを事業で使い果たされてしまった以上は恨み言も出てくるのは致し方ないと言えます。さらにエレーヌさんの反応にはバイアス(共産主義嫌悪症)がかかっているようで、『赤錆び』が本当に酷い出来だったのかどうか今後の検証が必要と思われます。

『赤錆び』の商業的失敗を機にキャリアは下降線をたどり始めます。ラヴニュー劇場を売却。サラ・ベルナール劇場に戻り『椿姫』再演で持ちこたえていましたが1930年代半ばにその契約も解消。『裁かるるジャンヌ』から数年で過去の存在へ押しやられていきました。

かつて人生を彩った華やかさから見捨てられ、気がつくとルネは醜く老いていた。あの魔法は失われていた。[25]

失意のルネは南米へと移住、糊口をしのぐため小さな劇団での活動を続けていきます。第二大戦終了後に帰国を考えたものの結局はそれを果たすことなく1946年末に亡くなっています。

◇◇◇

本書の最終章(第3部7章)は、エレーヌさんの息子ジェラールさんの小伝となっています。

ジェラールが1973年にパリ東劇場で『王宮』の主演を演じ、天賦の才を受け継いでいると批評家から高い評価を得た時、その姿にルネの革新精神が受け継がれていると思い心躍った。[26]

母ルネを描くときにはあれほどまで冷徹だった筆致は息子ジェラール氏の件になると一転、熱気を帯び始めます。

ルネに興味があって本書を手にした者には無関係な話が続いていくものの、実はこの章に伝記全体の仕掛けがあります。女優として評価するが母として認めない。そんな立ち位置は伝記の客観性を維持する戦略と言うよりはむしろ祖母の「血」、ルネの「天賦の才」を受け継いだジェラールさんを称えたい母心だったのだと分かります。

ジェラール・ファルコネッティ (1949 - 1984)
ジェラール・ファルコネッティ (1949 – 1984)

皮肉なことにルネに似たのは演技力だけではありませんでした。「革新精神」は「破滅に向かう」心性と表裏一体。ジェラール氏は祖母ルネの軌跡を追って俳優を志し、若くして自らの命を絶っています。

この章には苦々しい悔恨が含まれています。

1892年生まれのルネはベルエポック世代で、第一次大戦前の華美で破天荒な文化を生きてきた女性となります。1915年生まれのエレーヌさんは青春時代を不況下で過ごし、第二次大戦の被害を直接に受け、質朴かつ堅実な生き方を選びました。ジェラールさんは五月革命世代(日本での安保闘争世代)に当たり、母親の保守的な価値観を厭い、冒険や実験的な生き方に憧れていきます。祖母のルネと親和性が高かったのも当然でした。

ただ、エレーヌさんにはそう見えてはいなかっただろうと思います。

ルネの放任主義、ネグレクトやDV傾向を見かねたリュシーさんがエレーヌの養育を引き受けた経緯は引用した通りです。ルネにとっては母親失格の烙印を押され子供を「奪い取られた」ようなものです。

半世紀がたち今度はエレーヌさんが同じ目に遭う番でした。

子供時代に大切に扱ってもらえなかったからこそ、自分が母親となった暁には息子ジェラールに愛情を注いできたつもりでした。それなのにきちんと育てれば育てる程息子の心は自分から離れ、ルネに近づいていくのです。

亡くなったルネに息子を奪い取られた。奪い返された。最終章を満たしているのはそんな苦々しさ、口惜しさです。

なぜ『ルネ・ファルコネッティ伝』ではなく『ファルコネッティ伝』と題されたのか。その理由も見えてきます。本書は戦前女優ルネの伝記の体裁を取りつつ、隔世で血を受け継ぎ、死んでいったジェラールを理解しようとする物語であり、その狭間に生き延びてしまったエレーヌの孤独と悲しみ、敗北感を描いたファルコネッティ家三代に渡る悲劇だった、という話です。

原題:Falconetti
著者名: Hélène Falconetti

出版社: Du Cerf
出版: 1987年12月1日
叢書:リストワール・ア・ヴィフ
フォーマット:ソフトカバー 274ページ
ISBN-10: 2204028452
ISBN-13: 978-2204028455

[初稿] 2018年5月15日
[最終稿]2019年7月20日


【脚注】

[1] 序文、11ページ。”J’ai toujours refusé d’écrire sur ma mère; chacun des mots et gestes de cette femme que je faisais profession de n’aimer pas me faisaient souffrir par-delà les années, et la mort elle-même.” (p.11, Avant-propos)
[2] 24ページ
[3] 30ページ
[4] 43-44ページ
[5] 57ページ。”J’élèverai ta fille, dit-elle à Renée, si tu jures de ne me la reprendre jamais”
Un serment avait piégé Renée, un serment la délivre. J’étais sauvée. Sauvée des humeurs fantastiques, des inventions sadiques, des cris et des fureurs de Mlle Falcometti… A moi la tendresse, la gaieté, l’équilibre de Lucie!
[6] 61ページ
[7] 65ページ。”Le baron, dont l’aspect vulgaire démentait les origines aristocratiques, couvrait Falconetti de somptieux bijoux. Il n’était pas seul. Elle affirmait sérieusement à sa mère qu’elle n’accordait rien en échange.”
[8] 65ページ
[9] 76ページ。”L’expérience lui avait en effet prouvé qu’elle pouvait triompher quelle que fût l’intrigue pourvu que le rôle fût bon.”
[10] 1921年6月11日付コメディア紙からの引用。80ページ
[11] アンドレ・アントワーヌによる講評。81ページ
[12] 83ページ
[13] 118ページ
[14] 89ページ
[15] 122ページ
[16] 123ページ。”Il est évident qu’elle flottait, qu’elle n’y était pas, qu’elle se demandait ce qu’elle était venue faire dans cette maison.”
[17] 123ページ
[18] 131ページ。”jugée indésirable”
[19] 179ページ。”c’est au Théâtre Sarah-Bernhardt qu’elle chante à la fin du première acte de la Dame aux camélias l’air célébre de La Traviata, de sa voix charmante qui ramène dans la salle les ouvreuses que j’ai vues mêler leurs bravos à ceux des spectateurs.”
[20] 181ページ
[21] 136ページ。”Mais Goldstuck s’opposait au projet de Renée. Il estimait qu’une exploitation commerciale, dont il la croyait d’ailleurs tout à fait incapable, entraverait son génie.”
[22] 191ページ
[23] 199ページ
[24] 191ページ。”on trouve au spectacle un parfum trop épicé de politique.”
[25] 239ページ。”Dans une vie dénudée des artifices dont elle l’avait parée, elle se retrouvait lasse, viellie, désenchantée […]”
[26] 193ページ。”J’aimais à penser que son esprit novateur trouvait comme un écho, en 1973, sur le plateau du théâtre de l’Est-Parisien où je voyais jouer son petit-fils Gérard Falconetti dans le rôle principale de La Place Royale, avec toutes les promesses d’un génie héréditaire, d’ailleurs salué par la critique.”