栗島 すみ子 [Kurishima Sumiko]

日本・女優 & 女優別絵葉書ギャラリーより

Kurishima Sumiko Autographed Postcard


嘗て栗島狭衣が有樂座に根城を構へ、惡戦苦闘の興行を續け、宴會の餘興にも顔を出せば、また今では銅座の名物になつていゐる子供日にまで出演して、不惜身命の働き振りを示せてゐた時代から、一座にすみ子といふ雛のやう可愛い女優がゐた。[…]親にも優る非凡な天才を認められてゐた。時代物でござれ西洋物でござれ、喜劇でも何んでも達者になつてのけるので、斯界の麒麟児とまで云はれたが、本人は其様な世間の評判などには頓着なく、樂屋でも自宅でも駄々を捏ねたり、女チャメの本領を發揮してゐた。

『女優総まくり』(紅鳥生著、光洋社、1917年)


一時は『日本の戀人』と映画界にうたはれた人だけあつて、あの澄んだ眼差は、名前通りに美しい。大正十年松竹入社。『虞美人草』に出演以来、幾多のスクリーンに表れて、純日本の女らしい、懐かしさと慕はしさをフアンの胸にやきつけてゐる。

『世界のキネマスター』(報知新聞社、1925年)


今ではさうでも有りませんが、一時日本俳優の人気を一人で背負って居たのは栗島すみ子でした。

『映畫藝術』 (『キネマと芝居』臨時増刊号、1925年)


大正十年松竹キネマに入社してから、あの淋しい悲劇的の顔の表情が見物に受けて、メキメキと映画界の人氣者となつたが、しかし、映画女優としての彼女の天才は松竹に入つてから偶然に表れたのではなく、映画女優としての演技派疾の昔から経験があつたのである。即ち、銀座の吉澤商会の目黒撮影所と、新宿のエム・パテーの撮影所に於て活躍しお伽芝居の『桃太郎』を上州玉川畔で寫し、社会劇『海上王』を相州江の島で撮影し、その桃太郎と燈臺守の娘に扮したのが、抑々映画界に足を踏み込める第一歩となつたのである。

『裸にした映画女優』(泉沢悟朗著、日本映画研究会、1925年)


蒲田の女王としての彼の藝は日を経るに随つて益々圓熟して來る。素顔はさして美人といふ程でもないがカメラフエースが素敵に好い。彼は人も知る栗島狹衣の娘で明治三十五年三月東京澁谷に生れ、幼にして父の下で舞臺に立つこと七年、有樂座に出たこともある。踊りを能くし水木歌香の名取、大正十年二月松竹に入りスターとなる。映畫としては小谷ヘンリーの『虞美人』が處女出演で『なすな戀』『船頭小唄』『歎きの孔雀』『マアチヤン』『受難華』『緋紗子の話』『妖婦五人女』最近では『珠を抛つ』『天國の人』等の出演がある。相当永い間のスターではあるが人氣は益々高く昭和三年初頭の人氣投票では映畫女優として最高點を獲得してゐる。

『玉麗佳集』(中央書院、1928年2月)


本名栗島澄子、明治卅五年栗島狭衣の子として東京澁谷に生る。七歳にして初舞臺を踏み、續いて劇團にあつたが大正十五年松竹蒲田へ入社。主な近作は「麗人」「女は何處へ行く」「女心を亂すまじ」等々、趣味は唄、三味線、殊に舞踊に堪能。池田義信監督の夫人。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』(『冨士』昭和6年新年號附録、1931年)


餘りに有名である。明眸皓歯 – 暮れゆく初夏の空に煌めき出づる太白星の淨さを思はしむる。聰明さ彼女の如きは稀だ。城戸蒲田撮影所長をして、男に生れさせたかつたと歎じしめた、その才略 – 大正十年春『虞美人草』に出演以来『嘆きの孔雀』『眞珠夫人』『緋紗子の話』『今年竹』『相思樹』など、一作毎に盛名を持してゐるのは、栄枯盛衰の甚だしい女優の生涯にあつて全く珍しい。

舞踊に長じ、音樂を好み、しかも家庭的に刺繍の巧者、玄人を凌ぐと聞けば、フアンはいよいよ讃歎するだらう。- 藝は圓熟の一語に盡きる。トーキー俳優としても、舞臺俳優としても十分成功すべき素質に惠稀てゐる。(松竹蒲田)

『東西映畫 人氣花形寫眞大鑑』(『冨士』昭和8年新年號附録、1933年)


[JMDb]
栗島すみ子

[IMDb]
Sumiko Kurishima

[出身地]
日本(東京・渋谷

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