アイリーン・カッスル Irene Castle (1896 – 1973) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

ふとした機會から映畫界に現はれる事となつて、先づコート會社に這入つて、「生命の車」を撮影し、間もなくインターナショナル會社に移つて「パトリア」に出演した。この映畫は排日運動を取扱つた問題の寫眞で、日米外交上有害なものとして政府から映寫を禁止された。しかし、夫人の評判はその爲めに一層擴まつたと云つて可い。その評判に附込んで、パセ會社は夫人との間に長期契約を結び、それ以後、夫人はパセ會社のアストラ映畫に現はれる事となつた。同社で数本の映畫を撮影して、契約期間を終了すると、今度はゴルドウィン會社に移つて「コンモン・コース」のプロローグとエピローグなどに出演したが、恰度その頃、良人ヴィーノン氏が英國飛行隊の大尉として出征し、不幸にも墜落して惨死した爲めに、悲しみの餘り、夫人は暫く映畫界を退いた。そして英國に渡って「英米病院に七箇月を送り、ひたすら傷病兵の看護に従事した。歸米後、フェーマス・プレイアス・ラスキー會社と契約を結びパラマウント映畫に現はれる事となった。その第一回作品として選ばれたのは、曾てサンデー・イヴニング・ポスト誌上で好評を博したロバート・チャンバー氏の「點火線」で、夫人は娘シラーの役を演ずる筈であるといふ。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

アステア&ロジャースによる『カッスル夫妻』(1939年)のモデルになったのがアイリーン・カッスルです。10年代初頭、ヴァーノン&アイリーンの夫婦は社会現象となっており、なかでもアイリーンはショートカットを初めて公に認知させた女性として影響力をもっていました。

第1次大戦中、夫の従軍中にアイリーンは映画界に進出。愛国主義色の濃い『パトリア』(1917年)という連続活劇で主演を務めました。

こちらは仏サイン収集家のアンドレ・ジュニオ氏旧蔵のサイン絵葉書となります。

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