大正9年のアンナ・パヴロワ・バレエ団 より
最初はアンナは、その申込みを断ろうと思っていた。しかしダンドレ [=夫ビクター・ダンドレ]は、彼女の死んだあと、彼女が『白鳥』のバレーを踊らなくなってから、彼女の才能を、彼女の芸術を、何らかの形に保存しておくことができるのだと主張した。そこで彼女は脚本を読み、映画を撮ることに同意した。メアリー [・ピックフォード] は彼女のメーキャップを手伝った。仕事はすばやく始められた。[…]
しかし、アンナが試写を見たときに、彼女は恐怖におちいった。ダンドレやドウグ [=ダグラス・フェアバンクス] は彼女を慰めた。カメラの技術はまだ完成していなかった。それがなめらかに、正確に映るようになるには、あと数年かかった。パブロヴァのバレーの動きは、その頃のカメラでは、あまりにも稲妻のように速すぎて、とらえることができなかったのだ。その画像の中の動作は、ぼやけてしまったり、ぎすぎすしてしまった。パブロヴァは、全部を撮り直すことを主張した。
毎日毎日、彼女はメアリーはドウグや、チャーリー[・チャップリン]との会合に出かけた。そして子供のようにつつましく、彼女は、彼らが知っていることや、彼らが彼女に忠告してくれる全てのことを、吸収しようと努めた。第二回目の撮影が半分くらい終わったとき、そのフィルムは完全にだめだと思った。ユニバーサル映画会社はもう一度撮り直そうと望んだが、もう彼女には時間がなかった。
『白鳥の湖』 グラディス・マルヴェルン
(三笠書房(1965年)
一九一五年、米國都市にその妙技を公開して絶大の好評を博して居たパヴロワ夫人の許に、ユ社の社長カール・リーンムル氏、及び、營業部長のヂヨージ・カン氏が撮影の交渉に赴いた時、夫人は『唖娘』ならとの希望を述べて、話が纏まつたので、唖娘は全く夫人一人の希望と選擇とに出でたのである。[…]
いざ撮影となつた時には、パヴロワ夫人とユ社脚色者との間に、根本的立場の相違を來した。卽ちユ社では、主にボルチシの唖娘の生活状態や、當時の伊太利ナポリの國情民情を土臺として、出來うる限り、寫實的に興味的に、やらうとしたのに反し、夫人の方では、何處までも舞踊を根本として、踊抜き、それによつて細かい鋭い唖娘の感情を表象しやうといふ、純オペラに近からしめやうといふ考へを抱いて居つた、この二者の立脚地の相違と、意思の不一致とは、遂に此名寫眞をして非常に無理な點を生ぜしめ、舞踊としては寫眞に過ぎ、寫實劇としては、時と場所とを不徹底に終らしめ、劇的価値をも、オペラの權威をも空虚にして除けて終つた[…]。
「名寫眞・唖娘を評す」井手鐵處
活動之世界 1916年12月号)
初期映画史で重要な役割を果たしたとは言えないにせよ、アンナ・パヴロワは米国滞在中にメアリー・ピックフォードやチャップリンと親交を深め、またハリウッドの女性監督のパイオニアの一人であるロイス・ウェバー監督作『ボルチシの唖娘』で主演を務めています。日本では本国から約8ヶ月遅れとなる1916年12月に公開。活動之世界誌で主幹の井手鐵處氏が直々に批評を残していました。完成度に難のある作品なのは事実で井手論考はその点を的確にまとめています。
2018年、米マイルストーン社から同作のリストア版が発売されています。パヴロワが出演した唯一の長編映画で、見どころも幾つかありますし目を通しておいて損はない作品です。
[IMDb]
Anna Pavlova
[Movie Walker]
–