ミューリエル・スチュアート (1903 – 1991) Muriel Stuart 英

大正9年のアンナ・パヴロワ・バレエ団 より

Muriel Stuart 1920 Autograph (at Drury Lane, London)

1910年代初め、8才の時のオーディションでパヴロワにセンスを認められ、13才でパヴロワ・バレエ団に正式加入。その後10年間パヴロワと行動を共にし多くの優れたパフォーマンスに貢献していきました。1926年、結婚を機に同バレエ団を離れ合衆国へ移住、以後は後進の育成に当たりました。戦後にメディアに登場しパヴロワの想い出などを語っていたりします。

ミュリエル・スチュワートが詳細な話をしてくれた。「パヴロワと共にしていた長い時期を通じて、彼女が自分のバレエを楽しんでいないのは良く分かっていました。もっと先まで進もうとしていた、もっと創造的なことをしたかったんです。でも [夫でありマネージャーでもあった] ダンドレがそれを許しませんでした。客は『瀕死の白鳥』や『人形の妖精』『ジゼル』に登場してくるパヴロワを見に来ている。そういった演目でバレエ団はまとまっていて、採算が取れているとダンドレは知っていたんです。一度実験的な作品を披露したのですが、莫大な費用がかかった上に興行として完全な失敗でした。題名は忘れましたけれど。でもね、ある意味ダンドレがパヴロワを救っていて、観衆に見たいものが届くようにしていたんです」

「ミューリエル・スチュワート」
『バレエの極私的世界』 ジョン・グルーエン(1975年、ヴァイキング・プレス)

Muriel Stuart elaborated: “Throughout my years with Pavlova, I knew perfectly well she was not enjoying the ballets she was doing. She wanted to go further — to do things that were more creative. But Dandre would not let her do this. He knew that the people came to see Pavlova in The Dying Swan, Die Puppenfee, and Giselle, and these were the things that kept the company together and in business. When we did an experiment one time — it happened to be a very costly one — it was not a success at all. I can’t think of the name of it. But, you see, Dandre was really saving her, in a sense, and delivering to the public what they wanted to see.”

“Muriel Stuart”
in The Private World of Ballet (John Gruen, 1975, Viking Press)

アンドレ・オリヴェロフによると「ミュリエルは観衆がパヴロワだと繰り返し勘違いしてしまった唯一のバレリーナ」で、「本来はパブロワに与えられるはずの拍手を受けてしまう」こともあったそうです。パブロワを模倣していたことにも起因していたのですが、「腕や手の独特の美しい使い方」に独自のセンスを持ちあわせていて、他のバレリーナより「頭一つ抜けていた」のは事実なようです。

オリヴェロフはパヴロワとミュリエルの確執にも触れていましたが、ミュリエルの才を誰より評価していていたのがパヴロワ自身でした。


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