オリーヴ・トーマス Olive Thomas (1894 – 1920)

サイン館・合衆国/カナダ/オーストラリア より

Olive Thomas Autographed Postcard
Olive Thomas Autographed Postcard

オリーヴ・トーマス孃はその本名をオリーヴ・エレーン・トーマスと稱し、一八九八年十月二十日ペン・シルヴァニア州チャールロイ市に生れた、本年漸く二十三歳の若い花形女優である、孃はその幼時をチャールロイに育てられたが、後小學校を卒業し、女子教育を受ける頃に及んで、ピツツブルヒに移り、同地の高等女學校に入學した。女學校在學中には人一倍文藝の方面に趣味を有し、又劇に對しても相當の理解を持つて居た。さうして女學校卒業と同時に決意して劇界に入り、始めはオペラの下役女優となつて居たが、その後漸次出世して『十四のフロクス』『十五のフロクス』の如き夢幻劇に、実際十四五歳の少女として出演した際忽ちその素質を認められ、約三年間は劇界の生活に身を委ねて後、映畫界にと志した。彼女は第一に、名優ラスキー會社に入り、約二年間在社して居つたが、その間の孃の實生活上にも、お目出度い事が生じた。それは、當時ラスキー會社の名星だつた、メリー・ピツクフオード孃の弟ジヤツク・ピツクフオード氏と孃との戀が漸くこの頃から問題となり、遂にオリーヴ孃がトライアングル社に轉じた後、二人は結婚して樂しい若い新夫婦として新しい家庭の人とはなつたのである。トライアングル會社に轉じてからは、インス撮影所に從屬し『その樣な少女』『狂人マツヂ』『ベチーが手を売つた』其他多くの映畫に出演一九一八年トアイアングル會社解散後暫く休養して居たが、昨年再びセルヅニツク會社の首腦として數多の映畫に主演を演じて居る。

「活動新人紹介 オリーヴ・トーマス孃」
『活動画報』1919年4月号


今まで見た中で一番美しいヴァイオレットブルーの瞳をしていた。

メアリー・ピックフォード

The girl had the loveliest violet-blue eyes I have ever seen.


女優メアリー・ピックフォードは義理の妹でもあるオリーヴをこんな風に評していました。

アイルランド系として生まれ、ジークフェルド・フォリーズの踊り子として、次いで女優として地位を築き上げていき、名声の絶頂である1920年に亡くなりました。死因は事故死ながらも遠因に薬物依存が挙げられるなど闇も指摘されています。

トライアングル社で女優デビューした頃(ロサンゼルスタイムス紙1918年4月8日付)と 1920年9月10日、パリでの薬物死を伝える新聞記事(ボストングローブ紙)

現在、代表作の『フラッパー』(1920年)や脇役でのデビュー作『ベアトリクス・フェアファックス』(1916年)をデジタルソフトで見る事ができます。個人的にはオランダのEYEがフィルムを保存・公開している『アウト・ヤンダー(Out Yonder)』(1919年)の素朴な役柄が似合っているかなと思います。

[IMDb]
Olive Thomas

[Movie Walker]
オリーヴ・トーマス


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