[映画秘史] 1922~29年(大正11~昭和4年) 正義のヒーローの未亡人

ルイ・フイヤード より

1928年(昭和3年)の10月、パリで発生した心中未遂が新聞一面に掲載され人々を驚かせました。生活苦に陥った女性が娘を道連れにガス自殺を図ろうとし、知人の機転により間一髪で命を取り留めたものです。

『パリ市統計年鑑』によると1920年代末には毎年1600件弱の自殺(未遂含む)が発生、その一割に当たる140件が貧困を理由としていました[1]。無理心中の要素があったとはいえ自殺そのものが珍しかった訳ではありません。この一件がメディアで大きく取り上げられたのは女性の名に聞き覚えがあったからでした。

恐ろしい報せが届けられたのは昨日の午後であつた。『ジュデックス』主演で人々の記憶に刻まれたクレステ氏の未亡人、ジャンヌ=ルネ・クレステさんが自殺を図ろうとしたのである。

コメディア紙 1928年10月17日付[2]

『ジュデックス』は戦中の1916年(大正5年)に公開された12幕物の連続活劇で、仏サイレント活劇の代表作として知られている作品です。同時期、日本でジゴマが多くの子供や大人を魅了したのと同様に、フランスでも人々の記憶に強く残る作品となりました。

主人公ジュデックスを演じたのは舞台出身のルネ・クレステ。1901年に舞台役者としてデビュー、下積みを重ねながらも存在感と美丈夫で人気を呼び数年後に主演を任されるまでになっていました。映画出演は1910年頃からで、短編を経た後に『ジュデックス』で連続活劇に初挑戦。この後もフイヤード監督の下で『新ジュデックス』、『ぶどう月』とキャリアを積み重ねていきました。私生活では舞台時代に知り合った女性と1901年に結婚、翌年に一人娘ルネ(Renée)を設けています。

『ぶどう月』の完成後に書かれたと思われる一通の手紙をご紹介いたします。クレステとフイヤードの共通の知人に宛てた葉書で、末尾に自筆の署名が入っています。

ルネ・クレステ1918年末の直筆絵葉書
(筆者個人コレクションより)

心温まるご挨拶を頂きましたことフイヤード氏よりお聞きいたしました。心よりの感謝、そして1919年の謹賀新年を申し上げます。夏にお話しされていた通りニースを訪れる機会がございましたら是非とも拙宅の『ラ・ペペ』をお忘れなきようお願い申し上げます。私を含め家族一同歓迎いたします。クリスティアン氏と貴殿への感謝をこめて。敬具。

ルネ・クレステ[3]

当時クレステが家族と共に暮らしていた南仏ニースで書かれたものです。「私を含め家族一同歓迎いたします」の一文には妻と娘が念頭に置かれていて、公私の充実をうかがわせる年賀メッセージと見ることもできます。

転機は終戦後にやってきました。1919年に制作された『エニグマ』をもって『ジュデックス』以来縁の続いていたフイヤード監督の元を離れ、自身の名を冠した独立プロ「ルネ・クレステ映画社」を立ち上げたのです。大手から離れ独立プロダクションを作る動きは1910年代に顕著となります。アメリカやドイツにその傾向が強く、クレステも追随したものです。

この判断が凶と出ました。

大戦後になると各国で映画産業のてこ入れが始まり、大型スタジオでの組織的な映画作りが主流となっていきます。資金力、設備、配給網で圧倒的な優位性を持つ大手を前に個人資本で作られた作品は太刀打ちできなくなっていくのです。また連続活劇そのものが大量生産された挙句、時代遅れとなっていた状況も逆風となりました。

1919年11月に初監督作品『沈黙城』公開。「愛と冒険の素晴らしいドラマ」(レコー・ダルジェ紙)の評[4]もありましたが、好意的な評価はごく僅かでした。

第2弾となる『ルネの冒険』は製作が難航し資金繰りが苦しくなっていきます。首都を離れ南仏に移ったのも裏目に出ました。パリに戻って業界との接点を探り始め1922年には新設された映画館のアートディレクターに就任。同年『ルネの冒険』の公開にこぎつけましたが、すでにこの時には病魔に侵されていました。

1922年11月30日、ルネ・クレステ病死。死因は結核。気候の温暖な南仏に移住していたのも療養だったそうです。

クレステ氏は数年前に結核で亡くなっている。盲いた義母と病気持ちの娘が未亡人に託される形となった。家族が貧困に陥るまで時間はかからなかった。かつてクレステ氏と縁のあった映画会社の恩情で、未亡人は映画館の受付として働くことになった。だがそれも体力の限界で辞めざるを得なくなった。後はお決まりのコースとなった。

コメディア紙 1928年10月17日付[5]

クレステの死から未亡人自殺未遂まで6年。メディアの続報で、夫に先立たれた母娘の過酷な環境が明らかになっています。


Jeanne-René Cresté 1925 Letter
クレステ未亡人による1925年5月24日付の手紙 (筆者個人コレクションより)

自殺未遂を計る3年前の1925年に夫の俳優仲間(マルセル・レヴェスク)に宛てた手紙を見てみましょう。

自己紹介をさせていただきたいと存じます。わたくしはルネ・クレステの妻だったものです。生前、故人にとても良くしていただいたと伺っております。さて、本題に入りますと亡き夫にはいくばくかの財産を残していただきました。でもそれだけではなく病気がちな娘、障碍を抱えた母、視力を失った叔母までも残されたのでした。[6]

未亡人は窮状を訴え、かつての舞台経験を引き合いに出し仕事がないか相談しています。調子は暗く、鬱屈した雰囲気があって抜き差しならない状況を伺わせています。レヴェスク以外にも連絡を取っていたと思われ「映画館の受付」はこういった苦労の末に見つけ出した仕事だったようです。

大半の人々にとっては初耳の話でした。『ジュデックス』から10年以上の歳月が流れていましたが業界の反応は早く、事件判明の直後から募金キャンペーンを展開していきます。俳優組合は即日に寄付を発表(10月17日)、かつての同僚や業界関係者、一般の篤志家が次々と募金を表明、4日間で5000フランを超える寄付が集まっています。

自殺未遂が報じられてから、ジャンヌ・ルネ・クレステさん宛に届けられた募金の詳細は以下となっている。

パリ市:500フラン
旧友:500フラン
俳優組合:500フラン アルトゥール・ベルネード(作家):500フラン
俳優協会:500フラン
ジャンヌ・ルヌアール(女優):500フラン
ウィンブリュン夫人:1000フラン
ピエール・ダルトゥール氏:1000フラン
ガストン・リエフレ氏:50フラン
俳優の日の会:1000フラン
計5750フラン

コメディア紙 1928年10月21日付[7]

俳優(シャルル・ヴァネル、ビスコ、ラケル・メレ)や監督(レオンス・ペレ)、匿名の個人からの寄付はこの後も続いていきます。また『ジュデックス』の小説版を担当した作家アルトゥール・ベルネードが「体調の回復を待っての話にはなるが、人としての尊厳を持って生きることができ、長く病を患っている娘さんの治療もできるような仕事を見つけてあげたい」[8]と語るなど援助の輪が広がっていました。


話は業界内の互助にとどまらず『ジュデックス』の再評価に繋がっていきました。11月21日にコメディア紙が次のような記事を掲載しています。

『ジュデックス』の夕べ

『ジュデックス』の夕べの企画者様より次の連絡を頂きました。

「クレステ未亡人のためにコメディア紙が設立した募金活動の一助として、前衛藝術愛好者会は来る12月1日にアポロ劇場にて犯罪活劇映画の回顧上映会を開催するに相成りました。委細をここに公開させていただきます。

『ジゴマ』映画界初の犯罪活劇
『ジュデックス』2章分
『ミュジドラ』ルイ・アラゴンとアンドレ・ブルトン作となる3幕物の舞台劇
『切り裂きジャック』(『蝋人形』第3章)」[9]

「前衛藝術愛好者会」は当時のシュールレアリスト作家たちが使用していた組織名のひとつです。アラゴンやブルトンは若い頃活劇に夢中になった世代でもあり、自分たちも何かできないかと考えてこのイベントに辿りついたようです。

この企画はクレステ未亡人を含む一部の反発を買い予定通りには行われれませんでした。二度ほど延長され実際の開催は翌年2月半ばとなり、アラゴンとブルトンの自作劇はプログラムから外されています。それでも雑誌や新聞の宣伝が功を奏したようで、『ジュデックス』再上映には多くの観衆が訪れ収益「27321フラン」が未亡人に手渡されています[10]。一般市民も参加できるイベントの開催によって、未亡人を経済的に支えていく動きは一段落を見せました。

これほどまで多くの人々が動いたにも関わらず運命を変えるには至りませんでした。持病をわずらっていた娘ルネは1929年4月に病没。「不治の病」を前に願いは届かなかったことになります。

クレストの娘ルネの死を記録したパリ20区の台帳 (パリ市のオンライン・アーカイヴより)

映画史視点で見ると『ジュデックス』は連続活劇に新しい要素を持ちこんでいます。先行作品の『プロテア』(1913年)、『ファントマ』(1913-14年)や『レ・ヴァンピール』(1915年)がいずれも善悪の単純な対立に基づいて善の勝利で幕を閉じていたのに対し、『ジュデックス』は復讐の物語でありながらも迷いがあり、悩みがあり、最後は「赦し」によって悪を受け入れ、共存していく道を選びます。現実に即したより深みのある(と同時にキリスト教保守派が受け入れやすい)世界観です。

René Creste 1918 Hand-written Letter 02

『ジュデックス』は『ドラルー [レ・ヴァンピール]』の人気を越えた。[…] ルネ・クレステは黒ビロードの上着、金の留め金のついた大きなマントを身につけていた。

『世界映画全史』ジョルジュ・サドゥール [12]

1910年代の連続活劇ブームは不安とストレスに満ちた大戦前後の雰囲気を反映したものでもありました。見通しの立たない戦況に一喜一憂している人々を傍目に、ぼろ布をマント代わりに子供たちが裏道や原っぱでジュデックスごっこに興じていたのが1916年のフランスの風景だったのです。

終戦後の急激な景気回復と同時期に「連続活劇=ワンパターンで幼稚」の認識が広まっていきます。活劇ジャンルは衰退し、20年代後半にはほとんどの人々の意識から消え去っていました。そこに不意打ちで届けられた自殺未遂の報せ。「未亡人と遺児が首都の底辺でもがいている」。かつての活劇少年・少女たちの胸がざわつきはじめます。

巻き添えになりかけた病弱な娘さんへの同情、かつて夢中になった連続活劇の懐かしさ、格差社会の弱者に何もできない制度への義憤…様々な感情が入り混じり、メディアに焚きつけられる形で「未亡人を救え」の世論が沸き上がっていきます。映画業界は倫理的義務を果たし、愛好家が恩返しをした。そんな風に総括することができます。

でももう一歩踏みこんだ見方もできそうです。メディアを中心に展開・拡大していった善意の運動は、活劇ブームがフランス社会に残した爪痕が再度可視化されていくプロセスだったと見ることもできます。支援を続けていく人々の熱量に、初期映画が社会や集団の記憶に与えた影響力の根深さを窺い知ることができるのです。目に見えない、定量化もできない映画史の断片が一瞬垣間見える。『ジゴマ』や『名金』、『天馬』や『拳骨』が日本社会や文化に残したインパクトについて同様の話ができそうな気がします。

初稿:2018年6月12日
最終稿:2022年12月4日


脚注

[1] 『パリ市統計年鑑 1927/1928年版』 (Annuaire statistique de la Ville de Paris, p.374. 「自殺と自殺未遂」より)
[2] “Une affreuse nouvelle nous est parvnue hier, dans l’après-midi, la veuve de Cresté, l’inoubliable Judex, Mme Jeanne René-Cresté a tenté de mettre fin à ses jours.” (Comoedia, 17 Octobre 1928)
[3] “monsieur Feuillade m’a fait part de votre aimable bonjour; je vous remercie très sincèrement, et vous prie d’agréer tous mes meilleurs voeux pour 1919. Si vous venez à Nice comme vous en avez manifesté l’intension l’été dernier, n’oubliez pas “La Pépé” où nous serons si heureux de vous recevoir. Mon meilleur souvenir à monsieur Christian et à vous cher monsieur et très cordialement vôtre” (René Cresté, carte de voeux pour l’année 1919 [collection privée])
[4] “superbe drame d’amour et d’aventures mystérieuses par René Cresté” (L’Echo d’Alger, 28 décembre 1919)
[5] “Cresté a été, il y a quelques années, emporté par la tuberculose. Il laissait à la charge de sa veuve une vieille mère aveugle et une fille malade. La misère ne tarda pas à s’installer à ce foyer. La firme de cinéma pour laquelle Cresté avait travaillé lui offrit un poste d’ouvreuse. Ses force la trahirent. On sait le reste.” (Comoedia, 17 Octobre 1928)
[6] “Voulez-vous me permettre de me présenter à vous. Je suis la veuve de René Cresté pour qui l’on m’a dit que vous aviez une vive sympathie. Voici de quoi il s’agit: Mon mari m’avait laissé un peu d’argent, mais aussi une jeune fille malade, une maman infirme et une tante qui devient aveugle.” (Jeanne René-Cresté, lettre du 24 mai 1925 [collection privée])
[7] “Depuis le jour où, pour la première fois, nous avons annoncé la tentative de suicide de Mme Jeanne René-Cresté, les souscriptions qui lui ont été transmises par nos lecteurs ou par nos soins se décomposent ainsi: Conseil Municipal 500fr., Une amie 500 fr., Union des Artistes 500fr., Arthur Bernède 200fr., Association des Artistes 500fr., Mme Jeanne Renouard 500fr., Mme Winburn 1,000fr., M. Pierre Daltour 1000fr., M. Gaston Rieffler 50fr., Journée des Artistes 1,000fr.” (Comoedia, 21 Octobre 1928)
[8] “M. Arthur Bernède […] nous a dit son désir de procurer à Mme Cresté, quand son état le lui permettra, un emploi qui lui permette de vivre dignement et de soigner sa fille depuis longtemps malade.” (Comoedia, 19 Octobre 1928)
[9] “Nous avons reçu des organisateurs du ‘Gala Judex’ le communiqué suivant: Rien ne s’oppose plus à ce que nous indiquions le programme de cette rétrospective du spectacle policier organisée par le Groupement de Spectateurs d’Avant-Garde, à l’Apollo, le 1er décembre, aubénéfice de la souscription que Comoedia a ouverte pour la veuve de René Cresté: Zigomar, le premier film policier; Judex, deux épisodes; Musidora, dans un sketch dramatique en trois tableaux de Louis Aragon et André Breton; Jack l’Eventreur (troisième épisode du film bien connu Figures de Cire)” (Comoedia, 21 Novembre 1928)
[10] Le Petit Journal, 19 février 1929.
[11] Acte de décès n° 1906 (vue 22/31). Archives en ligne de la Ville de Paris, état-civil du 20ème arrondissement, registre des décès de 1929.
[12] 『世界映画全史6 無声映画芸術への道 フランス映画の行方[2]』 266ページ(ジョルジュ・サドゥール著、松尾定・村山匡一郎・小松弘訳、国書刊行会、1995年)