日本・男優 &「戦前・戦中 髙島栄一・康彰氏旧蔵の葉書群」より

本名須田庄一、明治卅年前橋市に生る。四十四年南部邦彦一座で初舞臺をふむ、大正七年日活に入社「お光清三郎」の清三郎、「鴛鴦物語」の蝶之助にあたりをとつた。趣味はカメラ、俳句、繪画。
『世界のキネマスター』
(1925年5月、報知新聞社出版部)
本名は須田庄一、明治卅三年群馬縣に生れる、長らく少年子役を演じて、後女形を良くし、大正七年日活向嶋へ入社、現在まで、趣味はカメラと絵畫、食物は嫌ひなものなし、向島時代からの懐かしい俳優さんである、住所は京都市外花園村下谷口五番地。
『日活俳優名鑑 1926+10』
(『大日活』二周年記念附録、1926年10月)
尾上松之助氏の死とともに所内に蔓る積弊一掃の機會を早めるものと觀測されてゐたが果然拾八日午後京都市木屋町中村屋にて横田副社長根岸支配人池永所長杜重支店長等が會合協議の結果新劇部男優小村新一郎齋藤達雄宇田川寒待弓削宗貞外三拾六名女優部では宮部静子、本田歌子、衣笠みどり、松島英子、高島京子、香川満子、巽久子、橘道子外数名を解雇した。
それと同時に東坊城恭長、若葉馨、木藤茂に俳優を廃めさせ東坊城若葉の兩名は一時名目だけの脚本部附となし木藤は監督助手に祭り上げるなど大整理を行ふ[…]。
1926年『キネマ花形』
(『活動花形』改題 11月号 花形社)
本名須田庄一。明治三十四年、前橋市に生る。東京齒科醫專を中途退學し、舞臺を經て映畫へ、日活松竹を經て昭和四年九月帝キネに入社。各社に佳作を残す。最近の作品は「曲馬團の娘」「最後の女性」「浅草紅團」等々。身長五尺四寸八分。體重十四貫。趣味は俳句寫眞、雑誌の發行。
『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、『冨士』昭和6年新年號附録)


『因果帳 鴛鴦物語』より梅村蓉子と並んで(左)と徳川良子共演の『地獄の唄』(右)
2枚目の「ご挨拶」は髙島栄一氏宛で昭和3年(1928年)4月16日付西陣の消印有。「先日は失礼いたしました。又御土産まで頂戴いたし誠に有りがたく御礼申上ます」の直筆メッセージ入り。1926年秋のリストラで脚本部に回された若葉氏が俳優復帰を伝えた内容です。
[JMDb]
若葉馨
[IMDb]
Kaoru Wakaba