映画史・日本より
仏ゴーモン&パテ社の動画アーカイヴをご存知でしょうか。数秒程の短い動画も含めると1万7千本以上を収めた巨大なオンライン映像アーカイヴ(動画閲覧は登録ユーザー限定)で貴重な映像が多く含まれています。
先日、こちらで20世紀初頭の日本で撮影された葬儀映像を2本見つけました。管理用タイトルは次のようになっています。
1) 1907CFPDOC 00144 – JAPON PITTORESQUE
2) 2000GS 04796 – SCIENCES SOCIALES : MOEURS ET COUTUMES
一つ目のタイトルは『絵のように美しい日本』と訳すことができそうです。旅行記風のドキュメンタリーで東京、大阪、奈良の風物を収録。長さは約9分、その5分33秒から7分40秒にかけ葬列が映し出されていきます。

幟を立てた先頭から御輿に安置された棺までの長い行列が街中を練り歩いていきます。現在の日本人が見ても驚きそうな風景ですが、江戸期の葬儀ともまた違っています。
大名行列型と呼ばれるこの葬列は明治期に発展した独自の風習でした。その発展経緯や、装飾の意味合いについては髙橋繁行氏の『葬送の日本史』(2004年、講談社)第一章が良くまとまっておりますので本稿では割愛。国内では国立映画アーカイヴが保存している『小林富次郎葬儀』(1910年、重要文化財指定)が同形式の葬儀を収めた作品としてつとに知られています。
『絵のように美しい日本』には管理用のコード(1907CFPDOC 00144)が付されていました。冒頭の4桁は公開年(1907年/明治40年)を意味しています。パリで1907年4月に公開されたもので小林富次郎の葬儀から3年ほど前の映像です。行列の先頭から終わりまでワンショットで収めているものの、残念ながら故人を特定できそうな情報は含まれていませんでした。
二本目の動画は『社会科学 風土風習 no. 4796』と題されています。管理用コード(2000GS 04796)の冒頭二桁が公開年(1920年/大正11年)、アルファベット二桁GSが「ゴーモン社時事ニュース・教育シリーズ」を意味しています。

長さは4分強。葬列全体を捉えたものではなく、画面で見映えするよう場面をつなぎ合わせた形になっていました。1907年パテ社動画と比べると沿道の人が多く身動きが取れないほどで、葬列も大掛かりで派手になっています。
こちらの動画には幾つかの日本語が見て取れます。右手に「たばこ」の看板。花車に書かれた文字も読めそうです。

御輿に担がれ、大勢の見物人をかき分けてやってきた大きな花車。道端の人々が大きく見上げています。1分44秒前後に登場したのが「歌舞伎座」でした。その上には右から左に「東京」と書かれています。東京歌舞伎座が花車を出していたようです。

続いて二つ並んだ花が登場、「たばこ」の左にある窓から男性が首を出して見下ろしています。「田畑健造」と「合資会社 福寶堂」の文字。福寶堂は日活の前身で、田畑健造氏は同社の創始者です。

さらにその後から姿を現したのが「伊井蓉峰」。新派劇の大物俳優です。
歌舞伎界、映画界、新派のトップクラスから花が送られていたことになります。
当初は公開された1920年(大正11年)に亡くなった演劇人や歌舞伎俳優の一覧を当たってみようと思ったのです。いや、古い映像を使いまわした可能性があるか、と結局は年代を絞りこむ作業を優先しました。
決め手となったのが「福寶堂(福宝堂)」でした。同社は1910年代に連続活劇『ジゴマ』を公開し国内で大ブームを巻き起こした映画会社です。その存続期間は案外と短いものでした。1910年7月に合資会社として設立、翌年に『ジゴマ』を公開、その後横田商会などと合併し1912年9月に日活となっています。「合資会社 福寶堂」として存在していたのは二年強の期間だったことになります。

ここで問題は「1910年7月~1912年9月の間に亡くなり、当時の芸能界各方面から華やかな弔いを受けた人物は誰か」に変わりました。
明治期の文芸や芸能に詳しい人であればこの時点で答えが出てしまいそうです。ここでは直感に頼らず、資料からの論証を試みていきます。
参考にしたのは『近代歌舞伎年表京都篇』。歌舞伎界の興行記録を時系列順、網羅的に並べていった一冊となります。周辺の出来事も記載され、慶事や法事で興行が一斉にお休みの時にはその旨も明記されています。今回の条件から外れますが、例えば1908年(明治41年)の2月2日に「故一条松寿院順子の埋棺式御執行につき」現地の歌舞伎各座が休場し、翌日から再開された記述があったりするのです(103~104ページ目)。
同書を追っていくと、まず1911年(明治44年)8月14日に亡くなった5代実川延三郎が登場。京都を拠点としつつ一時は新派と接点を持っていた人物です。「葬儀も盛大に行われた」とのこと。ただし別な文献に「大歌舞伎に出てから僅か六七年で世を去つたのは惜しい人である」(『明治演劇史傳 上方篇』)とあるように比較的若くして亡くなっており(42才)、街頭にこれだけ野次馬が殺到する程の知名度はありませんでした。
一旦は候補として残しつつ『近代歌舞伎年表』を読み進めていきます。大きな扱いで語られている葬儀は見つかりませんでしたが1911年明治座で新派が『婦系図』を上演した際(11月2日~24日)、一日休業になった旨が記録されていました。
「昨日川上の葬儀当日で休演したが、本日より更に『婦系図』を続演なす由」
(京都日出新聞 1911年11月19日付)
川上、とはオッペケペー節で知られる川上音二郎。新派劇の創始者の一人でした。日清戦争終戦直後の1895年に東京歌舞伎座で「威海衛陥落」を上演、大盛況を博した実績を持っています。1911年(明治44年)11月11日病没、一週間の通夜の後に18日に大阪で葬儀が行われました。新派始祖の弔いでもあり、縁のある者たち総出で大阪に向かったようです。
音二郎の葬儀は当時の新聞でも大きく取り上げられました。

「軒並続き二階は言うまでもなく店の若い者などは大屋根に上つて見物している」
(大阪毎日新聞1911年11月19日付、『葬送の日本史』より
動画でも二階で顔を出している人物が見受けられました。また、左奥、遠方に位置する屋根に腰を掛けた影が小さく見えています。地元衆の注目を相当に集めていた様子は新聞の記述と一致しています。
最後にもう一点、動画内で確認される旗や幟に注目してみると「野毛三四宮崎有志・友睦會」(2分34秒)と「從五位平沼専蔵」(3分24秒)の文字を確認できました。最初の「野毛」は横浜市の野毛町を指していると思われますし、後者の平沼専蔵氏も横浜を地盤として活動していた実業家・政治家でした。

川上音二郎は横浜に縁が深く、壮士芝居を立ち上げたのは同地の蔦座でしたし、後年茅ケ崎に別荘(萬松園)を所有していました。新派劇の発祥の地・横浜の位置づけを思いあわせるならば同市に縁のある名前が登場してきても不思議はありません。
以上の考察をまとめていくと:
1) 1910年7月~1912年9月の間に葬儀が執り行われた
2) 歌舞伎や新劇、映画など芸能に縁が深い
3) 通りが混雑し、二階や屋根で観覧する者が出るほど葬儀が注目を集めている
4) 横浜と何らかの縁がある、となります。
先に候補として残した5代実川延三郎については1)と2)に該当するものの3)と4)で外れる形となります。全ての条件を満たすのは川上音二郎一人であり、ゴーモン社の動画は明治44年、大阪での川上氏葬儀を撮影・編集した映像と断定して良いと思われます。

音二郎の葬儀について映像記録はこれまで絵葉書や写真など静止画しか確認されておりませんでした。異国情緒を重視した海外視点の撮影であり、参列した川上貞奴らの姿を捉えるまでに至っておりませんが、日本文化史、芸能史そして映像史的に興味深い発見と思われます。