秘宝館・『ジゴマ』 & 映画史の館・フランスより
活動写真監督術考
ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ
(1911年 シネ・ジュルナル誌 165、166、167、168、170号掲載 [未完])
Etude sur la Mise en scène en Cinématographie (1911) Victorin-Hippolyte Jasset

シネ・ジュルナル誌初出
※本稿は『ジゴマ』(1911年)『プロテア』(1913年)等の活劇を監督したヴィクトラン・イポリット・ジャッセが生前に唯一残した映画論の私訳です。1911年のシネ・ジュルナル誌に掲載されたもので、その後1946年『初期映画批評集』に抜粋が、2013年公刊の地方誌『ルデンヌ⁼ワロン別巻 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ 1862-1913』に全編が転載されています。また1993年に公刊された『フランス映画批評集・第一巻』(プリンストン大学出版局)に英語の抄訳が掲載されていました。
フランスでの著作権はEU基準に基づき著者の死後70年まで保護されることになっており、1913年に亡くなったジャッセに関してはすでにパブリック・ドメインに入っています。やや古風なフランス語で日本語に直訳しにくい部分が多く、訳し崩したもののまだ生硬な個所が目立ちます。時間を見ながら修正をかけていく予定です。邦訳に関してはクリエイティヴ・コモンズの扱いとします。
其の一
(シネ・ジュルナル紙 1911年165号51頁掲載)
活動写真が始まったばかりの頃、この若き産業が後々驚くべき飛躍を見せるだろうとか、発展とともに倦むことのない進化を遂げていくだろうと予想できた人は誰もいませんでした。
動きを[スクリーン上に]再現するやり方が見つかりました。人々が最初に考えたのはどう作品や商品に応用するかでした。考えられるかぎり最も単純な映画作品が生み出されていきました。駅に到着する機関車、工場から退出する人々、壊された壁が埃を舞いあげ倒れこむ様子、滝の水、岩礁に打ちつけて砕けていく波…動きがあって見栄えしているならありとあらゆるものが映画を作る口実になったのです。
1898〜99年の映画の長さはまだ20メートルでした。短編喜劇も作られてはいたものの尺的にはそれほどではありませんでした。
この時期、モンマルトル界隈で活動していた画家・イラストレーター達の考え方を十年に渡って束ねあげていた日刊紙シャ・ノワールがジル・ブラス紙増刊号と並んで映画の力を借りていました。スタインライン[1]やヴィエット[2]、ドエス[3]、ギヨーム[4]、カランダッシュ[5]らのセリフ無しイラスト作品は当時の短編喜劇映画から生み出されてきたものです。
次いで自然の只中での屋外撮影、時事ドキュメンタリー、風光明媚なる景色、機関車で世界中を旅する作品が作られていきました。映画は単に目新しい流行り物でしかなく、舞台芸術と真面目に比較する者など一人もいませんでした。
次いで人々によく知られた物語、歴史物(服屋で廃棄処分予定だった服を使い、撮影場所は古めかしければどこでも構わないという適当さ)、戦争物、闘牛などが映画化されるようになっていきます。撮影機材の移動コストを抑えるためならパリのどんな場所、どんな一角で撮影しても良いというのが当時の一般的なやり方でした。ビュット・ショーモン公園には当時の撮影で、勝ち誇ったボーア人を前に敗走するイギリス軍が馬に乗って駆けていった跡が残っていたりします。
当時はこんな調子でも問題なく、観衆は英軍対ボーア人の戦闘実録を目の当たりにしていると思いこんでしまうのでした。
この頃の映画製作の裏舞台はどのような感じだったのでしょうか。この点をまとめておくのは大事なことです。というのも映画芸術のゆったりとした変容に少なからぬ影響を与えているからです。
冒頭で触れたように、映画ビジネスに関わり始めた人々は将来的な展望を持っていませんでした。頭にあったのは作品を超特急で作り上げることばかり、完成度を高めようとは露ほども考えてはいませんでした。まだ映画専用の劇場もありません。成り行き任せで役者を集め、演技させる口実を探し出すのに一生懸命でした。
当時[俳優やカメラマンなど]技芸を持った人たちは大した創造力を発揮する必要もなく、制作側からそういった人々への配慮は為されていませんでした。劇場で配役の割当てを行っていた人物、キャスティング部門の長が映画製作の起源の役割を担うことになりました。
大雑把に大人数を捌くスキル、劇場の手配者との仕事つながりを活用したのです。とはいえそれが彼らのもたらした全てでした。
にもかかわらずこれらの人々は映画業界に棲みついてしまい我が物顔で振る舞うようになっていきます。芸術の観点からするとこの連中がもたらしたものはちぐはぐでまとまりのないものでした。独力で、かつ経験で身につけた映画製作の仕事を自分本位に展開させていき、自分たちを困らせたり、状況に文句をつけたりしない連中だけを輪の中に入れていったのです。
その結果として1893年から1903年にかけて映画は足踏みし何の発展もないままでした。「ピークで高止まり中」とされたこの産業などいつ見捨てても良いくらいの気に誰もがなっていたのです。
業界で先行していた英国は映画向きとは言えない霧の多い空模様があだとなりつつ、フランスとは違った喜劇一派を成していきました。この一派からは「追跡物」のジャンルが生み出され大衆的な成功を収めていきます[6]。
手掛け始めたばかりのビジネスが面白いものを生み出していきそうだ、と気がついたのがパテ社でした。同社は映画作りにルールを敷き、各部門の質を高めようと試みます。この努力は華々しい商業的成功によって報われることとなります。
パテ社初期の監督たちは知識も技術もありませんでした。それで彼らのおかげで映画はそのカバーする範囲をここまで広げていくことができたのです。直感的に、パッと目につく質にこだわったことで売上が上り、映画の真の側面が見えるようになりました。英国派は独創的ではありましたがまだ完成度に難があり、フランスの監督たちによって良い所取りされてしまったため方針転換と調整を図られます。パテ社監督たちは喜劇のジャンルで現在でもモデルとされつづけている秀作を生み出していきました。ここにフランス派が生れたのです。
其の二
(シネ・ジュルナル紙 1911年166号 33、35-37頁掲載)
特撮あるいはトリック映画が登場してきます。最初は動きを逆に見せるものでした。映写技師はコメディ映画を上映している際に時々フィルムを逆回転させました。するとどうでしょう。壊れてしまった物が集まって元通りになり、液体が瓶に戻り、人間が高い場所に飛び乗ってしまうのでした。
メリエスは映像のおとぎ話を作り出しました。写真の分野で知られていたトリックを出発点としておとぎ話じみた一連のエフェクト全てを発明していったのです。それ以降(合衆国のアニメを例外とすれば)新たに付け加わった技法は何一つないほどでした。
おまけに才能と機知を兼ね備えていて、トリックを物語にまとめあげて独創的で面白みのある奇譚を生み出していったのです。
メリエス作品は長期に渡って流行を見せていましたがこの成功は作品価値に見あったものでした。メリエス一派が衰退したのは進化しようとしなかったためです。メリエスの作品では被写体を見せるためにいつも特殊な飾りつけをした舞台が必要とされていました。こういった装飾を必ずしも必要とせず、できる限り戸外で撮影する方向に映画は進んでいきました。メリエスは自分のやり方を変えようとはしなかったため流行から取り残されてしまったのです。
メリエス流の作品はパテ社でも作られていくことになりますが、意図に反して手直しが加えられていきます。ある器用な現場技術者[7]がトリックを応用した作品作りに熱心に取り組んでいました。彼の欠点はメリエスがしていたように場面を面白く見せようとする工夫を充分にせず、細工さえあれば事足りると甘んじてしまったことにありました。1908年から10年にかけこの種のおとぎ話は下火になっていきました。
1904~05年には英国起源の「追跡物」が大流行。喜劇だけではなくドラマ作品の肝としても使われるようになっていました。典型的な例で言うと、浮浪者が不注意から藁の山に火をつけてしまいます。放火だ!消防士の到着に消火、犯人を追跡して森を抜け、野原を駆け抜け、障害物を乗り越え鉄道に飛び乗り、峡谷をまたぎ、川を越え…ようやく犯人逮捕で罪を償いめでたしめでたし。追っかけだけで作り上げた物語ですが、しっかりした脚力さえあれば撮れてしまう作品でもありました。この時期には軽業師が映画の王様だったのです。
追跡喜劇は相当数制作され、その多くが現在でも語り継がれています。
この時期(1906年)に本格化したのが遠隔地での屋外ロケでした。それまではヨーロッパ各地、アジア、アフリカからアメリカを舞台にした場面でも近場のヴァンセンヌの森、ビュット・ショーモン公園、マルヌ川の河畔のノジャンやジョアンヴィル=ル=ポン(日露戦役の場面もそこで撮影されました)を使って撮影されていました。キリスト伝の映画化に際し、ゴーモン社が最初の屋外ロケを行ったのはフォンテーヌブローの森だったのです。
それに続いて映画製作会社各社がこの森に入りこんで撮影を始めました。フォンテーヌブローの森は長きに渡って「どことでも解釈できる場所」と見なされるようになっていたのです。
一旦屋外ロケが軌道に乗ると目的地が広がるようになってきました。撮影スタッフはまずはフランス国内全土、次いでスイス、イタリア、コルシカ島、アルジェリアにチュニジアを次々と訪れていきます。
にもかかわらず、観衆の方は無邪気にも全ての場面がフォンテーヌブローの森で(或いはジャーナリストの言葉を鵜呑みにしてパリ周辺の旧城郭跡で)撮影されたと信じこんでいる始末でした。
1906~07年。及び腰ながらも映画は一歩一歩進化していました。映画業界についてはこの頃まで見世物小屋の支配人を相手にしか商売してはいけない決まりになっていました。まだそんな世界が隠されていなかった時代のパリで奇異を生業にしていた人々です。
見世物小屋にやってくる客は単純で子供じみた映画以外を理解できる教養を備えてはいませんでした。芸術家肌の連中、あるいは芸術の話をしたがる者は胡散臭く思われ映画界から容赦なくつまはじきにあいます。映画を作り出した連中が業界をまだ牛耳っていたのです。メロドラマが初めて現れてきたのが1906年頃。その成功は凄まじいものでした。当時の作品の一つ『赦しの掟』[8]は現在でもよく知られています。内容は単純そのもの。おそらくそれが成功の一因でもあったのでしょう。『鐘突きの娘』[9]公開もほぼ同時期でしたが内容はもっと複雑でした。でも『赦しの掟』の成功には到底及びませんでした。これで道筋が決まりました。メロドラマは映画に活路を見出したのです。
追跡劇はまだ作られていて簡単に衰退しそうな気配はありませんでした。人間の追跡劇を一通り済ませると動物を使った追跡物が始まりました。『密売犬』[10]はスキルの高い調教師とスタッフを揃えた映画監督の共同作業となり、犬による追跡場面だけを作品の目玉として大きな成功を収めました。便乗作品が続々と登場しますが一作目の盛り上がりは別格で乗り越えることはできませんでした。
この時期は救出物の時代でもありました。これほど多くの人々の命をありとあらゆる方法で救った時代は今までありませんでした。ありとあらゆる物が人命を救います。映画産業が衰えつつあった英国がこのジャンルを得意としていました。あらゆる種類の犬たちがあらゆるシチュエーションに登場、挙句の果てには人の命を救う馬まで現登場し、観衆は熱狂的に囃したてていたものでした。
撮影術は大きな進歩を見せていました。この時期から逆光などの効果を取り入れるようになっていきます。直射日光の下で撮影していた時代とは雲泥の違いです。見せ方も素朴なものから芸術性を凝らしたものに変わってきました。単に当たり前の事をするだけの時代はとっくに終わっていて、監督がそれぞれのこだわり・趣味性を発揮し場面を調整していくようになっていたのです。
それにも関わらず、役者の演技は改善されないままでした。さらに言うならばこの時期、真剣に演技に取り組んでいる役者はそもそも映画にはやってきませんでした。速度感を要求され、何度も撮影機材の邪魔が入る上にやたら誇張された演技に恐れをなしていたのです。小遣い稼ぎのアルバイトでやってくる連中か、配役部が劇場から調達してくる人々しかいませんでした。
さらに言えば他とは違う質の高さを映画に持ちこもうとする発想そのものが意味を持ってはいませんでした。演技などは必要ではなく、見てとることすらほとんどできませんでした。作品冒頭で状況を手短に、できる限り簡略に説明し、すぐ重要度の高い激しいアクション場面に入っていきます。キャラクターの設定を作るとかニュアンスを与えるといった些細な事に時間をかけている暇はなかったのです。
当時の決め事で大事だったのは主人公の動きの追跡でした。例えば主人公が通りに出ます。建物のドアをノックし、廊下に入っていき、また部屋の扉をノックする…という形で見せないといけませんでした。延々と主人公を追い続けなくてはいけなかったのです。
その結果、細かい部分を気にする演技達者は無用の長物で、仕事のコツをつかんだちょっと頭の回る役者に取って代わられてしまいます。そのため表現力のある役者は映画に関与しないという状況になってしまいました。
パテ社は労力をかけただけの収益を上げることに成功しました。非の打ちどころのない作品を生み出し続け、完成度だけでなく使用機材の面でも他に先駆けて市場のトップを走り続けていました。競合他社があちこちから現れてきます。フランスで映画会社の設立ラッシュが始まります。パテ社は単独でフランスの映画産業を束ねたがっていたにも関わらず、そして自身望んだ訳ではないにも関わらずひとつの流派になっていました。そして望んだ訳ではないにも関わらず雇っていた労働者や技術者、監督たちを他社に流出させてしまいました。
イタリアの動きが始まります。同国の映画産業はマーケットで大きな位置を占めるようになっていきます。
そこまでに至るイタリアの武器は素晴らしいものでした。他国以上に撮影に適した太陽光線があって、天気を気にせずいつでも撮影することができます。顔立ちも映画向けで素晴らしく、映画製作や現場でかかる費用は少なめで、駄目押しに潤沢な資本を備えていました。
自身の作り出した映画産業をほぼ独占してきたフランスにとって、イタリアは真っ向勝負を挑んできた恐るべきライバルとなりました。
これだけ有利な側面を持ちながら、イタリア映画は長きに渡ってフランスの専門家たちの手を借りていました。
イタリア映画が独り立ちしたのはしばらく経ってからの話でした。
その気質もあって、イタリアの役者たちは荘厳で誇張気味の演技を見せるようになります。一方で人件費を比較的抑えることができたため、役者の人数を増やし、豪華な衣装を使った大掛かりな群衆場面に登場させることができるようになりました。
歴史映画はイタリアの独壇場となります。
一つの流派が形成されたのでした。
其の三
(シネ・ジュルナル紙 1911年167号 31、33、35頁)
一つの流派が形作られていきました。
この流派で重要視されていたのは映像の細部ではなく全体の効果で、見ている人を驚かせようとしています。装飾に装飾を積み重ねていき、モブシーンを熱気のある形で、しかも多くの場合見映え良く動かしていきます。ただし衣装や時代考証を正確に行っているかといえば必ずしもそうではありませんでした。
イタリア一派はフランス史やフランス文学への好みを強く見せていましたが、その解釈は往々にして軽薄で考証に欠けたものでした。他国でならさほど目立たなかったかもしれませんがフランス国内では相当の衝撃が走ったのです。フランス一派は細かな部分に気を使っていたにも関わらず、イタリアだと細部は取るに足らないと見えているようでありました。
ナポレオン英雄譚も映画の素材とされていきました。しかしイタリアの人々には理解できなかったようで軽めの歌劇として扱われてしまいました。
役者の演技も押しなべて力足らず。ある意味当然です。当初イタリアの俳優は映画界で働くなんて自分たちにふさわしくないと思っていたのです。短期契約の映画俳優業に対しフランスだと役者養成の下積み期間がありましたが、イタリアにはありませんでした。大袈裟に強調されたイタリア流の演技は一目で分かるものでした。無知な映画人によるこの手の演技は舞台喜劇の教えからすると到底許しがたいものでした。着付け一般についても同様の悪印象が見られます。
それでもイタリア映画は勃興期に傑作をひとつ生み出しています。以来映画が目覚ましい進化を見せたにも関わらず、三年後の今でさえ最高峰の監督術を伺わせる作品の一つです。『ポンペイ最後の日』[11]は公開されるやいなや芸術のセンス、丁寧な演出、アイデアの巧みさ、作品を支えるコンセプトとその実現の重厚さ、同時に例外的な映像美によって市場を激変させるに至りました。
この例外的作品でアンブロージア社は最良の映画社の一つと見なされるようになりました。
この後の同社作品は、多くが一級の出来映えだったとしてもまだ『ポンペイ最後の日』を超えることはできていません。
喜劇に挑戦したこともありました。納得のいく作品を作るため自国俳優を諦めフランスの役者を招き入れました。フランス俳優はイタリア映画に独特の調子をもたらしたのですが、そこにはアンドレ・ディードが主演したグリブィユ連作が含まれていました。別なフランス男優も他社のスター女優と組んで大きな成功を収めたりしています。
手短にまとめるなら、イタリア一派は映画術の進歩に貢献しなかったということです。フランス派に追随し、もとから決して少なかったとは言えない仏一派の欠点を増幅した形になります。
他方イタリアの映画界は豊かでした。仕事ぶりは目覚ましく意識の高さが伝わってきます。
往々にしてフランス映画よりイタリア映画の方が一般受けが良かったりもしました。真の芸術という点では不完全だったとは言え、イタリアの映画は面白く、大胆さだけではなく、その壮大さや人の動きに目を見張るものがありました。弱点もまた個性に変わります。イタリア人たちはフランス派が怖気をなすようなことも果敢に試みていきます。映画として扱うのが難しそうな主題を前にしてもひるむことがなかったのです。イタリア映画には演技が、独自流とはいえ演技があったという話でもあります。
芸術性を備えた映画作品が生み出されました。丁寧に見ていけば時代錯誤や勘違いが多く含まれてるとしても、それにも関わらず内容として面白く、しかも売れたのです。
新興イタリア映画にとっては売れた者勝ちであり、フランス側からは恨み節も聞こえてきました。でも戦って勝てる相手ではありません、フランスでの製作費を考えると人材や資材をこれほど無駄使いする余裕はなかったからです。
イタリア喜劇には勝れた作品が多く含まれていました。ただ実際の製作はフランスで、演じているのもフランス俳優でした。配給に携わった者たちはフランスでは絶対にありえないレベルの贅沢な舞台や小道具類を配したフランス映画が進化していくのを見続けていたことになります。
イタリアはフランス映画界にとって最強のライバルの一つになったのです。
同時期のフランス映画産業にも目覚ましい発展が見られました。
新たな会社が生まれていました。パテ社で生れた一派は業界で重きをなしたのち、新天地を求め同社を離れていきます。監督と技術畑のスタッフと共に現場で教わってきた、または経験で覚えてきた厳格な規則が同業他社に流出。それまでほぼ門外不出だった映画製作術が他社の手に渡ります。
イギリス資本のアーバン社はフランスの映画社エクリプスに姿を変えました。時事ニュースを止めて劇映画に進出。市場に展開した作品はとても成功し名声を上げていきます。そこから派生してきたのがラディオ社でした。同社トップには映画界で初の職人の一人、最も知名度のある技術者だったクレマン・モーリス氏[12]が就任しています。
エクリプス社は存在感を増していきます。
ゴーモン社の扱うジャンルは飛躍的に広がっていました。初めて純パリっ子と呼べる独創的な喜劇ジャンルを生み出しています。このジャンルは現在でも同社の十八番となっています。追跡物でもこれまでの通常の喜劇短編でもありませんでした。機転を利かせ、アクションが多く、新たなアイデアと手法に満ちています。今でも覚えている人が多いのでここで作品名を上げるのは気が引けるのですが、たとえば『管理人室でのお茶会』[13]『磁石になった男』[14]『包まれた配達人』[15]『提督の物語』[16]『デモをしない男のある一日』[17]。もっと味気ない作も他に何十何百と作られていました。
他ジャンルでゴーモン社は何も生み出してはいません。大掛かりな歴史物で時折イタリア一派に肉薄してみせた程度でした。
エクレール社が市場に登場してきました。
この新興会社はすぐに注目を集めました。ニック・カーター探偵物を映画化して名を上げます。また本作によって初めての「連続物」が開始されました。同じ役者が話をまたいで再登場するもので、観衆は自分が見た作品の続きを見たくなる仕掛けです。此の発想は以後独自の道を歩んでいくことになります。エクレール社はドラマとアクション物を得意とするようになり、これが同社の評価につながっていきます。
同時期、撮影レベルが低く、演技も上手いとは言えず、人の姿が太ももまでしか映っていない、支離滅裂か愚劣としか形容できない脚本を元にしたまとまりない作品が市場に現れてきました。欧州では驚き、あるいは皮肉交じりに受け止められたものです。
アメリカ一派が誕生していたのです。
この時期に脚本術の研究や、演出に費やされるこだわりが強まっていたとはいえ、フランス派は何一つ進歩を見せていませんでした。
俳優たちはかつてのように映画を忌避することは少なくなっていて、映画出演の機会が増えていきました。でもすぐに既存の流派に染まってしまいます。決まった型に必要とされる厳密な決めごとだけを守るようになり個性は消え失せていきます。慌ただしく演技させてしまうことで、役者の個性がもたらしうる面白い部分を殺してしまうのです。
衣装や小道具、舞台などの点から見ると映画の監督術は丁寧で細やかなものになりつつありました。でも演技については相変わらずでした。あわただしく、ぶつ切れで、あってよさそうなニュアンスが欠けていました。
しかしこういった状況に逆らう動きが幾つかの映画会社で見られるようになります。この傾向は映画を扱う業者たちからすぐに押さえつけられてしまう結果になりました。彼らが欲していたのは上質な演技ではなく、アクションであり短編だったからです。
映画の進化を決定していく出来事が起ころうとしていました。
悲観的な者たちに「映画業界は死にかけている」と毎日のように言われながらも映画は拡大を続け、劇場へと進出し舞台人たちを震え上がらせました。今や映画を力のあるライバルと認めざるを得なかったのです。
パリや欧州主要都市に映画館が続々と作られていきます。
この新興産業はありとあらゆるものに手を出し、全てを呑みこんでいきました。旅行記、時事ニュース、歴史物、人間ドラマ、喜劇…さらに音声をつかった映画の試みも幾つか行われています。
拡がりつづける動きに演劇界、そしてコメディ・フランセーズ座の花形が追随したのがこのタイミングでした。
映画との全面対決が無理だと分かったため、むしろ映画を利用していく方向に舵を切ったのです。
芸術映画派(フィルム・ダール)の誕生でした。
其の四
(シネ・ジュルナル紙 1911年168号 38、39、41頁)
芸術映画は革命であり、古くからのやり方をゆっくりと、絶え間なく進化させていくことになりました。
[シャルル・] ル・バルジ氏[18]がコメディ・フランセーズ座の役者を監督し映画を作る話が広まった際、人々は映画界の流儀を知らない舞台人がどんな映画を作るのか議論を交わしながら成り行きを見守っていました。超大作になりそうだ、製作費が怖ろしいほど膨れ上がるのでは。そんな話が出ていました。
製作には時間がかかりました。どう演技するか、どう尺を使い物語を紡いでいくか、様々な問題にぶつかったのです。ようやくフィルム公開にこぎつけます。確かに驚きでした。一般客の多くは理解できず、心を動かされることはありませんでした。しかし業界人たちに今まで守ってきたルールが無駄であったと理解させるには十分だったのです。実力派の役者たちが出演し劇場と同じ成功を収めます。彼らは劇場と変わらぬかのように演技していました。演技は生硬で、走り回ったりはせず身じろぎ一つしません。演技のもたらす強度が高まる効果が得られたのです。驚き以外のなにものでもありません。出来映えは見事でした。業界視点から見て許容できる程度のミスはあり、しょうがないと思える点も多かったのは事実です。それは初挑戦の役者が様々な困難を乗り越えようと試行錯誤した痕跡でもありました。諸々を含めて『ギーズ公の暗殺』[19]は傑作だったと言えます。
ル・バルジ氏は自身の役柄を細心かつ緻密に、豊かな細部を織り交ぜながら演じています。注意深く見ている者にとっては青天の霹靂でした。百戦錬磨の監督が慣習を破りたくないと怖がってできなかったことを新米監督が成し遂げてしまったのです。
氏によって新たな原則がもたらされました。先人たちによる経験は考慮には入れられていませんでした。それでも彼のやりかたはこれ以上正しいものはないものでした。技術面に関わる規則を幾つか除いてしまうと、旧派がのんびりと発展させてきたものは何も残りません。旧習は音を立てて崩れ落ちていきました。
芸術映画派が映画の流れに及ぼした影響は如何ほどだったと言えるでしょうか。当初ほぼゼロでありながら、途轍もない結果をもたらしています。アメリカ映画を覚醒させ、変容をうながし、今そうである一つの流派に形作っていったのですから。
芸術映画の企画そのものは商売での結果につながりませんでした。期待していたほどではなかったのです。観客は急激な変化を理解できず冷たい反応を見せました。映画のテーマはしばしば退屈。成功しているごくわずかな場面を生み出すためにどれほど失敗が多かったことか。制作費も法外に高騰していました。つまるところ、関係者たちの戦意喪失という話です。芸術映画が形骸化し、良く知られたブランドマークを冠したありふれた映画会社となり果てた時点でル・バルジ氏は離脱していきます。
それでも確立された規範は残り続けていきます。フランス派は一歩一歩賢くなっていきます。映画に何が出来るか見てとったあらゆる分野の芸術家が力を貸すようになってきました。
映画が変わりつつあった当初の時期が賢明ではなかったという点は疑いようがありません。長く続いてきた伝統をすぐに打ち切る訳にもいかないのです。それでも動き出してしまったものを止めることはできず、配給側も芸術に関心を示す客もいるのだと理解し、認め始めるようになりました。題名に「芸術」「ゴールド」「ダイヤモンド」「原理」「美」を冠した連作物が各社より発表される展開となったのです。イタリア絵映画では二百名の俳優を追加して芸術映画と銘打ったことがあります。
軌を一にして異なった流派が形成されていきました。集まってきたのはフランスの作家、文芸畑の人々(作家・文人映画協会)。彼ら脚本レベルを改良しようとしていました。
質の高い俳優の演技とこだわり派の監督による演出も相まって、この流派がしばしば優れた脚本を生み出した点に疑いはありません。しかしながら芸術映画派が一歩先んじており、文藝一派では結局到達できなかった独創まで突き進んでいました。文芸派のもうひとつの誤ちは、旧派がこれまで幾度となく繰り返してきた物語を繰り返してしまったことです。質が落ちた訳ではなかったのですが良くなったとは言い難いものでした。そのため同派はフランス一派の進歩に影響を与えませんでした。それでも売り物としては立派なもので、他社のレベルを超えはせずとも一定の質を維持していました。同派の脚本には掘り出し物が幾つか見つかります。しかしジャンルを生み出すまでには至らず、業界に新しい要素を持ちこむことはできませんでした。
芸術映画派によって悲劇作品の道が開かれました。猫も杓子も追随していったものの特筆すべきジャンルは開拓されませんでした。しかし1909年の終わりがけに作家文人映画協会が公開したミミ・パンソン嬢[20]の連作が各地で話題を呼びました。叙情的な恋愛物がしばらくの間流行。同時期、俳優たちはピンで主役を張れるよう奮闘していました。アンドレ・ディード氏[21]は先にデビューしていたマックス・ランデ氏[22]と時期を一にして自身を主役にした作品での成功を収めました。俳優たちは誰も彼も連作で当てしようとし始めました。シャルル・ルプランス氏[23]は作家文人映画協会でプリンス君シリーズを始めます。観衆の興味を引き、お気に入りの役者「ディード&プリンス」をドラマや喜劇で見たい!の声が上がるようになりました。画面に繰り返し出てくる役者には目が止まり、知名度があがって客も良し悪しを見極めるようになっていきました。ゴーモン社はアベラール少年[24]が好感度の高いスターになりそうだと考えました。
同じ役者が何度も出てくると見ている側は飽きてしまうと言われています。真逆だったのです。業界ではこういった俳優を契約で囲いこむ動きが見られました。
其の五
(シネ・ジュルナル紙 1911年170号 25-27頁)
映画産業は繁栄し、強力な産業になっていました。専属の技師と技術者を抱えるようになっていました。部門毎の専門性も高いものになっています。始まったばかりの頃の棚ぼたで成功した映画界とは別物でした。働いている人の数は相当数に上ります。これらの諸部門で最も重要性が高かったのが演劇部門でした。世界各国で毎日のように新会社が設立されていました。かつて世界市場を牛耳っていたフランスに今度は国外の映画会社が食いこんでくるようになり、しばしば国産映画以上の成績を収めるようになっていました。合衆国からは恐ろしい一撃がもたらされました。
長きに渡りアメリカ人は手探りの模索を続け、独自の路線を見つけ出そうとしていました。彼らが最初に撮った作品の出来は酷いものでした。失敗にもめげることはありませんでした。というのも手持ちの資金は潤沢で、やり遂げようとする意志があったからです。ありとあらゆる挑戦をしてみました。歴史劇やシェークスピア劇はあまり上手くいきませんでした。続いて製作した作品は鉄道や、アメリカ風追跡劇、ネイティヴアメリカン、カウボーイなど手近な素材を題材にしたものではるかに良い出来映えでした。客たちは大いに沸いたものですがフランス映画との差異は大きくはなく、せいぜい演出時の大胆さと巧みさの違い程度でしかありませんでした。その後にヴァイタグラフ社が公開した『幽霊ホテル』[25]が大きな話題を呼んだのは妥当だったと言えます。業界の古いやり方を完全に捨て去り、誰も予期していなかった真新しい手法[ストップモーション]を組みあわせたのです。静物が動き始め、魂を与えらえるのを目の当たりにするのは初めてでした。どういう手法を使ったのかあらかじめ知らなければ注意深く見ても何が起こっているか分からない位でした。ヨーロッパの監督たちは秘密が漏れてきたのを聞いてようやくトリックを理解しました。応用範囲は広くなく、順当と言ってよい大成功を収めた後でこのアメリカ流のやりかたは使われなくなりました。ネタが限られていたからです。それでもこの手法はアメリカ一派に栄えある成功をもたらし、人々が同派を意識し怖れるようになるきっかけとなりました。
1909~10年にかけてヴァイタグラフ社初の喜劇が公開されています。それまでは出来も酷く、その後に並レベルの作品が続いていました。一挙に傑作群が公開され始めました。新たな流派が形成され、市場全体で存在感を示すようになります。勢いを感じていたのは業界関係者ばかりではなく一般の観客たちも同様で、アメリカ作品を熱狂的に受け入れるようになっていきます。
アメリカ一派は以下の3点においてフランスと異なっています。
1)カメラによる画面の切り取り方
2)役者の演技
3)脚本の組み立て方
画面前景に位置する役者の表情の変化・動きに客の関心が向けられている点にアメリカ人は気が付いていました。それを上手く利用し、必要であれば舞台装飾や全体の構図は犠牲にしてでも俳優の姿(決して大きな身動きはしていません)を見せようと試みています。
慌ただしい動きを避けたとても静かな、誇張されていると思えるほど静かな演技です。また[ヨーロッパ映画の]最近の脚本は劇的な状況、舞台劇由来の悲壮さを含んでいます。アメリカ人はできる限り単純かつ素朴に映画を作ろうとしていて、複雑に絡んだ筋立てや舞台がかった大袈裟な展開を避けようとしています。実人生に出来るかぎり近づけようとし、紙一重のアクションで陽気なハッピーエンドに結びつけていきます。そう見ていくとアメリカ流の映画製作術は人々が今まで行ってきたどの手法よりずっと優れています。客の熱狂がその証拠です。アメリカ映画に関わるスタッフは大勢いても役者数は実際そこまで多くはなく、客たちは次第に顔を覚え、名を覚え、もう一度見たいと思うようになっていきました。同じ役者が定期的にスクリーンに戻ってきてほしいと願い、要求するようになっていたのです。ヴァイタグラフ社作品だけあれば良い、最後はそんな風になっていきます。この後フランスの映画会社はヴァイタグラフの真似事を始めました。
ヴァイタグラフ映画の理論は果たしてどのようなものなのでしょうか。
物事を単純に考える客たちの見解をまとめると次のような感じでしょうか。アメリカ映画は才能ある役者が演じている、彼らはカメラの前でどっしり構えた演技を見せる。だからフランス俳優を使っても同じことが簡単にできる、難しくない、と。
この見方には深刻な間違いが含まれています。
アメリカ流の監督術が示しているのは忍耐力、演技法、柔軟さを持った役者と、長期に渡る規律意識を有した監督による作業でした。勢いで一発撮りした作品ではなくなっていたのです。諸々の規則を徹底的に守った結果であり、ルールを破ってしまうと昔のやりかたに戻らざるをえなくなってしまうのです。
スクリーンで映画を見ていると、静かで抑制された、調和のある役者の演技で実体験さながらの錯覚を覚えたりします。ところが細部まで見る監督の目には単純さと言われているもの自体がトリック、操作によって生み出されたと映りますし、演技と演出の全てが完全に偽物・フェイクだと分かるのです。しかしそれは観客にリアリティを錯覚させるために必要なものでもありました。もう少し詳しく説明していきましょう。
(未完)
[脚注]
[1] テオフィル・アレクサンドル・スタンラン(Théophile Alexandre Steinlen, 1859-1923) スイス生まれのアールヌーヴォー画家
[2] ヴィレット (Villette)不詳
[3] ドエス(Louis-Christian Does、1859-1944) スイス生まれのイラストレーター
[4] アルベール・ギヨーム(Albert Guillaume、1873 – 1942) フランス生まれの風刺画家
[5] カランダッシュ(Caran d’Ache、1858 – 1909) ロシア出身の風刺画家
[6] 『戸外の大胆な強盗』フランク・モッターショウ(A Daring Daylight Burglary, 1903)
[7] フェルディナン・ゼッカ?セグンド・デ・チョーモン?
[8] 『赦しの掟』アルベール・カペラーニ(La Loi du pardon, 1906)
[9] 『鐘突きの娘』アルベール・カペラーニ(La Fille du sonneur, 1906)
[10] 『密売犬』ジョルジュ・アト(Les Chiens contrebandiers, 1906)
[11] 『ポンペイ最後の日』アルトゥーロ・アンブロージオ(Gli ultimi giorni di Pompei、1908)
[12] クレマン・モーリス(Clément Maurice、 1853–1933)フランス生まれの写真家・映画監督・映画プロデューサー
[13] 『管理人室でのお茶会』ルイ・フイヤード(Le Thé chez la concierge, 1907)
[14] 『磁石になった男』ルイ・フイヤード(L’homme aimanté, 1907)
[15] 『包まれた配達人』(Le Facteur emballé)未詳
[16] 『提督の物語』ルイ・フイヤード(Le Récit du colonel, 1907)
[17] 『デモをしない男のある一日』ルイ・フイヤード(La Journée d’un non-gréviste、1908)
[18] シャルル・ル・バルジ(Charles Le Bargy、1858-1936)フランスの舞台俳優
[19] 『ギーズ公の暗殺』アンドレ・カルメット&ル・バルジ(L’Assassinat du duc de Guise、1908)
[20] 『ミミ・パンソン』ジョルジュ・モンカ?(Mimi Pinson、1910?)
[21] アンドレ・ディード(André Deed、1879–1940)ボワロー君シリーズで人気のあった喜劇俳優
[22] マックス・ランデ(Max Linder、 1883–1925)チャップリンとも親交のあった喜劇俳優
[23] シャルル・ルプランス(Charles Prince、1872–1933)リガダン連作で人気のあった喜劇俳優
[24] アベラール少年(le petit Abellard)ルイ・フイヤード監督による「ベベ君」連作で人気を得たルネ・ダルリー
[25] 『幽霊ホテル』ジェームズ・スチュアート・ブラックトン(The Haunted Hotel, 1907)
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