絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(02)

1890年生まれ。1909年演劇学校卒業後に舞台女優の活動を始め、1910年代中盤にかけ知名度を上げていきます。1916年にコメディ劇場(Vígszínház)付き女優となり、翌年から主役が付き始め以後1933年まで同劇場花形として活躍します。

コメディ劇場(Vígszínház)と契約後 初めて「演劇生活」誌表紙を飾った1916年第8号(2月)

同劇場で花形となり
「演劇生活」誌1917年第1号の表紙を飾る

1918年末、アンタルッフィ・シャーンドル監督・主演作
『ボディガード(A testõr)』でヒロインを務める
1919年に一青年による襲撃を受け、顔面部を撃たれるという事件の被害者となりました。著名な整形外科医エルネー・ラースローによる施術で傷はほとんど見えない状態まで回復しましたが、しばらくの間休業を余儀なくされます。事件当時、『演劇生活』誌では「病気による数ヵ月の療養」と説明されており襲撃の事実は伏せられていました。
1922年にハンガリー新聞業界の大物ミクローシュ・アンドール氏と二度目の結婚。同氏が1933年に亡くなった後に事業を引き継ぎ女優業から一旦は引退。戦後になって演劇活動を再開し1961年に亡くなっています。

『私は死にたい(Vorrei morir)』
ハンガリー国立映画協会(Nemzeti Filmintézet Filmarchívum)プリント
1917〜20年にかけ数作の映画に出演。確認できる限り最も古い出演作はマイケル・カーティスの初期作『Farkas』(1917年)。その後レックス映画社(Rex Filmgyár)で無名時代のポール・ルーカス(Lukács Pál)と共演。1918年に公開された『私は死にたい(Vorrei morir)』が現存しハンガリー国立映画協会がVimeoで公開しています。舞台色の強いメロドラマながらバストショット〜クローズアップでの感情表現は質が高く見るべきものがあります。
[IMDb]
Vorrei morir
[Hangosfilm]
Vorrei morir