映画史・日本より
斯くて今度現はれた所は、大阪は西の方西宮と云ふ神戸との間の小さな町の夷屋と云ふ劇場であつた。彼女は最早その誇りとしてゐる聲樂のみでは舞臺に立つてゐられなくなつた。[曾我廼家] 五九郎のところに出て淺草公園の下等な見物から冷かされるのを避ける爲めには、その前借を返さなければならなかつた。前借を返す爲めには、斯うして西宮下りの田舎芝居に身を賣らなければならなかつた。斯くて、とうとう彼女は立派なさすらいの女となつて了つたのだ―
所がこの六月松竹キネマ部を新設して多數の俳優を雇入れると、其所へ突如として彼女は顔を出した。然も高給で抱へられた立派なスターなのだ。彼女は西宮の田舎から、何うして抜けたかと云ふと、彼女は巧みにも松竹の事務員をだまくらかして、澤山の前借金を借入れて西宮の田舎芝居とは手を切り、そして、新設の松竹キネマに入り込んで來たのだ。
扨てこの混沌とした松竹キネマで如何なる役を演じ、如何なる事をしでかしたかは、名物女だけに、ちょっと聞きかじつた丈でも中々に面白い。
彼女はまだ活動には素人だと云ふので、最初は仕出し役を仰せつかつた。曰く女中、曰く看護婦、曰く通行人下女と云ふやうな役のみである。高い給料を拂つてこんな樂な事計してゐるなら、こんな甘い事はないと御当人大納まりでゐた。
「丹稲女史の過激派宣傳」
凩亭山人 、活動画報・大正9年12月号、72-73p
丹いね子(1894 – 1973)は大正期初期から活動を続けた声楽家、文筆家です。エキセントリックな言動(「本職以外に荒らしまはる方が遙かに物凄い」)で知られており、初期フェミニズム運動の括りで語られる機会の多い女性でもあります。
その波乱万丈な人生については『社会文学』に掲載された論考(「もうひとつの『婦人文芸』ー丹いね子の生涯とその雑誌」大和田茂、1998年2月号)に詳しく、またオンラインで略歴をまとめている方もおられます。ただし経歴に欠落や謎も多く、特に1920年に何をしていたのか明らかではありませんでした。実はこの年、彼女はキネマ女優として活動していたそうです。


然し、この丹女史が、巧まざる自然の表情の表現家として、頗る有望な女優である事をこの時發見した人がある。それは、誰あらう松竹が年棒四萬圓で、米國からはるばる雇入れたヘンリー小谷某である。これは、丹を女主人公にして使つたら、定めし面白いアメリカ式の寫眞が出來るだらうと考案して、早速それに向く脚本の撰定にと掛つた。で、漸く女労働者がストライキの大將になると云ふ頗る丹稲向きの物が見附かつた。丹女史をその女主人公として、その撮影に取掛かつた。[…]
其処で、女史はヘンリ―監督に向つて云つた。
「じや、何んな事を喋つてもよござんすか?妾が迷惑になるやうなことはありませんか?」と念を押した。彼女の胸中には、既に何事か云はんと欲する案が出來たのだ。
「ウン、よし!何を喋つても大丈夫だ。一切小生小谷ヘンリーが責任を負ふから、最も過激な事を喋つてくれ」と斯うヘンリーは斷言した。
一番小高い所に昇った女労働者の丹女史は、やおら口を開いて述べた。
「諸君!諸君は現在のキネマ役者を以て滿足するのですか?この薄給で労働の過激なる仕事を諸君は甘んじてやつて行くのですか?この松竹キネマは實に我々を遇する事牛馬の如きものがあります。諸君は早く覚醒して、日活に走るなり、國活に走るなりしたが可いのです。呪ふべきは松竹キネマであり、大谷竹次郎である!」
「ヒヤヒヤその通り」
「大賛成!」
一同は手を打つて、雀躍して、この大演説を聴取した。その間にフヰルムはクルクルと廻轉して、この過激氣分を立派に映し撮たのである。
上掲誌、74-75p
撮影中のどさくさにまぎれ会社批判の扇動を行った様子を面白おかしく伝えた内容です。「松竹キネマで作った寫眞の内では、最も見事に成功したものであるさうだ。一日も早く、その寫眞を見たいものだね」と期待を見せつつ、「最近に丹稲女史は、キネマを暫し去つて、芝居の方に廻されたさうだ」の後日談も添えられていました。
文中の記述を信ずるなら端役(「曰く女中、曰く看護婦、曰く通行人下女」)として映画業界に食いこんだもののせっかくの初主演作で自社批判、社長批判を行って飛ばされた流れ。ヘンリー小谷氏の公開作品データにも言及がなく作品そのものがお蔵入りとなっています。
小谷氏が『島の女』(1920年11月1日公開)と『虞美人草』(1921年4月29日公開)で川田芳子・栗島すみ子をデビューさせ日本の女優史を軌道に乗せた話は知られています。今回の記事は活動画報の1920年12月号に掲載されていて『島の女』とほぼ同時期、わずかに後くらいの出来事と思われます。
何かの手違いでこの作品が上映されていたら…「大正9年末に我が国初の女政治活劇が公開された」の一文が加わって邦画史のイメージがずいぶんと変わります。丹いね子のアイドル人気は想像もつきませんがそれだって売り方次第。官憲に追われた黒装束の女国賊が利根川を泳いで渡り、清水の舞台から跳躍する連続寫眞ならば需要はありそうです。
でもそうはならなかった。当時の松竹、当時の邦画界に小谷氏のやや尖った発想、丹いね子のアウトロー的存在感の居場所はなかった。むしろそういった傾向の芽を早くから摘んだ所に生まれてきたのが日本映画女優史の「正統」だと分かる興味深い記事です。