「ルイ・フイヤード」より
『ジュデックス』は重要な転換点となった。以後、フイヤード監督は悪漢でなく、犯罪者に正しく立ち向かう者が視聴者の共感を得るような見せ方、タイトルの選び方をしていく。記憶に残すほどの作品ではないものの『續ジュデックス』でも同様だったし、その後の二作『ティーミン』(1918年)と『バラバス』(1919年)にしてもそうであった。両作とも12章仕立て、物語は灰色がかったパリ郊外から離れ、花と棕櫚のニース、かぐわしい香草が生い茂りドライストーンの一軒家が点在する同地近郊の丘陵地を舞台に展開していくのである。 […] 『ティーミン』では所々にシュールレアリズム風のキラリとした光があって(修道女に変装した悪党団、木々と花々の合間の隠しマイク、庭で踊る狂女など)同作を『レ・ヴァンピール』に次ぐ作品としている。
『フイヤード』 フランシス・ラカサン著
(アンソロジー・デュ・シネマ第15巻、1966年)
JUDEX marque un tournant important ; désormais, ce n’est plus le criminel que Feuillade désigne à la sympathie du public, mais son loyal adversaire. Il en sera ainsi encore dans LA NOUVELLE MISSION DE JUDEX, film à oublier, et dans les deux suivants : TIH MINH (1918) et BARRABAS (1919), tous deux en douze épisodes, qui se déroulent non plus dans la grisaille de la banlieue parisienne, mais parmi les fleurs et les palmiers de Nice ou dans les collines de l’arrière-pays, parfumées du thym et parsemées de petits villages aux maison de pierres sèches. […] Le premier est embrasé à certains endroits par des éclats surréalistes (bandits déguisés en religieuses, microphones cachés dans les fleurs et les arbres, folles dansant dans un jardin, etc.) qui le placent immédiatement derrière LES VAMPIRES.
Feuillade, Francis Lacassin
Anthologie du Cinéma, No.15
(supplément à l’Avant-Scène du Cinéma No 59 de Mai 1966)
※本作の粗筋については仏語小説版の紹介を参照してください。
1918年前半に撮影、翌年初頭に公開された12幕物の活劇でフイヤード監督にとっては『ファントマ』『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』『續ジュデックス』に次ぐ第5作目の連続劇に当たります。撮影開始百年の節目となる2018年から4Kによるデジタル修復プロジェクトが始動、公開から一世紀に当たる2019年に新版が完成。2020年にボローニャ復元映画祭でのプレミアを経た上で先日円盤(DVD/ブルーレイ)の流通が始まった所です。
フイヤードの監督キャリアを1)初期短編、2)初期活劇、3)中期活劇、4)後期連作と中長編に区切った時、『ティーミン』は第3期の始まりを告げる一作となっています。これまでDVDなどで市販されてきたフイヤード作品は第1と第2期のみでしたので、今回初めて中~後期の作品を見ることができるようになった次第です。
長らく幻の作品とされていた『ティーミン』は幾つかの点で旧作と異なっています。
同作が制作・公開された1918~19年は大戦が終わりをつげ欧州が新たな回復基調に向かい始めた時期に当たります。社会・文化・政治の価値観そのものがリセットされ、次の1920年代を見据えた動きがあちこちで見られるようになりました。映画業界、そして連続活劇ジャンルも例外ではありませんでした。
『ファントマ』~『ジュデックス』の成功もあり、以前より自由に作品を撮れるようになったフイヤードは活動拠点を生れ故郷の南仏に移します。『ティーミン』は風光明媚な観光地として知られるニースやコートダジュールで撮影されたものです。



作品のあちこちに海が登場、浜辺に沿った大通り、堤防や船着き場、岩場や岸壁など港町の利を生かしたロケーションの選定が行われています。地中海の明るい光、開かれた水平線がコントラストや構図に与える影響は大きく、パリ主体で製作された旧来型の連続劇と雰囲気が大きく変わりました。



第11章では悪漢たちがアパルトマンの屋根伝いに逃亡を図ります。活劇ではお約束の展開ではあるもののカメラはその先の尾根や緑に囲まれた住宅街も捉えています。建物が密集し整然と立ち並ぶパリ中央部でこういう絵にはならない訳で、撮影拠点の変更が市街地での撮影にも影響を及ぼしているのが分かります。
旧作との印象の違いは植生にも現れています。






アフリカ原産の多肉植物や地中海周辺に自生する草花が多く登場。天に向かって広がる曲線、あるいは放射状に広がる葉が映りこんで画面に異様な装飾性と緊張感を付け加えています。
地中海周辺の植物相(フローラ)を構図に取りこんでいく手法は『ティーミン』の有名な場面でも見て取ることができます。

第8章『慈悲の枝』では駕籠ごと崖から落とされたティーミンが木の枝に引っかかって九死に一生を得ています。崖の岩場に手をかけてよじ登ろうとしているヒロインを上から捉えたのがこの一枚。高所から落ちかけて危機一髪の設定は旧来活劇の焼き直しですし、見る人によっては「またこのパターンか」となりそうです。
ティーミンを助けた「枝」はゴツゴツした針葉樹で日本の松に似ています。地中海東部を原産とするトルコ松(ターキッシュ・パイン)ではなかろうか、と。フランスでは南部にしか自生していない樹木がヒロインを助けるのがポイントで、上部に聖性を帯びた「慈悲の枝」が広がり、その下で必死のヒロインが岩場に手をかけている構図がフイヤードの思考形態、宗教観や郷土愛を如実に反映しています。『ティーミン』そのものが南仏の風景によって連続活劇の紋切り型を再解釈・再構築していくプロジェクトであった。そんな風に言い換えることもできるのでしょう。
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『ティーミン』を理解していく上で避けて通れないのが「心」をめぐる問題です。




第1章半ばで悪党団に拐かされ第4章で救出されるまで姿を現さない。その後は薬品の影響で記憶と言葉を失い友人や恋人も判別できず不安定な表情、所作が目立つ。第7章で記憶を取り戻すも以後の物語展開に大きな貢献はしていない…5時間半近い本作を見ていると主人公ティーミンの活躍がほとんど描かれていない点が気になってきます。
ティーミンの存在意義とは、フイヤードが彼女に託した役割は果たして何だったのか。ひとつの仮説を立てることができると思います。
心に受けた傷が要因となって記憶や振舞いに異常を生じるも、あるきっかけから記憶が蘇りそこから治癒と回復に向かう。ティーミンが作中で生きた物語には初期精神分析の提案した心的外傷、トラウマの概念が色濃く反映されています。第3話では専門医も登場、記憶を失ったティーミンが心身の不調と闘っている様子が描かれていきます。ティーミンは若い頃に父親を殺害される辛い体験をしていて、第7章では最近の記憶と同時に当時の事件の記憶と言葉を取り戻し、悪党団の暗躍する理由を解き明かす鍵となっていく…
ティーミンは心の軌跡によって物語を中盤で好転させていく役割、いうなればゲームチェンジャーの機能を果たしているのです。
1910~20年代にかけ心をめぐる新しい知見を取りこんだ文芸の流れ(『失われた時を求めて』、『ユリシーズ』、シュールレアリズム)が一つのトレンドとなっていました。例えば『ユリシーズ』の連載は1918年3月に始まっていて『ティーミン』撮影と重なっています。直接の影響云々ではないにせよ、フイヤードが時代の最先端を意識したという仮説は十分に成り立つと思います。
とはいえ視覚芸術である映画の枠組みで「心」を描くのは容易ではありません。冒頭からティーミンに感情移入して見ていれば話は変わるのでしょうが、そもそも登場頻度が少なく存在感の希薄なヒロインに字幕一つで「そう、思い出した!」と言われても受け手側が共感しづらい流れになってしまっています。




『ティーミン』構想時のフイヤードが精神分析に興味を持っていたと仮定すると他のいくつかのエピソードも理解しやすくなります。上の2枚は記憶と理性を失った女性たちが幽閉されているキルケー館のエピソードより。下の2枚は助けにやってきた外交官が策略により妄想癖、虚言癖のある危険人物とみなされ隔離されるエピソードから。理性と狂気、意識と無意識、ノーマルとアブノーマルなど連続活劇の世界観には似つかわしくない不穏で重めの空気が流れます。
こういった傾向は一般的に「幻想的な場面が所々含まれている」の形で解釈されています。冒頭に引用したラカサンの例でいうなら「所々にシュールレアリズム風のキラリとした光があって」の部分です。ただ、この見方は厳密には不正解なのだろうと思います。
『ティーミン』には通常の「アクション活劇」の側面もあって、善対悪の丁々発止も描かれています。一方ではヒロインに託された「心の物語」が並走していて、キルケー館や隔離部屋のエピソードはその世界観を補完する意味で挿入されたと考えれば整合性がでてきます。
しかしこの試みは上手くいかなかった。
記憶喪失、失語症、心の病と闘うティーミンの物語が十全に機能せず作中でぼやけてしまったことでそれを補完するはずのエピソード群も本来の意味を失ってしまった。結果的に視聴者にとってはやや奇妙な、幻想的な質を帯びた描写があちこちに散らばっているように見えてしまう、というのが実際の所だったのでしょう。次作『バラバス』以降にこの種の試みが見られなくなったのにはフイヤード監督なりの思いが反映されているはずです。
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『ティーミン』での試行錯誤はブラッシュアップされ翌年の『バラバス』へと結実していきます。例えば南仏の美しさを伝えるためにフイヤード作品史上初の空撮が登場、物語の展開もスムーズで分かりやすいものとなっていきます。一方で『ティーミン』に過渡期ならではの面白さがあるのも否定できません。今回のデジタル版がフイヤード中期~後期活劇の再評価につながる第一歩になってほしい。海外の一愛好家として切に願っています。
[出版年月日]
2021年12月8日
[出版者]
ゴーモン・ビデオ(Gaumont Vidéo)
[EAN]
3607483290484
[再生時間]
324分
[フォーマット]
19.3 x 13.6 x 1.7cm 180g