サイン館・合衆国/カナダ/オーストラリア より
俳優に對する待遇も次第に改まつた。ゼームス・クルーズが、一九一一年に始めてパテエの俳優となり、程なくタンハウザーに轉じて、『百萬弗の秘密』に出演した時は、一日僅かに五弗の給料を貰つたに過ぎぬ。かうした慘じ目な生活が、間もなく人に羨まれるほど花やかなものとなつたのである。殊にスター・システムの發生は、俳優の地位を著しく向上せしめ、靑年男女はこの職業に憧憬して俳優たらんことを欲する。スター・システムは如何にして發生したかといふに、バイオグラフのフローレンス・ローレンス孃が、カール・レーンムルの『インプ映畫』に迎へられて、スターとなつたのが其の起りで、それまではバイオグラフ・ガールとか、ヴアイタグラフ・ガールとかの稱呼が使はれてゐた。かくして映畫の價値は、出演俳優の顔ぶれ如何で定まるやうになり、製作者はスターの人氣を喚起するために宣傳これ努むるところがあつた。
「新職業としての映畫俳優」
『欧米及日本の映画史』石巻良夫、プラトン社、1925年、94-95頁
ハリウッド映画史のスター俳優システムを紐解いていくと、1910年頃に登場した「バイオグラフ・ガール」フローレンス・ローレンスと「ヴアイタグラフ・ガール」フローレンス・ターナーの二人に辿りつきます。
フローレンス・ターナーは1907年にヴァイタグラフ社でデビュー、花形の人気を博すようになりました。1909年に同社で初めてシェークスピア作品が本格的に映画化された(『真夏の夜の夢』『十二夜』)際はジュリー・スワイン、エディス・ストーリー、クララ・キンボール・ヤングらと並んで主要キャストの一画を務めています。
1912年頃から後続の若手に押されるようになってきたものの、1913年の米映画誌での投票では全体で23位、女優部門では13位(ちなみに14位がパール・ホワイト)と健闘を見せます。英国拠点で自身の名を冠したプロダクションを立ち上げたのがこの時期で、それまでのお姫様役から脱却した作風に挑戦。物質的な幸せと精神的な幸福について問うた社会派劇『東は東』は現在でも高い評価を得ています。
1920年代以降は脇役に回ることが多くなります。10年代のような華やかなスポットライトを浴びることはありませんでしたが『キートンの大学生(カレッジ・ライフ)』の母親役など日本で公開された作品にも幾つか出演していました。




今回紹介するのは1923年にイギリスで残されたサインです。同年末、イギリスでは不振に陥っていた自国映画産業を保護するため、国内上映作品の1/4を国産にする法制度が整えられます。この際に組合のミーティングに参加しスピーチを行った記事がサインに糊付けされていました。英国で映画製作を行った実績があったからこそで、彼女の存在感や影響力が1920年代まで続いていた様子が伝わってきます。
[IMDb]
Florence Turner
フローレンス・ターナー
[出身地]
合衆国(ニューヨークシティー)
[誕生日]
1月6日