


1920s – Early 1930s Glass Negatives
戦前期に残されたガラス乾板14点。パスポートより一回り小型の手札判(10.8 × 8.25cm)が6枚と、その半分のサイズの名刺判(8.25 × 5.5cm)8枚の組みあわせです。
古い映画に関係があるのではないか、漠然とした情報を元に入手したもので届いた時点では何が写っているのか全く分かっていませんでした。実物を確認してみたところ期待を上回る写真が含まれていた、そんなお話になります。
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まずは被写体が人物ではない手札判から。


枝葉と水辺を捉えた他愛ない風景写真に見え、最初は特に気にしていませんでした。白黒反転させた画像の細部にふと目が留まります。通りを歩いている人々の先、建物に看板がかかっています。拡大してみると:
「東への道」の右文字。その下には流氷に乗って流されているリリアン・ギッシュの姿。グリフィス監督による同名作の看板です。映画館を写した一枚のようです。川辺、あるいは小さな池のほとりの映画館…?
浅草公園の瓢箪池でした。
西側の通りに沿って万世館や世界館、三友館などの活動写真館が立ち並んでいた界隈です。池の北東部、やや窪んだ形の撮影ポイントから南西に向けカメラを構えると、浮島への通路の欄干が画面中央に収まってこの構図になるのかな、と。「東への道」の看板の左に和風の家屋があって、さらにその左隣、枝葉に隠れて白い壁の洋風建築が立っているので、万世館から食事処を挟んで世界館の一部が写っている感じでしょうか。
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続いてもう1枚、今度は縦長の手札判。やや面長で目鼻立ちのくっきりした和服姿の女性です。


八雲理恵子(恵美子)さんでした。1920年代末~30年頃の雑誌や俳優名鑑に使われていそうなポートレート写真。趣味の個人撮影ではなく職業カメラマンの手によるものです。
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もう一枚、小さな名刺判には武士姿の青年が写っていました。白黒反転させると…


まさかの嵐寛寿郎が登場。撮影現場での一枚でしょうか。鞍馬天狗や右門、渡世人や後年の明治天皇のイメージが強く、こういったきっちりした武士姿の役どころは珍しい気がします。
撮影時期が特定できないか、と家紋に注目してみました。胸元に菱形を3つ重ねた図案。これは清和源氏系の小笠原家や武田家が使用した「中陰三階菱紋」だそうです。
出演歴をたどり直してみると1932年に『小笠原壱岐守』(山中貞雄監督)に主演。早期に上映が打ち切りとなり短い断片しか現存していない一作です。たまたま撮影用に渡された衣装だった可能性も否定できないものの、当時、寛プロの撮影現場で撮られた一枚とも考えられます。
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次の2枚は難易度が高く特定には至りませんでした。


焼きゴテで細かく波立たせた短髪に和装をあわせるのは1927~29年頃に流行したスタイルです。まつげやアイラインを強調し目元を強めに見せていて、唇をやや左右に短く、下唇を厚めにし口が小さく見える紅の差し方をしています。
これらは昭和初頭の量産型女子の特徴でもあって、似た化粧法をしていた女優が当時大勢いました。それでも頬の曲線、鼻の形など化粧では大きく変えられない部分もある訳です。写真を見て最初にパッと思いついたのは滝花久子さんでした。
手持ちの絵葉書で、ややあどけなさの残るナチュラルメイク寄りの一枚。ネガの雰囲気とはだいぶ変わりますが顔の輪郭や鼻の形に面影があります。
ただ厄介なことに同じ女優と思われる乾板ネガがもう1枚あるのです。


ほつれ具合も含めて髪型は同じですし、化粧の特徴も一致。しかしこちらはやや顎をひいた姿勢、目つきも鋭い感じです。
滝花久子さんは『東京行進曲』(1929年)に出演しており、女給として登場した場面に顎を引いた一瞬の構図が見られます。左右反転しガラス乾板の画像と重ねてみました。
個人予想としては滝花久子さんですが、先に触れたようにこの時期には多くの女優(龍田静枝、柏美枝、伏見直江など)が同種の化粧+髪型を披露しているためあまりに紛れが多く「可能性あり」に留めておきます。
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ガラス乾板のほとんどは専用のパラフィン紙に包まれていました。その中に1枚、松竹の社名が記載された袋が含まれていました。
また今回紹介した5点の他にもプライベート撮影と思しき子供、知人の写真が一つの箱に納められています。関東拠点で写真を生業とし映画撮影所と接点を持っていたカメラマンが手元に残した自作のネガ、と見るのが妥当なのかな、と。
ガラス乾板にはフィルムと違った古風な質感があって今回はその面白さを再発見する機会になりました。いつか自力で現像~引き伸ばしできたら良いですね。