風説と流言、妄言の戦前邦画史
今それが本當にあつた事か、單なるゴシツプに過ぎないのか、事の眞否は保證の限りではないが、随分華やかに、エロを極めた女優秘話 – 映畫界の常識に迄、知られすぎた話の數々ではあるが、思ひ當るまゝ書き列べて見よう。
『デカメロン』は1931年(昭和6年)に創刊された軟派系のエログロ雑誌です。売春、性風俗、薬物禍、猟奇犯罪、官能小説、春画など当時表立って扱うことが憚られていた題材の論考や随筆を収めています。



同誌の昭和6年9月号に「映画界エロ双紙」と題された一文が掲載されていました。書いたのは戦後に映画プロデューサー(1952年『魔像』他)として名を挙げる小倉浩一郎氏。7ページに渡って映画界のゴシップ事情を紹介したもので、同じ内容が『世界映画風俗史』(昭和6年、風俗資料刊行会)にも再録されています。
「日活の峰吟子が一寸氣が變になつた。頭の調子が狂つて來た–そらツ、腦梅毒が出たんだと云うゴシツプが先程、映画界をにぎあわせた。まさか、それ程までヒドイ彼女でもあるまいに、無茶なことを云つたものだ」
「何にしても、原駒子の獵色日記の華やかさ-「大衆双紙」だつたと思う、西條照太郎主催したインチキ雑誌の餘與記事中に、中野英治が歓喜したなんて事が書かれていた」
「神田にはれつきとした細君があるんだから勝てない。その爲にか、最近彼女 [濱口富士子] カルモチンを飲んで自殺したなんて、およそ與太ツぱちなゴシツプが飛んだ」
某男優や監督と某女優が実は…のありがちなゴシップに留まらず、性病、不倫、暴力沙汰、自殺未遂、撮影時のハプニングを列挙。さすがに極端なものは「無茶なこと」「インチキ雑誌の餘與記事」「與太ツぱちなゴシツプ」と注意書きが付されています。
「小笠原明峰は、自分のプロダクシヨンにゐた頃の彼女 [鈴木澄子] が、純情なる助監督を、夜の暗い路を歩き乍ら、誘惑するところを、「映畫時代」に書いていた」
「その他計り知らざる女性の彼 [鈴木傳明] の前に總てを投げ出した者、幾人、幾十人あるか、はかり知れないくらひだと、彼の周圍の一雑誌記者は語つてゐた」
「衣笠淳子は貞之助の妹とかに當るんだそうな [原文ママ] が一見エロ好のみの風丰で、落語家柳家三龜松の大の賛美者で、東京迄追つて行つて數日!如何に惱ましき場面があつたかを思はせて、スタジオ街にポカーンとして歸つて來た等と赤新聞にスツパ抜かれていた」
「その告白記を京都日日新聞だつたかに連載した。それに依ると、「こんなにたゞれる樣な瞬間的欲情の生活はとうど私をお恥ずかしい病氣にさへしてしまひました」なんてことを大膽に書いてゐたもので、彼女 [浦辺粂子] びいきのフアンを歎かわしく思はせた」
一方で噂の出所が明記されているケースも多く、「どこからそんな情報を手に入れた」と気色ばむフアンを先回りし、保険をかけた書き方になっています。
「「大岡政談」の亂闘シーンで、轉げ廻つて捕り手相手に闘ふはずみに、とんで……い…………て、その珍品ヒルムが今でも大切にオクラになつてゐると、日活の人に聞いた事があつた」
読み進めていくと途中に一ヶ所、伏字にされている個所がありました。伏見直江さんの撮影時のエピソードを紹介した一節で、描写が露骨すぎたために編集部が自己検閲を行ったものと見られます。
スタッフや記者、自称「事情通」や時に俳優本人から情報が漏れだし誤情報、怪情報が相乱れて噂は増幅されていく。ゴシップのネットワークは戦前邦画界も例外ではありませんでした。口コミの時代の話をこれだけまとめてあるのは珍しく、一読すると当時の映画界に対する認識が変わりそうです。
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「映畫界エロ双紙」が面白かったため、同稿を再録した『世界映画風俗史』をデジタル閲覧してきました。
接吻で思ひ出すのは或る雑談會で阪妻プロにゐた西條香代子が、誰だつたかの間に「妾秋田伸一さんとのラブシーンの撮影でキッスするところを撮りましたけれどカットされましたわ」と云つた事で日本映畫にも接吻はある事が證明されたのである。
第四章「日本映畫とその特殊なる作例」
『世界映画風俗史』、小倉浩一郎、風俗資料刊行会、1931年
西條香代子さんは『湖』(1927年4月公開)、『夜の怪紳士』(1927年8月公開)の2作で秋田伸一氏と共演。
邦画史上初のキスシーン登場は戦後1946年の『はたちの青春』(佐々木康監督)とされていますが、公開されなかっただけでその20年前に撮影はされていたという証言です。当時阪妻プロは米ユニバーサル社と連携しハリウッド進出を目論んでいて、国内の倫理規定を越えた試みにも挑戦していたと見ることができます。
他にも論考の切り口に興味深いものが多く、無声映画時代の検閲(第五章第一節「檢閲と切除場面」)と戦前期のポルノ映画(第五章第二節「性的映畫」)を扱った章段は読みごたえがありました。
小型映畫のエロテイクを思ふと、この簡単な、重寶な、しかも大衆的な趣味が普遍化された事から、エロテイスト達は、十六ミリのカメラを怪し気な事に利用惡用し、娼婦藝妓を説きふせ、モデル女を用ひ、或は獵奇街のあちこちに瞬間偶然のエロの曝露を求めて歩き、これ等をこつそり現像して、白幕の再現に一人樂しんだり、同好の士相寄つて鑑賞したりやつてゐるとか聞く。
そしてまた、初めに書いたのぞき式のエロ小品映畫を最近になつて専問に制作發買してゐる小型フイルム社が出來て、相當成績をあげてゐる […]。
第五章第二節「性的映畫」
前掲書
以前に投稿した「仏トリブレ社と1920年代の文芸ソフトコア・ポルノ」と重なる一節。「のぞき式のエロ小品映畫を最近になつて専問に制作發買してゐる小型フイルム社」はおそらくトリブレ社を指しています。昨年、同社の9.5ミリポルノ動画がヤフオクで売りに出されているのを見かけたのですが、情報、フィルム共にリアルタイムで日本に伝わっていたと分かります。