帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [12]
1891年オーストリア・ハンガリー帝国のレンベルク(現ウクライナ・リヴィウ)に鉄道労働者の息子として生まれる。1905年地元の劇場で初舞台、第一次大戦終戦後から俳優活動を本格化させ20年代にキエフを中心に知名度を上げていきます。
同時期に映画界に参入。ウクライナ詩人の半生を描いた『タラス・シェフチェンコ』(1926年、ピョートル・シャルディニン監督)、米作家アプトン・シンクレア原作物『義人ジミー』(1928年、ゲオルギー・タシン監督)で主演を務めました。
元々ウクライナ出身で全ウクライナ寫眞映畫部(VUFKU)との繋がりの深い役者さんでもあります。同撮影所の中心人物であったドブジェンコ監督作に多く出演、1929年『兵器庫(アーセナル)』で演じた笑気ガスを受け笑い続ける歯抜けドイツ兵の役が良く知られています。
VUFKU以外の作品ではエイゼンシュテインの『イワン雷帝』(1946年)に腹心の一人である親衛隊員アレクセイとして登場。
戦後は役者の活動と並行しながら後進の育成に当たり、VUFKUの発展解消形であるドヴジェンコ・フィルム・スタジオでアートディレクターとして活躍しました。
[IMDb]
Amvrosi Buchma
[Movie Walker]
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[出身地]
オーストリア・ハンガリー帝国 (レンベルク、現ウクライナ・リヴィウ)
[生年月日]
3月14日
[データ]
14.8 × 10.5 cm, KINOPECHAT Serie 5 – #A-4711 – Tea-kino-pechat – total print 25000 – Moscow, 1928 (КИНОПЕЧАТЬ Серия 5 – #А-4711 – Чай-кино-печать – общий тираж 25000 – Москва 1928 г. )