情報館・ノベリゼーション [日本]より

(1929, Gotô Taizan & Ishida Tamizô, Tôa Kinema) 1930 Shunkô-dô “Collection Talkie” Novelisation
奥州街道那須野ヶ原の一隅に高い建札が立つてゐる。
建札の下には、生々しい首がさらしてある。
『何です!』
『生首か – 』
『えツ』
通行人が物見高く集まつて騒いでゐる。
『何と書いてあります』
『さうですね、ええと、我等山形在上の山に於て怨敵奥平主馬をうちとるもの也、恥を知らば即刻那須野ヶ原に參れ!つてな事が書いてありますな。奥平源八郎より、奥平隼人へ -』
『へえ、それぢや、これがその主馬という男の首なんですな』
『さうでさうなあ』
そこへ、噂をきいて駆けつけたのは、奥平隼人であつた。
『退け退け』
彼は、その建札を讀んで、建札の下の生首を見た。
擬ふ方なき弟主馬の首。
『さては、してやられたか、無念!』
彼は建札を引き抜いて叩き折つた。
時は寛文。宇都宮藩では重臣奥平隼人(片岡左衛門)と奥平内藏允(市川幡谷)との確執が激しさを続いていた。主君忠昌が亡くなった後に隼人側からの挑発は増し、激高した内藏允は刃を抜いてしまう。両派の対立は市中生活にまで悪影響を及ぼし始め、責任を感じた内藏允は自害して果てた。一子源八郎(市川龍男)とその一門は隼人とその弟主馬(奈良沢一誠)を主敵とみなし仇討ちを決心する。
一方、時を同じくして二人の武士が宇都宮へと流れてきていた。新影流の名手・平野左門(雲井龍之介)と輕部伊織(團德麿)であった。二人とも剣の達人であり腕前をお互い認めあう程であったが、左門は旧知の奥平内藏允を頼り、伊織は奥平隼人の元へと身を寄せることで宇都宮藩の内紛に巻きこまれていく…






1929年に前後編として公開された東亞後期の時代劇のノベリゼーション。奥平源八郎が志を一にする仲間と共に父の仇を討つ物語が本筋ながら、東亞版は仇討に巻きこまれていく二人の武士(平野左門、輕部伊織)に焦点を当てた内容となっています。また平野左門を追って江戸から宇都宮へとやってくる女性3人(原駒子、小坂照子、小川雪子)が登場、復讐の物語に情念とロマンスの要素を付け加えています。この辺は原作となった直木三十五の連載小説版(報知新聞、1929年)を生かした設定です。
前編を後藤岱山、後編を石田民三が監督しているのはJMDb等にも明記されている通り。トーキー文庫版のクレジットページではこれと別に「指揮」として「枝正史朗」の名が見られました。
東亞の末期に制作部長兼監督として在籍していた枝正義郎氏のミススペルと思われます。現在枝正氏のフィルモグラフィーに『仇討浄瑠璃坂』の名はありませんが、翌1930年公開の『天狗騒動記』同様に「総監督」的な役割(監督は仁科熊彦、後藤岱山、石田民三ほか)で関与していた可能性は高いのかな、と。
以前に触れたように澤田正二郎を主演にした『國定忠治』(1925年)は現在マキノ省三監督の作品とされていますが、当時のキネマ旬報では「製作総指揮」の位置づけで、現場で監督したのが金森万象、二川文太郎、仁科熊彦の三名になっていました。クオリティ・コントロールを含めたプロジェクト全体の統括を行う総監督と、実際に演出~撮影を進めていく現場監督の役割分担がされていた、という話です。
[発行年]
昭和5年1月初版
[発行所]
春江堂書店
[編者]
映畫研究會
[フォーマット]
160頁 17.0cm×12.0cm
[定価]
二十銭