日本・男優 より

「悲しき仇討」が處女映画、その後「荒神山の血煙」「殺生村正」の主役をして關西活フアンにもてはやされた。明治二十六年東京 [原文ママ]に生る。本名は矢野正三郎。
『世界のキネマスター』
(1925年5月、報知新聞社出版部)
本名は矢野正三郎。明治廿六年大阪市に生る。四歳にして京都南座で初舞臺續いて永らく舞臺にあり、大正十三年末映畫に轉じ日活入社は昭和三年十一月。澁味ある藝風で主な近作は「戀車」「鬼鹿毛若衆」「股旅しぐれ」等々頗る多數。身長五尺六寸五分。體重十六貫五百目。
『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)


1925年『落花の舞』より月形龍之介、高木新平と並んで(左)と1926年の『鋳掛松捕縛』(右)より
1920年代中盤に東亜で映画デビュー。この時期の同社は阪妻の離脱があったものの高木新平を中心に『南蛮寺の怪人』『傷魂』など話題作を生み出していました。小柄な高木新平と対をなすように体躯のしっかりした豪傑タイプの市川小文治が登場し、清水の次郎長(『落花の舞』1925年)等を演じて評価を高めていったのは分かりやすい流れではないかと思われます。
その後は各社(マキノ御室~小文治プロ~千恵プロ)を流れていく形になったものの、1928年に日活への転籍後は多彩な芸風を生かした渋い脇役俳優のポジションを不動とします。傅次郎の『薩摩美脚』『丹下左膳』や嵐寛の『髑髏錢』、阪妻の『魔像』など現在でも親しまれている諸作に出演し戦前邦画界を支えていきました。
[JMDb]
市川小文治
[IMDb]
Kobunji Ichikawa