1925 – 『ステラ・ダラス』 (ヘンリー・キング監督)2005年米サンライズ・サイレンツ版DVD-R

情報館・DVD & 映画史の館・合衆国 より

Stella Dallas (1925, Samuel Goldwyn Productions, dir/Henry King)
2005 Sunrise Silents DVD-r

地方の工業都市に住んでいるうら若き娘ステラ(ベル・ベネット)は夕刻になるとソワソワとし始めた。難しい本を手に玄関前に立ってはいるが、目は文字を追つていなかった。お目当ては家の前を通り過ぎる青年ビジネスマン(ロナルド・コールマン)。涙ぐましい努力が実りついにデートへと漕ぎつける。青年の名はステファン・ダラス。良家の御曹司であつたが父の急死に伴い故郷を離れこの街にやつてきたさうである。程なくして二人は式を挙げる。だが幸せは永く続かなかつた。価値観の違いから夫婦の溝は深まっていくばかりであつた。

ステファンがニューヨークに単身で赴任、ステラは独り手で娘ローレル(ロイス・モラン)を育てていた。ローレルは美しき少女へと成長していた。しかしステラの悪友で大酒飲みの中年男エド(ジーン・ハーショルト)がその生育環境に悪しき影響を及ぼしていく。ステラとエドの関係が誤解され、噂が広まってしまいローレルは学校で仲間外れにされてしまうのであつた。

ハイティーンとなったローレルには想い人がいた。だが時代遅れの服を着て突拍子もない言動を繰り返す母親を紹介することできなかった。一方でステファンは幼馴染ヘレン(アリス・ジョイス)と再会、復縁し、ステラに離婚を迫っていた。半ば孤立し、心身を病みつつもステラはどうしたら娘を幸せにできるのか考えていく。ある日、意を決したステラは誰にも言わずヘレンに面会を申し込む。ローレル、ステファン、ヘレン、そしてステラ、絡みあう複雑な愛憎はどこへ向かうのか、四者四様の運命の行方や如何に。


最近、一雑誌記者と會食した時、だしぬけに 「今迄にプロヂユースした映畫の中、何をあなたの一番優れた作品と思ひますか」
と言ふ質問を受けた。それに對して、私は、はつきりと「無聲版『ステラ・ダラス』です」と答へた。
「何故です」と彼は尋ねた。
そこで、私は、その映畫が殆ど全ての出演者に、名聲を與へたが故にと答へた。あの忘れることの出來ないステラとしてのベル・ベンネット、當時は殆ど無銘であつたロナルド・コールマン、アリス・ジヨイス、ジイン・ハアシヨルト、ダグラス・フエヤバンクス・ジユニア、その他当時、やつと名をなさうとして居た多くの人々その全てに「ステラ・ダラス」は名聲を與へた。[…] その上、それはすぐれた、誠實な作品だつた。大衆は、その映畫を見て、それをつくるに私が味つた喜びに劣らぬ喜びを感じて呉れた。

「一製作者の想ひ出(2)サミュエル・ゴールドウィン」
「スタア」誌 1938年6月下旬号

『ステラ・ダラス』は「母の愛」を中心に据えた物語で戦前~戦後にかけて三度映画化されています。最も有名なのがバーバラ・スタンウィック主演の1937年トーキー版。日本でもVHSとDVDで市販されていたため、古いハリウッド映画に詳しい方はご存じかと思われます。

最初の映像化は1925年で無声でした。あのゴールドウィンが自身の「一番優れた作品」と自讃する内容であったにも関わらず本国では他の秀作群に埋もれる形で忘れ去られてしまい、長らく見ることができなくなっていました。2005年、米サンライズ・サイレンツ社がデジタル染色版で復刻、同社の活動停止に伴い廃盤となっていたDVDがこちらです。

デジタル版を視聴し、確かに期待していた以上の出来栄えだったのですが、それ以上に作品の印象、理解がガラリと変わったのが驚きでした。

トーキー版は主演女優バーバラ・スタンウィックに焦点をあわせ、主人公ステラに感情移入しやすい構成・撮影になっています。

たとえばトーキー版冒頭、タイトルがフェイドアウトすると同時に映し出されるのはステラ(スタンウィック)のミドルショットです。意中の男性の気を引こうと家の前に立っている場面で、見る側も彼女の想いがどのような物語を生み出していくのかを意識して展開を追っていくことになります。

一方のサイレント版は後にステラの夫となるステファン(ロナルド・コールマン)の青年時代で始まっています。父親が不幸な死を遂げたため将来を誓いあう仲だった幼馴染(アリス・ジョイス)との別れを余儀なくされるエピソードで、一連の出来事が一段落ついた後にステラ(ベル・ベネット)が登場、現在は田舎町で働いているステファンの気を引こうとする…の流れになっていきます。

作品が進むに従って、方向性の違いははっきりとした形を取ってきます。

無声版では個々のキャラクター(ローレル、ステファン、エド、ヘレン)が立っていて、ステラもまた群像の一部として扱われていくのに対し、トーキー版は一貫してステラの言動を主に追っており、他の登場人物の扱いは控えめになっています。1937年時点でスタンウィックはハリウッドを代表する大女優の一人でしたし、その存在感は本作でも共演俳優たちを霞ませてしまう程でした。脚本や演出もそういった方向性を後押し、言い方を変えるとトーキー版はステラをやや美化する傾向を見せています。

愛情はあるものの、自身の無配慮な言動で娘に悪影響を及ぼしていてなおかつそれを自覚できない…無声版の設定やディテール、文脈を丁寧に追っていくと『ステラ・ダラス』に「無自覚な毒親の物語」が隠されているのが見えてきます。物語後半はステラがようやく現実を認めて娘離れを決意、元夫の再婚相手ヘレンとの直談判に向かう流れになっていて、前半に張り巡らされていた伏線がここで回収されていきます。

トーキー版ではこの「毒親」が上手く表現できていませんでした。母娘の対立する展開は含まれているものの、ステラ=スタンウィックをネガティブに描くのを避けているため世代間、価値観の対立程度にしか見えてこないのです。スタンウィックなりに悪しき母を表現しようと頑張っている様子は伝わってくるのです。ただ素材があまりに綺麗な上、全盛期のキラキラしたオーラが漂っていて「化け物(freak)」と形容されても説得力がないんですよね…結果として最後の決断に至る流れに破綻が生じ(=前半の伏線の多くが機能していない)、やや強引にベターエンド(決して豊かとはいえない女性がシングルマザーとして苦労しながらも最後は自らを犠牲にし娘の幸せを実現する)で終わらせた感が出てしまっています。

一方で無声版のエンディングはやや暗い調子を帯びています。前夫は再婚相手と新しい人生を踏み出し、実の娘がそこで幸せになっていく。娘を幸福にできた満足感を覚えてはいるもののステラ自身には何も残されておらず、社会の底辺に埋もれひっそりと消えていく…主人公が自己犠牲を引き受ける展開を真正直に描くとこうなるのでしょうが受ける印象はバッドエンド寄り。

ヒロインだけが不幸せに終わる奇妙な物語ながら伏線が上手く機能し、現実社会の過酷さとも整合性がとれており納得できる結末ではありました。とはいえメロドラマとして見た時にやや後味の悪さが残るのも事実です。

無声版、トーキー版共に一長一短があり、異なった時代に異なった技術で撮られた作品でもあってどちらが上とは一概には言えません。ただ、少なくとも日本では無声版の方が評価が高かったようです。

映畫「ステラ・ダラス」は、封切後既に三年餘になるが、未だに何かとその噂が絶えない程、色々な意味での名畫であつた。

先づ第一に、此のストーリーが、如何にも日本人の我々に親しめるものだつた、そして脚色・監督・俳優が揃つて、非常に緊張した技を振つて、各々が十分な成功を見せてゐた。

「映畫『ステラ・ダラス』」古川綠波
「改造社文學月報」第八号 昭和三年十一月十日発行)

小説版『ステラ・ダラス』の附録冊子でロッパ氏がこんな回想を残しています。映画批評家(森岩男)、作家(菊池寛)がこぞって好意的な評を残し、母娘物の古典として後年の映画評などにも頻繁に名前が登場。製作者(ゴールドウィン)、脚本(フランシス・マリオン)、演者やスタッフらの創意は本国以上に日本で響いていたように見えるのです。当時の国内の愛好家の目の肥え具合、そして良い作品を語り継いでいく姿勢に今更ながら驚かされた次第です。

[Movie Walker]
ステラ・ダラス

[IMDb]
Stella Dallas