ナピエルコウスカより
1923年春、仏シネミロワール誌にナピエルコウスカによる自伝的文章『回想録』(Mes Souvenirs)が3回に分けて掲載されました。フェデー作品で女優活動を本格的に再開させたナピエルコウスカが新たな映画フアン層に向けこれまでのキャリアを総括した内容です。プロモーショナルな意図も垣間見えるものですべてを鵜呑みにはできないとはいえ、それまで非公開だった情報が多く含まれており一読に値すると思われます。
ナピエルコウスカは1945年に亡くなっており、フランスでの著作権の保護期間70年を経過しております。邦訳に関してはクリエイティヴ・コモンズ扱いとします。
ナピエルコウスカ亜細亜のスクタリを想ふ
まず私は一つの伝説を覆すことから始めねばなりませぬ。「歴史に入るにはまずは伝説から」と古来の物言いにありますし、心苦しさを覚えない訳にはいかないのではありますが。自分の名の横に「露西亜生れの踊り子」と書かれているのをこれまで幾度見てきたでしょう。ところが私はパリのセーヌ通り43番地に生を受けたのであります。シネミロワール誌の皆様に隠し通せるものではございませぬので委細を包み隠さず申しあげますと、1896年9月16日の出来事でありました。とはいえ生まれ故郷に留まっていたのはごく僅かな時間。と云ふのもポーランド出身の父がトルコにある芸大の長に任命されたため、生後2か月にして私は船路でスクタリに旅立ったのであります。私の天職を定めたのはこの旅で御座いました。遙かなる亜細亜への長旅なかりせば、踊子に、ひいては活動寫眞の俳優になろうと決して思ひ至らなかつたでせう。
スクタリでの私は終生を共にする二つの情熱、東洋と舞踏に囚われることに相成りました。私の目に、スクタリはいつまでも千夜一夜物語の町として映り続けています。地元のガイドであれば「コンスタンチノープルの外れの一画」と云ふでせう。実のところ、あの町はトルコ帝国の首都より亜細亜の雰囲気を湛えております。アラブとペルシアの広大な砂漠へ抜けていく扉であり、幾つもの民が交わる交差点で御座いました。幾つもの丘の傾斜に段々と積み重なり、広がる緑にモスクの尖塔をそびえさせた夢の街として今でもまざまざと目に浮かぶのです。私が歩けるようになるとすぐ、路地を抜け遠くまで父と一緒に散歩をしたものですが、子供に駱駝、犬が陽気な一団となって路地を歩いていました。何度となく家を抜け出し、絶叫修行僧がクルクルと回る様子、蛇使いのうねうねとした動きを何時間も見つめていたものです。友達といるのに飽きてしまった時など白い鳩の沢山とまった糸杉立ち並ぶ擴い墓地で一人遊んでいました。さうなのです、私が今もなお憑りつかれていように感じるこの東洋愛に目ざめたのはスクタリでありました。老蛇使いのやうに、重くひやりとした蛇の腕輪をしていると喜びを感じるのでございます。良きイスラム教徒がさうであるやうに、私もまた常に犬、鼠、猿そして鳥たちと共に生きてきたのです。
先に申し上げましたやうにスクタリでは舞踏への愛着にも目覚めたのでございました。その経緯はと云ふと、母がさる有力な方々の御殿にお邪魔する機会が多かったもので、当然のやうに私もお供したので御座います。後宮に入ることも許されており、私は婦人の皆様方にとても甘やかされておりました。誰を見ても他の方々より綺麗なのではと思わされる美しさです。色絵のほどこされた陶器で飾りつけされ、大理石の敷石に最上級のペルシア絨毯を敷いた広大な部屋は陽気さで満たされておりました。鳥籠もかくやの具合に私たちはおしゃべりをして過ごしました。後宮の美女たちが果物や薔薇味の砂糖菓子を持ってきてくれ、私に踊りなさいと促したのでありました。その踊りは皆さまを喜ばせたやうでした。美味しいお菓子が貰えるものですから私もまた喜んで躍ったのでございます。アルジェリアで、モロッコでの巡業の最中に、あのスクタリの後宮で初めて踊った時のことを幾度思い出したことでせうか。白い尖塔、黒い糸杉を夢でみることもしばしばでございます。今尚、昔を懐かしく思い出すときにあの想い出が私を眠りに誘うのす。
ナピエルコウスカ踊子になる
とはいえこの仕合せな幼年期は長くは続かない定めでありました。六歳の折に両親と共に仏蘭西へと戻って参りましたが、程なくして我が家に不幸が見舞うことになります。父が亡くなったのでございます。私が十二の時でした。どうすれば良いのでしょう。生計を立てねばならなかつたにも関わらず、手につけた職が何もなかったのです。私はモデルとなり、父の友人であつた画家たちの前に立ちました。「パリ高等音楽院に入学し、舞台の道を歩んではどうか」、その方々に言っていただいたのですが私の回答は否でございました。舞台はどうも恐ろしうございました。あまりに喧しいというのが私の印象で、騒々しさは以前から苦手なのです。そこでオペラ座の舞踏の教室に入ることに致しました。しかしながら初日から失望の憂き目にあう羽目に。あそこで教えられている学究的な内容であるとか、義務づけられていた柔軟体操は私の気性と相容れないものだつたのです。踊ることが心底嫌になり体調を崩してしまったのでした。病み上がりの私の元に母の友人たちが見舞いにやってきて、気分転換にと音楽を奏でてくださいました。舞踏だって音楽や絵画に匹敵する繊細な情感を与える藝となりえるのだ、あの時にそう思い至りました。
かくして私は幼き頃に覚えた踊りに思ひを凝らすに至りました。ただ自分自身の愉しみとして、心の内に或る東洋の情景を見様見真似で表現してみたのでございます。
或る日、私の試みを目にした友人の彫刻家がこう仰っておりました。「東洋を懐かしく思はせるような魅力を湛えた、さうして貴女が自分自身の夢を焼きつけたかういつた感じの舞踏を創つていきなさい。それなりの成功を収めると思ひますよ」と。私の進むべき道が見つかったのです。オペラ・コミーク座、オデオン座で舞を披露、十四歳にしてエトワアルの称号を頂きました。映画に初めて出演させていただいたのもこの時期で御座いました。
舞踏について長々とお話してしまいましたが、それと云ふのも私にとって映画の仕事と舞踏のそれとはどちらも譲れないもので、持ちつ持たれつの形になっているのです。
かくして十四歳の折で御座いました。トレヴイルと云ふ優れた俳優が、或る夜の私の舞踏を見終えた後、単刀直入にこう尋ねてきたのです。「映画に挑戦してみる気はありませんか。成功するのではないかと思うんですよね、貴女は大きな評判を呼びさうな気がします」。
ナピエルコウスカ活動女優となる
「大きな評判」は結構なことです。とはいえ私にとって映画とは大きな疑問符に似た未知のもので御座いました。何はともあれ好奇心からそのお話を受けさせていただきました。『波乱万丈』なる作品に出演と相成ったのでございます。まだ若く、實際の経験がなかつたにも関わらず三児の母親を演じなくてはなりませんでした。赤子を抱かされてもどうあやして良いやら皆目見当もつきません。ところがそれは大事では無いようなのです。何はさておいて撮影機を見なくてはいけませんでした。それ以外のことは考えずに演技をしなさい、さう言はれている氣がしたものです。「撮影機を見てください」、周囲の皆がそう言ってきました。当然そう云ふものだ、と私もとうとう諦めてしまいました。その後私は名優アンリ・クラウス氏がその卓越した技藝を披露した一作、『ノートルダムの傴男』のエスメラルダを演じました。また『天賦の才の星』ではうら若き花売りの娘として[ガブリエル・] シニョレ氏とご一緒させていただきました。大戦の始まる前の私の映画初出演でございます。今となってはとても懐かしく思われます。仲間同士が互いに協力しあい良くしあい家族ぐるみで仕事をしている気がしたものです。戦争がすべてを變えてしまいました。
ナピエルコウスカ兵士から手紙を貰ふ
あの時代は素敵でした。また当時の映画は擦れていない觀客向けに作られていました。目にしたものをそのまま信じてしまう。流れていく映像が本物だと疑いもせず、甘美で抗いがたい影響を直に受けてしまうのでございました。
大戦中に私は一通の手紙を受け取りました。『ノートルダムの傴男』の私を見たという兵士さんで、墺太利から送られてきたものでした。映画の感想を一通り述べた後、「貴女こそ私の相続者であります。母の没後、貴女は三十万クローネ相当の財産を相続するでしょう」。私のような職業の者がこの樣な手紙を受け取るのは常であり、普段であれば一瞥だにしないのでございます。
ところがこの手紙は検閲が入り、通過してきたあちこちの役所の跡が残されておりました。勿論、この墺太利兵のその後については何一つ存じ上げてはおりません。戦火を逃れ、舞台愛好家たちの皆様がそうであるように健やかに暮らし、奥様と一緒になり子宝に恵まれていてほしいと切に願っております。神様の御加護がありますように、と。映画に出演するたびに私達俳優に届く手紙なぞ、多くの方には興味のない話で御座いましょう。中にはクスリとさせるものもあれば、先の墺太利兵のやうに心に染みてくるものも含まれております。さういった手紙には出来るかぎりご返事をさせていただいております。くだらない内容や、不謹慎なもの、さらには罵るような手紙などは、それなりの軽蔑で対応いたしております。自分の評判、名聲には常に気を使って参りました。舞踊の際も、その技藝が道徳に与える影響を常に心に留めているのでございます。だからこそ、戦前にある伊太利の新聞社相手に裁判を起こしたりもしたのです。同紙の一記者が私の舞踏を分析し「ふしだらな女」と決めつけたのでございました。これ以上の侮辱が他にあるでせうか。私はこの異国の新聞社を名誉棄損で訴えたのです。巴里で行われた裁判で勝訴し、伊太利の日刊紙に1万フランの賠償金が課されました。また国内外の十の新聞にも判決の旨を記した記事が載ることになりました。この出来事をお話しさせていただいたのは藝事で身を立てている、あるいは将来立てたいと思っている方であれば自身の評判にどれほど気を使っても使いすぎることはないとお伝えしたかったからです。この評判が人々に、世に影響を与ふのであります。私が訴えを起こしたのは、私が戦いを好んでいるからでもあります。天命にひたすらひれ伏し、せめて足掻くこともせずに宿命を耐え忍ぶなどはどうも納得がいきませぬ。
ナピエルコウスカ亜米利加に向かふ
また大戦が始まる直前、未発表の舞踏をひとまとめに披露するため亜米利加を訪れた際、フエミニズムがどういったものか思い知らされる羽目になりました。ロレエヌ号に搭乗した處、幸運にも体も心も水夫並に丈夫だった私は船酔いにはまるで縁がございませんでした。甲板に立つていられた女性客が私ただ一人だったので猶更で御座います。胃腸を壊し、船室に閉じ籠らざるを得なかった他の女性客の皆様を思ふと…何やら意地悪な心持ちにもならうと云ふものです。あの当時、フオツクストロツトやタンゴの大流行はまだ始まっておらず、お婆ちゃん世代のワルツが当たり前でございました。甲板でバレエを披露させていただいたところ、ほかの乗客も見様見真似で飛び跳ねたり身をよじったりと楽しませていただきました。紐育で下船した時にはこの上なく上機嫌で、この地では良い事ばかりが起こると思いこんでいました。まさか米裁判所に出廷するなどとは露ほども考えてはおりませんでした。
ところが二千五百萬フランの巨費を費やし完成したばかりのニューヨーク・パレス劇場でそのまさかが起こつたのでございます。私は「女囚」というバレエに出演することになつておりました。砂漠でアラブ人の一団に囚われた姫君が私の役どころです。解放してくださいと族長に懇願すると「ならば蜂の舞を踊れば解き放つてやろう」と云ふのです。パレス劇場の当時のプログラムでは次のやうに描かれておりました。「踊り子が一輪の薔薇を手に取つたところ一匹の蜂が隠れていた。姫君は周りを飛び回る目障りな蜂を追い払おうとした。捕まえたかと思うとまさにその瞬間に蜂は逃げ去ってしまう。刺されるかもしれない、姫君は怖くなってヒジャーブを外したが手遅れであつた。刺された痛みに身をよじり、着ていた服を脱ぎたいと思うのだがアラブの人々の前で肌を見せるのに羞恥の心を覚える。あまりの激痛に姫君は正気を失い砂に倒れこむ。解放してくださいと頼むのだが聞き入れてはもらえなかつた。蛮族の長に襲われそうになつた姫君は火を放った野営地を抜けて命からがら逃れ去る」。かのような舞を全身全霊で披露させていただきました。あの蜂が意地悪な運命をもたらしてくるなど夢想だにしておりませんでした。
ナピエルコウスカ訴訟に勝利す
お客様の反応は風変わりなもので正直とても当惑しておりました。なんと口笛を吹き始めたのでございます。聞くところによるとこれが亜米利加流の讃え方なのだそうです。映画の上映時に口笛を吹く権利を求めている方がおられますし、その話を思い出さずに居られませぬ。活動俳優については全く話は違ってくるのではないでせうか。あくまでも繪として登場しているに過ぎないのでございますから。とはいえ舞臺劇となるとそうも参りませぬ。
話が逸れてしまいました。合衆国での出来事に戻りませう。宿に戻ると一通の召喚状が届いておりました。ウエストサイド裁判所のレヴイ判事の元に出頭せよとの旨、マカフエルテイ氏とフリトン氏と云ふ二人の刑事の訴えに基づいたものだとか。「『女囚』の踊りは確かに日曜学校の演芸会で披露されるやうなものと異なるとはいえ、刑法1530条に違反しているとは思わない」、判事樣にそう仰って頂いた時は胸を打たれる思ひでした。
でも目の前には警官二人がいて、何とかして私を罪人にしようとしているのでございます。はたして私の命運や如何に。
其の壱・完 (初出 シネミロワール誌1923年4月15日付第24号)
私を弁護しようとしたマネージヤーの言葉には熱がこもっておりました。スポーツになぞらえる形で畳みかけていつたのであります。ダンス界での私は、マリー・ガーデン孃やイザドラ・ダンカン孃、故ギャビー・デリス孃に匹敵する駿馬なのだぞ、と。またフランスではオペラ・コミーク座やオペラ座ではエトワアルとみなされそれ相応の扱いを受けているのだぞ、と。再度競馬の例えで言うならこれで私が数馬身のリードを奪ったのでございます。でも最後に私を救ったのはフリトン刑事その人でした。氏は法廷で私がどのように踊りどのような衣装を着ていたのかを語りました。薄着過ぎる、とのこと。次いで演目がどんな内容であつたか傳えようと私のダンスを真似し始めたのです。ピッチリしたフロツクコ-トを着たまま幾度となく身をくねらせ、右腰を上げたかと思うと今度は左腰を…と滑稽な体操を始めたのです。突然悲鳴が上がりました。私の無念を晴らすかのやうに持病の腰痛がぶりかえしたのでございます。フリトン氏は実演を最後まで終えることができませんでした。審理はお仕舞ひとなり、傍聴席からは笑い声。裁判官は私の無罪を宣告し、お開きとなつたのでございました。
ナピエルコウスカ聖林の撮影所を訪れる
撮影所を訪れずに紐育から歸る訳には参りません。大きな映畫會社の監督から興味深いご提案を受けていたので猶更です。「女囚」の舞踏でマカフエルテイ氏とフリトン氏が私を非難したのは素足で踊つたせいでありました。まったく他愛のない見世物ですのに不道徳の極みと見て取つていたのです。晴れて無罪となつたおかげで味方が増えましたし、道徳のあるのは何やら私の方とまで。合衆国では常々重きを置かれている「時の人」として撮影所に招かれたのでございました。私の脚を撮影したいとのこと。二人の警官をあれほどまで動転させた私の脚をでございます。米國での映画会社の組織力の凄さは何度も賞讃されてきたものですが、私が目の当たりにしたのは想像だにしていなかつた光景でございました。
眩い工場を思い浮かべてください。人々はそこで文字通りスタジオライトの日光浴をしているのです。眩さに目がくらみ一歩も踏み出すことができない。そして周りでは他に類をみない活動が繰り広げられているのでございます。2、3人の監督がメガホンで指示を出しながら一つの映畫を同時に撮影しています。俳優、エキストラ、モブシーンの参加者数百人の集団が物音ひとつ立てず、完璧な秩序を守りながら動いています。知性に満ちた、そして厳密な手法に基づいた組織化が大勝利を収めているのです。あらゆる作品の撮影前に、専門家が事細かな細部をチエツクしています。何と素晴らしいのでせう。その場しのぎ、臨機応変の精神で飽くことなく進歩を続け、美しい作品を沢山残してきたフランス流の遣り方を悪し樣に言いたくはございませぬ。それでももっと用意周到に事を進めていけば時間もお金も節約できるのではと考えてしまうのです。午後一杯、ひどい時には丸一日中、他の役者と共に何もせず過ごした経験が何度もございました。必要だったはずのアクセサリーが、家具が足りないだったり、予期していなかったアクシデント発生がその理由です。そして合間にも経費はどんどんと膨れ上がっているのでございます。米國流の遣り方を丁寧に分析し、そこから学べるものを学ぶのであればフランスは素晴らしい成果を残せると思います。教会、宮殿、中世やルネサンス期の遺構、多彩な景勝地…欠けているものは何一つございませぬ。仏蘭西は映画の生れ故郷ではありませぬか。
ナピエルコウスカ、スペインとイタリアに滞在する
戰亂の前に私はマックス・ランデ氏と共にスペインも訪れました。バルセロナで『戀する足治療師』(Pédicure par amour)と云ふ短い喜劇物を一緒に撮ったのです。ランデ氏は瞬く間にスペインっ子のアイドルとなりました。バルセロナで、マドリードで、氏が姿を見せるだけで熱狂的な拍手が沸きおこります。駅にランデ氏の肖像が飾られていた程でございます。それ程の成功を収めたにもかかわらず、ランデ氏の人の良さは変わらないままでございました。氏が役者仲間で一番のチヤームの持ち主、一番素朴な人物であるのはこれからも変わらないでしょう。
その後戰亂となり、私はパテ會社との契約を交わしました。しかしながら皆出征してしまい撮影所は空でしたので巴里での撮影は出来なくなつておりました。そこでパテ社は当時まだ中立を守つていたイタリアで私の作品を撮ろうと考えたのです。羅馬に辿りついた時の私の喜びはひとしおでございました。大好きな街で旧友も多くおりました、また私は伊太利語もできたからです。同地では『光の加減で』『王妃エロディアードの娘』を撮りました。でも演出の豊かさ、風景の美しさどちらも兼ね備えていえる点で『カリギユラ』が一番で御座いましょう。
大いなる魂の苦しみ。詩人の熱意で撮影にも顔を出していたジャン・カレール氏の原作と同様、映畫も古典となつた一作です。私は女奴隷エグレの役を頂戴いたしました。カリギユラ帝により、その追従者と開放農奴の餌食にされてしまう役でございます。獣の前で舞を披露もいたしましたが、率直に申し上げますと私と一緒にいた時の獅子達は我関せずの高貴な雰囲気を漂わせておりました。明らかに人を見て態度を決めている樣子。人と獅子は深き溝で隔てられておりますが、獅子はそれを一飛びで越えてしまっていたのです。でも獅子はだからどうしたとで言いたげな気だるい、黄ばんだ目つきで人間を見つめていたのでございました、
伊太利滞在は私の映畫女優人生で最良の一つに数えられるものです。才能豊かで魅力的、気遣いのできる俳優たちと共にシエーナ、ペルージャ、ナポリ、ソレント、ミランといつた街で撮影を行いました。紛れもなく妙なる共同作業で、私は記憶と心の片隅に[ウーゴ・]ファレナ氏を筆頭とする監督や、ルチオ・ダンブラ氏など他の伊太利の方々の想い出を留め続けているのです。伊太利での仕事はとてもやりやすかったのですが、というのも彼の地では合衆国同様、各人が何をすればよいかはっきり分かっていたからでございました。撮影が始まる随分と前に脚本を渡されるため余裕をもって研究することができました。今言ったようなやり方の例は、他の場所でも採用されてしかるべきであると思われます。時に私は映画の仕事を離れ舞踏に関わることもございました。或る日、伊太利の王侯の方々の前で舞を披露する光栄に浴したのです。舞が終わった時にハンケチをなくしたのに気づき、探していたところ「何か気がかりでも?」と女王よりお尋ねがありました。何を探しているのかを知った女王は「こちらを差し上げましょう」と小鞄から刺繍の入った薄地のハンケチを取り出したのです。伊太利王家からの贈り物は私の自慢で、今でも大切に保管しております。またローマではジェルマン・デュラックと知り合いになりました。彼女が監督業を始めたのが伊太利で、これまで上映された最も独創的な映画を幾つか同地で残しております。
ナピエルコウスカ『女郎蜘蛛』に主演す
ようやく『女郎蜘蛛』に辿りつきました。ピエール・ベノワ氏の長編をジャック・フェデー氏が監督したこの名高い映画に私が如何にして出演することになったのか。顛末をお話していくと幸運と云ふのは最も予期していないタイミングでやってくるとお判りになるかと存じます。一九二〇年三月、私はコートダジュールでの舞踏興行を終え、その結果にとても満足し帰途につきました。次の契約を待ちつつ巴里に戻ることにいたしました。と申しますのも私が心からくつろげるのは、亡命中の東洋人女性が住まう静かな一室、あのアパルトマンだけであったからでございます。足音を消し去る深い絨毯、黒檀の玉座で夢想中の仏像たち、漆塗りされた赤と黒の古い調度品…己の魂、スクタリを懐かしく想う魂を再び見出すにこういったものが必要なのでございました。巴里への帰途、客室で軽食を取ろうとしていた(食堂車で食事するのはどうも)ところ、突然、私の急ごしらえの食堂につむじ風の如く一人の男性が飛びこんできたのでした。
「貴女がナピエルコウスカ孃ですか」
「だと思いますけれど」
「嗚呼!良かった、貴女をずつと探していたのです」
「お言葉痛み入ります」
「アンティネアになりたいですか」
「はい?」
「アンティネアになりたいですか」
言葉を失い、何やら怖くさへなつてきました。
「一体全体どなた様でせうか?」
「『女郎蜘蛛』を監督することになつたフェデー氏の配役責任者であります」
「一足遅れたようですね。ニースの新聞で、その役はミュジドラ孃に決まったと読みました」
「いや、それが違うんですよ。アンティネアは貴女です」
頭がボオッとなって参りましたが、取りも直さず巴里に着き次第『女郎蜘蛛』の製作会社に顔を出しますと約束いたしました。仏蘭西映畫として最大の成功を収めることになる作品で、私がアンティネア役を演じる僥倖を得たのはかくなる次第でございました
勿論ベノワ氏の小説は存じておりました。精読に精読を重ね、アルジェリア行の船に乗った時にはアンティネアが銀幕でどう描かれるべきか自分なりのイメージを膨らませておりました。私にとってのアンティネアは厳かで物静か、物事を顔に出さない、西欧人にはいつも謎めいて見えるスフインクスのやうな女性です。ベノワ作品の女主人公についての私見でございますし、フェデー氏がアンティネアをより私達に近しい、悩める人間として劇的に表現したのは間違いではなかつたと考えております。私の想像したアンティネアでは謎が多すぎ理解しがたかっただらうと思ふのです。また『女郎蜘蛛』のお話の前に一つ断言させていただきとうございます。撮影での幾多の困難を思いあはせると、熱意と知性、自身の情熱を共感させる力を備へたあのフェデー監督でなければ『女郎蜘蛛』を映畫化するのは不可能でしたでせう。
ナピエルコウスカ、アルジェリアの地に立つ
アルジェリアに上陸したのは復活祭の日でございました。一日の滞在のはずが四日留まることに。撮影用衣装に不備があつてアルジェに足止めされたのですが、今となってはむしろ感謝しております。何よりまず港の賑わいに驚かされました。これほどの量の石炭を積み下ろす港とは思っておりませんでした。またこの小休暇を利用して、アルジェの旧市街に位置するアラブ人街カスバを訪れてきました。記憶の片隅をつついてみればカスバにはかつて幾つもの宮殿、豪邸のみならず、13の大きな霊廟、109の礼拝堂、32の鐘楼、12の修道場、数百の噴水・水泳場・湯治場があつたと思い出すでしょう。実際に目の当たりにしたカスバは此の世で最も絵画的な美しさを湛えた街でございました。細く規則性のない道が気まぐれに、好きなように続き、互いに無暗に横切りあっている様子は謎めいてすらいるのですが、彩色された店、壁に埋めこまれた店舗が花や果物を豪華な物売台に並べ売っていて、好奇心をくすぐられる魅力を秘めておりました。小さなロバが棺を積んでいたり、ムーア人女性がヴェールに身を包んでいたり、空色をした毛織物のドレスを着た黒人女、体格の良いモロッコ男、猫のように俊敏な動作のカビール人、巨大な鳥の羽のように縁を波打たせた帽子姿の羊飼い…小道の角を曲がった時に何と出くわすか予想もつきませぬ。私がカスバから持ち帰ってきたのは「かつての栄光の陰に微睡んでいるイスラム」というこの上なく錯綜したイスラムの世界像でございました。
ナピエルコウスカ「砂漠の舞姫」に会う
とはいえアルジェに長居している訳には参りませんでした。取り急ぎ列車に飛び乗りビスクラに向かいます。アルジェリア南部への玄関口となっている豊かなオアシスの街で、言うならばサハラ砂漠のモンテカルロでございます。
この魔法の町を発見してからというもの英国人がコートダジュールに見向きしなくなりビスクラを訪れております。然しながら私の関心は町から一キロ程北に位置するベルベル人の村とそこに住む部族ウレドナイルにありました。踊りを生業とする者として「砂漠の舞姫」に是が非でも会っておきたいと思ったのです。踊り子たちは通り単位、しばしば家単位で集団となつており、中庭に向いた窓のある一つの部屋で共同生活を送っております。ゆつたりしたチュニックをまとい腰に絹のスカーフを巻きつけ、足首には大きな足輪。この足輪は円錐型の銀細工や半球に研磨された貝殻で飾られておりました。手首には幾重もの腕輪。何より特徴的なのが頭部の飾りつけで金箔を散らした絹の冠を頂いています。左右に垂らした三つ編みの髪を渦のように束ねて耳を覆い、両耳に大きな耳飾りを垂らしておりました。
特記すべき点として、この踊り子たちは十分な蓄えができると部族の元に戻り、結婚して貞淑な生活を送ったそうでございます。
其の弐・完 (初出 シネミロワール誌1923年5月1日付第25号)
ナピエルコウスカ、アルジェリアのトゥーグルトを訪れる
その後私は先に出発していた俳優仲間たちとトゥーグルトで合流いたしました。途上、奇妙な光景に何度も遭遇したのでございますが、中でもテマシンでは一日に一度しか食事を取らず、深さ43メートルの井戸の底に潜り、5分以上息を止めることが出來ると云ふやせ細った素潜りの男たちを眼に致しました。テマシン在住のイスラム教指導者からは23品からなる身内向けの昼食を振舞っていただきました。ですが当の指導者様はその場にはおられませんでした。キリスト教徒と接してはならないとお上からの命があったそうでございます。
トゥーグルトに到着した時、餘の熱気で私は病に伏してしまいました。ひどい発熱をなんとかしようと、屋根を貸して下さっていた男性がお医者様を探しに出られたのです。しばらくするとその方は魔術師を連れて戻ってきました。どれをとってもひどく汚れているお守りを山のように抱えておりました。そのお守りを何としても身につけさせようとしたのでございます。私が全身全霊で拒否したため、魔術師は信じられないと言いたげな表情をしておりました。
かくして、トゥーグルトで同僚と再会を果たしたのでございます。女奴隷タニト・ゼルガを演じたマリー・ルイーズ孃、士官モランジュを演じた[ジャン・]アンジェロ、サンタヴィを演じた[ジョルジュ・]メルシオール…俳優は25人いて、大半は巴里からやってきておりました。他にヒトコブラクダを引き連れた60人ほどトゥアレグ族がおり、またフェデー監督が地元で集めてきた疲れ知らずの現地人一団がいたのでございます。実を申しますと、撮影隊がやってきたことで現地は大騒ぎになっておりました。キャラバンの隊列が近くを通っていくたびに、私達の撮影をイスラムへの冒涜だと見ているようでございました。丘の上に住んでいる裕福なアラブ人の方々に丁寧に接していただいたにも関わらず、一部の不作法者は私達の氣が逸れているのを見計らい、撮影用カメラを壊そうとしたのです。でもカメラマンたちが氣を張って見張っており、侵入者を乗馬用の鞭で追い払っておりました。「空の一部を映像で盗むのはけしからん」、襲ってきた者の一人の言い草がこれでございました。
トゥアレグの民、ラクダたちと共に五十日間ほどトゥーグルトに滞在いたしました。その時の委細を聞いていただければ偉大な映画監督ジャック・フェデー氏がどれほどの困難に遭遇することになったかご理解いただけるかと思います。たとえばラクダに乗った兵士の一団は決められたタイミングでアクションに沿って展開し戦闘に参加、列をなして動かなけれななりませぬ。また広大な砂漠ではカメラが捉える範囲はしばしば数キロメートルに及ぶこともございました。こういった場合、通常ですと野戦電話を使い各々の集団をつないで現場監督同士でやりとりするのが常でございます。ところがあの時は野戦電話を使うことができませんでした。線の敷設された砂の温度が高すぎた爲、絶縁体の處が溶け出してしまい、電流が流れなくなつてしまったのです。そのため馬に乗った伝令士や信号を使わなくてはならず、しかも指示が上手く伝わらなかったりきちんと実行されなかったりで、木陰でも45度はあろうかと云ふサハラ砂漠の中で同じ場面を幾度と撮り直しせねばなりませんでした。
ナピエルコウスカ、アルジェリア東部のオーレスを訪れる
トゥーグルトで砂漠の場面を撮影し終えた後、私たちはアルジェリア東部のオーレスを訪れ野生の壮麗な景色を堪能してまいりました。楽しいやら驚きやら様々でございました。或る晩のこと、ムネッシュと云ふ町で楽しくお茶をしていたところ突然一発の銃声が鳴り響きました。續いてもう二発、直後に銃を担いだ現地の男性が現れセネガル人の仲間に合流、落ち着いた様子で腰を下ろし、こう申したのでございます。
「妻と浮気相手のキリスト教徒を殺してしまつた」
男の言葉は本当でございました。至近距離で撃たれた男が横たわっていて、その傍ら、片腕を折られ、両の太ももを撃ち抜かれた女性が痛みにも関わらず嘆き一つこぼすことなく、固まったように座っていました。
また私がセギール・ベン・シェイク氏と一緒にあわや溺れ死にしかけたのも同じムネッシュでございました。ベン・シェイク氏は二人の士官をアンティネアの宮殿に案内し、結果的にその破滅をもたらす役どころを演じた一流俳優です。この人物をアルジェで発掘してきたのがフェデー監督でした。アラブ人向けの小さな喫茶店を経営しており、「右手の指が一本欠けているから」との理由でフェデー監督の目に留まったそうでございます。日当が幾らだつたか知りませぬがいつも「辞めさせてください」と言っていたのを覚えております。
「帰らせてくださいませ」、そう監督にお願いしておりました。
「十分に稼がせていただきました。遅くならない内にアルジェに戻りとうございます」
賢人セギール・ベン・シェイク、あの日貴方は私同様、此の世の様々な物もろとも危うく命を落としかけましたね。私たちは一緒にムネッシュの洞窟を訪ねようとしていたのです。そのためにエル=アビッド川を渡って川沿いに進まなくてはなりませぬ。ところが彼の地にてしばしば見られる驟雨をすっかり忘れており、それが突然やってきてしまったのでございます。川は数分でみるみる増水、山肌から石がどんどん落ちてまいります。万事休すと思われました。幸運なことに私たちがいないのを不安に思った俳優仲間たちがやってきて、準備していたロープでベン・シェイク氏と私とを助け出して下さったのでした。
ナピエルコウスカ、ヒラム王の気まぐれに悩まされる
アンティネアの宮殿は著名な画家マニュエル・オラツィ氏によってアルジェ郊外の採石場に再現されておりました。ですので『女郎蜘蛛』のため再度アルジェに戻ることになったのでございます。今度の撮影に難しいことはなく良い思い出ばかりが残りました。唯一の例外が気まぐれなヒラム王でございました。ご記憶されていると思ひますが「ヒラム王」は残酷なアンティネア女王から片時も身を離すことのないチーターの名でございます。
ピエール・ベノワ作品を正確な資料考証で映画化しようとチーターを探したのですが見つけることが出来ませんでした。代わりにオオヤマネコで満足することに。チーターと比べると穏やかな動物だとも言われております。
ところがヒラム王は私の肌を噛んでくるので足が傷だらけになってしまいました。とは申しましてもこういった話は素晴らしい思い出を私に残してくれたこの仕事につきもののささやかなハプニングでございます。アルジェでの私はあまりにも幸福でくつろいだ気分になり、求めに応じて舞を披露することに致しました。舞を所望した人物の一人が舞踏を熟知した巨匠カミーユ・サンサーンス氏だったのは、光栄この上ないことでございました。「白鳥」での私の演舞を観た後にお褒めの言葉を送っていただき、その後私たち二人が宿泊していたホテルで顔をあわせた際にも直接誉めていただきました。傑物でありながらも感じの良い方。マルセイユに着いた時に氏の訃報を聞いて深い悲しみを覚えました。二日ばかり前はあれほど達者で死とは無縁に思われましたのに。
ナピエルコウスカ、プロヴァンス地方を訪れる
巴里に戻つたかと思うとすぐにまた旅支度、プロヴァンスに向かいました。数年前、オランジュのローマ劇場の出し物で舞踏を披露したことがありました。ムネ・シュリ、ポール・マリエトン両氏と共に素敵な旅行を楽しませていただきました。今は両氏とも鬼籍にはいられてしまいましたが、ローマ橋にアーチを備え、乾燥しつつもギリシャ風の穏やかさを有した輝く様なプロバンス地方は今もなお変わらず、古代の魅力を湛えています。
プロヴァンスでは2本の映画に出演しました。『心痛喜劇』はテオ・ベルジェラ氏が脚本を書きおろし、自身で監督を担当した一作でございます。この作品で私が演じたのはエトワールの称号を持つ踊り子でした。不治の病に侵された女友達のため、自身を愛していてくれている、そして女性二人がどちらも惚れてしまった男性の目の前で恥知らずな悪しき女を演じる役どころ。まことに心が痛むような喜劇でございました。同時期に『カマルグの少女』にも出演、私が演じたのはプロヴァンス地方の富裕な農夫の娘で、地元のカウボーイ二人に愛され争奪戦を引き起こすミエット・ルー孃でありました。この映画が珍しいのは私の他には職業俳優がただ一人、名優ヴァネル氏しかいなかつたことです。他の役は皆プロヴァンスの農民たちが演じておりました。この役では詩人でもある地主貴族のバロンセリ公爵にお世話になりました。氏のおかげで牛の焼き印祭りなど、幾つかの美しい場面を撮ることができたのでございます。
ナピエルコウスカ、『アンシャラー』撮影でモロッコの地を踏む
宿命(メクトゥブ)!アラブの良き人々の言葉にありますように天命でございました。焼けるような魅力の虜となり、惜しみつつ去らねばならなかったアフリカに戻るのは天命であつたのです。とはいえ今回向かったのはモロッコでございました。真の詩人で美丈夫な紳士でもあつた『アンシャラー』原作者フランツ・トゥーサン氏が自身監督を手がけ、私たちはフェズ、カサブランカ、マラケシュ、モガドールを順次訪れました。
『アンシャラー』がどのような物語か説明は不要かと存じます。シネミロワール誌に要を得た迫真の粗筋が掲載されておりましたので。それでも數多ある思い出話のひとつ、ある日フェズで目にした出来事について触れるのをお許しいただけたらと思います。上手く伝えようとすると作家ピエール・ロティ並みの文才が必要であるのですが…お祭りの日でございまして、民からの崇拝を集めている宗教指導者のお誕生日ということで大掛かりな宗教儀式が開かれておりました。村とその周辺のありとあらゆる職業団体が集まってきていて、数千もの人々が自らを清めようとモスクに押し寄せていたのでございます。指導者に近寄らせてもらうという厚情に報いるため、人々は皆歩きながら飛び跳ね、自らを鞭打ち、鉤のついたこん棒で自分の体を傷つけておりました。褐色の胸を血まみれにしながら、怪我をした者たちは力尽きて道に倒れてしまうのですがそれでも身を起こし、聖地に向け両手を差し出しながら這ってでも進もうとしておりました。これ以上無いほどの強い日差しの下、眩いばかりの原色が入り乱れる中で展開されていたこの熱狂をご想像下さいませ。あの素晴らしい光景を映画として記録しなかったのは誠に残念な話でございました。人は凡庸な劇映画より美しき記録映画に心を動かされるのではないのでせふか。『極北のナヌーク』を観た私がさめざめと涙を流したと話す必要がございますでせふか。
ナピエルコウスカ、自伝を結ぶ
さて、昔話(つい最近の話も含めて)はこれにてお仕舞ひ。今の私は心ときめく新たな旅、三ヶ月の伊太利巡業に向け準備をしている最中でございます。回想録を老婆心からの助言で締めるのも何でございますが、映画芸術を志す男性、女性の皆様にぜひこのことはお伝えしておきたいのです。映画俳優として最も重要なのはその人にしかない個性でございます。如何なる代価を払ってでも、苦心を重ね、頭と、そして体を通じて自らの個性を確立せねばなりませぬ。無声映画には不断の自己反省、強い集中力が必要とされているのでございます。
映画界に憧れを抱く若き女性たちには知っていてほしいのです。毎日のように届く手紙の数から察するに、背中を押してほしい、助言を欲しいと感じている女性はとても多くおられます。女優に憧れた一部には小間使いとして雇ってほしいと書いてくる方までおられたりもします。撮影所に同行しあわよくば銀幕にデビューする機会を狙っているのでございましょう。かのような所望に対しては「すでにトゥーグルトから連れてきたアフリカ人の従僕がおりますので十分でございます」と返答させていただきました。「この召使は献身的に尽くしておりますし、また私の家に、私が生きる上で無くてはならない東洋の空気をほのかにもたらしてくれております」と。
了
スタシア・ナピエルコウスカ
其の参・完 (初出 シネミロワール誌1923年5月15日付第26号)

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