映写機館より
2年程前、9.5ミリ/16ミリ両用のパテースコープ5型映写機を紹介しました。同機を製作していた中村パテー商會が1934年に同社初の映写機として市場に投入したのがNパテースコープ9.5ミリ映写機でした。エルモ社のF型映写機同様、ベル&ハウエル映写機に影響を受けつつボレックスのD型のアイデアを取り入れ、一部にオリジナルの発想を組みこんだ形になっています。









「カメラ」誌1934年の広告で光源は75V250Wとなっていますが今回の機種は75V500W。ランプラウス屋根に設置されたレバーで明るさの調整可能。モーター下部にもつまみがあって移動させることで映写速度も変更できます。レンズは無銘、実写した感じだとF=32程度ではないかと思われます。個人的に面白いなと思ったのは電源ケーブルの差込口が映写機の前後どちらにもあること。前から這わせたいときもあれば後ろから逃したいときもあるのでなかなか便利です。
小型活動寫眞機械製作販賣中村パテー商會主中村喜作氏は明治十七年十一月十日、上伊那郡小野村中村佐五郎氏四男として生る。同氏は郷里の小學校を了りて家業に従つてゐたが、明治三十三年三月、十九歳にして志を立てゝ上京、麹町區飯田町の飲料水製造所に雇はれ、爾来同所に勤務精勸して沸いた。同所は大正十四年に米山サイダー株式會社として更改され、尚同氏もその幹部として活躍した。[…] 同氏は時代の趨向を見て、將來の有望事業は之れに優るものなしとして、小型寫眞機械に着目し、米山サイダーを去つて、大正十三年九月に中村パテー商會として独立、此の製造並に販賣に着手した。同氏の努力はその後大いに報いられて漸次發展するに到り、一方その製造機も改良に改良を加へられて今や優秀なる小型映寫機としてその聲價を挙げ、就中專賣特許ダイヤクラウンNMパテースコープ五号型は、強大な光源と光學的設計により映寫面は極めて精鋭、且つ極度の大型に映寫されるので大衆用として好評を博してゐる[…]。
「小型活動寫眞機械製作販賣 中村パテー商會主 中村喜作氏」
『大信濃』(長野県人東京聯合会、1940年)
政経界で成功を収めた長野人のデータをまとめた『大信濃』に中村喜作氏の略歴を発見。中村パテー商會の簡略な沿革にもなっています。


「カメラ」誌には1930年代にかけNパテースコープ映写機(1934年)、パテースコープ3号(1935年)、ダイヤクラウン(1937年)、NMパテースコープ5号(1937年)の4種類を発売していた記録が残っていました。
クリーニングの後に調整を兼ねて試写を実行、モーターが多少不安定ではあるものの実使用に耐えるレベルでした。レンズ性能が高ければ…の印象は否めませんが価格(同年発売のエクラA型が150円。同時期のパテ社リュクス映写機は200円を超えます)を考えると100円を切る価格でこのスペックを提供していたのですから大したものだと思います。