秘宝館・ファルコネッティ より
無声映画界隈で最も有名な作品の一つに主演しているにも関わらず、女優ファルコネッティを対象とした実証的研究は本国フランスでも進んでいない状況です。そもそも本職の映画女優ではなく出演作は3作のみ。ソフト化されているのは『裁かるるジャンヌ』しかありません。通常のアプローチでは扱いにくい対象だとは言えます。
一方で単体の舞台俳優として見た時、花形女優として一時は人気を博したもののデビュー当初の期待値(「末はレジャーヌ並みの大物悲劇女優」)を考えあわせると大成したとは言い難いのです。戦前期に彼女以上の実績を残した舞台女優は数多くいるため特別視する必要はない、という結論になってしまいます。
それでもファルコネッティの実像を理解しようとすると1)舞台女優としての軌跡を追いつつ、そこに2)映画女優としての活動をはめこんで見ていく複合的視点が必要となってきます。以前に紹介した伝記にもこの発想が含まれていたものの、正直成功しているとは言えませんでした。
やり方を変えてみるとどうなるでしょうか。この数ヶ月資料を集め直していて舞台パンフレットが10冊ほど届きました。以前に紹介済の「戦中オデオン座通信」などと併せて時系列の順に並べてみました。
1:大正5年(1916年)「戦中オデオン座通信 第16号」


L’Odéon pendant la guerre (Odeon Theater in wartime) vol.16,
dedicated by Falconetti & Paule Andral, 1916.
第一次大戦中に舞台愛好家が個人で執筆していた観劇記。オデオン座での女優デビューからまだ数ヶ月のファルコネッティが脇役として出演した作品(『チャールズ2世とバッキンガム公』『セビリアの理髪師』)の評が含まれています。裏表紙にファルコネッティと同期女優ポール・アンドラルの連名サイン入り。現存しているファルコネッティの直筆サインでは最も古いひとつになると思われます。
2&3:大正6年(1917年)オデオン座「人間嫌い/いやいやながら医者にされ」&「雌鼠」


Odeon Theater 1917 Program for The Misanthrope & The Doctor In Spite Of Himself
with Falconetti’s early portrait
大正6年(1917年)のオデオン座プログラム2点。一つ目はモリエールによる『人間嫌い』と『いやいやながら医者にされ』が上演された際のもので、出演はしてはいないものの同座の所属女優として写真が掲載されています。主に娘役を担当していた時期に当たり、肩まで下した長髪姿はこの時期だけの珍しいものです。


Odeon Theater 1917 Program for La Souris (The Mouse)
二つ目は『雌鼠』公演時のパンフレット。配役紹介でファルコネッティの名が下から二番目に登場しています。オデオン座の通常パンフレットとは様式・フォーマットが若干違っており、地方に出張巡業した際に使用された版ではないかと思われます。
4) 大正6年(1917年)『ソムリヴ伯爵夫人』(パテ社/SCAGL)リーフレット
ファルコネッティが映画で初主演を果たした『ソムリヴ伯爵夫人』公開時のリーフレット。粗筋などを含めた紹介を別投稿で行っています。
5: 大正8年(1919年) アントワーヌ劇場 『ムルシアの庭で』
大正8年(1919年)、アントワーヌ劇場に所属を移したファルコネッティが移籍後第一弾として主演したのが『ムルシアの庭で』でした。当時大きな評判を呼び知名度と人気を高める転機となった一作。後年、独立後にファルコネッティが再演を行うなど女優自身にとっても思い入れのある作品となりました。
6: 大正9年(1920年) アントワーヌ劇場『囚われの女』
『ミュルシの庭で』の成功を受けて製作されたアントワーヌ劇場での第二出演作で戦争で敵味方に引き裂かれていく家族を描いたメロドラマ。母親役を演じた名女優シュザンヌ・デプレとの共演が売りとなった一作で、ファルコネッティが実力派女優として認められていく過程のひとつに位置しています。
7: 大正11年(1922年) ヴォードヴィル座 『弁護士』


1922 Vaudeville Theater Program for L’Avocat (The Lawyer)
1921~23年にかけてのファルコネッティは一つの劇場と長期契約を結ぶことはせず、様々な劇場とその都度個別の契約を結ぶようになっています。彼女の名前を冠するだけでそれなりの客数を見込めるほどの人気女優となっており、その時々で最善と思われるオファーを受けていた時期に当たります。それなりに成功は収めているのですが舞台女優として決定的評価を得るほどの作品には出会えず、女優としてのアイデンティティ確立に悩み試行錯誤を繰り返していた過渡期でもあります。
8: 昭和2年(1927年) サラ・ベルナール劇場マネージャー、モーリス・ペローネ氏宛直筆書簡


1927 Hand-written Letter addressed to Maurice Perronnet
人間関係の軋轢からコメディ・フランセーズを短期間(1924~25年)で離脱した後、ファルコネッティはサラ・ベルナール劇場からのオファーを受け女優としての再起を図ります。第一弾作品『巴里の恋人たち』が告知されたものの、先行して受けていた『裁かるるジャンヌ』の撮影が長引いたため物理的に出演不可能となり契約はキャンセルされました。契約破棄の確認と劇場への感謝を伝えたのがこの直筆書簡です。
9: 昭和3年(1928年) マドレーヌ劇場 『ミッシュ』



1928 Madeleine Theater Program for Miche
『裁かるるジャンヌ』撮影完了後、休暇を挟んで舞台女優として復活を遂げたのがマドレーヌ劇場での『ミッシュ』でした。二年以上のブランクがあっても舞台女優ファルコネッティを期待する声は根強く、劇場への帰還は温かく迎え入れられています。
10: 昭和3年(1928年) サラ・ベルナール劇場 『椿姫』



1928 Sarah Bernhardt Theater Program for
La Dame aux Camelias (The Lady of the Camellias)
サラ・ベルナール劇場との再契約を果たし、同劇場でのデビュー作に選ばれたのが小デュマによる『椿姫』でした。当初から歌唱力も評価されていたファルコネッティにはうってつけの役でリピーターの続出するロングラン作品となりました。サラ・ベルナール劇場での初演が昭和3年(1928年)の9月で、翌月には仏国内で『裁かるるジャンヌ』公開。舞台女優ファルコネッティのキャリアハイに位置付けて良い作品だと思われます。
11: 昭和4年(1929年) サラ・ベルナール劇場 『緑帽子の貴婦人たち』



1929 Sarah Bernhardt Theater Program for
Ces Dames aux Chapeaux Verts (These Ladies with Green Hats)
サラ・ベルナール劇場で花形の地位を確立したファルコネッティの第二弾作品。ヒロイン役のファルコネッティ以上に助演したベテラン女優アリス・ティソが評判を呼んだ一作です。同年に映画化もされていてティソ等が出演、ただしヒロインにはシモーヌ・マルィユ(『アンダルーシアの犬』カミソリの場面で有名な女優さん)が配されていました。35ミリ版は遺失しているようですが9.5ミリ版の市販履歴があり(第1巻だけ所有しています)映画視点で見るなら『椿姫』より興味深い作品だったりします。
12: 昭和4年(1929年) ラヴニュー劇場 『フェードル』


1929 L’Avenue Theater Program for Phèdre
昭和4年(1929年)、遺産譲与を受けたファルコネッティはラヴニュー劇場を買収し自身の劇団を立ち上げました。伝記の解説でも触れたようにこの際に彼女は戦略を誤り、プロレタリア劇『赤錆び』を第一弾に選ぶことでそれまでのフアンの多くから不興を買います。軌道修正を図るように選ばれた次作品がラシーヌによる古典劇『フェードル』でした。
若い頃から慣れ親しんだ十八番の作品ながら批評家や観衆の受けは芳しくなく、稚拙な演出や心のこもっていない演技を指摘される等ネガティヴな反応が目立つようになってきます。一旦狂い始めた歯車を戻すのは難しく女優としての評価を急激に落としていった時期の作品に当たるものです。
13: 昭和10年(1935年) アテネ劇場 『トロイ戦争は起こらない』



1935 Athénée Theater Program for
La Guerre de Troie n’aura pas lieu (The Trojan War Will Not Take Place)
ラヴニュー劇場を手放して(1931年春)からのファルコネッティは僅かな数の作品にしか出演していません。フランスでの最後の舞台出演となったのが昭和10年(1935年)『トロイ戦争は起こらない』でした。来るべき戦争の予兆に怯えている当時の世相とギリシャ神話の世界を重ねあわせた名戯曲の初演で、20世紀を代表する仏俳優ルイ・ジューヴェが自身の劇団と共に出演。ファルコネッティはヒロインのアンドロマック役で客演を果たしています。
この後ファルコネッティは南米に移住。終戦後に母国に戻りたい思いを募らせたものの結局は実現せぬまま1946年病没。あくまで仮の話ですが、10年以上のブランクがあり、また戦前に反目したり不義理をした俳優たちが現役で多く活躍している状況下で帰国したとしても彼女の居場所はなかっただろうという気はしています。
舞台での総出演作品数は50を超えているため実物を紹介できたのは極一部。それでも叩き台とするアウトラインとしては悪くないのではないでしょうか。1916~35年の20年間にファルコネッティの辿った軌跡、悪戦苦闘がおぼろげながら見えてくる感じはします。
そして『裁かるるジャンヌ』もまたこの軌跡に絡みあっています。どのような素養を持ち、どのような人脈で育まれ、どういった演技スタイルを磨き上げていった女優だったのか…そういった要素を検証し、ドライヤー監督の創造性とどう噛みあったのか突きあわせていくとあの作品の圧倒的な情動に一歩近づけるだろう、と。