
adressed to Ferdinand Zecca
グルネル通り193番地
1909年3月29日
私の名をご存じとは知りませんでしたが
貴殿の映畫のある特定分野についてお話できるのであれば
嬉しく思いますし
面白いと思っていただける話ができるだろうと考えております。
多忙な身ではあるものの、貴殿にお応えするため
次の日曜4月5日に時間を作らせていただきました。
感謝をこめて
ディレゾン・セイロール
193 rue de Grenelle, le 29 mars 1909
Monsieur,
Ignorant si mon nom vous ai connu,
je serais heureux de causer avec vous,
touchant la partie spécifique de vos films,
et pense vous en dire quelque chose d’intéressant.
Ma journée est fort remplie,
mais, pour répondre à vous,
je serai à votre disposition le lundi 5 avril prochain.
Avec mon remerciement,
Diraison-Seylor
フェルディナン・ゼッカ(Ferdinand Zecca 1864-1947)はジョルジュ・メリエスを追うように登場してきた仏映画最初期の映画監督。トリック撮影を多用した綺想を得意としていました。メリエスほどの才知・独創性はなかったと評価されることが多く、例えば『ジゴマ』で知られるジャッセ監督の映画論にも「メリエスがしていた場面を面白く見せようとする工夫を充分にせず、細工さえあれば事足りると甘んじてしまった」とあったりします。
一方でゼッカはメリエス由来の作風とは異なった作品(1901年『ある犯罪の物語』や1903年『イエス・キリストの生涯』)を手掛けて成功を収め、パテ社が業界で躍進していく原動力となっていました。同社の製作部門の総責任者を務めた後、1910年代には米パテ・エクスチェンジ社、20年代には仏パテ社パテ・ベビー部門の統括を務める(1914年『小人國と大人國の戰爭』はゼッカ監督に帰される一作)など、フィルム製作・配給に関わるマネジメント面で貢献が大きかった人物でもあります。
先日、同氏が監督としての現役時代に受け取った一通の書簡を見つけました。差出人は作家のオリヴィエ・ディレゾン・セロール(Oivier Diraison-Seylor)。元々は海軍将校で、自身の経験を反映させた1901年の処女長編『海人』(Les Maritimes)で評判を呼んだ人物です。 手紙はゼッカ側からコンタクトを取ったのに対する返事となっています。映画撮影に関わる助言を求めた、または相談を持ち掛けたようでディレゾン・セロール氏が一週間後にお会いしましょうと回答した形になっています。
ジョルジュ・アト: […] ゼッカに私生活ってのはなかったね。賢者だったのさ。頭には仕事のことしかなかったな。必要なら20時間ぶっ続けでも働いたんじゃないかな。パテ社で総責任者をしていた時、ありとあらゆる出来事が彼を経由して進んでいた。
「初期映画の思い出」
ジョルジュ・アト・インタビュー (1948年3月15日)
歴史調査委員会資料番号:CRH52-B2
M.HATOT : […] Il n’avait pas de vie privée. ZECCA était un sage. Il ne pensait vraiment qu’à son bouleau. C’est un Monsieur qui aurait travaillé pendant 20 heures. Quand il a été Directeur général chez Pathé, tout lui passait dans les mains.
Georges Hatot : réunion du 15 mars 1948
(La Commission de recherches historiques, CRH52-B2)
以前にジャッセ絡みで紹介した資料からの一説で、1900年代にゼッカの下で監督として働いていたジョルジュ・アト監督による証言。両者の折り合いは悪く「いつも喧嘩ばかりしていた」とのこと。そんなアト氏でも仕事への没頭ぶりは一目おいていたそうです。フランス人というとプライベートと仕事を分ける個人主義のイメージがありますがこんな人物もいた訳です。
それだけの功労者であるにも関わらず、パテ社を離れた後のゼッカは本国でも急速に忘れ去られていきました。アンリ・ラングロワが1930年代後半にゼッカ氏に連絡をいれたところ、「長い事ジャーナリストとは話していないよ」とラングロワを自宅に招待したそうです。
アンリ・ラングロワ: […] ゼッカ氏はヴァンセンヌ城の真正面に住んでいたんですよ。
前掲書
M. LANGLOIS : […] Il habitait en face du Donjon.
Ibid.
宛先住所は「ヴァンセンヌ ポリゴン通り1番地」。パリ郊外、ヴァンセンヌの森の北隣に城があって、ポリゴン通りはすぐ正面の通りですのでラングロワの描写と一致します。1900年代の屋外撮影にはヴァンセンヌの森が頻繁に使われており現場近くに居を構えるのは何かと都合が良かったのでしょう。
[IMDb]
Ferdinand Zecca
[Movie Walker]
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