



Gallia Cinéma 1912 Lettre au procureur général, datée du 24 Juillet 1912,
à l’égard du Sieur Raphaël Mismac, gérant du cinématographe forain “Ciné Moderne Géant”
1912年(明治45年/大正元年)7月14日、フランス中央部のカンタル県に位置する町サン・フーロル(当時の人口は5700人ほど)で建国記念日のお祭りが開かれ、広場では移動映画館による上映も行われていました。
少人数向けの移動上映会「大現代シネマ館(シネ・モデルヌ・ジェアン)」を仕切っていたのがラファエル・ミスマクなる人物。同氏はパリのガリア映画社とコンタクトを取り2日間の契約でフィルムをレンタルしたものの期日を過ぎてもフィルムは返却されませんでした。再三の催促にも関わらず返事がないためガリア社が独自に調べたところ氏は既に町を離れておりフィルムの行方も不明。同時期に別な映画会社複数からフィルムを借りており、上映プログラムに対してフィルムの量が多すぎると見たガリア映画社はこの行為を意図的かつ悪質と判断、司法の介入を訴えた…
フランス語で手書きされた110年程前の訴状の現物で、普段扱っているサイン物とは毛色の異なる一枚。差出人はガリア映画社(Gallia Cinéma)。1911年4月に設立、1913年9月に倒産するまで一年半に渡りフィルム取引を行っていた会社でした。レターヘッドに会社ロゴを印刷した便箋を使用しており起草日が1912年7月24日となっています。
宛先はサン・フロールの予審判事。表裏両面に渡る40行以上の長い文章です。
厳密に言うと盗難事件ではなく契約不履行とそれにともなう機会損失が問題となっており、また書状に記されている話(複数の映画会社を相手に同様の行為を行っていた可能性がある)が事実であれば詐欺に近い案件になるのだと思われます。
この出来事に関連して興味深い後日譚が存在しています。訴状から約4ヶ月後、フランスのミディ=ピレネー地方の日刊紙に掲載された記事を見てみましょう。
11月20日、リニャック在住の荷馬車主アンドリユ氏はリユペルーに向け三台の荷車を移送していた。この荷車は移動映画館を営むミスマク氏の仕事道具が積んであって同氏と家族が住む住居の役割も果たしていた。
途上、荷馬車の一台をミスマク夫人に任せることとなつた。夫君のミスマク氏は狩猟に出払っており、アンドリユ氏が残りの二台に目を光らせていた。
突然、急傾斜の坂を登るのに耐えきれなくなった馬が後ずさりし始めた。荷車は路肩の溝にひつくり返り、中に置かれていた小型の石油温水器が発火。炎はすぐに荷車全体を包んで全焼させてしまつた。
ミスマク夫人は自身の子供たちを助け出すのに精一杯。六万六千尺に及ぶフィルムが失われることとなつた。被害総額は13600フランに及んだがどのフィルムにも保険はかけられていなかったさうである。
「リユペルー:荷車火災」
エクスプレス・デュ・ミディ紙 1912年11月28日付
記事中に登場するリユペルーはサン・フロールから直線距離にして百キロ弱に位置する町。「移動映画館を営む」の描写とあわせ、先の書状で訴えられていたミスマク氏と同一人物と断定して良いと思われます。
不慮の事故で高価な仕事道具を一切合切失った、というニュースです。問題は焼失してしまったフィルムがどういった性質のものだったのか、です。
先の訴状からわずか4か月。固定した住所を持たず荷馬車を家代わりにして生活、食物の一部を自給自足(狩猟)で確保している。商売道具に保険は一切かけていない…この部分を見ると「六万六千尺」=数十本の高価なフィルムを自己所有できる経済状況にあったとは到底思えないんですよね。
好意的に解釈してみるとガリア社とのトラブルは既に解決済、映画会社から新たにフィルムを借りて巡業を続けていたのでしょう。だとするなら火災で大事な借り物を全て駄目にしてしまった、お気の毒様でしたという話です。
でもこの解釈にはしっくりしない点が幾つかあります。フィルムレンタルはそれなりの経費がかかるもので借り物のフィルム数十本を荷車に積んで巡業でもしようものならコストは日々雪だるま式に膨れ上がっていきます。数か月前に2日契約で借りたフィルム1本を返せなかった人物がそれだけの費用を捻出できるのでしょうか。
あるいは事業を立ち上げた時に機材と同時にフィルムも自前で揃えていたのかもしれません。しかしそれだとイベント(革命記念日のお祭り)にあわせ複数の会社からフィルムを借りる必然性がなくなってしまいます。どうも辻褄があわないんですよね。
手書きの訴状と新聞記事を突きあわせていくと、当時、複数の映画会社から「借りパク」したフィルムを元手に日銭を稼ぎ、固定住居がないのをいいことに各所から訴えられても逃げ切りを図ろうとしている人物がいたのではないか、そんな疑いを拭いきれないのです。こちらのパターンであるなら同情の余地は一切なく、天網恢々疎にして漏らさずの結末を迎えたのでしょう。
110年以上前の話で真相は分かりません。それでも大きな枠組みで見ていくと一連の出来事は初期映画の「配給」をめぐるトラブルの具体例として理解することができます。
本サイトではこれまでに1910年代中盤の合衆国でチャップリン短編が劇場から盗まれた事件(『チャップリンズ・ヴィンテージ・イヤー』)、同時期の日本で上映用ポジの一部が私的流用された例(「フイルムの行衛」 森田 淸)に触れてきました。貸し出したフィルムが元の状態できちんと戻ってこない、そんなトラブルが世界中のあちこちで発生していて映画製作会社・配給会社を悩ませていたのです。
初期映画史は映画をビジネス、産業、さらには表現として確立しようとした志の高い人々の物語のように見えるのですが、一方で法規制が整っていないのを良いことに一稼ぎしようと胡散臭い連中が押し寄せやりたい放題していた側面も備えています。自浄・他浄で整備され、時の経過によって忘れ去られ、綺麗な物語で上書きされてしまった混沌の風景が原初にあったはずで、今回紹介した資料はそちら側に属している気がしています。