1925 – 9.5mm 『太刀風』 (『異人娘と武士』より断章 マキノ/阪妻プロ) 伴野商店プリント

フィルム館・9.5ミリ (伴野商店) より

Tachikaze (Excerpts from the 1925 film Ijin Musume to Bushi,
dir/Inoue Kintarô, Bandô Tsumasaburô Production)
Mid 1920s Banno 9.5mm Print


 オランダ商館の美しさを松平伊豆守が驚嘆してから夢のやうに歳月が流れたのに、ヘーグの町の古い面影は肥前平戸に再び見ることが出來ると言はれた。細い巷路の石畳の上を朴齒下駄の音立てゝ三人連れの士が蹌踉と歩いて來た。一人の醉つたのが、
『なんとお見やれ、方々。ダンブクロを穿いたチヨン髷が通るわ』
『笑止でござるのう』
するともう一人のが
『元來身共はあのほ歩卒顏が氣にくひ申さぬてのう。二本さしても案山子同然に見え申す』
『されば。拙者の劍法のすたらぬうちこそ松浦藩の士道も花でござるかな』
『仰せの通り……』
 さう豪語したのは松浦藩の有名の心形刀流の劍士で、百石を領する奥田勝三郎である。


「異人娘と武士」 今東光
『愛染物語』(1927年、初出『苦楽』誌1925年)


阪妻プロ第2回作品(公開順としては『雄呂血』より先の第一弾)となる『異人娘と武士』の冒頭断章が、9.5ミリフィルム(10メートル)の形で現存しているのを確認しました。

『陸の人魚』と同一所有者の旧蔵品。『太刀風』の改題のもと市販されていたもので、短篇原作では冒頭部、敵役の奥田勝三郎の紹介に対応する部分です。

時は改元から間もない明治の初め。松浦藩士4人が洋館脇を歩いていると同じ藩に属する4名とすれ違います。同藩では早くからイギリス式兵術を取り入れており、旧佐幕派を中心に和洋折衷の服装で歩いている姿も珍しくありませんでした。それを良く思っていなかった勝三郎(中村吉松)がすれ違いざまに悪態をつくと聞きとがめられ口論~斬りあいへと発展。心形刀流を操る奥田勝三郎側が勝利を収めた場面で終了。

原作小説では「機會ある毎に憤懣が爆發した」「和洋折衷服を着た藩士を見ると意地になつて挑んだ」の表現があるものの、実際の切りあいの描写は含まれていませんでした。映画版が小説の描写を膨らませ付け加えたオリジナルの展開です。

『異人娘と武士』の物語本体のは直心影流の使い手で開明派の青年藩士・佐平太(阪東妻三郎)と、平戸にやってきたベーツ大尉の娘ジャネット(森静子)の恋物語であり、また佐平太と勝三郎の果し合いの場面です。『太刀風』として残されているのはあくまでも悪役である勝三郎の登場場面のみ。

10メートル(一分強相当)のフィルムでは中長編映画の全体を紹介しきれないため、見映えする場面を元の文脈を無視し単独で切り取って製品化していく…この辺は最初期の9.5ミリ小型映画に時折見られた発想です。以前に紹介したフィルムでは物欲批判の社会派ドラマだった『浮世の荒波』の内、客演していたナピエルコウスカの舞踏場面を『カンボジアの踊り』と改題した仏パテ社の例がそれに当たります。

今回発見したフィルムはケースのコンディションが悪く、側面の紙ラベルが剥がれた状態でした。それでも旧所有者が自作した半円状の紙ラベルが一部残っており、「ほまれの太刀風」の文字を見ることができます。1920年代の9.5ミリフィルムではラベルに印刷されたタイトルとフィルム上で表示されるタイトルが微妙に異なっている例が多くあるため、カタログ上の扱いとしては「ほまれの太刀風」だった可能性もあります。

いずれにせよ筆者の手元にある昭和4年(1929年)以降の9.5ミリフィルムカタログに『太刀風』『ほまれの太刀風』は含まれていません。伴野商店がオリジナルコンテンツ製品を発売し始めた最初期(1927年頃)に市販され、早い段階で絶版となりカタログから外された一本と考えられます。

日本に9.5ミリ小型映画の文化が根付き始めた初期段階、一分程度の尺でチャンバラを楽しんでもらおうとの意図で伴野商店から一本のフィルムが市販された。遺失したとされる『異人娘と武士』の一部がそのような形で生き残っていた。阪妻プロの歴史を補完していく上で、また今東光作品の映像化として見ても興味深いフィルムであると思われます。

[JMDb]
異人娘と武士

[IMDb]
Ijin musume to bushi