1910年中盤 – ドイツ無声映画35ミリフィルム断片 タイトル不明(マックス・マック監督作?)

昨年末、独イーベイで一本の35ミリフィルムが売りに出されているのを見つけました。

独イーベイの商品説明に付されていた写真

字幕やクレジットがなくタイトルは不明。商品説明に冒頭数コマを撮影した写真が添えられていました。室内装飾やカメラの構図など1910年代中盤の作品に見えます。この時期のフィルムは頻繁に出てくるものではないためやや博打ではあるものの取り寄せてみました。

年が明け、連休の最終日にフィルムが到着。

Mid 1910s Unidentified German Film 35mm Fragments
(Presumed Max Mack’s 1916 « Adamant’s Last Race/Adamants letztes Rennen »)

フィルムが巻かれた映写機用リールを取り外した状態です。側面に鉄筆での書きこみがあります。「Aus~」ではないかと思われますがまだ解読できていません。

目視で内容を確認していきます。フィルムは3つの場面をつなげたものでした。赤の染色がほどこされていて場面によって濃さが異なっています。切れた部分をテープで補強した一ヶ所は樹脂が劣化しベタベタになっていました。他に小傷がある以外は比較的良い状態です。

元々35ミリはコレクション対象にしていないため手元に再生環境がありません。以前に齣フィルム撮影用に自作したツ-ルを転用して即席のスキャンを行いました。

[場面1] ややロングショットで撮られた場面。冒頭に小間使いを連れた青年が登場。小間使いは両手に何かを持っています。小間使いから受け取ったものをコレクション保存用と思われる棚に収めます。

次いで別な女性が登場。服装が異なっていますがこちらもお手伝いさんのようです。両手には動物の置物。青年は受け取った置物をテーブルに載せると満面の笑みを浮かべます。

さらに別な女性が登場。ゆったりしたドレス姿で奥さんではないかと思われます。青年はまずテーブルの置物を女性に見せるのですが芳しい反応はありません。青年は女性を連れてコレクション棚前に移動。

[場面2] 場面が切り替わりミドルショットに。棚から取り出したコレクション品を自慢気に披露しますが女性は無反応で冷めた表情を浮かべています。

[場面3] 黒髪の女性が服を変えて再登場。壺や皿が飾られた棚を前に物思いの表情。奥から登場した青年がその手を取ってキスするものの嫌がるように振り払い出て行ってしまいます。青年が憮然とした表情を浮かべている所でフィルムが終了しました。

あちこちから骨董品を買い漁ってくる裕福な夫とそれをよく思っていない若妻。夫婦の不和を描いた場面と思われます。さて、これだけの情報から作品を特定できるでしょうか。

青年役を務めている男優はやや面長、短めに刈上げた髪型で右の額が広い感じです。目はクリンとしていて眉は短め。

オーストリア出身の俳優ヒューゴ・フリンク(Hugo Flink、1879 – 1947)です。1910年から映画に出演しており、10年代にアスタ・ニールセンやヘンニ・ポルテンの相手役を務めるなど人気のあった役者です。

女優さんは黒目黒髪。眉毛が「へ」の字型で端が細くなっています。二重瞼でやや腫れぼったそうな眼付き、鼻筋は細めで小ぶり。アーリア系ではなくユダヤか東欧の血を引いているように見えます。

Maria Orska Autographed Postcard

Maria Orska Autographed Postcard

現時点で断定はできないものの1910〜20年代に活躍したユダヤ系女優マリア・オルスカ(Maria Orska、1893 – 1930)の可能性があるのかな、と。フリンクとオルスカは1916年に一度共演歴(『競走馬アダマント最後のレース(Adamants letztes Rennen)』)があります。

マリア・オルスカは1920年代ヨーロッパで人気があった舞台女優です。キャリアの初期に十数作の映画に出演。1917年マックス・マック監督作『黒い踊り子(Die schwarze Loo)』はドイツ・キネマテークが35ミリのネガ・ポジを保存しているのですが同じ監督による『競走馬アダマント最後のレース』は現存が確認されていないようです。

『競走馬アダマント最後のレース』でオルスカは姉と妹の二役を演じています。駆け落ちまでして一緒になった夫に最後は冷たくされて亡くなった姉の恨みを晴らすため、妹が名前を偽って男に接近し再婚を果たしたのち復讐を果たす…という内容。筋立てに夫婦の対立の要素を見て取ることができます。

またタイトルの「アダマント」はフリンク演じる不実な夫が所有している競走馬の名前になります。競馬用厩舎の経営に成功し一財産を築き上げるも、最後は所有馬アダマントの敗北で財産を失ってしまいます。

スキャン画像を見ると馬の像が置かれています。単なる偶然ではなさそう。

マリア・オルスカは最初にサイン物を手に入れた女優の一人でもあるので遺失作の断片だったら嬉しいかな、と。ひとまず現地専門家に連絡を入れ確認をとることにします。

フローレンス・ターナー Florence Turner (1873–1959) 米

Florence Turner 1923 Leafcut Autograph & Related Newspaper Clipping

俳優に對する待遇も次第に改まつた。ゼームス・クルーズが、一九一一年に始めてパテエの俳優となり、程なくタンハウザーに轉じて、『百萬弗の秘密』に出演した時は、一日僅かに五弗の給料を貰つたに過ぎぬ。かうした慘じ目な生活が、間もなく人に羨まれるほど花やかなものとなつたのである。殊にスター・システムの發生は、俳優の地位を著しく向上せしめ、靑年男女はこの職業に憧憬して俳優たらんことを欲する。スター・システムは如何にして發生したかといふに、バイオグラフのフローレンス・ローレンス孃が、カール・レーンムルの『インプ映畫』に迎へられて、スターとなつたのが其の起りで、それまではバイオグラフ・ガールとか、ヴアイタグラフ・ガールとかの稱呼が使はれてゐた。かくして映畫の價値は、出演俳優の顔ぶれ如何で定まるやうになり、製作者はスターの人氣を喚起するために宣傳これ努むるところがあつた。

「新職業としての映畫俳優」
『欧米及日本の映画史』石巻良夫、プラトン社、1925年、94-95頁

ハリウッド映画史のスター俳優システムを紐解いていくと、1910年頃に登場した「バイオグラフ・ガール」フローレンス・ローレンスと「ヴアイタグラフ・ガール」フローレンス・ターナーの二人に辿りつきます。

『真夏の夜の夢』(A Midsummer Night’s Dream、1909年)

『ワシントン・パークに面した窓』(A Window on Washington Park、1913年)

『東は東』(East is East、1916年)

フローレンス・ターナーは1907年にヴァイタグラフ社でデビュー、花形の人気を博すようになりました。1909年に同社で初めてシェークスピア作品が本格的に映画化された(『真夏の夜の夢』『十二夜』)際はジュリー・スワイン、エディス・ストーリー、クララ・キンボール・ヤングらと並んで主要キャストの一画を務めています。

1912年頃から後続の若手に押されるようになってきたものの、1913年の米映画誌での投票では全体で23位、女優部門では13位(ちなみに14位がパール・ホワイト)と健闘を見せます。英国拠点で自身の名を冠したプロダクションを立ち上げたのがこの時期で、それまでのお姫様役から脱却した作風に挑戦。物質的な幸せと精神的な幸福について問うた社会派劇『東は東』は現在でも高い評価を得ています。

1920年代以降は脇役に回ることが多くなります。10年代のような華やかなスポットライトを浴びることはありませんでしたが『キートンの大学生(カレッジ・ライフ)』の母親役など日本で公開された作品にも幾つか出演していました。

今回紹介するのは1923年にイギリスで残されたサインです。同年末、イギリスでは不振に陥っていた自国映画産業を保護するため、国内上映作品の1/4を国産にする法制度が整えられます。この際に組合のミーティングに参加しスピーチを行った記事がサインに糊付けされていました。英国で映画製作を行った実績があったからこそで、彼女の存在感や影響力が1920年代まで続いていた様子が伝わってきます。

[IMDb]
Florence Turner

[Movie Walker]
フローレンス・ターナー

[出身地]
合衆国(ニューヨークシティー)

[誕生日]
1月6日

2022年1月5日 – 京都・吟松寺 雪の柳さく子地蔵

Yanagi Sakuko Jizo at the Ginsho-ji/Kyoto

正月休みに吟松寺を訪れました。

1月5日朝8時半、晴れ間が見えたかと思うとすぐに小雨のぱらつきはじめるあいにくの天候でした。

前回は金閣寺脇を抜けて紙屋川沿いを北上するルートを取りました。今年は逆に鷹峯までバスで向かい、そこから南下がてら寄る道順です。源光庵から小学校前を抜け、坂道を下っていくともみじ街道に出ます。道なりに歩いていくと紅葉の落ち葉が散りばめられた石塀の先にお寺の本堂が見えてきます。

小さな墓地の南東隅に近い一角に柳さく子地蔵が置かれています。この辺りは市街地と比べて1、2度気温が低く、カメラを準備していると雪がちらつき始めました。

初めて訪れたのが2015年のGW、次が2017年でしたので4年半ぶりになります。前回はカメラやレンズに興味を持ち始めたばかりの時期で思ったような写真は取れませんでした。山の端で音もなくざわめいている枝葉、静寂の中で立ち尽くす地蔵の質感。この独特な空気感を捉えるのはそもそも難しいのかなと思います。

手土産に古い雑誌の切り抜きを持参。かつて愛好家が保管していたもので手彩色が施されています。次にいつ来れるか分かりませんがそれまでお元気で。手を合わせて吟松寺を後にしました。

2022年1月5日 – 京都等持院 マキノ省三・雅弘墓所 & 京都蓮華寺 伊藤大輔墓所 「熱眼熱手」

先年、伊藤大輔監督が雅弘氏に謹呈した自著を譲り受ける機会がありました。「等持院に先生のお墓があります。是非寄ってあげて下さい」と教えてもらい、今回は必ず寄ろうと決めていました。

吟松寺を離れてそのまま紙屋川沿いに南下。金閣寺の脇を抜けてきぬかけの路に入っていきます。立命大の敷地に隣接した観光道路で、普段は通学する学生や走りこみの部活生が見られますがさすがにこの日はほぼ無人でした。

衣笠キャンパスのすぐ南、住宅街に囲まれるように等持院が位置しています。墓地の南西に牧野家のお墓がありました。

The Makino Family Tomb at the Toji-in/Kyoto

省三氏の墓を中心に右に卒塔婆、左に雅弘氏のお墓。

荘厳院浄空映画雄飛居士、直心院禪機映光雅人居士。雅弘氏の方は青文字、省三氏はおそらく金色で戒名が刻まれていました。智子(輝子)さんは東京・高徳寺の加藤家のお墓に入られたそうです。

Grave of Ito Daisuke, at the Renge-ji/ Kyoto

風情の或る住宅街を抜け、等持院から歩いて15分ほど。蓮華寺の五智如来が出迎えてくれました。境内墓地の南側に伊藤監督のお墓があります。誰かがお参りを済ませた後で仏花と鏡餅がお供えしてありました。雲の合間から射しこんだ日差しが熱眼熱手の碑を照らし出していました。

今回移動したルートは上のようになっています。四条大宮からバスで鷹峯源光庵前(A)に向かい、そこから吟松寺(B)、等持院(C)を経て蓮華寺(D)へ。距離にして5キロ程の旅となりました。

2022年1月5日 – 京都・おもちゃ映画ミュージアム

2022年1月5日夕方、京都のおもちゃ映画ミュージアムにお邪魔してきました。

戦前の映写機やフィルムについて調べていると頻繁に名前を見かけます。開館した2015年にはすでに京都を離れていたため訪れるのは今回が初めて。

Toyfilm Museum

四条大宮から北西に道なりで進み、壬生馬場町、中京警察署の辺りまで行くと看板が出ていました。古民家を改修したもので、木窓の隙間から映写機が顔をのぞかせています。

玄関を開けてすぐ、左手の土間に沿ってチラシやグッズが並んでいます。右手の和室を改造した大きな部屋がメイン展示室になっていました。

木棚にズラリと並んでいるのは1900~30年代の幻灯機と、そこから派生してきた初期型の35ミリ映写機です。エルンスト・プランクなどドイツ製から朝日やキング映写機の国産まで揃っています。

紙製フィルム専用のレフシー映写機。実物を見るのは初めてです。9.5ミリ形式ではパテベビー映写機とリュクスが複数台、独アレフ製、国産のアルマ映写機などが置かれていました。

幻灯機・映写機と並ぶミュージアム収集品の中心がプレ・シネマと呼ばれるジャンルです。

手持ち型のステレオスコープ

据置き型のステレオスコープ

ゾーイトロープ

ミュートスコープ

フェナキストスコープ

いずれも日本では入手しにいものでまとまった形で見ることが出来たのは貴重な体験でした。

展示室の奥の広い土間が映写室となっていて、大型スクリーンで動画を見ることができます。お邪魔した時には次回のイベント時に使用予定の米スラップスティック短編集が流れていました。フィルムをデジタル化した動画データも閲覧可能で市川右太衛門主演の『浄魂』、阪東妻三郎主演の『雲母坂』を見せていただきました。

一通りコレクションを見終えた後、元大阪芸術大学教授、現在ミュージアムの代表を勤めておられる太田米男氏、理事をされている河田隆史氏に貴重なお話を色々お伺いすることができました。とても楽しく充実した時間でした。お忙しい中ご対応していただきありがとうございました。

2022年1月6日 – 京都・葵公園 尾上松之助胸像

Statue of Onoe Matsunosuke at the Aoi Park/kyoto

6日午前中は繁華街で写真撮影や買い物を楽しんできました。町には正月気分が漂っているものの、錦市場などは平日だったこともあって人出は少なかったです。

午後に地下鉄で烏丸今出川まで向かい、そこから徒歩で東に移動。途上、鴨川を横切って三角州を抜けていきました。

三角州の尖った部分は「デルタ」と呼ばれていて、夏の休日は親子連れが水遊びに訪れ、夜は学生たちが酒宴を展開、時々謎のパフォーマンスや流しの演奏などもあったりで街の只中に一種独特な空間を形成。京都に幾つかある特異点のひとつです。

通りを一本挟んだ北に葵公園があって、そのまま北上すると糺の森から下鴨神社に抜けることができます。松之助像は風景に馴染みすぎていてもはや一般市民には気づかれない存在になっています。

よく見ると凛々しい胸像です。折角ですのでご挨拶まで。

2022年1月6日 – 京都・今出川通り 古書店めぐりと『メトロポリス(他一篇)』(昭和3年)

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items] より

Metropolis (Thea von Harbou, Translated by Hata Toyokichi, Kaizo-sha, 1928)

松之助像に挨拶を済ませて古本屋巡りをスタート。ゴールデンウィークであれば春の古本市に足を運ぶのですが時期がずれたので一軒一軒足で潰していきます。

まずは百万遍の吉岡書店~井上書店へ。大正期の映画誌や説明本が埋もれていないかな、と床の木箱まで漁りましたが収穫はなし。それでも人文系や洋書の充実はさすがでタイトルを見ているだけで刺激になります。

その後白河通りへと向かい善行堂~竹岡書店へ。

善行堂はセレクトショップ指向の古本屋さんで店内にジャズが流れています。横積みになっていた書籍のひとつで手が止まりました。

「…メトロポリス?」

奥付を見ると昭和3年(1928年)の初版。正式書名は『メトロポリス(他一篇)』。訳者は秦豊吉。映画のスチル写真も10枚ほど収められています。

邦訳があること自体初耳でした。ドイツ語版、英訳、仏訳いずれも1920年代の版は入手困難で灯台下暗しとはまさにこのこと。喫茶店で足を休めながら400ページを一気読み。巡礼の最後に素敵な発見がありました。

1924 – 9.5mm 『ニーベルンゲン 第1部 ジークフリート』(フリッツ・ラング監督)1930年代初頭 英パテスコープ版

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items] より

Siegfried (« Die Nibelungen: Siegfried », 1924, UFA/Decla-Bioscop, dir/Fritz Lang) Early 1930s UK Pathescope 9.5mm Print

ラング監督によるニーベルンゲン第1部『ジークフリート』の9.5ミリ版。ノッチ有の4巻構成で映写時間は1時間10分ほど、オリジナルの半分ほどに縮約されています。

戦前9.5ミリフィルム特有の粒子感は見られるものの良いプリントです。

『クリームヒルトの復讐』紹介で触れたように9.5ミリ版はウーファ社の輸出用ネガを元にしたプリントで、国内向けネガを元にした現行のデジタル版の別アングル、別テイクから構成されています。第1リール(鍛冶屋での修行、火龍との闘い、小人族が守るニーベルンゲンの秘宝)をスキャンし、デジタル版および戦後フランス製の8ミリ版と比較してみました。

左から順にデジタル修復版、仏フィルム・オフィス8ミリ版、英パテスコープ9.5ミリ版。

鍛冶屋の場面から出立まで

火龍との戦い

小人族とニーベルンゲンの秘宝

一部トリミングされているため完全一致とはなりませんが、仏8ミリ版はデジタル修復版と同じドイツ国内用ネガをベースにしていると分かります。一方で英9.5ミリ版は別カメラによるショットで構成されているためアングル、構図が変わってきます。また単にカメラが別なだけでなく、使用されているテイクが異なっているケースが多く表情や体の動き、人や物の位置関係も微妙に異なっていました。

1925年2月末、帝劇で『ジークフリート』がプレミア上映された時、映写機にかかっていたのは輸出用フィルムだったはずです。弁士を徳川夢聲氏が務める中、観客の凝視するスクリーンに映し出されていたのは右側、9.5ミリ版と同じイメージでした。

[公開年]
1924年

[IMDB]
Die Nibelungen: Siegfried

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB729

[9.5ミリ版発売年]
1931年8月

[フォーマット]
9.5mm 100m×4巻 白黒無声 ノッチ有

1924 – 9.5mm 『ニーベルンゲン 第1部 ジークフリート』(フリッツ・ラング監督)イリス商会1925年製 二折りリーフレット

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items] より

Die Nibelungen: Siegfried (2-Folded Leaflet Made by C. Illies & Co. for 1925 Japanese Première)

ジークフリート物語

いつの頃と確とは知らず。ただゲルマン人々の血に潜み、骨に徹して傳へ来りし物語よ。

ネーザーランド王ジークムントは公子ジークフリートに稀代の劍鍛つ業収めしめんとてその頃鍛冶の誉高かりしニーベルング族の老傴僂ミーメの洞に遣はしぬ。日毎夜毎劍鍛つ業公子に勵む内三年五年は束の間よ。公子は眉秀で眼圓らに肉緊りて、心智く、業も一極優れて逞しき若者とはなりぬ。今はミーメに別れを告げグラニと呼ぶ雪白の名馬に跨りてアルベリツヒの崫に「ニーベルンゲンの寶」を得んと勇み行きぬ。やがてウオルムスの深き谿へと來れば地を轟かし森を震して、大な火龍熖を吹きて丘の如く道を阻みぬ。ジークフリートは名劍バルムンクを揮ひて火龍を殺しぬ。血奔りて掌を燒けるに思はず唇を當つれば不思議や、彼は梢なる小鳥の歌を解し得ぬ。

「人は知らぬ」火龍の秘密よ、血潮に浴せば不死身になるぞ。人は知らぬ、われ等のみ知る、火龍の秘密よ。ジークフリート喜びて裸身にて血の池に浴びぬ。此時上よりライムの枯葉一つ舞い落ちかゝりて、脊に拳程の肌、血に染みざりしを彼は知らざりしぞ悲しき禍の源なる。アルベリツヒの許には崫々に寶物數多充み滿たれば、之を獲んとて遂にアルベリツヒを倒しぬ。アルベリツヒは最後の際に「ニーベルンゲンの寶」に呪を與へ自ら石と化して死せり。ジークフリートは、隠身の蓑を携へて今は只管にラインを指して急ぎぬ。

旅衣はるかに、ジークフリートはラインの邊に來りぬ。彼方突几と高く聳ゆるグンター城には、ブルガンデイーの美と徳との徴、髪長く眸淨らなる王妹クリームヒルトなる乙女ありぬ。彼は必ず得て永く共に契らんと心決めぬ。され共、グンター王の股肱、心剛く知惠深きハーゲン、トロンエは優れたる若者を憚りて、クリームヒルトを許す爲に一つの難題を與へぬ。「我は十二人の王を統べたり。いかで、グンター王の配下に立たん!」と怒るジークフリートを優しくクリームヒルトは難題を受けよと乞ひぬ。 ジークフリート心を決めて、北極光紫に映ゆる氷島で強勇の女王ブルンヒルダと戰技を競ふ、グンター王を助け勝たしめ女王を得て歸城しぬ。

ブルガンデイーの城内に祝の頌歌高く擧りぬ。王はブルンヒルダと、ジークフリートはクリームヒルトと、婚宴の夜は歡びに溢れれぬれど、胸の中秘かにジークフリートを慕へるブルンヒルダはグンター王に冷やなりければ王の氣を入れ、變身の蓑もてグンター王に化身し、女王の心を試みしが、この秘密を覺りしブルンヒルダは、怨み憤り、さきに、クリームヒルトを欺きて不死身の秘密を知れるハーゲン、トロンエと計りて、鹿猟に事寄せて彼を失んとしぬ。其の日、トロンエは、ジークフリートの渇けるに乗じ、美しき池に到り脊後より鋭き槍を投げてジークフリートを殺しぬ。あはれ、若き王、ジークフリートは、かの呪はれし寶の爲に命を果てぬ。愛惜と悔恨に胸破れてブルンヒルダも亦、彼が亡體の側に自ら死せり。しかも、心深く、永く呪と復讐の誓を刻みし。クリームヒルトは只黙して冷たき涙を流してありぬ。

さもあればあれ、今とは樣變わりて、古の世、人心義に厚く、仇には剛くありしこそ、あはれ掬めども盡きぬ味かな。

◇◇◇

1925年2月、日本で二ーベルンゲン第一部『ジークフリート』が封切りされた際に先行して配布された2色刷りの粗筋・配役紹介。

木版画調の枠に飾られた4枚のスチル写真が大きくあしらわれ、下に粗筋がまとめられています。筋をまとめた人物の名は明記されてはいませんが堂々とした擬古文の調べは素人離れしておりそれなりに名の知れた活動弁士、又はそれに類した経験を積んだ持ち主と思われます。硬質なゲルマン古神話が「もののあはれ」に違和感なく置き換えられているのには驚きました。

1927 – 『大いなる跳躍』 (アーノルド・ファンク監督) 1930年代 英パテスコープ社プリント

Gita the Goat-Girl (Der große Sprung, UFA, dir/Arnold Fanck)
UK Pathescope 9.5mm Print 1st reel

イタリアはチロル地方の小さな村に「羊娘」とあだ名される少女ジータが暮らしていた。快活な性格と麗しい容貌に言い寄る若者も少なくなかつたが本人はピンとこないようである。「三本針」と呼ばれる巨大な奇岩によじ登って男たちを煙に巻くのであつた。

そんな或る日、ジータが水辺で羊と戯れているとどこかから悲鳴が聞こえた。目を上げると湧水を流してくる懸樋の先に男が引つかかつている。観光客が足を滑らせ流されてきたようである。ジータは懸樋に昇ると絡まつていた紐を噛み切つて男を助けたのであつた。

数日後、ジータが「三本針」で涼んでいると見慣れない高級車が見えた。降り立つたのは先日の観光客。都会から来たミカエルという名の若社長で、ジータに一目惚れし求婚に訪れたのであつた。想いを伝えたい一心でミカエルは切り立つ岩をよじ登つていく。地元青年のトニも負けじと追いかけたがミカエルが一歩早かった。「お嬢さん、貴女の御手を頂戴してもよろしいでせうか?」…リタは自分の手のひらを見つめ小首をかしげた。はてさて、高さ十数メートルの決死のプロポーズの行方や如何に。

『聖山』(1926年)や『死の銀嶺』(1929年)で知られる山岳映画の名匠ファンク監督の手による喜劇作品。前半は奇岩「三本針」の周辺で繰り広げられる恋の駆け引きを、後半はヒロインのパートナーを目指して繰り広げられる大掛かりなスキー大会を描いており、2本組で発売された9.5ミリ版の各巻が対応しています。

1924年6月、膝を怪我してしまい長期間舞踏から離れざるをえなくなりました。この時期にアーノルド・ファンク監督の『アルプス征服(Der Berg des Schicksals)』を見て、とても感銘を受けファンク氏に会いにいきました。お会いできたことで『聖山(Der heilige Berg)』の踊り子ディオティマ役を頂戴する結果になつたのです。一年半をかけ同作でご一緒させていただき、その後すぐに2作目の『大いなる跳躍(Der große Sprung)』が続きました。

「レニ・リーフェンシュタール」
『映画芸術家:自分自身を語る』(1928年)

Im Juni 1924 hatte ich mir das Knie verletzt, so daß ich lange Zeit mit dem Tanz aussetzen mußte. In dieser Zeit sah ich den Arnold Fanck-Film „Der Berg des Schicksals », der einen so starken Eindruck auf mich machte, daß ich Arnold Fanck aufsuchte. Die Folge dieser Begegnung war, daß mich Dr. Fanck für die Rolle der Tänzerin Diotima in seinem Film „Der heilige Berg » engagierte. Anderthalb Jahre arbeiteten wir an diesem Film, dem sofort der zweite „Der große Sprung » folgte.

Leni Riefensthal
Filmkünstler; wir über uns selbst (1928, Sibyllen-Verlag, Berlin)

シリアスな人間ドラマで見慣れているはずのリーフェンシュタールやトレンカーがとぼけた顔で荒唐無稽な恋愛ファンタジーを演じている様子は必見。十数メートルの高みでリーフェンシュタールが両腕を広げゆっくりと立ち上がる場面、燕尾服姿で大きな花束を抱えたシュニーベルジェが垂直の岩肌を登る場面など各々の身体能力の高さも存分に発揮されています。

『大いなる跳躍』は2020年にデジタル版(DVD/ブルーレイ/ストリーミング)が発売されており英語字幕付きで見れるようになりました。9.5ミリ版と比較した所、一ヶ所気になる部分が見つかりました。

若社長ミカエルが「三本針」を登るジータに求婚する場面です。頂上に辿りついたミカエルがシルクハットを上げて挨拶する場面が、デジタル版と9.5ミリ版では左右反転しています。

燕尾服の胸ポケットに注目してみます。上の写真で分かるように上着の左胸にポケットがあってハンカチ(又は手袋)らしき白い布が覗いています

帽子をとって挨拶する場面では右胸にポケットがあって白い布が見えています。またデジタル版ではジータが青年に手を貸して自分の体の右隣に引き上げるのですが、三人並んだ場面でミカエルは左隣にいます。コンティニュイティー(連続性)視点からデジタル版が左右反転していると見てよさそうです。

フィルムの表裏は一般に思われている以上に見分けにくく編集や修復(ダメージのある個所を置き換える)時のヒューマンエラーはありえるものです。最新のデジタル版にまでエラーが継承されている可能性がゼロではないため、できるだけオリジナルに近いプリントを参照する必要性を実感します。

[公開年]
1927年

[IMDB]
Der große Sprung – Eine unwahrscheinliche, aber bewegte Geschichte

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB748

[9.5ミリ版発売年]
1932年8月

[フォーマット]
9.5mm 100m×2巻 白黒無声 ノッチ有

2021 – DVD デジタル修復版『ティーミン』(1919年、ルイ・フイヤード監督)

「ルイ・フイヤード」より

Tih-Minh (1919, Gaumont, dir/Louis Feuillade, 4K Digital-Restored Version)

『ジュデックス』は重要な転換点となった。以後、フイヤード監督は悪漢でなく、犯罪者に正しく立ち向かう者が視聴者の共感を得るような見せ方、タイトルの選び方をしていく。記憶に残すほどの作品ではないものの『續ジュデックス』でも同様だったし、その後の二作『ティーミン』(1918年)と『バラバス』(1919年)にしてもそうであった。両作とも12章仕立て、物語は灰色がかったパリ郊外から離れ、花と棕櫚のニース、かぐわしい香草が生い茂りドライストーンの一軒家が点在する同地近郊の丘陵地を舞台に展開していくのである。 […] 『ティーミン』では所々にシュールレアリズム風のキラリとした光があって(修道女に変装した悪党団、木々と花々の合間の隠しマイク、庭で踊る狂女など)同作を『レ・ヴァンピール』に次ぐ作品としている。

『フイヤード』 フランシス・ラカサン著
(アンソロジー・デュ・シネマ第15巻、1966年)

JUDEX marque un tournant important ; désormais, ce n’est plus le criminel que Feuillade désigne à la sympathie du public, mais son loyal adversaire. Il en sera ainsi encore dans LA NOUVELLE MISSION DE JUDEX, film à oublier, et dans les deux suivants : TIH MINH (1918) et BARRABAS (1919), tous deux en douze épisodes, qui se déroulent non plus dans la grisaille de la banlieue parisienne, mais parmi les fleurs et les palmiers de Nice ou dans les collines de l’arrière-pays, parfumées du thym et parsemées de petits villages aux maison de pierres sèches. […] Le premier est embrasé à certains endroits par des éclats surréalistes (bandits déguisés en religieuses, microphones cachés dans les fleurs et les arbres, folles dansant dans un jardin, etc.) qui le placent immédiatement derrière LES VAMPIRES.

Feuillade, Francis Lacassin
Anthologie du Cinéma, No.15
(supplément à l’Avant-Scène du Cinéma No 59 de Mai 1966)

※本作の粗筋については仏語小説版の紹介を参照してください。

1918年前半に撮影、翌年初頭に公開された12幕物の活劇でフイヤード監督にとっては『ファントマ』『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』『續ジュデックス』に次ぐ第5作目の連続劇に当たります。撮影開始百年の節目となる2018年から4Kによるデジタル修復プロジェクトが始動、公開から一世紀に当たる2019年に新版が完成。2020年にボローニャ復元映画祭でのプレミアを経た上で先日円盤(DVD/ブルーレイ)の流通が始まった所です。

フイヤードの監督キャリアを1)初期短編、2)初期活劇、3)中期活劇、4)後期連作と中長編に区切った時、『ティーミン』は第3期の始まりを告げる一作となっています。これまでDVDなどで市販されてきたフイヤード作品は第1と第2期のみでしたので、今回初めて中~後期の作品を見ることができるようになった次第です。

長らく幻の作品とされていた『ティーミン』は幾つかの点で旧作と異なっています。

同作が制作・公開された1918~19年は大戦が終わりをつげ欧州が新たな回復基調に向かい始めた時期に当たります。社会・文化・政治の価値観そのものがリセットされ、次の1920年代を見据えた動きがあちこちで見られるようになりました。映画業界、そして連続活劇ジャンルも例外ではありませんでした。

『ファントマ』~『ジュデックス』の成功もあり、以前より自由に作品を撮れるようになったフイヤードは活動拠点を生れ故郷の南仏に移します。『ティーミン』は風光明媚な観光地として知られるニースやコートダジュールで撮影されたものです。

作品のあちこちに海が登場、浜辺に沿った大通り、堤防や船着き場、岩場や岸壁など港町の利を生かしたロケーションの選定が行われています。地中海の明るい光、開かれた水平線がコントラストや構図に与える影響は大きく、パリ主体で製作された旧来型の連続劇と雰囲気が大きく変わりました。

第11章では悪漢たちがアパルトマンの屋根伝いに逃亡を図ります。活劇ではお約束の展開ではあるもののカメラはその先の尾根や緑に囲まれた住宅街も捉えています。建物が密集し整然と立ち並ぶパリ中央部でこういう絵にはならない訳で、撮影拠点の変更が市街地での撮影にも影響を及ぼしているのが分かります。

旧作との印象の違いは植生にも現れています。

アフリカ原産の多肉植物や地中海周辺に自生する草花が多く登場。天に向かって広がる曲線、あるいは放射状に広がる葉が映りこんで画面に異様な装飾性と緊張感を付け加えています。

地中海周辺の植物相(フローラ)を構図に取りこんでいく手法は『ティーミン』の有名な場面でも見て取ることができます。

第8章『慈悲の枝』では駕籠ごと崖から落とされたティーミンが木の枝に引っかかって九死に一生を得ています。崖の岩場に手をかけてよじ登ろうとしているヒロインを上から捉えたのがこの一枚。高所から落ちかけて危機一髪の設定は旧来活劇の焼き直しですし、見る人によっては「またこのパターンか」となりそうです。

ティーミンを助けた「枝」はゴツゴツした針葉樹で日本の松に似ています。地中海東部を原産とするトルコ松(ターキッシュ・パイン)ではなかろうか、と。フランスでは南部にしか自生していない樹木がヒロインを助けるのがポイントで、上部に聖性を帯びた「慈悲の枝」が広がり、その下で必死のヒロインが岩場に手をかけている構図がフイヤードの思考形態、宗教観や郷土愛を如実に反映しています。『ティーミン』そのものが南仏の風景によって連続活劇の紋切り型を再解釈・再構築していくプロジェクトであった。そんな風に言い換えることもできるのでしょう。

◇◇◇

『ティーミン』を理解していく上で避けて通れないのが「心」をめぐる問題です。

第1章半ばで悪党団に拐かされ第4章で救出されるまで姿を現さない。その後は薬品の影響で記憶と言葉を失い友人や恋人も判別できず不安定な表情、所作が目立つ。第7章で記憶を取り戻すも以後の物語展開に大きな貢献はしていない…5時間半近い本作を見ていると主人公ティーミンの活躍がほとんど描かれていない点が気になってきます。

ティーミンの存在意義とは、フイヤードが彼女に託した役割は果たして何だったのか。ひとつの仮説を立てることができると思います。

心に受けた傷が要因となって記憶や振舞いに異常を生じるも、あるきっかけから記憶が蘇りそこから治癒と回復に向かう。ティーミンが作中で生きた物語には初期精神分析の提案した心的外傷、トラウマの概念が色濃く反映されています。第3話では専門医も登場、記憶を失ったティーミンが心身の不調と闘っている様子が描かれていきます。ティーミンは若い頃に父親を殺害される辛い体験をしていて、第7章では最近の記憶と同時に当時の事件の記憶と言葉を取り戻し、悪党団の暗躍する理由を解き明かす鍵となっていく…

ティーミンは心の軌跡によって物語を中盤で好転させていく役割、いうなればゲームチェンジャーの機能を果たしているのです。

1910~20年代にかけ心をめぐる新しい知見を取りこんだ文芸の流れ(『失われた時を求めて』、『ユリシーズ』、シュールレアリズム)が一つのトレンドとなっていました。例えば『ユリシーズ』の連載は1918年3月に始まっていて『ティーミン』撮影と重なっています。直接の影響云々ではないにせよ、フイヤードが時代の最先端を意識したという仮説は十分に成り立つと思います。

とはいえ視覚芸術である映画の枠組みで「心」を描くのは容易ではありません。冒頭からティーミンに感情移入して見ていれば話は変わるのでしょうが、そもそも登場頻度が少なく存在感の希薄なヒロインに字幕一つで「そう、思い出した!」と言われても受け手側が共感しづらい流れになってしまっています。

『ティーミン』構想時のフイヤードが精神分析に興味を持っていたと仮定すると他のいくつかのエピソードも理解しやすくなります。上の2枚は記憶と理性を失った女性たちが幽閉されているキルケー館のエピソードより。下の2枚は助けにやってきた外交官が策略により妄想癖、虚言癖のある危険人物とみなされ隔離されるエピソードから。理性と狂気、意識と無意識、ノーマルとアブノーマルなど連続活劇の世界観には似つかわしくない不穏で重めの空気が流れます。

こういった傾向は一般的に「幻想的な場面が所々含まれている」の形で解釈されています。冒頭に引用したラカサンの例でいうなら「所々にシュールレアリズム風のキラリとした光があって」の部分です。ただ、この見方は厳密には不正解なのだろうと思います。

『ティーミン』には通常の「アクション活劇」の側面もあって、善対悪の丁々発止も描かれています。一方ではヒロインに託された「心の物語」が並走していて、キルケー館や隔離部屋のエピソードはその世界観を補完する意味で挿入されたと考えれば整合性がでてきます。

しかしこの試みは上手くいかなかった。

記憶喪失、失語症、心の病と闘うティーミンの物語が十全に機能せず作中でぼやけてしまったことでそれを補完するはずのエピソード群も本来の意味を失ってしまった。結果的に視聴者にとってはやや奇妙な、幻想的な質を帯びた描写があちこちに散らばっているように見えてしまう、というのが実際の所だったのでしょう。次作『バラバス』以降にこの種の試みが見られなくなったのにはフイヤード監督なりの思いが反映されているはずです。

◇◇◇

『ティーミン』での試行錯誤はブラッシュアップされ翌年の『バラバス』へと結実していきます。例えば南仏の美しさを伝えるためにフイヤード作品史上初の空撮が登場、物語の展開もスムーズで分かりやすいものとなっていきます。一方で『ティーミン』に過渡期ならではの面白さがあるのも否定できません。今回のデジタル版がフイヤード中期~後期活劇の再評価につながる第一歩になってほしい。海外の一愛好家として切に願っています。

[出版年月日]
2021年12月8日

[出版者]
ゴーモン・ビデオ(Gaumont Vidéo)

[EAN]
3607483290484

[再生時間]
324分

[フォーマット]
19.3 x 13.6 x 1.7cm 180g

大正14年(1923年)頃 35ミリ齣フィルム 30枚

c1923 35mm nitrate film fragments

大正末期に個人コレクターが集めた35ミリ齣フィルムのセット。革製の表紙に金文字で商品名をあしらった蛇腹型フィルムブックに収納されています。写真や絵葉書を貼るアルバムと違い、4か所のスリットに囲まれた中心部に四角い切り抜きがあり、光に翳すとコンテンツが見える仕組みになっていました。

齣フィルムは全部で30枚。邦画(8枚)、洋画(15枚)、相撲(7枚)の三種に大別できます。

邦画では尾上松之助と阪東妻三郎のフィルムが収められていました。その他のフィルムもすべて時代劇/旧劇のみで新派劇や現代劇は含まれていません。

一番充実していたのは米国映画でした。左はパール・ホワイトの中期活劇『電光石火の侵入者』(1919年)の広告をあしらったもの。名脇役ワーナー・オーランド演じるアジア系の悪漢に銃を突きつけている場面です。左はフェアバンクス短編からの一コマ。

アクション多めのヒーロー活劇が好きだった様子は他のフィルムからも伝わってきます。左はエディー・ポーロ。右は西部活劇からの一枚。

最も登場回数の多かったのがチャールズ・ハッチソン。以前に『ハリケーン・ハッチ』(1921年)の説明本『スピードハッチ』(1923年)の齣フィルムを紹介済。上の4枚はその両作の間に制作・公開された『豪傑ハッチ』(Go Get ‘Em Hutch、1922年)用のスチル写真をベースにしています。右上の一枚にはヒロイン役のマーガレット・クレイトンが登場、右下で驚いた顔をしているのは悪役のリチャード・ニール。

他に一枚ハリー・ケイリー(Harry Carey Sr.)も含まれていました。長いキャリアを持つ西部劇俳優で自国では根強い人気を誇っています。残り6枚は現時点で未特定。

角界関連の齣フィルムは初めて目にしました。

最上段のベテラン力士、第19代横綱・常陸山を除くと若手が並んでいます。中段左から伊吹山末吉、常陸島朝吉、阿蘇ヶ嶽寅吉と続き下段左から若葉山鐘、東雲衑藏、福栁伊三郎。

「故常陸山」とあるように常陸山は1922年の夏に亡くなっています。また阿蘇ヶ嶽は1924年春に廃業。阪妻が1923年初頭にマキノ等寺院に入社し知名度を上げ始めた点も考慮すると齣フィルム全体が1923年に流通したと見て間違いないと思われます。

大正4年 – 「フイルムの行衛」(森田 淸、『キネマ・レコード』 1915年6月 通巻第24号)

« Destiny of A Film » (Morita Kiyoshi, Kinema Record No.24, 1915 June Issue)

毎月我國へ輸入せらるゝ處の陰陽のフイルムは尺數に於て實に何十萬呎を算するのであるがその割合に映畫商及び映畫會社の倉庫に充滿しないのは如何なる原因かと沈思默考したあげく漸く會社その他映畫商の内幕から魂膽を知る事が出來た。[…]

敢へて會社名は云はないが、一昨年中に輸入せられた千呎余りの一米國映畫は或る購買者のあつた爲め會社は賣つて了つた。購入した商會は此映畫を以て東北地方の巡業に六ヶ月間使用した處から疵を生じた爲め一端元の商會へ送り返した。商會では加工術を以て再び無疵な映畫としたあげく複寫して陰画を作りそして之は保存して陽画は直ちに大阪の或る個人經營の映畫商に賣却した。その時の賣値は一呎に付いて四銭と云ふ事であつた。求めた商会では又々之れを以て地方巡業に使用しその後數ヶ月後にして田舎廻りの小活動屋に賣つたが此の時には既に此の映畫は複寫手數料などゝ云ふ裏面の難に遭つて來たのみならず最初の千呎は映寫禁止の爲め沒収となつて警察官の手の殘つた場面や巡業中不正技師の爲に他に賣られた場面等にて大半は影が無くなつて居た。田舎廻りの活動屋は之を以て尚村の鎮守の祭禮等に村人の前に提供して大能書を並べ立てゝ居たが今度は殆ど映寫に絶へぬ處から或る玩具屋点に賣却して了つた。玩具店では其の中の比較的良好なる場面を接續して小兒用教育活動の映畫とし尚且つ殘余は一駒一駒に切つて小袋に入れて之れも子供の「樂しみ袋」として了つたのである […]。

「フイルムの行衛 – 行衛不明のフイルムと盗賊に等しき行爲」 森田 淸
『キネマ・レコード』1915年6月通巻第24号

今回投稿したいわゆる「齣フィルム」の発生経緯に関して、1915年のキネマ・レコード誌に興味深い一節を見つけました。

齣フィルムをめぐる社会・文化・経済的な背景は以前にも何度か引用した福島可奈子氏の論文「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」で詳述されています。

映画館で何度もかけられて使い物にならなくなったフィルムをそのまま、あるいは巡業先で興行師がその場で切り売りしたり、また下請業者が複製・着色して子供向けに玩具として販売した。

「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」
福島 可奈子(『映像学』2018年 99巻 p.46-68)

福島論文では齣フィルムの発生経緯について一般論のレベルで記述されているのみです。間違いではないものの、キネマ・レコード誌の例のように個別案件で見ていくと実態はもっと錯綜し複雑だったと分かります。

1910年代は各国で映画産業が軌道に乗り始めた時期であり法規制が追いつかずグレーゾーンが多数存在していました。そのため森田氏が伝えているような怪しげな動き(映画会社が許可なくネガを複製してしまう、映写技師がフィルムの一部を勝手に自分のものにする等)が横行する余地が大きかったといえます。

初期映画をめぐる混沌とした状況を前に法制度が整えられていきます。1)コンテンツ面を管理する検閲、2)年齢制限を含めた作品のレーティング、3)フィルムの物理的リスク(燃えやすい可燃性フィルム)の管理を目的とした法制度と技術の整備、4)フィルムの所有権や著作権管理をめぐるシステムの厳格化などが急ピッチで進められていきました。

齣フィルムは2番目と4番目の問題に深く関わっています。

(福島論文で指摘されているように)年齢制限が導入され、一部の作品を見ることが出来なくなった児童向けに発案された救済ツールであったと同時に、著作権や所有権の制度が十分に整っていなかった時代に流通最末端に発生してきたあぶく銭を生み出す魔法の「殘余」でもあった。切れ切れになって生き残ったフィルムを通じてそんな時代風景が見えてきます。

ロート・イラ Lóth Ila (1900 – 1975)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(06)

Lóth Ila Late 1910s Hungarian Postcard

1900年(一説には1899年)ブダペスト生まれ。演劇学校を卒業後、16歳で映画女優としてデビュー後、その才を高く評価されスター映画社に入社。1916年から1921年秋にかけ、同社の花形女優として活躍しました。1921年末にミュンヘン軽喜劇芸術映画社に移籍、2年程ドイツ映画界での活動を続けますが1923年、結婚と共に一旦女優業を離れます。戦後、1940年代末に老け役として映画界に復帰、亡くなる直前の1970年代中盤まで女優人生を全うしました。

A magyar « Weixler Dorrit »
「演劇生活(Színházi Élet)」誌
1918年7月28日-8月4日付第30号

「演劇生活」誌では1918年の初め頃から誌面に登場するようになってきています。前年末に軽喜劇『リリ』を映画化した作品に出演しており劇界でも認知されるようになってきた流れです。この時期はドイツの娘役女優ドリット・ワイクスラーを引き合いに「ハンガリーのドリット・ワイクスラー(A magyar « Weixler Dorrit »)」と形容されていました。

『山麓にて(Hegyek alján)』

『壱弗(Egy Dollár)』

ロート・イラに関してはハンガリー国立映画協会アーカイヴ(NFI Filmarchívum)が丁寧な発掘作業を試みています。戦前ハンガリーを代表する監督バログ・ベーラ(Balogh Béla)の手による1920年作品『山麓にて(Hegyek alján)』、さらにハンガリー無声期の最終作となる1923年作品『壱弗(Egy Dollár)』(ウエ・ユンス・クラフト監督)の2作を修復、その一部はオンラインでも公開されています。

『過去との邂逅』(Találkozás a múlttal – Lóth Ila, 1967年, ハンガリー国立映画協会アーカイヴ)

またハンガリー国立映画協会アーカイヴには1967年の記録映像も残されています。女優さん本人に自身の古い作品を見てもらいながらコメントを貰う内容で初期作の断片も収録されていました。

デビュー当初はアイドル女優の扱いを受けていた彼女ですが20年頃になると『ジェーン・エア』や『デイヴィッド・コパフィールド』など文芸作品でもヒロインを演じるようになっています。ハンガリー初期映画が成長・成熟を遂げていく軌跡と、映画女優としての立ち位置の変化が軌を一にしています。

[IMDb]
Ila Lóth

[Hangosfilm]
Lóth Ila

[出身地]
ハンガリー(ブダペスト)

[データ]
City III 102, Színházi Élet kiadása, Angelo Fotografia

モンタグ・イロナ Montagh Ilona (c1899 – ?)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(07)

Montagh Ilona Late 1910s Hungarian Postcard

ハンガリーでは今までそれほど多くのコメディ映画は作られてこなかった。だが見ることのできた数少ない幾つかの作品から判断する限り、我々はドイツ人よりこのジャンルに向いていると思われる。名匠オイゲン・イッレーシュが脚本と監督を手掛けた新作喜劇は『伯爵夫人泥棒』のタイトルで近日公開予定。同作の目玉となっているソムレイ・アルトゥール氏に加え、若手女優モンタグ・イロンカ [原文ママ] が感情の起伏の激しい演技を見せる。

「ハンガリー喜劇新作」
『演劇生活』1916年第7号

1899年頃に生まれる。早くから演技の道を志し10代半ばで国立劇場に立ち『ポーランドの血』で高い評価を得る。1916年、エイゲン・イーレッシュ監督作の喜劇短編2作に出演。1917年から拠点をベルリンに移し、レッシング劇場で上演された軽喜劇『空の女王(Königin der Luft)』がヒット作となり同劇場付き女優となり、後にコーミッシェ・オーパー (Komische Oper Berlin)に転籍。

1920年代には米国に進出。21年初頭にニューヨークの39番街劇場で上演された『結婚同然(Almost Married)』で成功を収めます。この時の相手役が後のドラキュラ俳優ベラ・ルゴシ(ルゴシ・ベーラ/Lugosi Béla)。共同作業が続く中でロマンスが生まれ1921年9月に結婚、しかし妻に女優業を引退してほしかったルゴシと女優キャリアを続けたいイロナが対立、翌年には離婚しています。離婚後の消息は不明。熱心なベラ・ルゴシ愛好家の調査によると1935年に万引きで逮捕された記録が残っており不況期に生活の困窮していた様子が伺えます。

ルゴシの伝記で名を見かける機会があるものの若い頃の写真がほとんど残っていないそうで1918年のポートレート入絵葉書は貴重な一枚です。

[IMDb]
Ilona Montag

[Hangosfilm]


[データ]
1066 Bildnis von Angelo Budapest 1918

1928 – Super8 『放浪三昧』 (千恵プロ、稲垣浩監督) 東映/サングラフ版

「8ミリ 劇映画」より

Hôrô Zanmai (« The Wandering Gambler », 1928, Kataoka Chiezo Productions, dir/Inagaki Hiroshi)
Toei/Sungraph Super8 Print

片岡千恵蔵がマキノから独立して立ち上げた千恵プロ初期作のスーパー8版。VHSやDVDでも市販された記録がありますがVHSは松田春翠氏の語り付きで60分版、DVDは無声の40分版と内容に異同があります。サングラフ版スーパー8は上映時間12分ほどで光学録音に竹本嘯虎氏、カセットに花村えいじ氏の語りが収録されていました。

江戸詰めの職務を終え、山道を越えて故郷へと戻らんとする武士たちの列に伊達主水の姿があつた。妻のつゆと一人息子の小太郎との再会を目前に主水の心は躍るのであつた。

その頃、自宅にて留守を守っていたつゆの元に怪しげな来訪者があつた。以前からつゆに横恋慕していた関口荘六である。荘六は江戸で主水が勤王派の志士と知己になつたのを知り、「この一件が明るみになればお前の夫の将来はないぞ」と脅しにかかる。主水が勤王派とやりとりした手紙と引き換えに自分のものになれと云ふのであつた。

自宅に帰り着いた主水であるが、家は奇妙なほどに静まりかえっていた。仏間に入った主水は驚きのあまり凍りつく。仏壇の前には自害してこと切れた哀れなつゆの姿があつた。残された書置きから全ての経緯を知つた主水は関口荘六の家に乗りこみ、妻の仇を容赦なく切つて捨てるのであつた。

脱藩し一子小太郎との流浪の旅に出た主水。やがて二人は京都へとたどり着く。折しも京の町は佐幕派と勤王派の抗争に血なまぐさい空気を漂はせていた。

主水が勤王派と繋がつていると信じた新選組が主水をつけ狙う。近藤勇は配下の者に小太郎を誘拐させ、主水を屯所におびき寄せる。

主水の危急を知った勤王派の志士たちが駆け参じ、佐幕勤王入り乱れた死闘が繰り広げられる。果たしてこの死地を逃れることが出来るのか、小太郎を胸に抱きかかえた主水の運命や如何に。

内容は前半「復讐編」、後半「幕末京都篇」の大きく二つに分かれています。流浪の武士と子供による二人旅の設定は前年の『忠次旅日記 第2部』(伊藤大輔)と重なってきますし、新選組が暗躍する京都を舞台にした作品としては同年の『坂本龍馬』(枝正義郎)があるため、比較していくと色々発見がでてきます。

9.5ミリ版紹介で触れたように『坂本龍馬』では三点照明法を採用することで薄暗い室内でも人物の髪の輪郭がくっきり見えるようになっていました。『放浪三昧』にそういった発想はなく、室内撮影ではスポットの当たった中央一点が極端に明るく周囲が減光、なおかつ頭の輪郭の黒が背景に埋没してしまっているショットが目立ちます。枝正義郎氏との技術力・経験値の差が出てしまっている部分なのかなとは思います。

酔いで視界がぶれて像が4重に見える場面

Rhythm 21 (Hans Richter, 1921) from MoMA Collection

一方で『放浪三昧』は自然描写や静物(屋台の鍋や囲碁盤)を合間に挟み流れにリズム感を生み出すセンスが光っています。また屋台で酔っ払った主人公が店を出た時、視界がブレて通りの光が4重になって見える場面がありました。ハンス・リヒターの前衛アニメーション作品『リズム21』(1921年)と強くリンクした動的・抽象的表現です。稲垣浩氏にとって二回目の監督作品ながらも新人離れした才能、そして野心は見え隠れしている訳です。

しばしば指摘されているように初期千恵蔵の殺陣は軽快で明るさを湛えています。傅次郎の豪胆や妻三郎の壮絶は欠けているものの、テンポの良いスポーティーな立ち回りは見ていて心地良いものでした。

脇を固める俳優陣にも注目。小太郎を演じた中村寿郎は本作が子役デビュー作。以前に16ミリを紹介した1931年日活作品『殉教血史 日本二十六聖人』にも山本礼三郎と滝沢静子の子供役で出演していました。主人公の妻・つゆを演じたのは衣笠貞之助の実妹・淳子さん。戦後までコンスタントに活動されておりますが現存作品が少なく今回初めて動いている姿を見ました。写真では物静かで地味な印象を受けましたが和服姿で髪を上げると品の良い香りが立ちます。

[JMDb]
放浪三昧

[IMDb]
Hôrô zanmai

[公開]
1928年8月1日

[8ミリ版製作]
東映/サングラフ

[カタログ番号]
807

[フォーマット]
60m×1、18コマ毎秒、白黒、光学録音、語り:竹本嘯虎&花村えいじ

大正14年(1925年) – 『日活映画』 9月号(映畫世界社)

Nikkatsu Eiga 1925 September Issue (Eiga Sekai-Sha)

「映画往来」「劇と映畫」「キネマ旬報」誌への寄稿で知られる淡路浪郎氏らを中心に編集された日活専門のファン雑誌。表紙は岡田嘉子さんで巻頭に西條香代子、澤村春子、岡田嘉子らのグラビアを収録。画質は並ながらも雰囲気の捉え方が上手ですね。

グラビアと新作紹介がメインで論考は少な目。書き手がお気に入りの俳優を推す内容が目立ち、対談もリラックスした調子が目立ちます。内輪ノリが強く好き嫌いの割れる内容ですが、小泉嘉輔の礼賛記事のように面白い視点を含んだ記事も含まれています。

新作紹介欄では松之助版『鞍馬天狗』(脚本は水島あやめと並ぶ女流脚本家先駆者の一人林義子)、浅岡信夫のデビュー作『母校の為めに』、砂田駒子・渡辺邦男・斎藤達雄を配した『妖怪の棲む家』。伯爵令嬢(西條香代子)の婚約者が殺された事件を探偵(南光明)が追っていく探偵活劇『闇の中の顔』などが紹介されています。

大正期らしい手描きのデザインフォントが良い味を出しています。雑誌サイズは縦22.1×横14.5cm。後半は紙の劣化・腐食が見られ角が削れたようになっていました。

9月号ということもあって夏に撮りためた写真が多く掲載されており後半は水着特集。水泳帽がファッションの一部になっていた様子も伝わってきます。

大正14年(1925年) – 『フアンの友』(太陽社)

« Fan no Tomo » (1925, Taiyo-Sha) 8-page booklet featuring still shots from « Rakka no Mai », « Nanimono? » « Aru Tonosama no Hanashi » and « Kunisada Chuji »

牧野氏の獨立はやがて多數の契約館を喪失するに至かも知れぬ。そこで東亜は躍起となつて牧野氏と交渉を始め、その結果愈よ圓滿に解決を告げて、五月三十一日を以て完成せる『落花の舞』(全二編、沼田紅綠氏監督)は東亜に引渡して、牧野氏單獨にて身を引くことゝとなつた。かくして完全に撮影所の引渡を終り、八千代生命の宣傳部長たりし小笹正八氏が等持院撮影所長に任命された。[…]

「東亞對マキノ紛爭」
『欧米及日本の映画史』石巻良夫、プラトン社、1925年、360-361頁

太陽社から公刊された縦13.3×横9.7センチの小冊子。内容は1925年前半の東亞マキノ等持院作品スチルや撮影風景写真をまとめたもの。時期的にはマキノ省三氏が東亞を離れた直後に当たると思われます。

大正8年(1919年)『活動之世界 新年特別号』

Katsudou no Sekai (Moving Picture World)
1919 January New Year Special Issue

故鐵處は良き種子(たね)を播きました。併しそれを今後なほ偉きく培ひ育てなければなりません。私の雑誌は今日迄我國映畫界の爲に幾分かの貢獻をして來たと思ひます。けれども歐州対戰の終りを告げた今日、斯界の現状は、今後の趨勢は、本誌の大努力と大發奮とを必要として居ります。私達の爲すべき仕事は愈々多く、私達の負うべき責任は益々重う御座います。私は這の重大なる秋に際し、故人の遺志を體し、本誌の主義を翳して、自分の有てる力の總てを抛つて、何處までも、我國映畫界の爲、本誌のためそして亦敬愛せる愛讀者諸兄姉の爲に竭す所存で御座います。

おゝ這の榮えある新春に -年頭及び就任の辭に代えて-
活動之世界社新社主 鈴木百合子

1918年11月、活動之世界の創設者である井手正一氏が病気で亡くなりました。同氏の未亡人・鈴木百合子氏が新たに社主となった新生「活動之世界」の第1号がこちら大正8年新年特別号です。百合子氏による決意表明「おゝ這の榮えある新春に」、井手氏の功績を振り返る追悼記事が掲載されています。

新年ということもあり、各界(映画界、出版社、ブロマイド制作会社)から謹賀新年の広告が寄せられています。後年の映画雑誌と違っていて、俳優やスタッフ陣が個人名義あるいは連名で出している挨拶も多く含まれていました。

表紙イラストはクララ・キンボール・ヤング。1918年末に公開されたモーリス・トゥールヌール監督作『モデルの生涯(トリルビー)』が人気を博していたのを受けたものです。巻頭グラビアにはマルガリータ・フィッシャーが登場、その他ビリー・ローズやドロシー・フィリップス、モリー・キングらの写真が並んでいます。邦画部門では旧劇界より澤村四郎五郎、新劇界から山本嘉一のポートレート写真を掲載。

活動之世界には読み物として脚色された粗筋が幾つか含まれています。グラビアと連動する形で『トリルビー』、新派劇『不知火』(衣笠貞之助主演)、旧劇『神宮左馬之助』(澤村四郎五郎主演)が紹介されていました。

新年号としてお祝いムードを演出しようとしているものの、実はあちこちに訃報が含まれていて不穏な雰囲気も漂っています。1918年11月には新派の女形で日活や天活で活躍した立花貞次郎氏が病没。また当時猛威を振るっていたスペイン風邪の影響が顕著になっていた時期でもあります。

米國政府各地の市衛生局にては、公衆の集合は非常に風邪の傳染を容易ならしむる事を愁ひ、各州各都市の活動常設館主に對して、暫く閉館す可き事を嚴命せり。

西班牙風邪に襲はれたる米國活動寫眞界の大混亂

ブルーバード社の花形として活躍していた女優マートル・ゴンザレスやメトロ映画社の人気男優ハロルド・ロックウッドが相次いで亡くなり、映画の上映・撮影が次々と中止され、その余波を受け映画雑誌がページ数を縮小せざるをえなくなった…という流れも見えてきます。

以前にハンガリーの初期映画史を追っていた時、1918年秋にスペイン風邪関連の記録を見つけました(女優セントジョールジイ・マールタとバンキー・ユディットが相次いで病死)。他の国々でも同様の状況が発生していたはずですが被害の全体像や影響をまとめた論考は存在していないようです。この辺りも深堀りすると面白い発見が出てきそう。

また以前に紹介したようにこの号からの新企画として通年の読者人気投票が告知されています。4月号まで中間報告が続くもそこで廃刊となり最終結果まで辿りつくことができませんでした。その後「活動花形」誌が鈴木百合子氏の許諾を得て1921年に「活動之世界」再興を試みていきます。

ヘルガ・モランデル Helga Molander (1896–1986) 独

Helga Molander 1920s Autographed Postcard

1896年、現在はポーランドに位置しているドイツの町ケーニッヒスヒュッテで生まれる。舞台で演技の経験を積んだ後、1910年代末に映画女優としてデビュー。着実に出演作を増やし1920年にはハノーヴァーに設立されたフェリー映画社の花形女優に迎え入れられます。

キネマトグラフ誌1920年6月号より
フェリー映画社広告

1921年『名花サッフォー』(Sappho)より

1921年には『名花サッフォー』に出演。ポーラ・ネグリ演じる妖婦に婚約者を奪われるマリア役を演じていました。

1925年『待乙女三人』(Die drei Portiermädel)より
左から二番目にヘルガ・モランデル

1923年頃から活動拠点をテラ映画社(テラフィルムクンスト)に移し、同社の大物監督&プロデューサー、マックス・グラス氏の作品で主演を務めるようになります(1923年『鉄仮面の男』『ボブとマリー』)。1920年代中盤がキャリアのピークとなり、トーキー到来と共に銀幕を離れています。

その私生活は波乱に満ちたものでした。

映画界でのデビュー前に舞台俳優と結婚。1916年に長男のハンス・ユルゲンが誕生するも結婚生活が上手くいかず1918年に離婚しています。母方にユダヤの血が流れていたため1930年代にはドイツを離れパリに向かいます。このとき同行したのが先に名前の上がったマックス・グラス氏でした。ドイツを離れることを拒んだ母親は強制収容所で亡くなったそうです。

グラス氏はパリで映画会社を立ち上げたのですが、親独政権が誕生すると身の危険を感じブラジルに脱出。ヘルガさんもまた同地で合流します。戦後、グラス氏が離婚した1957年に正式に再婚しグラス夫人となりました。テラ映画社時代から事実婚の状態だったそうで、カトリックで離婚が認められていなかったためこのタイミングになったとのことです。

母親について?例外的なまでに美しく、とても知的で、そばに寄ってくる男たち皆を魅了してしまう女性でした。天賦の才を備えていたとは思わない。でも美貌と知性が噛みあい、生れもっての才能に欠けていたものを埋めあせていたのです。

『理由ある反抗』
ハンス・ユルゲン・アイゼンク

What can I say about my mother? She was exceptionally beautiful, highly intelligent, and fascinating to every male who came near her. I don’t think she was a natural actress, but her combination of beauty and intelligence made up for her what nature had failed to give her in talent.

Rebel with a Cause, Hans Eysenck
(Transaction Publishers, 1997)

最初の結婚で生まれた息子とは早くから疎遠になっていました。ハンス・ユルゲンはイギリスに留学後心理学を学び、著名な学者となります。現在でも性格診断の分野で言及されることの多い「アイゼンク性格検査」を提唱したハンス・ユルゲン・アイゼンク(1916 – 1997)氏で、同氏は回想録に母親の思い出を書き残しています。

[IMDb]
Helga Molander

[Movie Walker]
ヘルガ・モランデル (Helga Molander)

[出身地]
ドイツ (ケーニッヒスヒュッテ、現ポーランド・ホジュフ)

[誕生日]
3月19日

[データ]
Karl Schenker phot.

[サイズ]
8.6 × 13.2 cm