エリノア・フェアー Elinor Fair (1903–1957)

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Elinor Fair 1920s Autographed Photo
Elinor Fair 1920s Autographed Photo

エリノア・フェアー嬢は1903年ヴァージニア州リッチモンドに生を享け、幼少時に家族と共に加州ロスアンジェルスへ引っ越し、同地でセントメアリーズ高校に入学した。一時はシアトルのセントラル高校の生徒でもあつた。品のある孃は一度はバイオリン奏者になろうと思い独ライプチヒに留学している。大戦のため母国へと戻り舞台の輝きに魅せられロスのアルカザール劇場で踊り子として初めて衆人の前に登場した。嬢の美しさと才能は忽ちにして映画製作者の目に留まり、ウィリアム・ファーナム氏の「長旅の終わり」で女優デビューを果たし、「ミラクルマン」では体の不自由な富豪妹役を演じた。嬢は優れた踊り子で、ピアノの名手である。丈は五尺五寸、體重は十四貫五十両、褐色の髪と瞳を有す。

『銀幕著名人録』(ジョージ・H・ドーラン社、1925年)

1925 - Elinor Fair in Famous Film Folk
1925 – Elinor Fair in Famous Film Folk

ELINOR FAIR was born in Richmond, Virginia, in 1903, and in childhood moved with her family to Los Angeles, Cal., where she attended St. Mary’s Academy. For a time she was also a student in the Central School at Seattle. At one time dainty Miss Fair thought she would be a violinist, and went to Leipzig, Germany, to study. The World War brought her back to America, and the lure of the stage brought her before an audience for the first time on the stage of the Alcazar Theatre, in Los Angeles, where she appeared as a dancer. Her beauty and talents attracted the attention of motion picture producers, and she was cast with William Farnum in « The End of the Trail. » She was in the cast of « The Miracle Man, » playing the invalid sister. Miss Fair is a splendid dancer and pianist. She is 5 feet 4 inches tall, weighs 120 lbs., and has brown hair and eyes.

Famous film folk; a gallery of life portraits and biographies
(New York; George H. Doran company, 1925.)

Elinor Fair in Big Stakes (1922)
『ビッグ・ステイク』(1922年)
Elinor Fair in Yankee Clipper (1927)
『メリケン波止場』(1927年)

1910年代後半にフォックス映画社で活躍し始めた女優さん。当初は本名のエリナー・クロウ名義でクレジットされていました。濃い褐色の目と髪を活かしてエキゾチックな役柄も得意としており、ルイ・J・ガスニエの名作『キスメット』(1920年)でアラブのお姫様役、『ビッグ・ステイク』(1922年)ではメキシコ女性を演じるなどしています。20年代になってフォックスを離れ映画会社を転々としていきますが、20年代中盤にデミル作品ヒロインに抜擢され1926年の『ヴォルガの舟唄』と翌年『メリケン波止場』で役者としての成長を見せました。

[IMDb]
Elinor Fair

[Movie Walker]
エリノア・フェアー

[出身地]
合衆国(ヴァージニア州リッチモンド)

[誕生日]
12月3日

[データ]

[サイズ]
24.0 × 18.5 cm

ビヴァリー・ベイン Beverly Bayne(1894 – 1982) 直筆メッセージ

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

ビヴァリー・ベイン、直筆メッセージ
1930s Beverly Bayne Handwritten Message (Byron’s Poem)

初めて映畫劇と云ふものに興味を持つたのは、一千九百十一年、十七歳の時に、女學校の暇を盗んでシカゴ市のエッサネイ撮影所を訪れて實地の模様を觀察した事に始まると傳へられて居る。その時、ある舞臺監督は嬢の映畫劇俳優としての有望な素質を見抜いて、無理に勸めて「借金倒し」と云ふ映畫の女主人公たらしめた。ところが、その結果が頗る優れて居たので、話は愈々進んで、到頭エッサネイ撮影所の嘱望に依つて、女學校を卒業すると同時に、同撮影所に雇はれる事になつた。そして、フランシス・ブッシュマン氏の相手女優となつて幾本かの映畫を撮影した。

ブッシュマン氏が同撮影所を去つてメトロ會社のクォリチー撮影所に轉ずるに及んで、嬢も共に同社に移つたが、その後ブッシュマン氏と結婚して、二人とも同社の爲めに働いて居た。昨年キネマ倶樂部に上場された連續寫眞「大秘密」は同社同撮影所の作品で、ブッシュマン氏との共演に成つたものである。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

Beverly Bayne (Who's Who on the Screen, 1920)
『銀幕名鑑』(1920年)の紹介ページ

1910年代にエッサネイ~メトロ映画社の娘役で活躍、20年代になって夫フランシス・ブッシュマンが立ち上げたFXB映画社を挟みワーナーに転じていきました。その後30年代にスクリーンを離れ、戦後に極短期のカムバックを果たした他は舞台の活動に専念していきました

こちらは彼女がシカゴ市のアンバサダー・ホテルの便箋に書き残した直筆メッセージです。内容はバイロンの詩「かのひとは美しくいく」(She Walks in Beauty)の第一節を写したもの。

雲無き邦國、星多き天空の
麗はしき夜の如く、彼女(かれ)は美に於て歩む、
而して明暗の最善なる万物は、
彼女の容貌と彼女の眼に會し、
斯くして天の祝日に拒むなる、
その優しき光明に融合するなり。

『バイロン詩集:短編』(児玉花外訳、明治40年、大学館)

She walks in beauty, like the night
Of cloudless climes and starry skies ;
And all that’s best of dark and bright
Meet in her aspect and her eyes :
Thus mellow’d to that tender light
Which heaven to gaudy day denies.

She Walks in Beauty by George Gordon, Lord Byron

バイロンの代表作として良く知られた一作で、1920年代に人気のあった女性大衆作家ファニー・ハーストが同名の短編小説を残すなど戦前の人にも親しまれていました。

日付が打たれていないためいつの物か断定はできませんが戦前30年代ではないかとの話でした。彼女の筆跡は小文字の「y」と「t」が×のように交差する癖があって真贋判定しやすいです。

Beverly_Bayne-Handwritten-Poem02

[IMDb]
Beverly Bayne

[Movie Walker]
ビヴァリー・ベイン

[出身地]
合衆国(ミネソタ州 ミネアポリス)

[誕生日]
11月11日

[データ]
シカゴ・アンバサダー・ホテルの便箋を使用

[サイズ]
15.0 × 24.0cm

1960年代 ベル&ハウエル社 Filmosound 7302 16mm映写機と真空管ギターアンプ

Filmosound 7302 16mm sound projector 01

1950年代後半に合衆国で発売されたフィルモサウンド302型を日本が60年代にライセンス契約して発売した一台。型名の先頭についた「7」で区別されます。パーツは日本製とアメリカ製が混ざっていて組み立てを日本で行っています。1960年代にベル&ハウエルはキャノンと業務提携しカメラを発売していましたが、やや先立って大沢商会とも資本・技術提携して日本映画機械株式会社(後の日本べルハウエル)を設立しており、後者が製造したメイドインジャパンの映写機が「ベル&ハウエル」として国内発売されていた、という形の様です。

映写機の流れで言うならば、フィルモサウンド7302型はB&H社の戦前の名機「129型」の血を受け継いでいます。

B&H Filmo 129D silent projector (late 1930s)
ベル&ハウエル社 129型 16ミリ映写機(1930年代後半)

1930年代後半に発売された129型はひっくり返した「凹」字型の土台に湾曲した一対のアームを配した美しいデザインの映写機でした。「凹」の字の左側の突き出した部分にスイッチが置かれています。

戦後、箱型の映写機が主流になるに従い、デザインのコンセプトはそのままに矩形のケースに収め、アームを外付けにし、光学/磁気サウンド双方に対応したアンプシステムを土台に組みこんでいきます。

弱点はケース内部に貼ってあるスポンジが経年劣化でボロボロになりやすい所。今回入手した一台もその状態で機体を外して掃除機で取り除く作業が必要でした。

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映写機ケースの内側全体がこんな感じ

本体やレンズのフレームの傷以外はまずまずのコンディション。手持ちのコリーン・ムーアで試写、真昼間に壁に向かって映してこの解像度はなかなか。モーター音が結構大きいです。

また、戦後のフィルモサウンドはギターアンプへの転用で知られています。特にフィルモサウンド385型のアンプは有名で、米ウォーラス社のオーバードライブ「385」の名前の由来になっています。

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映写機の底板を外していくとマイナスのネジが4つ見えます。これを外すとアンプを取り外すことができます。ベル&ハウエル社の真空管アンプとしては最後期のもので、この後トランジスタアンプに移行していきます。

7本の真空管を使用。
プリアンプ管12AX7 × 2
プリアンプ管12AY7 × 1
パワー管6V6 × 2
パワー管6AR5 × 1
整流管6CA4 × 1

この辺の話はあまり詳しくないのですが、ギターアンプ自作派垂涎のシステムになっているようです。

302/7302型のアンプは光学/磁気サウンド両方に対応した特殊モデルだったため385のアンプと構成が違います。385型アンプでは本体左上に変圧器が置かれていましたが、302型ではスペースがなかったため映写機ケースの内側に固定されています。また整流管用に6CA4真空管を採用していますが。385型アンプでは5Y3gtが使用されていました。ギターアンプとして使用する際に音の違いが出てくるようです。トレブルとベースのつまみが独立して動くのも個性になっている模様。

ユーチューブの実演を聞いてみるとあら素敵な歪み。普段無声フィルムしか扱っていない人間は「映写機にこのスペックのアンプ必要!?」と驚かされ通しでした。

] 映画の郷 [ 電子工作部:戦前9.5mmアルマ映写機のパーツを3Dプリンターで自作する

1月から3Dプリンターを使い始めていて、ようやく何ができて何ができないか分かるようになってきました。そこで先日、国産のアルマ9.5ミリ映写機のランプハウスのフード自作に挑戦。ふたつのパーツを別々に印刷して接着剤で貼りつける形になっています。

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成形が完了したのが上の写真。傾斜の部分に凸凹が見られます。

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パテで穴埋めした後に黒で塗装。左がデザインの下になったオリジナルのフード。右が今回自作したものです。オリジナルは一部に金属が使われています。

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完成品をランプハウスに乗せてみました。

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裏側から見るとこんな感じ。

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元々フードがあったアルマB型(手前)と今回自作パーツで補完したアルマA型(奥)。思った以上にデザインが複雑だったため完全コピーとはいきませんでした。違和感はそこまでないかな、と。戦前映写機のパーツを自作できるとリストアがはかどりそうです。

◇◇◇

合間に9.5mmフィルム用ホルダーも作ってみました。

フィルムが増えてくると管理が難しくなってきて、時に行方不明者も出てくる事態に。紐を通してまとめることが多いのですが、それだと真っ直ぐに並ばずに今度はケースの中でごちゃごちゃしてしまうのです。タグをつけて内容が分かるようにしつつ、整理しやすいようにとこの形になりました。フィルムケース穴に棒を通して端を円形パーツで留めるだけですがとても便利です。

1929年頃 齣フィルム 阪東妻三郎主演『花骨牌(はなかるた)』山口哲平監督

「阪東妻三郎関連」より

1929 花骨牌 齣フィルム 50枚セット
1929 « Hana Karuta » starring Bando Tsumasaburo

日本三景の一、宮島の静地に初めて人生の春を知つた藝州廣島藩の士、山路金三郎は藝妓小さんと樂しい戀の逍遙中、突發した事件で襲いかゝる暴漢を餘儀なく八人まで手にかけて江戸へ奔つた。かくて彼は菅野草太郎と改め、芝神明に道場とは名ばかり、日夜禁制の花骨牌を弄してめくりの相に盡くるなき人生の妙味を知る男になつた。

(『蒲田』昭和4年5月特別号)

以前に東京牛込の羽衣館の宣材(栞)で名前を見かけて気になっていた阪妻プロ『花骨牌』の齣フィルム50枚です。

フィルム現存が確認されておらず粗筋もよく分からない状態ながら、『蒲田』の紹介記事からは名を変えて生地広島から江戸へと流れていく武士の零落を追った物語と推察されます。

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齣フィルムの内訳はタイトル入りが5枚、残りは阪妻のミドルショット~クローズアップを中心としつつ森静子との抱擁や道場での試合を適度に織り交ぜています。

1929年 阪東妻三郎主演『花骨牌』齣フィルム50枚セット

[JMDb]
花骨牌

[IMDb]

[公開年]
1929年

[製作]
阪東妻三郎プロダクション

[監督]
山口哲平

1976 – スーパー8 『阪妻 – 阪東妻三郎の名場面集』(大沢商会/テレキャスジャパン編)

「阪東妻三郎関連」より

1976 - super8 Bantsuma1976 super8 Bantsuma Back

1970年代半ばに発売されたスーパー8版のアンソロジー。中心となっているのは以下の6作で、それぞれ比較的長めの動画が引用されています。

『雄呂血』(1925年、阪妻プロ)


『影法師』(1950年、松竹)


『魔像』(1952年、松竹)


『破れ太鼓』(1949年、松竹)


『大江戸五人男』(1949年、松竹)


『あばれ獅子』(1953年、松竹)


この合間には1)初期作の短い断片、2)プライベートショット集、3)没後の葬儀の模様とお墓の映像が挿入されています。

フィルムの両端にやや劣化が見られますがビネガー臭や傷などの少ない綺麗なプリントです。フィルムの端を留めていたテープに「Yokohama Cinema」の文字が残されていました。

[タイトル]
阪妻 – 阪東妻三郎の名場面集

[メーカー]
企画・制作:テレキャスジャパン 提供:松竹 発売:大沢商会

[フォーマット]
スーパー8 白黒300フィート 磁器録音

大正5年 (1916年) マックス・マック編著『ザッペルンデ・ラインヴァント(活動寫眞)』

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「ザッペルンデ・ラインヴァント(Die Zappelnde Leinwand)」は「躍動するスクリーン」の意味合いで、1910年代のドイツ語圏でムービング・ピクチャー(活動寫眞)の訳語に使われていたようです。しかし早くから映画(Kino)の言葉が定着していたこともあり、実際には普及することなく消えていきました。

本書は1916年に発表された映画界の紹介本。映画監督・俳優として人気のあったマックス・マック(以前に1912年の 『コレッティを探せ(Wo ist Coletti?)』8ミリ版を紹介済)が編纂したものです。後に『ヴァリエテ』監督として世界的な名声を得るE・A・デュポンが執筆者一覧に名を連ねています。

この書籍が出版された頃は第一次大戦が激化しており、それまで人気のあったアメリカやフランス製の映画輸入が途切れています。ドイツ映画界は自給自足で回していかざるをえなくなりました。次第に花形俳優たちが現れていき、後の1920年代全盛期の基礎を築いていった時期に当たります。

グラスハウス・スタジオの様子や、撮影時にスタッフが守るべきマナーなど製作者目線の記事が見られる一方、新たにドイツ映画界を輝かせている俳優たち(ミーア・マイ、ハンニ・ヴァイセ、エルナ・モレナマリア・カルミヘラ・モヤ、リタ・サチェット、レッセル・オルラマリア・オルスカ)の紹介が行われています。

映画産業がようやく形を取り始めたこの時期、「映画論」の発想はまだありませんでした。それでも監督や脚本畑の人たちを中心に状況を改善しようとする動きがあって、一つの大きな転換点が1919年の『映画製作論(Wie ein Film geschrieben wird und wie man ihn verwertet)』だとされています。同書の著者は『ザッペルンデ・ラインヴァント』にも参加していたE・A・デュポン。その意味で本書は「映画の理論化」を生み出していく大きな流れの一部だったと見る事もできます。

[原題]
Die Zappelnde Leinwand

[出版者]
アイスラー&Co.(ベルリン)

[出版年]
1916年

[フォーマット]
ハードカバー(紙カバー欠)、144頁