1925 – 『落武者』(松竹蒲田、清水宏監督) 湯川明文館・映畫文庫

« Ochimusha » (1925, Shochiku, dir/Shimizu Hiroshi)
Yukawa-Meibunnkann « Eiga-Bunko (Collection Cinema) » Novelization

 嶮しいだらだら坂を下りて、もう麓も近いと思はれた頃、ふと眞十郎は歩みをとゞめて、
「靜に。」
と皆を制した。
「あれは何んだらふ。」
 眞十郎が指さす方を見下すと、木の間がくれに白いものが飜つてゐる。
「はて何でせう。」
「暫時このまゝ待つて居給へ、今確かめて來やう。」
 眞十郎は身輕に岩をよぢ登り、松の枝に手をかけて遙麓の片を見下した。
 とそれは定紋附の幔幕だ、思ふに捕方の野陣に相違あるまい。
 眞十郎一同の所に立ちかへつて云つた。
「麓は既に敵に圍まれてゐる、あの樣子では蟻の這ひ出る隙もないであらふ、吾々は覺悟をせねばならぬ。運を天帝にまかせ、刄の續く限り戰つてみるより外は無い。天運あらば此の内の幾人かはこの重圍を突破する事が出來るであらふ。」
「時が來たのだ、吾々の 覺悟はよい。」
誰も多くを語らない、同胞同志、盟友同志、萬感を籠めた眼を見合はせて悲壮な微笑をかはした。

鬱蒼とした境内での捕物劇

中央に森肇。右に若衆姿の田中絹代

生け捕りにした芳江(筑波雪子)に言い寄る幕府方役人

大正15年(1924年)の監督デビュー後にしばらく時代劇を担当していた清水宏監督の初期作。

山中での捕縛劇、寺社での乱闘、城下町の斬りあいなど物語の要所要所にアクションを交えつつも剣戟だけに焦点が当たっている訳ではありません。味方を一人、また一人と失っていく喪失感、仲間との協力で難局を突破していく連帯感が描かれ、登場人物がそれぞれの理想を追いつつも現実に悪戦苦闘していく姿が描かれていきます。

眞十郎を演じるのは映画初主演となる森肇。若衆姿の妹役で田中絹代さんが登場、後年の清水作品『ありがたうさん』で渋い紳士役として登場してくる石山龍嗣氏が精神に障がいのある青年を演じ、また後の小津や溝口作品で活躍する名優・坂本武氏が本作でデビュー…と、現時点で振り返ってみると1930年代以降に邦画現代劇を動かしていく監督と俳優がなぜか剣戟作品に集まってチャンバラをしている不思議な感覚を覚えました。

社会的な弱者(一向に付き従う老僕、芸者、障碍者、女性一般)へのフラットな視線を含んでいるのも大きな特徴で「清水タッチ」の原型を見てとることもできます。やや異色ながら「人」に比重を置いた興味深い時代劇です。

[JMDb]
落武者

[IMDb]
Ochimusâ

[著者]
映畫劇同好会

[出版者]
湯川松次郎

[発行所]
湯川明文館

[フォーマット]
14.6 × 10.7 cm、124頁、映畫文庫 十二

[出版年]
1925年

1929 – 『今年竹』(松竹蒲田、重宗務監督、岩田祐吉&栗島すみ子主演) 弁士用台本

« Kotoshi-Dake » (1929, Shochiku, dir/Shigemune Tsutomu)
Original Hand-written Script for Benshi-Narrator

『今年竹』は昭和4年(1929年)に公開された松竹作品で岩田祐吉と栗島すみ子主演作。里見弴による同名小説を元にしたものです。こちらは全108頁の手書き台本(作品前半の5巻分)で当時の弁士が実使用した一冊と思われます。表紙は作品タイトルと主演俳優名のみ、見返しに出演者一覧。

志村:岩田祐吉
須田:奈良真養
垣見:新井淳
万寿:清水一郎
足立:藤野秀夫
春代:栗島すみ子
女将:鈴木歌子
小錦:若葉信子
糸子
和子

次いで1ページを割いて江戸時代の端唄『萩桔梗』の歌詞引用。

萩桔梗 中に玉章忍ばせて
月に野末に 草の露
君を待つ虫 夜毎にすだく
更け行く鐘に 雁の声
恋は斯うした 物かいな

古い江戸の雰囲気を浮かび上がらせた後、汗がうだるような真夏の新橋の遊郭を舞台に物語が始まります。

「あら小錦さんよ」
「小錦さんの御はいりなさい」
「あらいやだわ」
「ゆうべからお座敷は小説家の須田さんでせう」
「いーえ とんでもない」
「ぢや誰なの」
「とに角あんたの評判は大したものよ そっちこっちに討死にした男がゴロゴロして居るんですってね」
「とんでもないわ」
「それはそうと春代さんは」
「お風呂ですの でも直き上って来るわ」
「世間では私の事を何んて言ってるか知らないけれど 当時名代の浮気者と言や春代さんですよ」

噂話の最中に、当の春代(栗島すみ子)が風呂から戻ってきます。春代には「足立さんと言ふ旦那」がついているのですが、最近は志村(岩田祐吉)に熱を上げていて、会話に名前が出てくるだけで目の色が変わるほど。

ちょうど店には春代目当てに志村と足立(藤野秀夫)が同時に訪れていました。

他の芸者をあてがわれた足立は不満顔で、「もっと綺麗な処を呼べ」と女将(鈴木歌子)を困らせています。志村はそういった状況を察していて「人の者を横取りしたと言はれちや私が否だ」と足立の相手をするよう春代に頼むのでした。

また店の常連客である小説家の須田(奈良真養)は小錦(若葉信子)にのぼせ上っている真っ最中。妻・糸子に廓通いを問い詰められ口喧嘩が始まります。須田は何とかその場をごまかしたものの納得いかないのは糸子の方。親友であり、志村の妻でもある和子と情報交換していきます。

和子「私とうとう志村の女の名前を聞いたんですの。春代と言ふんですつて」

志村の心は妻・和子と春代の間を揺れ動いていました。「深い女でも出来て家庭を壊す様な事はしたくない」と一旦春代と縁を切ることを決心します。

そんな志村の下に切羽詰まった一本の電話がかかってきました。妻の親族が経営している会社の経理・垣根(新井淳)からでした。芸者の小錦に入れあげてしまい会社の経費三千五百円を使いこんでしまった、とのこと。「此の上は自首仕様と決心しました」の言葉に対し、志村は「貴方の惚れ方は本気だ」とむしろ感心し金銭を建て替えることにしてあげたのです。

この一件で志村は春代のことを思い出します。「ままよ、行く所まで行こう」と決心し再び店に足を向けるのでした。

「よう志イさん是はお珍しい」
「まあ志イさん」

春代は女将に「今夜あたり何処かへ行つてもいゝでせう」と伺いを立てます。女将は一抹の不安を覚えながらも春代の覚悟を前に否とは言えませんでした。女将が手配した車に乗って春代と志村は店を離れるのでありました。

前半はここまで、「寫眞長尺に付キ五分程休憩します」の一文で台本が終了しています。

原作の里見弴が会話を通じた人間表現を得意としていたこともあって映画版も対話を多用、複雑な人間模様や心の闇を丁寧に描こうとしている様子を台本からも伺い取ることが出来ます。剣戟やメロドラマ作品に比べて一般受けはしにくそうですが、会話主体で流れていく作品を高く評価する視点もある訳で、観方次第で楽しめる内容だと思いました。

松竹座ニュース1929年第2号表紙より

この台本では糸子と和子を演じた人物が明記されておらず正確な配役が不明。JMDbのクレジットに林千歳、八雲恵美子両氏の名が上がっているのでこの辺の女優さんが演じていたのかな、と。初期のアイドル人気に陰りの見えていた栗島すみ子が成熟した女優に成長していく過渡期の作品で、八雲恵美子らの若手が研鑽を積む場になったと位置づけることもできるかと思います。

[JMDb]
今年竹

[IMDb]
Kotoshidake

[著者]
不明

[フォーマット]
24.3 × 16.6 cm、108頁

1916 – 「活動繪もの語:呪の列車」(『飛行少年』大正5年12月号所収、日本飛行研究會)

大正五年に日本で公開された『呪の列車』はキネマ文庫(榎本法令館)など当時の説明本文庫で取り扱われることはありませんでした。唯一、子供向けの読み物雑誌として人気のあった「飛行少年」誌の大正五年十二月号に「繪もの語」版6頁が掲載されています。

« The Juggernaut : Moving Picture Illustrated Story »
(1916 Illustrated adaptation for children, published in
« Hikou-Shounen [Flying Kids] » 1916 December Issue)

十章構成で紙数の都合上一部の設定(ルイズの母親をめぐる三角関係など)が削除されています。12点含まれている挿画は大正期に『科学畫報』『飛行少年』『幼年畫報』で活躍したイラストレーター・川目逹の手によるものです。

結末部の数枚は左右反転になっています。先日の投稿で触れた米Those Awful Reviewsでは『呪の列車』のロビーカード画像の左右反転例が紹介されていました。イラストレーターに渡った資料画像が元々反転していた、の仮説が成り立ちそうです。

1915 – Super8 『呪の列車』(米ヴァイタグラフ社、ラルフ・インス監督) 英ペリーズ版

The Juggernaut (Vitagraph, 1915, dir/Ralph W. Ince)
1960-1970s UK Perry’s Films Ltd. Super8 Print


「おや」、工具を手にした点検技師は、木橋までやつて來たところで足をとめた。前回の点検では気づかなかつたが、ひどく朽ちた線路の枕木が今にも崩れ落ちさうである。「これは大変だ」、技師は踵を返して足早に報告へと向かう。

同時刻、一台の車が道端に停まつた。「お嬢様、申し訳ございません、タイヤがパンクしたようです」「いやねえ、こんな急ぎの時に…」「あちらの方向に駅がありますので」鉄道会社の令嬢ルイーズは父に頼まれた書類を届けようとしていた。運転手の言葉に從い木造の駅舎に向かう。「車が故障したので13時半の列車に乗りました」父宛に電報を一通したため、停車場に出るとちやうど機関車が着いたところであつた。

ルイーズの父親で、鉄道会社を経営しているフイリツプの手元に二通の電報が届いた。一通は娘からの連絡で二通目は線路異常の報告。「…おや?」、社長室の壁に貼つてあつた路線図に目を向ける。13時半の列車が向かう先には…枕木の崩れかけた橋が!「大変だ」、フイリツプは列車を停めるよう指示を出し、車へと飛び乗るのであつた。

危地に陥つた娘の身を案じフイリツプは車を急がせる、しかし列車は轟音とともに眼前を通り過ぎていつた。「かくなるうえは…」、湖を高速ボートで横断して先回りしようとする。白煙を上げ死へ突進していく呪ひの列車、はてさて、ルイーズ嬢と乗客たちの命運や如何に。

1915年のヴァイタグラフ社作品『呪の列車』は8ミリ文化が成熟した戦後に一度再発見されています。米ブラックホーク社版のスーパー8版と同時期に英国で市販されていたのがこちら。最終リールを編集した内容で物語のクライマックスとなる列車の転覆場面が含まれています。

タイトルや字幕はオリジナル版をそのまま使用。8ミリなのでさすがに細かな陰影は潰れてしまっています。16ミリベースのハーポディオン社新デジタル版と見比べると歴然ですね。それでも米ブラックホーク社の8ミリ版と比較するとクリアな画質でした。

『呪の列車』はヒロインが死地に追いこまれていくカタストロフ物でそこにメロドラマ要素を絡みあわせています。最終リールにそのエッセエンスが凝縮されているためこの場面だけでもある程度作品を理解することができます。

一方本作には親子二代に渡る因縁の物語が含まれていました。元々は1890年代と1910年代の出来事を前半後半でクロスさせた物語。両親の意向により相思相愛の男女が一旦は引き裂かれ、ヒロイン(アニタ・スチュワート)は望まずに鉄道会社社長の妻となり、娘を産んだ直後に若くして病死。20年経って母親と瓜二つに育った娘ルイーズ(アニタ・スチュワート二役)がかつての母親の恋人(アール・ウィリアムズ)と出会うことで運命の輪が再度開かれていく…という展開を取ります。

鉄道会社社長は自分の立身と幸福の為なら親友を裏切ることも厭わない人物として描かれていて、その強欲とエゴイズムが「呪ひ」を生み出し、最愛の妻の忘れ形見ルイーズの破滅をもたらしていく。1910年代の映画脚本としては最もギリシャ悲劇に近い構成になっていて、それを演者やスタッフが高い完成度で仕上げたからこその名作になっています。

本物の列車を湖に沈めて話題になった作品ではありますが、物語的な背景や必然性まで意識してみるとまた違った見方・評価ができるのではないかと思われます。

1915 – Super8 『呪の列車』(ヴァイタグラフ社、ラルフ・インス監督) 米ブラックホーク版

The Juggernaut (Vitagraph, 1915, dir/Ralph W. Ince)
Late 1960s US Blackhawk Super8 Print

こちらでは主にフィルムの話をしていきます。

初公開から5年経った1920年、ヴァイタグラフ社の旧作古典を振り返る企画がありその際に『呪の列車』が再上映されています(その際に本来5リール物だったのが4リールに編集し直されています)。確認できている限り一般向けに上映されたのはこれが最後となりました。1920年代には小型フィルムが普及し始めるもこの時期の米コダック社16ミリフィルムカタログに『呪の列車』の名はありませんでした。

状況が変わったのが第二次戦後、8ミリフィルムの文化が成熟してからでした。1960年代末、米ブラックホーク社を運営していたデヴィッド・シェパード(David Shepard)氏が本作の最終リールを8ミリ化し市場に投入、半世紀ぶりに本作を見ることができるようになりました。

このブラックホーク版は画質が悪いとされています。今回購入する際にその話は知っていて、確認のために綺乃九五式でスキャンをかけてみました(スキャン条件は同一)。その結果がこちら。左が米ブラックホーク版、右が英ペリーズ版です。

ブラックホーク版はコントラストが低く画面が暗くなっています。映写機で映すとさらに解像度が落ちるので目を細めても見えないレベル。批判は当たっているように見えます。

しかしよく見てみると英ペリーズ版はコントラストを無理に上げているため細部が潰れてしまっています。元ネガにあったグラデーションを残しているのはブラックホーク版でした。デジカメやスマホでの写真撮影もそうですが白飛びさせてしまうとその部分のデータが消えてしまうのに対し、暗い画像には陰影のデータが残っているので光量調整で何とかなる、の話と同じです。明るい光源(1500w位)と良いレンズで上映するならブラックホーク版の方が綺麗に映る可能性もあります。

箱にはフィルムだけではなく購入時(1975年11月28日)に発生した注文書コピー、発送記録の控え、72セント相当のブラックホーク社クーポン券が残されていました。

1915 – 『呪の列車』(ヴァイタグラフ社、ラルフ・インス監督) 米ハーポディオン社 2012年旧デジタル版 & 2017年新デジタル版

The Juggernaut (Vitagraph, 1915, dir/Ralph W. Ince)
2012 US Harpodeon Reconstruction DVD

アナログフィルム文化の衰退と共に『呪の列車』は再び忘却に埋もれていく運命となりました。世紀が変わり、デジタル文化の時代に同作を再度世に送り出したのが米ハーポディオン社でした。同社を運営しているW・ダスティン・アリグッド(W. Dustin Alligood)氏は2012年、ブラックホーク社が使用したのと同じ最終リールを元にDVDを発売しています。

2017年には新デジタル版を公開、オンラインストリーミング/DVD/ブルーレイの3つの形式に対応。今回は物理メディアは購入せずオンラインでデジタルデータのみ購入しました。

The Juggernaut (Vitagraph, 1915, dir/Ralph W. Ince)
2017 US Harpodeon Reconstruction Version

第5リールのみを扱っていた英ペリーズ版、米ブラックホーク版、ハーポディオン旧版と異なり、新デジタル版はジョン・グリッグス(John Griggs)氏の制作した「第4世代」の16ミリポジをベースにしていました。ダスティン氏によるブログの説明をまとめると以下になります。

第1世代)撮影時に発生したオリジナルの35ミリネガティヴ

第2世代)上映・レンタル用の35ミリポジティヴ

第3世代)ジョン・グリッグス氏個人製作による16ミリネガティヴ
レンタル用35ミリから16ミリネガを「自炊」した私家版。現存せず

第4世代)16ミリポジティヴ
数点現存。1点はイェール大学所蔵のジョン・グリッグス・コレクションに保管。
もう1点はフィルム収集家カール・マルケイムス(Karl Malkames)氏の死後に
ハーポディオン社ダスティン・アリグッド氏の手に渡る

第5世代)ハーポディオン社2017年デジタル版

ジョン・グリッグス氏は戦前から活動していた映画フィルム収集家。1930年代にレンタルで流通していた35ミリポジを入手、16ミリネガを作ってそこから複製した16ミリポジを発売、小銭を稼いでいたものです。数少ないこの私家版16ミリポジをハーポディオン社が入手しています。

染色プリントの美しさ、解像度の高さは一目瞭然ですがそれ以上に物語前半をデジタル化した功績が大きいのかな、と。初公開から百年以上が経過した2017年に初めて作品の全体像が見えたという話であって、このレベルにまとめあげたダスティン氏の情熱に敬意を表したいと思います。

【参考リンク】
Those Awful Reviews :ダスティン・アリグッド氏の個人サイト。『呪の列車』ジョン・グリッグス私家版ネガについて言及。それ以外にも面白い記事が沢山あって当サイトでも何度か引用しています。

Nitrate Ville:2016年に(当時まだ存命中だった)ブラックホーク社のデヴィッド・シェパード氏とダスティン・アリグッド氏が揉めた経緯を記録したスレッド。誤解に基づいた個人攻撃が含まれており、現在はスレッドが閉鎖され投稿できないようになっています。

1916 -『活動之世界』 大正5年(1916年)12月号より『呪の列車』関連記事

『呪の列車』は元々ヴァイタグラフ社が新たに立ち上げたブルーリボンレーベルの第一弾として製作・公開されたものです。ブルーリボンは4巻物以上の(当時の基準としては)尺の長い「特作長編」に特化した制作会社の位置付けをされていました。

本国では1915年3月7日にプレミア上映、翌4月に一般公開開始。日本では一年半遅れの大正5年(1916年)10月11日に淺草電氣館で封切られています。

まだ『活動画報』や『キネマ旬報』はありませんでした。雑誌では老舗『キネマ・レコード』があって、それに対抗すべく『活動之世界』が創刊されたのが大正5年。同年10月号で『呪の列車』が紹介されたと思われるのですがこちらは未見で、2ヶ月後の12月号に関連記事を二つ見つけました。

「アニタ・ステアート嬢の消息」

電氣館に上場された『呪の列車』にラスキン嬢、ルイズ嬢の二役を演じたアニタステアート嬢は、ヴアイタグラフ社撮影所の近くに、嬢のお母さんと弟と三人で住んで居る。

[…] 嬢の人氣をよんだヒルムは『女神』と『森の中のすみれ』とで今春以來風邪がもとで、嬢の氣分はあまり勝れなかつた。そして一月前までは、病氣の爲に、暫く休んで居たが、やつと快復して再びヒルムを撮ることになつた。

嬢の相手役は、アール、ウヰリアム氏で、氏は本年三十六歳、米國キネマ界の人氣俳優である。嬢の二十一歳の花盛りと相俟つて、その撮つたヒルムは人氣をよんで居る。

最近報ずるところによれば嬢は一週間一五〇〇弗(三千圓)の給料を得て、メトロ社へ移つるといふ。

「アニタ・ステアート嬢の消息」まこと
『活動之世界』1916年12月号

「映畫新舊譚」

外國の活劇や人情劇の中に、本物の列車が衝突したり、鉄橋から墜落したりする場面がある。現に、十月十一日から淺草電氣館に上場された米國ヴアイタグラフ社の『呪の列車』の最後の場面に、三臺の客車から成つてゐる列車が、腐れ鐵橋の上から河中に墜落する所がある。

[…] 列車の衝突、墜落等にも、活動寫眞が始まる以前から、米國には老朽の汽車を買ひ受けて之を衝突させたり、墜落させたりする商賣をしてゐる人がある。それが、現今では活動寫眞業者間に流行して來て、前期の樣な場面を撮影しなければならない時は、古い汽車を買ひ受けて、何月何日午前幾時から何處に假設の鐵道、鐵橋を設けて、衝突或いは墜落をせしめる、と云ふ辻ビラを街の隅々迄も貼り附ける。一人の觀覧料は五十銭から一圓位迄であるが、物見高い米國人の事であるから、忽ち數千の人々が集つて來る。それで莫大な觀覧料が得られるさうである […]。

「映畫新舊譚」四影生
『活動之世界』1916年12月号

アニタ・スチュワートは大正4~5年頃(1915〜16年)から日本の活動愛好家に知られるようになっています。大正7年(1918年)にヴァイタグラフを退社、メイヤーの援助を受け自身の映画会社を立ち上げるものの思った成功を収めることはできませんでした。それでも大正8年(1919年)の『活動之世界』誌人気投票では全体で36位、海外女優で21位に入っています。日本でも一定数のフアンを抱えていた訳で、そういった人々は少なくとも『呪の列車』の名を知っていたと思われます。

1920年代になると映画界の勢力図は大きく変わり愛好家も入れ替わっていきます。大正10年(1921年)7月に発行された『活動花形改題 活動之世界』のヴァイタグラフ社沿革紹介で、アニタ・スチュワートは「かつての花形」の位置付けになっています。5、6年間で過去の扱いとされ作品を見たことのない人々が多数派となっていくのです。流行の慌ただしい変遷に紛れ『呪の列車』の記憶は日本でも失われていきました。

アスタ・ニールセン(1881 – 1972)、1949年の書簡

北欧諸国 [Nordic Countries]より

Asta Nielsen 1949 Singed Letter

1949年10月11日
親愛なるフィッシャー樣

お問いあわせ心より感謝しております。
(そうそう、ドイツ語で書かないといけないですよね)
「スイス画報」誌のためとの話で心より感謝申し上げます。 御誌への好奇心がムクムク湧いてきています。
最近撮った写真は手元に御座いませんのでご了承くださいませ。
貴殿と御誌のご発展を心よりお祈り申し上げます。
かしこ

アスタ・ニールセン

11.10.49

Käre Her Redaktör Fischer.

Hjertelig Tak for Deres Henvendelse For mi (det er sandt, jeg maa jo skrive Tysk)
Also, herzlichem Dank für Ihre Bemühung mit der Schweizer Illustrierten, nun bin ich neugierig, ob ich etwas davon höre.
Wie ich Ihnen schon hier sagte, bin ich nicht im Besitz von Bildern aus der letzte Zeit.
Ich hoffe, dass es Ihnen beide nach Wunsch geht und sende dir herzlichste Grüsse.
Ihre sehr ergebene,

Asta Nielsen

アスタ・ニールセンが戦後の1949年、スイスの雑誌の編集者に送った書簡。記事用に近影の写真を所望した編集者にやんわりと断りを入れた内容です。折りたたんで封をすると三辺にミシン目ができるタイプの封筒を使用。印刷された15オーレの切手の脇に5オーレの切手が追加で貼ってあります。

最初はデンマーク語で書き出しながらすぐドイツ語に変わるのですが、狙ってやったわけではなく間違えに途中で気づいてそのまま修正し書き続けたように見えます。ミスタイプを打ち直した個所も多く、秘書に打ってもらったのではなく本人がタイプしているのではないのかな、と。

オスロ(ノルウェー)のホテルに滞在しているスイスの雑誌の編集者に宛て、デンマークからドイツ語の手紙を書く…欧州を股にかけて活躍した名女優さんらしいスケールの大きな話です。

1926年12月、ケルンで残されたと思われる
サイン入り絵葉書

Asta Nieslen Signed Card

雑誌切抜きを貼りつけた手製カードに
(戦後、1940年台後半から50年台始め)

アスタ・ニールゼン、彼女の名は今や我愛活家の腦裡より忘れられようとして居るけれどもニールゼンはその藝能に於て又技巧に於て、他の追從を許さぬ獨得の領域を持つた名女優であつた。幻惑的な嫋弱[たおやか]なすつきりした姿、人の胸に迫る沈痛な面持。ニールゼンには斯うした北歐の女性の備ふる典型を持つて居る。さうしてその五體より湧き出る彼女の表現、夫[それ]はあの物寂たビオスコツプ藝術映畫に缺くべからざる權威でもあつた。『ハンナ嬢』の如き、『愛の叫び』の如き、『女優の末路』の如き、『浮縁の血統』の如き、實に彼女の藝術の一旦を伺ふにて遺憾なきものであつた。

ニールゼンの生國は平和に満ちた丁抹である。北歐劇壇にニールゼンの名が漸く表れ始めた頃、彼女は故国を後にして独逸伯林の都に來て、劇作家ウルバン、ガツトウ氏と知り、兩者は戀にも生き、結婚して共々ビオスコツプ社の招聘により、ガツトウ氏劇作指導の下にニールゼン映畫を作る事となり、數十の映畫を撮影したのであつたが、折から戰亂となり、嬢は夫君と共に避けて故國丁抹に歸つた。

「歐州活動女優物語:アスタ・ニールゼン嬢」
『活動画報』 1919年8月号

身振りの多様さと表情の豊かさは、アスタ・ニールセンの場合驚嘆に値する。

「アスタ・ニールセン:その愛の演技と老け役の演技」
ベラ・バラージュ『視覚的人間』岩波文庫版所収
(佐々木基一、高村宏訳)

1921年『女ハムレット』より


[Movie Walker]
アスタ・ニールセン

[IMDb]
Asta Nielsen

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
9月11日

ケーテ・ハーク Käthe Haack (1897–1986) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Käthe « Käte » Haack c1920 Autographed Postcard

1910年代に女優デビュー、戦前〜戦後と途切れることなく映画出演を積み重ね、亡くなる直前の1985年まで長い役者人生を送ったのがケーテ・ハークでした。

女優に憧れ10代でレッシング劇場と契約を結んだ直後にマックス・マック監督の目に留まり、その勧めに従って映画界に入ったそうです。演技に芝居がかった大袈裟さがなく、独特の柔らかさと温かみを帯びています。そのため自然体の演技を好む監督さん(パウル・レニ、フィル・ユッツィ、ゲルハルト・ランプレヒト、パブスト、オフュルス)との相性が良く、とりわけ20年代のランプレヒト作品の常連になっていました。同監督が1931年に発表し、日本でも人気の高い『少年探偵団』(日本での公開後に原作邦訳が三冊同時出版されたそうです)で探偵エミール君の母親を演じていたのもそういった流れに連なるものです。

その後母親役から老け役へ、活動拠点も映画からテレビに移っていきます。女優歴は71年に及び、ダニエル・ダリュー(80年)やリリアン・ギッシュ(76年)に次ぐ息の長いものとなりました。特定の映画会社の花形女優ではなかったため雑誌の表紙を飾ることは稀でしたし、知名度で言っても先の二人にはかないませんが、彼女の出演作にはドイツ戦前映画の裏名作が多く含まれていて質的に見劣りしないものです。

今回入手した絵葉書は名前が「Käthe」ではなく初期の「Käte」表記となっている一枚(発音は変わらず)。サインもKäteと書いていますので1910年代末から20年頃でしょうか。

[IMDb]
Käthe Haack

[Movie Walker]
ケーテ・ハーク

[出身地]
ドイツ(ベルリン)

[誕生日]
8月11日

[データ]
[Photochemie, Berlin. K.1863. Bildnis von A. Binder, Berlin] 9.0 × 13.6cm

イローナ・カロレヴナ Ilona Karolewna (生没年不詳) ウクライナ

Ilona/Jlona Karolewna Late 1920s Autographed Postcard

イローナ・カロレヴナ嬢はキエフの生れである。踊り子となつてサンクトペテルブルクで初舞臺を踏んだ。歐州を興行で回り伯林に留まる事を選んだ。映畫界に足を踏み入れ、独逸映畫協会(DEFU)で幾つか端役を経験した。その後、巴里のシネロマン社と契約を結び、同社で数年の活躍を見せた。現在は映画界から完全に足を洗つている。

(「A-Z:ルクセンブルグ週刊画報」1935年11月24日付)

Ilonka [sic] Karolewna wurde in Kiev geboren. Sie wurde Tänzerin und trat zuerst in St. Petersburg auf. Sie machte ein Tournee durch Europa und blieb in Berlin. Als sie zum Film trat sie in einigen kleinen Rollen bei der Defu [Deutsche Film Union] auf. Sie wurde ferner von der Direktionder Cinéromans in Paris engagiert und spielt einige Jahre für diese Gesellschaft. Jetzt sie sich ganz zurück gezogen. (A-Z : Luxemburger illustrierte Wochenschrift, 24/11/1935)

オーストリア演劇博物館所蔵のポートレート
https://www.theatermuseum.at/de/object/0efa0d1169/

1920年代半ばに踊り子として訪れた欧州で話題を集め、ファッション・モデルや商品広告など写真の被写体として活躍。ほぼ同時期に映画出演を始めていて、マックス・ランデがヴィルマ・バンキーと共演した『脱線曲馬王』の端役で女優デビュー。ドイツのハリー・ピールの目に留まり、同氏が監督主演した2作のサーカス物『黒い道化師』(1926年)『ビーリー曲芸団』(1927年)の主要キャストに抜擢。その後フランス拠点で女優活動を続け30年代初頭に製作された旅芸人映画を最後に業界を離れています。

『ビーリー曲芸団』(Was ist los im Zirkus Beely?、1927年)より

出演作のうち『ビーリー曲芸団』は以前から現存が知られていてデジタル修復もされていました。もう一方の『黒い道化師』は遺失作品とされていますが、チェコのフィルム収集家が35ミリポジを所有しているようで一部がユーチューブで公開されていました。

[IMDb]
Ilona Karolewna

[Movie Walker]


[出生地]
ウクライナ(キエフ)

[データ]
Phot. A[nton]. Sahm. München. 8.8 × 13.7 cm

1938 – 『アレクサンドル・ネフスキー』(セルゲイ・エイゼンシュテイン監督) Sovexportfilm版8ミリプリント

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [10]

1920年代に成立したSovkino社はその後2度の改称を経て1945年にSovexportfilmとなりました。ソ連製の映像作品を諸外国に輸出、各地の拠点を元に映画祭の開催や映画誌発行を行っていきます。今回入手した『アレクサンドル・ネフスキー』は同社が英語圏向けに編集した1960年代後半~70年代初頭の4リール無声版です。

ハイライトとなっているのは中盤から後半にかけて展開される長尺の戦闘場面。1242年、凍りついたチュド湖上で展開されたノヴゴロド公国vsチュートン騎士団の戦いを描いたもので8ミリ版では第3リール全体がこの場面に割かれています。今回はこの第3リールを一部スキャン、その後実写してみました。元々エイゼンシュテインの初サウンド作品として制作されプロコフィエフの音楽とセットで観賞されるのが常ですが、無声版で映像だけ見るのも良い経験でした。

ノヴゴロド公国対チュートン騎士団の構図が当時のソ連、ナチスドイツの対立と重ねあわされている点はしばしば指摘されています。優秀な指導者の下で勇敢な農民たちが一致団結し外敵を追い払う発想が当時の指導部に受けたのだろうなと思います。

一方のエイゼンシュテインはプロパガンダ映画のお約束さえ守ってしまえば後は自由にやって構わないよね、といった風でもあります。武具甲冑のマニアや中世愛好家も楽しめそう。同監督の最良と呼べるかどうかは別として、エッジの効いた構図や濃密さと開放感の間を行き来する複雑な映像のリズムには凄まじいものがあってその才を再確認できました。

[原題]
Александр Невский

[IMDb]
Aleksandr Nevskiy

[Movie Walker]
アレクサンドル・ネフスキー

[公開年]
1938年

[メーカー]
Sovexportfilm

[フォーマット]
スタンダード8 白黒無声 120m×4巻 英語字幕

1930 – 『パテーの自家現像』(吉川新形式寫眞叢書・第一篇、吉川速男著、アルス社)

今回9.5ミリ動画カメラを実使用するに当たってまず参考にしたのは歸山教正氏の『シネ・ハンドブック』(1930年)でした。もう一冊9.5ミリ専用の書籍が欲しいな…と見つけ出したのがこちらの『パテーの自家現像』。某古書店ブログで触れられているように直線をベースにした素敵なデザイン(フォントやその配列を含む)にはバウハウス等の影響を見ることができます。

第五章と第七章だけを御覧下さるだけでも、獨りで容易に好結果を擧げる事が出來ます。

冒頭にある通り現像の具体的な流れを詳述したのが第5章(薬品の配合)と第7章(現像の手順)。吉川氏本人の自筆イラストが多くあしらわれ9.5ミリフィルム現像の実際を視覚的に追うことができます。

現像用薬品(現像液/反転液)の配合については『シネ・ハンドブック』とほぼ同じ。ただし『パテーの自家現像』には9.5ミリ用の作業時間配分の一覧が掲載されていて参考になりました。

1930年頃に撮影された9.5ミリの個人撮影動画では時々画面に液体が流れたような跡を見ることができます。長期保管による褪色や変色だと思っていたのですが、現像液や反転液の洗浄不足による現像ムラなのだと気づきました。撮影者・現像者視点からフィルムを見てみるとまた違った発見があるものですね。

自家現像時の現像ムラの一例
(『池掃除』、1929年頃、個人コレクションより)

[出版年]
1930年

[発行所]
アルス

[定価]
壹円

[ページ数]
150

[フォーマット]
13.0 × 19.5 cm、函入

戦前・戦中期の9.5ミリ動画カメラを使ってみた [03] 現像篇 その1 道具を探す

1920年代にパテベビー映写機・撮影機が市販された折に、仏パテ社から現像用具の一式も発売されていました。現存数が極端に少なく、一般公開されているものとしてはパリのフォンダシオン・ジェローム・セドゥ=パテが唯一と思われます。

フォンダシオン・ジェローム・セドゥ=パテ所有の9.5ミリ現像機
(同組織所属のPaolo Bernardiniさん撮影)
https://www.instagram.com/p/BAYFaSQI-Of/

上下に歯のついた平枠に9.5ミリフィルムを巻きつけて左の箱に収め、台になっている四角い箱にセットし現像液を注入する仕掛けになっています。

『シネ・ハンドブック』(歸山教正著、1930年)より

歸山教正氏の著書『シネ・ハンドブック』(1930年)でも同種の現像用ツールが紹介されていました。同氏は平枠を木材で自作する手法も公開。複雑な構造ではないため今回は3Dプリンタで自作しようと考えていました。

ところが別な手法で9.5ミリフィルムを現像している人を発見!

『ロモ・タンクで9.5ミリフィルムを現像してみた』
https://www.filmkorn.org/develop-9-5mm-film-in-a-lomo-tank/?lang=en

ドイツの方で、9.5ミリのカラーリバーサルフィルム現像に成功しています。

数日前にサンクトペテルブルクから届いた実物。

ロモ社の8ミリ映写機やロモグラフィーは知っていますがロモ・タンクは初耳。8ミリ愛好家の一部では割とよく知られた方法なんですね。内側にらせん状の溝が刻まれたリールがあってフィルムを立てていく形をとります。リールを円形タンクに収めてホースから薬剤を注入。上部のつまみを回すとリールが回転し撹拌される仕組みとなっています。元々8ミリ用なので9.5ミリではリールの厚みが変わりますが、2ミリほどのワッシャーを噛ませると上手くいくそうです。

1953 – 『邂逅と印象:ナトー・ヴァチナーゼ自叙伝』 著者献辞入り(Встречи и впечатления, Нато Вачнадзе)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [09]

« Encounters and Impressions (Vstrechi i Vpechatleniya) »
Nato Vachnadze 1953 Dedicated Autobiography

優しく繊細なスヴェトラーナちゃんの誕生日に寄せて、ナターシャ叔母さんより。自分の息子二人に望んだのと同じくらい貴方にも幸せな人生を送ってほしいと思っています。

謹呈
1953年4月25日、トビリシにて

Дорогой доброй и чуткой Светланочке от тети Наташи в день рождения. Желаю тебе в жизни быть счастливой, так как я этого счастья хочу своим мальчикам. От автора. 25.04.53 года. Тбилиси.

ナトー・ヴァチナーゼ(ნატო ვაჩნაძე [IMDb])は1920年代前半にグルジア映画公社で銀幕デビュー。イワン・ペレスチアーニ、アモ・ベク・ナザリアン、ウラディミール・バルスキー、(後に夫となる)ニコライ・シェンゲラーヤ監督作品を通じて戦前グルジアの国民的女優となっていきました。『邂逅と印象』は女優活動が落ち着いた戦後に自身のキャリアを振り返って書かれた一冊です。見返しには本人が姪御さんに贈った自筆メッセージが残されています。

このメッセージが書かれた約2ヶ月後の6月14日、モスクワからトビリシへ向かっていた小型旅客機が墜落し乗客18名全員が死亡、名簿にヴァチナーゼの名が含まれていました。享年49。出演ペースこそ落ちていたもののグルジア映画界を支えていく気持ちは十分だっただけに早すぎた死が惜しまれます。

1927年『Amoki (Amok)』(コテ・マージャニッシュビリ監督)より

1920年代中盤のソ連製ポストカード

こちらは6年前に入手した絵葉書。アモ・ベク・ナザリアン監督作『ナテラ』(ნათელა、1926年)の一場面をあしらっています。


[出版年]
1953年

[出版社]
ゴスキノ出版社(モスクワ)

[ページ数]
151

[フォーマット]
ハードカバー、著者近影写真入り、23 × 15 cm

1929 – 『大利根の殺陣』(東亞、嵐寛壽郎主演、後藤岱山監督、山中貞雄助監督) 瀧本時代堂 説明本

« Ôtone no Satsujin » (Tôa Kinema, 1929, dir/Gotô Taizan)
1929 Takimoto Jidaido Novelisation

『サアサア、行け行け、今日こそは思ひのまゝに腕だめしをしてやるぞつ…』と、乾分どもはわいわいと出かけて行くので、今や大利根一帶の沿岸は殺氣滿ち充ちて今にも血の雨、血の川は目前に現はれ出るやうな氣がして來るのであつた。

斯うして居る中にも兩方の人數が次第次第に接近して來た、そして愈々大殺陣が布かれて、一大爭鬪が起らんとして居るのであつた。

時しもあれ、此の大利根の流れ沿ふて此の邊を通りかゝつたのが其の頃男の中の男と云はれ、侠骨いういうたる大前田英五郎であつた。

上州では相良金三郎(尾上紋彌)と久宮の丈八(頭山桂之助)一党の抗争が激化していた。劣勢を感じた金三郎は火の車のお萬(原駒子)に助勢を頼むが、その動きが挑発ととられ殺気立った丈八一党が結集、利根川河畔で大喧嘩が始まろうとしていた。たまたまそこを通りかかったのが大前田英五郎(嵐寛壽郎)であった。事情を聞いた英五郎は仲裁に入り一旦その場を収めるのに成功した。とはいえ火種が消えたわけではなかった。英五郎はお萬に惹かれていく一方、乳姉弟であるおつまが丈八の妻であるのを知り板挟みとなっていく…

嵐寛壽郎が東亞キネマで俳優キャリアの再構築に取りかかっていた時期の一作で、『鞍馬天狗』(1929年7月13日公開)と『右門一番手柄』(1929年11月1日公開)の間に公開されています。原駒子、尾上紋弥、頭山桂之助など東亞期のアラカン出演作ではお馴染みの面々が脇を固めているほか、後の山中貞雄監督が「社堂沙汰夫」名義で助監督を務めていました。

日本映画情報システムを含めた幾つかの日本語情報サイトでは「おおとねのたて」で登録されています。しかし物語は剣戟振付の「たて」と関係ありませんし、解説本でも「大殺陣/だいさつじ(ん)」の読み仮名が振られていいました。素直に「さつじん」と読むのが正ではないかな、という気もします。


[JMDb]
大利根の殺陣

[IMDb]
Ôtone no satsujin

[出版年]
1929年

[編集兼発行者]
瀧本昇

[発行所]
瀧本時代堂

[ページ数]
16

[フォーマット]
10.5 × 14.8 cm

1929 – 『月形半平太』(東亞、草間實主演、枝正義郎監督) 瀧本時代堂 説明本

« Tsukigata Hanpeita » (Tôa Kinema, 1929, dir/Edamasa Yoshiro)
1929 Takimoto Jidaidô Novelisation

或る夜のこと、京都三條の橋の畔り淋しい所を通つて行くと彼方なる暗がりの物影より突然現はれ出た、四五人づれの壯漢があつた。

『ヤアツ…來たぞ』とばかりに、彼等がさゝやきの聲の未だ絶えぬ間に、最ふ彼等の白刄は半平太の前後左右にキラメキ渡つて居る…

是は確かに反對論者の廻し者、『何んのその汝等如き者が百人千人來たからとて何程の事かあらん。イザイザ此の月形一平太の刄先を受けて見よ』と大喝一聲、ギラリと引き抜いた三尺の秋水、半平太の腕は剣道の達人であるから湛つたものではない。

1925年『国定忠治』『月形半平太』(いずれも澤田正二郎主演)に始まった行友李風原作映画の小ブームは翌年の『修羅八荒』4社競作でピークを迎えました。その後も『月形半平太』の人気が根強く、数年で河部五郎(日活)、山口俊雄(山口俊雄プロ)、林長二郎(松竹)、草間實(東亞)、阪東妻三郎(阪妻プロ/新興)…と途切れることなく映像化されていきます。

1929年東亞版は半平太に草間實、半平太の命を狙う藤岡九十郎に羅門光三郎、芸者染八に原駒子を配しています。監督は枝正義郎。前年の『坂本龍馬』を最後に阪妻プロと袂を分かち東亞に合流していたもので、『龍馬』での照明やカメラワークを思いあわせると本作にも何がしかの創意は含まれていたと思います。


[JMDb]
月形半平太

[IMDb]
Tsukigata hanpeita

[出版年]
1929年

[編集兼発行者]
瀧本昇

[発行所]
瀧本時代堂

[ページ数]
16

[フォーマット]
10.5 × 14.8 cm

1910年代末 日本製ハリウッド俳優豆ブロマイド18枚

c1919 Japanese Trading Cards of Hollywood Actors & Actresses

日本製の豆ブロ(トレーディングカード)でサイズは各4.6×7.2cm。裏面は無地で発行者などの記載はありません。

パール・ホワイト [Pearl White] IMDb/Movie Walker
ウォーレン・ケリガン [Warren Kerrigan] IMDb/Movie Walker
ヴァイオレット・マースロー [Violet Mersereau] IMDb/-
ドロシー・ギッシュ [Dorothy Gish] IMDb/Movie Walker
フランセリア・ビリントン [Francelia Billington] IMDb/Movie Walker
ヴィクトリア・フォード [Victoria Forde] IMDb/-
ベン・ウィルソン [Ben Wilson] IMDb/Movie Walker
ジューン・キャプリース [June Caprice] IMDb/Movie Walker
ブランシュ・スウィート [Blanche Sweet] IMDb/Movie Walker
メイベル・ノーマンド [Mabel Normand] IMDb/Movie Walker
メリー・マクラーレン [Mary Maclaren] IMDb/-
アン・リットル [Ann Little] IMDb/Movie Walker
ミルドレッド・ハリス [Mildred Harris] IMDb/Movie Walker
クララ・キンボール・ヤング [Clara Kimball Young] IMDb/Movie Walker
ジャック・マルホール [Jack Mulhall] IMDb/Movie Walker
グレース・ダーモンド [Grace Darmond] IMDb/Movie Walker
ルース・ローランド [Ruth Roland] IMDb/Movie Walker

1)1910年代中盤~後半に連続活劇で人気を得た俳優(パール・ホワイト、ルース・ローランド、ビリー・バーク、アン・リットル、グレース・ダーモンド)が目立つ
2)1919年に引退した女優(ヴィクトリア・フォード)が含まれている
3)髪型や服にヴィクトリア朝文化の雰囲気が残っている
4)1919年に発売された『活動名優写真帖』(玄文社、「花形」臨時増刊)と重なる名前が多い

…などの理由から1919年前後に市販されていたと考えて良いと思われます。グレース・ダーモンドと印刷された2枚の内で縦長は後にチャップリン夫人となるミルドレッド・ハリスです。ムービーウォーカー未登録のヴァイオレット・マースローは10年代末日本で抜群の人気があったハリウッド女優さん、ヴィクトリア・フォードは西部劇の名優トム・ミックス氏夫人でした。

1923 – 8mm 『国境の掟』 レオ・D・マロニー&ポーリーン・カーリー主演 米キャッスル社版 紫染色プリント

« Border Law » (1923, Leobee Films, 1940s Castle Films Tinted 8mm Print)

メキシコとの国境に近い町を保安官たちが守つていた。隊長の一人娘エレン(ポーリーン・カーリー)は若手保安官のチャック(レオ・Ⅾ・マロニー)に好意を寄せているが、奥手な青年は靡いてくれずヤキモキしている。ある日、町に瀟洒な身なりの男性がやつてきた。話を聞くと芸術家だという。エレンは男の車に同乗してチャック青年を嫉妬させようと試みる。青年は楽し気な二人の姿を見て落ちこむのであつた。

折しも隊長のもとに連絡がはいった。「ハンチング帽姿の男に気をつけろ」。芸術家と名乗つた男は荒くれ者のリーダーであった。そうと知らぬエレンは電話での男のやりとりを聞いてしまう。「お前さん、聞いていたな」、本性を現した男がエレンに襲いかかる。チャック青年が二人の争う物音を聞きつけ駆け寄るが、油断した一瞬の隙を突かれ椅子で打ちのめされてしまう。エレンは馬で逃れるが男は自動車で猛追してくる。はてさて、エレン嬢の命運や如何に。

米キャッスル社が1940年代に販売していた8ミリ版の西部劇で、B級西部劇俳優のレオ・Ⅾ・マロニーを主演にした一作。紫色に染められたコダック・プリントの映像がとても綺麗。

ヒロインの危地を救うため主人公の保安官が奮闘するありがちな設定ですが、マロニーの見せ場があまりなく物語はヒロインのエレン(ポーリーン・カーリー、以前にサイン物を一枚紹介済)を中心に回っていきます。縦ロール女子がリボルバーを振りかざして悪漢を威嚇する展開は胸が熱くなるものがあります。

1920年代、レオ・Ⅾ・マロニーは監督のフォード・ビーブ(後に『フラッシュ・ゴードン』連作で名を上げます)と組んで「レオビー映画制作会社」を立ち上げました。米国内配給をパテ・エクスチェンジ社が行っていたこともあり、レオビー社作品は1920年代後半に9.5ミリフィルム形式でも発売されています。『国境の掟』も米パテックス9.5ミリ版があるようでいつかキャッスル版と比較出来たら良いと思っています。

[原題]
Border Law

[IMDb]
Border Law

[公開]
1923年1月21日

[メーカー名]
米キャッスル映画社

[8ミリ版発売]
1940年代(1942年説あり)

[フォーマット]
スタンダード8、60メートル×1巻、紫染色コダック・プリント、無声

1917 – 9.5mm 『意志』(アンリ・プクタル監督、ユゲット・デュフロ主演)

« Volonté » (1917, directed by Henri Pouctal, 1920s French Pathé 9.5mm Print)

資産家エロー家の跡継ぎルイ(レオン・マト)は日々周囲に流される人生を送っていた。

孫の将来を心配した祖母(ウージェニー・バド)は旧友の遺児である娘エレーヌ(ユゲット・デュフロ)をルイの嫁にしたいと考えていた。しかしルイは友人トジア(ポール・アミオ)に紹介された浮薄な貴婦人ディアンヌ(シュザンヌ・ランケル)との関係をずるずると続けていた。

周囲の勧めに従いエレーヌと式を挙げ、子供まで作ったルイ。だが過去と決別する事ができずいつしかディアンヌとよりを戻してしまう。正妻となったエレーヌに恨みを覚えていたディアンヌは偽の手紙で夫妻の仲を裂こうとした。偽りの告発を信じ、エレーヌとトジアが深い仲にあると疑ったルイはトジアに決闘を申しこむ…

監督のアンリ・プクタルは元々アンドレ・アントワーヌ人脈の舞台人で、1910年頃に映画界に参入してきました。パテ社を拠点とし1922年に亡くなるまで100作に及ぶ作品を残しています。中でもゾラの小説を原作とした『労働』(1919年)は映像美とリアリズムで突出した作品でした。しかしながら他にめぼしい現存作が無く、自国でも監督としての力量が正当に評価されないまま今に至っています。

中期作の『意志』(1917年)が9.5ミリ形式で発売されていたのは知っていて、何年も探していたのをようやく入手することができました。セットやカメラワークに舞台劇の硬さが残っていますが、時折挟まれるショットのアングル感や感情表現に垢抜けたセンスが見られます。

描かれているのは19世紀末のブルジョワ恋愛模様で現在からするとそこまで魅力的に映らないかもしれません。しかしよく見てみると資産はあるが意志が弱く正妻をないがしろにするダメ男、その正妻に敵意を抱きプレゼントの高価な扇を持ち歩くマウンティング好きな不倫女子、子育てに追われ自分の小さな幸せを守るのに精いっぱいのヒロイン…と実は今のワイドショーが面白おかしく暴きたてるゴシップの構造と変わっていなかったりします。色々と進化していないのかな、と。

フィルムケースのタイトル表示が赤地なのはキリスト教系の出版社「ボンヌ・プレス」がパテ社と提携して市販していた印です。夫が人生を悔い改める結末が評価されたものと思われますが、一方でクライマックスの決闘場面を丸々削除してしまったことで物語の説得力が弱くなっています。9.5ミリ版編集時に制作側で自己検閲が入ることもあった、と小ネタで知っておくのも良さそうです。

[IMDb]
Volonté

[公開]
1917年4月13日

[メーカー名]
仏パテ社/ボンヌ・プレス社

[カタログ番号]
852

[9.5ミリ版発売]
1925年8-9月

[フォーマット]
9.5ミリ、10メートル×6巻、白黒無声、ノッチ有

戦前・戦中期の9.5ミリ動画カメラを使ってみた [02] 撮影篇

という訳で9.5ミリ撮影機を持って町をフラフラしてきました。

10月19日の新潟市。天気はあいにくの曇り空でしたが、雲は薄く光量はそこそこでした。アーケード街を入ってすぐの一角、デューク・エリントンの壁画を制作するイベントが開催中。今日はその完成記念で制作者の挨拶と地元のちびっこジャズ団(新潟ジュニアジャズオーケストラ)の演奏会が行われていました。素敵なスウィング感のある演奏ありがとう。

制作過程を記録したブログがありました。

生れて初めての9.5ミリ動画撮影は「A列車で行こう」や「Cジャム・ブルース」を奏でる子供たちの姿になりました。

正直、80年近く前のフィルムなので全く映っていないんだろうなと思います。それでもいいかな、と。太陽の位置や光量を気にしつつ気になった対象にレンズを向け、構図を決めてシャッターを押し続け、ゼンマイを巻き直す…そういった一連の行為を実体験してみるのが楽しかったです。

モトカメラH型は手のひらに収まるサイズ感で使いやすかったです。絞りは2.8/3.5/5.6/8/11の5段階。やや暗めの場所では2.8に設定しそれ以外は3.5か5.6を使用。接写用のアタッチメントのセットも持っていきましたが使っている余裕はありませんでした。

その後も市内を歩き回りながら撮影を続けていきます。デジカメの充電池が切れてしまったため途中からはモトカメラのみで撮影。例年ハロウィンの企画で盛り上がる時期ながら今年はコロナ禍のあおりを受け多くのお店が休業中。万代橋橋詰の公共スペースをカフェスタンドとして商用利用する企画にお邪魔してのんびりした日曜の午後を過ごしました

「BANDAIBASHI coffee stand」プロジェクト
https://www.week.co.jp/postpic/1007821/

さて、ここからが本番。生まれて初めての9.5ミリフィルム自家現像に挑戦です。