ヴェーラ・ハロードナヤ (Vera Kholodnaya, 1893 – 1919) 露/ウクライナ

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [07]

Vera Kholodnaya c1916 Autographed Postcard


帝政ロシア末期を代表する花形女優ヴェーラ・ハロードナヤ(Вера Васильевна Холодная)の直筆サイン入り絵葉書。1916~17年頃と思われます。

同時期、マクシモフやガイロフ、ナタリー・リッセンコ、オルガ・オゾフスカヤ、とりわけヴェーラ・ハロードナヤ等の役者たちが観衆によって偶像のようにもてはやされていた。ハロードナヤは貧しい士官の妻であったが夫が動員されると生活費を稼ぐために映画版『アンナ・カレーナ』の端役としてデビュー。同作は1914年にウラジミール・ガルディンが監督した一作である。1915~16年にかけ、エフゲーニー・バウエル監督作品を通じて大女優となり、一作毎に2万5千ルーブル(1万2千5百ドル)を稼ぐまでになった。大衆の熱狂はそれほどのものだった。(『世界映画史』ジョルジュ・サドゥール)

D’autres acteurs étaient à ce moment idolâtrés par le public : V. Maximov, Gaidarov, Nathalie Lissenko, Olga Ozovskaia et surtout Véra Kholodnaia. Celle-ci, femme d’un officier pauvre mobolisé, débuta, par nécessité de gagner sa vie, dans un petit rôle de la version d’Anna Karénine, dirigée, en 1914, par Gardine. E. Bauer en fit vers 1915-1916 une grande actrice qui finit par toucher 25 000 roubles (12 500 dollars) par film, tant le public l’idolâtrait.

ロシア語版ウィキペディアでの「ヴェーラ・ハロードナヤ」の項目は本文だけで2万5千字を超える内容となっています。英語版の4倍。様々な視点から女優を紹介している中にその評価をまとめている章段がありました。女優としての評価が「極端に二極化されている」とされているものの肯定的な例は僅かしかなく「同一パターンの演技を繰り返している」「情感(や創造力)に欠けている」の表現が目立ちます。

この章段で最初に取り上げられていたのがサドゥールでした。『世界映画史』を確認したところハロードナヤについてのまとまった記述を一ヶ所見つけました。

演技力や表現力、あるいは作品を通じて残した功績への言及はありません。その意味でサドゥールは女優としての評価を(少なくとも直接は)下していない、が正解になるだろうと思います。とはいえ「アイドル視する、偶像のように崇拝する(idolâtre)」の単語を繰り返し用いていることや直前でモジューヒンの創造性や功績を詳述している点を考えあわせるなら、そもそも演技力を期待する前提ではなかったと解釈することもできます。

個人的にもハロードナヤの演技にハッと驚かされたり、深い情感に心を動かされた記憶はありませんし、ロシア~ソ連の地軸、1910年代後半の時間軸どちらで見ても彼女より優っていた女優は多くいたと思います。といって見た目の美しさで刹那の人気を博しただけというのとは違うのかな、と。

『命には命を』(Жизнь за жизнь、1916年)より
背後に新郎役のイワン・ペレスチアーニ

バウエルの『命には命を』を見ていると、ある監督の価値観や世界観を表現するための「素材」、あるいは「媒介」として勝れたものを備えていたのは否定できないと思います。また女優単体の生き様、在り方が当時のロシアの社会を-様々な闇の要素を含めて-反映し、人々の欲望や不安に深く接触したからこそあれほどの共感を呼んだと考えることもできます。そういった意味ではオードリー・ヘップバーンやモンローに近い位置付けの女優さんだったことになります。


[IMDb]
Vera Kholodnaya

[Movie Walker]


[出身地]
ウクライナ(ポルタヴァ)

[誕生日]
8月5日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

光川 京子(1918 – ?)

「日本 [Japan]」より


若き日の榮えよ、めでたさよ!この一句を光川京子の讃とする。當年わづかに十七歳の京子の、現在の人氣はどうだろう!『お駒ちやん』といふ名で、蒲田撮影所員んみんなから可愛がられてゐるが、この名こそ第一囘作品『初戀と与太者』の京子の役名だつたのである。輝かしいスター生活は、實にこの處女作から始まつたのである。ちよつとユーモアが感じられるのは、清楚な京子が、甚だ肉類を好むことである。牛込に生れて赤坂に育ち、氷川小學校に通ひながら長唄と三味線に精進した。これが爲め京子は純日本風の娘に仕あげられたので、蒲田に入つてまだ三年(昭和六年十一月二十一日入社)だが、早くもあの人氣を克ち得たのである。若き日の榮え!

『最新映画大鑑』
(1934年8月、冨士9月號附録)


[JMDb]
光川 京子

[IMDb]
Kyôko Mitsukawa

[出身地]
日本(東京)

[サイズ]
13.5 × 8.5 cm

浅間 昇子(1910 – 1973)

「日本 [Japan]」より


本名瀧澤昇子。明治四十五年東京市赤坂區に生る。靑山女學校修業。大正八年帝國劇場にて初舞臺後引継ぎ舞臺にあり映畫界入りは大正十四年マキノ入社は昭和五年二月。娘役が得意、主な近作は「鴨川小唄」「光を求めて」「僞婚眞婚」等。身長五尺二寸。體重十一貫三百目。趣味は繪畫、三味線、讀書。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)


[JMDb]
浅間 昇子

[IMDb]
Shôko Asama

[出身地]
日本(東京)

[サイズ]
13.0 × 8.5 cm

ベレギ・オスカー Beregi Oszkár (Sr.) (1876 – 1965) と『黄金の男』(1919年)&『怪人マブゼ博士』(1933年)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(03)

Beregi Oszkár (Sr.) c1909 Autographed Postcard

1890年代末から本格的に演劇活動を始め、劇場を転々としつつ下積みを重ね、1900年代に人気役者の仲間入り、映画産業の勃興した1910年代に人気のピークを迎えています。

舞台では古典劇、歴史劇を得意としハムレットやリア王、ファウスト等を十八番としていました。

『演劇生活』誌1917年第22号表紙
同号では小特集が組まれ少年時代の写真も掲載されていました

声が魅力の一つでもあったため無声映画との相性を疑問視する声もありましたが、コルヴィン映画社からの主演作で杞憂だと証明してみせました。1917年には4作品で主演、この内一本がコルダ・シャーンドル監督作『カリフの鶴』(Gólyakalifa)です。二年後に再度コルダ監督と組んで製作されたのが『黄金の男』(Az aranyember)でした。

『演劇生活』誌1917年第43号より
『カリフの鶴』スチル

『黄金の男』より
左端に義母役のベルキー・リリ

19世紀後半の同名小説を原作としたもので、オスマントルコからドナウ川を越えてハンガリー領に入ろうとしたトルコ人の父娘と、二人を助けようとしたハンガリー人大尉(ベレギ)の物語を綴っていきます。

1920年代になるとドイツ映画界に進出。マイケル・カーティスの大作歴史劇『イスラエルの月』(Die Sklavenkönigin、1924年)等で活躍、短期間ハリウッドにも渡りますが旧大陸と同じ成功を収めることはできませんでした。

マイケル・カーティス監督作品『イスラエルの月』(1924年)より

映画キャリアの代表作となるもう一作はトーキー到来後の1930年代に公開されています。フリッツ・ラング監督の戦前ドイツ最終作となる『怪人マブゼ博士』(Das Testament des Dr. Mabuse、1933年)です。怪優ルドルフ・クライン=ロッゲを相手に一歩も引かない濃厚な演技にハンガリー戦前演劇を支えてきた名優の意地を見ることができます。

『怪人マブゼ博士』(1933年)でのベレギ(左)とルドルフ・クライン・ロッゲ(右)

[IMDb]
Oscar Beregi Sr.

[IMDb]
Az aranyember

[Hangosfilm]
Az Aranyember

ホッライ・カミッラ(Hollay Kamilla / Camilla von Hollay, 1899 -1967) と『アフロディーテ』(1918年、デエーシ・アルフレード監督)

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1910年代ハンガリー映画(04)

Hollay Kamilla 1910s Autographed Postcard
Hollay Kamilla 1910s Autographed Postcard

ハンガリー映画の黎明期に勢いのあったスター映画社と契約を結び、イレーシュ・イェネ監督作品『János vitéz』(1916年)の脇役として映画デビュー。同作で主演を務めたデエーシ・アルフレードが監督転向後、その作品のヒロインとして重用されるようになりました。

デエーシ・アルフレード監督作品
『Siófoki történet』でヒロインを務める
「演劇生活」誌1917年44号より

水着姿での一枚
「演劇生活」誌1918年35号

スター映画社の宣伝ページ
「演劇生活」誌1918年46号より

スター映画社の作品はほとんど残っていないのですが、近年の調査から少なくとも3本の現存が確認されハンガリー国立映画アーカイヴに返還されました。その一本『アフロディーテ』(1918年)にホッライ・カミッラ名義時代の演技を見ることができます。

Hollay Camilla in Afrodite (1918)

『アフロディーテ』(1918年)より

「演劇生活」誌1918年37号スター映画社
特集記事より『アフロディーテ』スチル

1922年からはカミーラ・フォン・ホレイ名義でドイツに活動拠点を移します。日本でも公開された表現主義調の戦争ドラマ『世の果』では準ヒロインの妊婦役を演じていました。

Hollay Camilla in Am Rande der Welt (1927)

『世の果』(Am Rande der Welt、1927年)より

[Movie Walker]
カミーラ・フォン・ホレイ

[IMDb]
Camilla von Hollay

[Hangosfilm]
Aphrodite

ルートヴィヒ・トラウトマン(Ludwig Trautmann、1885 ‐ 1957)と『天馬』の記憶

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Ludwig Trautmann 1910s Autographed Postcard

独逸のフイルムが上野みやこ座へ盛んに出た時分澤山にあらはれたブラウン探偵としてその顔は諸君の記憶に深ひことゝと思ふ。本誌十號にもこのことについて述べてあるから更に言ふ必要もない位である。この優の最もよく知られたのは彼の »天馬 » The Million Mine (Die Millionenmine) である。陸に海に地に空に到る所の活躍はこの俳優の右に出る者は先づ無いと云つて差支へない。自動車から自動車、橋から列車、船から船或は飛行機、乗馬、屋上の輕業、さては綱渡り等あらゆる危險は彼の前にも亦後にも類が無い。活劇俳優の第一指に數へられるとも決して大言ではあるまい、ルツドヴィツヒ・トラウトマン氏 (Herr Ludwig Trautmann)とは其人である、彼の出る劇は殆ど皆一つの作者を持つて居る、卽彼の活劇の考案者はハリー・ピール氏(Herr Harry Piel)で彼あると共に是等の劇に對する作者ピール氏あることを忘れてはならない。

「活劇及びその俳優:其二 ブラウン探偵」
(水澤武彦、『キネマ・レコード』収録、1915年2月号)


『天馬(てんば)』(ヴァイタスコープ社の作ルドウイツヒ・トロウトマンの演じたブラウン、探偵劇の中で最も成功したものです。戰前独逸探偵活劇の隆盛は此の映画の出現に依つて初まりました。)此の映畫程客を呼んだ映畫はありません。餘り頭腦の明晰でない-と云つては失礼かも知れませんが事實だから仕方ありません-活動屋さんも、此の『天馬』のことだけは末に記憶して居ます。そのブラウン探偵事トラウトマン氏は現在自社を設けて居ます。

「独逸映畫界の今日此頃」 (鈴木笛人、
『活動花形改題 活動之世界 7月号』収録、1921年)


この年の忘れ難い寫眞として「フアントマ」(佛エクレール社連續寫眞)又はトラウトマン氏の「天馬」又は「名馬」「第二天馬」といつた、劇を舉げて置く。

「映畫十年」(石上敏雄、
『映畫大観』収録、1924年、大阪毎日新聞社)


活劇の幕は独逸映畫の『天馬』によつて切つて落され、独逸活劇の花形としてルドウイヒ・トラウトマンが人氣を背負つて立つた。併しトラウトマン以前にもヨセフ・デルモントの如きがあつて、エルコ會社から『夢か眞か』『秘密』などの探偵活劇を出し、その軽妙な離れ業に可なり價値を認められたこともあつたが、トラウトマンが現はれてからは、全く姿を沒し、愈よこれから独逸活劇の全盛時代となり、トラウトマンの獨り舞臺に入つたのである。 […] その表情は無味乾燥であり、動作は殺伐であつたが、活劇そのものゝ目的は外にあるので、それ等の點で少しも價値を傷けることなしに、觀客はその冒險的演技を却てよろこび、輕快なる動作にすつかり酔はされた。『天馬』における彼がブラウン探偵としての活躍を見よ。陸に海に空に到るところに離れ業を演じて、手に汗を握らせた。船から船、橋から列車、自動車から自動車とあらゆる冒險に、前にも後にもトラウトマンの右に出づるものがない。『天馬』といふのは日本での改題で、原名は『ジ・ミリオン・マイン』(百萬圓の鑛山)である。その映畫が當つてから、あとで出來たコンチネンタル映畫の『夜の影の秘密』が『名馬』と改められ、またヴァイタスコープ映畫の『黑手組の末路』が『名馬續篇』と改まり、興行者の人氣取りから、標題を『天馬』に眞似たのが多く、終ひには『天空馬』といふやうな奇怪な名の映畫まで現はれてゐる。これで見ても、『天馬』が如何に人氣を取つたかゞ知れるであらう。

『欧米及日本の映画史』
(石巻良夫著、1925年、プラトン社)


スーパー8 『松竹8mmライブラリー 日本映画史 前編』
(監修:岩城其美夫、『天馬』特別説明:泉天嶺)

1914年公開のドイツ映画『天馬(てんば)』で探偵ブラウンを演じたのがルートヴィヒ・トラウトマンでした。

第一次大戦の開戦前後の日本ではドイツ映画ブームが起こっていて『天馬』はその火付け役のひとつでした。山本知佳氏による論文『日本におけるドイツ映画の公開』(日本大学文理学部人文科学研究所第97号、2019年研究紀要)によると、日本では1913年にドイツ映画の輸入が始まり(61作)、翌1914年に139作まで増えています。その後大戦の余波で公開数が激減。一年程度の流行ながら短期間に200作以上のドイツ作品が紹介されていたことになります。

盛り上がりを覚えている愛好家は一人ならずいて、1920年代以降も折に触れて『天馬』の名が上がっています。その内の幾つかをまとめてみました。本来ブラウン物ではない作品まで『第二天馬』や『名馬』、『名馬續篇』として紹介されていた様子が伝わってきます。

1910年代前半のドイツ映画としてはラインハルト劇団系統の作品(『ゴーレム』『プラーグの大学生』『奇跡』)に重点が置かれがちです。同時期の冒険活劇、探偵劇、メロドラマへの関心は低く、ライヒャー主演のウェブス物ハリー・ピール主演作がようやく評価され始めたのが現状です。オーストリアやスイス、フランスなど周辺国を見ても、1910年代に『天馬』やその周辺作品で盛り上がっていた国はありませんでした。

日本だけが異質な反応を見せていました。

リアルタイムで旺盛な言及対象となっていた。1920年代に昔話のネタとなり、半世紀後になおフィルムが残っていて、倉庫のどこかに今でも眠っているかもしれない…

作品全体を見ていないためこの状況をどう判断するか難しい所です。大したことのない作品を有り難がっていた可能性も零ではありません。逆に本国で見落とされていた良作を目ざとく見つけていた可能性だってある訳です。もし仮に後者だった場合、映画史的な「レフュジア」(本来生息していた地で絶滅した種が他の環境下で局所的に保存されている状態)が形成された、と見ることができると思います。


[IMDb:ルートヴィヒ・トラウトマン]
Ludwig Trautmann

[IMDb:『天馬』]
Die Millionenmine

[IMDb:『名馬』]
Der geheimnisvolle Nachtschatten

※『第二天馬』『名馬續篇』については現時点で未特定。後者は『黑手組の末路』の別タイトルから「Die schwarze Natter」ではなかろうかと当たりをつけています。

フェダーク・シャーリ (Fedák Sári, 1879 – 1955)と『三週間』(1917年、ガラシュ・マールトン監督)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(01)

『シビル』(1914年)より

『シビル』(1914年)より、直筆サイン入り絵葉書 右は共演のアールパード・ラタバール(Árpád Latabár)

フェダーク・シャーリは1890年代末からの長いキャリアを持つオペレッタ女優です。1910年代中盤には『シビル』(1914年)、『謝肉祭』(1916年)、『大理石の花嫁』(1917年)で人気のピークを迎えていました。

1917年に初めて映画に出演。英作家エリノア・グリンの同名小説を下敷きにした『三週間』(Három hét)です。『演劇生活』誌ではブダペストで公開された際のリポートが掲載されていました。前売り券が売り切れ、当日券の発売がなく見れない人々が続出したエピソードが紹介されています。

『三週間』の功績の一つとして同国の舞台劇愛好家に「映画」を認識させた点を挙げることができます。当時、まだまだ映画は格下のジャンル、見世物だと考えている人が多くいました。絶大な人気を誇っていたフェダーク・シャーリが映画に主演した事自体がインパクトであり、風向きの変化を後押ししていきました。

ドイツ・キネマテークが公開しているドイツ語版

[IMDb]
Három hét

[Hangosfilm]
Három hét

浦辺 粂子(1902 – 1989)

「日本 [Japan]」より


本名濱田粂子、明治三十四年十月伊豆下田に生る。嘗て歌劇俳優として金龍館や樂天地に出演、後小松商會を経て大正十二年日活に入社し一躍性格俳優としてフアンに認められスターとなる。處女出演は『乙女の心』主演は『清作の妻』『お澄と母』『金色夜叉』があり、最近の『シベリアお龍』で物凄いところを見せめきめき人氣を高めてゐる。現住所京都市上京區北野白梅町衣笠園三四三。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


「技藝部長、山本嘉一さん」ある撮影監督から恁う言つて紹介された人を、「おゝ、この方が」と私はその落附きと澁さとに、何處か英吉利好みの上品なモーニングの紳士を、熟々と見上げました。酒井米子さんは、私たちの手を執つて、「ほんとうに京都へ來て、すつかり落附ましたわ。どうか、これからは御一緒にねえ」と、沁々として言ふのでございました。私は此の気品高い落人の胸を察して、ほろりとして了ひました。恁うして、向島から四人の監督と、五十餘名の技藝員と、技師、舞臺装置の就業員一百餘名を新しく迎へた私たちのスタヂオは、恰度春の太陽に恵まれた大地のやうに、若さと元氣に賑ひ始めたのでございました。

『映画女優の半生』(浦辺粂子著、1925年、東京演藝通信社)


もう六七年も前、「淸作の妻」等に出演して當時の人気スターであつた浦邊粂子は今は上野製作所主人との結婚に破れて、撮影所に歸り、某カメラマンと新しい生活に入つてゐるが、彼女上野家へ玉のコシに乗った時、當時たゞれた愛慾の世界にタンデキしてゐた彼女だったので、生れ變るのだと、大きな感激のもとに、その告白記を京都日日新聞だつたかに連載した。それに依ると、「こんなにたゞれる樣な瞬間的欲情の生活はとうど私をお恥ずかしい病氣にさへしてしまひました」なんてことを大膽に書いてゐたもので、彼女びいきのフアンを歎かわしく思はせた。

「映畫界エロ双紙」(小倉浩一郎、『デカメロン』1931年9月号所収、風俗資料刊行會)


[JMDb]
浦辺粂子

[IMDb]
Kumeko Urabe

[出身地]
日本(静岡)

[誕生日]
10月5日

ファルコネッティ Renée Jeanne Falconetti (1892 – 1946)

「フランス [France]」より

Falconetti late-1920s / early-1930s Autographed Postcard

サインを求めてくる者たちを毎晩のようにす相手した後、ファルコネッティがスタッフ用入口から出てくるといつも同じ青年とすれ違った。

『ファルコネッティ伝』
(エレーヌ・ファルコネッティ著、93頁)

実子エレーヌさんによる伝記では1923年頃の女優が毎日のようにサイン攻めにあっていた話が触れられていました。

こちらは1920年代後半~30年代初と思われる直筆サイン入りの絵葉書。パリのマニュエル兄弟写真社の撮影で右下に同社ロゴがエンボス仕様で刻まれています。

『ソムリヴ伯爵夫人』(La Comtesse de Somerive, 1917年)
GPアーカイヴスより

上の写真は女優キャリアの初期(デビューから2年後)の1917年に出演した短編映画の一コマ。下積み期ながら懊悩の表現が10年後の『裁かるゝジャンヌ』を予告しています。

[IMDb]
Maria Falconetti

[Movie Walker]
ルネ・ファルコネッティ

[出身地]
フランス(パンタン)

[誕生日]
7月21日

エルミール・ヴォーティエ Elmire Vautier (1897 –1954)仏

「フランス [France]」より

Elmire Vautier 1920s Autographed Postcard

仏シネ・プル・トゥス誌1923年通巻110号より

『私の子』(Sa Gosse、1919年) GPアーカイヴより

『ベルフェゴール』(1927年)より

エルミール・ヴォーティエ夫人は30年程昔ウール県のベルネーで生を受けた。

パリの音楽高等師範学校に入学、ジュール・トルフィエに師事するが程なく演技の勉強を離れ、1918年に映画初出演となる2作『他人の妻』『殺したのは誰だ』撮影に参加した。

翌年アンドレ・ルグラン映画社と契約を結び、アンリ・デフォンテーヌ監督の下で『奇妙な盗人』『私の子』に、次いでリアベル監督による『不死之血』『海辺の花』『愛なき島』に出演した。

その次の作品は『巨手』は戦争プロパガンダ映画だった。アンドレ・ユゴン監督の『証拠』に、ジェラール・ブルジョワ監督物の連続冒険活劇『夜の息子』と続いていく。1921年には新たな連続活劇『三つの仮面の男』で一人二役を演じ、ロジェ・ド・シャトルの『他人』でも再度二役に挑戦している。

パテ・コンソルティウム社と一年契約を結び、最初に撮ったのが『カマルグの王』であった。原作ジャン・エカール、監督はアンドレ・ユゴン。次いでジョルジュ・モンカが監督したJ・J・ルノー原作物『ジュディト』、トゥリエ原作で監督やはりモンカによる『避難』に出演。アルトゥール・ベルネード原作でジャン・ケム監督の『ヴィドック』が最新作である。


Elmire Vautier est née, il y a une trentaine d’années, à Bernay, dans l’Eure.

Admise au Conservatoire de Paris, dans la classe de Truffier, elle quitte bientôt ses études théâtrales pour tourner, en 1918, ses deux premiers films, Les Femmes des autres et Qui a tué? sous la direction de Pierre Marodon.

Engagée en 1919 par les Films André Legrand, Elmire Vautier a tourné ensuite : Un vol étrange et Sa Gosse, réalisé par H. Desfontaines; puis Le Sang des Immortemmes, Des Fleurs sur la mer et L’Ile sans amour, réalisé par L. Liabel.

Vinrent ensuite un film de propagande : Les Mains géantes, puis La Preuve, sous la direction d’André Hugon, et un ciné-fuielleton d’aventures : Le Fils de la Nuit, réalisé par Gérard Bourgeois. En 1921, un autre ciné-roman : L’Homme aux trois masques, où elle interprétait un double rôles; puis de nouveau dans un double rôle : L’Autre de Roger de Chateleux.

Engagé par Pathé-Consortium pour une année, Elmire Vautier a tourné par la suite : Le Roi de Camargue, réalisé d’après Jean Aicard par André Hugon : Judith, de J. J. Renaud, réalisé par Monca; Le Refuge, d’après A. Theuriet, réalisé par le même. Puis, tout dernièrement, Vidocq, composé par Arthur Bernède et réalisé par Jean Kemm.


1910年代末にデビューした個性派の女優さん。

初期作の『私の子』では純情な田舎娘が男にたぶらかされ未婚の母となり、生活費を稼ぐためパリに上京し歌手として生計を立て始めます。パリ篇では蓮っ葉な現代っ子の側面が強調されていて、地元篇との雰囲気の違いに驚かされます。

綺麗目のヒロインと暗黒面を抱えた女性を演じ分ける力は高く評価されていたようで、特に活劇系の設定で重宝されるようになりました。

『三つの仮面の男』での二役を皮切りとし、フイヤードの『ファントマ』でファントマ役を演じたルネ・ナヴァールの出演作品に(しばしば裏の顔を持つ)ヒロインとしてクレジットされる機会が増えていきます。『ヴィドック』(Vidocq、1923年)、『正義を成す女』(1925年)、『沈黙の壁』(1925年)、『ベルフェゴール』(Belphégor、1927年)はいずれもナヴァールとの共同主演作品。

クレステと共演した『正義を成す女』(La Justicière、1925年)のポスター


しかしこういった作品以上に女優の力量を引き出したのは『カマルグの王』(Le roi de Camargue、1922年)でした。エルミール・ヴォーティエは流浪の民に呪いをかけられ最後は沼地で溺れ死ぬ悲運のヒロイン役で、幸福だった私生活が崩れて落ちていく不安感を上手く表現していました。

出演作では『カマルグの王』『ベルフェゴール』の2作が9.5ミリフィルム化されています。


[IMDb]
Elmire Vautier

[Movie Walker]
エルミール・ヴォーティエ

<[出身地]
フランス(グランシェン)

[誕生日]
8月28日

日本・9.5ミリ個人撮影動画『初秋の頃』1930年頃の東京復活大聖堂と吹上御苑ゴルフコース

「9.5ミリ 個人撮影動画」より

後半は子供を被写体とした自宅での家族動画ながら、前半に含まれた2つのスポーツイベントが興味深かった一本。

冒頭、まずはテニスの様子が映し出されます。試合をしている場面は一瞬で、授賞式の様子がメインとなっています。

撮影中にカメラが移動していき、背景の建物を捉えていきます。ニコライ堂の愛称で知られる東京復活大聖堂です(下はグーグルマップより)。

その後映像が切り替わり、ゴルフプレー中の男性陣が映し出されます。

当時パテベビーカメラを購入し使っていたのはそれなりに裕福な層だった訳で「ハイカラ」なスポーツが撮影されていてもさほど驚きはありません。びっくりしたのはこの直前に一瞬映し出された案内図でした。

手振れがひどく静止画でようやく読めるか読めないか。それでも「吹上御苑内ゴルフリンクス平面図」を確認できました。

吹上御苑は皇居の西側に当たる一角で現在は天皇・皇后の居住空間として使用されています。戦前、1937年までここにゴルフコースが設置されていました。ゴルフ好きだった昭和天皇が作ったプライベートコースです。

地図の隣にスコア表も貼りだされています。

皇室主催の紅白戦が行われていたようです。男女別に分かれていて一行目に「聖上」(昭和天皇)とあり、13名のスコアが並んだ後一行空けて「皇后宮」(香淳皇后)とあります。昭和天皇の真下にある「甘露寺」は東宮侍従を務めた甘露寺受長(1880-1977)なのかな、と。他にも興味深い名前が並んでいます。昭和天皇と香淳皇后は前半のみ参加。昭和天皇(ハンデ18)は41で、香淳皇后(ハンデ32)は55で回っています。

戦前9.5ミリ映画の「記録力」を実感させられる一本でした。

1926年 – 阪東妻三郎主演『幕末』(阪妻プロ 、宇澤芳幽貴監督)説明本・出版者不明


「阪東妻三郎関連」より


彼の武士は、いよいよ圖に乗つて亂暴を働いて居る、此有様を見た兵之助は忽ちムツと怒り出し「ヤア無禮な奴である。場所もあろうに斯る遊里の巷で亂暴を爲すとは男らしくもない奴じゃヨシ俺が取つ締めてやるぞ」と猛然として進み寄つたる兵之助は彼に近寄ると見る間に、ドツと背ひ投げを喰はしてしまつた。其勢に恐れて始めの勇氣は何處へやら鼠の如く小さくなつて人込みの中へ逃げ込んでしまつた、兵之助はカラカラと打ち笑ひながら其場を立ち去つて行った。そして神前組の所へ歸つて來た。隊長の近藤勇は彼を読んで何事か密儀を始めた。兵之助の妻の綾は後妻であつたそして先夫との間に出來た一人娘を連れて兵之助の許へ來たのであるが其の連れ子の娘が何者かに誘かいされて行方不明となつたのでお綾は毎日夫れを氣に病んで悲しい日を送つて居る[…]。


阪妻プロの初期作の一つ(第8作目)で『蛇眼』の次作として公開された作品。先日紹介した東亞の『傷魂』と同じ発行者と思われる小型サイズの解説本です。

『雄呂血』で助監督を務めた宇澤芳幽貴が初めて監督に挑戦。また松竹の特作映画(『修羅八荒』『孔雀の光』)で注目を集めていた新進女優・五味国枝が初めて阪妻と共演した一作でもあります。


[JMDb]
幕末

[IMDb]
Bakumatsu

[フォーマット]
13.2cm×9.8cm、10頁

[出版年]
1926年

ダマール・ゴドウスキー、1930年代後半の直筆書簡 Dagmar Godowsky (1897 – 1975) 露/米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より


本当にとても傷ついております。カクテルパーティーにご招待したのはキプリン氏に引きあわせようと思ってのことで、「後で連絡するよ」と仰ったにも関わらずその後は梨のつぶて。何があったのですか。来週は船旅の予定となっているため、確実に連絡のつきそうな日曜の早い時間帯に電話くださいね。貴方の怠慢にもめげぬ温かい心持ちをこめてダマール・ゴドウスキー


I am really very hurt. I invited you for cocktails to meet Kiplins and you said you would let me know, but never a word ! What happened ? I am sailing next week so do call me sunday early that will be the best time to reach me. In spite of your neglect warm feelings Dagmar Godowsky


1920年代にニタ・ナルディやヴァレスカ・スラット等と並ぶエキゾチックな女優として評価を得ていたのがダマール・ゴドウスキーでした。名ピアニスト、レオポルド・ゴドフスキーの娘として生まれ、第一次大戦開戦後に父と共に合衆国に移り住みました。

映画デビューは1919年で、アルベール・カペラーニ監督がナジモヴァを主演にして撮ったハリウッド無声版『紅楼夢』(邦題『赤き灯』)でした。翌年からユニヴァーサル社作品に出演するようになり、同社の花形男優のフランク・マイヨと結婚。1922年にはロン・チェイニー主演作『狼の心』ヒロインを務めました。

フォトプレイ・マガジン 1922年6月号

その後ヴァレンチノ主演作の『情熱の悪鬼』(1924年)などに妖婦・ヴァンプ女優として登場、1920年代末には映画業界から離れ、社交界でその存在感やユーモアに長けたコミュニケーション能力を発揮していくことになります。

今回入手した書簡は(以前に紹介したサンドラ・ミロワノフ宛と同じく)仏ジャーナリストのルネ・ブレステ氏に送った一通。パーティーの招待をスルーされたダマールさんが恨み節を交えて再度連絡するよう迫った内容。シャンゼリゼ通りのカールトン・ホテルの専用便箋が使われています。


[IMDb]
Dagmar Godowsky

[Movie Walker]
ダマール・ゴドウスキー

<[出身地]
ロシア(ヴィルナ、現リトアニア)

[誕生日]
11月24日

ヘレン・ギブソン Helen Gibson (1892 – 1977)米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Helen Gibson 1920 Autographed Photo

映畫界に這入つたのは、一千九百十四年にカレム會社に雇はれたのが最初であるが、數箇月後、豫て活劇女優として知られて居たヘレン・ホルムズ嬢が同社を去るに及んで、その後を受けて「ヘレンの冒険」を完成する事になつた。嬢が鐵道冒險女優として、米國の映畫界に異彩を放つやうになつたのは、その以後の事である。目下はカレム社を去つてユニヴァサル會社に勤めて居る。

パリの音楽高等師範学校に入学、ジュール・トルフィエに師事するが程なく演技の勉強を離れ、1918年に映画初出演となる2作『他人の妻』『殺したのは誰だ』撮影に参加した。

嬢は本名をヘレン・ローズ・ギブソンと云つて、少女時代は兎も角も、今では其名のローズと云ふ綴字が示して居る通り、如何にも温順で極く内気な人であると云はれて居る。しかし、自分の仕事に對しては、至つて忠實で、あれ程の大冒險を、物の數とも考へて居ないさうである。自分がカメラの前で演じて居る事を、世間の人は何故あんなに珍らしがつて騒ぐのか解らないと、嬢は語つて居る。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)


サイレント時代の連続活劇で最も長く続いたのが『ヘレンの冒険』(Hazards of Helen、カレム社、1914〜17年)です。アクション系ヒロインと蒸気機関車の鉄板の組みあわせは多くの心を鷲づかみにし計119エピソードが製作されるまでに至りました。

初代「ヘレン」を演じたのがヘレン・ホームズ(1892-1950)で、彼女はパール・ホワイト等に先行する女性連続活劇ヒロインとしてハリウッド史上に名を残すことになります。しかしすぐに自身の映画会社を立ち上げて離脱、過渡的な代役(エルシー・マクリード)を経た後、正式に「二代目ヘレン」として紹介されたのがヘレン・ギブソン(1892 – 1977)でした。

嬢は自身を「危難のスペシャリスト」と評し、とりわけ機関車でのアクションを得意として居る。[…]

最近の『断線』に切れた電信線を掴んで宙づりとなつた嬢が列車の客席に飛びこんでいく場面があつた。先の作品同様、機関車は恐ろしい速度で進んでおり、嬢はリハーサル中にタイミングを見誤り列車とあわや衝突の事態に相成つた。落下して意識を失い車輪がすれすれの距離を通り抜けていく。一ヶ月以上に渡る入院を余儀なくされたが退院を果たした嬢は果敢にも撮影に再挑戦し見事成し遂げてみせたのである。

「死と戯れる娘たち」クレイトン・ハミルトン
(『ピクチャープレイ・マガジン』1916年5月号)

馬の曲乗りなどを披露していた経歴の持ち主で技術的ハードルを難なくクリアし、途中から脚本にも絡むようになります。『ヘレンの冒険』終了後はユニヴァーサル社で活動を続けますが事故の影響などもあって同社を離脱、スタントなど脇役での出演が中心となり表舞台からは姿を消していきました。


[IMDb]
Helen Gibson

[Movie Walker]


[出身地]
合衆国(オハイオ)

[誕生日]
8月27日

[撮影]
Witzel L.A.

[データ]
12.7 × 17.5 cm

キャスリン・ウィリアムス Kathlyn Williams (1888-1960) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Kathlyn Williams 1910s Autographed Photo

かつての銀幕花形で、初恋相手である活動写真に戻つてきた一人がキャスリン・ウィリアムス孃である。モンタナ州の町ビュートに生れ、ウェズリアン大学とニューヨーク演劇学校で学んだ。舞台では『21歳なりし頃』『デイン夫人の擁護』などに出演した。嬢はパラマウント社やアートクラフト映画社の映画に多く出演しており、『ビッグ・ティンバー』『遭難脱出』『囁きの合唱』『すべてが手に入る訳ではなし』。近作に『愛と芸術』があり、トーマス・ミーアンの相手を務めてゐる。丈は5尺5寸、體重は16貫700匁、金髪に灰色がかった青の瞳を有する。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

One of the old favorites of the screen to return to her first love — motion pictures — is Kathlyn Williams. Miss Williams was born in Butte, Montana, and educated at Wesleyan University and the New York School of Dramatic Art. On the stage she appeared in « When We Were Twenty One, » « Mrs. Dane’s Defence » and others. Miss Williams has appeared in many Paramount and Artcraft pictures, including « Big Timber, » « Out of the Wreck, » « The Whispering Chorus » and « We Can’t Have Everything. » One of her latest pictures is « The Prince Chap, » in which she plays opposite Thomas Meighan. Miss Williams is five feet five inches high, weighs a hundred and thirty-eight pounds and has blonde hair and grey-blue eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)

「モーション・ピクチャー・マガジン」1916年11月号表紙

1910年代初頭ビオグラフ社で女優デビューを果たし、ゼリグ社に移って製作された「キャスリンの冒険(The Adventures of Kathlyn)」活劇シリーズで人気を得ていました。会社での序列が上がるにつれて脚本などにも携わるようになり、ゼリグ社で数本自作を監督した記録が残っています。その後はドラマへと比重を移し、パラマウント系列の映画会社を拠点に活動を続けていきました。

映画製作にも関与したパイオニアの一人に位置づけられることもありWFPP(映画業界女性先駆者プロジェクト)でも大きく扱われています。ゼリグ社時代のプリントをEYE映画博物館が保存しており現在YouTubeでも閲覧できます。

『キャスリンの冒険』(1913年、ゼリグ映画社) EYE映画博物館所蔵プリント

[IMDb]
Kathlyn Williams

[Movie Walker]
キャスリン・ウィリアムス

[出身地]
合衆国(モンタナ)

[誕生日]
5月31日

マルコ・ド・ガスティーヌ、昭和2年(1927年)の直筆書簡 Marco de Gastyne (1889 – 1982) 仏

「『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』[La Merveilleuse vie de Jeanne D’Arc, 1929]」より

貴殿の手紙を此の地にて受け取ました。仕事の都合でまだ2、3週間程足止めの予定です。巴里に戻り次第電話にてご連絡させていただきますので、待ち合わせの日取りを決めつつ面白そうな話でも出来たらと思っています。ご不在やむなきようであれば次に巴里に来られる予定日を教えていただければ調整させていただきます。

親愛なる
マルコ・ド・ガスティーヌ

Cher ami,
Votre lettre m’atteint ici, où mon travail me retiendra encore une ou deux semaines. Aussitôt que je serai à Paris, je vous appellerai au téléphone, pour que nous prenions rendez-vous et que nous parlions de ce qui vous intéresse. Si vous devriez alors être absent, avertissez-moi de votre prochain passage à Paris, et espérons que nous pourrons nous atteindre.
Croyez-moi, cher ami, bien sincèrement votre,

Marco de Gastyne

マルコ・ド・ガスティーヌ監督が作家ポール・ブラック(Paul Brach、1893-1939)に送った手紙。1927年8月18日付、仏メッツ市のレジーナ・ホテル専用便箋を使用しています。

◇◇◇

映画監督として知名度を上げる以前、1910年代のガスティーヌは画家として成功を収めていました。

昨日午後、芸術アカデミーは芸術学校に於いて会合を開き画家を対象としたローマ賞選考を行った。栄誉に浴したのは以下の者である。
ローマ賞グランプリ:コルモン氏に師事したド・ガスティーヌ。[…]
マルコ・ド・ガスティーヌ氏は1889年生まれ。前回の仏芸術サロンで第3位となり、1909年度の芸術学校のデッサン部門で優勝、今年度は人物画の部門で準優勝を果たしている。

『十九世紀』紙1911年7月24日付

L’Académie des beaux-arts s’est réunie hier après-midi, à l’Ecole des beaux-arts pour le jugement du concours du prix de Rome (peinture). Elle a décerné les récompenses suivantes:
Grand prix de Rome, M. de Gastyne, élève de M. Cormon […].
M. Marco de Gastyne est né en 1889; il a obtenu une troisième médaille au dernier Salon des Artistes français; et à l’Ecole des beaux-arts, la grande médiaille d’esquisse en 1909, et cette année, une 2e médaille de figure (expression).

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『十九世紀』紙1911年7月24日付

人物画、風景画どちらも得意としており特に北アフリカの景色を好んで描いています。大戦中には雑誌の表紙や書籍挿画を手掛けるようになり、終戦後に絵筆を置いて映画界に参入。当時力をつけていた映画プロデューサー、ルイ・ナルパの制作した千夜一夜風奇譚『戀のスルタン』(1919年)のデザイン担当でした。

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『戀のスルタン』(1919年)より

何よりアルジェリア。南アルジェリアとサハラアトラス山脈。人生で一番贅沢な時間を過ごした場所で沢山の思い出があります。大地や地元民の荒々しさ、豊かな蜃気楼、ありとあらゆるものが前代未聞のレベルなんです。

(ラ・ラペル紙1927年6月3日付「マルコ・ド・ガスティーヌ」インタビュー)

Mais surtout l’Algérie. L’Algérie du Sud, l’Atlas saharien. C’est là que j’ai passé les heures les plus copieuses de ma vie, celles qui ont fécondé mes souvenirs. Cette région-là est inouïe, par la rudesse de son sol et de ses habitants, par sa richesse en mirages, par toutes sortes de choses.

(La Rappel, 3 juin 1927, Intimité: Marco de Gastyne)

このインタビューを読むと『戀のスルタン』に絡んだのは必然だったのかな、の気がします。自身が監督を手掛けた初期作品(1922年『インシャラー』、1923年『南の地平』、1926年『レバノンの女城主』)も同様で、何らかの形でアラブ世界と接点を持っていました。

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『レバノンの女城主』(1926年)。GPアーカイヴ(旧ゴーモン・パテ・アーカイヴ)所蔵プリント

『レバノンの女城主』からは大手パテ・ナタン社に拠点を移します。映像美、海外ロケの経験値、監督としての人望と将来性などを買われ『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』監督に抜擢。オルレアンの戦闘ではロシア流の速いモンタージュ術を組みこんだ圧倒的な表現を展開していました。

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『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』(1929年)より

30年代となり波止場のサーカスを舞台とした人情劇『麗しき悪女』(Une belle garce、1930年)、アラスカを舞台にした西部劇『彷徨える獣』(La Bête errante、1931年)でトーキーに挑戦。それまでのアフリカ指向とは大きく趣を変えているものの、エキゾチックな異世界への憧憬という点で初期作品の延長と見る事ができます。

1930年代半ば短編ドキュメンタリー監督に転向し1960年代まで撮り続けました。現在の映画史上の扱いは不当なまでに低いものの、『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』『麗しき悪女』『彷徨える獣』の3作品が9.5ミリ形式で市販されていたのは同時代の評価が高かった証です。

[IMDb]
Marco de Gastyne

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(パリ)

[誕生日]
7月15日

サンドラ・ミロワノフ、1939年の直筆書簡 Sandra Milowanoff/Milovanoff (Александра Милованова, 1892 – 1957) 露/仏

「フランス [France]」より

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1939 Sandra Milowanoff Handwritten letter to René Brest (Paris-Soir)

1939年1月9日

親愛なるブレスト様

貴方の素晴らしい記事にどう感謝して良いのか見当もつきません、目に涙を浮かべながら読ませていただきました。私について書いてくださった素敵な言葉にとても胸打たれました。決して忘れることはないでしょう。

いつかパリ・ソワール誌の編集部にお邪魔させていただく機会があれば直に御礼させていただきますね。夫と私より、多大なる感謝と最大の敬意をこめて。

サンドラ・ミロワノフ

追伸:感極まっております、悪筆と文法の間違いお許しくださいませ。

Cher Monsieur Brest,

Je ne trouve pas les mots pour vous remercier de votre admirable article, —c’est en pleurant que je le lu. Mille, mille fois merci, et croyez-moi que vos bonnes paroles dite sur moi, m’avait tellement touché, je ne les oublierai jamais.

Un jour je ferai ma visite au Paris-Soir, pour vous dire tout ça personnellement. Mon mari et moi vous prions, Cher Monsieur, de croir en notre grande reconnaissance et en nos sentiments les plus profonds.

Sandra Milowanoff

P. S. Excusez mon ecriture et mes fautes, mais je suis tres emu.

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仏『シネア』誌1924年1月号の特集記事より

[…] アンナ・パヴロワ団の一員として雇われた。欧州各国の首都で展開されたツアーにメンバーとして参加、偉大な芸術家パヴロワの下で2年を過ごした後、セルゲイ・ディアギレフの有名なロシア・バレエ団に転籍、多くの人々に知られているようにロンドンのドルーリー・レーンやパリのオペラ座、モンテカルロのグラン・カジノやベルリンのクロール劇場で大成功を収めている。

1918年、ロシア革命によりサンドラ・ミロワノフ嬢は亡命を余儀なくされる。コート・ダジュールに滞在、先に見たように映画女優としてのデビューと相成った。うなぎ上りの人気にメキメキと地位を上げていった。名高いフイヤードの一座に加わっていたこともあって短期間に映画女優としての腕をあげていったのである。

『スペクタクル』誌1925年9月25日付

Anna Pavlowa, qui l’engage dans sa troupe. Après deux années passées aux’ côtés de la grande artiste dans les tournées triomphales que cette dernière entreprend dans les capitales de l’Europe, Sandra passe dans la fameuse troupe des Ballets Russes de Serge de Diaghilev, qui remportent le succès que l’on sait successivement à Londres (Drury-Lane), Paris (Opéra), Monte-Carlo (Grand Casino), Berlin (Kroll-Theater), etc..

[…] En 1918, la Révolution oblige Sandra Milowanoff à fuir. C’est ensuite le séjour sur la Côte d’Azur — et enfin des débuts à l’écran, comme nous les avons retracés plus haut. Sandra Milowanoff offre un exemple particulièrement net de carrière sans cesse ascendante et de popularité rapide. Grâce à son séjour dans la troupe de Feuillade, bian connue pour son activité, elle a pu en peu de mois acquérir les qualités si particulières de l’artiste de cinéma.

Les Spectacles, 25 Septembre 1925

ロシア出身でバレリーナとしての修業を積み、ロシア革命後に活動拠点をフランスに移し映画女優として名を上げたサンドラ・ミロワノフがジャーナリストのルネ・ブレステ氏に宛てて送った礼状。

映画女優としてはフイヤードの後期活劇(『パリっ娘』『狂乱の悪鬼』)で注目を浴び、1924年の仏女性誌での人気投票でメアリー・ピックフォードに次ぐ評価を得ていました。ちょうどこの時期9.5ミリ小型映画が市販化されたこともありパテベビーからも『聖女ベアトリクス伝説』『氷島の漁夫』『噫無情』『ネーヌ』『ジョカスト』『コレットの涙』など多くの出演作がソフト化されています。トーキー到来の後は言葉のハードルに苦しみ映画界を離れています。

[IMDb]
Sandra Milovanoff

[Movie Walker]
サンドラ・ミロワノフ

[出身地]
ロシア(サンクトペテルブルグ)

[誕生日]
6月23日

[データ]
パリ・ソワール紙、ルネ・ブレステ氏。1939年1月9日付。封筒裏面にはパリ・ソワール紙の社名入り印あり。

1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その二)『海江田譲二の高田の馬場』(日活、辻吉朗監督)

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或る一日街頭の易者に己の身上を占はせました。
『世辭追従の嫌ひな貴殿の氣質を當世向きにしなければ士官はなかなか困難です……それに今の世の中は何といつても腕前なぞより金ですからね』
と淡泊と片付けられ、氣早な安兵衛憤つたの怒らないの易者の机を引ッ繰り返し道具をメチヤメチヤにして歸つたこともありました。

昭和6年(1931年)に『新釈高田の馬場』として公開された作品。前年春に日活に入社した海江田譲二の初期作で、説明本も同氏の名前を前に出しています。海江田譲二はこの後同社の股旅物(『沓掛時次郎』)で知名度を上げ、日活を離れ大都に流れ着いてからも剣戟物で活躍していきます。

海江田氏の初期作は「近代味のある時代劇」とも評されていました。本作でも腕は立つが協調性に難があって士官先を見つけられない安兵衛の設定に世界恐慌後の就職難、拝金主義が重ねあわされているようです。

[JMDb]
新釈高田の馬場

[IMDb]
Shinshaku Takadanobaba

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事01キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事02

過ぐる一九一一年九月エクレールは驚ろくべき活動寫眞のレコード破りの不可思議なる”ジゴマール”を作り世界各國にエクレールの名を成さしめたことは諸君に強く印象を殘されて居る所であらふ。第一篇より引續き第二篇(ジゴマールとニック・カルテー)は表われ前の福寶堂が輸入して未曾有の人氣を集め遂に”ジゴマ君”の名とあの顔とは誰も知らぬ者はない位荀も日本人たる者ジゴマを知らざる者は無い樣になつたのは實に奇性な現象で”ジゴマ”といふと今では”賊”といふ普通名詞になつてしまつた。以来警察は絶對に”ジゴマ”を禁止し名さへも許されずになつた。第三篇は昨年三月倫敦で發賣され直に日本にも輸入したが時しもジゴマ禁止の嚴命で出す所の騒ぎでない所からそのまゝ今日に至つたが、いくらジゴマ君でも日本の分ずやの〇〇〇〇君には凹まされて今日まで暗い日活の藏の中にとぢ込められてゐたが漸く九月末出獄して遊樂館に出ることになつたが、”Z”の名は使用をゆるされず、タイトルも ”A detective’s victory”(探偵の勝利)となり字幕全部タイプライターで日本製の幕に變更し、”ジゴマ”、”ポーラン・ブーケ”の名は”名知らぬ悪漢””某探偵”となり了つた、後は看客の御想像にまかせて置く。

ジャッセによるジゴマ三部作の最終篇(「探偵の勝利」、原題 »Le Peau-d’anguille »)が公開された際の紹介記事。

青少年への悪影響を理由に1912年10月にジゴマが上映禁止となった話は良く知られています。

兒童が探偵小説を耽讀して、窃盗になつたり汽車往生を遂げたりすることは甚だ多い。先年東京近郊の品川線に於て汽車を止めた兒童は、探偵が兇賊を追うて走りくる汽車に飛乗つたのを眞似たのである。また此間裁判の判決を仰いだ東京芝公園に於る少女殺しは、芝居を眞似て過つて一少女を絞殺したのであるといふ。その影響実に大なりといふべし。而て此等の影響は活動寫眞に於て最も大である。[…]

我國では東京に於て近年警視廳の訓令によりフィルムの種類を甲乙に分ち、甲種は十五歳以下の兒童に觀せない。又フィルムの検閲を行ひ、活動館内の座席を區別して、男子席、婦人席及び家族席としてゐる。

『輓近の児童研究』(関寛之、洛陽堂、1919年)

1912年帝国教育会は「活動写真取り締まり建議」を文部省に提出、また警視庁は「活動写真取り締まり規則」を制定、活動写真を甲種、乙種に分け、甲種は15歳以下を禁止としたのです。

『視聴覚メディアと教育』(山口榮一著、玉川大学出版部、2004年)

日本映画検閲史の記念すべき第一歩は作品上映を物理的に禁じただけではなく、「ジゴマ」の語そのものを社会悪とみなしNGワード化したという話でもありました。そこで映画業界側が「ジゴマで駄目ならジゴマールで行こう」と改名して切り返した展開となっています。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報 1912年9月 通巻第163号)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報1912年9月)

西洋の石川五右衛門といふジゴマは活動寫眞で大評判、以来ジゴマの眷属が八方に擴がつて、昨今では日本ジゴマなどが製造致されましたが初めは仏蘭西のル、マタン新聞に掲載された同國のサージ氏の作品が本物で其れを活動に仕組んでから雑多のジゴマが湧き出した譯で厶います、茲には其本ジゴマの内の極々面白い荒筋を伺ひまする。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平、『日本實業新報』、1912年9月 通巻第163号)

「讀切新講談:ジゴマ」挿画

『ジゴマ』前後編(オリジナル三部作の最初の二作)が話題を呼び、一方で物議を醸していた最中に日本實業新報に掲載された一回読切のあらすじ紹介。冒頭に作者からの簡明な説明が置かれた後、『ジゴマ』『ジゴマ後編』の大筋を5段組み1頁にまとめたもの。中段に置かれた似顔絵が特徴をよく捉えています。