アスタ・ニールセン(1881 – 1972)、1949年の書簡

北欧諸国 [Nordic Countries]より

Asta Nielsen 1949 Singed Letter

1949年10月11日
親愛なるフィッシャー樣

お問いあわせ心より感謝しております。
(そうそう、ドイツ語で書かないといけないですよね)
「スイス画報」誌のためとの話で心より感謝申し上げます。 御誌への好奇心がムクムク湧いてきています。
最近撮った写真は手元に御座いませんのでご了承くださいませ。
貴殿と御誌のご発展を心よりお祈り申し上げます。
かしこ

アスタ・ニールセン

11.10.49

Käre Her Redaktör Fischer.

Hjertelig Tak for Deres Henvendelse For mi (det er sandt, jeg maa jo skrive Tysk)
Also, herzlichem Dank für Ihre Bemühung mit der Schweizer Illustrierten, nun bin ich neugierig, ob ich etwas davon höre.
Wie ich Ihnen schon hier sagte, bin ich nicht im Besitz von Bildern aus der letzte Zeit.
Ich hoffe, dass es Ihnen beide nach Wunsch geht und sende dir herzlichste Grüsse.
Ihre sehr ergebene,

Asta Nielsen

アスタ・ニールセンが戦後の1949年、スイスの雑誌の編集者に送った書簡。記事用に近影の写真を所望した編集者にやんわりと断りを入れた内容です。折りたたんで封をすると三辺にミシン目ができるタイプの封筒を使用。印刷された15オーレの切手の脇に5オーレの切手が追加で貼ってあります。

最初はデンマーク語で書き出しながらすぐドイツ語に変わるのですが、狙ってやったわけではなく間違えに途中で気づいてそのまま修正し書き続けたように見えます。ミスタイプを打ち直した個所も多く、秘書に打ってもらったのではなく本人がタイプしているのではないのかな、と。

オスロ(ノルウェー)のホテルに滞在しているスイスの雑誌の編集者に宛て、デンマークからドイツ語の手紙を書く…欧州を股にかけて活躍した名女優さんらしいスケールの大きな話です。

1926年12月、ケルンで残されたと思われる
サイン入り絵葉書

Asta Nieslen Signed Card

雑誌切抜きを貼りつけた手製カードに
(戦後、1940年台後半から50年台始め)

アスタ・ニールゼン、彼女の名は今や我愛活家の腦裡より忘れられようとして居るけれどもニールゼンはその藝能に於て又技巧に於て、他の追從を許さぬ獨得の領域を持つた名女優であつた。幻惑的な嫋弱[たおやか]なすつきりした姿、人の胸に迫る沈痛な面持。ニールゼンには斯うした北歐の女性の備ふる典型を持つて居る。さうしてその五體より湧き出る彼女の表現、夫[それ]はあの物寂たビオスコツプ藝術映畫に缺くべからざる權威でもあつた。『ハンナ嬢』の如き、『愛の叫び』の如き、『女優の末路』の如き、『浮縁の血統』の如き、實に彼女の藝術の一旦を伺ふにて遺憾なきものであつた。

ニールゼンの生國は平和に満ちた丁抹である。北歐劇壇にニールゼンの名が漸く表れ始めた頃、彼女は故国を後にして独逸伯林の都に來て、劇作家ウルバン、ガツトウ氏と知り、兩者は戀にも生き、結婚して共々ビオスコツプ社の招聘により、ガツトウ氏劇作指導の下にニールゼン映畫を作る事となり、數十の映畫を撮影したのであつたが、折から戰亂となり、嬢は夫君と共に避けて故國丁抹に歸つた。

「歐州活動女優物語:アスタ・ニールゼン嬢」
『活動画報』 1919年8月号

身振りの多様さと表情の豊かさは、アスタ・ニールセンの場合驚嘆に値する。

「アスタ・ニールセン:その愛の演技と老け役の演技」
ベラ・バラージュ『視覚的人間』岩波文庫版所収
(佐々木基一、高村宏訳)

1921年『女ハムレット』より


[Movie Walker]
アスタ・ニールセン

[IMDb]
Asta Nielsen

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
9月11日

ケーテ・ハーク Käthe Haack (1897–1986) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Käthe « Käte » Haack c1920 Autographed Postcard

1910年代に女優デビュー、戦前〜戦後と途切れることなく映画出演を積み重ね、亡くなる直前の1985年まで長い役者人生を送ったのがケーテ・ハークでした。

女優に憧れ10代でレッシング劇場と契約を結んだ直後にマックス・マック監督の目に留まり、その勧めに従って映画界に入ったそうです。演技に芝居がかった大袈裟さがなく、独特の柔らかさと温かみを帯びています。そのため自然体の演技を好む監督さん(パウル・レニ、フィル・ユッツィ、ゲルハルト・ランプレヒト、パブスト、オフュルス)との相性が良く、とりわけ20年代のランプレヒト作品の常連になっていました。同監督が1931年に発表し、日本でも人気の高い『少年探偵団』(日本での公開後に原作邦訳が三冊同時出版されたそうです)で探偵エミール君の母親を演じていたのもそういった流れに連なるものです。

その後母親役から老け役へ、活動拠点も映画からテレビに移っていきます。女優歴は71年に及び、ダニエル・ダリュー(80年)やリリアン・ギッシュ(76年)に次ぐ息の長いものとなりました。特定の映画会社の花形女優ではなかったため雑誌の表紙を飾ることは稀でしたし、知名度で言っても先の二人にはかないませんが、彼女の出演作にはドイツ戦前映画の裏名作が多く含まれていて質的に見劣りしないものです。

今回入手した絵葉書は名前が「Käthe」ではなく初期の「Käte」表記となっている一枚(発音は変わらず)。サインもKäteと書いていますので1910年代末から20年頃でしょうか。

[IMDb]
Käthe Haack

[Movie Walker]
ケーテ・ハーク

[出身地]
ドイツ(ベルリン)

[誕生日]
8月11日

[データ]
[Photochemie, Berlin. K.1863. Bildnis von A. Binder, Berlin] 9.0 × 13.6cm

イローナ・カロレヴナ Ilona Karolewna (生没年不詳) ウクライナ

Ilona/Jlona Karolewna Late 1920s Autographed Postcard

イローナ・カロレヴナ嬢はキエフの生れである。踊り子となつてサンクトペテルブルクで初舞臺を踏んだ。歐州を興行で回り伯林に留まる事を選んだ。映畫界に足を踏み入れ、独逸映畫協会(DEFU)で幾つか端役を経験した。その後、巴里のシネロマン社と契約を結び、同社で数年の活躍を見せた。現在は映画界から完全に足を洗つている。

(「A-Z:ルクセンブルグ週刊画報」1935年11月24日付)

Ilonka [sic] Karolewna wurde in Kiev geboren. Sie wurde Tänzerin und trat zuerst in St. Petersburg auf. Sie machte ein Tournee durch Europa und blieb in Berlin. Als sie zum Film trat sie in einigen kleinen Rollen bei der Defu [Deutsche Film Union] auf. Sie wurde ferner von der Direktionder Cinéromans in Paris engagiert und spielt einige Jahre für diese Gesellschaft. Jetzt sie sich ganz zurück gezogen. (A-Z : Luxemburger illustrierte Wochenschrift, 24/11/1935)

オーストリア演劇博物館所蔵のポートレート
https://www.theatermuseum.at/de/object/0efa0d1169/

1920年代半ばに踊り子として訪れた欧州で話題を集め、ファッション・モデルや商品広告など写真の被写体として活躍。ほぼ同時期に映画出演を始めていて、マックス・ランデがヴィルマ・バンキーと共演した『脱線曲馬王』の端役で女優デビュー。ドイツのハリー・ピールの目に留まり、同氏が監督主演した2作のサーカス物『黒い道化師』(1926年)『ビーリー曲芸団』(1927年)の主要キャストに抜擢。その後フランス拠点で女優活動を続け30年代初頭に製作された旅芸人映画を最後に業界を離れています。

『ビーリー曲芸団』(Was ist los im Zirkus Beely?、1927年)より

出演作のうち『ビーリー曲芸団』は以前から現存が知られていてデジタル修復もされていました。もう一方の『黒い道化師』は遺失作品とされていますが、チェコのフィルム収集家が35ミリポジを所有しているようで一部がユーチューブで公開されていました。

[IMDb]
Ilona Karolewna

[Movie Walker]


[出生地]
ウクライナ(キエフ)

[データ]
Phot. A[nton]. Sahm. München. 8.8 × 13.7 cm

モード・ロティ Maud Loty (1894 – 1976) 仏

「フランス [France]」より

Maud Loty Inscribed photo

1910~1930年代に人気のあった舞台系の役者/パフォーマーさん。

黒髪のおかっぱ、やや垂れ目気味、ぺったんこの鼻の童顔に大きなリボン姿…フランスの芸能界であまり見ないタイプの個性派で、当時は同性の支持も多く集めていました。キャラの立ち具合が絵描きたちの心をくすぐった様で多くのイラストが残されています。

芸歴は長く1910年代から「ロティちゃん(la petite Loty)」として親しまれ舞台に立っていました。子役として映画にも出演しており、10年代半ばにコメディ短編連作の主演を務めています。パテ社映像アーカイヴには『リガダン君ジプシーになる(1911年)』に端役で出演した動画が残されていました。

『リガダン君ジプシーになる』
Maud Loty in Rigadin Tzigane (1911) Ⓒ GP Archive

見ていれば分かると思うんだけど、舞台が好きなのはどの一瞬も戦いだから。毎晩毎晩、神経をすり減らして、いつも違うお客さん相手に、しかも最初は全然好意的でない連中まで次第に盛り上げて手に入れる勝利感が好きなの。

最初に響き渡る「ブラボー!」は雪解けの季節、音を立てて最初にパチンと割れる氷みたい。あの瞬間に舞台を我が物にした感があって、さらにもっと、もっと…演技に没入していく。

まぁそういうお仕事なのです。

でも映画だと自分がスクリーン上で行ったり来たり、セリフを言って、それが上手く回ってないのにやり直しできないなんて…いやいや無理、考えただけでゾッとする。自分の出ている映画を見にいく勇気はないかな、がっかりするのが怖いもの。(「モード・ロティ孃トーキーに挑む」シネモンド誌 1931年1月15日号)


Voyez-vous, ce que j’aime dans le théâtre, c’est cette lutte de tous les instants, cette victoire qu’il faut remporter chaque soir, avec ses nerfs, devant un public nouveau, parfois hostile au début, et qui peu à peu s’anime…

Le bruit des premiers bravos, c’est comme la glace qui craque à l’époque du dégel. A ce moment on sent que la salle est prise et l’on en met pour qu’elle le soit encore plus.

Ca, c’est du travail.

Tandis qu’au cinéma, quand je pense que je vais me voir aller, venir et parler sur l’écran et que si ça ne colle pas il me sera impossible de retoucher, non! voyez-vous, rien que d’y penser, j’en ai la tremblote, et je crois bien que jamais je n’aurai le courage d’aller voir mon film; j’aurai trop peur d’être déçue. (« De la scène à l’écran : Maud Loty va faire du cinéma parlant » , Cinémonde. 15/01/1931)

1930年代トーキーの時代に再度映画主演(『即興息子 Le fils improvisé』)のオファーが回ってきます。最終的にはヒロイン役を降りてしまったものの、映画についての考え方を聞けただけでも興味深いインタビューとなりました。

[IMDb]
Maud Loti

[Movie Walker]


[出身地]
フランス(パリ)

[誕生日]
7月19日

藤田陽子 (1919 – 1938?)

「日本 [Japan]」より

Fujita Yoko & Takao Mitsuko 1920s Autographed Postcard


大正八年七月麻布區霞町元明治座の事務員藤田昌宏の次女に生る、大正十三年二月、姉藤田房子と共に松竹蒲田スタヂオに入る。古參役者として可愛がられ人氣がある。初舞臺は柳咲子の『猫』で鳴門のお鶴に扮して転載を認められ、引續き諸口、川田主演の『夜の一幕』にて無邪氣な姿でフアンの注目を惹く。『懐しの蒲田』『母よ戀し』『曲馬團の姉妹』にて愈々好評。好きなものは踊と三味線と甘栗。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


1920年代に人気のあった子役二人、藤田陽子&高尾光子さんの連名サイン。両者の共演は『少女の悩み』(蔦見丈夫監督、1924年)『母よ恋し』(五所平之助監督、1926年)、『九官鳥』(野村芳亭監督、1927年)の3作があります。

[JMDb]
藤田陽子

[IMDb]
Yôko Fujita

[出身地]
日本(東京・麻布)

[サイズ]
13.6 × 8.9 cm

] 映画の郷 [ 電子工作部:Python/OpenCVでデジタル染色(セピア化/クロスプロセス)の連続処理を行う

前回の9.5ミリフィルム「自家染色」の続きです。 綺乃九五式でスキャンした連続画像に様々なセピア系の色を付けてみたい…「デジタル染色」のプログラムをPython/OpenCVで書けないかどうか調べてみました。「キャンプ工学」というサイトで掲載されていた記事が分かりやすかったです。

Pythonでちょっと真面目に趣あるセピア調写真を作る。

処理の流れとしては
1)画像をcv2.imreadでOpenCVに読みこみ
2)画像名を定義
3)HSV画像のパラメーター(0=色相、1=彩度、2=明度)を変更していく。色相は0から180の間で任意に設定(180が赤、110が青、70が緑、30が黄色位に相当しています)。彩度は個人的に80で固定しました。明度は「白黒/COLOR_BGR2GRAY」で固定。
4)画像をBGR画像に戻してcv2.imwriteで保存し直す
となります。

もうひとつアナログ写真の現像やデジタル写真のフィルターで使用される「クロスプロセス」ができるか確認してみました。あまり挑戦している方が見つからなかったものの、英語圏の某写真サイトで分かりやすいプログラムが紹介されていました。

上記のプログラムは何れも単発の変換でした。ファイル名を連番にした複数画像を一括で処理し「今週の動画」に投稿してみました。

アニー・オンドラ Anny Ondra/Ondráková (1902 – 1987) チェコ

オランダ~東欧~バルト三国 [Netherlands, Eastern Europe & Baltic States] より

Anny Ondra 1929 Inscribed Postcard

パリで共に過ごした時間の想い出に
アニー・オンドラ
1929年4月25日

Zur Erinnerung an die zusammen verbrachten Stunden in Paris.
Anny Ondra
25 IV 29


ヒッチコックの『恐喝(ゆすり)』は無声版の撮影が1929年1月〜3月に行われ、その後サウンド版用の追加撮影が同年6月に始まっています。合間にヒロイン役のアニー・オンドラがパリを訪れていて、知人宛に自筆メッセージを残したのがこちらの絵葉書。名前の下にもカッコ書きで単語が書かれているのですがそちらは解読できませんでした。

アニー・オンドラはヒッチコックの後期サイレント作品(『恐喝(ゆすり)』、『マンクスマン』)主演女優として記憶されています。元々プラハで学生時代を過ごし、アニー・オンドラコヴァ名義でチェコ演劇界にデビュー、最初の映画出演もチェコ作品でした。1920年代前半の出演作は幾つか現存しており初々しい姿を確認することが出来ます。

1925年の歴史物ファンタジー『Lucerna』より

1920年代末にヒッチコック作品で国際的な花形女優となり、ドイツの国民的スターでもあったヘビー級ボクサー、マックス・シュメリングと結婚、拠点をドイツに移します。チェコ時代から付き合いのあった同郷の俳優・監督カレル・ラマーチ(カール・ラマック)と共に「ラマーチ=オンドラ映画社」を設立、舞台女優時代に培った歌や踊りのセンスを生かしトーキー時代になっても高い人気を維持し続けました。

この時期の作品で重要なのが1932年のオペレッタ喜劇『理想の先生』。ラマーチ=オンドラ映画社製作ではないのですが、ラマーチと共に主演、初期トーキー秀作としてチェコ映画史に再度名を残すことになりました。

『理想の先生(Kantor Ideál)』より

チェコ映画は東欧映画界でも際立った個性で知られています。1950~70年代に秀作や傑作が集中しているのですが、そこに辿りつくまで長い紆余曲折がありました。ラマーチやオンドラを含めた才能ある戦前チェコの映画人が基礎を築いていった点を強調しておきたいと思います。


[IMDb]
Anny Ondra

[Movie Walker]
アニー・オンドラ

[出身地]
タルヌフ(現ポーランド)

[誕生日]
5月15日

ヴェーラ・ハロードナヤ (Vera Kholodnaya, 1893 – 1919) 露/ウクライナ

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [07]

Vera Kholodnaya c1916 Autographed Postcard


帝政ロシア末期を代表する花形女優ヴェーラ・ハロードナヤ(Вера Васильевна Холодная)の直筆サイン入り絵葉書。1916~17年頃と思われます。

同時期、マクシモフやガイロフ、ナタリー・リッセンコ、オルガ・オゾフスカヤ、とりわけヴェーラ・ハロードナヤ等の役者たちが観衆によって偶像のようにもてはやされていた。ハロードナヤは貧しい士官の妻であったが夫が動員されると生活費を稼ぐために映画版『アンナ・カレーナ』の端役としてデビュー。同作は1914年にウラジミール・ガルディンが監督した一作である。1915~16年にかけ、エフゲーニー・バウエル監督作品を通じて大女優となり、一作毎に2万5千ルーブル(1万2千5百ドル)を稼ぐまでになった。大衆の熱狂はそれほどのものだった。(『世界映画史』ジョルジュ・サドゥール)

D’autres acteurs étaient à ce moment idolâtrés par le public : V. Maximov, Gaidarov, Nathalie Lissenko, Olga Ozovskaia et surtout Véra Kholodnaia. Celle-ci, femme d’un officier pauvre mobolisé, débuta, par nécessité de gagner sa vie, dans un petit rôle de la version d’Anna Karénine, dirigée, en 1914, par Gardine. E. Bauer en fit vers 1915-1916 une grande actrice qui finit par toucher 25 000 roubles (12 500 dollars) par film, tant le public l’idolâtrait.

ロシア語版ウィキペディアでの「ヴェーラ・ハロードナヤ」の項目は本文だけで2万5千字を超える内容となっています。英語版の4倍。様々な視点から女優を紹介している中にその評価をまとめている章段がありました。女優としての評価が「極端に二極化されている」とされているものの肯定的な例は僅かしかなく「同一パターンの演技を繰り返している」「情感(や創造力)に欠けている」の表現が目立ちます。

この章段で最初に取り上げられていたのがサドゥールでした。『世界映画史』を確認したところハロードナヤについてのまとまった記述を一ヶ所見つけました。

演技力や表現力、あるいは作品を通じて残した功績への言及はありません。その意味でサドゥールは女優としての評価を(少なくとも直接は)下していない、が正解になるだろうと思います。とはいえ「アイドル視する、偶像のように崇拝する(idolâtre)」の単語を繰り返し用いていることや直前でモジューヒンの創造性や功績を詳述している点を考えあわせるなら、そもそも演技力を期待する前提ではなかったと解釈することもできます。

個人的にもハロードナヤの演技にハッと驚かされたり、深い情感に心を動かされた記憶はありませんし、ロシア~ソ連の地軸、1910年代後半の時間軸どちらで見ても彼女より優っていた女優は多くいたと思います。といって見た目の美しさで刹那の人気を博しただけというのとは違うのかな、と。

『命には命を』(Жизнь за жизнь、1916年)より
背後に新郎役のイワン・ペレスチアーニ

バウエルの『命には命を』を見ていると、ある監督の価値観や世界観を表現するための「素材」、あるいは「媒介」として勝れたものを備えていたのは否定できないと思います。また女優単体の生き様、在り方が当時のロシアの社会を-様々な闇の要素を含めて-反映し、人々の欲望や不安に深く接触したからこそあれほどの共感を呼んだと考えることもできます。そういった意味ではオードリー・ヘップバーンやモンローに近い位置付けの女優さんだったことになります。


[IMDb]
Vera Kholodnaya

[Movie Walker]


[出身地]
ウクライナ(ポルタヴァ)

[誕生日]
8月5日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

光川 京子(1918 – ?)

「日本 [Japan]」より


若き日の榮えよ、めでたさよ!この一句を光川京子の讃とする。當年わづかに十七歳の京子の、現在の人氣はどうだろう!『お駒ちやん』といふ名で、蒲田撮影所員んみんなから可愛がられてゐるが、この名こそ第一囘作品『初戀と与太者』の京子の役名だつたのである。輝かしいスター生活は、實にこの處女作から始まつたのである。ちよつとユーモアが感じられるのは、清楚な京子が、甚だ肉類を好むことである。牛込に生れて赤坂に育ち、氷川小學校に通ひながら長唄と三味線に精進した。これが爲め京子は純日本風の娘に仕あげられたので、蒲田に入つてまだ三年(昭和六年十一月二十一日入社)だが、早くもあの人氣を克ち得たのである。若き日の榮え!

『最新映画大鑑』
(1934年8月、冨士9月號附録)


[JMDb]
光川 京子

[IMDb]
Kyôko Mitsukawa

[出身地]
日本(東京)

[サイズ]
13.5 × 8.5 cm

浅間 昇子(1910 – 1973)

「日本 [Japan]」より


本名瀧澤昇子。明治四十五年東京市赤坂區に生る。靑山女學校修業。大正八年帝國劇場にて初舞臺後引継ぎ舞臺にあり映畫界入りは大正十四年マキノ入社は昭和五年二月。娘役が得意、主な近作は「鴨川小唄」「光を求めて」「僞婚眞婚」等。身長五尺二寸。體重十一貫三百目。趣味は繪畫、三味線、讀書。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)


[JMDb]
浅間 昇子

[IMDb]
Shôko Asama

[出身地]
日本(東京)

[サイズ]
13.0 × 8.5 cm

ベレギ・オスカー Beregi Oszkár (Sr.) (1876 – 1965) と『黄金の男』(1919年)&『怪人マブゼ博士』(1933年)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(03)

Beregi Oszkár (Sr.) c1909 Autographed Postcard

1890年代末から本格的に演劇活動を始め、劇場を転々としつつ下積みを重ね、1900年代に人気役者の仲間入り、映画産業の勃興した1910年代に人気のピークを迎えています。

舞台では古典劇、歴史劇を得意としハムレットやリア王、ファウスト等を十八番としていました。

『演劇生活』誌1917年第22号表紙
同号では小特集が組まれ少年時代の写真も掲載されていました

声が魅力の一つでもあったため無声映画との相性を疑問視する声もありましたが、コルヴィン映画社からの主演作で杞憂だと証明してみせました。1917年には4作品で主演、この内一本がコルダ・シャーンドル監督作『カリフの鶴』(Gólyakalifa)です。二年後に再度コルダ監督と組んで製作されたのが『黄金の男』(Az aranyember)でした。

『演劇生活』誌1917年第43号より
『カリフの鶴』スチル

『黄金の男』より
左端に義母役のベルキー・リリ

19世紀後半の同名小説を原作としたもので、オスマントルコからドナウ川を越えてハンガリー領に入ろうとしたトルコ人の父娘と、二人を助けようとしたハンガリー人大尉(ベレギ)の物語を綴っていきます。

1920年代になるとドイツ映画界に進出。マイケル・カーティスの大作歴史劇『イスラエルの月』(Die Sklavenkönigin、1924年)等で活躍、短期間ハリウッドにも渡りますが旧大陸と同じ成功を収めることはできませんでした。

マイケル・カーティス監督作品『イスラエルの月』(1924年)より

映画キャリアの代表作となるもう一作はトーキー到来後の1930年代に公開されています。フリッツ・ラング監督の戦前ドイツ最終作となる『怪人マブゼ博士』(Das Testament des Dr. Mabuse、1933年)です。怪優ルドルフ・クライン=ロッゲを相手に一歩も引かない濃厚な演技にハンガリー戦前演劇を支えてきた名優の意地を見ることができます。

『怪人マブゼ博士』(1933年)でのベレギ(左)とルドルフ・クライン・ロッゲ(右)

[IMDb]
Oscar Beregi Sr.

[IMDb]
Az aranyember

[Hangosfilm]
Az Aranyember

ホッライ・カミッラ(Hollay Kamilla / Camilla von Hollay, 1899 -1967) と『アフロディーテ』(1918年、デエーシ・アルフレード監督)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(04)

Hollay Kamilla 1910s Autographed Postcard
Hollay Kamilla 1910s Autographed Postcard

ハンガリー映画の黎明期に勢いのあったスター映画社と契約を結び、イレーシュ・イェネ監督作品『János vitéz』(1916年)の脇役として映画デビュー。同作で主演を務めたデエーシ・アルフレードが監督転向後、その作品のヒロインとして重用されるようになりました。

デエーシ・アルフレード監督作品
『Siófoki történet』でヒロインを務める
「演劇生活」誌1917年44号より

水着姿での一枚
「演劇生活」誌1918年35号

スター映画社の宣伝ページ
「演劇生活」誌1918年46号より

スター映画社の作品はほとんど残っていないのですが、近年の調査から少なくとも3本の現存が確認されハンガリー国立映画アーカイヴに返還されました。その一本『アフロディーテ』(1918年)にホッライ・カミッラ名義時代の演技を見ることができます。

Hollay Camilla in Afrodite (1918)

『アフロディーテ』(1918年)より

「演劇生活」誌1918年37号スター映画社
特集記事より『アフロディーテ』スチル

1922年からはカミーラ・フォン・ホレイ名義でドイツに活動拠点を移します。日本でも公開された表現主義調の戦争ドラマ『世の果』では準ヒロインの妊婦役を演じていました。

Hollay Camilla in Am Rande der Welt (1927)

『世の果』(Am Rande der Welt、1927年)より

[Movie Walker]
カミーラ・フォン・ホレイ

[IMDb]
Camilla von Hollay

[Hangosfilm]
Aphrodite

ルートヴィヒ・トラウトマン(Ludwig Trautmann、1885 ‐ 1957)と『天馬』の記憶

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Ludwig Trautmann 1910s Autographed Postcard

独逸のフイルムが上野みやこ座へ盛んに出た時分澤山にあらはれたブラウン探偵としてその顔は諸君の記憶に深ひことゝと思ふ。本誌十號にもこのことについて述べてあるから更に言ふ必要もない位である。この優の最もよく知られたのは彼の »天馬 » The Million Mine (Die Millionenmine) である。陸に海に地に空に到る所の活躍はこの俳優の右に出る者は先づ無いと云つて差支へない。自動車から自動車、橋から列車、船から船或は飛行機、乗馬、屋上の輕業、さては綱渡り等あらゆる危險は彼の前にも亦後にも類が無い。活劇俳優の第一指に數へられるとも決して大言ではあるまい、ルツドヴィツヒ・トラウトマン氏 (Herr Ludwig Trautmann)とは其人である、彼の出る劇は殆ど皆一つの作者を持つて居る、卽彼の活劇の考案者はハリー・ピール氏(Herr Harry Piel)で彼あると共に是等の劇に對する作者ピール氏あることを忘れてはならない。

「活劇及びその俳優:其二 ブラウン探偵」
(水澤武彦、『キネマ・レコード』収録、1915年2月号)


『天馬(てんば)』(ヴァイタスコープ社の作ルドウイツヒ・トロウトマンの演じたブラウン、探偵劇の中で最も成功したものです。戰前独逸探偵活劇の隆盛は此の映画の出現に依つて初まりました。)此の映畫程客を呼んだ映畫はありません。餘り頭腦の明晰でない-と云つては失礼かも知れませんが事實だから仕方ありません-活動屋さんも、此の『天馬』のことだけは末に記憶して居ます。そのブラウン探偵事トラウトマン氏は現在自社を設けて居ます。

「独逸映畫界の今日此頃」 (鈴木笛人、
『活動花形改題 活動之世界 7月号』収録、1921年)


この年の忘れ難い寫眞として「フアントマ」(佛エクレール社連續寫眞)又はトラウトマン氏の「天馬」又は「名馬」「第二天馬」といつた、劇を舉げて置く。

「映畫十年」(石上敏雄、
『映畫大観』収録、1924年、大阪毎日新聞社)


活劇の幕は独逸映畫の『天馬』によつて切つて落され、独逸活劇の花形としてルドウイヒ・トラウトマンが人氣を背負つて立つた。併しトラウトマン以前にもヨセフ・デルモントの如きがあつて、エルコ會社から『夢か眞か』『秘密』などの探偵活劇を出し、その軽妙な離れ業に可なり價値を認められたこともあつたが、トラウトマンが現はれてからは、全く姿を沒し、愈よこれから独逸活劇の全盛時代となり、トラウトマンの獨り舞臺に入つたのである。 […] その表情は無味乾燥であり、動作は殺伐であつたが、活劇そのものゝ目的は外にあるので、それ等の點で少しも價値を傷けることなしに、觀客はその冒險的演技を却てよろこび、輕快なる動作にすつかり酔はされた。『天馬』における彼がブラウン探偵としての活躍を見よ。陸に海に空に到るところに離れ業を演じて、手に汗を握らせた。船から船、橋から列車、自動車から自動車とあらゆる冒險に、前にも後にもトラウトマンの右に出づるものがない。『天馬』といふのは日本での改題で、原名は『ジ・ミリオン・マイン』(百萬圓の鑛山)である。その映畫が當つてから、あとで出來たコンチネンタル映畫の『夜の影の秘密』が『名馬』と改められ、またヴァイタスコープ映畫の『黑手組の末路』が『名馬續篇』と改まり、興行者の人氣取りから、標題を『天馬』に眞似たのが多く、終ひには『天空馬』といふやうな奇怪な名の映畫まで現はれてゐる。これで見ても、『天馬』が如何に人氣を取つたかゞ知れるであらう。

『欧米及日本の映画史』
(石巻良夫著、1925年、プラトン社)


スーパー8 『松竹8mmライブラリー 日本映画史 前編』
(監修:岩城其美夫、『天馬』特別説明:泉天嶺)

1914年公開のドイツ映画『天馬(てんば)』で探偵ブラウンを演じたのがルートヴィヒ・トラウトマンでした。

第一次大戦の開戦前後の日本ではドイツ映画ブームが起こっていて『天馬』はその火付け役のひとつでした。山本知佳氏による論文『日本におけるドイツ映画の公開』(日本大学文理学部人文科学研究所第97号、2019年研究紀要)によると、日本では1913年にドイツ映画の輸入が始まり(61作)、翌1914年に139作まで増えています。その後大戦の余波で公開数が激減。一年程度の流行ながら短期間に200作以上のドイツ作品が紹介されていたことになります。

盛り上がりを覚えている愛好家は一人ならずいて、1920年代以降も折に触れて『天馬』の名が上がっています。その内の幾つかをまとめてみました。本来ブラウン物ではない作品まで『第二天馬』や『名馬』、『名馬續篇』として紹介されていた様子が伝わってきます。

1910年代前半のドイツ映画としてはラインハルト劇団系統の作品(『ゴーレム』『プラーグの大学生』『奇跡』)に重点が置かれがちです。同時期の冒険活劇、探偵劇、メロドラマへの関心は低く、ライヒャー主演のウェブス物ハリー・ピール主演作がようやく評価され始めたのが現状です。オーストリアやスイス、フランスなど周辺国を見ても、1910年代に『天馬』やその周辺作品で盛り上がっていた国はありませんでした。

日本だけが異質な反応を見せていました。

リアルタイムで旺盛な言及対象となっていた。1920年代に昔話のネタとなり、半世紀後になおフィルムが残っていて、倉庫のどこかに今でも眠っているかもしれない…

作品全体を見ていないためこの状況をどう判断するか難しい所です。大したことのない作品を有り難がっていた可能性も零ではありません。逆に本国で見落とされていた良作を目ざとく見つけていた可能性だってある訳です。もし仮に後者だった場合、映画史的な「レフュジア」(本来生息していた地で絶滅した種が他の環境下で局所的に保存されている状態)が形成された、と見ることができると思います。


[IMDb:ルートヴィヒ・トラウトマン]
Ludwig Trautmann

[IMDb:『天馬』]
Die Millionenmine

[IMDb:『名馬』]
Der geheimnisvolle Nachtschatten

※『第二天馬』『名馬續篇』については現時点で未特定。後者は『黑手組の末路』の別タイトルから「Die schwarze Natter」ではなかろうかと当たりをつけています。

フェダーク・シャーリ (Fedák Sári, 1879 – 1955)と『三週間』(1917年、ガラシュ・マールトン監督)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(01)

『シビル』(1914年)より

『シビル』(1914年)より、直筆サイン入り絵葉書 右は共演のアールパード・ラタバール(Árpád Latabár)

フェダーク・シャーリは1890年代末からの長いキャリアを持つオペレッタ女優です。1910年代中盤には『シビル』(1914年)、『謝肉祭』(1916年)、『大理石の花嫁』(1917年)で人気のピークを迎えていました。

1917年に初めて映画に出演。英作家エリノア・グリンの同名小説を下敷きにした『三週間』(Három hét)です。『演劇生活』誌ではブダペストで公開された際のリポートが掲載されていました。前売り券が売り切れ、当日券の発売がなく見れない人々が続出したエピソードが紹介されています。

『三週間』の功績の一つとして同国の舞台劇愛好家に「映画」を認識させた点を挙げることができます。当時、まだまだ映画は格下のジャンル、見世物だと考えている人が多くいました。絶大な人気を誇っていたフェダーク・シャーリが映画に主演した事自体がインパクトであり、風向きの変化を後押ししていきました。

ドイツ・キネマテークが公開しているドイツ語版

[IMDb]
Három hét

[Hangosfilm]
Három hét

浦辺 粂子(1902 – 1989)

「日本 [Japan]」より


本名濱田粂子、明治三十四年十月伊豆下田に生る。嘗て歌劇俳優として金龍館や樂天地に出演、後小松商會を経て大正十二年日活に入社し一躍性格俳優としてフアンに認められスターとなる。處女出演は『乙女の心』主演は『清作の妻』『お澄と母』『金色夜叉』があり、最近の『シベリアお龍』で物凄いところを見せめきめき人氣を高めてゐる。現住所京都市上京區北野白梅町衣笠園三四三。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


「技藝部長、山本嘉一さん」ある撮影監督から恁う言つて紹介された人を、「おゝ、この方が」と私はその落附きと澁さとに、何處か英吉利好みの上品なモーニングの紳士を、熟々と見上げました。酒井米子さんは、私たちの手を執つて、「ほんとうに京都へ來て、すつかり落附ましたわ。どうか、これからは御一緒にねえ」と、沁々として言ふのでございました。私は此の気品高い落人の胸を察して、ほろりとして了ひました。恁うして、向島から四人の監督と、五十餘名の技藝員と、技師、舞臺装置の就業員一百餘名を新しく迎へた私たちのスタヂオは、恰度春の太陽に恵まれた大地のやうに、若さと元氣に賑ひ始めたのでございました。

『映画女優の半生』(浦辺粂子著、1925年、東京演藝通信社)


もう六七年も前、「淸作の妻」等に出演して當時の人気スターであつた浦邊粂子は今は上野製作所主人との結婚に破れて、撮影所に歸り、某カメラマンと新しい生活に入つてゐるが、彼女上野家へ玉のコシに乗った時、當時たゞれた愛慾の世界にタンデキしてゐた彼女だったので、生れ變るのだと、大きな感激のもとに、その告白記を京都日日新聞だつたかに連載した。それに依ると、「こんなにたゞれる樣な瞬間的欲情の生活はとうど私をお恥ずかしい病氣にさへしてしまひました」なんてことを大膽に書いてゐたもので、彼女びいきのフアンを歎かわしく思はせた。

「映畫界エロ双紙」(小倉浩一郎、『デカメロン』1931年9月号所収、風俗資料刊行會)


[JMDb]
浦辺粂子

[IMDb]
Kumeko Urabe

[出身地]
日本(静岡)

[誕生日]
10月5日

ファルコネッティ Renée Jeanne Falconetti (1892 – 1946)

「フランス [France]」より

Falconetti late-1920s / early-1930s Autographed Postcard

サインを求めてくる者たちを毎晩のようにす相手した後、ファルコネッティがスタッフ用入口から出てくるといつも同じ青年とすれ違った。

『ファルコネッティ伝』
(エレーヌ・ファルコネッティ著、93頁)

実子エレーヌさんによる伝記では1923年頃の女優が毎日のようにサイン攻めにあっていた話が触れられていました。

こちらは1920年代後半~30年代初と思われる直筆サイン入りの絵葉書。パリのマニュエル兄弟写真社の撮影で右下に同社ロゴがエンボス仕様で刻まれています。

『ソムリヴ伯爵夫人』(La Comtesse de Somerive, 1917年)
GPアーカイヴスより

上の写真は女優キャリアの初期(デビューから2年後)の1917年に出演した短編映画の一コマ。下積み期ながら懊悩の表現が10年後の『裁かるゝジャンヌ』を予告しています。

[IMDb]
Maria Falconetti

[Movie Walker]
ルネ・ファルコネッティ

[出身地]
フランス(パンタン)

[誕生日]
7月21日

エルミール・ヴォーティエ Elmire Vautier (1897 –1954)仏

「フランス [France]」より

Elmire Vautier 1920s Autographed Postcard

仏シネ・プル・トゥス誌1923年通巻110号より

『私の子』(Sa Gosse、1919年) GPアーカイヴより

『ベルフェゴール』(1927年)より

エルミール・ヴォーティエ夫人は30年程昔ウール県のベルネーで生を受けた。

パリの音楽高等師範学校に入学、ジュール・トルフィエに師事するが程なく演技の勉強を離れ、1918年に映画初出演となる2作『他人の妻』『殺したのは誰だ』撮影に参加した。

翌年アンドレ・ルグラン映画社と契約を結び、アンリ・デフォンテーヌ監督の下で『奇妙な盗人』『私の子』に、次いでリアベル監督による『不死之血』『海辺の花』『愛なき島』に出演した。

その次の作品は『巨手』は戦争プロパガンダ映画だった。アンドレ・ユゴン監督の『証拠』に、ジェラール・ブルジョワ監督物の連続冒険活劇『夜の息子』と続いていく。1921年には新たな連続活劇『三つの仮面の男』で一人二役を演じ、ロジェ・ド・シャトルの『他人』でも再度二役に挑戦している。

パテ・コンソルティウム社と一年契約を結び、最初に撮ったのが『カマルグの王』であった。原作ジャン・エカール、監督はアンドレ・ユゴン。次いでジョルジュ・モンカが監督したJ・J・ルノー原作物『ジュディト』、トゥリエ原作で監督やはりモンカによる『避難』に出演。アルトゥール・ベルネード原作でジャン・ケム監督の『ヴィドック』が最新作である。


Elmire Vautier est née, il y a une trentaine d’années, à Bernay, dans l’Eure.

Admise au Conservatoire de Paris, dans la classe de Truffier, elle quitte bientôt ses études théâtrales pour tourner, en 1918, ses deux premiers films, Les Femmes des autres et Qui a tué? sous la direction de Pierre Marodon.

Engagée en 1919 par les Films André Legrand, Elmire Vautier a tourné ensuite : Un vol étrange et Sa Gosse, réalisé par H. Desfontaines; puis Le Sang des Immortemmes, Des Fleurs sur la mer et L’Ile sans amour, réalisé par L. Liabel.

Vinrent ensuite un film de propagande : Les Mains géantes, puis La Preuve, sous la direction d’André Hugon, et un ciné-fuielleton d’aventures : Le Fils de la Nuit, réalisé par Gérard Bourgeois. En 1921, un autre ciné-roman : L’Homme aux trois masques, où elle interprétait un double rôles; puis de nouveau dans un double rôle : L’Autre de Roger de Chateleux.

Engagé par Pathé-Consortium pour une année, Elmire Vautier a tourné par la suite : Le Roi de Camargue, réalisé d’après Jean Aicard par André Hugon : Judith, de J. J. Renaud, réalisé par Monca; Le Refuge, d’après A. Theuriet, réalisé par le même. Puis, tout dernièrement, Vidocq, composé par Arthur Bernède et réalisé par Jean Kemm.


1910年代末にデビューした個性派の女優さん。

初期作の『私の子』では純情な田舎娘が男にたぶらかされ未婚の母となり、生活費を稼ぐためパリに上京し歌手として生計を立て始めます。パリ篇では蓮っ葉な現代っ子の側面が強調されていて、地元篇との雰囲気の違いに驚かされます。

綺麗目のヒロインと暗黒面を抱えた女性を演じ分ける力は高く評価されていたようで、特に活劇系の設定で重宝されるようになりました。

『三つの仮面の男』での二役を皮切りとし、フイヤードの『ファントマ』でファントマ役を演じたルネ・ナヴァールの出演作品に(しばしば裏の顔を持つ)ヒロインとしてクレジットされる機会が増えていきます。『ヴィドック』(Vidocq、1923年)、『正義を成す女』(1925年)、『沈黙の壁』(1925年)、『ベルフェゴール』(Belphégor、1927年)はいずれもナヴァールとの共同主演作品。

クレステと共演した『正義を成す女』(La Justicière、1925年)のポスター


しかしこういった作品以上に女優の力量を引き出したのは『カマルグの王』(Le roi de Camargue、1922年)でした。エルミール・ヴォーティエは流浪の民に呪いをかけられ最後は沼地で溺れ死ぬ悲運のヒロイン役で、幸福だった私生活が崩れて落ちていく不安感を上手く表現していました。

出演作では『カマルグの王』『ベルフェゴール』の2作が9.5ミリフィルム化されています。


[IMDb]
Elmire Vautier

[Movie Walker]
エルミール・ヴォーティエ

<[出身地]
フランス(グランシェン)

[誕生日]
8月28日

日本・9.5ミリ個人撮影動画『初秋の頃』1930年頃の東京復活大聖堂と吹上御苑ゴルフコース

「9.5ミリ 個人撮影動画」より

後半は子供を被写体とした自宅での家族動画ながら、前半に含まれた2つのスポーツイベントが興味深かった一本。

冒頭、まずはテニスの様子が映し出されます。試合をしている場面は一瞬で、授賞式の様子がメインとなっています。

撮影中にカメラが移動していき、背景の建物を捉えていきます。ニコライ堂の愛称で知られる東京復活大聖堂です(下はグーグルマップより)。

その後映像が切り替わり、ゴルフプレー中の男性陣が映し出されます。

当時パテベビーカメラを購入し使っていたのはそれなりに裕福な層だった訳で「ハイカラ」なスポーツが撮影されていてもさほど驚きはありません。びっくりしたのはこの直前に一瞬映し出された案内図でした。

手振れがひどく静止画でようやく読めるか読めないか。それでも「吹上御苑内ゴルフリンクス平面図」を確認できました。

吹上御苑は皇居の西側に当たる一角で現在は天皇・皇后の居住空間として使用されています。戦前、1937年までここにゴルフコースが設置されていました。ゴルフ好きだった昭和天皇が作ったプライベートコースです。

地図の隣にスコア表も貼りだされています。

皇室主催の紅白戦が行われていたようです。男女別に分かれていて一行目に「聖上」(昭和天皇)とあり、13名のスコアが並んだ後一行空けて「皇后宮」(香淳皇后)とあります。昭和天皇の真下にある「甘露寺」は東宮侍従を務めた甘露寺受長(1880-1977)なのかな、と。他にも興味深い名前が並んでいます。昭和天皇と香淳皇后は前半のみ参加。昭和天皇(ハンデ18)は41で、香淳皇后(ハンデ32)は55で回っています。

戦前9.5ミリ映画の「記録力」を実感させられる一本でした。

1926年 – 阪東妻三郎主演『幕末』(阪妻プロ 、宇澤芳幽貴監督)説明本・出版者不明


「阪東妻三郎関連」より


彼の武士は、いよいよ圖に乗つて亂暴を働いて居る、此有様を見た兵之助は忽ちムツと怒り出し「ヤア無禮な奴である。場所もあろうに斯る遊里の巷で亂暴を爲すとは男らしくもない奴じゃヨシ俺が取つ締めてやるぞ」と猛然として進み寄つたる兵之助は彼に近寄ると見る間に、ドツと背ひ投げを喰はしてしまつた。其勢に恐れて始めの勇氣は何處へやら鼠の如く小さくなつて人込みの中へ逃げ込んでしまつた、兵之助はカラカラと打ち笑ひながら其場を立ち去つて行った。そして神前組の所へ歸つて來た。隊長の近藤勇は彼を読んで何事か密儀を始めた。兵之助の妻の綾は後妻であつたそして先夫との間に出來た一人娘を連れて兵之助の許へ來たのであるが其の連れ子の娘が何者かに誘かいされて行方不明となつたのでお綾は毎日夫れを氣に病んで悲しい日を送つて居る[…]。


阪妻プロの初期作の一つ(第8作目)で『蛇眼』の次作として公開された作品。先日紹介した東亞の『傷魂』と同じ発行者と思われる小型サイズの解説本です。

『雄呂血』で助監督を務めた宇澤芳幽貴が初めて監督に挑戦。また松竹の特作映画(『修羅八荒』『孔雀の光』)で注目を集めていた新進女優・五味国枝が初めて阪妻と共演した一作でもあります。


[JMDb]
幕末

[IMDb]
Bakumatsu

[フォーマット]
13.2cm×9.8cm、10頁

[出版年]
1926年

ダマール・ゴドウスキー、1930年代後半の直筆書簡 Dagmar Godowsky (1897 – 1975) 露/米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より


本当にとても傷ついております。カクテルパーティーにご招待したのはキプリン氏に引きあわせようと思ってのことで、「後で連絡するよ」と仰ったにも関わらずその後は梨のつぶて。何があったのですか。来週は船旅の予定となっているため、確実に連絡のつきそうな日曜の早い時間帯に電話くださいね。貴方の怠慢にもめげぬ温かい心持ちをこめてダマール・ゴドウスキー


I am really very hurt. I invited you for cocktails to meet Kiplins and you said you would let me know, but never a word ! What happened ? I am sailing next week so do call me sunday early that will be the best time to reach me. In spite of your neglect warm feelings Dagmar Godowsky


1920年代にニタ・ナルディやヴァレスカ・スラット等と並ぶエキゾチックな女優として評価を得ていたのがダマール・ゴドウスキーでした。名ピアニスト、レオポルド・ゴドフスキーの娘として生まれ、第一次大戦開戦後に父と共に合衆国に移り住みました。

映画デビューは1919年で、アルベール・カペラーニ監督がナジモヴァを主演にして撮ったハリウッド無声版『紅楼夢』(邦題『赤き灯』)でした。翌年からユニヴァーサル社作品に出演するようになり、同社の花形男優のフランク・マイヨと結婚。1922年にはロン・チェイニー主演作『狼の心』ヒロインを務めました。

フォトプレイ・マガジン 1922年6月号

その後ヴァレンチノ主演作の『情熱の悪鬼』(1924年)などに妖婦・ヴァンプ女優として登場、1920年代末には映画業界から離れ、社交界でその存在感やユーモアに長けたコミュニケーション能力を発揮していくことになります。

今回入手した書簡は(以前に紹介したサンドラ・ミロワノフ宛と同じく)仏ジャーナリストのルネ・ブレステ氏に送った一通。パーティーの招待をスルーされたダマールさんが恨み節を交えて再度連絡するよう迫った内容。シャンゼリゼ通りのカールトン・ホテルの専用便箋が使われています。


[IMDb]
Dagmar Godowsky

[Movie Walker]
ダマール・ゴドウスキー

<[出身地]
ロシア(ヴィルナ、現リトアニア)

[誕生日]
11月24日