ミスタンゲット Mistinguett (1873 – 1956) 仏

フランス [France]より

Mistinguett Autographed Postcard

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2018年12月、東京大学で『ミスタンゲットを発見せよ――フランス・サイレント映画の夕べ』が開催されていました。1910年代の短編3本に弁士の語りを加えた内容で日本でも無声映画女優としての彼女にスポットが当たったのは喜ばしい出来事でした。

公私ともに付きあいのあったモーリス・シュヴァリエと並び、ミスタンゲットは1920~50年代のフランス下町文化を代表する位置付けです。日本で言うと昭和レトロに近い懐かしさを覚える世界がフランスにもあって、そこにミスタンゲットの姿と歌声が含まれている訳です。下町っ子らしい、気さくで、愛嬌と温かみを感じる「粋」が彼女の持ち味です。

[IMDb]
Mistinguett

[Movie Walker]


[出身地]
フランス (アンジャン=レ=バン)

[誕生日]
4月3日

[データ]
Edition artistique de WALERY, photographe. 9 bis, rue de Londres, Paris

« A Gabrielle Marrodin
souvenir,
Mistinguett »
ルーマニアのヴァスルイ在住のガブリエル・マロディン嬢宛

[サイズ]
8.9 × 13.8 cm

瀧 蓮子 (生没年不詳)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Taki Renko c1930 Autographed Postcard

蓮子さんは『サロメ』を演りたいと何日も云ひます。みどり孃とは正反對に理智的な女性で、岩田祐吉氏に藝才滿點と賞められたことがありました。將來有望な若手で、矢張り研究所出です。

「藝才滿點と云はれた瀧蓮子孃」
『映画女優スタアになるまで』、小池善彦著、章華社、1926年

本名笠原らく。

蒲田研究所で演技を学び、その後は舞台(解散直前の築地小劇場)を中心に活躍。1928年10月の『国姓爺合戦』には杉村春子、及川道子さんと並び女官役で出演、同年末の『晩春騒夜』で山本安英らと共演。1930年代初頭に数本のトーキー映画に出演の記録あり。1934年に関西新派が結成された才にはその中心メンバーとして道頓堀・角座の舞台に立つ。1937年に東愛子の提言で国防婦人会の松竹分会が結成された折に副会長に就任した記録が残っています。

小山内薫系の舞台女優さんで映画との接点こそ少ないものの、杉村春子関連の文章ではしばしば名前があがってきます。また1934年にラジオで漫才が初めて公開放送された(『家庭天気図』、秋田実作)際に山口俊雄氏と共に主演を務め、ラジオ漫才の普及にも一役買っています。

[JMDb]
滝蓮子

[IMDb]


[生年月日]
不詳

戦前期(1910~20年代)直筆サイン物の真贋鑑定について(3)

サイン物の真贋判定の第3段階では人の手によって残されたサインを幾つかのグループに分け「真筆」を特定していきます。筆跡の癖などの話はこの段階で初めて重要になってくるものです。

[03a] 代筆(会社)

本人ではなく代理の人物によって残されたサインを代筆と定義します。英語では「secretary autograph」と表現されるもので政治家などの要人が「秘書(secretary)」に署名を代筆させていたイメージとつながっています。今回鑑定対象としている無声映画期の俳優の場合、所属会社の指示によって、あるいはその許可を得る形で広報担当者などがプロモ写真にサインしたものがこれにあたります。

ハリウッドではこの慣習は比較的早くからあったようです。仏モーリス・トゥールヌールが渡米後に監督した初期作の一つ『ガールズ・フォリー』(1917年)には、西部劇映画のリハーサル撮影中、主演男優の付き人が楽屋でプロモ写真に代筆している場面が描かれています。

「他人に自分の署名をさせるなんて不思議な国だ」、トゥールヌールの面白がっている様子が伝わってくる場面です。

この時期の代筆の特徴として、代筆者は俳優の筆跡を模倣せず自身の手癖でサインしていきます。クレア・ウィンザーの例を見ていきましょう。

上の2点が若い頃のサイン、一番下が晩年のボールペンサインです。彼女の署名の特徴を4つ挙げることができます。

1)大文字「C」の書き出しが内側にクルンと回っている
2)大文字「W」はギザギザにならず、底面が丸みを帯びる
3)「To -」「1927 -」のように、単語間にハイフン「-」を入れる手癖がある
4)小文字「d」に関して、若い頃は縦棒を「ℓ」のような縦長の輪で書いているが、後年になると「C」を左右反転させた字体に変化している

そしてこちらが代筆サイン。1)から4)のどの特徴も備えていない別人の筆跡です。

もう一例、1920年前後にヴァイタグラフ社の花形として活躍したコリンヌ・ゴリフィスを見ていきます。

コリンヌ・ゴリフィスは癖の強いサインの持ち主で、真筆の特徴として:

1)大文字「C」を縦に細長く書く(コリーン・ムーアも似た特徴があります)
2)大文字「G」は左上の丸と斜めの線を組みあわせた独特のデザインで小文字「y」の筆記体に似ている
3)小文字「i」の点が輪になる、を挙げることができます。

こちらが代筆によるサインでやはり1)~3)の特徴は見られません。

後年になると代筆者がオリジナルに「寄せる」例も見られるようになりますが、1910~20年代の俳優サインに関してそこまで紛らわしいケースは見た覚えがありません。真筆の特徴をきちんと把握していれば問題なく対応できるレベルかな、と思います。

ちなみに仏オートグラフ専門店「テスタール(Testart)」のサイトに代筆/真筆を比較したページがあります。マーロン・ブランドやクラーク・ゲーブル、あるいはウォルト・ディズニーなどのサイン画像がありますので参考にどうぞ。

[03b] 代筆(家族)

数としては少ないものの、代筆サインには会社由来とは質を違えたものが含まれています。何らかの理由で本人の家族がサインを代行したパターンです。有名な例がジーン・ハーロウとロミー・シュナイダー。いずれも女優の母親が代筆者となっており、とりわけジーン・ハーロウの場合は本人直筆はほとんど存在しないとされる位代筆の割合が高くなっています。

二人のサインは大文字「H」が大きく違っていて、直筆(左)では二画目で右の縦棒を下した後そのまま斜めに撥ねる形で続けて横棒に。母親の代筆(右)は「H」を三画に分けて書いています。

ロミー・シュナイダーの母親は戦前に活躍した女優マグダ・シュナイダーです。

左が本人直筆。小文字「a」「i」「e」が縦長に書かれ左右に詰まったサインになります。右は母親による代筆で、文字全体が右に傾いてなおかつ横一列にスッと伸びた筆跡です。

オートグラフ専門店で代筆が誤って売られるケースは見られませんが、イーベイやヤフオクにはこういったサインも「直筆」として紛れこんでくることがあります。色々と知っておくに越したことはない、という感じです。

[03c] 偽作(悪意なし)

古いサイン物の鑑定において意外と見落とされやすく、なおかつ紛らわしいタイプとして「悪意のない偽作」を挙げることができます。

例えば絵葉書やブロマイドの元々の所有者が、被写体が誰か分かるようにペンで名前をちょこっと書いておいた「備忘録」パターン、あるいは所有者本人やその知人・友人、時によってはお子さんがいたずら半分に名前を書いたパターンなど、特に深い他意はなく俳優名を書いてしまうケースだってあるわけです。時間が経って元の持ち主の手から離れてしまい、しかもそれが鑑定能力のないセラーの手に渡ってしまったとき間違って「直筆物」として売られてしまう…

例えばグロリア・スワンソンの真筆は大文字の「G」「S」ともにデザイン化された流麗な筆跡で上の写真とは似ても似つかないものです。桑野通子さんの例では名前の漢字(通/道)が間違っています。フェイクと言ってしまえばそれまでですが2例ともに贋作にしては稚拙すぎ、売り物にするために残されたサインとは異なると考えられます。

このパターンの派生形は厄介です。

以前に直筆物を紹介したアニー・オンドラと縁の深いチェコ出身の俳優兼監督、カレル・ラマーチの絵葉書です。写真面に1926年6月18日付のペン書きサインがあります。

拡大し、名前の末尾から伸びた弓型の線を見てみます。右の拡大図を見ると細い線(上)と太い線(下)の二重線になっているのが分かるでしょうか。元々の絵葉書に黒文字の印刷サイン(細)があって、後年、誰かがそれをペンで上書きした(太)形になっているのです。

レオポルディーネ・コンスタンチン(上)、山根寿子(下)さんのケースでは絵葉書に印刷された白字のサインを上書きする形で万年筆の黒いサインが残されています。

上書き系サインは1) 一部で線が二重になっており(黄緑色の丸)、2) 普段そのサインを書きなれていない人が書いているため筆跡が汚く初見でも違和感を覚えさせるものです。それでも元々の手癖が残っていますし、普通は印刷物に別人が上書きするという発想は思いつかないため紛らわしいことこの上ありません。悪意のない/悪意ある偽作の境界例、グレーゾーンに位置付けることができるでしょう。

[03d] 偽作(悪意あり)

オートグラフ市場ではロック・ポップ系のミュージシャン、野球やサッカーなどのスポーツ選手、米露大統領を筆頭とする政治家等、知名度と比例するように贋造サイン(fake autograph)も出回りやすくなっています。業界の努力(供給側でのコントロール、証明書制度の整備)にも関わらず撲滅できていないのが現状です。

とはいえサイレント映画関連のサイン市場は規模の小さなものです。万年筆サインは贋作には向いているとは言えず、誰の相場が高いのか、内容を含めどういう書き方をすれば価値が上がるのかなど学ばなくてはいけないことも多い…チャップリンなど僅かな例外を除くと贋作者のターゲットにされにくいジャンルだと言えます。

また手書きの模倣を高額で売り抜く手法は目につきやすいものでもあります。極端な話、チャップリンやキートン、ロイド、ガルボ、ルイーズ・ブルックスの「新作サイン物」を毎週のように発表していたらすぐにおかしいと思われるでしょう。こういったリスクの高い古典的手法を採る人はさすがに見られなくなってはいますが、一方で目立ちにくい巧妙な手法を選ぶ人もいます。

例えば出品画像に別サイトから拾ってきた真筆のスキャン画像を使い、実際はA4用紙にプリントアウトしたコピーを大量に販売している方がいました。上はそのセラーの出品リストに「無声(silent)」でフィルターをかけたもの。チャップリン、ファルコネッティやパール・ホワイト、ニタ・ナルディにヴィルマ・バンキー、メアリー・マイルズ・ミンターまであります。

本物であれば専門店で20万円位になるでしょうか。

商品タイトルの末尾に「印刷(preprint)」と明記されているものの、写真だけを見て文章を読まない不注意な人物、英語を苦手としている人、新規のコレクターが勘違いしてしまう可能性はあります。慌てて即決を押してしまった時、実際に届くのはペラペラな紙に印刷され「センターがずれている」カラーコピー1枚だそうです。

価格は1000円程に設定されています。言い方を換えると200人が勘違いしてくれれば実物を売ったのと同じ売上が手に入る計算(しかも元手はほぼかからない)になります。この金額なら訴えられないだろうの計算も見て取れますし、文句を言われたとしても「勘違いした方が悪い」で逃げ切ることができます。

ゼロリスク・ローリターン、薄利多売で罠に落ちる人を気長に待ち構える「優良誤認型」の手法は日本のネットオークションでも散見。複数の実物画像を用意しておらず、「イメージ写真」のみ掲載しているタイプの売り方にはジャンルに関わらず注意が必要です。

[04] 真筆

様々な不純物を取り除いていくと最後に「真筆」が残ります。

実際には真筆をより分けていくと同時に個別の価値も見ていきます。保存状態の良し悪し、筆跡の丁寧さ、キャリアの盛期に書かれたものか業界を離れてからのものか、日付や場所が特定されているかどうか、特別なメッセージが添えられているか名前だけ書かれたものか…多くのパラメーターを総合して「希少性が高い」云々の話が出てくることになります。

また1910~20年代にリアルタイムで活動していたサイン収集家の動きをできるかぎり記録にとどめておきたいと考えています。イタリアのブレシア拠点で活動していたエドヴィーゲ・トニ、英国で劇場勤めの傍らサインを集めていたチャールズ・トープ、10年代末に膨大なコレクションを所有していた独ケルン在住フィア・エーマンス、ポートレート撮影の折に記念のサインを書いてもらっていた米写真家ドナルド・キース、関西の熱烈な活動写真の愛好家(髙島栄一、宇治雅一)…

チャールズ・トープ氏サイン帳より自筆署名、ハンス・ルートヴィヒ・ヘーニッヒ氏(ウィーン)及び宇治雅一氏(大阪)の所蔵印

フィア・エーマンス嬢(ケルン)、ローザ・パスツール嬢(南米)、髙島栄一氏(兵庫)宛の宛名書き

一世紀前に自分が直接に(in person)書いてもらった物ではないからこそ、サインが当初どう発生したか見える状態にしておくのは大事だと思うのです。購入した牛肉の産地を追跡できる仕組みでブランド肉を保証しているのと同じ考え方(トレーサビリティ)でしょうか。

そういった意味でサインにまつわる小ネタ、エピソードも重要な役割を果たします。先日入手した伊藤大輔氏の署名入りの栞はその好例だったりします。

サイン物の鑑定というとテクニカルな話に終始しがちですが、直筆物の「真正さ(authenticity)」はかならずしも「モノ」の側面だけで語られるものではなかったりします。物理的な意味で真正であるのは当然として、さらに個々のサイン物にまつわる出来事、つまり「コト」の真正さがあって、両者が合致し補完しあうことでその直筆の「真」が完成する、そんな風に考えることができる訳です。

戦前期(1910~20年代)直筆サイン物の真贋鑑定について(1)

当サイトでは1910~20年代のサイン物(サイン入り絵葉書、写真、書簡)を多く紹介しています。直筆物を扱っていく際に鑑定作業は避けて通れないものです。オンラインの質問サイトでもこの手の質問は繰り返し上がってくるものですし、一般論としても興味のある方はいるのではないかな、と。

本サイトで行っている真贋判定の基本のフローは以下の形です。

3段階の判定を経て「真筆」に辿りつくことになります。

[01] 印刷物のサインをより分けていく

真贋判定の第一ステップとして、印刷サインをそれ以外から選り分けていきます。

無声映画の時代にはボールペンやマジック、シャープペンシルは存在していませんでした。直筆サインの多くは万年筆によるもので、鉛筆やクレヨンなど若干の例外が混ざってくる形になります。

鋭い金属の先端を押しつけて書く構造上、万年筆は紙に窪んだ跡を残しやすい特徴を持っています。筆圧によっては紙の繊維そのものが切断されているのが見えたりするほどです。万年筆サインと印刷サインの違いを見抜くにはこの「跡」が見えるようになるのが大切です。

こちらは以前に紹介したナジモヴァの直筆サインで拡大すると小文字の「a」の縦線中央にやや濃い色の線が入っている(写真右)のが分かるかと思います。万年筆の先端が触れた個所が浅い窪みとなりインクの溜まったものです。

こちらは『アジアの嵐』に主演していたインキジノフの直筆サイン。拡大してみるとやはり万年筆の先端で紙の繊維が切れ、インクが溜まって濃い色の線ができているのが分かります(写真右上)。万年筆の先は二股になっているため、角度によっては先端が割れて筆跡の両端を縁取るように濃い線が残る場合もあります(写真右下)。

スキャンでは濃淡の違いしか分かりませんが、紙を光にかざすとこの部分が「段差」として見えるようになります。

エニッド・ベネットの直筆サインでは、大文字「E」の書き始め、小文字の「n」、名前の下の下線の書き出し部分の筆圧が高いため万年筆の跡が残っています。斜めに光にかざすとその部分が窪んでいるのが分かります。

浦邉粂子さんのサイン絵葉書を見ていきましょう。「粂」の字に着目します。光の当て方は右のように光源が直接サインを照らす形にすると分かりやすいです。段差になった部分は光の反射角が変わるため白く照り返して見えます。

比較対象として印刷サインを見ていきます。下の写真は1910年代後半に人気のあったキャスリン・マクドナルドの絵葉書をスキャンしたものです。

拡大してみるとペン先による凹凸がなく非常にフラットなのが分かります(写真右上)。光の当て方を変えると浅い折皺が浮かび上がるだけで筆圧による窪みはありません(写真右下)。こういう見え方をするのが印刷物だ、となるわけです。

確認していくのは「窪み」とは限りません。逆に「盛り上がり」をみることもあります。

1910~20年ごろの映画界では写真のネガにサインを書きこむケースが多くみられました。複製したポジでは反転されて白文字のサインになるパターンです。下はチャールズ・レイの印刷サインで非常にフラット(平ら)な出方をしています。

一方で当時、暗い地色にあえて白インクでサインすることもありました。濃い修正液に似た質感で、紙に乗った感じの盛り上がった筆跡になります。(自分の所有物ではありませんが)下のジョゼフィーン・ヒルの例が分かりやすいでしょうか。

書く速度がゆっくりな個所、筆跡が重なった部分などにインクが溜まって盛り上がる形になっています。

ブライアント・ウォッシュバーンの白文字サインでもインクの濃淡が均一ではなく、文字を縁取るように濃い部分ができて盛り上がる形になっています。

「印刷か否かを確かめるために光に翳す」行為は言い換えると「光の反射角に注目し、物理的な厚み・高さの変化を見ている」ことになります。写真や絵葉書、ブロマイド、無地の紙にインクという異物が置かれることで起きた「物理的」な状態変化を何らかの形で見つけ出していくのです。

このアプローチの応用として次のような例を挙げることができます。

リートリス・ジョイの直筆物。保存状態は良くありませんが真贋鑑定の視点では興味深いサンプルになっています。緑色の矢印は万年筆の先端で削られた個所で、場所によってインクの劣化で白く褪せた出方になっています。また、水色の丸の部分では薄い傷がサインを横切っています。この部分を拡大してみると:

インクの部分で高さが変わるため薄い傷が完全にはつながっておらず途切れています。直筆サインでは手書きで書かれたインク部と背景の紙で「ダメージの出方に変化がある」例となっています。

先ほどのキャスリン・マクドナルドの印刷サインで「Sincerely」の後半の拡大です。経年の劣化で発生した黄土色のシミが文字と地の部分にまたがっています。手書きで置かれたインクではないため、印刷された文字であろうと背景であろうと関係なく「一様にダメージが発生している」訳です。

◇◇◇

経年変化などもあり、サイン物は手書きであれ印刷であれ一枚一枚異なっています。それでも基本的な考え方は同一で、文字を書くという行為で発生した状態変化を見つけることができるかできないかという作業を行っていきます。この辺は慣れと経験値も重要で、真筆と印刷物を比べながらある程度の枚数を見ていくことで目視でも100パーセントに近い鑑定精度までもっていくことができます。

目視に頼らず、ツールを使ってスマートに一発で判断できないかという疑問も当然出てくるでしょう。

サインそのものに触れて良いのであれば色々な手段が考えられます。薬品(極端な話、水一滴)を垂らす、ピックゲージを使用して段差の変化をミクロン単位で測るなどすれば状態変化を可視化できます。しかしサイン鑑定は「元のサインにダメージを与えない」が大前提となっているため、この視点からどちらの方法も不可とされます。直接触れないで…となると光の反射率測定装置を使う(=光沢の違いを測定する)手法があります。

とはいえ印刷物か否かの判断は鑑定の第一段階に過ぎないものです。印刷物を弾いても「印刷ではないから真筆である」という結論にはなりません。鑑定精度を上げる補助ツールはありえるにしても「スマートに一発で」真贋を判定できる手段は現状ない、の回答になるのだと思われます。

戦前期(1910~20年代)直筆サイン物の真贋鑑定について(2)

印刷物のサインを外していくと残りがすべて真筆となるかというとそうではありません。インクが乗っているにも関わらず「手書きではない」パターンがあるからです。無声映画期、1910~20年代にはスタンプ(ゴム印)とオートペンによるサイン物が流通していました。サイン鑑定の第2段階でこれらを弾いていきます。

[02a] スタンプ(ゴム印)

1910年代後半~20年代初頭にかけ、ハリウッドでは直筆サインを基にゴム印を作成しプロモ写真に押すことでサインの代わりとする習慣がありました。

[スタンプ式サインの使用が確認できているサイレント時代の俳優]

リリアン・ギッシュ、ドロシー・ギッシュ、セダ・バラ、ナジモヴァ、早川雪洲、メエ・ブッシュ、マージョリー・ドウ、アンナ・Q・ニルセン、メイ・アリソン、マリー・ウエルカンプ、ポーリン・フレデリック、ノーマ・シアラー、エミール・ヤニングス等

ほぼ全てが合衆国/ハリウッド俳優です。和物では一度も見たことがなく、欧州では(渡米経験のある)エミール・ヤニングスが使用していました。

スタンプに使用されるインクの顔料成分は万年筆と異なっており、時間が経って擦れ気味になるとまだら模様になります。また万年筆の筆跡に見られる力加減に応じた濃淡の違いはなく、ペタンとした平面的な見え方になるのが特徴です。

所詮はスタンプなので判別は簡単…とはいきません。例えばマリー・プレヴォーの筆跡は華奢でまだらが模様が見えにくく、遠目で見ると直筆にも見えます。市場でも誤って「真筆」として売買されやすいスタンプ物の一つです。

アンナ・Q・ニルセンも厄介です。次の4枚の写真のうち、1枚だけスタンプ物があるのですが分かりますか?

答えは②になります(①③④は直筆)。スタンプが混ざっている前提で見れば答えは出しやすいと思います。予告なしに4枚とも「アンナ・Q・ニルセンの直筆」として売りに出されていたら…②も直筆と勘違いする人が出てきてしまいそうです。

[02b] オートペン

サイン複製機「オートペン・モデル80」(左)と米オートペン社ホームページより「モデル50」紹介(右)

「オートペン」はプラスチック製のマトリクスに記録した動きでサインを自動的に複製する機械の名称です。合衆国では戦前から現在に至るまで政治家や研究者、宇宙飛行士、スポーツ選手らによって使用されてきました。初期ハリウッドでも一時期フアンレターへの返信用のサインにオートペンが用いられています。

無声映画期の俳優ではヴァレンチノの相手役として話題を呼んだハンガリー出身女優、ヴィルマ・バンキーがオートペンを使っていました。

文面の異なった2通。インクがしっかり乗った万年筆書きのサインですが本人直筆ではありません。オートペンによるサインは:

1)筆跡が細かな部分まで一致する
2)筆圧が最初から最後まで一定で、払いや撥ねの部分でも文字の太さが変わらない

の二つの特徴があります。直筆物と比べると違いが分かりやすいかと思います。

直筆は筆圧の変化があり、力を籠めたり抜いたりした濃淡、太細があって生気が感じられます。オートペンは二次元方向の動きを機械的に再現しているだけですので人肌の感触が残っていません。

とはいえオートペンサインは万年筆の先端で紙をなぞった跡が残ります。真筆を見たことがない俳優のサインがたまたま手に入ったとき、初見で、しかも比較対象がない状態で「機械による複製」と断定はしにくかったりします。

無数にあるサイン物から印刷物を省いていき、次いで人の手によるものではないサイン(スタンプ、オートペン)を取り除いていくと最後に人の手によって書かれたサインが残ります。最終第3ステップではここから本人の手による「真筆」とそれ以外をより分けていきます。

ラヴィニア・ウォーレン Lavinia Warren (1842 – 1919) 米 & プリモ・マグリ伯爵 Primo Magri 伊

小人症映画小史(03)

Lavinia Warren (aka Mrs. General Tom Thumb aka Countess Lavinia Magri) & Count Primo Magri
1909 Autographed Postcard

1900年代初頭、ラヴィニアとマグリ伯爵は夏になるとニューヨークのコニーアイランドにある「小人の町・リリプティア」に出演するようになった。リリプティアはいわゆる「小人の町」で、町としての機能を完全に残しつつもサイズ感だけを縮小しつつ、あちこちのサーカスや見世物小屋から雇い入れた小人症パフォーマー300余名が不自由なく生活できるようになっていた。

コニーアイランドを離れた後、ラヴィニアとマグリ伯爵はハリウッドへと足を伸ばした。新進著しい映画産業の中心地として東海岸に取って代わった直後の時期である。1914年にラヴィニアとマグリ伯爵は無声映画作品『小人求婚譚』に出演。ラヴィニアは『プチ婦人』、伯爵は『ノミ伯父さん』役を演じていた。

マグリ伯爵と再婚していた時期ですら、ラヴィニアはもっぱら親指トム将軍の未亡人として知られていた。ラヴィニア自身、トム将軍の名前の響きが備えた抗いがたい力を熟知していたのである。写真に「ラヴィニア・マグリ伯爵夫人」とサインする時も、「親指トム将軍夫人」と書き添えることが多かった。

『親指トム将軍:ある小人男の驚くべき真実のストーリー』
(ジョージ・サリヴァン著、2011年)

[…] early in the 1900s, Lavinia and the Count began to spend their summers as performers at « Lilliputia » at New York’s Coney Island. Lilliputia was a « midget city », a complete village scaled in size to accommodate some 300 dwarfs who had been hired awar from circuses and carnival sideshows. […]

After Coney Island, Lavinia and the Count traveled to Hollywood, which had recently replaced the East Coast as the center of the fast growing movie industry. In 1914, Lavinia and the Count appeared in The Lilliputians’ Courtship. a silent film. Lavinia was cast as « Lady Petite », the Count as « Uncle Tiny Mite ». […]

Even during the time she was married to Count Magri, Lavinia was generally known as Tom Thumb’s widow. She well knew the drawing power of Tom’s name. […] And while she signed souvenir photographs as « Countess Lavinia Magri, » she frequently added « Mrs. General Tom Thumb. »

Tom Thumb : The Remarkable True Story of a Man in Miniature
(George Sullivan, Clarion Books, 2011)

1842年米マサチューセッツ州生まれ。教職を本業とし、舞台で歌や楽器演奏を副業としていた時期にスカウトを受け芸人として独立。P・T・バーナム主催の巡業公演中に知り合った親指トム将軍(本名チャールズ・ストラットン)に見初められ1864年に結婚。婚礼の様子は大々的にメディアで取り上げられ、リンカーン大統領主催によるホワイトハウス歓迎会に招待されるなど当時最も知名度の高い小人症パフォーマーの一人となりました。本邦での知名度は高くありませんが日本語版ウィキの「小人症」でトップに置かれている無名の写真はラヴィニアさんの肖像です。

親指トム将軍とラヴィニア・ウォーレン婚礼の様子を
撮影したキャビネット写真(19世紀後半、個人コレクション)

1904年、コニーアイランドに大型アミューズメントパーク「ドリームランド」が建設された際、その人気企画となった小人の町・リリプティアに参加。1910年代後半に表舞台を退き夫と共に飲食店の経営を行い1919年に亡くなっています。

『コニーアイランドの歴史』(History of Coney Island, William Reynolds, NY: Burroughs & Co., 1904)より

最晩年に夫のマグリ氏と共に映画に出演。1915年に米ミューチャル社から配給された『小人婚活譚』(The Lilliputians’ Courtship)でフィルムは現存しておらず、姿が記録された動画は存在していないようです。

今回入手したのは1909年にパリで開催されたイベント「リリパットの小人王国」に参加した際の絵葉書。夫マグリ氏との連名サインが残されています。

[IMDb]
Lavinia Warren

[Movie Walker]


[出身地]
合衆国(マサチューセッツ州ミドルボロ)

[生年月日]
10月31日

キャスリーン・クリフォード Kathleen Clifford (1887 – 1962) 米

Kathleen Clifford Late 1910s Inscribed Photo

男装のヴォードヴィル芸人として、キャスリーン・クリフォードは山高帽、燕尾服に方眼鏡姿で登場していた。垢ぬけたファッション感覚で「町一番の伊達男」の異名を受けることとなつた。

「昔活躍していた男装芸人キャスリーン・クリフォードが
シャーロッツヴィル出身だった件について」
シャーロッツヴィル・コム

As a male impersonator doing vaudeville, Clifford wore a top hat, coattails and a monocle. Her smart fashion sense earned her the nickname “the Smartest Chap in Town.”

« Early male impersonator Kathleen Clifford had Charlottesville origins »
C-Ville.com

1910年代から30年代にかけ、米舞台で「男装の麗人」として人気を博していたのがキャスリーン・クリフォードでした。燕尾服に山高帽姿で歌や踊りを披露、衣服を自前で作り楽曲も自身で手掛けるなどマルチな才能の持ち主だったそうです。

1917年11月17日付「ムービング・ピクチャー・ワールド」誌より『ナムバーワン』広告

遺憾で堪らなかつたのは、後に殘されたエミー孃であつた。
『私も一緒に行き度いな。』
と何度いつても、とうとう許されなかつた。
一行を見送つて、すごすごと室に這入つたエミー孃、自分の室には行かず、エーリー君の室にと這入つた。
『そうだ私は女だから行けないんだ、男でさえあれば、何處までも一緒に行けるんだ。』
と獨り言し乍ら、手早く自分の着物をぬぎすて、エーリー君の服を着て、忽ち男となり濟ました。
一寸姿見の前に現はれて、
『オゝ是で立派な男になつた。
是なれば何處までも御伴が出來るんだ。』
といつてニツコと笑つて、スタスタと二階から駈け下りて往来にと出た。

探偵大活劇『ナムバァワン』
(浦峰雪訳、春江堂書店、「大活劇文庫」、1919年)

1917年、パラマウント社による初の連続活劇『ナムバァワン』で主人公に抜擢されます。同作ではヒロインによる男装場面が含まれていて彼女の資質や知名度を生かしたものだったようです。舞台活動をメインとしていたため映画出演は断続的となりましたが、そのうちの一つダグラス・フェアバンクス主演作の『暗雲動く時(When the Clouds Roll By)』が現存しています。

1919年『暗雲動く時』(When the Clouds Roll By)より

[IMDb]
Kathleen Clifford

[Movie Walker]
キャスリーン・クリフォード

[出身地]
合衆国(ヴァージニア州)

[生年月日]
2月16日

ノーマ・タルマッジ Norma Talmadge (1894 – 1957) 米

Norma Talmadge c1920 Autographed Postcard

ノーマ・タルマッヂ孃は、一千八百九十七年、米國ニュー・ジャーセー州のニュウワークに生れたとも言ひ又紐育州のナイアガラ瀑布に近い同名の町に生れたとも云ふ。[…]

十四歳の時、好機會は遂ひに來た。孃は何等の舞臺經驗も無しに映畫に現はれる事となつた。臨時雇としてゞはあつたが、初めから可成勝れた藝を見せた。それで兩親も漸く納得するやうになつた。

嬢が正式に花形として立つに至つたのは、それから暫くの後で、ヴァイタグラフ會社に居る時であつた(「戰争?滅亡?」」)、その頃嬢はブルー・リボン映畫に現はれて人氣を博してゐた。同社を退くとトライアングル會社に移つてファイン・アーツ映畫に出演した。今年の春、三友館に上場された「疑問の釦」は同社の作品で、妹のコンスタンス孃と共演したものである。同社からセルツニック會社に移つて「パンテア」(電氣館上場)その他を作り、程經て今度はセレクト會社に移つて、其處に暫く勤めてゐた。而して、昨年、ファースト・ナショナル會社の新設と共に、同社に移つて、目下は其處に勤めてゐる。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)


ノーマ・タルマッヂ孃はナイアガラ・フォールスで生まれブルックリンの小學校、エラスムス高校で教育を受けた。映畫に携わるやうになつたのは14歳の時であるがそれ以前舞臺の經驗はなく、まずはヴァイタグラフ會社作に出演、当初は同社の専属劇団の一員としてであつた。今やタルマッヂ孃は自身の製作會社を有しており、嬢の主演となる新たな特作はファースト・ナショナル會社を通じて配給されてゐる。現在感情表現に最も秀でた女優と目されており、輕喜劇でも複雑な性格設定の役でも等しく其の力量を發揮する。あらゆる映畫ジャンルに卓越した才を見せることから「万藝の女王」の綽名を広く轟かせてゐる。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

Norma Talmadge was born in Niagara Falls and educated in the Brooklyn elementary schools and Erasmus High School. She entered pictures at the age of fourteen, with no previous stage experience, going first for the Vitagraph Studio as a member of its old stock company. Miss Talmadge now has her own Company, with her new special feature attractions, released through Associated First National Pictures, Inc. She is considered one of the foremost emotional actresses of the day, and is equally capable in light comedy and character roles. Because of her ability to excel in every branch of screen art, she has been universally nick-named “The Queen of Versatility.”

« Who’s Who On The Screen » (1920)

タルマッジ三姉妹(左よりナタリー、ノーマ、コンスタンス) 『銀幕名鑑』( »Who’s Who On The Screen », 1920年)

タルマッジ姉妹の長女ノーマの直筆サイン入り絵葉書。元々長女のノーマがヴァイタグラフ~トライアングル社の花形となり、その人気にあやかって妹コンスタンスとナタリーも女優デビュー、1919~20年にかけてはリリアン&ドロシ-のギッシュ姉妹以上の知名度と人気を博していました。

« Going Straight »、トライアングル社、1916年

« The Devil’s Needle »、ファインアーツ社/トライアングル社、1916年

1920年代の出演作では『復讐の灰』(Ashes of Vengeance、1923年)や『お転婆キキー』(Kiki, 1926年)等が現存しています。一般的にはこの時期の長編作品が代表作とされるのですが正直1910年代短編の方が圧倒的に面白いです。

[IMDb]
Norma Talmadge

[Movie Walker]
ノーマ・タルマッジ

[出身地]
合衆国(ニューヨーク州)

[生年月日]
5月2日

ロー・ホール Loo Holl と『武士道』(東亜キネマ、1926年、H・K・ハイラント&賀古残夢)

Loo Holl c1920 Autographed Postcard

日本とドイツが共同制作し、1926年に公開された映画「武士道」のフィルムがロシアで見つかり、9月の第4回京都映画祭で特別上映されることになった。日本で最初の本格的な国際合作映画とみられる。

日本最初の国際合作を発見/1926年映画「武士道」
四国新聞 2004年8月11日付

2004年、邦画史上初めての国際合作作品となる『武士道』(1925年)が発見され、京都映画祭で上映されることになったというニュースが報じられました。東京国立近代美術館フィルムセンター(当時)研究員の常石史子氏を中心として1996~2004年に行われたロシア・ゴスフィルモフォンドの調査および収蔵作業(NFCニューズレター 2005年6-7月 第61号PDF)による成果のひとつです

日本側では東亜キネマが制作の中心となり、賀古残夢監督が現場を回す形で作業が進められていきました。出演は明石潮と岡島艶子。本作で「日本」がどう描かれていたかについては立命館大学のアート・リサーチセンターのサイトに報告がありますので興味のある方はご参照ください。

ドイツでは邦題をそのままアルファベット表記した「Bushido」として公開されました。

専門誌の様々な記事で伝えられているように、ハインツ・カール・ハイラント氏は日本で時代劇映画を作り上げた。日本の映画会社東亜キネマが共同で製作に当たった。監督は賀古残夢氏。主演はロー・ホール、カール・W・テティング、岡島艶子、明石潮の四氏。現時点でドイツ版が公開中。

独キネマトグラフ誌 1926年3月 第994号

Wie durch verschiedene Artikel in den Fachzeitungen bekannt geworden ist, fertigte Heinz Karl Heiland in Japan einen historischen Film an, und zwar mit Unterstützung der Toa Cinema Co., eines japanischen Fiimkonzerns. Die Regie führte Zanmu Kako. die Hauptrollen sind besetzt mit Loo Holl, Carl W. Tetting, Tsuyako Okazima und Ushio Akashi. Die deutsche Bearbeitung liegt nunmehr vor.

« Einsendungen aus der Industrie »
Der Kinematograph, Nr. 994 (1926 March Issue)


独キネマトグラフ誌1927年5月1056号に
掲載された粗筋紹介ページ(右半分)

共同監督として名を連ねているハインツ・カール・ハイラント(Heinz Carl Heiland)は元々旅行家兼エッセイストで、第一次大戦前に映画監督として業界に参加してからも異国情緒を重視した設定を得意としていました。戦後、自身の名を関した制作会社を立ち上げ、女優ロー・ホール(Loo Holl)をヒロインに据えた作品を多く発表していきます。

ロー・ホールは『武士道』と同時期に日本で撮影された『白い藝者』(ドイツ=デンマーク合作、1926年公開)でも主演エヴァ役を担当。日本を訪れたドイツ人技師が芸者と恋に落ちて…の展開は蝶々夫人に影響を受けた感じでしょうか。初期邦画に縁のあった女優さんのサイン絵葉書を日本にお迎えできるのは光栄です。

リリー・ヤコブソン (Lilly Jacobsson/Jacobson 1893–1979) スウェーデン

Lilly Jacobsson c1920 Autographed Postcard

スウェーデン出身、1911年にスヴェンスカ・ビオグラフテアーテン社短編映画の端役で女優デビュー。その後デンマークのノルディクス社に籍を移し、1910年代後半の北欧映画を代表する花形となりました。目鼻立ちのくっきりした北欧美人で当時の人気も納得ながらお人形さんの扱いに辟易し1910年代末に結婚と共に女優業引退を表明。

それを惜しいと思ったのが共演の経験もあるアスタ・ニールセンでした。自身が制作の中心となった大作『女ハムレット』(1921年)のオーフィリア役をオファーします。ハムレットへの淡い恋心が混乱に、狂気に変わり、自死で果てていく難しい役柄を見事にこなしました。

『マハラジャ最愛の妻』(Maharadjahens yndlingshustru 、1917年)より

『國民の友』(Folkets ven、1918年)より(右)

Lilly Jacobson & Gunnar Tolnaes in Himmelskibet (1918)

『エクセルシオール号/火星への旅』(Himmelskibet、1918年)でのヤコブソンとトルナエス

Lilly Jacobson in Hamlet (1921)

『女ハムレット』(Hamlet、1921年)より

今回入手したのは『マハラジャ最愛の妻』(1917年)のスチルをあしらった絵葉書。「リリー・ヤコブソン・エドワーズ (Lilly Jacobsson Edwards)」とサインしているため1919年にコーベット・エドワーズ氏と結婚した後のサインになると思われます。

[IMDb]
Lilly Jacobson

[Movie Walker]
リリー・ヤコブソン

[出身地]
スウェーデン(ヨーテボリ)

[生年月日]
6月8日

1935 – エルンスト・ルビッチ & ヴィヴィアン・ゲイ(ルビッチ)

Menu, « Royal Grand Hotel », Budapest. Signed by Ernst Lubitsch & Vivian « Lubitsch », March 25, 1935.

【今日のメニュー】

牡蠣の王家風クリームスープ
若鶏のロースト&仔牛のカツレツ
副菜
ストロベリームース

1935年3月25日

ロイヤル・グランド・ホテル(ブダペスト)レストラン

Etrend

Krémleves királynő módon
Sült jérce és borju szelet
Körités
Eper habszelet

1935 március hó 25 én

Royal Nagy Szálloda

エルンスト・ルビッチとその妻ヴィヴィアンによる連名サインが残された1935年3月25日付昼食メニュー。

ヴィヴィアン・ゲイはルビッチ監督の再婚相手。元々イギリス出身で自身も演技の経験がありましたが、ハリウッドでは女優サリ・マリッツァのマネージャーとして名を上げていきます。

サリ・マリッツァを語る前にまず触れておきたいのがマネージャーである。ヴィヴィアン・ゲイは24才の金髪女性で、担当している女優とは年が二つしか変わらない[…]。エルンスト・ルビッチからランドルフ・スコットまでハリウッドの大物権力者を手玉に取るだけの魅力の持ち主である。

「サリ・マリッツァは如何にスター女優となったか」
(モーション・ピクチャー誌 1933年2月号)

The most remarkable thing about Sari Maritza is her manager. Vivyan Gaye […] is a personable young blonde of twenty-four, only two years older than her charge. […] Vivyan is attractive enough to do very well for herself with Hollywood’s high-powered sheiks, ranging all the way from Ernst Lubitsch to Randolph Scott.

How Sari Maritza Made a Star (Motion Picture, 1933 February Issue)

美人女優と美人マネージャーの二人三脚は話題となり雑誌に写真が載るようになります。また彼女は仲介エージェント業に関わっていて様々な企画を監督や映画会社、作家に持ちこみ、調整から得られる仲介料を得ていました。1933年頃にはジョイ&ポリマー社に雇われる形で、その後1934年6月にディック・ポリマーが独立して会社を立ち上げた際にも「提携」の形で名前が出ていました。

仕事柄業界の大物と直接コンタクトを取る機会も多く出会いには恵まれていました。1933年には人気俳優ランドルフ・スコットとヴィヴィアン・ゲイ、スコットの親友であるケーリー・グラントとヴァージニア・シェリルのダブルデートがスクープとして報じられます。同時挙式になるのではないかの憶測が広まり、実際にグラントとシェリルは1934年の2月に挙式。しかしヴィヴィアンの方は破談となってしまいました。

ケーリー・グラントの伝記にはこの辺の裏事情が説明されています。元々スコットはバイセクシャルで、当時ケーリー・グラントとの交際が進んでいました。しかし会社(パラマウント)側はこの状況を良しとせずアドルフ・ズーカーは関係を断つようスコットに圧力をかけます。スクープされた「ダブルデート」も実際はスコットが本命のグラントと一緒に動くための「カモフラージュ」だった訳です。

スコットとの「偽装」恋愛が行き詰まる中で本業のマネジメントにも陰りが見えていました。第二のディートリヒとして売り出したサリ・マリッツァは実力・人気が伴わず1934年10月の結婚と同時に女優業を引退。ヴィヴィアンも身の振り方を考える時期に来ていました。

絶妙なタイミングに絶妙な見た目で現れた絶妙な女性だった。[…] ヴィヴィアンは27才、ルビッチの好みである「すらりとした背の高い金髪女」そのままのタイプだった。

 『楽園の笑い声:エルンスト・ルビッチ伝』)

Vivian Gaye was the right woman with the right look at the right time. […] Vivian was twenty-seven and very much in line with Lubitsch’s taste in women: tall, slender, and blond.

Ernst Lubitsch: Laughter in Paradise (Scott Eyman, 1993)

1935年にエルンスト・ルビッチとヴィヴィアン・ゲイの結婚が発表されました。同年7月27日に挙式、役所での手続きを済ませた後にハネムーンに旅立っていきます。ハリウッドのメディアもノーマークで各誌では驚きの声が上がっていました。

レストランのメニューに残された連名サインは入籍の4カ月前に残されたものです。お忍びでハンガリーに向い、レストランで食事中に誰かに所望され、手近にあったメニュー裏にサインを残した流れになるのでしょう。興味深いのは入籍前にも関わらずヴィヴィアンが「ヴィヴィアン・ルビッチ」とサインしている所です。

この時点で結婚は決まっていて「今度彼女と再婚するんだよ」の紹介を踏まえた上でサインをしたと思われます。名字に下線を引くのは彼女の手癖で、1933年に仏監督マルセル・レルビエに宛てた書簡で「ヴイヴィアン・ゲイ」の「ゲイ」にも下線を確認できました。

ヴィヴィアンに対する後世の評価は割れています。ルビッチ伝の一つ『楽園の笑い声』には「やたらと知識をひけらかす成り上がり者(a tremendous snob, a climber)」の厳しい意見が含まれていました。また再婚後のルビッチは妻の管理下に置かれ旧友と距離ができたという証言があります。

サリ・マリッツァの売り出し方から分かるように、マーケティングで実体以上に見せるはったり上等の勝負師の側面はあったのかなと思います。また「成り上がり者」と訳したclimberは「玉の輿狙い(golddigger)」に近いニュアンスですし傍からそう見えたのも理解はできます。とはいえルビッチが理想的な夫、父だったかというと難しい所です。語学力とコミュニケーション能力に秀で、女優と並んで遜色ない美貌の持ち主だったヴィヴィアンにも彼女なりの言い分があるのでしょう。

1938年に娘のニコラさんが誕生。1944年3月には財産分与の上離婚。結婚生活は9年で終わりを告げました。それでもお忍びでデートを重ね、美味しい料理を前に仕事や将来の話であれやこれや盛りあがっていた瞬間もあったわけです。互いの思惑や打算、そして現実がどのようなものであれ二人の共有した時間の断片がこんな形で残されているのがとても興味深く思われます。

[参考文献]
Ernst Lubitsch: Laughter in Paradise (Scott Eyman, Simon & Schuster, 1993)
Cary Grant: A Biography (Marc Eliot, Harmony, 2004)
他1932~35年にかけての「ハリウッド・リポーター」「スクリーンランド」「フィルム・ダイアリー」等映画誌

1924 – 16mm 『結婚哲学』 (1924年、エルンスト・ルビッチ監督) MOMA版プレビュープリント

The Marriage Circle (1924, Warner Bros. dir/Ernst Lubitsch) MOMA 16mm Preview Print

1920年代のルビッチが得意としてた室内喜劇型(チェンバー・コメディ)の作品。妖艶で多情な女性をマリー・プレヴォー、彼女の友人で無邪気な人妻をフローレンス・ヴィダーが演じ、男性陣二人(アドルフ・マンジュウ、モント・ブルー)を交えた軽妙な四角関係の恋愛模様が描かれていきます。

ハリウッド期のルビッチ無声作品の保存状況は芳しいものではありませんが、『結婚哲学』と『ウィンダミア夫人の扇』の二作品は恵まれていて米国内に保存されていた35ミリプリントを元に早くからデジタル化されてきました。

『結婚哲学』は映画保存協会主導の元、デヴィッド・シェパード氏が指揮を執って完成させたデジタル版が2000年にDVDで発売されました。2015年にフリッカーアレイ社がオン・デマンド販売を開始したDVDも内容は同じです。

手元にあるのはMOMA(二ューヨーク近代美術館)所蔵の35ミリから派生してきた16ミリプレビュー版。幾つかのフレームをスキャンして比較してみました。左が16ミリ版、右がDVD版です。

ベースになったプリントは同一で(以前にチャップリンやラング、ヒッチコック作品で見たような)別テイクは含まれていません。細かな話をするとDVD版は上と左、16ミリ版は右のトリミング幅がやや大きめに取られています。その影響もあり16ミリ版は左右がわずかに圧縮され車や人が細めに表現されています。

[IMDB]
The Marriage Circle

[Movie Walker]
結婚哲学

[公開年]
1924

[メーカー]
MoMA

[フォーマット]
16ミリ ダブルパーフォレーション 無声・調色(Toned) 750フィート(プレビュー版で冒頭の20分程度のみ)

1929 – 『カフェーの歌と映画小唄』(歌劇同好会・編、昭文舘書店/ライオン樂器店)

Cafe & Cinema Songs (1929, Shobun-kan/Lion Music)

当時物の映画小唄関連書籍をもう一冊。昭和4年(1929年)に公刊された『カフェーの歌と映画小唄』です。目次+本文124頁、冒頭に夏川静江さんと林長二郎氏の写真があしらわれています。

前半はカフエ(あるいは酒場)を舞台としたセンチメンタルな恋物語を扱った楽曲(「酒場の乙女」「道頓堀行進曲」「失戀の女給」)を中心に収め、中盤以降に「スツトントン節」「流浪の旅」「鈴蘭の歌」など小唄映画の名曲が並び、後半は『カルメン』や『生ける屍』など外国曲が収録される形になっていました。

小唄映画の原点の一つである船頭小唄(枯れすすき)は「此の世では花の咲かない」悲しみを歌ったもので、「親が許さぬ戀」「どうせ添はれぬ仲」を扱った戀慕小唄なども同じ系統に属しています。

(女)妾(わた)しやカフエに咲いて居る 眞白き花のスゞランヨ
(女)戀しき貴郎(あなた)は大學の 胸に五ツの金ボタン
(男)互に誓し仲なれど 未だ學生の悲しさに
(男)添ふにそはれぬ此くろを 辛抱してくれ今しばし
(女)切ない思ひで待つ妾 […]

チエリーソング(植中文春作)

酒場でもつれた戀なれば
逢ねば其れで濟みますの
なんぼ酒場の女給でも
心で結んだ戀じやもの

君戀しさに堪かねて
焦るゝ妾の胸の内
いくら薄情な貴郎でも
少しは察して下さいな

失戀の女給(二忠春男、西田輝男合作)

本書収録曲では新しい部類に入る「チエリーソング」「失戀の女給」の歌詞は、今迄の悲恋パターンに女給+男性(男子学生、魅力的だが身勝手な男など)を追加しているように見えます。実際のカフエや酒場ではもっと生々しいドラマも展開されていたのでしょうが、少なくとも流行歌として表面化してくる部分では旧来型のしっとりとした情緒が尊重されていたのだと思います。

エストニアより(映画)愛をこめて ヤーク・ヨエカッラス氏旧蔵サイン絵葉書

先日エストニアからの航空便が届きました。オンライン経由で取引したサイン物の絵葉書が計6点収められていました。

珍しい名前が多かったため蒐集家の古いコレクションがばらされたと思ったのですが、話を伺ったところセラーのヤーク・ヨエカッラス(Jaak Jõekallas)氏が個人で集めてきたサイン物の一部だそうです。「日本に発送するのは初めてだよ」と英語のメッセージが届き、返信がてら幾つか質問させてもらったところ素敵な話を色々聞かせていただきました。

前に書いたように、ソ連の時代には地元の骨董屋に独ロス社の絵葉書が沢山置いてあったんですよ。そういった店の多くは今は廃業してしまいましたけど、それでもまだ営業を続けているお店で面白い掘り出し物を見つけることがあります。

And as I already told, at the Soviet time there was a lot of old Verlag Ross postcards for sell in our antique shops. Nowadays most of these shops are closed but … sometimes is possible to find something interesting from these shops which are still working.

ソ連による併合以前に輸入されていたドイツやイギリス、合衆国製の絵葉書が1990年代にまだ町中のアンティークショップで売られていたそうで、ヤークさんは幼い頃からそういった紙物を集め始めていたそうです。

本サイトでも以前に紹介したイタ・リナ(Ita Rina)の話も少し出ました。1930年に公開された主演映画『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)がエストニアで撮影されていてこちらから話を振ってみたのですが、ヤークさんも当然その話は知っていて、しかも同作を監督したロシア出身の映画俳優・監督ウラディミール・ガイダロフの伝記を最近読んだ、とのこと。英語とロシア語の両刀使いは古いサイン物を集める際には強力な武器になります。正直羨ましい限りでした。

ちなみにヤークさんの名前はエストニアのウィキにも登録されています。1969年生まれで本職はオペラ歌手。古い映画関連紙物のコレクターとして知られており書籍も出版されているそうです。

ヤーク氏は映画俳優の絵葉書(ロス社、ピクチャーゴーア、また旧ソ連で出版されたものなど)、映画雑誌や書籍の収集でも知られている。

エストニア版ウィキペディアより

Kogub ka filminäitlejate postkaarte (Verlag Ross, Picturegoer jt, sealhulgas ka endise Nõukogude Liidu väljaanded) ning filmiajakirju ja -raamatuid.

『キノスタルジア』 (Kinostalgia. Filmistaaride lummuses, Jaak Jõekallas, 2018, Hea Lugu)

2019年にエストニア公共放送(ERR)で自著を紹介した番組がオンエアされました(ERR公式HPより)

2018年に出版された『キノスタルジア』は同氏の所蔵写真、絵葉書から600点を収めた一冊。表紙を飾っているのはキャロル・ロンバート。現在のエストニアはIT国家として知られていますが音楽や文芸思想でも優れた才能を輩出しており、こういった書籍からも質の高い文化の薫りが伝わってきます。

ジーナ・レリ Gina Relly(1891–1985)仏

フランス [France]より

Gina Relly Early 1920s Autographed Postcard

類い稀な才の音楽家の母親、巧みな畫家である父親の元で育てられ、ジーナは美しさと調和を好む子供に育つていつた。齢二十五ながら藝術家として残してきた實績は、より年を重ねた者たちも敵わないほどである。

若くしてデビユーを果たしたのは歌劇であつた。妙なる声の持ち主だつたのである。しかし程なくして舞臺を離れ映画界に足を踏み入れる。寫眞で映えるに違いない、最初に氣がついたのは喜劇役者のジヨルジユ・トレヴイル氏である。手始めの契約でまずは嬢を一本映畫に出演させてみたのだが、氏の満足はこの上なく契約の更新と相成つた。

次いでルネ・ナヴアール氏が『秘密文書』で大役を割り当て、さらにリユシアン・レーマン氏の『キマイラ』に出演。これらの作品を通じて他の多くの映画監督が嬢に目を留めることとなつた。他に『仮面の少女ニーヌ』次いで『借り』に登場している。

米國フオツクス會社との契約は嬢の才能が認められた証でもあつた。撮影で紐育にいたところ連續劇『貧しき者たちの王』のヒロイン役でルネ・ルプランス監督から白羽の矢が当たる。国外への再流出は避けたい所である。我が国の花形女優の数は決して多くないのであるから!

「仏蘭西花形物語:ジーナ・レリ嬢」
『モンシネ』誌 1922年2月創刊号

[…] Sa mère, musicienne d’un rare talent, et son père, habile artiste-peintre, contribuèrent à développer chez leur enfant le gôut de la beauté et de l’harmonie.

Sachez de plus que Gina Relly a seulement vint-cinq ans, et que cependant ella a déjà derrière elle un passé artistique que bien des artistes plus âgées ne possèdent pas.

Toute jeune, elle débuta dans l’opérette, car elle a une voix exquise.

Mais elle ne devait pas tarder à abandonner le théâtre pour le cinéma. Ce fut Tréville qui, le premier, songéa qu’elle devait être très photogénique. Il l’engagea pour un film d’abord et fut si satisfait qu’il renouvela l’engagemnt.

René Navarre, ensuite, lui confia un rôle important, dans Document secret, puis ce fut Lehman qui la fit tourner dans La Chimère. Ces créations l’avient signalée à l’attention d’autres metteurs en scènes, aussi la vimes-nous dans Nine, et puis dans La Dette, chez Harry.

La consécration de son talent fut un engagement de la célèbre firme américaine, la Fox-film. Elle tourna donc à New York et c’est là que René Leprince fut la chercher pour L’Empereur des pauvres. Espérons que nous ne laisserons plus cette vedette. Nous n’en avons pas tellement!

Une Vedette française : Gina Relly
Mon Ciné, No 1 (Février 1922)

1922年に仏映画雑誌モンシネが創刊された時、国産の花形女優として最初に紹介されたのがジーナ・レリ。以前に紹介したフランス・デリアジュヌヴィエーヴ・フェリクス等と並び、1910年代末頃に台頭してきた女優さんの一人です。

この世代は巡りあわせ的に不運なところがあって、経験を積んでいざ本格的に活躍!となった1920年代初頭に業界が大きく変貌、映画のスタイルが変わり、愛好家層が入れ替わり、ファッションや髪型の流行も激変し、余程の実力者でもなければ時代に取り残されて忘れられていった者が目立ちます。

モンシネ誌の紹介にあるように、ジーナ・レリは1920年に米フォックス社と契約を結び『窓の顔(The Face at Your Window)』でヒロインを務めます。その後フランスに戻り12幕物の連続ドラマ『貧しき者たちの王』でも主人公(レオン・マト)の恋人~妻役を務めて話題を呼びました。

『貧しき者たちの王』(L’Empereur des pauvres, 1922)でのジーナ・レリ。GPアーカイヴより。

モンシネ誌 1922年6月8日付第16号表紙


同作公開後のインタビュー(モンシネ誌16号)では将来の夢として再度ハリウッド行きの話などもしていたのですが実現することはありませんでした。元々彼女が得意としていたのは初期のメアリー・ピックフォードやメエ・マレーに近い可憐な娘役、1920年代にモダンな女性像が受け入れられていく中で過去のイメージが足かせとなって活躍の場を失っていきます。1920年代中盤まで雑誌モデルでの活動記録が残っていますがその後の消息は不明となっています。

[IMDb]
Gina Relly

[Movie Walker]
Gina Relly

[出身地]
フランス

[生年月日]
12月24日

バルトシュ・オルガ Bartos Olga(生没年不詳) ハンガリー

ハンガリー [Hungary]より

Bartos Olga 1921 Inscribed Postcard

第一次大戦の末期、1917年にハンガリーのロイヤル・オルフェウム劇場(Royál-Orfeum)で軽歌劇の主役として注目を浴びた女優さん。翌1918年にウィーンのロナッヒャー劇場と契約を結んだニュースがハンガリーの演劇誌でも大きく取り上げられていました。

「演劇生活」誌(Színházi Élet) 1918年9月1日 第35号表紙

この後もウィーンのアポロ藝術劇場で幾つかの出演記録(1920年『Die Apachen』、1921年『タンゴの女王 Die Tangokönigin』)が残されていますが、同劇場の支配人であるヘルベルト・トラウ氏と入籍したようで雑誌での名字表記が「Bartos-Trau」に変わります。今回入手したサインはこの時期のもの。

面識こそ御座いませんが貴方様からの讃辞に親愛なる感謝をこめて

1921年2月8日 オルガ・バルトシュ=トラウ

Unbekannterweise freundliche Grüße und Dank für ihre schmeichelhaften Zeilen.

8 II 1921. Olga Bartos-Trau

20年代中盤以降はメディアでの露出が減っていくものの、1927年の雑誌の紹介記事からは活躍の場をチューリッヒまで広げていた様子が伺えます。

独「ライフ」誌(Das Leben)
1927年7月号

映画界との接点は多くありませんが一作主演の記録あり。1919年公開の墺作品『Die lichtscheue Dame』で、ジョルジュ・オーネの小説『灰色の淑女(La Dame en gris)』を下敷きにした作品のようです。

[IMDb]
Olga Bartos

[Movie Walker]


[出身地]
ハンガリー

[データ]
1301 Bildnis von Angelo Budapest 1918

1931 – 8mm 『タブウ』(F・W・ムルナウ監督) 1939年 独Degeto社抜粋版

Murnaus Traum von der Südsee
(From « Tabu », dir/F.W. Murnau, 1931) 1939 Degeto 8mm print

ムルナウ監督の遺作『タブウ』冒頭を抜粋した8ミリ版。

同作の成立経緯や様々なエディションについてはドイツ・キネマテークの公開している特設ページが良くまとまっています。1936年に米パラマウント社の版権が切れ、独トビス映画配給社が新たに権利を取得。同社と関連のあったDegeto社から8ミリ版(15メートル)と16ミリ版(25メートル)『南洋の夢(Traum von der  Südsee)』が発売されたそうです。今回入手したのはその8ミリ版。

『タブウ』は南洋の島を舞台とし「禁忌」によって翻弄され引き裂かれていく男女の悲恋を描いています。旧作に比べ宿命劇の説得力が弱く、ムルナウ作品ではややマイナーな扱いをされることも多いのですが構図や感情表現にこの監督らしい冴えを見てとることができます。

抜粋版は本筋には触らず冒頭に置かれた人々の生活模様と祭に特化した内容になっていました。

(以前にリア・デ・プッティの投稿で触れたように)本作に限らずムルナウ作品に登場する女性には性的なニュアンスが希薄です。『タブウ』には半裸だったり露出度の高い女性も見られるのですが美しい風景や植物と対等の位置付けで描かれています。撮る側に下心がないためエロスの発生する余地がない、と言い換えることもできます。一方で男性の筋肉のフォルムや肌の質感、動きの描写に旧作では目立たなかったこだわりがあって同性愛指向が比較的分かりやすい形で表面化しています。

とはいえムルナウ作品を『タブウ』から見始める人はそう多くなくて、『吸血鬼ノスフェラトゥ』や『サンライズ』経由でこの作品に辿りつくパターンが大半ではないかと。その時には監督のセクシュアリティー云々以前にまず旧作との世界観、雰囲気の落差に驚かされるのだろうと思います。

西欧キリスト教社会の価値観から外れた異端者、異形の存在者、そんな自己認識を研ぎ澄ました先に生れてきたのがムルナウの代表作(『ノスフェラトゥ』『最後の人』)であり、一方で太平洋の「楽園」に仮託してその価値観の外に逃れていった美しい幻想が『タブウ』であった。他作品にはない、そしてあまりに「ムルナウらしくない」冒頭の多幸感は彼の孤立感、生きづらさの裏返しだったと考えてみるとしっくり収まります。

ケースは独コダック社ですがフィルムそのものはアグファ社の製品を使用。戦中期の1930年代末とは思えない質の高いプリントです。

[原題]
Murnaus Traum von der Südsee

[公開年]
1931

[IMDB]
Tabu: A Story of the South Seas

[Movie Walker]
タブウ

[メーカー]
Degeto

[フォーマット]
スタンダード8 無声白黒 15メートル

ルーシー・キーゼルハウゼン Lucy Kieselhausen (1900–1927) 墺

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Lucy Kieselhausen Mid/Late 1910s Autographed Postcard

オーストリアの舞踏家グレーテ・ヴィーゼンタールの門下生として頭角を現し、若くして舞台の人気者となりファッション誌のモデルとしても活躍していきます。映画界との接点は多くはありませんが1917年公開のドキュメンタリー短編『ベルンでのドイツ工作連盟展におけるファッションショー』にモデルとして登場、翌年から劇作品への出演を始め『千女一女物語(Tausend und eine Frau)』『七番目の列強(Die siebente Großmacht)』で端役を務めています。

1918年公開『七番目の列強』広告
独キネマトグラフ誌1918年8月号

その後1923年にアスタ・ニールセン主演の『地霊』(Erdgeist、リヒャルト・オスワルド監督)に出演。同時期にヘルタ・ファイストの下でダンスの勉強を続け、作曲家ハインツ・ティーセンの「サランボ組曲」に振付を提供。しかし自身の考案した舞踏が表舞台で披露されるのを見ることはできませんでした。1927年12月、浴室でベンジンを使用し手袋の清掃をしていた際、浴室のストーブの火が揮発したベンジンに着火、爆発を起こします。重度の火傷を負ってそのまま帰らぬ人となりました。

1927年12月末にオランダの新聞に掲載された訃報

映画出演作は端役4作のみですので女優としての評価がどうこうの話でもないのですが、第一次大戦後のドイツ語圏で舞踏畑で活躍した個性派でグリット・ヘゲーザ(Grit Hegesa)やハンネローレ・ジーグラー(Hannelore Ziegler)とも重なってくる感じです。

ちょうど先月(2021年4月)、ケルンに拠点を置く「西部ドイツ放送(Westdeutscher Rundfunk)」がラジオ番組「ルーシー・キーゼルハウゼン二重の立身物語(Die zwei Karrieren der Lucy Kieselhausen)」をオンライン公開しました。母親のレアさんに宛てた書簡や当時の証言を引用しながら1920年代のドイツ語圏で女性が、舞踏家が、そして若者が直面していたリアリティを再現していく内容でした。

[IMDb]
Lucy Kieselhausen

[Movie Walker]


[出身地]
オーストリア=ハンガリー帝国(ウィーン)

[データ]
[(Photochemie) K. 107. Bildnis von A. Binder, Berlin]

レオポルディーネ・コンスタンチン Leopoldine Konstantin (1886–1965) 墺

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Leopoldine Konstantin Late 1910s Autographed Postcard

オーストリア出身の舞台女優/映画女優で1900年代後半にはすでにベルリンの劇場に立っていました。

1910年頃にドイツで映画産業が勃興した折、舞台界から先駆者として業界に参入したのがマックス・ラインハルトでした。神話世界と現実世界を交差させた『恵みの島』(Die Insel der Seligen、1913年)はエロスを含みこんだファンタジーとして高い評価を受けているものです。同作後半では、妖精の島に紛れこんでしまった老紳士二人が魔女キルケ(レオポルディーネ・コンスタンチン)にたぶらかされ、妖術によって豚に変えられてしまう場面が含まれています。

ラインハルト門下生は個性的な演技派が多かったこともあり初期ドイツ映画界では重宝されていました。レオポルディーネ・コンスタンチンも1910年代を通じメスター社のハンス・オーベルレンダー監督作品を中心に活躍。10年代中盤にドイツで探偵活劇が流行した時にはスチュワート・ウェッブス連作と並ぶ人気シリーズ、ジョー・ディーブス物に出演した記録も残っています(1917年)。

『カイロの結婚』(1933年)より

1920年代初頭に映画界を離れ舞台に専念、10年以上のブランクを経てカムバックした後は母親役を中心に活動。この時期の出演作の幾つか(ウーファ社『カイロの結婚(Saison in Kairo)』『桃源境(Prinzessin Turandot)』など)は日本でも公開されていました。

『汚名』(1946年)より

40年代に渡米しハリウッドに挑戦、言葉の壁もあって大成こそしませんでしたが、ヒッチコックの『汚名』(Notorious、1946年)でナチス残党グループリーダー(クロード・レインズ)の母親役を演じ熟練の演技を見せました。同作が最後の映画出演となり50年代に女優業から引退しています。

[IMDb]
Leopoldine Konstantin

[Movie Walker]
レオポルディーネ・コンスタンチン

[出身地]
オーストリア=ハンガリー帝国(モラヴィア地方ブルノ、現チェコ)

[データ]
[Verl. Herm. Leiser, Berlin-Wilm. 9271 Phot. Becker & Maas, Berlin]

1921年 – クロアチア・ザグレブ公演中のモスクワ芸術座カチャーロフ・グループ 直筆サイン入り絵葉書8点

Moskovskii Khudozhestvennii Teatr at Zagreb (1921).
8 Autographed Postcards

ロストフ・ナ・ドヌー、エカテリノダールと回った一行は、1920年3月にはノヴォロシイスクから海路グルジアに渡る。ここに至ってようやくモスクワと連絡がついたものの、劇団からはいま帰ってもしょうがないとのつれない返事がかえってきただけ。そこで再び海路コンスタンチノーブルへ渡った一行は公演を重ねながらバルカン半島を北上して行くことにした。この巡演は「ソフィア、ベオグラード、リュブリアナ、ノヴィ・サド、ザグレブなど、どこでも熱い歓迎を受け」(Inov 2003:14)、バルカン諸国に多くの芸術座シンパを生んだのだという。

「1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について」
大平陽一

1919年夏に海外巡業へ向かったモスクワ芸術座のメンバーがロシア革命の余波で帰国できなくなり、その後チェコスロバキア政府の援助を受けてプラハを拠点に活動し始めた…という「プラハ・グループ」を論じた一節です。大きくはロシア/ソヴィエト演劇史の一エピソードの括りながら、中欧~東欧への文化的影響や「文化の越境」といった視点から見ても興味深いものです。

革命前、舞台俳優たちはしばしば映画にも出演していた。

「異境のモスクワ芸術座:モスクワ芸術座プラハ・グループと女優マリア・ゲルマノワ」
諫早勇一

プラハ・グループを扱ったもう一本の論文で触れられていたように帝政期ロシアの舞台俳優の多くが映画と接点をもっていました。1923年には『カリガリ博士』で知られるロベルト・ヴィーネ監督による独映画『罪と罰』が公開されましたが、同作のキャストはプラハ・グループ所属の俳優で固められたものです。

ラスコーリニコフ(クマラ)

ラスコーリニコフの母と妹(スクルスカヤ&タラソワ)

死の床のマルメラードフ(右、タルカーノフ)とその妻(左、ゲルマノワ)

ラスコーリニコフとソーニャ(右、クルィジャノフスカヤ)

スヴィドリガイロフ(シャーロフ)

今回紹介するのはこの一団が正式にプラハを拠点とする直前の時期(1921年初頭)にクロアチアのザグレブで公演を行った際に残したサイン物のセットです。2016年と2021年の2度に分けて購入したもので元々は15枚ほどの塊でした。予算の都合ですべてを揃えることはできませんでしたが看板女優のオリガ・クニッペル・チェーホワ(戯曲家チェーホフの妻)、花形女優のクルィジャノフスカヤやオルロワ、実力派のマッサリチノフなどが含まれています。

・オリガ・クニッペル・チェーホワ [Olga Knipper-Chekhova] 日本語wiki
・ウェラ・オルロワ [Vera Orlova] IMDb/Movie Walker
・ピョートル・シャーロフ [Petr Sharov] IMDb/Movie Walker
・ヴァシーリー・ヴァシレフ [Vasilij Vasilev] IMDb
・ピョートル・バクシェイエフ [Pyotr Baksheyev] IMDb
・マリア・クルィジャノフスカヤ [Maria Kryshanovskaya] IMDb/Movie Walker
・エリザベータ・スクルスカヤ [Elisabeta Skulskaja] IMDb/Movie Walker
・ニコライ・マッサリチノフ [Nikolaj Osipovic Masalitinov] IMDb

ロシア革命の余波が西欧映画に与えた例としては仏アルバトロス映画社や映画プロデューサー・エルモーリエフの活動が知られています。後者が渡仏前に製作していた作品には芸術座俳優(オルロワ、バクシェイエフ、ゲルマノワ)が多く出演していました。コンスタンチノープル経由でパリに亡命したエルモーリエフが仏無声映画史の発展に深くかかわり、一方で芸術座俳優たちがプラハ経由でドイツ表現主義に絡んでいく…別ルートで同時進行していた2つの風景が同じ根を持っていたと確認できる映画史資料でもあります。

[IMDb]
Raskolnikow

[Movie Walker]
罪と罰