南部 章三/彰三 (1898 – 没年不詳)

「日本 [Japan]」より

Nanbu Shozo 1928 Autographed Postcard
Nanbu Shozo 1928 Autographed Postcard

本名は鴛海正次。日大文學部の出身。流石に文章にかけてはお手のものだけに時々映画雜誌等に稿を寄せて文藝好きなフアンを騒がせている。彼は俳優らしくないそして、最も話せるひととして有名である。己の天分や技藝等を度外視して殊更らに俳優らしさを誇張したがる者の多い現代に、君の如き優しくそして偉大な存在は實に喜ぶべきである。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

本名鴛海正次。明治卅二年、大分縣に生る。日本大學豫科修了後美學部に入り轉じて日本俳優學校に入學し、大正十五年一月、日活現代劇部に入社す。その間シベリヤ出兵の際從軍して勲八等をうく。二枚目を得意とする。主な近作は「見果てぬ夢」「五人の愉快な相棒」身長五尺五寸、體重十五貫三百目。趣味は映畫。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

[JMDb]
南部彰三

[IMDb]
Shôzô Nanbu

[出身地]
大分県

[誕生日]
6月26日

[データ]
8.5 × 13.5cm

花岡 菊子 (1910 – 1984)

「日本 [Japan]」より

Hanaoka Kikuko Autographed Postcard
Hanaoka Kikuko Autographed Postcard

本名瀬川幾代。明治四十四年靜岡市に生る。生地の精華女學校を卒業して昭和三年十月松竹蒲田撮影所に入社し、順調に斯界へ進出して現在に及ぶ。主な近作品は「陽氣な唄」「父の願ひ」等々。身長五尺三寸。體重十一貫五百目。趣味は讀書とスポーツ。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

[JMDb]
花岡菊子

[IMDb]
Kikuko Hanaoka

[出身地]
日本(静岡県)

[誕生日]
9月11日

[データ]
8.5 × 13.5cm

尾上 多見太郎 (1892 – 1947)

「日本 [Japan]」より

Onoe Tamitaro Autographed Postcard
Onoe Tamitaro Autographed Postcard

明治二十五年大阪市東區今橋三丁目で生る。本名川本辰之助。一時成美團で活躍してゐたが十五年七月日活に入り時代劇の人氣俳優として羽振りが好い。主なる映畫では『金子市之亟』『月形半平太』『水戸黄門』等で好評を博した。好きなものは淨るり。現住所京都市上京區大將軍鷹司町東高司。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

[JMDb]
尾上多見太郎

[IMDb]
Tamitaro Onoue

[出身地]
日本(大阪市東区今橋)

[誕生日]
6月

[データ]
8.5 × 13.5cm

1917-22 忘れじの独り花(28)ミア・パンコー Mia Pankau (1891 – 1974) 独


「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Mia Pankau Autographed Postcard
Mia Pankau Autographed Postcard
オランダ出身の映画監督ヤープ・シュパイアー(Jaap Speyer)氏を夫に持ち、1910年代に同氏作品に多く主演していた女優さん。

世に聞こえたオランダ出身監督ヤープ・シユパイアー氏の夫人でもあるミア・パウコー嬢は西プルシアの小さな町フリートラントにて生を受けた。同嬢の才能を最初に見出したのはオイゲン・イッレーシュ氏で、同氏は孃と契約を交わし『最新報告』(1917年)の女主人公役を委ねた。次いで嬢はグルウンバウム社、アルトフ社と契約、ミア・パンコー映画シリーズで名を上げる。最初のヒット作となったのはアルトフ社で撮られた『リリィとその良人』であつた。

世界映画辞典・1932年度版(フランク・アルノー編)
Universal Filmlexikon 1932 (Europa),
Frank Arnau (Hg.), Berlin: Universal Filmlexikon GmbH, 1932

1924年、独歴史映画の秀作『ヘルマンの戦い』ではヒロインの一人グントヒルトを好演。

Mia Pankau in Die Hermannschlacht (1924)
1924年公開『ヘルマンの戦い』(Die Hermannschlacht)より

また1928年の『妖花アラウネ』にも出演。同作は科学者(パウル・ヴェゲナー)が死刑囚の精子と売春婦の卵子を使って人工生命(ブリギッテ・ヘルム)を作り出す設定でした。冒頭で科学者に騙され、卵子目的で命を奪われる哀れな娼婦を演じていたのがミアさんでした。

Mia Pankau in Arlaune (1928)
1927年公開『妖花アラウネ』(Arlaune)より

1930年代となり、良人が監督した『南米向け踊り子募集』(Tänzerinnen für Süd-Amerika gesucht、1931年)でトーキーデビューを飾るも同作が引退作となりました。20~30年代だけ見ていると正直パッとしませんが女優業の本体は1910年代にあり、その実態は多くの失われたフィルムの先に見えなくなってしまっています。

[IMDb]
Mia Pankau

[Movie Walker]
ミア・パンコー

[出身地]
東プロイセン(フリートラント)

[誕生日]
2月14日

[サイズ]
8.7 × 13.4cm

[データ]
Verl. Herm. Leiser, Berlin-Wilm. 4356. Photogr. Max Lutze.

1917-22 忘れじの独り花(27)リタ・クレルモント Rita Clermont (1894 – 1969) 独


「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Rita Clermont 1910s Autographed Postcard
Rita Clermont Autographed Postcard

1910年代初頭から地方の劇場で女優として訓練を積み、第一次大戦中に上京、映画女優としてのキャリアを踏み出しました。娘役として人気があり、当初の軽喜劇路線から次第にジャンルを広げ始めミステリー物やメロドラマ、ホラー作品にも進出していきました。デビュー当初はオスカー・メスター社と契約、その後ノイトラール社を拠点としていきますが、デクラ社やリヒャルト・オスヴァルト社など多くの映画社に出演記録があります。

Ririta Clermont 1917 Neutral Film Ad
1917年スイスの映画誌『キネマ』掲載のノイトラール社広告。
アスタ・ニールセンやレオンティーヌ・キューンベルグと並ぶ
稼ぎ頭だった様子が伝わってきます。
1921年頃を境に人気は下り坂となり、以後は脇役に回って1924年映画界を離れました。現在思い出される機会の少ない女優さんながらもヘッダ・ヴェルノンと並びドイツ映画が花開き始めた時期を支えた先駆者の一人でもあります。

[IMDb]
Rita Clermont

[Movie Walker]

[出身地]
ドイツ(レーゲンスブルク)

[誕生日]
3月4日

[データ]
Photochemie, Berlin. K.161. Bildnis von A. Binder, Berlin

[データ]
8.5 × 13.5cm

1917-22 忘れじの独り花(26)マリア・ヴィダル Maria Widal (生没年不詳) デンマーク


「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Maria Widal Autographed Postcard
Maria Widal Autographed Postcard
1910年のアスタ・ニールセン銀幕デビューはデンマーク国内のみならず全世界的な話題を呼び、同嬢は1912年に拠点をドイツへと移し個性的な活動を展開していくこととなりました。この展開を支えたのが夫でもあったウアバン・ガーズ監督です。

同監督は1916年までニールセン短編シリーズを手掛けておりましたが、夫婦仲の悪化に伴い共同作業を解消、1917年からサチュルヌ映画社で再出発を図ります。新シリーズのヒロインとして抜擢されたのがマリア・ヴィダルという無名の新人女優でした。

Maria Widal in Die Gespensterstunde (1917)
『丑三つ時』 (Die Gespensterstunde、1917年)
現存する『丑三つ時』 Die Gespensterstundeではニルス・クリサンダーと共演。しかしニールセン程の成功を収めることは出来ず、1918年頃までサチュルヌ社に作品を残し大戦終了後に姿を消していきました。
Luzzy Werne01
1914年デンマーク『フィルメン』誌より
現代のメッサリナ』広告での「Luzzy Werne」
Maria Widal in Ned med våbnene (1915)
『武器を捨てよ!』(1915年公開、
ノルディスク社、ホルガー=マドセン監督作品)
主人公の友人である男爵夫人役として登場
(左から二番目のティアラ姿の女性)
1917年より前に「マリア・ヴィダル」が活動していた記録はありません。ドイツ的な要素を強調していたにも関わらず、その正体はデンマーク初期映画でLuzzy Werren(或いはWerne)として活躍していた女優さんでした。ガーズ監督がニールセンとの関係解消後、同郷の知己だった中堅女優を「ロンダリング」してドイツで再デビューさせたのが実際だったようです。

[IMDb]
Maria Widal

[Movie Walker]

[出身地]
不詳(推定デンマーク)

[誕生日]
未詳

[サイズ]
8.6 × 13.5cm

[データ]
Film-Sterne 112/3 phot. Nicola Perscheld Berlin W. 9

1917-22 忘れじの独り花(25)クララ・ヴィート Clara Wieth (1883 – 1975) デンマーク

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Clara Wieth 1910s Autographed Postcard
Clara Wieth (Clara Pontoppidan) c1920 Autographed Postcard

1910年に映画デビュー。当初はレジア芸術映画社を拠点とし『ドリアン・グレイの肖像』や 『大都会の誘惑』(いずれも1911年)にヒロイン役で登場、若き美青年俳優W・スィランダのデビューに立ち合いました。すぐにノルディスク社に移りオーガスト・ブロム監督(『血を吸う踊り子』1912年)やホルガー・マドセン監督作品で重用され、同時期にスウェーデンでもスティッレルやシェストレム初期作でヒロインを務めます。

1920年前後にかけ出演ペースが落ちていくものの、カール・テオドア・ドライヤーの初期作『むかし、むかし』(1922年)の美しく傲慢な姫君役など北欧映画史の希少な瞬間を演じました。

Clara Pontoppidan in Der var engang (1922)
『むかし、むかし』(1922年、カール・テオドア・ドライヤー)

1920年に再婚で名字が変わります。以後はクララ・ポントピダンとして活動。20年代半ばに映画界を離れ舞台に移りますが、二次大戦後に復帰、主演作を挟み70年代までデンマーク映画を支え続けていきました。

クララ・ヴィート名義のサインは名字変更前の1910年代と断定して良さそうです。

Clara Wieth in Filmen (1915)
デンマークの映画誌『フィルメン』
1915年度第10号の紹介記事

[IMDb]
Clara Pontoppidan

[Movie Walker]

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
4月23日

[サイズ]
8.6 × 13.5cm

[データ]
K.136. (Photochemie, Berlin)