1921年 – クロアチア・ザグレブ公演中のモスクワ芸術座カチャーロフ・グループ 直筆サイン入り絵葉書8点

Moskovskii Khudozhestvennii Teatr at Zagreb (1921).
8 Autographed Postcards

ロストフ・ナ・ドヌー、エカテリノダールと回った一行は、1920年3月にはノヴォロシイスクから海路グルジアに渡る。ここに至ってようやくモスクワと連絡がついたものの、劇団からはいま帰ってもしょうがないとのつれない返事がかえってきただけ。そこで再び海路コンスタンチノーブルへ渡った一行は公演を重ねながらバルカン半島を北上して行くことにした。この巡演は「ソフィア、ベオグラード、リュブリアナ、ノヴィ・サド、ザグレブなど、どこでも熱い歓迎を受け」(Inov 2003:14)、バルカン諸国に多くの芸術座シンパを生んだのだという。

「1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について」
大平陽一

1919年夏に海外巡業へ向かったモスクワ芸術座のメンバーがロシア革命の余波で帰国できなくなり、その後チェコスロバキア政府の援助を受けてプラハを拠点に活動し始めた…という「プラハ・グループ」を論じた一節です。大きくはロシア/ソヴィエト演劇史の一エピソードの括りながら、中欧~東欧への文化的影響や「文化の越境」といった視点から見ても興味深いものです。

革命前、舞台俳優たちはしばしば映画にも出演していた。

「異境のモスクワ芸術座:モスクワ芸術座プラハ・グループと女優マリア・ゲルマノワ」
諫早勇一

プラハ・グループを扱ったもう一本の論文で触れられていたように帝政期ロシアの舞台俳優の多くが映画と接点をもっていました。1923年には『カリガリ博士』で知られるロベルト・ヴィーネ監督による独映画『罪と罰』が公開されましたが、同作のキャストはプラハ・グループ所属の俳優で固められたものです。

ラスコーリニコフ(クマラ)

ラスコーリニコフの母と妹(スクルスカヤ&タラソワ)

死の床のマルメラードフ(右、タルカーノフ)とその妻(左、ゲルマノワ)

ラスコーリニコフとソーニャ(右、クルィジャノフスカヤ)

スヴィドリガイロフ(シャーロフ)

今回紹介するのはこの一団が正式にプラハを拠点とする直前の時期(1921年初頭)にクロアチアのザグレブで公演を行った際に残したサイン物のセットです。2016年と2021年の2度に分けて購入したもので元々は15枚ほどの塊でした。予算の都合ですべてを揃えることはできませんでしたが看板女優のオリガ・クニッペル・チェーホワ(戯曲家チェーホフの妻)、花形女優のクルィジャノフスカヤやオルロワ、実力派のマッサリチノフなどが含まれています。

・オリガ・クニッペル・チェーホワ [Olga Knipper-Chekhova] 日本語wiki
・ウェラ・オルロワ [Vera Orlova] IMDb/Movie Walker
・ピョートル・シャーロフ [Petr Sharov] IMDb/Movie Walker
・ヴァシーリー・ヴァシレフ [Vasilij Vasilev] IMDb
・ピョートル・バクシェイエフ [Pyotr Baksheyev] IMDb
・マリア・クルィジャノフスカヤ [Maria Kryshanovskaya] IMDb/Movie Walker
・エリザベータ・スクルスカヤ [Elisabeta Skulskaja] IMDb/Movie Walker
・ニコライ・マッサリチノフ [Nikolaj Osipovic Masalitinov] IMDb

ロシア革命の余波が西欧映画に与えた例としては仏アルバトロス映画社や映画プロデューサー・エルモーリエフの活動が知られています。後者が渡仏前に製作していた作品には芸術座俳優(オルロワ、バクシェイエフ、ゲルマノワ)が多く出演していました。コンスタンチノープル経由でパリに亡命したエルモーリエフが仏無声映画史の発展に深くかかわり、一方で芸術座俳優たちがプラハ経由でドイツ表現主義に絡んでいく…別ルートで同時進行していた2つの風景が同じ根を持っていたと確認できる映画史資料でもあります。

[IMDb]
Raskolnikow

[Movie Walker]
罪と罰

マリア・ヤコビニ Maria Jacobini (1892 – 1944) 伊

イタリア [Italy]より

Maria Jacobini Autographed Postcard

藝風。打ち沈んだ面影、何とない寂しみを含むその頬笑み、胸の悩みに悶える女の性格、其を表す事に於て卓越した技巧を有するマリア・ヤコビニ。彼女は過去に於てはサヴオイア社作『ジヤンダーク』『生ける屍』で我々に好評を得たが、近く輸入された杜翁[トルストイ]の『復活』(チベル社作)が封切の暁には、更に卓絶した彼女の藝を味ひ得る事と信ずる。

経歴。マリア・ヤコビニ嬢が斯界に入つての第一歩はトリノ市のサヴオイア會社に於てであつた。永くの間舞臺上の經驗を積んだ嬢は、斯界に於ても忽ち好評を得た。さうして同社の、南歐映畫界にも誇るに足る傑作『ジヤンダーク』及び『全勝』(勝利の徽章)に主演を演ずるに至つた。尚數多の映畫に名優ヂロ・ロンバルヂー氏と共演し好評を得たが、一九一三年暮パスクワリ社に轉じ、翌一九一四年更にチエリオ社に入り、『悲しき集』『死なない爲』『死の恐ろしき翼』『アナンケ』等に主役を演じて世評に昇り、嬢の斯界に於る人気は一躍してエスペリア夫人、リダ・ボレリ嬢を凌がうといふ勢になつた。

「伊太利活動俳優列傳」 『活動画報』1919年6月号


『生ける屍』(1913年) 広告

1914年、パスクワリ社広告

第一次大戦前、イタリア映画の勃興期に女優としての活動を開始し、サヴオイア社、チベリ社、イタラ社など多くの映画会社で花形女優として活躍したのがマリア・ヤコビニでした。当時のディーヴァ女優の多くが女王様然としたオーラを漂わせていた中で、マリア・ヤコビニは一味違った柔らかで親しみやすい雰囲気を備えており、町娘役を演じた『さらば靑春』でもそういった個性は発揮されています。

第一次大戦後は他のイタリア女優同様国外へと拠点を求めていくことになります。20年代に苦戦したベルティーニやマコウスカ等と対照的に、マリア・ヤコビニは監督(デュヴィヴィエ、オツェップ)にも恵まれ無声映画末期にも観るべき作品を幾つか残しています。なかでも1929年の『ママン・コリブリ(Maman Colibri)』は彼女のエモーショナルな表現力を再確認できる優れた作品です。

『ママン・コリブリ(Maman Colibri)』
(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)より

[IMDb]
Maria Jacobini

[Movie Walker]
マリア・ヤコビニ

[出身地]
イタリア(ローマ)

[誕生日]
2月17日

エレナ・マコウスカ Elena/Helena Makowska (1893–1964) ポーランド/ロシア/イタリア

イタリア [Italy]より

Helena Makowska 1920s Autographed Postcard

藝風。マコウスカ嬢の名は他の伊太利俳優よりも、比較的遅く我愛活家に知られた。然し嬢の妖艶にして人を魅するその容姿と、深刻味に富む藝風は、我々の賞讃の的となり、今は伊國に於ても、悲劇女優として一流の地位を占め、性格役に於て殊に獨特の技能を發揮して居る。

経歴。嬢の生地は北風西比利亞の野を通して寒い露國莫斯科である。さうして其地に生育した嬢は天分の美聲を以て歌劇女優としてペトログラードに人々の憧憬の的となつて居たが、六七年前佛國巴里に來て、諸所の劇場に出演好評を得たが、後伊太利に赴き、一九一五年秋アンブロジオ會社の招聘を受け『魔の真珠』『ロマンチシズモ』(國よ若き國よ)『エヴァ・ネミカ』等にツリオ・カルミナチ氏と共演し、又ウムベルト・モザツト氏とダヌンツイオ原作『炬火』『ジオコンダ』及び『聖者』を完成し、後『乗合馬車十三號』にも主役を演じて名聲を擧げたが、一九一七年フエボ・マリ氏の入社と共に同氏監督の下に『苦惱』『ファウノ』に出演し、次いでロドルフイ氏監督の下に名優ルヂエロ・ルゲリ氏及びメルチエデス・ブリノネ嬢と『ハムレツト』を完成したが、同年秋コロナ社に轉じ『カイノ』を撮影し、一時メヅサ會社の映畫にも出演し、遂に昨年テスピ映映畫社に入つて『變説者ジユリアノ』を撮影し、引續き同社の映畫に出演して居る。さうして彼女の人氣は一躍して高くなつて來た。

「伊太利活動俳優列傳」 『活動画報』1919年6月号


ベルティーニ、メニケリ、ボレリ等に次ぐ第二世代ディーヴァ女優として登場した一人で『活動画報』でも日本ではやや遅れて紹介された旨が記されています。

現在ウクライナに位置するクルィヴィーイ・リーフにポーランド人技術者の娘として生まれ、歌の勉強をするためイタリアへと渡り映画デビューのチャンスを摑みました。『乗合馬車十三號』『ファウノ』『カイノ』『さらば靑春』など1910年代中盤~後半に活躍。第一次大戦後にイタリア映画界が斜陽化する中でドイツに拠点を広げていきます。今回入手したサイン入り絵葉書もこの時期の一枚。

1930年代に映画界を離れポーランドに戻ります。ナチスによるポーランド侵攻時には英国人男性と結婚していたため逮捕、強制収容所に移送され4年間を過ごしています。戦後、老け役として幾つかの映画に出演後1964年にイタリアで亡くなっています。

[IMDb]
Helena Makowska

[Movie Walker]
エレナ・マコウスカ

[出身地]
クルィヴィーイ・リーフ(現ウクライナ)

[誕生日]
3月2日

アルマ・ルーベンス Alma Rubens (1897 -1931)

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Alma Rubens Autographed Postcard

Alma Rubens03

Alma Rubens 1926 Autographed Postcard

孃は今を去る二十有餘年以前米國加州桑港に生れた。さうして同地で女子教育を受けた孃は暫く家庭生活をなして居たのであつた。その當時加州は映畫の都として花の樣な女優は四方八方から寄り集ふのであつた。上は日ごろから愛活の心が殊に深かつたが、やがてその映畫上の華やかさに憧憬して、一九一五年の頃斯界にと志し、少しの舞臺上の經驗もなくトライアングル會社へと入つたのであつたが、忽ちその素質を認められ、それから後は只管映畫界の女優として專心努力勉強し、翌年は既に一方の主役となつたのである。さうして始めてドーグラス・フエアバンクス氏と『快漢ブレーズ』『火の森』等に共演し、尚『家の主人』『タウ・ラツクの螢』『心の花』『ジユヂス』『幽靈の花』『答』『戀の破壊者』その他數多のトライアングル特作映畫に主役を演じ、一九一八年まで同社主腦女優として在社し、ト社の解散と共にロバートソン・ゴール社に轉じ、更にホドキンソン映畫社に主演して居たが、昨年秋自社を樹て映畫撮影に從ひ、其映畫はホドキンソン社等の手に發賣されて居る。

「活動新人紹介 アルマ・ルーベン孃」
『活動画報』1919年4月号


ここで一言触れておいた方が良いと思うのですが、薬物を使用していた5年間を通じて入手に苦労したことは一度もありませんでした。買うだけの金が手元にあれば、の話ですが。

ひとたび「お薬仲間」として名が知られてしまうとそうなってしまうんです。どんな街、どんな村に行こうとどの地方にいようと、その話が独り歩きして自分より先に、あるいはほとんど同時に行く先々に知れ渡っている。

薬物癖で仕事に差支えが出たことは今までありませんでした。体が薬を欲し、リー[夫リカルド・コルテス]は構ってくれず、身も心も悲鳴を上げていましたがそれでも『ショーボート』の撮影を無事終わらせることができました。私にとっては最後の映画出演となった一作です。

『マイ・ライフ・ストーリー』アルマ・ルーベンス
ロチェスター・イヴニング・ジャーナル紙 1931年3月4日付

It might be fitting here to mention the fact at no time, throughout the five years I have been using dope, have I ever had any real difficulty in obtaining it – that is, as long as I had the money to pay for it.

Once a person gets the reputation of being « a dope friend », it is that way. No matter what city or village you may go, in whatever section of the land. your reputation either travels ahead of you, or else arrives almost simultaneously.

Up until this time the habit had never interferred with my work. Despite my suffering, physically, because of the craving for dope, and mentally, because of Rie’s apparent indifference, I managed to successfully complete « Show Boat », the last picture in which I starred.

My Life Story, Chapter XXVI / Alma Rubens
Rochester Evening Journal, Mar 4, 1931


1929年1月(医者に切りつけた事件)から1931年までの新聞記事

彼女の名を初めて知ったきっかけは高校生の時に読んだ『ハリウッド・バビロン』でした。薬物禍で自滅していった俳優たちが紹介されている章段で、決して大きく扱われていた訳ではなかったものの妙に印象に残ったのを覚えています。

アルマ・ルーベンスはグリフィス作品の端役で経験を積み、フェアバンクス初期短編で花形女優のチャンスを掴んでいきました。フェアバンクス初期作では数少ない「黒目黒髪」のヒロインでもあります。

1920年代、コスモポリタン映画社でキャリアを積みあげていった時期の写真を見ると多くが視線をカメラに向けておらず、伏し目がちだったり視線がやや泳いでいたりします。夢見がちでダウナーな雰囲気はこの時期のハリウッドには珍しいもの。他の女優との差別化を図るキャラ設定・演出も含まれているのでしょうが、演技や自伝から伝わってくる孤独感は性格の深い部分と間違いなくリンクしているものです。

戦前のハリウッドにはこういった俳優を生かした映画を作る能力はなかったと思いますし、その意味で真の代表作を残すことなく表舞台から姿を消していきました。1950年頃のフィルム・ノワールで見てみたかった、というのが偽らざる本心です。

[IMDb]
Alma Rubens

[Movie Walker]
アルマ・ルーベンス

[出身地]
合衆国(サンフランシスコ)

フュー・オ・ビ (Fy og Bi) デンマーク

北欧諸国 [Nordic Countries]より

Fy og Bi (Carl Schenstrøm & Harald Madsen) Autographed Postcard

1920年代欧州で人気のあったデンマーク出身コメディ・ユニット。ローレル&ハーディー、アボット&コステロと似た凸凹タイプの組みあわせで一時期英語圏にも「Long & Short」の名で紹介されていました。写真左側がのっぽのカール・シェンストローム(Carl Schenstrøm、1881 – 1942)、右がちびのハラルド・マドセン(Harald Madsen、1890 – 1949)になります。

40年代初頭にかけ55本の作品を残していてその多くはラウ・ラウリッツェン監督の手によるものでした。ハリウッドが得意としたような起承転結の明快な構成ではなく、作品毎にシチュエーションを設定し(多くは浮浪者二人組)、その枠で二人がドジっぷり・間抜けっぷりを発揮し別なシチュエーションに移っていく「ユルい」展開を好みます。残念ながら日本では公開された記録がありません。

本国デンマークでも戦後になると忘れ去られていくのですがドイツ限定で根強い人気があり、1960~80年代には無声版を30分~1時間にまとめ独語ナレーションを加えたTVドラマ版「パットとパタション(Pat und Patachon)」が放映されていました。テレビの黄金時代で記憶に残っている人も多く今でもDVDで入手可能、一部でカルト的な人気を誇っています。

独キネマトグラフ誌 1925年11月第979号

ドイツTV版「パットとパタション」オープニングより。別投稿した『凸凹の密輸人退治』(1925年)の映像を使っています。

脇を固める俳優に実力者を揃えていたのがシリーズの強みでした。初期常連メンバーだったのがベテラン俳優クリスティアン・シュレーダー(Christian Schrøder)とスティーナ・ベウ(Stina Berg)。

ヒロイン役ではリリィ・ラニ(Lili Lani)が準レギュラー扱いで出演数が多く、他に渡米前のグレタ・ニッセン(Greta Nissen)、1929年の『ライラ』で名を上げたモナ・マールテンソン(Mona Mårtenson)、ドイツ映画界でも活躍したアグネス・ペテルセン(Agnes Petersen)、マリア・ガーランド(Maria Garland)、マーガレット・ヴィビー(Marguerite Viby)の姿も見られます。

リリィ・ラニ(Lili Lani)
1924年『Polis Paulus’ påskasmäll』

マリア・ガーランド(Maria Garland)
1924年『Professor Petersens Plejebørn』

モナ・マールテンソン(Mona Mårtenson)
1931年『I Kantonnement』

グレタ・ニッセン(Greta Nissen)
1924年『Lille Lise Letpaataa』

アグネス・ペテルセン(Agnes Petersen)
1924年『Raske Riviera Rejsende』

マーガレット・ヴィビー (左、Marguerite Viby)と
ニナ・カルカー (右、Nina Kalckar)
1929年『Højt paa en kvist』

1920年代欧州では国境を越えて成功した喜劇は少なく、仏マックス・ランデと並びフュー・オ・ビは数少ない例外でした。元々欧州には自由な放浪者への憧憬が文化の一つとしてありますし、チャップリン初期短編やルノワールの『素晴しき放浪者』にもそういった要素を見ることができます。フュー・オ・ビの二人組はこの理想、神話を上手く形にし持続可能なロールモデルを作り出した点で評価できると思います。


[IMDb]
Carl Schenstrøm

[Movie Walker]


[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
11月13日


[IMDb]
Harald Madsen

[Movie Walker]


[出身地]
デンマーク(シルケボー)

[誕生日]
11月20日


ヘッダ・ヴェルノン Hedda Vernon (1886 – 1925) 独

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Hedda Vernon 1916 Autographed Postcard

親愛なるお嬢様、残念なことに貴女がサイン用に送ってくださった絵葉書をどこかにやってしまいました。代わりにこちらを送りますのでお受け取りくださいませ。 ヘッダ・ヴェルノン

Mein liebes Fräulein, leider habe ich Ihre Karte, die Sie mir zur Unterschrift sandten, verlegt. Nehmen Sie bitte Diese dafür. Mit herzlichem Gruß. Hedda Vernon

消印は1916年(大正5年)の10月23日。宛先はヘンケ・ステグリック(Henke Steglik)嬢でしょうか。メッセージ面には5行の手書き文章と署名。「どこかにやってしまいました」は方便で、この時点で一番プロモーションに適した絵葉書に「差し替えた」が正しいのだろうなとは思います。

「どうやって映画(界)に入ってきたのか?」

徒歩で、でしょうか。今でも覚えているのですがとても遠かったです。やっとたどり着いたと思ったら監督さんに「遅刻だぞ」と怒られてしまって。指示で何か演技をすればさらに罵られる始末。映画が上映された時にお客さんから大きな拍手が挙がって、監督さん曰く「君には才能がある!」。日記に「来た、見た、勝った(Veni, vidi, vici)」って書いてやりました。

ヘッダ・ヴェルノン・インタビュー
『映画界の女性たち』(1919年)

„Wie ich zum Film kam?“

Per Beine; und ich erinnere mich noch, daß es sehr weit war. Und als ich schließlich da war, schimpfte der Regisseur, weilich zu spät kam; und als ich ihm was vorspielte, schimpfte er noch mehr; und als der Film heraus kam, klatschte das Publi­kum, und der Regisseur sagte: » Hedda, Sie sind ein Talent!« – Und ich schrieb in mein Tagebuch: »Veni, vidi, vici.«

Hedda Vernon Interview
in « Die Frau im Film » (Altheer & Co., Zürich, 1919)

リヒトビルト・ビューネ誌1913年8月第34号広告

1913年にドイツで国産犯罪活劇が流行し始めた時、ハリー・ピール監督、ルートヴィヒ・トラウトマン主演のケリー・ブラウン連作のヒロインに抜擢され、このジャンルで最初にアイドル的人気を博したのがヘッダ・ヴェルノンでした。『天馬』の邦題で知られる « Die Millionenmine » でヒロイン役を務めたこともあって1914年頃の日本の映画愛好家にも名を知られていました。

リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月第12号より『天馬』広告

キネマトグラフ誌1915年7月号広告

1914年に自身の名を冠した映画製作会社を立ち上げて独立。その後はアイコ映画社を中心に、夫でもあるフーベルト・メスト監督作品に多く出演。恋愛物、喜劇、歴史劇など様々なジャンルの作品に出演しています。1910年代中頃からは若手の突き上げを受けて人気面で伸び悩むものの、ドイツ活劇ジャンルの先駆けとして「別枠」の扱いを受けており10年代末頃まで自身の名前を前に出して一線での活躍を続けました。

Hedda Vernon in Die Neue Kino Rundschau (1919-03-30)

1919年、アイコ映画社の 自社俳優紹介広告欄より (ノイエ・キノ・ルンツシャウ誌1919年3月30日)

1920年代になると脇役に回る機会も増えてきます。それでも1921年にはメスト監督の『レディ・ゴディバ』に主演、英テニスンの詩を元にした同作は合衆国でも公開されました。

1922年、『レディ・ゴディバ』米公開時の広告

1925年に亡くなった後は再評価の機会がないまま忘れられていくのですが、2018年にボローニャ復原映画祭の「一世紀前の映画」企画で主演作『Puppchen』(1918年)復原版の上映記録が残っています。

[IMDb]
Hedda Vernon

[Movie Walker]
ヘッダ・ヴェルノン

[出身地]
ドイツ

[サイズ]
13.6 × 8.7cm

月形龍之介 (1902- 1970)

日本・男優 [Japanese actors]より

Tsukigata Ryûnosuke Autographed Postcard

本名門田潔人。明治三十五年宮城縣で生る。元輝子ことマキノ智子と浮名を流した色男、東亜キネマが映畫俳優として振出し、マキノ主腦男優の一人で常に時代劇に主演して大向からヤンヤの喝采を博す。『討たるゝ者』が初演映畫で『怪物』『毒刄』『戦國時代』『轉落』『修羅八荒』『愚戀の巷』最近の主演では『毒蛇』『砂絵呪縛第二編』『雪の夜話』等でキビキビした胸のすくやうな演技を見せてフアンを喜ばしていゐる。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


マキノ以来のケンゲキ俳優月形は今フリー・ランサーとなり、千惠藏映畫、阪妻映畫、下加茂映畫、新興映畫等にドシ〱出演してゐる。トーキー俳優として臺詞がうまく、ケンゲキ俳優として殺陣が鮮やかなので、各社からひつぱりだこになつてゐる。劍道三段の腕前があり、現在のケンゲキ俳優中、眞劍を使ふスターは彼を措いて外にない。その殺陣には獨特の凄味がある。何しろ眞劍を使ふので、捕手達もビクビクものだが、未だ嘗て一度も人を負傷さしたことがないといふからえらいもの。

『映画とレビュー 人氣花形大寫眞帖』
(1936年1月、『冨士』昭和11年新年號附録)

[JMDb]
月形龍之介

[IMDb]
Ryûnosuke Tsukigata

[出身地]
日本(宮城)

[誕生日]
3月18日

西條香代子 (1906 – ?)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Saijô Kayoko Late 1920s Autographed Postcard

本名は中村香代子、明治卅九年正月の元日に神奈川縣鶴見に生れる、女學校卒業後、大正十四年五月一日日活へ入社、「闇の中の顔」へ出演好評を博す。「ダンスとピアノと琴が好きでイバニエズの戯曲物の愛讀を好み、バナゝと洋食と甘いお菓子が好きで、メリーピツクフオード愛好者です」住所京都市下京區西ノ京御輿ヶ岡町十五ノ五。

『日活俳優名鑑 1926+10』
(『大日活』二周年記念附録、1926年10月)


私は此の人の、あく事なき理智に輝いた眸の色に視入る時、恋の霊魂と化したあの静御前の姿が忍ばれてならない。

「佳人佳語」
(美町淑夫『うづまさ』1927年9月号)


明治三十九年一月一日極めてお芽出度い元旦の初日の出と共に神奈川縣の鶴見で孤々の聲を揚げた。中村香代子が本名で、當年二十三才。高等女學校卒業後大正十四年五月に日活に入社する。玉麗花のかんばせ、眞紅の唇、瀟洒たるスタイルは常に幾百萬のフアンをチャームしてゐる。主演『闇の中の顔』『日輪』『死の寶庫』『大陸の彼方』で好評を得。現に同社の花形女優。

『玉麗佳集』(1928年)


昭和元年〜2年にかけて人気を博した女優さんで、1926年8月『キネマ』誌の人気投票中間報告で25位(女優では11位)になっていました。

昭和3年(1928年)に髙島栄一氏とやりとりをしていた葉書が2枚手元にあります。一枚目は年賀状で「旅行中の爲失礼を致しました」の一文あり。もう一通は同年8月の暑中見舞いで「早速お尋ねを頂きまして恐縮し存じ上げました。私恙なく過して居ります」とのこと。

Saijô Kayoko 1928 New Year Greeting Card

Saijo Kayoko 1928 Summer Greeting Card

Saijô Kayoko 1928 Summer Greeting Card

この二通の間に阪妻『坂本龍馬』(1928年5月公開)に出演、同作を最後に映画界から引退。実質3年の短い女優活動でした。引退までの経緯とその後の消息が気になっていたところ1928年1月の新聞にこんな記事を見つけました。

阪妻プロダクシヨンの女優西條香代子こと中村かよ子は今度洋行することになり、先日京都府廰へ旅券下附願ひを出した。映畫俳優の洋行といへば大ていハリウッドと相場が決まつてゐるがこの人のはアメリカではなくフランスを中心にドイツ、イタ[リ]ーへ、しかも三年間滞在しようといふのである。

日布時事日曜版 1928年1月29日付 9面
(フーバー・インスティテューション
邦字新聞デジタル・コレクションより)

自身のキャリアアップのために邦画界を離れたい旨が語られています。実際に渡欧できたかは分かりませんが、映畫界からフェイドアウトしていった背景が理解できる内容で「そういう事情であれば」と納得できました。

[IMDb]
Kayoko Saijô

[JMDB] (二項目に分かれて記載されています)
西条加代子
西条喜代子

[出身地]
日本(神奈川県横浜市)

[生年月日]
1月1日

イタ・リナ Ita Rina/Jta Rina (1907 – 1979) セルビア/スロヴァニア/チェコ

オランダ~東欧~バルト三国 [Netherlands, Eastern Europe & Baltic States]より

Ita Rina c1931 Autographed Postcard
(Estonian Edition)

Ita Rina Autographed Postcard

Ita Rina 1930 Inscribed Postcard

母は自分の美しい娘二人をどの映画スターに譬えたらよいか決めかねていた。華奢な姉は愛らしい花形子役シャーリー・テンプル、童顔な女優のオードリー・ヘップバーンに似ているという話になった。姉よりぽっちゃり系の私は古風なディーヴァ女優、ネオレアリスム映画に出てくる情の濃いイタリア女優になぞらえられた。

「『キリマンジャロの雪』のエヴァ・ガードナーに似てない?」、私が12才かそこらで母は叔母にそんな質問をしていたのだ。

「どちらかといえば『モガンボ』かな」が叔母の回答だった。その理由は本人以外に窺い知れぬものではあったが。

「イタ・リナはどう?」、お遊びに混ざってきた姉が口にしたのはセルビア出身の無声映画女優の名。しばらくの沈黙があった。イタ・リナの容貌を正確に思い出せる者が誰一人いなかった。でも皆その名前だけは知っているのであった。記憶をさかのぼる限り、クロスワードでは必ずと言ってよいほど「著名なセルビア人女優(7文字)」で登場してくる名前だった。

『チェルノブイリ・ストロベリーズ』
(ヴェスナ・ゴールズワージー、2005年)

Mother could never decide which film star to compare her beautiful daughters to. While my slim sister was likened to the sweet child stars like Shirley Temple or gamine actresses like Audrey Hepburn, the plumper me seemed destined for similes with old-time divas and sultry neo-realist Italian beauties. « Isn’t she just like Ava Gardner in The Snows of Kilimanjaro? » Mother asked an aunt of mine when I was barely twelve. « I’d say Mogambo, » suggested the aunt for reasons known only to her. « How about Ita Rina? » my sister threw the name of one of Serbia’s silent-movie stars into the game. They paused for a moment. No one was certain about Ita Rina’s precise looks, but everyone knew the name, which has featured in every cross-word puzzle as « famous Serbian actress (7) » for as long as anyone can remember.

« Chernobyl strawberries : a memoir »
(Vesna Goldsworthy, 2005, Atlantic Books, London)

セルビアの現代作家ヴェスナ・ゴールズワージーの回想録『チェルノブイリ・ストロベリーズ』(2005年)にこんな情景が描かれていました。「12才かそこら」と書かれているので1970年代の話で、イタ・リナという女優が自国でどう捉えられていたかよく伝わってくるエピソードです。

Ita Rina in Erotikon (1929)

Ita Rina in Erotikon (1929)

イタ・リナを欧州レベルの花形女優に押し上げたのは『エロティコン』(1929年)の成功でした。チェコ出身の名監督グスタフ・マハティの出世作で、後年のヘディー・ラマール主演作『春の調べ』(1933年)につながってくるものです。両作に裸体描写が含まれていましたが『春の調べ』には自然主義/印象派風の光の戯れがあり、『エロティコン』にはドイツ表現主義と東欧由来の幻視・奇想が含まれていていずれも単なる初期ポルノで片付けることのできない作品です。

『エロティコン』は監督の個性や実験性が前面に出ていて個々の俳優の印象が残りにくい作品でもあります。「容貌を正確に思い出せる者が誰一人いなかった」の位置付けも作品のそんな性質からきているものです。

Ita Rina in Tonka Sibenice (1930)

イタ・リナは『エロティコン』の成功後、チェコとドイツを往復する形で映画出演を続けています。1931年の結婚と共に女優業から離れますが33年に復帰しトーキーにも出演。1930年『娼婦トンカ』、1935年『人生は続く』などで情感の深さや存在感を見せた女優でもあって『エロティコン』の濡れ場「だけ」で映画史に名前が残ってしまったのは残念な気がします。

サイン入り絵葉書2枚のうち片方は独ロス出版社の絵葉書にメッセージと日付(1930年5月)をしたためたもの。もう一枚はエストニア製絵葉書で1931年製。後者については1930年にエストニアの街ロクサを舞台にした『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)に主演しており、同作公開後に何らかの形でエストニアの映画愛好家が入手した一枚だと考えられます。

Tallinnは『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)のロケ地ロクサから十数キロの場所に位置する街です

[Movie Walker]


[IMDb]
Ita Rina

[出身地]
スロヴェニア(ディヴァーチャ)

[誕生日]
7月7日

シルヴィア・バタイユ Sylvia Bataille (1908 – 1993) 仏

フランス [France]より

Sylvia Bataille 1930s Inscribed Postcard

ジャン・ルノワール監督作『ピクニック』のヒロインとして知られている仏女優さん。美しいブランコの場面でも有名な作品です。

『ピクニック』(1936年製作、46年公開)より

同作は1936年6月に2週間の予定でクランクインするも悪天候に見舞われて撮影が難航、資金調達の問題やスタッフ間の意見対立もあって8月に中断となります。未完成のまま放置されていたフィルムを戦後、プロデューサーのピエール・ブラウンベルジェがひとつの作品にまとめあげ1946年に初めて劇場公開されました。

劇場公開後の1946年9月、パリのラジオ局で本作のラジオドラマ版がオンエアされました。ヒロイン役の声を務めたのはシルヴィアさん本人で、本編に入る前に撮影を振り返ったコメントも残しています。自身の肉声で紹介された『ピクニック』は珍しい上、あまり知られていない音源でもありますので日本語に訳してみました:

ネッド・リヴァル:シルヴィア・バタイユさんが隣におられますので今夜は彼女自身から撮影について語っていただけたらと思います。

シルヴィア・バタイユ:作品のロケはマルロット近郊、ロワン川の川辺で行われました。元々は半月の予定だったのが悪天候でいつものペースで仕事ができず二ヵ月間も留まることに。撮影スタッフにとって本当のピクニックになってしまいました。ルノワール監督が映画の舞台に選んだあの場所は父上に当たられるオーギュスト・ルノワール氏が晩年によく絵を描いていて、監督自身も幼い頃に多くの時間を過ごした所だったんですよ。私たちは二ヵ月もの間1880年代の衣装に身を包まれ世の中から切り離された生活を送っていました。なので元の生活に戻らないといけなくなった時は皆さんどうしましょうって感じでしたね。

シルヴィア・バタイユ
『ピクニック(ジャン・ルノワール)』
1946年9月21日放映ラジオドラマ版紹介より

Ned Rival: Sylvia Bataille est près de moi et elle va vous dire, elle-même, quelques mots sur la réalisation cette nuit.

Sylvia Bataille : Les extérieurs du film étaient tournés en environ de Marlotte, sur les bords du Loing. Ce fut pour tout équipe une réelle partie de campagne, car partis pour 15 jours, nous somme restés deux mois, le mauvais temps ne nous ayant pas permi de travailler au rythme normal. Jean Renoir avait choisi comme cadre pour son film cet endroit, où il a passé une grande partie de sa jeunesse, car son père, Auguste Renoir, il peignait pendant les dernières années de sa vie. En costume d’époque 1880s pendant deux mois, nous vivion à l’écart du monde moderne. Nous avons été légèrement désemparés, quand il a fallu nous y ré-adapter.

Sylvia Bataille
L’Ecran sans image : « Une partie de campagne » de Jean Renoir
21 Septembe 1946
(Re-diffusion France Culture, 26 Mai 2019)

写真家ジャック・アンドレ・ボワファールによる
1930年頃のポートレート写真

『天使たちの地獄』(1941年、クリスチャン=ジャック監督作品)

[IMDb]
Sylvia Bataille

[Movie Walker]
シルヴィア・バタイユ

[出身地]
フランス(パリ)

[生年月日]
11月1日

マリー・ヨンソン Mary Johnson (1890 – 1975) スウェーデン

北欧諸国 [Nordic Countries]より

Mary Johnson 1920s Autograhed Postcard

1910年代後半、スウェーデンのハッセルブラッド映画社でイェオイ・アフ・クレルケル監督によるメロドラマに多く出演し人気を博していたのがマリー・ヨンソンでした。

Mary Johnson in Förstadsprästen (1917)

1917年『Förstadsprästen』より

1918年『灯台守の娘(Fyrvaktarens dotter)』より

ハッセルブラッド社作品は国外輸出された形跡がなく、その人気はスウェーデン国内に留まっていました。1919年にスウェディッシュ・バイオグラフ社とスカンディア社の大手二社が合併、本格的に海外市場の展開を始めた時スティルレル監督が『吹雪の夜』のヒロイン役に彼女を抜擢します

Mary Johnson in Herr Arnes pengar (1919)

1919年『吹雪の夜』より

1920年の米フォトプレイ誌より

同作は公開当初から欧米で話題を呼びました。ヨン・W・ブリューニウス監督による歴史ドラマ『福騎士』(En lyckoriddare、1921年)でユスタ・エークマンと共演、『グンナール・ヘデ物語』(1923年)ではスティルレルと再度タッグを組み「スウェーデンのメアリー・ピックフォード」と称されるまでになりました。

Filmnyheter誌 1923年第1号
『グンナール・ヘデ物語』公開時の特集記事より

20年代中盤〜後半にスティルレルがガルボらと共に渡米、北欧映画の弱体化がはっきりしていく中でマリー・ヨンソンは旧大陸(ドイツ、フランス)に進出し舞台/映画での女優活動を続けていきます。

1932年にラング作品で知られるルドルフ・クライン・ロッゲと再婚、一児を設け一旦は落ち着いた生活を取り戻すも2年後にその子供が亡くなり精神的なバランスを崩していきます。ナチス台頭と共に夫婦はドイツ映画界での居場所を失いオーストリアに移住。第二次大戦後ロッゲが亡くなると故国スウェーデンに戻り、1970年代にひっそりと亡くなっています。

10〜20年代の華やかな活躍とそれ以後の凋落の対比があまりにも極端なのですが、清純な娘役のイメージが固定してしまい成熟した女優に脱皮できなかったのが大きな要因だったとは思います(『グンナール・ヘデ物語』の演技にもその予兆を見て取れます)。それでも『吹雪の夜』はエイゼンシュテインにまで影響を与えた無声映画屈指の作品の一つですし、スウェーデン映画勃興期に残した功績も無視できないものです。

[Movie Walker]
マリー・ヨンソン

[IMDb]
Mary Johnson

[誕生日]
5月11日

[出身]
スウェーデン

[データ]
Ross Verlag, 8.7 × 13.9cm

1917 – 『シーザーの御代』 セダ・バラ&サーストン・ホール直筆署名

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Theda Bara mid-late 1910s Postcard
(w/facsimile signature)

Theda Bara (as Cleopatra) 1917 Autohgraph

Thurston Hall (as Antony) 1917 Autohgraph

一千九百八年、アントアンヌ座で初舞臺を踏んだ。四年を経て米國へ歸ると直にフォックス會社と契約して映畫界に身を投じた。第一回の作品は、フランク・ボーエル氏の監督の下に井口誠氏などと共演した「馬鹿者」であつた。

嬢がヴァンパイア(妖婦役)女優として最も巧妙な技能を有して居る事を認められるに至つたのは、名歌劇「カルメン」を演じて以来の事である。ヴァンパイア女優多しと雖も嬢の右に出づる者は絶無だと云はれて居る。しかし、一千九百十六年に制作した「ロミオとヂュリエット」では、ヂュリエットを演じて相當の効果を収めたと傳へられて居る。

主な作品としては「クレオパトラ」「悪魔の娘」「オードリー夫人の秘密」「手管女」「巴里の花」などが列擧される。其他「サロメ」「カミル」「永遠のサフォ」「牝狐」「罪」「ヂュ・バリー夫人」「莫連女」など總て妖婦役ばかりである。最近に制作されたものには「光」「蛇」などがあるが、「蛇」は平尾商會の手に依つて先頃本邦に輸入されたが上場禁止を見越して米國へ送り返された。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、玄文社、1919年)

セダ・バラ嬢の妖婦振りが如何に深刻寫實的であるかは、彼女がサーペント(日本にも輸入されたが封切するに至らずして移出されたもの)が、彼女の生れ故郷の米國シンシナツチ市で公開禁止された、その理由は善良なる平和な家庭を破壊する虞があるからと云ふにあつた事でも證據立てられるほどである。

「セダ・バラの面影」『活動寫眞雑誌』1920年6月号(八展社)

そこでボーウェルは、まずグッドマンという善良なアメリカ市民の名前をセダ・バラという異国的な名に変えさせた。セダはシオドシアの略であり、バラは彼女の親戚の一人のバランジャーという姓からとった。だがそれだけではまだ足りなかった。そこでフォックスの宣伝員たちは額をあつめてすばらしい伝説をつくりあげることにした。その伝説によると、バラ嬢はフランス人の画家とアラビア女との間にサハラ砂漠の砂の上で生まれた。Baraという姓は実はArabをひっくりかえしたもので、Thedaという名はdeath(死)の綴りを組みあわしたのである。このアラビアの死のごとき娘は、もと東方の水晶占いに通じ深淵な呪術を心得た妖女である。

「セダ・バラの伝説」『映画スター小史』(岩崎昶著 自由国民社 1951年)

ヴァンプ女優の代表格として名を馳せたセダ・バラは現在でも熱心な愛好家を有しています。絵葉書やトレーディングカードすら検索にほとんど引っかかってこないのは驚くばかり。今回日本の活動写真コレクターがまとめて保管していた絵葉書を一括で入手できたので数年前に手に入れた直筆物の投稿にまとめていきます。

サインは2016年に入手。『シーザーの御代』(大正6年)の公開時、セダ・バラ(クレオパトラ役)とサーストン・ホール(アントニウス役)がシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』の書籍ページの切れ端にサインを残したもの。頭文字「T」を書くとき万年筆の先端が紙に引っかかった跡があります。

手元にある1セット以外にも同種のサインが現存、2015年頃にeBayで売りに出されていました。一点だけなら個人愛好家が気を利かせて…の可能性が高いですが、複数点ある、しかも共演者が同席しているのは販促イベントで発生したと見るのが妥当かなと思います。

「セダ・バラの伝説」の紹介は手厳しいもので「美しくもなかったし、芝居もできなかった」の評価を下していました。実際、1910年代のセダ・バラ現象はフォックス社プロモーション戦略の産物に過ぎなかったと見ることもできるでしょう。それでもマーケティングの内情がこれだけオープンにされた今なお人々を魅了しているのは興味深いです。欲望や名声、若さや情熱すらたちまち消費されていく世界に何かを持ちこんできた、何かを残していった感はあります。

[Movie Walker]
シーザーの御代

[IMDb]
Cleopatra
Theda Bara
Thurston Hall

1918 – 『侠艶録』 (日活向島、田中栄三監督) 絵葉書2点 東猛夫・藤野秀夫主演

「まア、何うしたんだらう。こんなに詰まつちやつて。」と、懐紙を出して͡紙撚を撚り初めた。覺束無い手許を留守にして、ちらちらと男の顔を見てゐたが、ふと思ひついた様子で、
「アゝ、貴方も一つ撚つて下さいな。」
「僕は紙撚なんかうまく撚れないよ。」
「そんな事を云はないで。どうぞ只一本でいゝんだから。」
「下手ですよ。」
「下手でもいゝからさ。貴方が撚つたんでなくちや不可ないからさ。」
「面倒臭いね、種々の事をいふ人だなア。」と澁々ながらも、撚つて出した紙撚を力枝は受け取つて自分で撚つたのと合せて二つに折り、向かいの端を男の鼻先に突き付けて
「済みませんがね、どつちでも貴方の好きな方を結んで引いて見て下さい。」
「斯うですか」と男が結んで引いたのを見て、
「オヤ、結ばつた!」と首をすくめて鼠鳴きしたのであつた。
「夫は何です?」と男は不思議さう。
「縁結び!」
「下らん事を云つてゐる。」と男は苦笑して立上つた。

『侠艶録』(佐藤紅緑著、新潮社、1912年)

Azuma Takeo as Rikie (Left) and Fujino Hideo as Fujio (Right)

Azuma Takeo as Rikie Holding Her Baby

1912年に出版された佐藤紅綠の同名小説を映像化した日活の新派映画。

一枚目の絵葉書は木橋で思いつめた表情を浮かべていた文学青年・富士雄(藤野秀夫)の自殺を女役者・力枝(東猛夫)が思いとどまらせた場面に続く「縁結びの紙撚(こより)」のエピソードに一致。

二枚目は小説版に対応する描写はないものの、単なる立姿ではなく赤子を抱えているように見えます。力枝が役者稼業との両立に苦労しつつ、富士雄との間に生まれた愛児を懸命に育てている場面に相当すると思われます。

富士雄は爵位を持つ一家の跡取り、親の決めた許婚もいる設定でした。力枝と所帯を持ち、子供を設けるも父の死をきっかけに実家に戻らざるを得なくなります。力枝は母親の画策から子供を勝手に里子に出されてしまい孤独の内に次第に正気を失っていく。物語は力枝の現状を知った富士雄がそのもとに駆けつけることで収斂していきます。

1910年代中盤~20年頃まで隆盛を誇った日活向島の新派作品は現存数が少なく映画史でもあまり大きく取りあげてこられなかった流れでした。それでも2011年末に早稲田大学において「日活向島と新派映画の時代展」が開催され、2016年に東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイヴ)がスチル写真群をまとめて紹介するなど再発見・再評価の動きも見てとれます。

日本映畫は山本嘉一、東猛夫、衣笠貞之助、藤野秀夫一派の日活向島の新派[…]が創始以來相當の年月日を經ながら只撮影技巧等に幾分かの進歩の跡を示したのみで、映画劇の要素であるべき劇筋の思想、俳優の演技、監督術といつた方面には全然無關心で只無暗矢鱈に制作をつゞけてゐたといふに過ぎない。

「日本映畫界の成長」 井關種雄、枕野流三(『映画大觀』、1924年所収)

1920年代以降の邦画近代化の途上、先行の新派映画は否定される運命を辿りました。この時期の言説(「映畫劇としては全然価値のない舞臺劇をそのまゝカメラに収めたに過ぎないといつていい低級な舊劇や新派」)は現在の映画史観にも影を落としてます。1920年代のトレンドがそのまま日本映画史の勝者=正統になったため、新派映画や連鎖劇などの敗者に復権の機会を与える言説の環境を構築しにくい、という話なのだと思います。1910年代中頃の欧米映画(アメリカ、フランス、デンマーク、ロシア、イタリア)も十分舞台がかっていますがそれはそれで別枠の評価を出来る訳ですしそれならば新派映画も同じはず。

ちなみに学究肌で誠実ではあるが心ならずも妻と子供を捨ててしまう男、夫と子供を失い理性を失っていく女の関係性は『ファウスト』と同一です。そもそも『ファウスト』自体、魔=メフィストが差して女と子供を見捨てた男とその魂の救済を描いた「下種」な物語でした。『侠艶録』では感情の機微や描かれる風景に和の感覚があって、しかも明治期の和洋折衷感覚を残した独特の混ざり方をしています。

[JMDb]
侠艶録

[IMDb]
Kyôenrokû

ケーテ・ハーク Käthe Haack (1897–1986) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Käthe « Käte » Haack c1920 Autographed Postcard

1910年代に女優デビュー、戦前〜戦後と途切れることなく映画出演を積み重ね、亡くなる直前の1985年まで長い役者人生を送ったのがケーテ・ハークでした。

女優に憧れ10代でレッシング劇場と契約を結んだ直後にマックス・マック監督の目に留まり、その勧めに従って映画界に入ったそうです。演技に芝居がかった大袈裟さがなく、独特の柔らかさと温かみを帯びています。そのため自然体の演技を好む監督さん(パウル・レニ、フィル・ユッツィ、ゲルハルト・ランプレヒト、パブスト、オフュルス)との相性が良く、とりわけ20年代のランプレヒト作品の常連になっていました。同監督が1931年に発表し、日本でも人気の高い『少年探偵団』(日本での公開後に原作邦訳が三冊同時出版されたそうです)で探偵エミール君の母親を演じていたのもそういった流れに連なるものです。

その後母親役から老け役へ、活動拠点も映画からテレビに移っていきます。女優歴は71年に及び、ダニエル・ダリュー(80年)やリリアン・ギッシュ(76年)に次ぐ息の長いものとなりました。特定の映画会社の花形女優ではなかったため雑誌の表紙を飾ることは稀でしたし、知名度で言っても先の二人にはかないませんが、彼女の出演作にはドイツ戦前映画の裏名作が多く含まれていて質的に見劣りしないものです。

今回入手した絵葉書は名前が「Käthe」ではなく初期の「Käte」表記となっている一枚(発音は変わらず)。サインもKäteと書いていますので1910年代末から20年頃でしょうか。

[IMDb]
Käthe Haack

[Movie Walker]
ケーテ・ハーク

[出身地]
ドイツ(ベルリン)

[誕生日]
8月11日

[データ]
[Photochemie, Berlin. K.1863. Bildnis von A. Binder, Berlin] 9.0 × 13.6cm

イローナ・カロレヴナ Ilona Karolewna (生没年不詳) ウクライナ

Ilona/Jlona Karolewna Late 1920s Autographed Postcard

イローナ・カロレヴナ嬢はキエフの生れである。踊り子となつてサンクトペテルブルクで初舞臺を踏んだ。歐州を興行で回り伯林に留まる事を選んだ。映畫界に足を踏み入れ、独逸映畫協会(DEFU)で幾つか端役を経験した。その後、巴里のシネロマン社と契約を結び、同社で数年の活躍を見せた。現在は映画界から完全に足を洗つている。

(「A-Z:ルクセンブルグ週刊画報」1935年11月24日付)

Ilonka [sic] Karolewna wurde in Kiev geboren. Sie wurde Tänzerin und trat zuerst in St. Petersburg auf. Sie machte ein Tournee durch Europa und blieb in Berlin. Als sie zum Film trat sie in einigen kleinen Rollen bei der Defu [Deutsche Film Union] auf. Sie wurde ferner von der Direktionder Cinéromans in Paris engagiert und spielt einige Jahre für diese Gesellschaft. Jetzt sie sich ganz zurück gezogen. (A-Z : Luxemburger illustrierte Wochenschrift, 24/11/1935)

オーストリア演劇博物館所蔵のポートレート
https://www.theatermuseum.at/de/object/0efa0d1169/

1920年代半ばに踊り子として訪れた欧州で話題を集め、ファッション・モデルや商品広告など写真の被写体として活躍。ほぼ同時期に映画出演を始めていて、マックス・ランデがヴィルマ・バンキーと共演した『脱線曲馬王』の端役で女優デビュー。ドイツのハリー・ピールの目に留まり、同氏が監督主演した2作のサーカス物『黒い道化師』(1926年)『ビーリー曲芸団』(1927年)の主要キャストに抜擢。その後フランス拠点で女優活動を続け30年代初頭に製作された旅芸人映画を最後に業界を離れています。

『ビーリー曲芸団』(Was ist los im Zirkus Beely?、1927年)より

出演作のうち『ビーリー曲芸団』は以前から現存が知られていてデジタル修復もされていました。もう一方の『黒い道化師』は遺失作品とされていますが、チェコのフィルム収集家が35ミリポジを所有しているようで一部がユーチューブで公開されていました。

[IMDb]
Ilona Karolewna

[Movie Walker]


[出生地]
ウクライナ(キエフ)

[データ]
Phot. A[nton]. Sahm. München. 8.8 × 13.7 cm

藤田 陽子 (1919 – 1938?)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Fujita Yoko & Takao Mitsuko 1920s Autographed Postcard


大正八年七月麻布區霞町元明治座の事務員藤田昌宏の次女に生る、大正十三年二月、姉藤田房子と共に松竹蒲田スタヂオに入る。古參役者として可愛がられ人氣がある。初舞臺は柳咲子の『猫』で鳴門のお鶴に扮して転載を認められ、引續き諸口、川田主演の『夜の一幕』にて無邪氣な姿でフアンの注目を惹く。『懐しの蒲田』『母よ戀し』『曲馬團の姉妹』にて愈々好評。好きなものは踊と三味線と甘栗。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


1920年代に人気のあった子役二人、藤田陽子&高尾光子さんの連名サイン。両者の共演は『少女の悩み』(蔦見丈夫監督、1924年)『母よ恋し』(五所平之助監督、1926年)、『九官鳥』(野村芳亭監督、1927年)の3作があります。

[JMDb]
藤田陽子

[IMDb]
Yôko Fujita

[出身地]
日本(東京・麻布)

[サイズ]
13.6 × 8.9 cm

アニー・オンドラ Anny Ondra/Ondráková (1902 – 1987) チェコ

オランダ~東欧~バルト三国 [Netherlands, Eastern Europe & Baltic States] より

Anny Ondra 1929 Inscribed Postcard

パリで共に過ごした時間の想い出に
アニー・オンドラ
1929年4月25日

Zur Erinnerung an die zusammen verbrachten Stunden in Paris.
Anny Ondra
25 IV 29


ヒッチコックの『恐喝(ゆすり)』は無声版の撮影が1929年1月〜3月に行われ、その後サウンド版用の追加撮影が同年6月に始まっています。合間にヒロイン役のアニー・オンドラがパリを訪れていて、知人宛に自筆メッセージを残したのがこちらの絵葉書。名前の下にもカッコ書きで単語が書かれているのですがそちらは解読できませんでした。

アニー・オンドラはヒッチコックの後期サイレント作品(『恐喝(ゆすり)』、『マンクスマン』)主演女優として記憶されています。元々プラハで学生時代を過ごし、アニー・オンドラコヴァ名義でチェコ演劇界にデビュー、最初の映画出演もチェコ作品でした。1920年代前半の出演作は幾つか現存しており初々しい姿を確認することが出来ます。

1925年の歴史物ファンタジー『Lucerna』より

1920年代末にヒッチコック作品で国際的な花形女優となり、ドイツの国民的スターでもあったヘビー級ボクサー、マックス・シュメリングと結婚、拠点をドイツに移します。チェコ時代から付き合いのあった同郷の俳優・監督カレル・ラマーチ(カール・ラマック)と共に「ラマーチ=オンドラ映画社」を設立、舞台女優時代に培った歌や踊りのセンスを生かしトーキー時代になっても高い人気を維持し続けました。

この時期の作品で重要なのが1932年のオペレッタ喜劇『理想の先生』。ラマーチ=オンドラ映画社製作ではないのですが、ラマーチと共に主演、初期トーキー秀作としてチェコ映画史に再度名を残すことになりました。

『理想の先生(Kantor Ideál)』より

チェコ映画は東欧映画界でも際立った個性で知られています。1950~70年代に秀作や傑作が集中しているのですが、そこに辿りつくまで長い紆余曲折がありました。ラマーチやオンドラを含めた才能ある戦前チェコの映画人が基礎を築いていった点を強調しておきたいと思います。


[IMDb]
Anny Ondra

[Movie Walker]
アニー・オンドラ

[出身地]
タルヌフ(現ポーランド)

[誕生日]
5月15日

ヴェーラ・ハロードナヤ (Vera Kholodnaya, 1893 – 1919) 露/ウクライナ

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [07]

Vera Kholodnaya c1916 Autographed Postcard


帝政ロシア末期を代表する花形女優ヴェーラ・ハロードナヤ(Вера Васильевна Холодная)の直筆サイン入り絵葉書。1916~17年頃と思われます。

同時期、マクシモフやガイロフ、ナタリー・リッセンコ、オルガ・オゾフスカヤ、とりわけヴェーラ・ハロードナヤ等の役者たちが観衆によって偶像のようにもてはやされていた。ハロードナヤは貧しい士官の妻であったが夫が動員されると生活費を稼ぐために映画版『アンナ・カレーナ』の端役としてデビュー。同作は1914年にウラジミール・ガルディンが監督した一作である。1915~16年にかけ、エフゲーニー・バウエル監督作品を通じて大女優となり、一作毎に2万5千ルーブル(1万2千5百ドル)を稼ぐまでになった。大衆の熱狂はそれほどのものだった。(『世界映画史』ジョルジュ・サドゥール)

D’autres acteurs étaient à ce moment idolâtrés par le public : V. Maximov, Gaidarov, Nathalie Lissenko, Olga Ozovskaia et surtout Véra Kholodnaia. Celle-ci, femme d’un officier pauvre mobolisé, débuta, par nécessité de gagner sa vie, dans un petit rôle de la version d’Anna Karénine, dirigée, en 1914, par Gardine. E. Bauer en fit vers 1915-1916 une grande actrice qui finit par toucher 25 000 roubles (12 500 dollars) par film, tant le public l’idolâtrait.

ロシア語版ウィキペディアでの「ヴェーラ・ハロードナヤ」の項目は本文だけで2万5千字を超える内容となっています。英語版の4倍。様々な視点から女優を紹介している中にその評価をまとめている章段がありました。女優としての評価が「極端に二極化されている」とされているものの肯定的な例は僅かしかなく「同一パターンの演技を繰り返している」「情感(や創造力)に欠けている」の表現が目立ちます。

この章段で最初に取り上げられていたのがサドゥールでした。『世界映画史』を確認したところハロードナヤについてのまとまった記述を一ヶ所見つけました。

演技力や表現力、あるいは作品を通じて残した功績への言及はありません。その意味でサドゥールは女優としての評価を(少なくとも直接は)下していない、が正解になるだろうと思います。とはいえ「アイドル視する、偶像のように崇拝する(idolâtre)」の単語を繰り返し用いていることや直前でモジューヒンの創造性や功績を詳述している点を考えあわせるなら、そもそも演技力を期待する前提ではなかったと解釈することもできます。

個人的にもハロードナヤの演技にハッと驚かされたり、深い情感に心を動かされた記憶はありませんし、ロシア~ソ連の地軸、1910年代後半の時間軸どちらで見ても彼女より優っていた女優は多くいたと思います。といって見た目の美しさで刹那の人気を博しただけというのとは違うのかな、と。

『命には命を』(Жизнь за жизнь、1916年)より
背後に新郎役のイワン・ペレスチアーニ

バウエルの『命には命を』を見ていると、ある監督の価値観や世界観を表現するための「素材」、あるいは「媒介」として勝れたものを備えていたのは否定できないと思います。また女優単体の生き様、在り方が当時のロシアの社会を-様々な闇の要素を含めて-反映し、人々の欲望や不安に深く接触したからこそあれほどの共感を呼んだと考えることもできます。そういった意味ではオードリー・ヘップバーンやモンローに近い位置付けの女優さんだったことになります。


[IMDb]
Vera Kholodnaya

[Movie Walker]


[出身地]
ウクライナ(ポルタヴァ)

[誕生日]
8月5日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

イワン・ペレスチアーニとグルジア国営活動会社(グルジンスカヤ・ゴスキンプロム)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [08]

Ivan (Ivane) Perestiani c1916 Russian Postcard


ペレスチアニは帝政時代からの有名な活動俳優であつて、彼は革命後の同胞戰時代から引續きコーカサスのチブリスにあつて、一人で藝術的制作に從事していた。彼が最初の映畫は『アルセン・ジョルヂアシウィリ』といつて、これが三年前に初めて公開された時は全ロシアのキネマ界を驚歎せしめたものである。[…] ペレスチアニの傑作は何んと言つても一昨年暮れに出來上つた『赤色小悪魔』(十巻物)である。これは啻に彼一個の傑作であるばかりでなく、また過去七年間の唯一の傑作たるばかりでなく、ロシア全キネマ界の最も傑出した作品の一つと見られている。(『新ロシヤ・パンフレツト;第5編 プロレタリア劇と映画及音楽』 昇曙夢著、新潮社、1925年、93~94頁)

『アルセン・ジョルヂアシウィリ』(« არსენა ჯორჯიაშვილი » 1921年)より


『赤い小悪魔』の成功はペレスティアニ監督による處が大きい。原作・脚本はパヴェル・ブリャーヒンの手によるもので、蛇足ながら出版当時ドイツの帝国主義者たちの激しい怒りをかった事で知られている。連続仕立てとなったこの大層な作品は、所々間延びしたりぎこちなさが目立ったりもするのであるが、心が揺れるようなエピソードが多く、藝術的なセンスで描かれている。幾つかの場面は美しさに達していて、強烈な表現は政治主張の是非はともかくとしても作品に高い芸術的価値を与えている。にもかかわらずこの作品はスタジオ、さらに照明器具が無い状態で製作されたのである。作品の90%は戸外での撮影で、照明が必要な場面ではブリキ板でグルジアの強い太陽光線を反射させ代用したそうである!(『新ロシア藝術:映画編』(ルネ・マルシャン&ピエール・ワインスタイン著、リーデ出版社、1927年)

『スラムの要塞』(« სურამის ციხე » 1922年)より


ブリャーヒンによる素晴らしい脚本は、ウクライナのネストル・マフノに抗する赤軍パルチザンの戦いを自由に、想像を膨らませながら脚色したものである。マフノは1918年にゲリラを組織し自国を占領しているドイツ人と戦った。その後内戦時にマフノ一味は大きな役割を演じた。赤軍との抗争、略奪、強奪、ユダヤ人虐殺を繰り返す。1921年には完全に討伐されルーマニアに逃げ込んだ。

こういった歴史背景を元にブリャーヒンは『拳骨』風の連続活劇を構成してみせた。やりとりは生々しく、活気と陽気さ、時に革命の熱気に満ち溢れている。この古い映画作品を今見る。途中でだれることもない。ありえなさそうな冒険が雪崩のように続いていく中で、赤軍主導で行われた最初の戦いの息吹を感じることが一度ならずある。(『世界映画史:第5巻』(ジョルジュ・サドゥール著、ドゥノエル社、1975年)

『赤い小悪魔』(« წითელი ეშმაკუნები » 1923年)より


『新ロシア藝術:映画編』の紹介で触れたようにソ連では1923〜24年にかけ中央政府による映画産業の縛りがきつくなっていきます。この直前、中央の統制が緩やかだった時期に才能の輝きを見せたのがイワン・ペレスチアーニでした。

若くして役者を志し、旅芸人の一座に加わって演技のみならず脚本書きや演出の修業も重ねていきます。1916年にモスクワの劇場監督に就任、同年に映画俳優デビュー。エフゲーニー・バウエル作品(『命には命を』『瀕死の白鳥』『革命家』)で重用され次第に自身の監督作も手掛けるようになっていきました。

革命勃発後の1920年にグルジア(現ジョージア)に拠点を移し、新設されたグルジア国営活動会社の中心監督として活躍。1921年から23年に発表した3作品(『アルセン・ジョルヂアシウィリ』『スラムの要塞』『赤い小悪魔』)はいずれも興味深い作品でした。

グルジアで実際に起こった暗殺劇を下敷きにした硬派な政治物、古城を舞台とした民族色豊かなメロドラマ、喜劇と活劇色濃い能天気な革命冒険譚…扱っている題材は様々ですが、グダグダした展開(「所々間延びしたりぎこちなさが目立ったりもする」)とひらめきに満ちた美しい表現(「幾つかの場面は美しさに達していて」)が混在、ムラっ気のある天才肌を感じさせる辺りが共通しています。

また連続活劇や西部劇などハリウッド映画からの影響が強いのも特徴です。帝政ロシア~ソ連への過渡期に生れ、なおかつどちらの価値観からも距離を置き、独特の自由さを備えている。昇曙夢氏やサドゥールの高評価も納得、再発見されるべき監督の一人だと思われます。


[IMDb]
Ivane Perestiani

[Movie Walker]


[出身地]
ロシア(ロストフ州)

[誕生日]
4月13日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

「チュヴァシ映画社」とタニ・ユン(Тани Юн、1903-1977)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [04]

Tani Yun 1929 Russian Postcard


チュヴァシ自治共和国の映画製作機関である「チュヴァシ・キノ」は共和国での国ぐるみの映画産業が見事に開花した特筆すべき例である。革命前夜の過去を描き出した『女』(Сарпиге、1927年)、チュヴァシの町での革命を描写した『ヴォルガの風』(Ял、1928年)はいずれもチュヴァシ共和国地元出身の芸術家たちによって生み出されたものである。チュヴァシ映画女優として最も名高いタニ・ユンは国外でも同様に絶大な人気を誇っている。革命十周年を祝うため、「チュヴァシ・キノ」は『チュヴァシア』と題された映画を製作。ヴラディミール・コロレヴィッチによるプロデュース作で、チュヴァシ共和国の経済、文化の成し遂げた成果をまとめ上げている。(「各共和国における映画産業」 、『ソヴィエト連邦レビュー』1929年6月号収録)


Chuvash-Kino, the film organisation of the Chuvash Autonomous Republic is extremely characteristic of the successful development of the national film industries. “Sar-Pigi” showing the pre-revolutionary past, and “Yal,” describing the revolution in the Chuvash village, were produced entirely by the native artistic forces of the Chuvash republic. Tani Yun, the most prominent Chuvash film actress, is extremely popular outside Chuvash as well. The Tenth Anniversary of the Revolution was celebrated by the ChuvashKino by a film called “Chuvashia,” produced by Korolevitch, summarizing the economic and cultural achievements of the Chuvash Republic. (« The Film Industry in the National Republics », in Soviet Union Review, 1929 June Issue, 105p.)


かつてのソ連邦で五本指に入る人口を有していた少数民族がチュヴァシ族です。1925年に自治共和国のステイタスを獲得、同時に「チュヴァシ映画社(チュヴァシ・キノ/Чувашкино)」が活動を開始します。同社の花形女優として活躍したのがタニ・ユンでした。

1903年に農家の娘として生れ、モスクワの体育学校に進学。1922年インストラクターとしてチュヴァシュの首都チェボクサリに赴いた際に見た舞台劇に感銘し女優転身を決めたそうです。劇団で修業中に俳優・劇作家のマクシモフ・コシュキンスキーと知りあい結婚。

この時期、チェボクサリにはまだ映画館がなく、劇場で無料の映画上映会が開催されていたそうです。そこで見た映画に感動し、タニ・ユンは夫に映画製作を持ちかけます。資金もスタジオもない状態からの制作は至難を極めたもののこの企画がチュヴァシュ初の長編劇映画『ヴォルガの乱』(1926年)となり、チュヴァシ映画社の公式設立(1927年)の原点となっていきました。

『ヴォルガの風』(1928年)の一場面と思われる映像より

この後『女』(1927年)から『メメント』(1932年)までチュヴァシ映画社で製作された長編映画の全てでタニ・ユンはヒロインを務めています。芯の強さ、素朴さと柔らかさを兼ね備えたプレ・ヌーヴェルヴァーグ的な演技スタイルは国内の映画雑誌でも高く評価されていました。

1930年、中央政府はチュヴァシ映画社を含めた複数の映画公社を統合しヴォストーク映画社を設立。共和国の個性を重視した制作活動ができなくなり、精彩を欠いた同社は数年もせず自然消滅。タニ・ユンは夫と共に劇場での舞台活動に戻っています。

1937年、夫マクシモフ・コシュキンスキーが「ブルジョワ的なナショナリズム」を理由とし粛清対象となります。タニ・ユンもまたスパイの嫌疑をかけられ職を、次いで家を追われ、カザフスタンの強制収容所へ送られました。この際彼女が出演した映画のフィルムは全て破壊されたとされています。

1940年にこの案件が再度審理され最終的に無実の結論になりました。しかし演劇界や映画界への復帰の道は閉ざされていました。戦後、正式に夫婦は復権。一人娘が1960年代に事故死した後、二人の孫を育て、1972年に自伝を執筆。1977年に逝去。

2000年代後半頃からチュヴァシ国内、さらにロシア全体でタニ・ユン再評価の流れが目立つようになってきます。2013年には自伝が復刻。2017年には地元の中学校でチュヴァシ映画社設立90周年を祝う式が開かれ、翌2018年は生誕115周年記念イベントも開催されています。


[IMDb]


IMDbには彼女のエントリーがありません(英語版ウィキペディアも同様)。出演作一覧は以下となっています。

1926:ヴォルガの乱 «Атăл пăлхавçисем» (Волжские бунтари)
1927:女 «Сарпике» (Сарбиге)
1928:黒い柱 «Хура юпа» (Чёрный столб)
1928:ヴォルガの風 «Ял» (Вихрь на Волге)
1930:洗ふ女 «Апай­ка» (Прачка)
1931:聖なる森 «Киремет кати» (Священная роща)
1932:メメント «Асу­т» (Помни)

[リンク]
チュヴァシ共和国ヤードリンスキー地区公式HPでのタニ・ユン紹介ページ(ロシア語)
2017年、チュヴァシ映画社90周年記念行事を紹介する記事(ロシア語)
2018年、生誕115周年を祝いチュヴァシで開催されたイベントを紹介する記事(ロシア語)
1928年公開の『黒い柱 (Хура юпа)』を紹介しているLivejournalのブログ記事(ロシア語)