ビリー・バーク Billie Burke (1884 – 1970) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

ビリー・バーク 1909年頃直筆サン入り絵葉書
Billie Burke c1909 Autographed Postcard

ビリー・バークは1939年の名作ミュージカル『オズの魔法使い』出演で多くの人々に記憶されています。主人公ドロシー(ジュディー・ガーランド)を導いていく「北の良い魔女」グリンダです。

Billie Burke in The Wizard of Oz
『オズの魔法使い』でのビリー・バーク

魔女グリンダの性格設定は(おそらく非現実の世界にしか存在しない)「包容力のある美しき母」でした。ビリー・バークの温かみのある、時にユーモラスな演技はあの役柄にマッチしていて他の女優さんでは替えが効かないのではないかと思います。

その芸歴は長く1900年代に舞台デビュー、若くしてブロードウェイの人気者になります。1910年代に映画に進出、パラマウント社初の連続劇『グロリア物語』(1916年)主演で成功を収めています。1914年には興行界の大物フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニアと結婚しており二人のロマンスは後に『巨星ジーグフェルド』(1936年)として映画化もされました。

Billie Burke in Motography Magazine 1916 April 29 Issue
モトグラフィー誌1916年4月29日号より『グロリア物語』の先行予告スチル

彼女は良く知られた美人さんというだけでなく、他に例を見ないほど完璧に演技の修練を収め、人を引き寄せる魅力に高潔な心、並々ならぬ人間力を備えている。その動きに見られるしなやかな才能は例外的と言ってよいだろうし、「銀幕値(スクリーン・バリュー)」も備えているのだがそれが「銀幕の天才」と呼べる位に達している。(モトグラフィー誌1916年4月22日号より。『グロリア物語』原作を手掛けた作家ルパート・ヒューズのインタビュー)

She is not only a famous beauty, but an actress of unusually thorough schooling and magnetism, high spirit and peculiarly human appeal. She has also an extrordinarily flexible pantomimic gift, and what is known as « screen value, » to a degree that might be called « screen genius. » (Rupert Hughes Interview in Motography Magazine 1916 April 22 Issue)

『オズの魔法使い』は技術・技法的に、そして美学的にも戦前ハリウッドの集大成と呼べる一作でした。そこに初期ブロードウェイやサイレント映画時代の経験値を持ちこんでいたのがビリー・バークだった、と見ることもできます。

サイン入りの絵葉書は英ロータリー・フォトグラフィック・シリーズの一枚で、英国南部の町ボーンマス在住のS・マクブロック嬢宛に送られています。消印はロンドン局1909年5月26日付。もう一枚同嬢が所有していたサイン無しの絵葉書とセットで入手したものです。

[IMDb]
Billie Burke

[Movie Walker]
ビリー・バーク

[出身地]
合衆国(コロンビア)

[誕生日]
8月7日

[データ]
8.8 × 13.7 cm

バンキー・ユディット (Bánky Judit、1896 – 1918) ハンガリー

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今回のコロナ禍をめぐる報道では1918~1920年に発生していたスペイン風邪が繰り返し話題に上っています。医療体制も整っていない時代の世界的感染は凄まじいもので、その影響は映画や演劇界にも及んでいました。当時のスペイン風邪で失われた才能のひとつがハンガリーの舞台女優バンキー・ユディット (Bánky Judit)でした。

10代の頃から演劇学校に所属、1913年から端役として舞台に立ち始めます。1914年、卒業後にセゲド国民劇場と契約、その後コメディー劇場に転籍し知名度を上げていきます。

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1917年、コメディー劇場『嫉妬(Féltékenység)』でのクラウディア役(『演劇生活』誌1917年第40号)

1917年、映画監督アレクサンダー・コルダが自身の映画会社の第2弾として制作した『カリフの鶴(Gólyakalifa)』でヒロインに抜擢されました。共演は当時の男優で最も人気のあったオスカー・ベレギ。『カリフの鶴』はイスラム世界を舞台にした寓話的な物語で、ロッテ・ライニガーによるアニメ作品が良く知られています。コルダ版は舞台を現代に移した形のようです。

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1917年『カリフの鶴』撮影時の集合写真(『演劇生活』誌1917年第26号)

1918年に第一次大戦が終戦。ハンガリー演劇に活気が戻り始めたこれからというタイミングで不幸が訪れます。折しも欧州全土を襲っていたスペイン熱に罹患、重度の肺炎を患い1918年10月に亡くなっています。

スペイン熱の大流行で病院を4度移る羽目となりそこから戻ることはなかった。肺炎の併発に華奢な体はとても耐えきれず、日曜の午後、若く美しい、才能に満ちた気立ての良い若手女優は22才の若さでこの世を去った。

マジャールオルザーク紙 1918年10月29日付

Betegségéhez tüdőgyulladás járull, amelylyel gyenge fizikuma nem birt megbirkózni s a viruló Szépségű, tehetséges és nagyon rokonszenves fiatal színésznő szombaton délután, huszonkétéves korában meghalt.

Magyarorszag (1918-10-29, p.193)

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『演劇生活』誌1918年第44号の追悼記事より

ハンガリーではこの一か月前にセントジョールジイ・マールタ(Szentgyörgyi Márta, 1888 – 1918)が似たような亡くなり方をしています。立て続けの訃報はハンガリーの演劇界に大きな衝撃をもたらしました。

[IMDb]
Judit Bánky

[Movie Walker]

[出身地]
ブダペスト(ハンガリー)

南 栄子 (1909 – 没年不詳)

「日本 [Japan]」より

南栄子 直筆サイン入り絵葉書
Minami Eiko 1920s Autographed Postcard

 日本館へはまた、白痴の脂肪のような河合澄子が帰つてきた。

 沢カオルは観音劇場から浅草劇場へ引越した。田谷力三や柳田貞一も、消えたり現れたりだ。オペラ役者の蔵ざらへも、もう沢山ではないか。

 電気館のパラマウント・シヨウの第四回と第五回 ― これは六月のことだが、春野芳子のジャズ・ダンスと南栄子のチヤアルストン、これだけがやつと一九三〇年らしい踊なのだ。

『淺草紅團』川端康成(1930年『新潮』9月号掲載)

衣笠貞之助監督の『狂つた一頁』(1926年)での前衛的な舞踏で知られているダンサー/舞踏家。衣笠氏の回想によると新国劇の女優・渡瀬淳子さんの推薦だったそうです(『わが映画の青春』衣笠貞之助著)。

1922年に母体が設立された松竹楽劇部の第一期生とされていますが、当時物のパンフレット等でのクレジットは確認できておらずいつまで在籍していたのか不明。

日本でも、昭和二年、日活京都の映画女優、小西節子、南栄子、松浦ちどり、香川マチ子、浦路輝子らが断髪したため、撮影所長の池永浩久がひどく怒って、これら女優の髪がのびるまで出演及び外出禁止の厳命をくだしたという。

『雑学歌謡昭和史』 西沢爽(1980年、毎日新聞社)

1930年代にメディアに登場していた記録が幾つか確認できています。

・1933年阪和濱寺海水浴場での舞踏大会で舞踊を披露
・1933年の『婦女界』グラビアで舞姿を披露
・1938年度版『朝日年鑑』の「音楽家録:洋樂の部」で麹町の現住所の記載あり

1931年の直筆サイン入り写真を紹介している古本屋(くまねこ堂)さんのブログ記事が非常に有名で、その写真がピンタレスト等のSNSで繰り返し拡散され、ウィキペディアの写真としても使われるようになりました。今回入手した絵葉書は1920年代ではないかと思われる一枚です。

[IMDb]
Eiko Minami (同姓同名の別人との一部混同あり)

[JMDb]
南栄子

[出身地]
広島

[誕生日]
2月20日

[データ]
8.7 × 13.8cm

カルロ・ヴィート Carlo Wieth (1885–1943) デンマーク

「国別サインリスト 北欧諸国 [Nordic Countries]」より

Carlo Wieth Autographed Postcard

1885年コペンハーゲン生まれ。1900年代に舞台俳優として修業を積んだ後、1910年にウアバン・ガーズの監督処女作でもある戦争メロドラマ『1864年の一徴兵』の主人公役でスクリーンデビュー。

Carlo Wieth in En rekrut fra 64 (1910)
『1864年の一徴兵』での負傷した兵士役

その後ノルディスク社と契約しオーガスト・ブロム(『モルモン教の犠牲となり/Mormonens offer』1911年)、シェストレム(『聖職者/Prästen』1914年)、ホルガー・マドセン(『永遠の平和/Pax aeterna』1917年)、ドライヤー(『サタンの書の数ページ』第4エピソード)など北欧サイレント映画の全盛期に安定した演技で貢献していきました。また私生活では以前に紹介したクララ・ヴィートの最初の夫でもありました。

1920年代前半に舞台へと戻り映画主演が途切れていましたが、30年代後半に復帰し9作のトーキーに出演。1943年に心臓発作で亡くなっています。

[IMDb]
Carlo Wieth

[Movie Walker]

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
12月11日

[サイズ]
8.8 × 13.4 cm

[データ]
Photochemie, Berlin K.1765

ミッツィ・パルラ Mizzi Parla (生没年不詳) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Mitzi Parla Autographed Postcard-1

フランスの映画製作会社にとって、ドイツ帝国は疑いもなく最も魅力的なマーケットのひとつであった。自国の競争力が充分ではなく、1914年時点でさえメスター社、PAGU社、ヴァイタスコープらの製作会社だけでは自国の映画館での需要を満たすことができなかったのである。

(「フレンチ・コネクション:第一次大戦以前の仏独映画連携」)

For French film producers, the German Reich was undoubtedly a most attractive market. National competition was not up to par (even as late as 1914, firms such as Messter, PAGU and Vitascope were unable to satisfy the demand from German cinemas out of their own production […].

« The French Connection: Franco-German Film Relations before World War I »,
Frank Kessler and Sabine Lenk
in A Second Life: German Cinema’s First Decades (1996)

サイレント映画産業が発達し始めた1910年代、普仏戦争の遺恨を残しつつも仏独ではある程度の交流は行われていました。特にフランスの映画界はドイツ進出に積極的で、多くの大手会社がベルリンを拠点に自作配給を行っています。

1913年頃から反仏感情が掻きたてられ、プロパガンダを交えた喧々諤々の状況となるとフランスの映画製作会社はそれぞれの対応を始めた。パテ社はフランス語の響きが強い「パテ・フレール社」を旗印とした配給を続けていた。レオン・ゴーモンは自社作品をドイツの配給網に委ねることに決め、1913年9月12日には「独ゴーモン社」を設立した。

As from about 1913 onwards anti-French feelings were being stirred up and propaganda polemics came to the fore, French firms reacted in different ways. Pathe continued to advertise with its own French-sounding name ‘Pathe Freres & Co’ and kept its own distribution. Leon Gaumont decided to have his films handled by well-known German distributors […]; he also founded the ‘Deutsche Gaumont Gesellschaft’ on September 12th, 1913.

当初、ゴーモン社はフランスで公開していた作品(看板女優シュザンヌ・グランデ主演ドラマ、子役ビュビ君シリーズ、レオンス・ペレ監督の短編コメディ、ドキュメンタリー作など)をそのまま輸出していました。1913年秋から様相が変わってきます。組織改編に伴い、ドイツ人俳優を主演としドイツ国内で制作されたオリジナル作品が封切られていきます。

第一弾は実力派の若手俳優レオ・ポイカートを主演とした『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』でした。1913年10月4日公開。同作品にヒロインとして登場したのがミッツィ・パルラでした。

Mizzi Parla in Durch Leid zum Glück [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』

歌と踊りを得意とし、明るい性格でステージの人気を得ていたようです。レオ・ポイカートとのダブル主演映画は初めてではなく、これ以前にもBB映画社~タルガ映画社で数本製作されています。独ゴーモンがタルガ映画社に制作を委託して時代の流れに対応したのが実際の様です。

またこの時期の仏ゴーモン社は初期トーキーの実験を行っていました。フィルム上で録音をシンクロさせた訳ではなく、映写機に併設された「蓄音機」で音を出すゴーモン社独特のシステムを開発。ルドルフ・クリスティアンとミッチ・パルラ主演の『おいらの女中』がこの方式で製作され、実際にウニオン劇場で公開された記録が残っています。

10月半ばには独ゴーモンオリジナル作品第二弾の『エルゼは踊る(Tanz=Else)』公開。ミッツィ・パルラの単独主演作で映画誌の表紙も飾っています。

Mizzi Parla in Tanz-Else [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『エルゼは踊る(Tanz=Else)』

こういった活動も歴史の流れに逆らうことはできませんでした。1914年8月に独仏が開戦、独ゴーモン社は映画製作・配給機能を停止。ミッツィ・パルラはBB映画社で映画出演を続けますが次第に露出も減り1918年の短編を最後に業界を離れています。

[IMDb]
Mizzi Parla

[Movie Walker]

[出身地]
不明

[誕生日]
不詳

[サイズ]
8.6 × 13.5 cm

[データ]
Verlag Photochemie, Berlin N. K.273 Bildnis von A. Binder, Berlin

ラーバシュ・ユーツィ Lábass Juci / Lucie Labass (1896 – 1932) ハンガリー


「 ハンガリー [Hungary]」より

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1896年7月22日、スボティッツア(現セルビア領)に生れる。父親はエンジニア。幼少時は親の希望で修道会で育てられ、10代で舞台女優を夢見てブタペストに上京、女優ラーコシ・シディの下で学びました。

1913年に正式にデビュー、早くからその才能を認められキング劇場(Király Színház)と長期契約を結びます。歌と演技の上手さですぐ花形女優となり、1910年代から20年代にかけ多くの作品で聴衆を魅了していきました。

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ブダペスト新聞1912年6月13日付。演劇学校で学んでいた際にオペレッタ端役として出演した際の記事で、メディアに名前が登場したものとしては最初期の一つ
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1916年『演劇生活』第36号誌表紙

1917年に『イスタンブールの薔薇』に出演。コシャーリ・エミ、エルネ・キラーリ、ラートカイ・マールトンらと共演しています。当時の雑誌でも大きく扱われ彼女の代表作としてよく名前の挙がる作品です。

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『イスタンブールの薔薇』主要キャスト集合写真。右から二番目にラーバシュ『舞台生活』誌1917年27号)
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エルネ・キラーリと並んだ一枚(『舞台生活』誌1917年37号)

最初の舞台で共演した俳優ラートカイ・マールトン(Rátkai Márton)と結婚、長くは続かず数年後に離婚しています。

1910年代から映画にも出演。アレキサンダー・コルダ、マイケル・カーティスの初期作に登場、1917年の愛国主義メロドラマ『大地に囚われし者たち』(A föld rabjai)など幾つかの作品が現存しています。1920年代半ばにはE・A・デュポンの『緑のマニュエラ』でもヒロインを務めていました。

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『大地に囚われし者たち』(A föld rabjai)

20年代後半になると舞台、メディアへの登場回数が減るようになってきます。女優自身も歌唱力を生かしたオペラ的な作品に挑戦。1931年にテナー歌手と再婚。1932年8月、舞台を終え帰宅後の就寝中に心臓発作で亡くなっています。心臓を患っていた話は知られておらず、唐突な訃報に当初は自殺説が流れるなど騒ぎとなりました。

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ちなみにラーバシュ・ユーツィの親戚筋(甥・姪の子供)に当たるラーバシュ・エンドレ(Lábass Endre, 1957-)氏は有名な作家さんで、サイン絵葉書など貴重な画像を写真ブログで公開しています。たまたま見つけたサイン絵葉書の情報を求め7、8年前に初めてお邪魔して、以来ハンガリー初期映画の世界に深入りしていくきっかけとなったサイトでもあります。

[IMDB]
Lucie Labass

[誕生日]
7月22日

[出身]
ハンガリー

[サイズ]
9.0 × 14.0 cm

1928 -『續水戸黄門』(池田富保)10枚綴り絵葉書セット

「池田富保 関連コレクション [Ikeda Tomiyasu Related Items]」 より

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昭和3年(1928年)に公開された日活オールスター作時代劇の販促品。

フィルムは一部現存していてDVD版も市販されています。二回見ていて、最初に見た時はよく分からなかったが正直な感想でした。面白い・面白くない、出来が良い・悪い以前の問題で、何をポイントに見ていいのか掴めないまま終わってしまった感じでした。

戦後TVドラマ版であれば水戸の御老公、助さん格さん等お馴染みのキャラを中心に勧善懲悪の予定調和を楽しむパターンが出来ています。同じ感覚で昭和3年版を見てしまうと外すのかなと思います。

絵葉書は10枚綴り。黄門一行(山本嘉一、河部五郎、尾上多見太郎)を中心としつつ他の役者も大きく扱われています。楠公の場面では久米譲と三枡豊が登場、海賊姿で啖呵を切る傅次郎の隣に梅村蓉子さんの姿があります。チンピラに絡まれているのは伏見直江さんで、酒井米子さんも町娘役で登場。黄門一行に難癖をつけてくる山賊には新妻四郎が扮しています。

当時の観衆もお気に入りの俳優の登場場面を心待ちにしていて一挙一動に盛り上がっていたのだと思います。その意味で典型的な日活オールスター時代劇。今の時点で完全版を見たら最初から最後まで楽しめる自信はあるのですが、この監督ならもっと高いレベルの映画を作る力があったのに、の複雑な思いも混じっています。

エルンスト・ライヒャー Ernst Reicher (1885 – 1936) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」 より

Ernst Reicher Autographed Postcard
2018年末、独サイン収集家のコレクションが大量にオークション市場に放出され一部を入手できました。「忘れじの独り花」のタイトルの下に紹介させていただいたのがそれに当たります。現在自国でも名を知られていない俳優達の直筆も含まれていて、1910年代後半のドイツ映画の風景を再考していく上で興味深い資料です。

このコレクションについて調べていく途中でエルンスト・ライヒャーの名が繰り返し出てきました。1910年代中頃からスチュワート・ウェブス探偵物シリーズの主演を務め人気を博した俳優です。初期作品では『リヒャルト・ワグナーの生涯』(1913)が現存、ライヒャーは狂王ルートヴィヒ役で出演。背の高い美青年振りで当時の人気も納得という感じです。

Ernst Reicher in Richard Wagner (1913)
1913年『リヒャルト・ワグナーの生涯』より

ウェブス探偵物は1914年から29年にかけて製作された一話完結型のミステリー連作でした。総作品数は50に上ると言われています。ヨーエ・マイ監督主導で作られていたのですが、監督(マイ)と主演(ライヒャー)に対立が生じてスタッフが分裂、ヨーエ・マイが同シリーズから手を引きライヒャー自身が監督する形で製作が続けられていきました。

1919年3月30日付ノイエ・キノ・ルントシャウ誌よりスチュワート・ウェッブス社広告
1919年3月30日付ノイエ・キノ・ルントシャウ誌よりスチュワート・ウェブス社広告

ウェブス探偵劇は作品毎にヒロインの代わる形を取っています。登場した女優にはステラ・ハルフ(後にライヒャーと結婚)、テア・ザンドテンマリア・レイコマリア・ミンツェンティエステル・カレナシャルロッテ・ベックリンアリス・ヘシーエヴァ・マイ、マルガレーテ・シュレーゲル、ヘレナ・マコウスカ、グレーテ・ラインヴァルトらの名前があり、新人~中堅女優にとって登竜門的な役割を果たしていました。「忘れじの独り花」で紹介した女優も多くフィアさんだけではなく当時の映画愛好家がこのシリーズを通じて新たな才能を発見していたと思われます。

ライヒャーの人気は20年代から陰りを見せ、30年代トーキーに適応できず表舞台から消えていきました。ユダヤ系だったためナチスが政権を握ると程なくドイツを離れ、滞在先のプラハで1936年に客死。フリッツ・ラングが初めて脚本を書いた作品がウェブス物で、他にも独サイレント黄金期にはウェブス物と接点を持っていた者が少なくありません。ドイツ映画史の起源に興味のある方なら記憶の片隅に留めておいて良い名前かなと思います。

[IMDb]
Ernst Reicher

[Movie Walker]
エルンスト・ライヒャー

[出身地]
ドイツ(ベルリン)

[誕生日]
9月19日

トルーデ・ヘステルベルク Gertrud (Trude) Hesterberg (1892–1967) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」
& エルンスト・ルビッチ関連 [Ernst Lubitsch Related Items]より

Gertrud (Trude) Hesterberg 1917 Autographed Postcard
1910年代初頭から60年代にかけて半世紀の出演キャリアを持つ女優さん。歌や踊りを得意とし舞台出演と映画女優の二足のわらじを履いていました。

キャリア初期にアイドル的人気を得ていた訳ではないものの、俊敏で快活、パワフルなキャラクターが一定の支持を得ていました。その才能に目を付けたのがエルンスト・ルビッチで、探偵劇パロディとして制作・主演した『ローゼントフ事件』(Der Fall Rosentopf、1918年)ヒロインに彼女を抜擢しています。

Der Fall Rosentopf (1918)
フィルムは遺失しており詳細は不明ながら、ポスターに登場するルビッチの手のひらの上で踊る女性の一人(黄色スカート)がトルーデさんをイメージしたとされています。ウーファ・ポスター展の開催時に研究者が指摘していたように1910年代後半ドイツには探偵劇の一大ブームが来ていて、ルビッチもその流れに便乗していた訳です。

サインは1917年のベルリンで書かれたもの。後年のトルーデ(Trude)名義ではなく初期に使用していた本名のゲルトルード(Gertrud)になっています。

[IMDb]
Trude Hesterberg

[Movie Walker]
トルーデ・ヘステルベルク

[出身地]
ドイツ(ベルリン)

1929 – 森静子 昭和4年の年賀状

明けましてお芽出たう御座います
本年もどうぞ御ひゐきに……
昭和四年一月元旦
松竹キネマ京都撮影所
森 静子

未使用。葉書にしては薄手の紙質で全体に赤みがかった褪色が見られます。本文で複数のフォントを使用し「森静子」には1920年代後半に時折見られる独特の書体(澤村春子さん1927年暑中見舞いも同様)を採用しています。ハート型の小窓も本人がデザインした訳ではないでしょうが…「静ちゃんから年賀状がきた!」元旦にフアンが小躍りしていた様子が目に浮かびそうですね。

いつの間にやら2020年代。本年もよろしくお願いいたします。

1920年代後半 – 『ニーベルンゲン』 絵葉書16枚(独ロス出版社)

「フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items]」より

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1920年代の後半、独のロス出版社からフリッツ・ラング監督作『ニーベルンゲン』二部作の絵葉書セットが発売されていました。同社カタログナンバーで言うと:

672(8枚): 第一部『ジークフリート』主要人物紹介
673(6枚): 第一部『ジークフリート』名場面集 その一
675(9枚): 第一部『ジークフリート』名場面集 その二
676(5枚): 第二部『クリームヒルトの復讐』主要人物紹介
677(8枚): 第二部『クリームヒルトの復讐』名場面集
678(4枚): 第一部『ジークフリート』龍との闘い

が一連のシリーズとなっています(ドイツの絵葉書屋さんのHPに全画像あり)。単体で見ると珍しい訳ではなく一枚5~10ユーロ程度(700~1500円位)で取引されているのが常です。ただし枚数が多いためフルコンプ(40枚)が難しく良い状態での全数セットは4万円程度に値段が跳ねあがっています。

今回手に入れたのはこの内673と675からの13枚と672から2枚、678から1枚を合わせた16枚。第一部『ジークフリート』を好きな方が保管されていたセットのようで実使用された1枚を除くと非常に良いコンディションで届きました。

パール・ホワイト Pearl White (1889 – 1938)

「パール・ホワイト連続活劇 [Pearl White Serials]」
& 「合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Pearl White Inscribed Photo
Pearl White Inscribed Photo

六年の間、曲馬團の女王として相當の評判を取つてゐたが、やがて活動寫眞の隆盛に赴く様を見て、自分も映畫劇に出演したいと考え、昔馴染の團員と別れて、先ずユニヴァサル會社に身を投じた。同社ではクリスタル映畫の喜劇に出演した。その頃の作品には「パールと泥棒」「新しい帽子」などを初めとして数十本の喜劇がある。

一千九百十四年の春、パセ會社の招きに應じて同社に移り、新連續映畫「ポーリンの危難」に女主人公ポーリンを演じ、次いで同じく連續映畫「拳骨」に女主人公エレンを勤めて、斯界の人氣を一身に集めるに至つた。連續映畫專門の嬢は、「拳骨」に續いて「鐵の爪」を撮影した。それが亦大好評であつた。その爲めに、遂ひには、パセ會社ニュー・ジャーセーの第一首腦女優とまでなるに至つた。以上三種の連續映畫の外に、近頃の作品では、「運命の指輪」と「呪の家」とが電氣館に上場された。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

1917年公開の『運命の指環』宣伝用写真。乗馬服姿で鞭を持って毛皮に立っています。縁に数か所ダメージあり。左下には万年筆で「ミルドレッド・メイソンさんへ(To Mildred Mason)、パール・ホワイトより」の一文。ちょうど1910年代の半ば、ルービン映画社(Lubin Company)で短編アクション映画の脚本を担当していた女性に同名の方がおられます。

もう一枚は絵葉書への直筆サイン。

Pearl White

印刷にも見えるフラットな筆跡ですが光をかざすと薄いペン先の跡があります。また以前に売買のあった同一デザイン絵葉書のサインと比べ筆跡が微妙に異なっています。

1914-autographed-photo-pearl-white
Pとtの字形が異なった一枚

裏の宛先面はアルバムからの剥離跡多数。消印が読めたのが救いでした。1914年にニューヨークで投函されています。

[IMDB]
Pearl White

[Movie Walker]
パール・ホワイト

[出身]
合衆国(ミズーリ州)

[誕生日]
3月4日

[サイズ]
19.5 × 24.5 cm(スチル写真)
13.6 × 8.6 cm(絵葉書)

八雲恵美子/惠美子/理恵子 (1903–1979)

「日本 [Japan]」より

八雲恵美子サイン入り絵葉書
Yagumo Emiko Autographed Postcard

絵葉書&略歴

『姉ちやん、七時を打ちましたよ。』
『ウン、そう、もう五分間寝かして頂戴』
うつらうつらと夢路をたどる内亦々ミシミシと梯子段を踏む音にハツとして目を覺まし時計を見ると三十分經過、驚いてとび起き顔もそこそこに洗ひ御飯もおほいそぎで食べて家を出掛ける。撮影所に着いて助手さんに見つからないやうにと、そうつと裏の方を通つていつたが、俳優部屋の處でたうとう見つかつてしまつた。
『皆揃ひましたよ、あなた一人ですから早くお願いしますよ』
パラソルも袋も部屋にほうりこみ髪結部屋にとびこみ、早く早くと自分のおそくなつたのを棚に上げ髪結さんを一生懸命にせかせる。一時間あまりの後にはすつかり支度が出来あがる。
『もういつでも好いのよ』
と今度は涼しい顔。

「一日の仕事」 八雲恵美子
「スタヂオ日記」(『女性』誌 1927年10月号掲載)より

1929 yakumo emiko in fue no shiratama
『不壊の白珠』より

『不壊の白珠』(1929年、清水宏監督)での情感豊かな演技で記憶されている女優さん。1927年には柏美枝さんと二度共演(いずれも清水宏作品)、「スタヂオ日記」では柏さん目線の思い出も綴られていました。自分の文章ではズボラでおっちょこちょいな性格を強調していますが、実際は面倒見の良いしっかりした女性だったんでしょうね。

[JMDb]
八雲恵美子

[IMDb]
Emiko Yagumo

[出身地]
大阪府(大阪市)

[誕生日]
8月15日

[データ]
13.6 × 8.6cm

泉 春子 (1905 – 1998?)

「日本 [Japan]」より

izumi-haruko-autographed-postcard-mIzumi Haruko Autographed Postcard


吉村さだ子、明治卅八年九月長崎市生、舞臺生活の後マキノ等持院に入り時代劇に活躍す、マキノを去つて家庭の人となつてゐたが本年阪妻プロに入社「紫頭巾」

『現代俳優寫眞と名鑑』
(1927年11月5日、國民新聞附録)


マキノ~阪妻~東亜へと籍を変えていった女優さん。1928年の『坂本龍馬』に出演するも手元の9.5ミリ版に出演場面は収められておりませんでした。各社競作となった前年の『砂絵呪縛』では、原駒子や鈴木澄子と同じお酉を演じており、同社のヴァンプ女優的な位置づけをされてたのが分かります。

[JMDb]
泉 春子

[IMDb]
Haruko izumi

[出身地]
長崎県(佐世保)

[誕生日]
4月20日

[データ]
8.5 × 13.5cm

澤村春子 (1901 – 1989)

「日本 [Japan]」より

sawamura-haruko-autographed-postcard-mSawamura Haruko Autographed Postcard

「戦前・戦中 髙島栄一・康彰氏旧蔵の葉書群」より

澤村春子、1927年の残暑見舞い

川島実市氏の絵葉書帳より

澤村 春子(川島実市氏の絵葉書帳より)


明治四十三年北海道に生る。大正九年上京して小山内薫の松竹キネマ研究所を卒へて処女映画『路上の靈魂』に出演、後『山暮るる』に出演して退社し田中欽之の下で『春の命』を撮影し大正十二年の末日活に入る。同社では『白痴の娘』『街の物語』『血涙記』『月形半平太』『憂国の少年』最近では『下郎』『轉婚二重』の主演があり日活主腦女優に屬するスターである。趣味は乗馬、琵琶、讀書、三味線、琴、舞踊、の各方面。

『玉麗佳集』(1928年)


本名澤村春子。明治卅四年北海道に生る。裁縫女學校卒業。役所勤めなどの後女優を志し、松竹キネマ俳優學校を經て松竹蒲田に入社。二年の後大正十二年一月より日活に出演す。主な近作は「流轉」「斷魔閃光」「白井權八」等。身長四尺九寸五分。體重十四貫五百目。趣味は三味線、踊り、琴等。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)


ある日来客から「沢村春子のことが週刊誌にのっている」と教えられ、あわててその週刊誌を探しましたが、ついに手に入らずじまいになりました。たしか読売とか。それには「昔の映画スター沢村春子が苦労に苦労の末、いまでは自分の故郷近くの津軽の寒村で、うら寂しく一文菓子を子供相手に売っている」というのだそうです。[…]

想像どおり沢村さんは不幸の連続でした。要約すれば親類筋を浮草のように泊り歩き、年をとったのでどこでも使ってくれない、いまは他人の家の手伝いやせんたく物洗い程度の仕事をして、一人ぽっちの私はどうやら生きているが、この先どうなることやら、どうか笑って下さい、と結んでいます。

『髪と女優』(伊奈もと著、1961年)


映画の黎明期、無声映画のスターと云われた女優がいた。
沢村春子
女優にかけた思いを
浅虫で息絶えるまでの人生を、
三人の役者が演じる。

『驟雨激しく』 ―ある無声映画女優の生涯―
2011年6月17・18日青森県「ねぶたの家ワ・ラッセ」で
上演された舞台劇の宣伝文句より


日活が女優に本腰を入れ始めた初期から活動をしていた古参の一人で、1925年の女優揃えでも上座と思われる左端(左上位)に配置される評価を得ていました。切れ長の目でグッと堪えた悲劇調の役柄を得意とし、日活期の松之助作品ヒロイン(1925年『荒木又右衛門』池田富保監督)など20年代中盤の邦画界に功大なり。

『髪と女優』で紙数を割かれて述べられていたように、20年代後半の女優ブームの中で埋もれてしまい一時期は消息不明となっていました。晩年は青森で不遇な生活を送り80年代末にひっそりと亡くなっていますが、その後彼女の生涯を追った舞台劇が制作されています。

[JMDb]
稲田春子

[IMDb]
Haruko Sawamura

[出身地]
北海道

[誕生日]
1月20日

[データ]
8.6 × 13.7cm

ミスタンゲット Mistinguett (1873 – 1956) 仏

「国別サインリスト フランス [France]」より

Mistinguett Autographed Postcard
Mistinguett Autographed Postcard (dedicated to Gabrielle Mavrodin)

昨年の12月、東京大学で『ミスタンゲットを発見せよ――フランス・サイレント映画の夕べ』が開催されていました。フランスで市販されているDVDに弁士の語りを加えて上映した内容で、日本でも無声映画女優としての彼女にスポットが当たったのは喜ばしい出来事でした。

公私ともに付きあいのあったモーリス・シュヴァリエと並び、ミスタンゲットは1920~50年代のフランス下町文化を代表するような位置付けです。日本で言うと昭和レトロに近い懐かしさを覚える世界がフランスにもあって、そこにミスタンゲットの姿と歌声が含まれている訳です。

彼女のデビューは古く、そのルーツは第一次大戦前のカフェ・コンサート界(「カフェ・コン Café Con’」)にさかのぼります。喉でガラガラと唸る歌い回しも先輩格のポレール(Polaire)に影響を受けたもの。カフェ・コンサートの隆盛が過ぎ去り、ポレールを含め多くの者が消えていった中でミスタンゲットはむしろ輝きを増していきました。下町っ子らしい、気さくで、愛嬌と温かみを感じる「粋」が彼女の持ち味です。

[IMDb]
Mistinguett

[Movie Walker]

[出身地]
フランス (アンジャン=レ=バン)

[誕生日]
4月3日

[データ]
Edition artistique de WALERY, photographe. 9 bis, rue de Londres, Paris
« A Gabrielle Marrodin
souvenir,
Mistinguett »
ルーマニアのヴァスルイ在住のガブリエル・マロディン嬢に宛てたサイン
1920年代後半~30年頃

[サイズ]
8.9 × 13.8 cm

ゲルダ・マウルス Gerda Maurus (1903 – 1968) 墺

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」「フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items]」より

Gerda Maurus Autographed Postcard
Gerda Maurus Autographed Postcard
1920年代後半、フリッツ・ラング作品のヒロインに抜擢され『スピオーネ』『月世界の女』の二作で鮮烈な印象を残した女優さん。

Gerda Maurus Autographed Postcard 2

頬骨の高さに挑発的な眼差し、同時代の他の女優と一線を画すシャープな雰囲気を漂わせていました。ラング作品以外の出演作ではフワッとした優しい空気なので落差に驚かされたりもします。トーキー移行後は次第に脇役に回り、戦後に至るまで女優活動を続けていました。

Gerda Maurus in Frau im Mond
『月世界の女』(Frau im Mond、1929年)
Gerda Maurus in Vier junge Detektive
『ちびっこ探偵五人衆』( Vier junge Detektive、1949年)
[IMDb]
Gerda Maurus

[Movie Walker]
ゲルダ・マウルス

[出身地]
オーストリア (ブライテンフルト)

[誕生日]
8月25日

[データ]
・Ross Verlag 3569/2 Fritz Lang-Film
・Ross Verlag 4254/1 UFA 「リシャール・フリペ氏 Richard Frippé」宛の献辞入り

[サイズ]
・8.9 × 13.8 cm
・8.8 × 13.6 cm

ヘルガ・トーマス Helga Thomas (1891 – 1988) スウェーデン

「国別サインリスト 北欧諸国 [Nordic Countries]」より

Helga Thomas Autographed Postcard
Helga Thomas Autographed Postcard

helga-thomas-bio

私は北スウェーデンの子です。五才の頃には生まれ故郷の原っぱでスキーに興じていたものです。運動の素晴らしさ、自然を愛する心持ちはあの時に植え付けられたのであります。

幼心に親に逆らい、舞台俳優の道を志しました。いつ終わるとやらしれぬ果てしない口論の末にようやく許可を頂くことができたのです。

ストックホルムの国立劇場で「オフィーリア」を演じていると一通の電報が届き、ベルリンのUFA社に来ないかとお誘いを受けました。新しい人生の始まりでした。スタジオのライトに照らされた世界が開けてきたのです。ルートヴィヒ・ベルガー監督の下で私の役者人生が始まりました。最初に役を受けたのは『グラス一杯の水(Ein Glas Wasser)』でした。

Ich bin ein Kind des nördlichen Schwedens. Als fünfjäriges Mädchen schon tollte ich aus Skiern über die Fluren meiner Heimat. Der gesunde Sinn für die Schönheiten des Sports und die Liebe zur Natur wurden mir hier für mein ganzes Leben eingeimpft.

Als blutjunges Ding begann ich die Offensive gegen meine Eltern, um den Weg zur Bühne frei zu bekommen. Nach endlosen Debatten willigten sie schließlich ein.

Als ich am National-Theater zu Stockholm gerade die « Ophelia » Spielte, rief mich ein Telegramm nach Berlin zur Ufa. Ein neues Leben begann. Die Welt des Jupiterlichtes tat sich mir auf. Unter Ludwig Bergers Regie begann meine Filmlaufbahn. Meinen ersten Erforg hatte ich in dem Film « Ein Glas Wasser ».

Filmkünstler : Wir über uns selbst (Sibyllen-Verlag, 1928, Berlin)

[IMDb]
Helga Thomas

[Movie Walker]
ヘルガ・トーマス (Helga Thomas)

[出身地]
スウェーデン (ヴェステルノールランド)

[誕生日]
7月8日

[データ]
Ross Verlag. phot. H.W. Mager, Berlin W.

[サイズ]
8.3 × 13.3 cm

アリス・テリー Alice Terry (1900 – 1987)

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

『黙示録の四騎士』の役作りとして、イングラム監督はアリスにフランス語を学ぶよう促した。無声映画の時代ではあるものの、役者が登場人物の言葉をきちんと喋るのが当然だと考える監督たちもいたのである。例えば『第七天国』では少なくともクローズアップ場面でジャネット・ゲイナーとチャールズ・ファレルが仏語を喋っているのを見て取ることができる。[…]

アリスは寛容な考え方の持ち主であつた。ラモン・ノヴァロの親友であり続け、彼が個人的にどのような状況に置かれているかよく分かっていた。1930年代、ノヴァロとバリー・ノートンやその他のゲイの男優たちにハリウッドの夜のゲイスポットに案内してもらった。ゲイ生活をカモフラージュするデコイの役割を引き受けたのである。ゲイ俳優たちといつも一緒だったため、ハリウッド・リポーター誌のゴシップ記者たちは誰をからかっているのか頭を悩ませる羽目になった。

アリス・テリーはフィルム編集でも有能で、達人イングラムから監督術も学んでいた。かくして夫の都合がつかなかったり作業の気乗りがしない時など監督の代理をすることもあつた。

『サイレント・プレイヤーズ』
(アンソニー・スライド著。2002年、ケンタッキー大学出版)

Ingram had insisted that Alice learn to speak French for her role in The Four Horsemen of the Apocalypse. Despite being a silent film, some directors did consider it appropriate that performers speak the language of the characters they were portraying. For example, in 7th Heaven, it is very obvious that Janet Gaynor and Charles Farrell are actually speaking French – at least in the close-ups. […]

Alice was very broadminded. She remained a close friend of Ramon Novarro and was fully aware of his personal situation. In the 1930s, she allowed him, Barry Norton and other gay actors to escort her to gay Hollywood nightspots, thus serving as a « beard » for their gay lifestyles. Her partnering of gay actors led a gossip columnist in the Hollywood reporter to question who she and they were trying to fool.[…]

Alice Terry was a competent film editor and sha had obviously learned direction from a master. Thus, when Ingram became incapacitated and too moody to work, she would take over direction of his features.

Silent Players: A Biographical and Autobiographical Study of 100 Silent Film Actors and Actresses
(Anthony Slide, University Press of Kentucky, 2002.)

レックス・イングラム監督夫人として『黙示録の四騎士』~『ゼンダ城の虜』~『スカラムーシュ』など数々の重要作でヒロインを務めたのがアリス・テリーでした。当時はおしどり夫婦と呼ばれており、実際二人ともそういった演出を続けていましたが、そこまで綺麗ではなかった実態が『サイレント・プレイヤーズ』で綴られていました。

Alice Terry in the Prisoner of Zenda
『ゼンダ城の虜』(1922年)でのアリス・テリー
Alice Terry & Ramon Novarro in Scaramouche
『スカラムーシュ』(1923年)でのアリス・テリーとラモン・ノヴァロ

無声映画期の女優さんとしては最も完璧な「丸顔」の持ち主で、やや面長のヴァレンチノやラモン・ノヴァロと並ぶと画面映えします。

[IMDb]
Alice Terry

[Movie Walker]
アリス・テリー

[出身地]
合衆国(インディアナ州 ビンセンズ)

[誕生日]
7月24日

[データ]
デニス氏宛、女優晩年の1970~80年代ではないかと思われる一枚

[サイズ]
8.4 × 13.2cm

スナップショット歌人としての五月信子 (1894 – 1959)

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悪役によろしといはれ、たゝへられ
 わがいひしらぬもの思ひかな

皆様のみ胸に多く妖婦役としてのみ印されて居るわたくし。おもへば、多少のうら寂しい氣もちがいたさぬでもありません。至難な妖婦役への抱負の萌芽はその頃より、わたくしの胸に培はれてゐたのです。

(『五月信子』五月信子著、1925年)

1925年に公刊された自伝『五月信子』(こちらで閲覧可能)は芸名の由来、下積み時代の苦労話、映画女優となってからの発見など、キャリア初期の出来事を平易な言葉遣いで綴ったチャーミングな書物です。

靜かな散歩の疲れを、「葵」の二階で癒すのがまた堪らないよろこびのひとつでございました。

「砂漠の人影」におけるエルシー・ファーガスンを、「蛇苺」におけるポーリン・フレデリツクを、またはルイーズ・グロームやシーダ・バラの蠱惑的な微笑に、あやしくも胸を躍らすわたくしでございました。

「一頃は、あつばれ、キネマフアンを氣どつたこともありました」とあるように、銀座の金春館や赤坂の葵館に足しげく通って初期映画を楽しんでいたようです。「わたくしはよく、拙い歌にこれらのひとびとの印象をかきしるしておきました。今筐底よりひきだしてそれをみるのも多少の懐舊の情がないでもございません」(144頁)。彼女は和歌を趣味としており、この時期に映画俳優に想いを凝らした歌を多く詠んでいます。

泣き笑ひ君がするとき人情の
その哀れさにしみじみとす
(チャーレイチヤツプリン)

うな垂れて白夜にあつき喝(むね)の火を
つゝまひ居らむ小百合花
(リリアン・ギツシユ)

彼女の歌は技法的に凝ったものではありません。深い情感を伝えるでもなく特異な視点を持っている訳でもなく、強い個性を伺わせるでもない、折々の雑感をまとめたものが大半です。「拙い歌」はさすがに言い過ぎとしても「一流歌人」と称して良いレベルに達していない、とは言えるかもしれません。

Satsuki-Nobuko

それでも五七五七七で歌を紡ぐのが日常の一部になっていた様子は伝わってくるのです。そこには手を加えすぎていない、採れたての自然野菜のみずみずしさや素朴さがあります。五月信子さんにとっての和歌とはそうでもしなければ消えてしまう刹那の雑感を閉じこめ、結晶化させる極私的な手段だったのだと思われます。

大正期には優れた女流歌人が多く登場しており、原阿佐緒らは現在でも高い評価を得ています。彼女たちの歌人としての在り方はとても古典的で19世紀文学を多く引きずっているように見えます。『モデルノロヂオ』が素描きしたように他愛ない日常の断片が積み重なって時代を浮き上がらせていくのが「モダン」であるとするならば、無名の歌好きが引き出しに書きためていた歌たちもまた新しい時代のスナップショットとして評価されて良いのではないでしょうか。