キャスリーン・クリフォード Kathleen Clifford (1887 – 1962) 米

Kathleen Clifford Late 1910s Inscribed Photo

男装のヴォードヴィル芸人として、キャスリーン・クリフォードは山高帽、燕尾服に方眼鏡姿で登場していた。垢ぬけたファッション感覚で「町一番の伊達男」の異名を受けることとなつた。

「昔活躍していた男装芸人キャスリーン・クリフォードが
シャーロッツヴィル出身だった件について」
シャーロッツヴィル・コム

As a male impersonator doing vaudeville, Clifford wore a top hat, coattails and a monocle. Her smart fashion sense earned her the nickname “the Smartest Chap in Town.”

« Early male impersonator Kathleen Clifford had Charlottesville origins »
C-Ville.com

1910年代から30年代にかけ、米舞台で「男装の麗人」として人気を博していたのがキャスリーン・クリフォードでした。燕尾服に山高帽姿で歌や踊りを披露、衣服を自前で作り楽曲も自身で手掛けるなどマルチな才能の持ち主だったそうです。

1917年11月17日付「ムービング・ピクチャー・ワールド」誌より『ナムバーワン』広告

遺憾で堪らなかつたのは、後に殘されたエミー孃であつた。
『私も一緒に行き度いな。』
と何度いつても、とうとう許されなかつた。
一行を見送つて、すごすごと室に這入つたエミー孃、自分の室には行かず、エーリー君の室にと這入つた。
『そうだ私は女だから行けないんだ、男でさえあれば、何處までも一緒に行けるんだ。』
と獨り言し乍ら、手早く自分の着物をぬぎすて、エーリー君の服を着て、忽ち男となり濟ました。
一寸姿見の前に現はれて、
『オゝ是で立派な男になつた。
是なれば何處までも御伴が出來るんだ。』
といつてニツコと笑つて、スタスタと二階から駈け下りて往来にと出た。

探偵大活劇『ナムバァワン』
(浦峰雪訳、春江堂書店、「大活劇文庫」、1919年)

1917年、パラマウント社による初の連続活劇『ナムバァワン』で主人公に抜擢されます。同作ではヒロインによる男装場面が含まれていて彼女の資質や知名度を生かしたものだったようです。舞台活動をメインとしていたため映画出演は断続的となりましたが、そのうちの一つダグラス・フェアバンクス主演作の『暗雲動く時(When the Clouds Roll By)』が現存しています。

1919年『暗雲動く時』(When the Clouds Roll By)より

[IMDb]
Kathleen Clifford

[Movie Walker]
キャスリーン・クリフォード

[出身地]
合衆国(ヴァージニア州)

[生年月日]
2月16日

1918 – 『ぶどう月』 (ルイ・フイヤード監督) 撮影風景写真3枚

「ルイ・フイヤード」より

1918 - Vendémiaire (Louis Feuillade)

« Vendémiaire » (1918, Gaumont, dir/Louis Feuillade)
3 photos de tournage (3 behind-the-scenes shots with annotations on back)

第一次大戦終戦の大正7年(1918年)に撮影され、翌8年(1919年)に公開された劇作品『ぶどう月』撮影中の写真三点。販促用スチルではなく、撮影関係者が内々のやりとりで保管していたオフショットで、ここにある以外現存していない資料と思われます。

フイヤード監督の作品は1)初期習作(1913年まで)、2)前期活劇(1914~17年)、3)後期活劇と逝去(1922年まで)の大きく三つに分けることができます。

『ファントマ』『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』『続ジュデックス』など大戦中の作品で仏活劇に旋風を巻き起こした後、戦後から作風に変化が見られるようになってきます。『ティーミン』や『バラバス』といった後期作品は、アクションの要素を抑えドラマの流れや一貫性を重視し、さらに幻想色を加えたものに変わっていくのです。

前期から後期への橋渡しとなった作品が『ぶどう月(Vendémiaire)』でした。 この監督は「フイヤード組」と呼ばれた固定メンバーを軸に作品作りを進めるのが常だったのですが、終戦の前後に大きな入れ替えがありました。『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』で存在感を見せたミュジドラ、喜劇の要素を加えていたマルセル・ルヴェスクの二人が一座を離脱。その代わりにアジア風の繊細さを持つ女優マリ・アラルドが加入、ルヴェスクの代わりに若い喜劇俳優ビスコが参加します。また『ジュデックス』主役を演じたルネ・クレステもこの後しばらくして『ティーミン』製作後に離脱しています。

『ぶどう月』はマリ・アラルドやビスコが初めて登場したフイヤード作品となります。

『ぶどう月』の物語は、軍隊を離れ、新たな生活を始めようと南仏にやってきた退役軍人(ルネ・クレステ)を軸に進んでいきます。盲目の貴族(エドゥアール・マテ)が所有するワイン園で雇われるのですが、ジプシーと間違われ追い払われそうになっていた貧しい未亡人(マリ・アラルド)を助け、次第にロマンスが生まれてきます。一方では敗走したドイツ兵(ルイ・ルーバ)が身分を偽ってワイン園に潜りこみ、盗みを重ねながらその罪を貧しい未亡人に押しつけようとしていく。未亡人の濡れ衣を晴らすため主人公は…という展開を持つ映画です。

冒頭、主人公はブドウ園の管理人に身分証明書を見せ、雇ってもらうことに成功します。この時ジプシーと勘違いされ雇用を断られた女性に話を聞くと、大戦で夫を亡くしたばかりとのこと、クレステはブドウ園の管理人に話をし、「ジプシーではなく英雄の妻だ」と誤解を解いてあげました。

ゴーモン社所有のプリントでは以下のような映像が続いていきます。

主人公を演じたクレステを中心に、未亡人を演じたマリ・アラルド、管理人を演じたエミール・アンドレを左右に配して撮影されたのが一枚目の写真。作中でマリ・アラルドは頭に布を巻いていましたが、こちらでは首の後ろに下ろしています。

この後悪役ドイツ人が登場、国籍を偽って農園に入りこみ、窃盗を繰り返していきます。途中にベルギー人の同僚が内緒話をしているのを見つけ、小耳を立てる場面がありました。

悪漢を演じたルイ・ルーバを撮影したのが二枚目の写真です。映画では正面と真横からのアングルでしたが、写真は斜め前からのアングルになっています。

最後の一枚はカメラマン。今回「1895」誌のフイヤード特集号に収められていた写真から『ジュデックス』等でも撮影を務めたレオン・クラウス氏と特定できました。

3枚の写真の裏面にはいずれも手書きの説明が付されています。


クレステがブドウ園管理人の元に薄汚れた女を連れて行く。管理人と握手を交わす。女に罪はないと信じていた。

Cresté amène la caraque auprès du régisseur, qui va lui serrer la main: il croit à sa innocence

René Cresté (Judex)


ベルギー人のおしゃべりを盗み聞きしているドイツ人

le boche écoute les belges parler


カメラを「回している」連中の一人

un de ceux qui « tournèrent »

別投稿で紹介したルネ・クレステ直筆の年賀メッセージ葉書と同じ出所で、1919年頃にクレステと親交のあった関係者が保管していた資料の一つです。

この3枚と同じ撮影者の手によるもう1枚の写真も併せて紹介しておきます。

『ぶどう月』に該当する風景・人物は登場していませんが、同時期に南仏の農村で撮影された一枚で間違いなさそうです。カメラマンがスチル撮影を手掛けた合間に見かけた農夫たちを撮ったのではないでしょうか。井戸のデザイン、人々の雰囲気など妙に心を揺すぶる何かがあります。

[IMDb]
Vendémiaire

[Movie Walker]


[公開]
1919年1月17日

エニッド・ベネット Enid Bennett (1893 – 1969) 豪/米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Enid Bennett c1920 Autographed Chromo

一千九百十六年の十月、米國に渡つて紐育市に興行中、恰度その時紐育に来て居たトライアングル會社のトーマス・エッチ・インス氏に認められて、映畫劇の俳優たる可く勸誘された。斯うして、嬢はインス氏と共にローサンゼルス市に行き、トライアングル會社のケービー映畫に出演する事となつたのである。その第一回作品は「闇の王女」といふ現代劇で、嬢はフェイ・ヘロンといふ役を勤めた。嘗てキネマ倶樂部に上場された「オパルの輝き」は第二回目の作品である。

一千九百十七年、インス氏が全所属俳優を率いてパラマウント映畫部の爲めにインス特作品を製作するやうになると、嬢も亦これに従つてパラマウント映畫部に轉じた。そしてインス映畫に出演した。

嬢は未だ若いだけに映畫女優として經驗に乏しいが、舞臺經驗を踏んで來た腕前は映畫の上にも充分に現はれて居る。極めて自然な藝風が、觀る者の心を魅する。

嬢は昨年の二月二十三日にフレッド・ニブロ氏と華燭の典を擧げて、今ではローサンゼルス市に樂しい家庭を作つて居る。

愛くるしい眼と、豊かな頬と、そして小兒氣の失せぬ口元と、それは「オパルの輝き」のヂュリーのやうな役には最も相應はしいものである。少し寂しい感じはあるが、それが却つて魅力を増す。嬢は目下ラスキー社パラマウント映畫に出演してゐる。

『活動名優写真帖』(野村久太郎編、 玄文社、大正8年)


生地ヨークより数里の町、オーストラリア・ヨーク市で嬢が仕事勤めをしていた折、一座と共に同地を回っていたフレッド・ニブロが端役募集の広告を出した。応募したベネット嬢がその役を手に入れる。演技の才と相まった美貌により忽ちに成功を収めた。『ホィップ』『フォーチュン・ハンター』『七つの鍵』を含む成功した舞台劇での大役を務めてきている。映画界からの要望に応えフェイマス・ラスキー社作品『義人の鍵』でスクリーンデビューを飾り、その後も同社の『曲馬団の名花』『家庭の罪』『家を出でて』でヒロインを演じた。身長は五尺三寸、體重十二貫三百匁。金褐色の髪と榛色の瞳を有する。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

While working in an office in Perth, Australia, a few miles from her birthplace, York, Fred Niblo, who was touring the country with his company, advertised for somebody to take a minor part. Miss Bennett applied and was accepted. Her beauty, combined with her dramatic talent, soon won auccess for her. She has played important part in « The Whip, » « The Fortune Hunter. » « Seven Keys to Baldpate » and other notable stage successes. Hearing the call of the screen, she made her first picture for Famous Players-Lasky Corporation, « Keys of Righteousness, » followed by « The Biggest Show on Earth, » « A Desert Wooing » and « Stepping Out. »

Miss Bennett is five feet three inches tall, weighs one hundred and two pounds, and has golden brown hair and hazel eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)


1922年『ロビン・フッド』より

1924年『シー・ホーク』(フランク・ロイド監督)

1910年代末から20年代前半に活躍したエニッド・ベネットのサイン物2点。無声時代のハリウッドで、オーストラリア出身俳優としては最も成功を収めた一人です。

フェアバンクスの相手役を務めた『ロビン・フッド』(1922年)、夫君フレッド・ニブロ監督による『紅百合』(1924年)の二作が知られているのですが、個人的には24年『シー・ホーク』でのこなれた演技が気に入っています。ロイド監督らしい歯切れのよい演出が光る佳作で、エニッド・ベネットも自身の役割を完璧に理解しつつ細やかなニュアンスを散りばめる余裕を見せています。

契約キャンセル申し立ての旨を伝える
1917年9月8日付『ムービング・ピクチャー・ワールド』誌記事

インスとの出会いとそこからのサクセス・ストーリーは美談として語られがちです。実際のところ1917年中盤にエニッド・ベネット側がインスを訴えた出来事もありました。インスの直接プロデュース以外の作品にも出演しなくてはならない契約内容に不満があり、最終的には元鞘に収まって一件落着。

日本でも早くから知られていて、『曲馬団の名花』『家庭の罪』など初期パラマウント社作品が公開されていました(いずれも1918年)。今回それ以前のトライアングル社期のフィルム(『淑女騎手』)を見つけたので併せて紹介しておきます。

[IMDb]
Enid Bennett

[Movie Walker]
エニッド・ベネット

[出身地]
オーストラリア(ヨーク)

[データ]
一枚目の写真は裏に手書きで「1917年4月」の日付入り

ブランシュ・スウィート Blanche Sweet (1896–1986)

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

ブランシュ・スウィート嬢はシカゴで生れ加州バークレーカリッジにて教育を受けた。幼い頃から舞臺に立ち始めチェインシー・オルコット氏や他の著名役者と共演している。舞臺を離れ銀幕に移るやいなや初の出演作「ベッスリアの女王」で忽ちにその名を上げた。爾来、多くの寫眞に姿を見せ益々人気を高めている。他に比べるもののない魅力的な性格のスウィート嬢は映畫界随一の慕われ振りで、舊作の素晴らしい演技から更なる将来の飛躍が期待せらる。スウィート嬢はグリフィス監督が発掘してきた最初の花形で、現在はパテ社連作のヒロインを任されている。金髪碧眼。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

Blanche Sweet was born in Chicago and received her education at Berkeley College in California. She began her stage career at an early age, appearing with Chauncey Olcott and other stars. Deserting the stage for the screen she found fame at once, her first appearance being in « Judith of Bethula. » [sic] Since then Miss Sweet has added to her popularity in the great number of productions in which she has appeared. The singularly appealing personality of Blanche Sweet has endeared her to lovers of the best in motion pictures and her delightful impersonations in the past give promise of greater things for the future. Miss Sweet was D. W. Griffith’s first star. She is now starred by Pathe in a series of productions. She has golden hair and blue eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)

以前に1920年頃のパラマウント社でスチル撮影を行っていたカメラマン、ドナルド・キース(Donald Biddle Keyes)氏旧蔵のサイン入りポートレート群を紹介しました。こちらは同氏によるブランシュ・スウィート(日本語版ウィキは「ブランチ」表記ですが古い表記に従います)の写真。1924〜25年にMGM社の『スポーツの女神』に出演した頃の一枚だと思われます。

キース氏は綺麗さ、可憐さといったスター女優の「型」に被写体を落としこもうとはせず、素に近い表情や雰囲気を切り取るのを得意とした写真家でした。素を演じていただけだよと言われると身も蓋もありませんが、晩年にメディアに登場していた頃の姿は白髪で皺が増えた以外ほとんど変わっていなかったりします。

メアリー・ピックフォードの代わりとなり最後は逆にリリアン・ギッシュに取ってかわられるまでの5年の間、ブランシュ・スウィートはグリフィスと米バイオグラフ社の下に留まった。この三女優は演技スタイル、外見上の相違が大きく比較は出来ない。ブランシュ・スウィートは天上的な儚さを備えたギッシュと違ってふくよかな十代の少女だったし、ピックフォードの明快な個性も備えてはいなかった。その二人どちらと比べても自然な演技の出来る役者ではあった。

『サイレント・プレイヤーズ』
(アンソニー・スライド著。2002年、ケンタッキー大学出版)

Blanche Sweet was to remain with Griffith and American Biograph for five years, replacing Mary Pickford and, in turn, being replaced by Lilian Gish. The style and appearance of the three actresses is so diverse that it is impossible to compare one to the the other. Blanche is still a teenager with « puppy fat », unlike the ethereal Gish, and lacks the obvious personality of Mary Pickford. She is a more natural actress than either of the two.

(Silent Players: A Biographical and Autobiographical Study of 100 Silent Film Actors and Actresses, Anthony Slide, University Press of Kentucky, 2002.)

また『サイレント・プレイヤーズ』の著者が最初にコンタクトをとったのが彼女で、その後もイベントでのエスコート役など縁が続いたそうです。「気分の波が激しい典型的なサイレント花形女優」の形容からは振り回された様子も伝わってきますがそれでも文章に静かな愛情が漂っています。

[IMDb]
Blanche Sweet

[Movie Walker]
ブランシュ・スウィート

[出身地]
合衆国(シカゴ)

[生年月日]
6月18日

モード・ロティ Maud Loty (1894 – 1976) 仏

「フランス [France]」より

Maud Loty Inscribed photo

1910~1930年代に人気のあった舞台系の役者/パフォーマーさん。

黒髪のおかっぱ、やや垂れ目気味、ぺったんこの鼻の童顔に大きなリボン姿…フランスの芸能界であまり見ないタイプの個性派で、当時は同性の支持も多く集めていました。キャラの立ち具合が絵描きたちの心をくすぐった様で多くのイラストが残されています。

芸歴は長く1910年代から「ロティちゃん(la petite Loty)」として親しまれ舞台に立っていました。子役として映画にも出演しており、10年代半ばにコメディ短編連作の主演を務めています。パテ社映像アーカイヴには『リガダン君ジプシーになる(1911年)』に端役で出演した動画が残されていました。

『リガダン君ジプシーになる』
Maud Loty in Rigadin Tzigane (1911) Ⓒ GP Archive

見ていれば分かると思うんだけど、舞台が好きなのはどの一瞬も戦いだから。毎晩毎晩、神経をすり減らして、いつも違うお客さん相手に、しかも最初は全然好意的でない連中まで次第に盛り上げて手に入れる勝利感が好きなの。

最初に響き渡る「ブラボー!」は雪解けの季節、音を立てて最初にパチンと割れる氷みたい。あの瞬間に舞台を我が物にした感があって、さらにもっと、もっと…演技に没入していく。

まぁそういうお仕事なのです。

でも映画だと自分がスクリーン上で行ったり来たり、セリフを言って、それが上手く回ってないのにやり直しできないなんて…いやいや無理、考えただけでゾッとする。自分の出ている映画を見にいく勇気はないかな、がっかりするのが怖いもの。(「モード・ロティ孃トーキーに挑む」シネモンド誌 1931年1月15日号)


Voyez-vous, ce que j’aime dans le théâtre, c’est cette lutte de tous les instants, cette victoire qu’il faut remporter chaque soir, avec ses nerfs, devant un public nouveau, parfois hostile au début, et qui peu à peu s’anime…

Le bruit des premiers bravos, c’est comme la glace qui craque à l’époque du dégel. A ce moment on sent que la salle est prise et l’on en met pour qu’elle le soit encore plus.

Ca, c’est du travail.

Tandis qu’au cinéma, quand je pense que je vais me voir aller, venir et parler sur l’écran et que si ça ne colle pas il me sera impossible de retoucher, non! voyez-vous, rien que d’y penser, j’en ai la tremblote, et je crois bien que jamais je n’aurai le courage d’aller voir mon film; j’aurai trop peur d’être déçue. (« De la scène à l’écran : Maud Loty va faire du cinéma parlant » , Cinémonde. 15/01/1931)

1930年代トーキーの時代に再度映画主演(『即興息子 Le fils improvisé』)のオファーが回ってきます。最終的にはヒロイン役を降りてしまったものの、映画についての考え方を聞けただけでも興味深いインタビューとなりました。

[IMDb]
Maud Loti

[Movie Walker]


[出身地]
フランス(パリ)

[誕生日]
7月19日

1929 – 『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』 米プロモ用プレス写真

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』より

« La Merveilleuse Vie de Jeanne D’Arc » 1929 US Press Photo

現在フランスで祝典が行われているジャンヌ・ダルク400年祭に関連した忘れ難い出来事のひとつが、仏歴史大作映画『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』のオペラ座プレミア公開である。映画はジャンヌの生き様を生き生きと描き出している。この写真は軍馬に乗り、兵を率いてオルレアン解放に向うジャンヌの姿を写したものである。

A memorable event in connection with the Quincentenary of St. Joan, now being celebrated in France, is the production, at the National Opera House in Paris, of Great French Historical Film, « La Merveilleuse Vie De Jeanne D’Arc, Fille De Lorraine. » The film portraits graphically the life of the immortal Joan of Arc. Photo shows Joan of Arc mounted her charger, leading her troops to relieve the siege of Orleans.

合衆国で紹介された際のプレス用写真。映画中盤にジャンヌ・ダルク(シモーヌ・ジュヌヴォワ)が兵を率いてオルレアン奪還に向かう場面を撮影した一枚。解像度の高い写真ではありませんがVHSや9.5mmフィルムで確認しにくいエキストラの表情や衣装が写っています。

裏面に映画の紹介文をタイプ打ちした紙が貼られており、ニューヨークの「アトランティック写真(Atlantic Photos)」「1929年5月22日(22 MAY 1929)」のスタンプが押されています。

IMDbによると『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』の劇場公開は1929年11月1日。その半年前の4月18日にパリ・オペラ座でプレミア公開されており、4日後の4月22日に文章がタイプ打ちされ、5月22日に写真が準備された流れになっています。

ヘレン・ギブソン Helen Gibson (1892 – 1977)米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Helen Gibson 1920 Autographed Photo

映畫界に這入つたのは、一千九百十四年にカレム會社に雇はれたのが最初であるが、數箇月後、豫て活劇女優として知られて居たヘレン・ホルムズ嬢が同社を去るに及んで、その後を受けて「ヘレンの冒険」を完成する事になつた。嬢が鐵道冒險女優として、米國の映畫界に異彩を放つやうになつたのは、その以後の事である。目下はカレム社を去つてユニヴァサル會社に勤めて居る。

パリの音楽高等師範学校に入学、ジュール・トルフィエに師事するが程なく演技の勉強を離れ、1918年に映画初出演となる2作『他人の妻』『殺したのは誰だ』撮影に参加した。

嬢は本名をヘレン・ローズ・ギブソンと云つて、少女時代は兎も角も、今では其名のローズと云ふ綴字が示して居る通り、如何にも温順で極く内気な人であると云はれて居る。しかし、自分の仕事に對しては、至つて忠實で、あれ程の大冒險を、物の數とも考へて居ないさうである。自分がカメラの前で演じて居る事を、世間の人は何故あんなに珍らしがつて騒ぐのか解らないと、嬢は語つて居る。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)


サイレント時代の連続活劇で最も長く続いたのが『ヘレンの冒険』(Hazards of Helen、カレム社、1914〜17年)です。アクション系ヒロインと蒸気機関車の鉄板の組みあわせは多くの心を鷲づかみにし計119エピソードが製作されるまでに至りました。

初代「ヘレン」を演じたのがヘレン・ホームズ(1892-1950)で、彼女はパール・ホワイト等に先行する女性連続活劇ヒロインとしてハリウッド史上に名を残すことになります。しかしすぐに自身の映画会社を立ち上げて離脱、過渡的な代役(エルシー・マクリード)を経た後、正式に「二代目ヘレン」として紹介されたのがヘレン・ギブソン(1892 – 1977)でした。

嬢は自身を「危難のスペシャリスト」と評し、とりわけ機関車でのアクションを得意として居る。[…]

最近の『断線』に切れた電信線を掴んで宙づりとなつた嬢が列車の客席に飛びこんでいく場面があつた。先の作品同様、機関車は恐ろしい速度で進んでおり、嬢はリハーサル中にタイミングを見誤り列車とあわや衝突の事態に相成つた。落下して意識を失い車輪がすれすれの距離を通り抜けていく。一ヶ月以上に渡る入院を余儀なくされたが退院を果たした嬢は果敢にも撮影に再挑戦し見事成し遂げてみせたのである。

「死と戯れる娘たち」クレイトン・ハミルトン
(『ピクチャープレイ・マガジン』1916年5月号)

馬の曲乗りなどを披露していた経歴の持ち主で技術的ハードルを難なくクリアし、途中から脚本にも絡むようになります。『ヘレンの冒険』終了後はユニヴァーサル社で活動を続けますが事故の影響などもあって同社を離脱、スタントなど脇役での出演が中心となり表舞台からは姿を消していきました。


[IMDb]
Helen Gibson

[Movie Walker]


[出身地]
合衆国(オハイオ)

[誕生日]
8月27日

[撮影]
Witzel L.A.

[データ]
12.7 × 17.5 cm

キャスリン・ウィリアムス Kathlyn Williams (1888-1960) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Kathlyn Williams 1910s Autographed Photo

かつての銀幕花形で、初恋相手である活動写真に戻つてきた一人がキャスリン・ウィリアムス孃である。モンタナ州の町ビュートに生れ、ウェズリアン大学とニューヨーク演劇学校で学んだ。舞台では『21歳なりし頃』『デイン夫人の擁護』などに出演した。嬢はパラマウント社やアートクラフト映画社の映画に多く出演しており、『ビッグ・ティンバー』『遭難脱出』『囁きの合唱』『すべてが手に入る訳ではなし』。近作に『愛と芸術』があり、トーマス・ミーアンの相手を務めてゐる。丈は5尺5寸、體重は16貫700匁、金髪に灰色がかった青の瞳を有する。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

One of the old favorites of the screen to return to her first love — motion pictures — is Kathlyn Williams. Miss Williams was born in Butte, Montana, and educated at Wesleyan University and the New York School of Dramatic Art. On the stage she appeared in « When We Were Twenty One, » « Mrs. Dane’s Defence » and others. Miss Williams has appeared in many Paramount and Artcraft pictures, including « Big Timber, » « Out of the Wreck, » « The Whispering Chorus » and « We Can’t Have Everything. » One of her latest pictures is « The Prince Chap, » in which she plays opposite Thomas Meighan. Miss Williams is five feet five inches high, weighs a hundred and thirty-eight pounds and has blonde hair and grey-blue eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)

「モーション・ピクチャー・マガジン」1916年11月号表紙

1910年代初頭ビオグラフ社で女優デビューを果たし、ゼリグ社に移って製作された「キャスリンの冒険(The Adventures of Kathlyn)」活劇シリーズで人気を得ていました。会社での序列が上がるにつれて脚本などにも携わるようになり、ゼリグ社で数本自作を監督した記録が残っています。その後はドラマへと比重を移し、パラマウント系列の映画会社を拠点に活動を続けていきました。

映画製作にも関与したパイオニアの一人に位置づけられることもありWFPP(映画業界女性先駆者プロジェクト)でも大きく扱われています。ゼリグ社時代のプリントをEYE映画博物館が保存しており現在YouTubeでも閲覧できます。

『キャスリンの冒険』(1913年、ゼリグ映画社) EYE映画博物館所蔵プリント

[IMDb]
Kathlyn Williams

[Movie Walker]
キャスリン・ウィリアムス

[出身地]
合衆国(モンタナ)

[誕生日]
5月31日

ファニー・ワード Fannie Ward/Fanny Ward (1872 – 1952)

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

ファニー・ワード1927年の直筆サイン入り絵葉書
Fannie Ward 1927 Autographed Postcard

嬢をして今日の人氣を博せしめた作品は、一千九百十四年に、早川雪洲氏やヂャック・ディーン氏などと一座して撮影した日本劇「チート」である。この映畫を製作して以来、嬢は米国映畫界の首腦女優となつた。

爾来、「テネッシーの赦罪者」「國防の爲めに」などを撮影して、益々名聲を昂めたが、昨年の始めに、パセ會社のエストラ映畫の專属女優となつた。

目下は、ラスキー會社の初舞臺當時に戀に落ちたヂャック・ディーン氏と結婚して、幸福な樂しい生活を送って居る。

當年四十四であるけれども、尚未だ二八の少女のやうに、若々しい容貌と豊かな肉體とを持つてゐる。嬢が斯界に喧傳される所以も一つには、この絢爛たる名花の趣を備へて居る爲めである。しかし、技藝そのものから云つても、嬢は優に大花形の中に加へられるだけの天分を持つて居る。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

Fannie Ward in Cheat
『チート』でのファニー・ワード

1910年代にハリウッドで花形となった女優としては最も芸歴の長い一人で1890年代にはすでにブロードウェイの舞台に立っていました。英米を股にかける形でキャリアを積み上げていくものの、1910年代半ばに舞台での人気が翳りを見せる中でデミルの要請に応じて映画女優に転身。1915年公開の『チート』(ラスキー社)でトップ女優の仲間入りを果たしました。

その後しばらくラスキー社花形として活動、1918年にパテ社傘下のアストラ社に転籍。パテ社が「特選長編(Extra-Selected Feature)」として配給した第一作がファニー・ワード主演の『お雪さん(A Japanese Nightingale)』でした。

日本人から見ると不自然なセットや設定が目につきますが当時の欧米の観衆はエキゾチックな魅力を感じたようです。1922年には3リール物の短編に編集されて再公開されるという当時としてはやや珍しい運命を辿った一篇です。

moving-picture-world-19180817
ムービング・ピクチャー・ワールド誌1918年8月17日

1920年代半ばに米パテックス社が9.5ミリ小型映画を市販し始めた時『お雪さん』が9.5ミリ化されたのもこの延長上にあります。ファニー・ワード出演作では実はもう一作『ミュージックホールでの初舞台』という作品が仏パテ社から9.5ミリ形式で販売されていました。短い抜粋ですが『チート』でも『お雪さん』でもありません。「遺失」作品の一部ではないのかなと気になっています。

サイン物は今回が2枚目の入手。絵葉書サイズのカードに名前と「1927年」の年号が手描きされています。もう一枚は仏シネマガジン誌のプロマイド写真で裏面に日付、仏語メッセージ、名前、住所が書かれています。

Fanny Ward's French Inscription dated Aug. 10 1921

謹しんで、1921年8月10日
ファニー・ワード
シャンゼリゼ通り114番

Sincèrement à vous, 10-8-21
Fanny Ward 114 Av. des Champs-Elysées

[IMDb]
Fannie Ward

[Movie Walker]
ファニー・ワード

[出身地]
合衆国(ミズリー)

[誕生日]
2月22日

[サイズ]
8.6 × 13.6cm(撮影:「S. Georges of Green St. W.C.2」)
17.2 × 23.8cm(シネマガジン製ポートレート写真))

マートル・ステッドマン Myrtle Stedman (1885 – 1938) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Myrtle Stedman 1925 Autographed Photo
Myrtle Stedman 1925 Autographed Photo

マートル・ステッドマン夫人は1888年にイリノイ州シカゴに生まれ、スターレツト夫人経営による同地の学校で教育を受けた。舞臺での長い活動歴を有した実力派の女優である。1912年に銀幕デビューする以前、劇場で音楽喜劇や軽いオペラ作品に出演して大きな成功を収めている。映画女優の始まりはかつてのゼリグ映画社で、以来一流プロデューサーによる製作会社のほぼ全てで何がしかの出演を果たしてきた。尊厳や忍耐力、温かみあるユーモアの感覚や芸術力が必要とされる大人の女性役でその力が発揮されており、あちこちのプロデューサーから引っぱりだこになつている。息子のリンカーン・ステッドマンは将来を嘱望されている若手男優である。趣味はハリウッドに構えた大邸宅のお手入れ。身長5尺6寸、体重は16貫900匁、金髪に淡い褐色の瞳を持つ。

『銀幕著名人録』(ジョージ・H・ドーラン社、1925年)

Myrtle Stedman from Famous Film Folk (1925)

MYRTLE STEDMAN was born in Chicago, Ill., in 1888, and received her education in Mrs. Starret’s School of that city. She has had a wide theatrical career, and is an accomplished actress. She has had a successful stage career, having appeared in musical comedy and light opera, prior to her screen debut which was made in 1912. Her screen debut was made with the old Selig Company, and she has since appeared in the productions of almost every first class producer, her ability to portray roles of matured womanhood, wherein proper dignity, bearing, humor and art are so necessary, making her services by all producers always in demand. Mrs. Stedman is the mother of Lincoln Stedman, himself a promising young actor. Her hobby is naturally the care of her pretty Hollywood bungalow. She is 5 feet 7 inches in height, weighs 140 lbs., and has blond hair and hazel eyes.

Famous film folk; a gallery of life portraits and biographies
(New York; George H. Doran company, 1925.)

1910年代初頭、ゼリグ社のウィリアム・ダンカン主演西部劇でヒロイン役に重用されその後ボスワース映画社の人情劇や活劇へ活動範囲を広げていきます。彼女の名前を映画史に刻むことになったのは、ハリウッド女性監督のパイオニアであるロイス・ウェバーの『偽善者』(1915年、ボスワース社)のヒロイン役でした。社会派の傾向を持つウェバーの作風は当時のハリウッドで異彩を放っており、挑発的で鋭利な美的感覚は今見ても新鮮さを失ってはいません。

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1915年『偽善者(Hypocrites)』より

ステッドマンは20年代になってもフレッド・ニブロ監督の『性』(1920年)、早川雪洲主演の『黒薔薇』(1921年)などで存在感を発揮。20年代中盤から助演が増えますが、母親役から老け役までこなしトーキーにも対応、30年代末に心臓発作で亡くなるまで四半世紀に渡る女優人生を全うしています。20年代初頭の出演作『断腸の笛』をYouTubeで見ることができます。

Myrtle Stedman in The Whistle (1921)
1921年ウィリアム・S・ハート主演作
『断腸の笛(The Wilstle)』より

[IMDb]
Myrtle Stedman

[Movie Walker]
マートル・ステッドマン

[出身地]
合衆国(イリノイ州シカゴ)

[誕生日]
3月3日

[データ]
22.7 × 17.8 cm. 写真面に「エリザベス(Elizabeth)」の宛名書きあり。裏面に旧所有者の書きこみが多数見られ、1925年7月にニュージャージー州在住のエリザベス・ライド・ウォーカーさん(Elizabeth Reid Walker)が受け取った旨が印されています。

モード・ファーリー Maude Fealy (1883-1971) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

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モード・ファーリー嬢は1886年の3月4日、テネシー州メンフィスで生れた。母マーガレットは18年の舞台経験を持ち、現在はコロラド州デンバーのテイバー演劇学校を運営している。ファーリー嬢は4才の時、母がヒロインを演じた『ファウストとマーガレット』で初舞台を踏んだ。母親の学校で学びながら、『蛾』ではヴェラを演じ、『ロミオとジュリエット』のジュリエットに扮し、『ピグマリオンとガラテア』のガラテア役、『嵐の孤児』のルイーズ、『愛しいキャスリーン』のキャスリーンを演じた。

『舞台著名人録(Who’s Who on the Stage)』(ウォルター・ブラウニー著、1906年)

1900年代の合衆国でとても人気のあった舞台女優さん。

主たる活動拠点は舞台ながら映画とも接点を持ち、1911年に米タンホイザー社と契約しスクリーンデビュー。1913年公開の『ルネ王の娘(King Rene’s Daughter [YouTube])』を見るとナオミ・チルダースやマルヴィーナ・ロングフェローに近い、どこか野生の土臭さを残した米正統派の美女だと分かります。タンホイザー社との契約は1914年で切れたもののその後も舞台とスクリーンを行き来し、1930年以降はデミル作品を中心に脇役として姿を見せていました。

今回ご紹介するのはキャリア初期に撮影された写真です。額を含めると結構な大きさ(縦41×横37センチ)。裏側には「1904年頃撮影の手彩色生写真」の説明と飾ってあった場所(英マンチェスターのグレシャン通り)が明記されています。額縁はおそらく戦後のもので手彫りのしっかりした作り。

撮影者は不明。モード・ファーリーは早くからイギリスに進出しており、写真もイギリスで撮られたものではないかと考えています。写真裏にヒントがありそうな気がするのですが、裏蓋をテープで留めてあるため触らないことにしました。

Maude Fealy c1903 Postcard
1903年の消印が入った絵葉書

ほぼ同時期の絵葉書。モード・ファーリーの一般的なイメージはこちらなのかな、と。髪を胸元まで下ろしたイメージが強いため、今回の写真のようにアップにすると雰囲気が変わります。

Maude Fealy Leafcut Autograph
リーフカット・オートグラフ

写真とは別ルートで手に入れたリーフカット・オートグラフ。サイズは約5×9センチ。数字の「3」を左右反転させた小文字「e」に特徴あり。

[IMDB]
Maude Fealy

[Movie Walker]

[誕生日]
3月4日

[出身]
合衆国(メンフィス)

[データ]
41 × 37 cm(額縁含む、写真は25×19センチ程度)

ジェーン・ノヴァック Jane Novak (1896–1990)

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Jane Novak Autographed Photo
Jane Novak Autographed Photo

ジェーン・ノヴァックはミズリー州のセントルイスで生れ、同地で名高いノートルダム高校の卒業生である。父親はセントルイスの新聞編集員で、うら若きジェーン孃が女優になりたいと聞いた時にも反対をしなかった。最初の出演機会はボードヴィルで、その後喜劇調のミュージカルに進出していく。ロスアンゼルスからの招きで孃は映画デビューを果たし、『流転する罪業』で大きな成功を収めた。遂に孃はウィリアム・S・ハート氏作品のヒロイン役を射止め、自力でスターダムへと辿りついたのであつた。映画界での多年に渡る活動も嬢には何の変化も及ぼさず、デビュー当初に見られた甘えの無い魅力を今も尚持ち続けている。水泳を得意としゴルフの達人で、一人娘がいる。丈は五尺七寸、體重は十五貫十両、金髪と表現豊かな碧眼を有す。

『銀幕著名人録』(ジョージ・H・ドーラン社、1925年)

JANE NOVAK was born in St. Louis, Missouri, and is a graduate of the famous Notre Dame Convent of that city. Her father was a newspaper editor in St. Louis and offered no objections when youthful Jane suggested she become an actress. Vaudeville offered her the first opportunity, and later she entered the musical comedy field. Los Angeles beckoned and beautiful Jane made her debut in pictures, appearing with great success in « Eyes of the World. » Finally she became leading lady for William S. Hart, and then graduated to stardom in her own right. Years of picture work have left no mark upon her, she still possessing that unspoiled charm which characterized her first public appearance. She is a splendid swimmer, plays golf excellently, is the mother of a wonderful daughter, and is 5 feet 7 inches tall. She weighs 125 lbs., has blond hair and expressive blue eyes.

Famous film folk; a gallery of life portraits and biographies (New York; George H. Doran company, 1925.)

ヴァイタグラフ社で1913年に女優デビュー、ユニヴァーサル社~クリューン映画社へと移っていき、1918年頃にはモンロー・ソールズベリー、トム・ミックス、トム・ムーア主演の西部劇で重用されていました。1919年にウィリアム・S・ハートとの共演が始まり『猛虎』『大金を護りて』『開拓者』など5作で実力を発揮していきます。

ハート作品の多くは「弱みを抱えながら大事なものを守るために立ち上がる主人公」が活躍する物語で、家族や生まれ故郷、一家の名誉などが守られるべき存在として登場してきます。ジェーン・ノヴァックは主人公が守りたくなる「はかなげな(fragile)」空気感を出すのが上手い女優さんでハート作品の世界観によく馴染んでいました。

Jane Novak in Wagon Track (1919)
『開拓者』(Wagon Track、1919年より)

現代物もこなし第一次大戦を背景にした情念物『扉の蔭』(1919年)やヒッチコック脚本による『ブラックガード』(1925年)が現存しています。

またアンソニー・スライド氏の『サイレント・プレイヤーズ』に晩年のインタビューを元にした思い出話が多数収録されています。決して悪口を言わない、柔和で温かい言葉が彼女の性格をよく伝えています。唯一の例外がモーリス・トゥルヌール。戦前名監督の一人ながらパワハラ体質だったようで、スタッフに怒鳴り散らしているのに腹を立てたジェーンさんが「私にそれしたら速攻辞めますからね」と啖呵を切って黙らせたそうです。彼女のタフで逞しい一面を垣間見せるエピソードでもあります。

[IMDb]
Jane Novak

[Movie Walker]
ジェーン・ノヴァック

[出身地]
合衆国(ミズリー州セントルイス)

[誕生日]
1月12日

[撮影]
Hoover Art Co.

[データ]
18.5 × 23.8 cm

エリノア・フェアー Elinor Fair (1903–1957)

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Elinor Fair 1920s Autographed Photo
Elinor Fair 1920s Autographed Photo

エリノア・フェアー嬢は1903年ヴァージニア州リッチモンドに生を享け、幼少時に家族と共に加州ロスアンジェルスへ引っ越し、同地でセントメアリーズ高校に入学した。一時はシアトルのセントラル高校の生徒でもあつた。品のある孃は一度はバイオリン奏者になろうと思い独ライプチヒに留学している。大戦のため母国へと戻り舞台の輝きに魅せられロスのアルカザール劇場で踊り子として初めて衆人の前に登場した。嬢の美しさと才能は忽ちにして映画製作者の目に留まり、ウィリアム・ファーナム氏の「長旅の終わり」で女優デビューを果たし、「ミラクルマン」では体の不自由な富豪妹役を演じた。嬢は優れた踊り子で、ピアノの名手である。丈は五尺五寸、體重は十四貫五十両、褐色の髪と瞳を有す。

『銀幕著名人録』(ジョージ・H・ドーラン社、1925年)

1925 - Elinor Fair in Famous Film Folk
1925 – Elinor Fair in Famous Film Folk

ELINOR FAIR was born in Richmond, Virginia, in 1903, and in childhood moved with her family to Los Angeles, Cal., where she attended St. Mary’s Academy. For a time she was also a student in the Central School at Seattle. At one time dainty Miss Fair thought she would be a violinist, and went to Leipzig, Germany, to study. The World War brought her back to America, and the lure of the stage brought her before an audience for the first time on the stage of the Alcazar Theatre, in Los Angeles, where she appeared as a dancer. Her beauty and talents attracted the attention of motion picture producers, and she was cast with William Farnum in « The End of the Trail. » She was in the cast of « The Miracle Man, » playing the invalid sister. Miss Fair is a splendid dancer and pianist. She is 5 feet 4 inches tall, weighs 120 lbs., and has brown hair and eyes.

Famous film folk; a gallery of life portraits and biographies
(New York; George H. Doran company, 1925.)

Elinor Fair in Big Stakes (1922)
『ビッグ・ステイク』(1922年)
Elinor Fair in Yankee Clipper (1927)
『メリケン波止場』(1927年)

1910年代後半にフォックス映画社で活躍し始めた女優さん。当初は本名のエリナー・クロウ名義でクレジットされていました。濃い褐色の目と髪を活かしてエキゾチックな役柄も得意としており、ルイ・J・ガスニエの名作『キスメット』(1920年)でアラブのお姫様役、『ビッグ・ステイク』(1922年)ではメキシコ女性を演じるなどしています。20年代になってフォックスを離れ映画会社を転々としていきますが、20年代中盤にデミル作品ヒロインに抜擢され1926年の『ヴォルガの舟唄』と翌年『メリケン波止場』で役者としての成長を見せました。

[IMDb]
Elinor Fair

[Movie Walker]
エリノア・フェアー

[出身地]
合衆国(ヴァージニア州リッチモンド)

[誕生日]
12月3日

[データ]

[サイズ]
24.0 × 18.5 cm

コリーヌ・グリフィス Corinne Griffith (1894 – 1979) 米写真家ドナルド・キース氏撮影・旧蔵サインコレクション(7)

「ドナルド・キース氏撮影・旧蔵サインコレクション」「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

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Corinne Griffith c1920 Inscribed Photo 02
Corinne Griffith c1920 Inscribed Photo

そもそも嬢は南方の乙女であつて、在つて生れた藝術的の才能の慍和な女性的の優情は、既に夙く觀客の間に定評賞美されたのである。嬢は社界劇に適した理想的の處女で、最近次年度製作として、色彩に富んだ而かも力強い響きのある九つの題材が選ばれた。その何れもが蓋し状の性格を狙って描かれたものとも言ふべく價値あるものだといふ評判である。

「コリネ・グリフヰツス嬢」
『活動画報』1918年11月号「米國ヴァイタグラブ社の人氣俳優」

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コリンヌ・グリフィス嬢はテキサス州の町テクサーカナにて1898年生を享けニューオーリンズの修道会で教育を受けた。嬢の女優人生はヴァイタグラフ社で始まっている。「スクリーン・ワールド」主催のコンテストを勝ち取り東へとやってくるとヴァイタグラフ社でヒロインの役を射止めた。最新作は「The Carter Girl」「Bab’s Candidate」「The Whisper Market」。明るめの茶髪に蒼い眼。體重は十四貫五百目、身長五尺四百寸。泳ぎがとても上手く、ウィンタースポーツも満喫し、車の運転のみならず乗馬も好んでいる。演技力と相待った嬢の魅力で映画界きっての人気者の一人である。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

[IMDb]
Corinne Griffith

[Movie Walker]
コリーヌ・グリフィス

[出身地]
合衆国(カリフォルニア州 サンタモニカ)

[誕生日]
11月21日

[データ]
32.7 × 40.7 cm(カーボン製フレーム含)

パール・ホワイト Pearl White (1889 – 1938)

「パール・ホワイト連続活劇 [Pearl White Serials]」
& 「合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Pearl White Inscribed Photo
Pearl White Inscribed Photo

六年の間、曲馬團の女王として相當の評判を取つてゐたが、やがて活動寫眞の隆盛に赴く様を見て、自分も映畫劇に出演したいと考え、昔馴染の團員と別れて、先ずユニヴァサル會社に身を投じた。同社ではクリスタル映畫の喜劇に出演した。その頃の作品には「パールと泥棒」「新しい帽子」などを初めとして数十本の喜劇がある。

一千九百十四年の春、パセ會社の招きに應じて同社に移り、新連續映畫「ポーリンの危難」に女主人公ポーリンを演じ、次いで同じく連續映畫「拳骨」に女主人公エレンを勤めて、斯界の人氣を一身に集めるに至つた。連續映畫專門の嬢は、「拳骨」に續いて「鐵の爪」を撮影した。それが亦大好評であつた。その爲めに、遂ひには、パセ會社ニュー・ジャーセーの第一首腦女優とまでなるに至つた。以上三種の連續映畫の外に、近頃の作品では、「運命の指輪」と「呪の家」とが電氣館に上場された。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

1917年公開の『運命の指環』宣伝用写真。乗馬服姿で鞭を持って毛皮に立っています。縁に数か所ダメージあり。左下には万年筆で「ミルドレッド・メイソンさんへ(To Mildred Mason)、パール・ホワイトより」の一文。ちょうど1910年代の半ば、ルービン映画社(Lubin Company)で短編アクション映画の脚本を担当していた女性に同名の方がおられます。

もう一枚は絵葉書への直筆サイン。

Pearl White

印刷にも見えるフラットな筆跡ですが光をかざすと薄いペン先の跡があります。また以前に売買のあった同一デザイン絵葉書のサインと比べ筆跡が微妙に異なっています。

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Pとtの字形が異なった一枚

裏の宛先面はアルバムからの剥離跡多数。消印が読めたのが救いでした。1914年にニューヨークで投函されています。

[IMDB]
Pearl White

[Movie Walker]
パール・ホワイト

[出身]
合衆国(ミズーリ州)

[誕生日]
3月4日

[サイズ]
19.5 × 24.5 cm(スチル写真)
13.6 × 8.6 cm(絵葉書)

1929年 日活・撮影稲荷前の女優揃え(『婦女界』昭和4年2月号)

1929年日活・撮影稲荷前の女優揃え

京都太秦の日活撮影所内に祀つてあります撮影稲荷の前に集まつた、日活の時代劇部と現代劇部の女優さんたちです。後列右より入江たか子津島るい子鈴川和子衣川光子、櫻井秀子、村松高子、前列右が常盤みどりで左が一色あけみさん。

『婦女界』1929年(昭和4年)2月号「婦女界グラフ 映画女優の生活 その一」

齣フィルムを収める小袋として使用されていた『婦女界』掲載の写真。二つの齣フィルム用に割かれていたのを画像加工でくっつけています。

右脇で存在感を放つおたかさんと左端を〆る横田永之助氏の圧で面白い構図に仕上がりました。今の三吉稲荷が出来る以前、太秦撮影所内にも稲荷があったんですね。村松高子さんはjmdbで「松村」と登録、「櫻井秀子」は櫻井京子かな。そろそろ無声映画の黄金期が終わりトーキーの足音が聞こえてきます。1925年(大正14年)の日活女優揃えと並べたい一枚ですね。

クレオ・マディソン Cleo Madison (1883 – 1964)

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Cleo Madison 1910s Autographed Photo
Cleo Madison 1910s Autographed Photo

クレオ・マヂソン嬢は、米國イリノイズ州の一小都市ブルーミントンに呱々の聲を擧げた。ブルーミントン女子高等師範學校を卒業後、しばらくして、嬢の一家は、ある家事上の都合からその地を去つて、西太平洋岸の新開地カリフォルニアへ移住する爲めに、遙々と旅に出なければならなくなつた。[…]

今度はいよいよオリヴァー・モロスコ一座に加はつて、眞の女優として、サンフランシスコノバーバンク座に出演する事となつた。その興行は成功して、嬢の評判も意外に好かつた。それ以來、嬢は劇界の人々に認められて、多くの名優と接する機會が多くなつた。ヴァージニア・ハーンドと一座した時には嬢は舞臺監督の位置に昇つた。しかし、その時に働き過ぎた爲めに健康を害した。それで暫く舞臺を引いて休養した。その時、ユニヴァサル會社との契約が成立した。嬢が映畫に現はれるまでには斯うした過去があるのである。今では舞臺監督兼女優として働いてゐる。「ハートの3」「カメロン黨」「空彈」などは我國でも有名な出演映畫である。嬢は暫く斯界を去つてメーソンオペラハウスに出演していたが今度パイオニア會社に入り第一回作品を完成した。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

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1910年代半ばから20年代初頭にかけてユニヴァーサル社を拠点に活躍していた女優さん。同社配下のレックス映画社はロイス・ウェバーを擁し、積極的に監督業を女性に委ねていくパイオニア的な活動を展開していました。

ロイス・ウェバーの成功を受ける形で他にも女性監督がデビューしており、元々女優として同社と契約したクレオ・マディソンも短期間(1915-16年)ながら自身の主演作を自ら監督しています。この内『エレノア嬢捕物帳(Eleanor’s Catch)』が現存していてYouTubeで見ることができます

Cleo Madison in Elenor's Catch
1916年監督作『エレノア嬢捕物帳(Eleanor’s Catch)』より

正直期待せず見始めたのですが…一見ありふれた社会派メロドラマ短編と見せかけ、最後のどんでん返しが見事な秀作でした。当時も女優たちは男の視線を前提とした可愛らしさ、美しさの基準に従っていた訳で、そういうのを無視して好きに撮り始めるとこういう内容になるのか、と新鮮な驚きがありました。そういった経緯もあってフェミニズム寄りの初期映画史で評価が高かったりします。

[IMDb]
Cleo Madison

[Movie Walker]
クレオ・マディソン

[出身地]
合衆国(イリノイ州 ブルーミントン)

[誕生日]
3月26日

[サイズ]
13.8 × 18.2cm

市川 右太衛門 (1907 – 1999)

日本・男優 [Japanese actors]より

Ichikawa Utaemon Autographed Photo
Ichikawa Utaemon Autographed Photo

本名淺井善之助。明治卅九年、大阪市に生る。幼少より子役として舞臺に立ち、後市川右團次の門に入り、現在の藝名を名乗つて大正十五年マキノへ入社。昭和二年獨立して右太衛門プロダクシヨンを起し翌年より松竹と提携して現在。主な近作は「一殺多生剣」「雁金文七」「上州無宿陣」等、身長五尺七寸、體重十六貫二百目。趣味讀書、釣り。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

[JMDb]
市川右太衛門

[IMDb]
Utaemon Ichikawa

[出身地]
大阪府(大阪市西区)

[誕生日]
2月25日

[データ]
11.3 × 16.3cm

ビーブ・ダニエルズ Bebe Daniels (1901 -1971) 米写真家ドナルド・キース氏撮影・旧蔵サインコレクション(6)

「ドナルド・キース氏撮影・旧蔵サインコレクション」「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Bebe Daniels c1920 Inscribed Photo
Bebe Daniels c1920 Inscribed Photo

ビーブ・ダニエルズ嬢はテキサス州ダラスにて生れ、ロサンゼルスの修道院學校で教育を受けた。舞台での子役が演技歴の皮切りである。役柄を次第に広げ、いつしかうら若き乙女役を引き受けるようになつていた。二年の間、嬢はロウリン=パテ社の名を高らしめた喜劇作品でハロルド・ロイドの向こうを張った。フェイマス・プレイヤー社に合流し『男性と女性』で長編劇映画のデビューを果たす。次いで『エヴリーウーマン』『ダンス狂』『何故妻を代へる』で目につく役柄を任された。嬢の努力と才覚は遂に報われ、現在はリアルアート社の花形として迎えられ、第一弾『貴方には判らない』で大々的に売り出されている。ダニエルズ嬢は身長5尺4寸、体重14貫9百目、黒目黒髪。

Bebe Daniels was born in Dallas, Texas, and educated in a Los Angeles convent school. Her stage career started when she played child parts in stock. Gradually her scope of work broadened and she played ingenue roles. For two years Miss Daniels played opposite Harold Lloyd in the famous Rolin-Pathe comedies. She joined the Famous Players ranks, making her debut in a dramatic role in « Male and Female. » She then was prominently cast in « Everywoman, » « The Dancin’ Fool, » and « Why Change Your Wife. » Her efforts and talents have been rewarded as she is now a star in Realart Pictures, for whom her first starring vehicle is « You Never Can Tell. » Miss Daniels is five feet four inches high, weighs a hundred and twenty-three pounds, and has black hair and eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)

1910年代末のロイド喜劇で人気を得て、20年以降も喜劇を主戦場としつつも芸風を広げ(歴史劇『ボーケール』1924年、情念ドラマ『リオ・リタ』1929年)30年代半ばまで活躍を続けました。珍しい所ではRKO~ワーナーへと流れた後に出演した1931年版『マルタの鷹』での悪女役も印象的です。

Bebe Daniels in The Non-Stop Kid (1918)
『ロイドの猛獣結婚』(1918年)より
Bebe Daniels in Why Change Your Wife (1920)
『何故妻を代へる』(1920年)より
Bebe Daniels & Ricardo Cortez in The Maltese Falcon (1931)
『マルタの鷹』(1931年、ロイ・デル・ルース監督)でサム・スペード役のR・コルテスと並んで

[IMDb]
Bebe Daniels

[Movie Walker]
ビービー・ダニエルス

[出身地]
合衆国 (テキサス州ダラス)

[誕生日]
1月14日

[データ]
25.4 × 30.4 cm(カーボン製フレーム含)

ロイス・ウィルソン Lois Wilson (1894 -1988) 米写真家ドナルド・キース氏撮影・旧蔵サインコレクション(5)

「ドナルド・キース氏撮影・旧蔵サインコレクション」「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Lois Wilson c1920 Inscribed Photo
Lois Wilson c1920 Inscribed Photo

パラマウント・アートクラフト映画社花形のロイス・ウィルソン嬢はペンシルヴァニア州ピッツバーグに生を受け、幼くして家族と共にアラバマ州バーミンガムに引っ越しそこで育てられた。ウィルソン嬢は教職の道を選び、卒業後は田舎の学校で教鞭をとっていた。三週間の教師生活の後、シカゴを訪れた嬢はロイス・ウェバー監督との出会いを果たす。『ポルチシの唖娘(The Dumb Girl of Portici)』で端役を与えられ、プロデューサーの決断によりロスアンゼルス行きが決定する。ウォルター・ケリガン主演作の女主人公を任され、後にフランク・キーナンの相手ともなった。現在はフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社所属である。身長は5尺7寸、體重は14貫5百匁、褐色の髪と榛色の瞳を有する。

Lois Wilson, leading woman for Paramount-Artcraft Pictures, was born in Pittsburgh, Pa., and when a child removed with her family to Birmingham, Ala., in which city she was raised. Miss Wilson studied to be a school teacher and after graduating taught in a rural school. After teaching for about three weeks she journeyed to Chicago where she met Lois Weber. She was given a small part in « The Dumb Girl of Portici » and the producer decided to take her to Los Angeles. There she became leading woman for J. Walter Kerrigan and later played opposite Frank Keenan. She is now with Famous Players-Lasky Corporation. Miss Wilson is five feet five and one-half inches high, weighs one hundred and twenty pounds and has brown hair and hazel eyes..

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)


1920年代中盤にパラマウント映画社の花形となりジェームズ・クルーズやヴィクター・フレミング監督作品に多く主演。『幌馬車』『男子改造』『滅び行く民族』など当時パラマウントが推し進めていたA級西部劇路線の主軸として活躍しました。

Lois Wilson in The Vanishing American (1925)
『滅び行く民族』(1925年)
Lois Wilson in The Covered Wagon (1923)
『幌馬車』(1923年)

[IMDb]
Lois Wilson

[Movie Walker]
ロイス・ウィルソン (Lois Wilson)

[出身地]
英国(ペンシルヴァニア州ピッツバーグ)

[誕生日]
6月28日

[データ]
25.1 × 31.8 cm(カーボン製フレーム含)