ノーマ・タルマッジ Norma Talmadge (1894 – 1957) 米

Norma Talmadge c1920 Autographed Postcard

ノーマ・タルマッヂ孃は、一千八百九十七年、米國ニュー・ジャーセー州のニュウワークに生れたとも言ひ又紐育州のナイアガラ瀑布に近い同名の町に生れたとも云ふ。[…]

十四歳の時、好機會は遂ひに來た。孃は何等の舞臺經驗も無しに映畫に現はれる事となつた。臨時雇としてゞはあつたが、初めから可成勝れた藝を見せた。それで兩親も漸く納得するやうになつた。

嬢が正式に花形として立つに至つたのは、それから暫くの後で、ヴァイタグラフ會社に居る時であつた(「戰争?滅亡?」」)、その頃嬢はブルー・リボン映畫に現はれて人氣を博してゐた。同社を退くとトライアングル會社に移つてファイン・アーツ映畫に出演した。今年の春、三友館に上場された「疑問の釦」は同社の作品で、妹のコンスタンス孃と共演したものである。同社からセルツニック會社に移つて「パンテア」(電氣館上場)その他を作り、程經て今度はセレクト會社に移つて、其處に暫く勤めてゐた。而して、昨年、ファースト・ナショナル會社の新設と共に、同社に移つて、目下は其處に勤めてゐる。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)


ノーマ・タルマッヂ孃はナイアガラ・フォールスで生まれブルックリンの小學校、エラスムス高校で教育を受けた。映畫に携わるやうになつたのは14歳の時であるがそれ以前舞臺の經驗はなく、まずはヴァイタグラフ會社作に出演、当初は同社の専属劇団の一員としてであつた。今やタルマッヂ孃は自身の製作會社を有しており、嬢の主演となる新たな特作はファースト・ナショナル會社を通じて配給されてゐる。現在感情表現に最も秀でた女優と目されており、輕喜劇でも複雑な性格設定の役でも等しく其の力量を發揮する。あらゆる映畫ジャンルに卓越した才を見せることから「万藝の女王」の綽名を広く轟かせてゐる。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

Norma Talmadge was born in Niagara Falls and educated in the Brooklyn elementary schools and Erasmus High School. She entered pictures at the age of fourteen, with no previous stage experience, going first for the Vitagraph Studio as a member of its old stock company. Miss Talmadge now has her own Company, with her new special feature attractions, released through Associated First National Pictures, Inc. She is considered one of the foremost emotional actresses of the day, and is equally capable in light comedy and character roles. Because of her ability to excel in every branch of screen art, she has been universally nick-named “The Queen of Versatility.”

« Who’s Who On The Screen » (1920)

タルマッジ三姉妹(左よりナタリー、ノーマ、コンスタンス) 『銀幕名鑑』( »Who’s Who On The Screen », 1920年)

タルマッジ姉妹の長女ノーマの直筆サイン入り絵葉書。元々長女のノーマがヴァイタグラフ~トライアングル社の花形となり、その人気にあやかって妹コンスタンスとナタリーも女優デビュー、1919~20年にかけてはリリアン&ドロシ-のギッシュ姉妹以上の知名度と人気を博していました。

« Going Straight »、トライアングル社、1916年

« The Devil’s Needle »、ファインアーツ社/トライアングル社、1916年

1920年代の出演作では『復讐の灰』(Ashes of Vengeance、1923年)や『お転婆キキー』(Kiki, 1926年)等が現存しています。一般的にはこの時期の長編作品が代表作とされるのですが正直1910年代短編の方が圧倒的に面白いです。

[IMDb]
Norma Talmadge

[Movie Walker]
ノーマ・タルマッジ

[出身地]
合衆国(ニューヨーク州)

[生年月日]
5月2日

クレオ・マディソン Cleo Madison (1883 – 1964)

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Cleo Madison 1910s Autographed Photo
Cleo Madison 1910s Autographed Photo

クレオ・マヂソン嬢は、米國イリノイズ州の一小都市ブルーミントンに呱々の聲を擧げた。ブルーミントン女子高等師範學校を卒業後、しばらくして、嬢の一家は、ある家事上の都合からその地を去つて、西太平洋岸の新開地カリフォルニアへ移住する爲めに、遙々と旅に出なければならなくなつた。[…]

今度はいよいよオリヴァー・モロスコ一座に加はつて、眞の女優として、サンフランシスコノバーバンク座に出演する事となつた。その興行は成功して、嬢の評判も意外に好かつた。それ以來、嬢は劇界の人々に認められて、多くの名優と接する機會が多くなつた。ヴァージニア・ハーンドと一座した時には嬢は舞臺監督の位置に昇つた。しかし、その時に働き過ぎた爲めに健康を害した。それで暫く舞臺を引いて休養した。その時、ユニヴァサル會社との契約が成立した。嬢が映畫に現はれるまでには斯うした過去があるのである。今では舞臺監督兼女優として働いてゐる。「ハートの3」「カメロン黨」「空彈」などは我國でも有名な出演映畫である。嬢は暫く斯界を去つてメーソンオペラハウスに出演していたが今度パイオニア會社に入り第一回作品を完成した。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

Cleo_Madison-Autographed-Photo01

1910年代半ばから20年代初頭にかけてユニヴァーサル社を拠点に活躍していた女優さん。同社配下のレックス映画社はロイス・ウェバーを擁し、積極的に監督業を女性に委ねていくパイオニア的な活動を展開していました。

ロイス・ウェバーの成功を受ける形で他にも女性監督がデビューしており、元々女優として同社と契約したクレオ・マディソンも短期間(1915-16年)ながら自身の主演作を自ら監督しています。この内『エレノア嬢捕物帳(Eleanor’s Catch)』が現存していてYouTubeで見ることができます

Cleo Madison in Elenor's Catch
1916年監督作『エレノア嬢捕物帳(Eleanor’s Catch)』より

正直期待せず見始めたのですが…一見ありふれた社会派メロドラマ短編と見せかけ、最後のどんでん返しが見事な秀作でした。当時も女優たちは男の視線を前提とした可愛らしさ、美しさの基準に従っていた訳で、そういうのを無視して好きに撮り始めるとこういう内容になるのか、と新鮮な驚きがありました。そういった経緯もあってフェミニズム寄りの初期映画史で評価が高かったりします。

[IMDb]
Cleo Madison

[Movie Walker]
クレオ・マディソン

[出身地]
合衆国(イリノイ州 ブルーミントン)

[誕生日]
3月26日

[サイズ]
13.8 × 18.2cm

マリー・オズボーン Baby Marie Osborne (1911 – 2010) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Marie Osborne 1923 Inscribed Photo
Baby Marie Osborne 1923 Inscribed Photo

映畫界に這入つたのは數年前で、最初はパセ會社のバルボア映畫に現はれた。大正六年の春電氣館に上場されたルス・ローランド嬢出演の連續映畫「赤輪」に、オスボーン嬢も姿を見せてゐた。その映畫はバルボア撮影所の製作に係つたもので、恐らく我國に於ける最初のお目見得であつたらうと思ふ。

房々とした髪、晴れやかな頬、明るい無邪気な瞳、そして子供らしい唇、それ等は映畫劇に於ける子役として、最も適當なものであつた爲めに、嬢の出演映畫はその製作の度に多大の拍手をつて迎へられた。その結果、パセ會社は特に嬢を主人公とする映畫を作つた。「可憐なマリー・サンシャイン」「ジョートと龍」「日蔭と日向」「黄昏の物語」「雙兒のキッディー」などがそれである。その頃から嬢はサンシャインという綽名で呼ばれるようになつた。この綽名が示すやうに、嬢の子供らしい無邪氣さには、少しの厭味もなく、唯春の空のやうな明るさのみが感じられる。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

1930年代にシャーリー・テンプル、1920年代にベイビー・ペギーやジャッキー・クーガンが名を馳せる以前、無声映画の最初期に子役として人気を博した一人がマリー・オズボーンでした。ヘンリー・キング監督の作品で見せた天真爛漫な演技から「サンシャイン」のあだ名で親しまれていました。

Marie Osborne Le Film, n°116
1918年仏ル・フィルム誌116号の表紙より

1919年には子役を引退、以後裏方として映画産業に関わっていきます(1965年のジャック・レモン主演作『女房の殺し方教えます』衣装担当他)。『活動名優寫眞帖』で挙げられていた『雙兒のキッディー(Twin Kiddies)』など出演作の幾つかが9.5mmフィルムで発売されていた記録が確認されています。

サインには役者業を引退した後の1923年の年号が付されています。この時期の直筆物を他に見たことがなく、役名で使用していた「Osborne」ではなく本名の「Osborn」を使用するなど現時点で紛れあり。

[IMDb]
Marie Osborne

[Movie Walker]
マリー・オズボーン (Marie Osborn)

[出身地]
合衆国(コロラド州デンバー)

[誕生日]
11月5日

[撮影]
エヴァンス L.A.

ネヴァ・ガーバー Neva Gerber (1894 – 1974) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Neva Gerber Autographed Photo
Neva Gerber Autographed Photo

ネヴァ・ガーバー嬢は、一千八百九十五年、米國のシカゴ市に生れた、同地の小學校を卒業をシカゴ聖心女學院に學んだ。その頃から演劇が好きで、學科の中でもピアノには特に秀でてゐた。

學生生活を終ると、暫く両親の膝下にあつて、家事の見習ひをしてゐたが、生來の芝居好きな心は、間もなく嬢を驅つて映畫界に身を投ぜしめた。最初に嬢が這入つたのはカレム會社であつた。同社では「探偵の妹」や「大秘密」などを撮影した。しかし、その頃は未だ大して評判にはならなかつた。カレム會社を去るとバルボア會社に移つて「分離された家」「運命の悪戯」などに出演し、更らにフェーボリット・プレイアー會社に轉じて「高壓手段」を製作した。この映畫はカーライル・ブラックウェル氏と共演したもので、嬢の役はエドナといふ娘であつた。大正五年の四月に東京倶樂部に上場された「總選擧」は、卽ちこの映畫の改題されたものである。嬢の名聲が次第に昻つて來たのは實にこの時代からの事である。

その後、同社を去つてアメリカン會社に轉じ、「雛菊」「各自の心」「家なき人」「母の忙しい日」「アニタの蝶」など數多の映畫に出演した。その中でも「家なき人」は特に評判の好かつたものである。嬢の評判が傳へられるに及んで、幸運な日が続いた。

一千九百十六年の夏、ユニヴァサル會社は辭を低うして嬢を招いた。嬢はアメリカン會社を去つてユニヴァサル會社に移つた。そして「望みなき城」「アイドル・ワイヴス」などを撮影した。「アイドル・ワイヴス」は大正六年の五月に帝國館に上場された。その映畫では、嬢は活動寫眞を見る娘を演じてゐた。嬢の入社後間もなく、ユ社は莫大な費用を投じて連續寫眞「電話の聲」を撮影したが、その時、嬢は選ばれて女主人公ポリーを演じベン・ウィルソン氏を相手にして活躍した。この映畫が大正六年の六月に帝國館に上場されて以来、嬢の名は我國にも喧傳されるやうになつた。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

1910年代中盤にカレム~バルボア社の短編劇で下積みを経た後、ユニヴァーサル社連続活劇で名を上げたのがネヴァ・ガーバーでした。『電話の聲』(1917年)を皮切りとしてベン・F・ウィルソン監督の手による活劇にヒロインとして登場、同時期の初期ジョン・フォード西部劇でハリー・ケリーとも共演を重ねています。

20年代になって大手との契約が切れた後もベン・F・ウィルソン監督作品に安定して出演を続けており、幾つかの作品の現存が確認されています。

キャリア初期に監督のウィリアム・デズモンド・テイラーと婚約していた時期があり、1922年に同監督が怪死を遂げ大スキャンダルとなった時にメディアで二人の関係(死の直前まで頻繁に金銭授受があった理由など)が取り沙汰されていました。

[IMDb]
Neva Gerber

[Movie Walker]
ネヴァ・ガーバー

[出身地]
合衆国(イリノイ州アルジェンタ)

[誕生日]
4月3日

[撮影]

コンスタンス・タルマッジ Constance Talmadge (1898 – 1973) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Constance Talmadge c1917 Autographed Photo
Constance Talmadge c1917 Autographed Photo

 コンスタンス・タルマッジ嬢は、一千九百年四月十九日、米國紐育州のブルックリン市に生れた。一説には一千八百九十九年の四月十九日生れであるとも云ふ。ノーマ・タルマッジ嬢の實妹である。初頭教育はブルックリン市で受けたが、後に紐育市に出て、エラスマス學院に學び目出度く同學院を卒業した。嬢が卒業した頃に姉のノーマ嬢はヴァイタグラフ會社の花形として盛んに世間の人気を煽り、殊に「戰争?滅亡?」の主役を勤めて嘖々たる名聲を博してゐた。その姉の境遇を見て、コンスタンス嬢は少なからず心を動かした。そして自分も如何かして映畫界に身を投じたいと考へて、姉に相談をして見ると、姉も直に賛成したので、何等の舞臺經験も持つてはゐなかつたけれども、早速、姉の周旋に依つてヴァイタグラフ會社へ入社する事になつた。それは一千九百十五年の事で、嬢が恰度十五歳の時であつた。その第一回作品として撮影されたのは「ビル叔父さん」である。

 間もなく、姉のノーマ嬢が同社を退いてインターナショナル會社に移ると、嬢も共に去つてトライアングル會社に轉じ、ファイン・アーツ撮影所に行ってダヴィッド・グリフィス氏の配下に屬する事となつた。嬢が今日の名聲を得るに至つたのは、全く、この時にギリフィス氏の下に行つたからであると云つても可い。なぜなれば嬢の技倆を認めて、その技倆を充分に發揮せしめたのは、グリフィス氏であつたからである。グリフィス氏が豫て人に語った中に、「映畫を有名ならしめるものは俳優ではなくて監督者である。監督者は俳優を有名ならしめる事が出来る。」といふ言葉があるが、コンスタンス嬢は蓋しこの言葉を證明した人であるといつて可い。話は「イントレランス」の製作當時の事であるが、この映畫を製作するに當つて、氏は誰彼の差別なく藝の達者と役柄の相應するのとを標準にして俳優を選んだ。その時、嬢は數多の中から選ばれてバビロン時代の山の娘を勤める事になつたのである。この映畫が先頃帝國劇場に上場された時、嬢の藝風は一部の人々の問題となつた。三友館に上場された「疑問の釦」は姉のノーマ嬢がトライアングル會社に移つて來てから共演したものである。

 その後、セルツニック會社に轉じて十數本の映畫を製作したが、最近、またセレクト會社に移つたといふ。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

『活動名優寫眞帖』の後半にあるようにコンスタンス・タルマッジは1917年にファイン・アーツ社を離れ、セルズニック社に所属を移しています。

丁度この時期に姉のノーマはアメリカでも五本指に入る程の人気女優になっていたこともあり、セルズニックは好機到来と妹の売り出しにかかるのです。この1917年に撮影されたのがややうつむきがちな横顔のポートレート写真でした。

1917年12月6日付 『スキャンダル』宣伝記事
1917年12月6日付
『スキャンダル』宣伝記事

写真は万年筆のサイン入り。裏面に「セルズニック映畫社の新進花形 コンスタンス・タルマッジ」のスタンプが押されています。

”Constance Talmadge New Star om Selznick Pictures
”Constance Talmadge New Star in Selznick Pictures » stamped on the back

Constance Talmadge in Her Sister from Paris (1925)
ロナルド・コールマンと共演した喜劇『亭主教育』(1925年)より

[IMDB]
nm0848226

[Movie Walker]
コンスタンス・タルマッジ

[誕生日]
4月19日

[出身]
合衆国(ニューヨーク)

[サイズ]
19.5 × 24.3cm

[撮影]
Bangs-Selznick Photo

アニタ・スチュワート Anita Stewart (1895 – 1961) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Anita Stewart Autographed Photo
Anita Stewart Autographed Photo

映畫に於ける嬢はその天分を速かに示した點で、クリフォード嬢と比較される。全く嬢の名聲は矢のやうに早く擴がつた。それには、次のような機會があつたのである。ラルフ・インス氏といへば、ヴァイタグラフ會社の重役で且つ撮影監督である事は、誰でも知つてゐるが、そのインス氏は嬢の義兄になつている。氏の夫人が嬢の姉なのである。(一説に嬢は氏の姪だとも云ふが、何れにしても親族關係がある事は事實である)インス氏は常にこの天才的な義妹を持つていゐる事を友人たちに誇つてゐた。そして何時とはなしに、ヴァイタグラフ會社の舞臺で藝を仕込んだ。仕込まれると、嬢自身も一度カメラの前に立つて見たくなつた。そこで、先ず最初の六箇月間だえは端役を演じ、一千九百十二年十一月、その第一回の主演劇として「ウッド・ヴァイオレット」を撮影した。續いて數本の映畫を作つたが、同社の特作品たるブロードウェイ特作映畫が創作されるに當つて嬢は選ばれて主役を演じ、益々名聲を昂めるに至つた。「萬雷」「二人女」「大破壊」「呪の列車」「探偵の娘」「銀彈」などは本邦に輸入されたものゝ中でも、特に印象の深かつたものである。目下はファースト・ナショナル會社に勤めてゐる。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

1910年代後半を代表するハリウッド女優。当時の『モーション・ピクチャー・マガジン』誌の人気投票結果を見ていくと1914年に15位で初ランクイン。翌年には10位(152万票)とトップテン入りし、1916年と18年に6位まで順位を上げています。

コミカルで愛らしい女性像を得意としたメアリー・ピックフォードとマーゲリット・クラーク、スポーティーな女性を代表していたパール・ホワイト、妖しさを体現したセダ・バラと並ぶ人気を得ていた訳です。

ヴァイタグラフ社の稼ぎ頭で悲劇調のドラマチックな作品を得意としていました。現存作品が少ないのが残念ですが、先日紹介した『呪の列車』の他に『人の欲望(Human Desire)』がDVD化されています。

[IMDB]
nm0829171

[誕生日]
2月7日

[出身]
アメリカ合衆国(ニューヨーク)

[サイズ]
18.8 × 24.0cm

[撮影]
Hoover L.A.