都賀 静子/靜子 (1912 – 没年不詳)

「日本 [Japan]」より

Tsuga Shizuko Autographed Postcard
Tsuga Shizuko Autographed Postcard

明治四十五年宇都宮に生る。五歳で河合武雄一派の『月魄』が初舞臺、映畫では國活を振り出しに松竹、東亞と轉々とし何れも重要な子役を勤め上げ更にマキノに移つて一躍スターとなつた。主演『戀の守備兵』『村へ來た呑氣者』『狼火』『鈴蘭の唄』等あり、最近では『愛しき彼』『消ゆる舟唄』に出演してフアンの好評を博している。まだ若いから相當に前途を嘱望されてゐるし本人も早く立派な女優になりたいと念じてゐる。好きなものは映畫、雑誌。嫌ひなものは蛇と蛙。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

昭和2年(1927年)2月23日の日付入り。裏面に「髙島千代」とあり、髙島栄一氏の親族の方が所有されていた一枚と思われます。

無声期のマキノ映画娘役として名を知られるようになりましたが1910年代後半から子役として活躍していた長いキャリアの持ち主でした。この後さらに東活~宝塚キネマへと流れていき30年代半ばに引退。戦後1960年前後に東映作品の老け役で短期間カムバックしていた記録が残っています。

[JMDb]
都賀 静子

[IMDb]
Shizuko Tsuga

[出身地]
日本

[誕生日]
5月18日

[データ]
8.5 × 13.5cm

市川 市丸(1906 – 没年不詳)&大河内 伝次郎(1898 – 1962)

「日本 [Japan]」より

Ichikawa Ichimaru & Okochi Denjiro Mid 1920s Autographed Postcard
Ichikawa Ichimaru & Okochi Denjiro Mid 1920s Autographed Postcard

明治三十九年十月名古屋市に生る、野球と散歩がすキで蜘蛛と酒が嫌ひといふ變りもの。大正十年日活關西スタヂオへ入社し『憂国の少年』『姫小姓彌源太』『永樂德太郎』『水戸黄門』等に主演しフアンの好評を博し一躍スターとなる。最近退社して二三のものと日本プロダクシヨンを創設して牛耳を執り映畫の製作に從事してゐたが事志と違ひ遂に解散の憂き目を見たが近く擡頭するであらう。本名を森一太郎といふ。

「市川市丸」『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

1926年(大正15年)8月に発売された『キネマ』誌の第4回人気投票得点表で13位(男優では7位)にランクインしていたのが市川市丸でした。松之助が亡くなる(9月)直前辺りの人気勢力図は変化が見られ、森野五郎、高木新平や市川百々之助など若手が続々台頭する中で注目を浴びた一人でした。大河内傅次郎とは『修羅王』(池田富保)と『忠次旅日記 甲州殺陣篇』(伊藤大輔)の二作で共演しています。

[JMDb]
市川市丸

[IMDb]
Ichimaru Ichikawa

[出身地]
日本(愛知県 名古屋市)

[誕生日]
10月27日

[データ]
8.5 × 13.5cm

松井 千枝子 (1899 – 1929)

「日本 [Japan]」より

Matsui Chieko Autographed Postcard
Matsui Chieko 1920s Autographed Postcard

明治三十九年十二月四日東京淺草區駒形で生る。府立第一高女を卒へ舞臺協會に一寸加はり後東京シネマに走り『村の勇者』が處女映畫である。轉じて國活に移り松波美子と名乗り島田嘉七と共に人氣を博してゐた。大正十四年二月突如として妹潤子と松竹に入社し羽振りが好い。國活では『延命院のせむし男』でお仙。松竹では『コスモス咲く頃』『受難華』『地下室』『海人』『俄か馭者』『濡衣』『海の勇者』の主演があり、最近では自分の原作脚色『哀愁の湖』で妹潤子と共に出演し、芸妓千春に扮してフワンを騒がしてゐる。

純日本趣味の藝術的なシンミリしたものを好む。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

お風呂から上つて、涼んでゐると、高松榮子さんが這入つて來た。
「千枝子さん、どうしたんでせう、この頃ちつとも潤ちやん出て來ないけれど…病氣ぢやないかしら…」
「さあ、どうしたんでせうね」
「あたし、明日鎌倉行つてみるわ、もし病氣でもしてるといけないから」
「大丈夫よ、病氣なんかするもんですか、撮影は今無いしするから、海岸で遊んでるんでせうよ」
私は平氣でかうは云つたものゝ、この頃妹が怠けて居るのが心配でならないし、又腹立たしくもなる。
「暑いからねえ、でも…困るわね、ちつとも出て來ないんだから…」
何の氣なしに云つた高松さんの言葉が私の胸に針さゝれた樣に感じた。同じ地位にある女優さん達は一生懸命にせつせと通つてゐるのに、妹ばかりは呑氣な顔して遊んでゐる…苦闘をつゞけてこそはじめて最後の勝利は得られるものを、人は苦しまなければ駄目だと、常日頃考へてゐる私にも、たゞたゞ妹の心持がはがゆくて仕方がない。
早く秋になればいゝ、爽やかな涼風に身を浸して、しんみりとした撮影の出來る日が待ち遠しい。

「撮影所日記」(『女性』1927年10月号)

[JMDb]
松井千枝子

[IMDb]
Chieko Matsui

[出身地]
日本(東京)

[誕生日]
12月4日

[データ]
13.5 × 8.5cm

山本 嘉一 (1877 – 1939)

「日本 [Japan]」より

Yamamoto Kaichi Autographed Postcard
Yamamoto Kaichi Autographed Postcard

明治十年九月四日東京で生る。故川上音二郎の門に入り市村座が初舞臺、三十二年川上夫妻に從つて英米佛白を巡り三十四年歸朝、次で川上再度の洋行に後より渡歐す、川上歿後貞奴を助けて巡業、大正六年六月日活に入り現に演藝部長の重職に在り主演映畫多數、本邦劇界の重鎮にして映畫界の大立物。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

1919年『活動之世界』の人気投票で山本嘉一氏が(松之助に5倍近い大差をつけ)首位となっていたのは、当時の邦画界の現状認識を反映していたのだろうなと思います。

欧米、特にハリウッド映画が日進月歩の勢いで進化し、技術・話法的に成熟していった中で、本格的な日本劇映画の誕生を希求する声があり、山本氏らに新しい局面を切り開いていってほしい、少なくとも映画雑誌を購読する層がそう願っていた様子が伝わってくるのです。

20年代半ばに震災で一旦は壊滅した日活現代劇部が再興されていった時、娘ほどの年齢の女優たちをニコニコ紹介している嘉一氏の姿も印象に残ります。大立物というより屋台骨、でしょうか。

yamamoto-kaichi-with-nikkatsu-actresses
1925年1月、帝国ホテル前にて徳川良子、髙島愛子らと共に

[JMDb]
山本嘉一

[IMDb]
Kaichi Yamamoto

[出身地]
日本(東京)

[誕生日]
9月6日

[データ]
13.5 × 8.5cm

砂田 駒子 (1900 – 1982)

「日本 [Japan]」より

Sunata/Sunada Komako Autographed Postcard
Sunata/Sunada Komako Autographed Postcard

明治三十三年岡山縣で生る。五歳で米國加州に渡りベンソニア州の女學校を卒業。大正五年米國ユニバアザル會社に入りル[パート]・ジュリアン監督の映畫に出演して始めて映画界の第一歩を踏む。大正十三年歸朝東亞キネマに入り『愛の秘密』に主演同十四年日活に移り『街の手品師』に出演、最近『陸の人魚』『男子突喊』『僞りの都』等がある。新しいところでは日活切つて第一人者、近く再び渡米して映畫を研究して來るといふ素晴らしい意氣込みである。

「砂田駒子(すなだこまこ)」『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

各映畫会社では日本人のエキストラをさかんに募集していましたので在留邦人も競ふて應募し支那人などに扮していました。私もある人の紹介でエッセネといふ映畫會社のエクストラに採用されてフランクボザージ氏の監督で「ツルアオキ」さんや「トーマス栗原」さんなどが出演の映畫に出ましたが、そのフイルムは何かの都合で生れざる胎児同然未封切りのまゝで終つてしまいました。その日は生れてはじめて日當五弗を貰ひ喜び勇んで家に歸つたのでした。

「砂田駒子生ひ立ちの記」『日本映画年鑑 第三年版』(1927年、朝日新聞社)

直筆サイン物としては二枚目の入手。米国育ちの彼女らしくどちらもアルファベット書きで、素直な筆記体ながら頭文字の「K」に装飾が施されています。

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また両方のサインで名字が「すなた(Sunata)」となっているのも確認できました。当時の映画雑誌ではルビが振られておらず、『世界のキネマスター』や『玉麗佳集』といった名鑑では「すなだ」と濁って表記されています。

[JMDb]
砂田駒子

[IMDb]
Komako Sunada

[出身地]
日本(岡山県御津郡大野村)

[誕生日]
不詳

[データ]
8.5 × 13.5cm

南部 章三/彰三 (1898 – 没年不詳)

「日本 [Japan]」より

Nanbu Shozo 1928 Autographed Postcard
Nanbu Shozo 1928 Autographed Postcard

本名は鴛海正次。日大文學部の出身。流石に文章にかけてはお手のものだけに時々映画雜誌等に稿を寄せて文藝好きなフアンを騒がせている。彼は俳優らしくないそして、最も話せるひととして有名である。己の天分や技藝等を度外視して殊更らに俳優らしさを誇張したがる者の多い現代に、君の如き優しくそして偉大な存在は實に喜ぶべきである。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

本名鴛海正次。明治卅二年、大分縣に生る。日本大學豫科修了後美學部に入り轉じて日本俳優學校に入學し、大正十五年一月、日活現代劇部に入社す。その間シベリヤ出兵の際從軍して勲八等をうく。二枚目を得意とする。主な近作は「見果てぬ夢」「五人の愉快な相棒」身長五尺五寸、體重十五貫三百目。趣味は映畫。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

[JMDb]
南部彰三

[IMDb]
Shôzô Nanbu

[出身地]
大分県

[誕生日]
6月26日

[データ]
8.5 × 13.5cm

尾上 多見太郎 (1892 – 1947)

「日本 [Japan]」より

Onoe Tamitaro Autographed Postcard
Onoe Tamitaro Autographed Postcard

明治二十五年大阪市東區今橋三丁目で生る。本名川本辰之助。一時成美團で活躍してゐたが十五年七月日活に入り時代劇の人氣俳優として羽振りが好い。主なる映畫では『金子市之亟』『月形半平太』『水戸黄門』等で好評を博した。好きなものは淨るり。現住所京都市上京區大將軍鷹司町東高司。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

[JMDb]
尾上多見太郎

[IMDb]
Tamitaro Onoue

[出身地]
日本(大阪市東区今橋)

[誕生日]
6月

[データ]
8.5 × 13.5cm

岩田 祐吉 (1887 – 1980)

「日本 [Japan]」より

Iwata Yukichi Autographed Postcard
Iwata Yukichi Autographed Postcard

深刻な藝風は當代その比を見ない。性格俳優としてフアンの人氣を一身に集めてゐる。人情物、悲劇物が得意と共に、叉喜劇物の主人公をもやりこなせる人だ。先づ外國の俳優と比べても恥ずかしくない人だらう。松竹入社は大正九年六月趣味は讀書、素人寫眞。

『世界のキネマスター』
(1925年5月、報知新聞社出版部)

明治廿年三月岐阜縣大垣市で生る。廿一歳の時河合武雄の門に入り新派俳優として各地に巡業したことあり、大正九年六月松竹キネマ創設と共に映畫界に入り現に蒲田の古参の大幹部として重きを爲す。『奉仕のばら』が初演で爾来『妖女の舞』『一太郎やい』『船頭小唄』『父』『黑川博士』『虹晴』『乃木將軍』『廣瀬中佐』等枚挙に遑がない。最近では『久遠の像』『人生の浪』等の主演がある。性格俳優として益々老熟の演技を見せフアンの人氣がある。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)

本名岩田祐吉明治廿年大垣市に生る。郷里の中學校竝びに藤澤幾次郎經營の俳優學校を卒業。初め河合武雄の門に入り大正九年蒲田撮影所創立と共に入社。主な近作は「棘の樂園」「3善人」「レヴユーの姉妹」「父」等。身長五尺三寸八分、體重十四貫八百目。趣味は讀書、園藝。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)

[JMDB]
岩田祐吉

[IMDB]
Yûkichi Iwata

[出身]
日本(岐阜県大垣市)

[サイズ]
14.2 × 10.1 cm

諸口 十九 (1891 – 1960)

「日本 [Japan]」より

Moroguchi Tsuzuya 1920s Autographed Postcard
Moroguchi Tsuzuya 1920s Autographed Postcard

諸口十九は「お坊ちゃん」「カラーボタン」の二本だけで當然記録に止めらるべき人である。

諸口十九が洋行して歸つて來た。仲々スサまじい気焔を揚げた。容易に撮影にかゝらないでフアンを焦らした。吾々は實際の所、どんな事になるのかとヒヤヒヤしたものであつた。所が、第一回作品たる「お坊ちゃん」は豫想以上に「良いもの」を多分に具へてゐた。明るい、輕い、フレツシユな味は矢張り彼の專賣だつたのかとさへフアンは思つた。つゞく「カラーボタン」は更に「良いもの」を持つてゐた。臆病で、膽玉が小さくて、そして家へ歸れば女房にも當り散らす愛すべきモダーン・ボーイ櫻井としての彼は長く長く忘れられないであらう。

『日本映画年鑑 大正十五年昭和二年 第三年版』
(朝日出版社、1927年4月)

明治二十四年二月福井に生れ、十六歳の時上京して成城中學に學んだ、後藤澤の俳優學校に入り十九歳の時牛込高等演藝場で初舞臺を踏み、後一座を組織して旅を稼ぐこと數年。大正九年五月に松竹に入り蒲田第一の幹部俳優となつた。初演映畫は『新生』主演は『笑へ若者』『なすな戀』『女殺油地獄』『赤坂心中』等、等。後米國及び佛國の映畫界を視察して歸朝後『お坊ちやん』『カラーボタン』『地下室』等の特作品を出し大に新らしい方面で活躍しやうとしたが容れられず筑波雪子と手を携えて脱退し、諸口十九社を起して大に活躍してゐる。一時人氣を氣支はれたが差したることもなく相變らず筑波雪子と共にフアンの人気を博している。

『玉麗佳集』(中央書院、1928年)

[JMDB]
p0169620

[IMDB]
Tsuzuya Moroguchi

[出身]
日本(福井)

[誕生日]
2月3日

[サイズ]
8.4 × 13.4cm.

西條香代子 (1906 – ?)

「国別サインリスト 日本 [Japan]」より

Saijo Kayoko Autographed Postcard
Saijo Kayoko Autographed Postcard

明治三十九年一月一日極めてお芽出度い元旦の初日の出と共に神奈川縣の鶴見で孤々の聲を揚げた。中村香代子が本名で、當年二十三才。高等女學校卒業後大正十四年五月に日活に入社する。玉麗花のかんばせ、眞紅の唇、瀟洒たるスタイルは常に幾百萬のフアンをチャームしてゐる。主演『闇の中の顔』『日輪』『死の寶庫』『大陸の彼方』で好評を得。現に同社の花形女優。

『玉麗佳集』(1928年)

[JMDB]
p0218730
p0218760

[IMDB]
nm0756503

[出身]
日本(神奈川県横浜市)

[生年月日]
1月1日

[サイズ]
8.4 × 13.4cm

杉狂児、昭和3年の暑中見舞い

「戦前・戦中 髙島栄一・康彰氏旧蔵の葉書群」より

杉狂児、1928年の暑中見舞いハガキ
Sugi Kyoji’s 1928 Summer Greeting Card

マキノ御室映畫部の幹部花形としてメキメキ賣り出した彼は有らゆる映畫に新進振りを發揮してフアンを喜ばせてゐる。最近製作の映畫では『愛しき彼』(都賀靜子、水谷蘭子共演)『靑春を掏摸取られた話』(湊明子、高山久共演)『光線を捕へた男』(マキノ正博、室町湊、津村共演)等の傑作がある。

『玉麗佳集』(1928年)

凸面兒杉狂兒、賣つたるもの哉である。マキノのみならず、本邦映畫界に絶好の三枚目、特色著るしいのが何よりの德、華やかな明るさは微塵もないが、世紀末的なあの哀愁感は、さうザラに見いだせるものではない。バイプレアー中名ある所以である。「學生五人男」「影武者」「闘爭曲線」「四谷怪談」そして「假名手本忠臣蔵」の伴内と新舊を問はざる奮闘は凝つて支那劇「愛しき彼」の主演となり本年掉尾に聲價一人昂つたのは彼にとつて最も朗らかなる自慢でなくてはなるまい。

『日本映画年鑑 昭和二年昭和三年 第四年版』
(朝日出版社、1928年4月)

1930年代のコミックソングを通じて名を上げ現在でも昭和歌謡の愛好家から評価の高い杉狂児。こちらは1928年、マキノ御室を離れ河合映画に移った直後の暑中見舞いハガキです。

印刷ながら定型文ではなく、自前の文章にそこはかとなく自虐臭を漂わせ、持ち味のアナーキーさに相反した繊細さ、生真面目さも透けています。

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[JMDB]
p0209230

[IMDB]
nm0837475

[Movie Walker]
杉狂児 (スギキョウジ)

[誕生日]
7月8日

[出身]
日本(福岡)

[サイズ]
9.1 × 14.0cm

[データ]
髙島栄一氏宛、昭和3年8月9日巣鴨の消印有。