フランス・デリア France Dhélia (1894 – 1964) 仏

「フランス [France]」より

France Dhélia 1924 Inscribed Photo
France Dhélia 1924 Inscribed Photo

この優美な女優はトゥーレーヌの穏やかな空の下で生を受け、若くしてパリに上京し舞台を志した。その雅さ、作為のない演技でミシェル劇場、アンビーク喜劇座、シャトレ座と次々に成功を収め、とりわけ『伍長になった女の子』を絶妙に演じてみせた。しかしながらフランス・デリア嬢はほどなくして舞台を離れて撮影所に移りデノラ氏と共に『姉に売られたジョゼフィーヌ』で女優デビューを果たす。次いでゴーモン社と契約を交わし『愛の難破船』『ジネット』で注目を浴びたが、何より『恋のサルタン』でその才の如何なく発揮し、以後は出演毎に評判を呼ぶようになった。

「『ギターとジャズバンド』出演のフランス・デリア嬢」
シネ・ミロワール誌38号、1923年11月15日付

Cette gracieuse artiste, qui naquit sous le doux ciel de Touraine, vint de bonne heure à Paris, faire du théâtre. Sa grâce et son naturel lui valurent de francs succès sur les scènes du théâtre Michel, de l’Ambique et du Châtelet où elle fut notamment une délicieuse « Petite Caporale ». France Dhélia devait, cependant, bientôt quitter les planches pour le studio et débuter dans l’art muet avec Dénola dans Joséphine vendue par ses soeurs. Elle fut engagée ensuite chez Gaumont et se fit remarquer dans les Epaves de l’amour et Ginette, mais c’est la Sultane de l’amour qui consacra définitivement son talent. Depuis, ses créations ont toujours eu un grand retentissement.

France Dhélia, dans LA GUITARE ET LE JAZZ-BAND
Ciné-Miroir, No.38
15 Novembre 1923 (4ème de couverture)

1910年代末~20年代前半を代表する仏女優フランス・デリアのメッセージ入り写真。1923年作品『ギターとジャズバンド』撮影時のポートレイトで、1924年4月2日にスイスを訪れた女優が「ジュネーヴに立ち寄った思い出に(En souvenir de mon passage à Genève)」と書き残しています。

以前(2015年4月末)にジュネーヴの古書店のカタログに埋もれていたのを見つけ注文したものですが、お店側がオンライン決済や銀行送金に対応しておりませんでした。そこで「リスクは承知ですのでスイス・フランを直に送ります」と相談したところ「現金を郵送する費用や両替の手数料もかかりますよ」と一円もとらずに日本まで郵送して下さいました。

France Dhélia in La Sultane de l'amour (1919)
『恋のサルタン』(La Sultane de l’amour、1919年)より

シネ・ミロワールで触れられている『恋のサルタン』(1919年)は彩色で公開された美しい作品で千夜一夜風の異国奇譚にアクションやロマンス、喜劇を織り交ぜています。悪人役のガストン・モド、従者役マルセル・ルヴェスク、お姫様役にフランス・デリアと配役が絶妙で、後に監督として名を馳せる画家マルコ・ド・ガスティーヌがセットのデザインを担当しこの時期の仏映画では珍しいエンタメ性の高い秀作にまとまっています。

また彼女の出演作では1924年公開の『ネーヌ』が9.5ミリ化されています。当方は所有していないものの米プリンストン大学のパテベビー・コレクションがデジタル版を公開。この作品では美貌を鼻にかけ、浮薄な生活に憧れヒロインを虐めるヒール役を熱演していました。

France Dhélia in Nène (1924)
『ネーヌ』(Nène、1924年)より

[IMDb]
France Dhélia

[Movie Walker]
フランス・デリア

[サイズ]
16.7×22.5cm

[データ]
11924年4月2日、フルニエ・マルギ氏宛。

1910年頃 古写真 スタシア・ナピエルコウスカ Stacia Napierkowska (1886 – 1945) 仏

「ルイ・フイヤード関連コレクション」より

Stacia Napierkowska c1910 Cabinet Photo (Reutlinger, Paris)
Stacia Napierkowska c1910 Cabinet Photo (Reutlinger, Paris)

1910年代を中心に活躍した踊り子・女優スタシア・ナピエルコウスカのキャビネット写真。撮影は当時ファッション写真家で名を馳せたルーランジェ写真店(Reutlinger)によるものです。

ナピエルコウスカはポーランド人の父親の娘として1886年パリで生まれています。幼少時に数年トルコに滞在、その後フランスへ戻りますが直後に父親が亡くなり、生計を立てるためオデオン座やオペラ・コミーク座に立ち始めました。この時14才。異国情緒と優雅さを兼ね備えた舞踏が話題となり、舞台雑誌やモード誌で頻繁に取り上げられていきます。

1910年コメディア・イリュストレ紙10月1日号より
1910年コメディア・イリュストレ(Comoedia Illustrée)紙10月1日号より

同時期に勃興していたのが映画産業でした。短編作品に多く出演、喜劇からミステリー、歴史物まで多彩な活躍を見せていきます。

そんな彼女の名を映画史に残したのは1915年公開の連続活劇『レ・ヴァンピール』でした。第2話で主人公(エドゥアール・マテ)の婚約者として登場、劇場で踊りを披露中に何者かに毒殺されます。登場場面は短いものの「吸血鬼の舞」の禍々しさは印象深く、同作を代表する一場面として幾度となく引用されていくこととなりました。

『レ・ヴァンピール』(1915年)第2話より
『レ・ヴァンピール』(Les Vampires、1915年)第2話より

その後映画の出演は減っていき、そのまま忘れ去られてもおかしくありませんでした。しかしながら20年代になって再度脚光を浴びます。1921年『女郎蜘蛛』での女王アンティネア役です。

『女郎蜘蛛』(1921年)より
『女郎蜘蛛』(L’Atlantide、1921年)より

第一次大戦後の仏映画はリアリズムにこだわり話のテンポが悪くなる癖が抜けず、外国映画に押されてかつての勢いを失っていました。この苦しい状況で冒険やファンタジーを強く押し出した『女郎蜘蛛』は活路として期待されたのです。ナピエルコウスカは1922年に創刊された映画雑誌『シネミロワール』創刊号の表紙を飾っています。

『シネミロワール』創刊号表紙のナピエルコウスカ
『シネミロワール』創刊号表紙のナピエルコウスカ

同時期に初めて市販されたのが家庭用映写機のパテベビーでした。初期カタログにはナピエルコウスカ主演作『ミロール・ラルスイユ』(Milord l’Arsouille、1912)も含まれています。そしてもう一本、手持ちでは『カンボジア風舞踏』にも登場。これは社会派ドラマの中編『黄金に浮かされて』(La Fièvre de l’or)の一場面を抜粋したものです。

『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』
『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』(Napierkowska in Danses Cambodgiennes)

フランス劇映画の始まり(1910年頃)から黄金期(1912~18年)、そして停滞期(1919年~)に関わった点で重要な役割を果たした女優だと言えます。伝記面はほとんど知られていないのですが、1922年の『シネ・ミロワール』誌に前後篇2回に分けた自伝エッセイが掲載されています。

[IMDB]
nm0621051

[Movie Walker]
スタシア・ドウ・ナピエルコウスカ

[誕生日]
12月16日

[出身]
フランス(パリ)

[サイズ]
11.0 × 16.5cm

[撮影]
ルーランジェ写真店

シュザンヌ・ビアンケッティ Suzanne Bianchetti (1889 – 1936)

「フランス [France]」より

映画に携わることになったのは全くの偶然がきっかけでございました。1917年の或る日、コメディ・フランセーズで女優をしている友達に会うためヴァンセンヌのパテ社撮影所に顔を出しました。彼女は国威高揚映画『戦中の仏蘭西女たち』を撮っていた最中で、女優が一人休んでいた代わりをしてほしいと監督に頼まれ脇役として出演したのです。監督さんが演技を気に入ってくれたのでしょうかね、数ヵ月後、『家族三様』という別な国威高揚作品の主要キャストの役を任せていただくことになり、セヴラン・マルス氏やジャン・トゥルー氏、アンリ・ボスク氏やジャラベール夫人とご一緒させて頂いたのです。

その次の年、喜劇短編二つは割愛して、デフォンテーヌ監督の下で『ラ・マルセイエーズ』に出演いたしました。それまで頂戴していた役はどれも軽喜劇でしたし、ありふれた感情だけを表現して居れば良かったのです。ところが突然、グラン・ギニョルでしかお目にかからない様な極端にドラマチックな役柄をアンドレ・ノックス氏の脇で演じなくてはならなくなったのです。映画が上映された時、それが自分だとはどうしても思えなくて、自分のあまりの経験不足に映画界から足を洗おうとすら考えました。あの時ほど自分が役者稼業を何も知らないと思い知らされたことはありません。自分の経験不足を補うため、ジャック・バロンセリ氏が監督した『フリポット』と『夢』の二作でガブリエル・シニョル氏と共演させていただきました。お二方が私の御師匠様のようなものです。

ラマルティーヌの詩を元にレオ・・ポワリエ監督が製作した『ジョスラン』でヒロインの姉役を演じました。ピエール・コロンビエ監督で撮った『大晦日の夜』という面白い作品はこの合間に作られたものです。

『ジョスラン』の撮影終了後、シャルル・ビュルゲ監督からお声がかかり、『巴里の秘密』でアルヴィル侯爵夫人の役を演じることになりました。数週間の間友人のユゲット・デュフロと撮影で一緒だったのが楽しい思い出です。彼女と私が似ていると仰られる方もおられて、二人でクスクスと面白がっています。8月1日からは再びポワリエ監督の弟子に戻って『リヨンへの密使殺害事件』に出演、ルズリュクの恋人クロチルド役を任されております。

「スター女優自身を語る:スザンヌ・ビアンケッティ」
シネ・ミロワール誌13号、1922年11月1日付

C’est tout à fait par hasard que je suis venue au cinéma. Etant allée un jour de 1917 au studio Pathé, à Vincennes, pour y trouver une amie de la Comédie-Française qui trounnait un film de propagande La Femme française pendant la guerre, j’acceptai, pour rendre service au metteur en scène de ce film, de tenir un petit rôle en remplacement d’une actrice absente. Sans doute ce metteur en scène trouva-t-il ce début satisfaisant car, quelques mois plus tard, il me confiait, à côté de Séverin Mars, de Jean Toulout, d’Henri Bosc et de Mme Jalabert, le principal rôle féminin d’un nouveau film de propagande : Trois familles.

L’année suivante, sous la direction de M.H. Desfontaines, je tournai La Marseillaise, sans parler de deux petits films comiques. Jusqu’alors, les rôles qui m’avaient été distribués étaient de pure comédie et je n’avais à y exprimer que de sentiments moyens et pour ainsi dire quotidiens. Brusqument, on me demanda d’incarrnner, à côté d’André Nox, un personnage extrèmement dramatique, comme on n’en rencontre qu’au Grand-Guignol. A la projection de ce film, je crus ne pas me reconnaître et pensai un moment à renoncer au cinéma tant j’étais effrayée par mon manque d’expérience: jamais je ne regrettai autant qu’alors de tout ignorer du métier dramatique. Pour acquérir ce qui me manquait, je tournait dans Flipotte et le Rêve, de petits rôles à côté de Gabriel Signoret et sous la direction de J. Baroncelli, qui furent ainsi mes véritables maîtres.

M. Poirier me chargea d’incarner la soeur de Jocelyn, dans l’adaptation qu’il commençait du poème de Lamartine. Entre temps, M. Pierre Colombier m’avait fait tourner son amusant Soirée de réveillon.

Jocelyn terminé, M. C. Burguet me fit appeler pour me distribuer, dans les Mystères de Paris, le rôle de la Marquise d’Harville, cce qui me donna le plaisir de travailler quelques semaines à côté de mon amie Huguette Duflos, à qui certains prétendent que je ressemble, ce qui nous amuse fort toutes deux. Depuis 1er août je suis redevenue la pensionnaire de M. L. Poirier, qui m’a confié dans l’Affaire du Courrier de Lyon, le rôle de Clotilde d’Argence, la maîtresse de l’honnête Lesurques.

Nos Vedettes par elles-mêmes : Suzanne Bianchetti
Ciné-Miroir, No 13, 1er Novembre 1922

元々演技畑の出身ではありませんでしたが温かみのある人柄や自然な動きが重宝され、この後もアンリ・ルーセルやガンスなど優れた監督の作品に次々出演していきます。1936年に惜しまれつつ早世。死後、彼女の名を冠した映画賞が作られ、現在にいたるまで若手女優の登竜門となっています。

[IMDB]
Suzanne Bianchetti

[Movie Walker]
シュザンヌ・ビアンケッティ

[出身]
フランス

[生年月日]
2月24日

[コンディション]
C+

[入手]
2013年5月18日