1929 – 『大利根の殺陣』(東亞、嵐寛壽郎主演、後藤岱山監督、山中貞雄助監督) 瀧本時代堂 説明本

« Ôtone no Satsujin » (Tôa Kinema, 1929, dir/Gotô Taizan)
1929 Takimoto Jidaido Novelisation

『サアサア、行け行け、今日こそは思ひのまゝに腕だめしをしてやるぞつ…』と、乾分どもはわいわいと出かけて行くので、今や大利根一帶の沿岸は殺氣滿ち充ちて今にも血の雨、血の川は目前に現はれ出るやうな氣がして來るのであつた。

斯うして居る中にも兩方の人數が次第次第に接近して來た、そして愈々大殺陣が布かれて、一大爭鬪が起らんとして居るのであつた。

時しもあれ、此の大利根の流れ沿ふて此の邊を通りかゝつたのが其の頃男の中の男と云はれ、侠骨いういうたる大前田英五郎であつた。

上州では相良金三郎(尾上紋彌)と久宮の丈八(頭山桂之助)一党の抗争が激化していた。劣勢を感じた金三郎は火の車のお萬(原駒子)に助勢を頼むが、その動きが挑発ととられ殺気立った丈八一党が結集、利根川河畔で大喧嘩が始まろうとしていた。たまたまそこを通りかかったのが大前田英五郎(嵐寛壽郎)であった。事情を聞いた英五郎は仲裁に入り一旦その場を収めるのに成功した。とはいえ火種が消えたわけではなかった。英五郎はお萬に惹かれていく一方、乳姉弟であるおつまが丈八の妻であるのを知り板挟みとなっていく…

嵐寛壽郎が東亞キネマで俳優キャリアの再構築に取りかかっていた時期の一作で、『鞍馬天狗』(1929年7月13日公開)と『右門一番手柄』(1929年11月1日公開)の間に公開されています。原駒子、尾上紋弥、頭山桂之助など東亞期のアラカン出演作ではお馴染みの面々が脇を固めているほか、後の山中貞雄監督が「社堂沙汰夫」名義で助監督を務めていました。

日本映画情報システムを含めた幾つかの日本語情報サイトでは「おおとねのたて」で登録されています。しかし物語は剣戟振付の「たて」と関係ありませんし、解説本でも「大殺陣/だいさつじ(ん)」の読み仮名が振られていいました。素直に「さつじん」と読むのが正ではないかな、という気もします。


[JMDb]
大利根の殺陣

[IMDb]
Ôtone no satsujin

[出版年]
1929年

[編集兼発行者]
瀧本昇

[発行所]
瀧本時代堂

[ページ数]
16

[フォーマット]
10.5 × 14.8 cm

1929 – 『月形半平太』(東亞、草間實主演、枝正義郎監督) 瀧本時代堂 説明本

« Tsukigata Hanpeita » (Tôa Kinema, 1929, dir/Edamasa Yoshiro)
1929 Takimoto Jidaidô Novelisation

或る夜のこと、京都三條の橋の畔り淋しい所を通つて行くと彼方なる暗がりの物影より突然現はれ出た、四五人づれの壯漢があつた。

『ヤアツ…來たぞ』とばかりに、彼等がさゝやきの聲の未だ絶えぬ間に、最ふ彼等の白刄は半平太の前後左右にキラメキ渡つて居る…

是は確かに反對論者の廻し者、『何んのその汝等如き者が百人千人來たからとて何程の事かあらん。イザイザ此の月形一平太の刄先を受けて見よ』と大喝一聲、ギラリと引き抜いた三尺の秋水、半平太の腕は剣道の達人であるから湛つたものではない。

1925年『国定忠治』『月形半平太』(いずれも澤田正二郎主演)に始まった行友李風原作映画の小ブームは翌年の『修羅八荒』4社競作でピークを迎えました。その後も『月形半平太』の人気が根強く、数年で河部五郎(日活)、山口俊雄(山口俊雄プロ)、林長二郎(松竹)、草間實(東亞)、阪東妻三郎(阪妻プロ/新興)…と途切れることなく映像化されていきます。

1929年東亞版は半平太に草間實、半平太の命を狙う藤岡九十郎に羅門光三郎、芸者染八に原駒子を配しています。監督は枝正義郎。前年の『坂本龍馬』を最後に阪妻プロと袂を分かち東亞に合流していたもので、『龍馬』での照明やカメラワークを思いあわせると本作にも何がしかの創意は含まれていたと思います。


[JMDb]
月形半平太

[IMDb]
Tsukigata hanpeita

[出版年]
1929年

[編集兼発行者]
瀧本昇

[発行所]
瀧本時代堂

[ページ数]
16

[フォーマット]
10.5 × 14.8 cm