1928 – スーパー8『坂本龍馬・前編』(枝正義郎監督、阪妻プロ)マツダ映画社版

「阪東妻三郎関連」より

Sakamoto Ryoma (1928, Bantsuma Production, dir/Edamasa Yoshiro)
Matsuda Film Productions Super8 Print

マツダ映画社が戦後、無声映画鑑賞会の会員向けに限定で販売していた『坂本龍馬』8ミリ版。前後編100メートルずつの構成で上映時間はトータル34分。今回入手したのは前編のみで後編用ケースに収められていました。ビネガーシンドロームが進み始めた状態だったため実写はせず一部のスキャンのみ行いました。

『坂本龍馬』に関しては以前に戦前1930年代の伴野9.5ミリ版を紹介しております。比較のため対応場面を並べていきます。

顔の細やかな陰影、衣類のひだなど8ミリ版は細部が潰れてしまっています。それでも決して悪いプリントではありませんよね。一方の9.5ミリ版は上と右のトリミング幅が大きく人物の頭が見切れてしまっています。パーフォレーション(フィルム送り用の穴)が人物の頭にかかってしまっているため映写時に構図が崩れてしまうのです。構図に関してはマツダ映画社版がオリジナルに忠実という結果になりました。

2年前にフラットベッドスキャナーで取り込んだ画像データ。上部中央の穴(パーフォレーション)が頭にかかってしまっています

画質以上の大きな違いは編集方針です。

8ミリ版は「つなぎ」の場面を多く含んでいます。薩長土の連合に向けた打ちあわせのため、龍馬が寺田屋から駕籠で薩摩藩邸に向かうところで見回り中の新選組がその姿を認め情報収集を行います。この場面は8ミリ版のみ収録。

また寺田屋襲撃の場面でも龍馬が一旦はお龍(森静子)を逃してから新選組との死闘に向かいます。その後寺田屋2階の窓から脱出し、なんとか川辺に辿りついたところをお龍らの乗った小舟によって救われる…という展開です。9.5ミリ版では最初のお龍を逃す場面が欠けています。そのためお龍たちが唐突にどこからともなく助けにやってくるやや不自然な流れになっていました。

9.5ミリ版は細かなつなぎの場面を省略する代わりに、藩邸での龍馬の弁舌や寺田屋での立ち回りを長く収録。

どちらが良いという単純な問題ではないのですが、すでにスクリーンで作品を見ていて流れを知っている視聴者にとっては名場面を長く収めた9.5ミリ版の方が見ごたえがあるのかなと思います。一方の8ミリ版は全体の流れが分かりやすく初見に優しい構成となっていました。

気になったのは龍馬が後藤象二郎に大政奉還の建白書提出を持ちかける場面。

流れ的に同じ場面なのですが8ミリ版では龍馬を単体で捉えているのに対し、9.5ミリ版では後藤象二郎の肩越しに龍馬を捉える構図になっています。どちらも元の35ミリネガに含まれていてマツダ版と伴野版では選んだ場面が異なっていたのかもしれません。そうでないとすると別テイクに差し替えられていた可能性が出てきます。

[原題]
坂本龍馬

[公開年]
1928年

[JMDb]
坂本龍馬

[IMDb]
Sakamoto Ryôma

[フォーマット]
スーパー8 白黒 100メートル 光学録音

1928 – 9.5mm『坂本龍馬』(枝正義郎監督、阪妻プロ)戦前伴野版

「阪東妻三郎関連」より

Sakamoto Ryoma (1928, Bantsuma Production, dir/Edamasa Yoshiro)
Banno Co., Early 1930s 9.5mm Print

枝正義郎氏を監督に迎えた最初期の龍馬映画9.5ミリ縮約版。100メートルリール2巻物。戦前~戦中期に信濃毎日新聞社のフィルムライブラリーが旧蔵していた品でリール側面に「貸出部」の印がありました。

前半に当たる第一リールでは薩長同盟結成から後藤象二郎らを巻きこんで大政奉還に挑むまでの流れが描かれています。前半ハイライトは新撰組による寺田屋襲撃での立ち回り。足元をとられながらも屋根伝いに逃れ、お龍らが準備していた船に乗りこんで何とか一命をとりとめます。

第二リールとなり、大政奉還を促すため二条城に赴いた象二郎の帰りが遅くなり海援隊内部に動揺が走ります。「この上は二条城に乗りこみ、慶喜討つべし」と隊員が声をあげても沈黙を貫く龍馬。業を煮やした仲間が一人、また一人と去っていく中、龍馬がまさに決断を下さんとしたその時、象二郎が吉報を持ち帰るのです。

第二リール後半は近江屋での龍馬暗殺を描いていきます。本作は京都見廻組による犯行説を採っており展開としては王道。ただ見廻組=実行犯説が定説化してきたのが大正期になってからですので、公開時にはまだ目新しい解釈だったのかなと思われます。

見廻組の佐々木只三郎(春日清)が名を偽って龍馬らに取次ぎを依頼、只三郎は返事を持ってきた下僕の藤吉(浪野光雄)を切って捨てると仲間を誘導し、龍馬と中岡慎太郎(春路謙作)を襲撃します。不意を突かれた龍馬は剣を抜く暇も与えられず、眉間に致命傷を負い、「身は死しても魂は…永久…皇国の…大海原を守護し奉る」と中岡に言い残して力尽きるのでした。

◇◇◇

伴野版の『坂本龍馬』はチャンバラと呼べる場面は前半の寺田屋しか見当たらず、それも決して派手な立ち回りではありませんでした。龍馬を剣豪、あるいはアクションヒーローとして扱おうとする意図はなかったと思われます。

また全長版でクレジットされている西郷隆盛や勝海舟は数秒のみ登場、女優陣(森静子、西條香代子、泉春子)の出演場面もカットされています。経済思想家、あるいは私人龍馬の姿はここにはありません。

30分弱に切り詰められたダイジェスト版で強調されていたのは、国の行く末を案じ、天皇主体の新たな日本を作るため組織間の調整に身を削り、夢半ばで倒れていく憂国の士、龍馬でした。

端々のセリフ(「それは皇国に殉する言葉ではなくて」「将軍家に一矢を報ひ皇国の爲に気を吐きませうぞ」)から伺えるように元々の脚本にそういった側面は含まれていたようです。その意味では戦後に流布した無頼派で、海外の諸事情に明るく、超派閥的に時代を動かしていく自由人の龍馬像とは根本的に違った設定です。9.5ミリ版編集は1930年代に行われたため、時代の要請として皇国史観や滅私奉公の要素が強調された可能性は高いと思われます。

もう一点重要な指摘として、1928年版『坂本龍馬』は撮影アングルや照明を重要視した映画作りとなっています。

寺田屋立ち回りでのミドルショットでは左側からメインの照明を当てつつ、陰が出すぎないよう右側から補助の光を照射(襟元の影で分かります)。さらに黒い髪が背景と一体化しないよう背後上から光を当て後光のような輪郭を形成しています。これは「ハリウッド式の3点ライティング」を採用した典型的作例です。

殺陣の速度感や迫力は『雄呂血』に軍配があがるものの、あの立ち回りは屋外ロケの自然光下で撮影されたもので光や陰に対する配慮は感じられませんでした。カメラマンとして業界で名を成した枝正義郎氏はコントラストや構図を重視。ハリウッドでは1920年代以降スタジオ撮影の比重が上がるにつれて照明の重要性が増し「ライティングで狙った絵を作る」発想が顕著になってきます。枝正氏はそういった傾向を自作に取り込もうとしているのです。『坂本龍馬』を評価する際もそういった要素を考慮する必要があるだろうと考えられます。

[原題]
坂本龍馬

[公開年]
1928年

[JMDb]
坂本龍馬

[IMDb]
Sakamoto Ryôma

[フォーマット]
9.5ミリ 白黒無声 100メートル×2巻 ノッチ無

1933 – 9.5mm 『嵐の孤児』(パテ・ナタン社、モーリス・トゥールヌール監督) 英パテスコープ社無声版

Orphans of The Storm (« Les deux orphelines », 1933, Pathé-Nathan, dir/Maurice Tourneur) UK Pathescope 9.5mm Print

戦前フランスを代表する監督の一人、トゥールヌールによる『嵐の孤児』(1933年)の9.5ミリ版。元々トーキーとして公開されたものですがこちらは英語字幕埋めこみ版となっています。プリント状態が悪く全体に傷が目立ちます、ご了承ください。

『嵐の孤児』は革命期のフランスで生き別れとなった姉妹の運命を描いたメロドラマで、映画化作品としては1921年の無声版(グリフィス監督、リリアン&ドロシー・ギッシュ主演)がよく知られています。元々1870年代に戯曲として書かれた作品が後年小説化されたもの。グリフィス版は小説を下敷きとしつつ独自要素を多く加えていて、後半はほとんどオリジナルの展開となっていました。

ルネ・サンシール
(Renée Saint-Cyr as Henriette)

トゥールヌール版で姉アンリエットを演じたのはルネ・サンシール。戦後まで長く活躍された女優さんで、個人的にも晩年に出演した喜劇作の芸達者ぶりで記憶によく残っています。『嵐の孤児』は彼女の映画初主演作で、全盛期のダニエル・ダリューに肉薄する演技を見せています。

ジャン・フランセイとレジーヌ・ドレアン
(Jean Francey as Pierre & Rosine Deréan as Louise)

盲いた妹ルイーズを演じたのはロジーヌ・ドレアン。サッシャ・ギトリやマルク・アレグレ監督の戦前作品で活躍、化粧の仕方もあってルネ・サンシールと並ぶとリアルな姉妹感があります。

トーキー定着で俳優の入れ替えが進んでいた時期に新進女優のキャスティングに成功した一作ながら見どころは他にもあります。『嵐の孤児』には市中で拉致してきた盲目の少女(ロジーヌ・ドレアン)を物乞いにして日銭を稼がせる「貧困ビジネス」物語が含まれていました。元締めのラ・フロシャールという中年女性が登場するのですが、トゥルヌール版『嵐の孤児』ではこの女性のインパクトが姉妹の可憐さを上回っています。

イヴェット・ギルベール
(Yvette Guilbert as La Frochard)

強欲で憎々しいラ・フロシャールを演じたのはイヴェット・ギルベール。ムルナウの『ファウスト』でも存在感を見せていた戦前フランス演芸界の大物、彼女の映画女優キャリアでベストの演技になるだろうと思われます。他にも脇役で無声映画時代からのベテラン(カミーユ・ベール、ガブリエル・ガボリオ、エミー・リン)が多く出演しており演技の質全体を底上げしています。

1933年はフランスでも不況の影響が如実に表れてきた時期でした。トゥルヌール版『嵐の孤児』は小規模予算で製作されており、セットや衣装の華やかさではグリフィス版に相当見劣りします。一方で装飾がないために演技や照明・構図の重要性が否応なく増すという話でもあって、トゥルヌールの卓越したセンスが(後年のより大掛かりな作品以上に)伝わってきやすい一作になっています。

[タイトル]
Orphans of The Storm

[原題]
Les deux orphelines

[公開年]
1933

[IMDB]
Les deux orphelines

[Movie Walker]


[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB 30165

[9.5mm発売]
1935年11月

[フォーマット]
9.5mm 白黒無声 100m×4巻 ノッチ無 英語字幕

1957 – 9.5mm 『太平洋の怪獣ゴジラ』(『ゴジラ』仏編集版、東宝他) 1960年頃 仏フィルム・オフィス版

Godzilla (« Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique », Toho)
c1960 French Film Office 9.5mm Print

『ゴジラ』の日本初公開(1954年)から2年後の1956年、追加撮影された場面を加え設定を変更した編集版『怪獣王ゴジラ(Godzilla, King of the Monsters! )』がアメリカで公開されています。オリジナル版『ゴジラ』を英語字幕付きで正式に観ることができるようになったのは2000年代になってからで、それまでの欧米ではUS編集版を元にゴジラの受容・理解が進んでいったとされています。

実際には欧州でも国によってプリントの異同がありました。西ドイツでUS版は採用されず東宝オリジナル版を独自編集した版が公開されていました。フランスではUS版を再編集し完全吹き替え版とした『太平洋の怪獣ゴジラ(Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique)』が1957年にリリースされています。

今回紹介するのはこの『太平洋の怪獣ゴジラ』をベースにした9.5ミリ版です。仏フィルム・オフィス社が1958~62年頃に発売したもので100mリール4本構成、実写時の上映時間は50分程。音声は含まれておらず会話や説明が仏語字幕で画面に埋めこまれた形になっています。

US版は1)米国の観客が感情移入しやすくするため”語り部”となる米国人リポーター(レイモンド・バー)を導入し、2)当時の米国世論にそぐわない反核の要素を削除する、という二つの方針を軸に編集されたものでした。仏版ではこの版をベースとしつつも米国人記者の要素を減らし、時系列上の展開をオリジナルに近い形に戻そうとする傾向が見られます。

仏9.5ミリ版は大戸島の浜辺で物語が始まります。不漁が続き「呪いだ」「呉爾羅(ゴジラ)の仕業だ」と島民たちが噂しあうなか、ある夜民家が謎の理由で押しつぶされる災害が発生。国会で原因を調査する委員会が組織され、その会議の報告を傍聴する席に米国特派員スティーブ・マーティン(レイモンド・バー)の姿がありました。

古生物学者・山根(志村喬)の提言を受け調査団が派遣され、マーティンも同行します。放射能による汚染が確認され人々の警戒心が募る中、突如鳴り響いた半鐘。尾根の先に顔をもたげた怪獣が彷徨を轟かせ一帯はパニックに。

山根博士は撮影した写真を持ち帰り国会で怪獣の発生を報告、地元の伝承にちなみゴジラと名付けます。国会は自衛隊を派遣しゴジラ攻撃に乗り出していきます。一方山根博士の娘・恵美子(河内桃子)はかつての婚約者・芹沢(平田昭彦)から秘密裏に実験していた研究の話を聞かされます。

自衛隊による攻撃は失敗しゴジラは東京湾から上陸。品川駅を破壊し辺り一帯を焦土と化していきます。

非常警報発令。取材を行っていた建物が倒壊し逃げ遅れたマーティンは大怪我を負います。万策尽きたかと思える中、被害に心を痛めた恵美子は約束を破って芹沢の秘密を明かし首都を救おうするのでした…

仏フィルム・オフィス版は元となったUSプリントの影響もあって原水爆の言及は一切ありません。人間関係もできるかぎり省略されていて恵美子と萩原(宝田明)の恋模様、ゴジラに対する考え方の対立、市井の人々の反応といった要素は見えなくなっています。またUS版で主役だった米国記者マーティンは被災者の一人として扱われていました。

オリジナルの完成度と比べダウンスケール感は否めないものの約50分の短い尺でゴジラそのものインパクトを伝えたい意図は伝わってきます。1950年代にオリジナル版を直輸出しても理解されにくい部分が多かったでしょうし、ワンクッション置いて広く認知してもらう戦略はあながち間違いではなかったと思います。

ちなみに9.5ミリ形式フィルムは1920代半ばから70年代半ばまで約半世紀の歴史があるのですが、欧米圏(英仏米独)で9.5ミリ化された日本の長編映画は後にも先にもこの『ゴジラ』一作だけです。

[参照リンク]
Toho Kingdom [英語] … 東宝作品に関する情報交換掲示板でイタリア語版や仏語版についての情報・画像あり
Schnittberichte [ドイツ語] … 独版と東宝オリジナル版の比較検証
Cinemore: 『ゴジラ』 原点にして異彩を放つ第一作目【川原瑞丸のCINEMONOLOGUE Vol.57】 [日本語] … 海外版への言及がある訳ではないのですが要を得ていて面白かったです。


[タイトル]
Godzilla

[原題]
Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique

[公開年]
1957

[IMDB]
Godzilla

[メーカー]
仏フィルム・オフィス社

[フォーマット] 9.5mm 白黒無声 100m×4巻 ノッチ無

2021 – ホームムービーのデジタルアーカイブ『世田谷クロニクル 1936-83』by 生活工房 紹介記事(アーバンライフ・メトロ)

先日、東京拠点のウェブマガジン「アーバンライフ・メトロ」に世田谷に特化した古フィルムのデジタルアーカイブの紹介記事が掲載されていました。

「見てるだけで涙が」とSNSで反響
8mmフィルムに残された
昭和時代の家族の肖像とは

『世田谷クロニクル 1936-83』はせたがや文化財団・生活工房がNPO法人(記録と表現とメディアのための組織)の協力を得て収集した個人撮影8ミリ動画のオンライン・デジタル・アーカイヴ。2021年5月のサイトリニューアルをきっかけに口コミで話題となっていったようです。

古い個人撮影動画をデジタル公開する試みはユーチューブを含め多く見られますが、対象を一つの行政単位、コミュニティに絞った企画は海外でも例がなく、「匿名者たちによって連綿と記録されてきた集団の記憶」と形容できる独特の世界線を描いています。8ミリ独特の発色や解像度、フリッカリングが被写体とあいまって良い感じに昇華されています。

1931 – Super8 『雪の渡り鳥』(阪妻プロ、宮田十三一監督)東映/サングラフ版

阪東妻三郎関連 [Bando Tsumasaburo Related Items]より

Koina no Ginpei: Yuki no wataridori
(1931, Bantsuma Production, dir/Miyata Tomikazu)
Early 1970s Toei/Sungraph Super8 Print

明治三十四年東京に生まれる。本名 田村伝吉。

歌舞伎から出て、大正十二年マキノ映画に入る。

チャンバラ映画史上最大のスターの一人で、昭和初期の時代劇革新運動の流れの中で、(それまでの時代劇映画は、講談本を材料としたものや、歌舞伎の引き写し的なものが大部分であったが、ここに至って、人間そのものを追究しようとする方向に向かった)尾上松之助調のおっとりとした立廻りを、すさまじい怨念のこもったスピーディーなものにつくり変え、豪放な立廻りの第一人者となる。

晩年は「破れ太鼓」等の小市民映画に出演、その重みのある演技には定評があった。「雪の渡り鳥」は、昭和六年度・阪東プロ作品で、原作は股旅物の名匠長谷川伸。人間味にあふれたヤクザ・鯉名の銀平に扮し、思い人の夫を悪徳ヤクザの手から助け、一切の罪を我身に引受けて、役人の手に引かれていく男の悲劇を、見事に演じ切っている。その他の代表作に「雄呂血」「無法松の一生」(戦前)、「素浪人罷通る」(戦後)などがある。

昭和二十八年死去。

阪東妻三郎『雪の渡り鳥』
(活動写真名優シリーズ・解説書)

「あの…帆立一家の者…今日も散々の目にあわされ…悔しがってあの人が一人であたしを縛り上げて今…殴りこみに行ったんだよ。ねぇ、銀平さん…あの人ひとりじゃとても」
「うーむ、当たりめえのこった。卯之ひとりであれだけの大勢に敵うわけがねえ。折角幸せになったオメエもなあ。よし、俺に任してくれい。必ず卯之は連れてきてやるよ」

「…だ、だ、誰だ!」
「誰でもねぇ!やくざに戻った卯之吉でい。よくもあんな目に遭わせやがったなぁ。仕返しに来たんでい」
「何ぃ、唯一人でてめえがけい。おう、知れたこってい」

「誰だ!」
「…鯉名の銀平よ」
「て、てめえは銀平!」
「当たりめえだ。覚悟しやがれ!」

「お、お役人さん。待っておくんねえ、待っておくんねえ。お願いでござんやす。この下手人は…この卯之でございやす。あの、銀平兄貴には何の罪がねえんだ」
「いけませんぜ、お役人。それは違いやすよ。ねえ、あっしが下手人でござんすから、どうぞ。あんな野郎に何ができるもんじゃございやせんよ」

1970年代前半~中盤と思われるサングラフ版で(同梱の愛読者カードの差出有効期間が1976年2月末まで)長さは60メートル(約12分)。3年程前に一度実写のスクリーン画像を撮影。今回自作スキャナーで取りこみ直しましたが正直そこまで大きな画質の改善はなかったです。

カセットテープ付きで弁士は竹本嘯虎。喉を鳴らすような威勢の良いべらんめい口調が特徴です。

[タイトル]
雪の渡り鳥

[JMDb]
雪の渡り鳥

[IMDb]
Koina no Ginpei: Yuki no wataridori

[公開]
1931年10月15日(常盤座)

[メーカー]
東映ビデオ(製作)/サングラフ(配給)

[フォーマット] Super8、60m、白黒

1931 – Super8 『雪の渡り鳥』(阪妻プロ、宮田十三一監督)マツダ映画社版

阪東妻三郎関連 [Bando Tsumasaburo Related Items]より

Koina no Ginpei: Yuki no wataridori
(1931, Bantsuma Production, dir/Miyata Tomikazu)
Matsuda Film Productions Super8 Print

『雪の渡り鳥』の小型映画版としては東映ビデオが制作したサングラフ社版(60メートル)が有名で、何度か中古市場に出ているのを見た覚えがあります。それ以前にマツダ映画社が無声映画鑑賞会の会員向けに配布していた4巻物(240メートル)のプリントを見つけました。

語りは無声映画鑑賞会の設立者の一人でもある松田春翠氏。フィルムにあわせカセットテープも4本組になっていました。

画質的にはサングラフ版に劣るものの、前半の流れ(物語背景の説明)がしっかり含まれており、また尺が長いため弁士の語りにも余裕があって細かなニュアンスまで表現できています。

「銀平さん、卯之さんは、帆立一家へたった一人で殴りこみに…」
「何、殴りこみ?そりゃお前…本当かい」
「あの人一人を殺すわけにはいかない…わたしも一緒に死にたい…あたしも…」
「待っていなよ、カタギで通そうと我慢してきた卯之吉が男の意地を立てに出かけたというのか…なぁに、かたぎ衆には何にもさせはしねえ。こういうことを引き受けるのが渡世人だ。お市ちゃん、きっと卯之吉は連れて帰ってくるぜ」

「お、お待ちくださいまし、お役人。本当の下手人はこの…あっしでございやす。」
「何!?」
「な、何を言うんでい、馬鹿野郎。渡世人の手柄を横取りする気けい。…旦那、こんな野郎の、どうして帆立の親分などが斬れる訳のもんがありません。どうか、あっしをお引きなすって」

これまでに紹介してきたフィルムでは1931年の右太衛門主演作『旗本退屈男』がマツダ映画社のプリントでありながら市販の形跡がなく出所が分かっていませんでした。あのフィルムも限定配布されていたのでしょうね。

『雪の渡り鳥』には110~113までのナンバリングが付されていたところから同種のフィルムがまだ100本以上存在していたことも分かりました。頻繁に市場に出てくる類ではなさそうですが記憶の片隅に留めておいて良さそうです。

[タイトル]
雪の渡り鳥

[JMDb]
雪の渡り鳥

[IMDb]
Koina no Ginpei: Yuki no wataridori

[公開]
1931年10月15日(常盤座)

[メーカー]
マツダ映画社

[メーカーカタログ番号]
110~113

[フォーマット] Super8、60m×4、白黒、非売品

1922 – Super8 『吸血鬼ノスフェラトゥ』(F・W・ムルナウ監督) 西独DEFA版

1922-『吸血鬼ノスフェラトゥ』

Nosferatu: Ende des Vampirs
(From « Nosferatu », dir/F.W. Murnau, 1922) DEFA Super8 Print

先月末にスキャンと併せて映写機での実写を行いました。

名の知れた一作でもあって英語版の16ミリや8ミリを市場で見かけることがあります。フィルムの現存状況や修復版の元となった35ミリプリントの詳細な情報はブレントン・フィルム [英語]でまとめられています。

ドイツでは西ドイツのDEFA社から2巻(前編『吸血鬼の棲まう城』245番、後編『吸血鬼の最期』247番)に分けられたスーパー8のダイジェスト版が発売されていました。こちらはその後編。

このフィルムに関しては2017年に一度実写でのスクリーン画像をそのまま撮影しています(使用映写機はベル&ハウエルのフィルモソニック498型)。

実写では中央部で白飛びが目立ち顔の肌の細かな陰影が消えてしまっています。ただし光量の落ちる周辺部は比較的しっかりと描写できていました。ランプを使うと光源となる中心がどうしても明るくなるためこういった質感になります。一方デジタルスキャンは四隅まで満遍なく安定しているものの暗い部分で潰れてしまい細部を拾えていない所があります。

またDEFA版8ミリではフィルムを送る穴(パーフォレーション)の上下まで映像が広がっています。実写時にこの部分は映写されないため、左側がトリミングされる形になり被写体が左に寄っていました。

本作を下敷きにしたヘルツォーク監督の『ノスフェラトゥ』(1979年)では吸血鬼と同時にやってくるペストの要素が強調されていました。古来から吸血鬼伝説と疫病への恐怖は連動してきたもので、本作にも公開の2年程前まで猛威を振るったスペイン熱の記憶が見え隠れしています。

[原題]
Nosferatu: Ende des Vampirs

[製作年]
1922

[IMDB]
Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens

[Movie Walker]


[メーカー]
DEFA

[カタログナンバー]
247

[フォーマット]
Super8 白黒無声

1917 – 16mm 『チャップリンの勇敢』第2リール 米コダック社シネグラフ琥珀染色版

「16ミリ 劇映画」より

« Easy Street » (1917, Mutual Film Co., dir/Charles Chaplin)
Late 1920s Kodak Cinegraph 16mm Amber Tinted Print 2nd Reel

一文無しに落ちぶれ果てたチャーリー君は伝道所に迷いこんでしまひ、そこで更生を果たした。まず成し遂げた善行は、盗んだばかりの募金箱を返したことであつた。次いで警察に勤めはじめ「イージー・ストリート」を任されるに相成つた。警官が担架で自宅送りされるのが当たり前といふ町一番に治安の悪い一画である。しかしチャーリーは悪番長をやつつけてしまい、教会で自身の更生を手伝つてくれた麗しき女性を助けその心を掴むのである。誰もが好きにならずにいられないチャップリン定番喜劇で、最初から最後まで笑い転げる程に面白い。

「コダスコープ・レンタル用フィルムカタログ詳細版」(1932年、初年度版)

Charlie, a down-and-outer, wanders into Hope Mission where he is reformed, his first good act being to give back the collection plate which he had stolen. He then joins the police force and is assigned to Easy Street, the city’s worst section from which as a regular thing the policemen are brought home on stretchers. But in a characteristic manner he overcomes the ring leader of the ruffians and rescues and wins the beautiful mission worker who had reformed him. A regular Chaplin comedy of the kind everybody likes. Uproariously funny from end to end.

Descriptive Catalogue of Kodascope Library Motion Pictures (1st Edition, 1932)

米コダック社が1920年代にレンタル権を獲得して扱いを始めたコダック・シネグラフ16ミリ版の『勇敢』。このシリーズは質の高いプリントと美しい琥珀色の染色で知られています。元々2巻物で今回入手したのは後半第2リール。

ミューチャル期短編について復習しておくと現行のプリントは米国内用(Aネガ)と海外用(Bネガ)の異なった二種から派生してきたものです。コダック版の大元はAネガですが一度改編が施されたものであるため早期に派生した亜種(A’ネガ)の扱いをされることもあります。今まで入手してきた『勇敢』(仏パテ9.5ミリ版、英パテスコープ9.5ミリ版、東和スーパー8版)はいずれもBネガ由来。今回初めて戦前Aネガ系の実物が手に入ったことになります。

左がコダック版16ミリ、右が東和プリント版スーパー8。

エリック・キャンベル演じる悪番長との乱闘場面で言うとコダック版(Aネガ由来)は右に置かれたカメラから撮影されており、二人の姿を斜め前から撮っています。東和版(Bネガ)は左に置かれたカメラで撮影されており、二人の姿をほぼ真横からのアングルで撮っています。近景にある物(通りの名が入ったプレート)と遠景の事物(窓枠)との位置関係がずれているのも分かるかと思います。

2021年GWは遠出ができなかったため、家時間を利用して16ミリフィルムをデジタルスキャンする簡易装置を製作していました。白飛び/黒潰れがありますが悪くないかな、と思います。綺乃九五式とは違って単発のスキャンのみなのでここまできたら16ミリ用自動連続スキャナーを作るしかない気がしてきました。

1930年頃 – 16mm『チャップリンのスケート』抜粋 +『チャップリンの伯爵』抜粋 仏パテ・コダック社プリント

「16ミリ 劇映画」より

« Charlot Bout en Train » & « Charlot en Soirée »
(« The Rink » & « The Count » excerpts, 1916, Mutual Film Co., dir/Charles Chaplin)
c1930 French Pathé-Kodak 16mm Print, Ciné « Kodagraph »

※2021年5月にスキャンを行いスクリーンショットをアップデートしました。


1927年にジョルジュ・イーストマンとシャルル・パテの合意を元に仏「パテ・コダック社」が設立されます。コダック製のカメラや映写機の輸入は同社を介して行われるようになりました。

エクセルシオール紙1928年5月24日付掲載の広告より

1928年の仏パテ・コダック社の広告。右下を見るとチャップリン作品も引き合いに出しつつ16ミリフィルムのレンタルサービスとして「コダスコープ(Kodascope)」が紹介されており、その下に市販用16ミリフィルムのブランドとして「コダグラフ(Kodagraphs)」の名称が使用されています。

仏パテ・コダック社が実際に市販していたのがこのような外箱入りのフィルムでした。右下に「フランス製(Fabriqué en France)と印刷され、フィルム本体のパーフォレーション部分にも「仏コダック」の文字があります。

ブザンソン市の写真店フォト・コステ社のラベルが貼ってあり、薄くなったタイプライターの印字は「Charlot Bout-en-train/Charlot en Soirée」となっています。改題されているもののそれぞれ『チャップリンのスケート』と『チャップリンの伯爵』の有名な場面を100フィートずつ抜粋したものです。フォト・コステ社が16ミリのレンタル用に2本のフィルムを繋ぎあわせたと考えられます。

『スケート』『伯爵』両作品ともチャップリンがミューチャル社と契約していた時期の短編です。同社は配給時に米国内用ネガ(Aネガ)、輸出用ネガ(Bネガ)二種類を用意していたことで知られています。フランスで市販されていたこのフィルムはどちらを元にしたものでしょうか。

他のフィルムと照らしあわせてみたところ個人的な予想と裏腹にAネガを元にしていました。親会社のコダックが合衆国拠点だったため、という話なのでしょうね。一方で同時期にフランスで市販されていたパテ社9.5ミリ版『伯爵』はBネガ由来でした。同じ国で同時期に同名チャップリン作品が売られていても実はネガは違っていた(=厳密に言えば同一作品ではなかった)という興味深い結論がでてきます。

1930年代前半 – 9.5mm 『廟行鎭肉彈三勇士模擬戰』(陸軍省撮影、伴野商店版)

「伴野商店」より

”Three Human Bombs, Sham Battle of Miao Hang Zhen” (1932)
Early 1930s Banno Co. 9.5mm Print

日本精神の精髄を外國までも傳へんとする意圖から、十六日の廟行鎭に於ける三勇士爆死實演の模擬演習は午前十一時半開始され午後一時終了した。日本義勇隊が支部兵に假装して支那塹壕陣地に着き、これに對し碇少佐の率ゆる一個大隊の歩兵は松下大尉引率の一個中隊の工兵掩護の下に鉄條網を越えんとして攻撃を開始し、小銃と地雷火、手榴弾など列爆中を三勇士は爆弾を背負つて鐵條網破壊に突進し、爆破作業を完了し、模造の三勇士の死體が空中に吹上げられるまで實に巧妙に演出された。陸軍省撮影隊の外フオツクス、ユニバーサルその他外國撮影會社も約五會社参加し、この感激的情景は完全にフイルムに収まつた。

「三勇士」模擬戰 – 各國撮影班を前に
キネマ週報 第百三號 昭和七年三月廿五日付


「大橋幸太郎主宰の軍事劇太陽団は、(中略)二十一日から二十八日まで八日間、昼夜二回南座で開演する。だしものは軍事社会教育連鎖劇「国の光人の妻」十三場(中略)昨年度陸軍特別大演習実況映画を映写する。特等八十銭、一等六十銭、二等四十銭。」(「大阪朝日新聞(京都版)」 4.17 ) ○「呼物は(中略)肉弾三勇士の鉄条網爆破の廟行鎮における模擬戦実写等いづれも一行の統率者大橋幸太郎氏が、講演する内容の一部として上場する時局中心の劇と映画である。」(「京都日出新聞」 4.20 )

昭和七年四月二十一~(二十八)日
京都南座 軍事社会教育連鎖劇『国の光人の妻』
近代歌舞伎年表京都篇: – 270 ページ

先日ご紹介した『復興帝都御巡幸』と同じ東北在住の9.5ミリ小型映画愛好家の旧蔵品。

肉弾(あるいは爆弾)三勇士については1932年3月初頭に映画会社6社競作でフィクション作品が発表されていました。こちらは陸軍省主導により実際の兵士を動員して「再現」した模擬演習を撮影したものです。

キネマ週報の記事によると1932年3月16日の昼に1時間半ほどかけて演習を実施。中隊長から命令の下達後、決死隊の青年兵に水盃が振る舞われ、その後煙幕に紛れ敵陣(廟行鎮/びょうこうちん)に進んでいきます。「勇壮なる哉三勇士 肉弾を以つて爆破」の字幕の直後に爆破による煙が立ち上がり、それを合図に兵士たちが突撃を開始。現場に立てられた木製の碑の映像でフィルムは終了。

鉄条網への突撃の場面に関しては敵地からの銃撃を避け、破壊筒を地面に置きながらしゃがみこむようにじりじりと進んでいく形で描かれていました。三兵士が大きな筒を小脇に抱えて勇ましく突進しているイメージが強いのですが、この作品の描き方はそういった一般に流布したイメージとは異なっています。

『廟行鎭肉彈三勇士模擬戰』が強調しているのは部隊全体による複合的なオペレーションです。煙幕を張る者たち、後方で掩護射撃を担当する兵士たち、鉄条網破壊後に突入を任されている面々が連携し、敵陣からの銃撃に苦労しつつも最後は攻略を成功させた。ただ、そのために若き兵士3名の命が失われた。当時のメディアによる過剰でいびつな神格化に対し、陸軍が「公式版」でその神話の微修正を図った痕跡、と個人的に読みました。

1915 – 『赤環(レッド・サークル)』(バルボア/パテ・エクスチェンジ社、シャーウッド・マクドナルド監督、ルース・ローランド主演) 35ミリ齣フィルム10枚

« The Red Circle » (1915-16, Balboa/Pathe Exchange, dir/Sherwood MacDonald)
Chapter 11 « Seeds of Suspition » 35mm Nitrate Fragments

1915年末から16年前半にかけて公開された連続活劇『赤環』の上映用ポジ断片10枚。製作はバルボア社で配給がパテ・エクスチェンジ社。カレム社の短編映画でヒロインを務めていたルース・ローランドが初めて連続劇に進出した記念すべき一作。短い予告編を除いて上映用フィルムは遺失したとされています。

1915年11月27日付「ムービング・ピクチャー・ワールド」誌より 別作品の代打として1ヶ月公開が早められた旨も記されています

興奮すると両手の甲が充血し「赤い環」が現れて犯罪を犯してしまう…そんな遺伝的疾患の事件を追っていた医学者ラマー(フランク・マヨ)と、同症状の持ち主である若きヒロイン、ジューン・トラヴィス(ルース・ローランド)の出会い、駆け引き、そしてロマンスが14章仕立てで語られていく内容。

今回入手したのは第11章「疑惑の種」の断片で、内2コマは字幕、1コマは次回予告でした。本作に関しては英語と仏語のノヴェライズ版(仏語版を担当したのはモーリス・ルブラン)がありますのでこの2種の小説版と突き合わせながら齣フィルムの文脈を再構成してみます。

先行エピソードで窮地に陥っていたヒロインを助けたのは自身お尋ね者となっていた弁護士ゴードンでした。事情を尋ねたところ元々はファーウェル・コーポレーションの顧問弁護士をしていたとのこと。現場の労働者への賃金未払いが起こり調整をしていたところ、当のファーウェル社社長に騙され賃金を横領した罪を被せられてしまった…医学者ラマーがファーウェルの事務所を訪れたのを知ったジューンは「賊が侵入した!」と狂言を演じ、混乱に乗じて横領の証拠となる署名入り領収書を奪い取ります。


部屋の隅から一脚の椅子を引っ張ってきて扉脇に寄せ、椅子の上に立って軽く背を伸ばし、愛らしくも好奇に満ちた一対の瞳を欄干越しに向けた。

Getting a chair from the corner of the room, she carried it to the door, jumped lightly up and applied a pair of very pretty but very curious eyes to the transom.



自分でもなぜか分からぬまま、事務所へと戻ってくると白い便箋を二枚とり、重ねたまま折りこむと二つの同じ大きさの輪に切り取った。

Ensuite, sans s’expliquer elle-même pourquoi elle agissait ainsi, elle revint au bureau, prit deux feuilles blanches, les plia et les découpa en deux cercles égaux.



無駄骨となつた追跡の途中にラマーとファーウェルは引き返してきた秘書と合流、口角泡を飛ばしながらロビーまで降りてきた。

During their wild-goose chase Lamar and Farwell met the returning secretary and they all came down the hall together, talking excitedly.



「泥棒にやられた!札束を持つていかれてしまったよ。これを読んでくれ」、ファーウェルは金庫のダイヤルにかかっていた白い紙の輪を取り外すとラマーの手に押しこんだ。男が目を落とすと「お金は”赤き環の淑女”が正しい使い方をさせていただきます」の文字。

« I’m robbed! They’ve taken a bundle of bank notes! Read this thing! » As he spoke he pulled the printed circle off the safe knob and thrust it into Lamar’s hands. What Lamar read was this: « The money will be put to a good use by the Circle Lady. »



「金庫から頂戴したお金は”赤き環の淑女”より正当な所有者の元に届けさせていただきます」

L’argent pris dans ce coffre sera remis à ses légitimes propriétaires par la dame au Cercle rouge.



ラマーはゆつくり受話器を手にした。立ち上がった時と同じ位緩慢な動きであつた。

Lamar slowly hung up the receiver. Just as slowly be got up.



「いいえ」、秘書のゲイジが大声で答えた。「見えたのは甲に赤い輪の浮き出た女性の手だけでした」

« No, » yelled Gage. « I couldn’t see a thing except a woman’s hand with a Red Circle on the back of it.



一方でジューン嬢は自分の引き起こした騒動のことは頭から消し去り、ゴードンが待ち望んでいた領収書と札束とを胸にしつかと押しつけながら待ち合わせ場所の公園へと向かったのであつた。

Meanwhile, June, oblivious to all the trouble she had caused, made her way to the park, the coveted receipt and the banknotes hugged tight to her breast.



誰にも気づかれていなかったようなので足早にその場を去り、公園を離れると下町方面へと向かった。

人気のない一画を通り過ぎようとした時、まさに今一番必要としているものが目に留まった。焚火だ!

領収書を千切って炎に投げこんでいく。どの一片も本が何か見分けのつかない灰になってしまうまで見つめていた。

No one seemed to notice him, so he got out quickly, and leaving the park, made for the downtown district. […]

Just then he passed by a vacant lot and he saw what he needed most – a bonfire!

Tearing the receipt into tiny pieces, he threw them on the fire and watched them burn until every scrap had vanished into unrecognizable ashes.



『赤輪』次回予告
第12章「罠にかかった鼠の如く」
来週公開予定


ラマーとファーウェルがオフィスで話している様子をヒロインが盗聴する場面(齣番号01)に始まり、二人の男が部屋を開けた隙にジューンが領収書と紙幣を盗み出し、白い便箋で作った「環」に書置きを残す場面(齣番号02)、秘書と共にラマー、ファーウェルが戻ってくる場面 (齣番号03)、領収書が消えたのに気づき、ラマーが書置きに目を通す場面(齣番号04)、書置きの文面(齣番号05)、警察に電話しようと受話器を取り上げる場面 (齣番号06)、秘書が手錠で身動きを封じられた状況を説明する場面 (齣番号07)、ヒロインが待ちあわせ場所の公園に急ぐ場面 (齣番号08)、ゴードンが領収書を焚火で燃やす場面 (齣番号09)、そして次回予告 (齣番号10)。

英語版と仏語版小説で何とか流れを再構築できた感じながらも、以上で10フレームすべてが作品の中盤~後半の流れにぴったり収まりました。

[参考文献]

『赤環』英語版小説 アルバート・ペイスン・ターヒューン著、1915末〜1916年、各地の地方紙にて連載
”The Red Circle”, 14-chapter English novelization by Albert Payson Terhune, published in The Review (High Point, North Carolina) from December 23, 1915 to March 30, 1916.

『赤環』仏語版小説 モーリス・ルブラン著 初出ジュルナル紙、1916〜1917年連載
« Le Cercle rouge », 31-chapter French novelization by Maurice Leblanc, published in Le Journal from November 4, 1916 to January 20, 1917.

「パテ會社新作活劇 « 赤環 »」 モトグラフィー誌 1915年12月4日付
« The Red Circle » Pathe’s Next Serial Will Feature Ruth Roland Motography, 1915, December 4 Issue, p1179.

ムービング・ピクチャー・ワールド紙 1915年11月27日付より広告

[IMDb]
The Red Circle

[Movie Walker]


[公開]
1915年12月16日

大正期~昭和初期 35ミリ齣フィルム私見

Bessie Love & Irene Hunt in Forget Me Not (1923) 35mm Nitrate Fragment
1923年公開作品『若き日の夢』よりベッシー・ラヴとイレーヌ・ハント

先日大正末期の齣フィルム70枚を一括で入手しました。幻灯機で映写するため紙フレームに糊付けされた形で保存されていました。台紙に劣化と歪みが目立ちスキャンしようにも手が出せない状態で、一旦崩してスキャン後に新たな台紙に整理し直しました。

内訳としては洋画が45枚強、邦画が25枚弱。文字情報が残されておらず現時点では特定できていない作品がほとんどです。場面の特定できたハリウッド製連続活劇『赤環』(1915-16年)を別投稿で紹介してあります。

映画館で何度もかけられて使い物にならなくなったフィルムをそのまま、あるいは巡業先で興行師がその場で切り売りしたり、また下請業者が複製・着色して子供向けに玩具として販売したりして、大正期を中心に一大ブームとなった。

「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」
福島 可奈子(『映像学』2018 年 99 巻 p. 46-68)
pdf版はこちら

以前にも一度引用した福島可奈子氏による齣フィルム論の一節です。大正中期から昭和初期に大きな流行を見せた「齣フィルム」文化について全体像と細部の双方に配慮をしつつまとめられたもので、本サイトでも何度か紹介した「愛」印(愛和商会)製のフィルムについても紙数が割かれています。この分野に興味のある方は眼を通しておいて損はない優れた論考だと思います。

松栄堂や愛和商会などに代表される玩具会社量産による齣フィルムについて一点補足があります。

原版となる映画館上映後のオリジナルフィルム(既製品のポジフィルム)から一旦ネガフィルム(再生フィルム)を作り(このとき、玩具会社名やジャンケンマーク等も焼き込んだと考えられる)、そのネガから別なポジフィルム(再生フィルム)へ焼きつけて製品化することで齣フィルムを量産していたのだろう。

福島論文は「だろう」という結びを使い、以上の形で齣フィルムの製造過程を推定しています。当時の現場で作業していた人々の証言やマニュアル類が残っている訳ではないため推測以上の話はできませんし仮説が正しい可能性は十分にあります。

ただ、以前に『尊王攘夷』の齣フィルムを照らし合わせて見えてきたのは「原版は上映用のポジフィルムではなさそうだ」という話です。

左がDVD版のスクリーンショット、右が愛和商会製の齣フィルムです。一見すると同じ場面に見えますがふすまの位置関係から異なったカメラで撮られたことが分かりますし、ライティングの発想が大きく異なっています。DVD版は背後上部からの照明があるため頭部から肩、腕にかけて光の輪郭が浮き出ています。齣フィルム版にはこの照明がありません。

もう一つの重要な違いとしてフィルムベースのデジタル版には「映写痕」が残っています。左の山本嘉一を拡大して見てみると:

映写機由来の細い縦傷が幾筋にも入っているのが分かります。『尊王攘夷』DVD版は個人コレクター所有の16ミリベースではないかと言われているもので、フィルムの形式(8/9.5/16/35ミリ)に関わらず樹脂製のフィルムを金属製の映写機にかけている間にこういった傷が入るのは避けられません。

愛和商会の齣フィルムには経年による細かな汚れや傷が見られるものの、映写機を通ってきた証拠となる縦の傷が見られません。

2つの可能性を考えてみることができます。

1)映画制作会社が所有していたアウトテイクを元に齣フィルムを製作していた
2)撮影時に同時に撮られていたスチル写真のポジ(又はネガ)を元に齣フィルムを製作していた

1)のアウトテイク説でアングルや映写痕の違いを説明できますが、ライティングの差異を説明することはできません。そう考えていくと玩具会社による齣フィルムは2)スチル写真ベースの製品だったと見るのが妥当な解釈になるのでしょう。

何度も映写機をくぐり傷だらけになった上映用ポジを二次利用したもの。もう一方はスチル写真をベースに大量生産されていたもの。大正末期から昭和初期にかけて2種類の異なった「齣フィルム」があったのではないでしょうか。後者は35ミリフィルムを模してはいるものの、実体は販促用絵葉書に近いと言えそうです。

] 映画の郷 [ 電子工作部:映写機用レンズの実写性能比較システムを作る(01)

今年になってから9.5ミリ映写機用レンズの実写性能を比較するシステム作りを始めました。運用できるレベルには達しておらず試行錯誤中ながらもある程度形が見えてきたので経過報告です。

システムのコア部分に転用した独イハゲー社のカメラ用アクセサリー2点(マクロ撮影用ベローズ & 金属製エクステンションチューブ)。どちらも本来はカメラとレンズの間にかませて使用するものです。

左の写真はイハゲー社のアナログカメラにマクロ撮影用ベローズを実際につけてみたところ。蛇腹を伸ばすと焦点距離が長くなり、小さな被写体を接写できるようになります(右は桃色のカスミソウを撮影した一枚)。

両者ともに単体ではマクロ撮影にしか使えないのですが、今回は3Dプリンタで製作した補助器具を埋めこみ別種の機器に流用していきます。

スケッチブックでイメージ作り。センサー/レンズ側とフィルム/光源側の二つのパーツに分けて作っていくことにしました。

【センサー/レンズ側】

金属製エクステンションチューブは竹の節に似た構造になっていて幾つかに分けることが出来ます。今回はこのチューブを二つに分け、一方の内側に樹脂製リングをかませたレンズを埋めこんでいきます。

映写機用レンズには共通規格としての「マウント」概念がないため外径や長さがまちまちです。レンズの外径を図り、フィットする形でリングを作っていきます。

左は仏エルマジ社のレンズF=1.6 40mm(レンズの外径30.0ミリ)を装着した時の様子。右は同社のレンズF=1.9 45mm(レンズの外径28.0ミリ)をつけた際の様子。

【フィルム/光源側】

金属製チューブの残り半分にも3Dプリンタで作ったパーツを埋めこんでいきます。9.5ミリフィルムの断片(3コマ分)を固定できるフィルムフォルダーです。二ヵ所の小さな突き出しをフィルムの穴(パーフォレーション)にはめて固定する形です。

このフィルムホルダーをセットする仕組みを作っていきます。複数の樹脂パーツを組みあわせたもので、四角い箱型の部分がランプハウスとなっており、1)LED電球、2)背面の光を反射させるお椀型のミラー、3)パテベビー映写機から取り出したコンデンサーをはめこんでいます。LEDの電圧が12Vだったので単三電池8本を外付けにして電力を供給します。

フィルムホルダーをはめこんだ金属製チューブを置きます。電源のスイッチをオンにするとフィルムが一コマ分、チューブの中央部で照らし出されます。

センサー/レンズ側パーツとフィルム/光源側パーツを向かい合わせにセットします。マクロ撮影用ベローズの土台部には2ミリ弱程の隙間があるので、光源側パーツの土台から伸びた薄い板を差し込む形になります。

組みあわせたところ。フィルム部分が光っています

同じ状態でセンサー/レンズ側から見たところ。レンズを通して見ているため天地左右が逆転しています。センサー/レンズ側にはカメラをセットするマウント(EXAKTAマウント)がありますので、マウントアダプタ(マイクロ4/3-EXAKTA)経由でミラーレスカメラ(マイクロ4/3マウント)を取りつけます。

蛇腹でレンズとの距離を調整し、映写された画像の幅とセンサー幅が一致する地点を見つけさらにピントをあわせていきます。上手くいくとミラーレスカメラの画角(3:4)一杯に拡大された映像が映り、デジタル撮影ができるようになります。

冒頭には「映写機用レンズの実写能力比較システム」と書きましたが、その実態はミラーレスカメラを土台にしたデジタルフィルムスキャナーです。

イメージ図は上のようになっています。右側からランプハウス、フィルム、距離を置いて映写機用レンズと並んでいて、この部分には簡易化した映写機が隠れています。一般的に映写機は投影された映像を「スクリーン」に映しますが、今回はスクリーンに置き換えた剥き出しのカメラセンサーで画像データを取りこんでいく訳です。

一方、映画フィルム用のスキャナーは照らし出されたフィルムをセンサーとレンズをセットにした「カメラ」で撮影するという発想になっています。

センサー~レンズ~フィルム~光源までの並びは同一。映写機で投影した画像をセンサーで取りこむ前者と光で照らされたフィルムをカメラで撮影する後者は発想こそ異なっているものの物理・光学的には同じことをしている話になるのです。

1926 – 9.5mm 『彌次喜多』(『新作膝栗毛』、日活、中山呑海監督)伴野商店版

「伴野商店」より

”Shinsaku hizakurige” (1926, Nikkatsu, dir/Nakayama Donkai)
Late 1920s Banno Co. 9.5mm Print

長屋の薄い壁の向こうから漏れ聞こえてきたのは夜逃げの相談である。そつと覗きこむと借金取りに追われた弥次と喜多が江戸を離れ伊勢参りに向かうとのことであつた。

今生の別れやもしれぬとあり、お調子者の二人の目にもきらりと光る涙があつた。ご近所仲間も別れを惜しみ、路銀の足しにと小銭を持ち寄るのであつた。

いざ出発。しかし桟橋に着いた時にはすでに舟は出たところであつた。「オーイ待つてくれー」、二人の声は船頭には届かない。舟を追って海に飛びこんだ弥次喜多の頭はやがて波間へと消えていく。前途多難な出立であつた。

20メートルの1リール物として発売された伴野初期の9.5ミリ作品。タイトル「彌次喜多」の後すぐに物語が始まっていて出演者や製作会社のクレジットがありません。手持ちカタログでは小泉嘉輔主演となっており1926年に公開された日活作品『新作膝栗毛』の一部のようです。彌次(小泉嘉輔)と喜多(児島三郎)が伊勢参りに出発する長編喜劇の冒頭を抜粋した形。

スキャン画像が綺麗ではなくスキャナー設定を失敗したと思いました。やや淡めでコントラストが低く、グラデーションの滑らかな画質…これってよく見るとパンクロマチック・フィルムの質感にも見えます。オルソクロマチックからパンクロに切り替わった最初の劇場公開作品はフラハティ監督『モアナ』(1926年1月)。日本でもすぐに大手が追随し、同年中には幾つかのパンクロ白黒フィルム映画が製作されていた可能性があるな、と。

『新作膝栗毛』公開は尾上松之助逝去の翌日の9月12日。この3カ月後には大正天皇が崩御し元号が変わります。この年の8月にはヴァイタホンで効果音を一部同期させた『ドン・ファン』のプレミア上映が行われていて翌年の『ジャズ・シンガー』の布石となっていますし、オルソからパンクロへとフィルムの種類も変わっていく…1926年は様々な意味で「変化」の年でもありました。

中山呑海監督のお孫さんがこんなツイートを残されています。

[Movie Walker]
新作膝栗毛

[IMDb]
Shinsaku hizakurige

[公開]
1926年9月12日

[9.5ミリ版]
伴野商店

[9.5ミリ版タイトル]
彌次喜多

[カタログ番号]
24

[フォーマット]
20m×1、ノッチ有、白黒無声

1917 – 9.5mm 『淑女騎手』(トライアングル社、ロイ・ウィリアム・ニール監督、エニッド・ベネット主演) イタリア語版

9.5ミリ 劇映画より

Enid Bennett in « They’re Off » (1917, Triangle Film, dir/Roy William Neil) late 1920s 9.5mm Italian Version

株式で財を成したダニエル・ハケット氏が娘のリタ(エニッド・ベネット)と共に南部を旅行中、車が故障して足止めを余儀なくされた。修理中にふと趣のある古い一軒家に目がとまる。「こんな家が持てたらいいのに」、娘の言葉にダニエル氏は交渉に乗り出した。

一軒家ではランドルフ(ローランド・リー)という青年が執事(リンカーン・サミュエル)と生活していた。小切手帳を手にしたダニエル氏の提案をランドルフは拒絶、交渉は物別れに終わった。

ランドルフが煙草に投資していると知ったダニエル氏は手を回して市場に介入する。予想外の株価暴落にランドルフは成すすべくもなく、不動産を手放さざるを得なくなった。かくしてダニエル氏が豪邸の新たな持ち主となったのであった。

ダニエル氏は娘と知人たちを邸宅へと招待した。雰囲気のある間取りや装飾にリタは大喜びであったが、離れの厩舎で沈痛な面持ちの青年と出会う。家を失い、今は執事のモーゼとともに離れの厩舎を住まいとしているランドルフであった。父親が不当な手を使って館を手に入れたと知ったリタは憤慨、一策を案じて青年の力になろうとする。

地元の競馬場には多くの観客が集まっていた。その中には双眼鏡を片手にしたダニエル氏の姿。自身の持ち馬の優勝を確信していたが、その後を対抗馬が猛追してくる。この対抗馬に乗っていたのは騎手姿に身を包んだ娘のリタであった…

軽めの恋愛劇とスポーツ物を組みあわせたトライアングル社1917年作品。この年ハリウッドデビューしたばかりのエニッド・ベネットを売り出す発想が強く、ドレス姿や乗馬服姿にドレスアップしたヒロインを強調する場面が目立ちます。ベネット自身の演技はまだ感情表現や動作が荒削りで良くも悪くもそれが初々しく画面に出ています。

最後に収められた競馬の場面について補足をしておきます。

父親ダニエル氏の持ち馬の名前が「WASP」、同氏が娘リタに与えた黒い馬の名前が「SATAN」。レースではリタの騎乗する黒馬「SATAN」が「WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)」を打ち負かす展開となっていきます。北の善良なヒロインの助力を得つつ、南部の弱者が差別構造を打ち破っていくアレゴリーと読むことができるのでしょう。脚本が後に西部劇監督として名を上げるランバート・ヒルヤー(Lambert Hillyer)である事実と併せて考えてみると興味深いものがあります。

9.5ミリフィルムは1926年に発売されていた英パテスコープ版3巻物の字幕をイタリア語に置き換えたもの。以前に紹介した『快漢ブレーズ』と同じ伊コレクターの旧蔵品で3巻とも冒頭が欠けており、フィルム途中に切れや傷、焼け跡が目立つ状態でした。

[IMDb]
They’re Off

[Movie Walker]


[公開]
1917年8月19日

[9.5ミリ版]
イタリア語字幕版

[イタリア語版タイトル]
L’Amazzone

[カタログ番号]
10-050

[フォーマット] 20m×3、ノッチ有、白黒無声

1922年頃 35ミリ齣フィルム30枚(米パテ社連続活劇とロイド喜劇)

35mm nitrate film fragments (positive, toned) on pierced papers, c1922
Eddie Polo, Charles Hutchison, Harold Lloyd etc.

1922~23年頃と思われる35ミリ齣フィルム30枚のコレクション。切込み(スリット)を入れた自作台紙3枚にまとめたものです。幾つかの齣では縁の部分にメーカー名(丸印に「愛」「平」「モ」)を見て取れます。

エディ・ポーロ 1922年『キャプテン・キッド』

チャールズ・ハッチソン 1922年『スピードハッチ』

ハロルド・ロイド 1922年『豪勇ロイド』

ウォーレス・リード 1922年『ゴーストブレイカー』

1910年代から連続活劇で活躍していたエディー・ポーロが一番多く、次いでチャールズ・ハッチソン、ハロルド・ロイド、ウォーレス・リードの順になっています。いずれも本国では1922年に公開、齣フィルムもこの時期と見て良さそうです。

旧所有者さんが連続活劇好きだったのは疑いの余地のない所。女優を主人公にした作品はなく、またアントニオ・モレノのような華奢な美形男優ではなくエディー・ポーロやハッチソンなど肉体派を好む傾向を見て取れます。

男優の裸身(しかも肉付きや筋肉を強調するポージング)が多いのも偶然ではないのでしょう。1922年頃、大正末期の日本でよほど気心の知れた相手との内緒話でもなければ「男優の裸体に妄想を掻き立てられる、興奮する」と公言するのは不可能でした。家族に見つかった女学生は映画館立入り禁止でしょうし、既婚女性であれば三下り半、男であれば社会的に抹殺されてもおかしくない時代です。それでも業界は一定のニーズがあると分かっていてこういった場面を投入している訳です。

ヘレン・ホームズ~パール・ホワイト~ルース・ローランドなどを中心に流れていく連続活劇史そのものがヘテロ男性の見方なのだろうなと、以前から薄々は感じていました。異なった性的指向の人には全く違った風景が見えている。映画史そのものが違う。当たり前といえばその通りで一世紀前のリアルな物証を目の当たりにして新鮮な驚きはあります。

1921-22 『ハリケーン・ハッチ』(米パテ・エクスチェンジ社、ジョージ・B・サイツ監督)

« Hurricane Hutch » (1921-22, US Pathe Exchange, dir/George B. Seitz) 1924 Enomoto Shoten Novelization

蹴倒す、投げ出す、打倒す、ハツチは鬼の如く荒廻つた末遂に二人の幽閉されてゐる室へ飛び込んだのである、それツと二人の婦人を抱いて船室から飛び出ようとする時であつた、どうして焔へ上つたか船は炎々たる紅蓮の炎に包まれてゐるのである、もう仕方がない、ハツチは兩人を抱いたまゝザンブと海中へ躍り込んだのである、船はと見れは地獄の如く阿鼻叫喚の修羅の巷と替り果てゝ了つてゐる、ハツチとナンシー嬢は流れ來る破片に縋り、従妹テツド嬢は漂ひ來る木片に取り縋るのであつた[…]。

『ハリケン・ハッチ』(榎本書店 活動文庫、1924年)

『ハリケーン・ハッチ』は1921年秋から22年初頭に公開された米パテ社の15幕物連続活劇です。主演チャールズ・ハッチソンは旧作『伯林の狼』や『大旋風』で日本でも名を知られており、またパテ社の大掛かりなプロモーションが功を奏したこともあって人気を呼び、『豪傑ハッチ』『スピードハッチ』と次作以降も紹介が続いていきます。


『ハリケーン・ハッチ』の脚本を書いたのはハッチソン自身であるが、本人はこの作品でのアクションを「古びたもの」と切り捨てている。バイクに乗った主人公のハッチがまさに真下を機関車が雷鳴を立てて通り過ぎていく瞬間に壊れた橋を9メートルもジャンプして飛び越えていく。オーセイブルの急流に飛びこみ、その滝を泳ぎ切っていく。丸太に乗って木製の水路を流れていき、そのまま木材で埋め尽くされた川に突入する。ハドソン川の真上30メートルの端にかかったロープを滑り降りていき、揺れたまま通りすがりの帆船のマストに飛び移る。他にも観ているだけで血の気が引くようなアクション満載なのだが「古びたもの」だそうだ。

「ピクチャーゴーア」誌 1921年12月号

Hurricane Hutch was written by himself, but he dismissed his exploits therein as « old stuff. » When Hurricane Hutch is released, you will see « Hutch » leap thirty feet across a broken bridge on a motor-cycle just as a train thunders by beneath him. Also plunge into Ausable Rapids and swim over the falls there ; « ride » a lumber-sluice on a log into a river jammed with other logs; slide down a rope from a hundred-foot bridge over Hudson river, and swing to the mast of a passing schooner, and numerous other blood-curdling stunts. Old stuff!

Picturegoer Magazine (1921 December Issue)


多彩なアクションが伝わってくる記事です。フィルムそのものは遺失。パテ社製作の予告編をシリアル・スカドロン社がデジタル化(『ロスト・シリアル・コレクション』DVDの2枚目に収録)しておりユーチューブでも見る事ができます。

主演チャールズ・ハッチソンについて現在まとまったオンライン記事はありません。紙ベースでは活劇史を扱った『Bound and Gagged』(1968年)の第6章で幾つか作品が触れられていました。古い雑誌で調べているとピクチャーゴーア誌のインタビューを発見。その内容によると父親がスコットランド系イギリス人、母親がアメリカ人で幼少時をイギリスで過ごしているそうです。10代後半で舞台に立ち8年の経験を積んでから映画界に参入。当初トライアンフ社で活動しその後クリスタル社など転々とします。パテ社との契約第一弾となった『伯林の狼』(1918年)成功で連続活劇界の花形となりました。

上の写真は1922年のパテ・エクスチェンジ社の広告。パール・ホワイトと並ぶ扱いを受けているのが分かります。同じ雑誌に寄稿されたパテ・エクスチェンジ社マネージャー(エドガー・オスワルド・ブルックス)の一文では、旧来型の連続活劇と方向性を変え青少年に悪影響を与えない「健全」な作風に向かう旨が記されています。興行としても内容・表現的にも行き詰まりを見せていた活劇ジャンルの再興を目論んでいるのです。しかしパール・ホワイトは次作『プランダー』をもって活劇を引退、ハッチソンも翌年にはパテ社を離れています。

1914年後半から始まったハリウッド連続活劇のブームはこの1923~24年で一旦終焉を迎えました。ハッチソンの名も忘れられていくもののその血脈は『怪傑ハヤブサ』などに受け継がれていきます。

[Movie Walker]
ハリケーン・ハッチ

[IMDb]
Hurricane Hutch

[発行者]
榎本松之助

[発行所]
榎本書店(大阪)

[出版年]
1924年

[フォーマット]
A7:10.5×7.4㎝、32頁

1920 – 8mm 『キスメット』(オーティス・スキナー主演、ルイ・ガスニエ監督) 米ブラックホーク社プリント

« Kismet » (1920, Waldorf Photoplays Inc., dir/ Louis J. Gasnier)
US Blackhawk Standard8 Print, with Paul Killiam Annotations

1920年前後のハリウッドではエキゾチックな設定を生かしたドラマや恋愛物がひとつの人気ジャンルとなっていました。ルドルフ・ヴァレンチノ主演の『シーク』や『血と砂』へと発展していく傾向で、中世のバグダッドを舞台にした1920年作品『キスメット』も大きくはこの流れに含まれています。

米ブラックホーク社の8ミリ版は作品全体を展開しているものではなく、映画史家ポール・キリアム氏の字幕解説コメントを中心とし、同作の見どころをまとめていく形を取っています。

『キスメット』の見どころの第一はその主人公。同作は元々舞台での人気作を映画化したものです。悪徳カリフに妻と息子を奪われ、今は物乞いとして暮らしている中年男ハジの復讐を描いた物語で、舞台版で主演を演じたオーティス・スキナーが映画版でもハジ役を務めています。スキナーはこの時点で還暦を越えているベテラン俳優。アイドル人気を博す要素はほとんどありませんが長年舞台で培った演技力は際立っており、登場の瞬間から生き生きした表情や動作で画面を支配していきます。

第二の見どころは豪華な設定…と続いていくものの、正直そこまで圧倒される感じはありませんでした。8ミリの解像度はこういった豪華絢爛なセットや衣装の凄みは伝えきれない気がします。

権力争いに巻きこまれ、ハジは豊かな皇子であると身分を偽って宮殿内に入りこみます。このとき冷遇されているカリフの妻とハジの間に恋愛感情が生まれてきます。妖艶な妻を演じたのは1910年代に娘役として活躍したローズマリー・セビー。1920年代前半のハリウッドらしいエキセントリックなファッションが目を引きます(リアルのイスラム圏の人は違和感を覚えそうですが)。

最後の見どころして挙げられていたのが「アイリス・エフェクト(瞳/絞り風の表現効果)」を使用した場面。

この見せ方は素敵。映画史の教科書に載って良いレベルだと思います。作品後半の物語展開に軽く触れてフィルムは終了。

ポール・キリアム氏は戦後、無声映画を紹介するテレビ番組のコメンテーターを務めていました。1950~70年代アメリカでサイレント映画に慣れ親しんだ世代には良く知られた人物でもあります。ブラックホーク社がその番組の権利を一部取得しており、同社の8ミリにはこれらのテレビ番組をダイジェスト化した作品も多く含まれています。こちらの『キスメット』も同様の経緯で生み出されてきたものです。見どころをピンポイントで説明してくれる啓蒙的な性質のフィルムで、言われないと気づかないままだった情報も多く含まれていて思った以上に楽しめる内容でした。

8ミリ版で触れられていなかった重要なポイントが一つ。『キスメット』の監督はパール・ホワイト初期連続活劇を担当したルイ・ガスニエでした。『ポーリンの危難』と『拳骨』で他作が霞んでしまう傾向がありますが1920年の『キスメット』や1932年の『トパーズ』など節目節目で秀作を生み出してきた戦前実力派、本作でもそのセンスを確認する事ができます。

[IMDb]
Kismet

[Movie Walker]
キスメット

[公開]
1920年11月14日

[8ミリ版]
米ブラックホーク社

[カタログ番号]
860-535

1930年 – 9.5mm 『復興帝都御巡幸』(原題『輝やく大東京』 撮影・大日本教育映画協會 伴野商店版)

小特集【関東大震災と9.5ミリ映画】
「伴野商店」より

« Imperial Visit to the Reconstructed Capital » (March 1930)
c1930 Banno co. 9.5mm Print

震災から6年半、当時の金額にして7億円以上の巨費を費やした東京の復興計画(土地区画の整備、インフラ再建)が一区切りつき、1930年3月に復興帝都祭が開催されています。3月24日の昭和天皇による首都巡幸を記録した映像がこちら。

ルートとしては皇居出発後に九段坂上~府立工藝學校~上野公園~隅田公園~震災記念堂~市立千代田尋常小學校~私立築地病院と移動し皇居に戻るもので、所要時間は4時間40分を予定していました。

原題は『輝やく大東京』、撮影は大日本教育映画協會。明記されていませんが東京市教育局による製作。大阪芸術大学、京都のおもちゃ映画ミュージアム等が35ミリ版断片を所有しており、旧東京国立美術館フィルムセンターの企画「発掘された映画たち 2009」で南湖院コレクションの一部として15分全長染色版が上映された記録も残っています。伴野9.5ミリ版は字幕を入れて7分程の長さで約半分のダイジェスト版。ちなみにフィルムセンターは『輝やく大東京』と『復興帝都御巡幸』を別作品とみているのですが、本サイトでは編集と改題を経た同一作と解釈しています。

「皇室とメディア」は戦前から戦後まで続いていく重要なテーマですし、都市デザインや都市計画の視点で見ても発見が出てきそう。何より1920年代後半期(昭和元年~5年)はまだ大正期の文化が残っていてこの昭和6、7年辺りから本格的に「昭和的なもの」が形を取ってきた感覚があります。震災からの再生、首都のリセットを意味するこのイベントも一つの節目となったのかな、と。

[原題]
輝やく大東京

[制作]
東京市教育局

[フィルム版メーカー]
伴野商店

[カタログ番号]
278

[フォーマット]
20m×2巻 無声字幕あり(第一巻の冒頭タイトル部欠)