1928 – 9.5mm 阪東妻三郎主演 『坂本龍馬』(枝正義郎監督、阪妻プロ)

『雄呂血』『影法師』と並ぶ阪妻初期代表作の9.5ミリ縮約版。200mリール二巻仕立て。戦前~戦中期に信濃毎日新聞社のフィルムライブラリーが旧蔵していた品でリール側面に「貸出部」の印がありました。
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前半に当たる第一リールでは薩長同盟結成から後藤象二郎らを巻きこんで大政奉還に挑むまでの流れが描かれています。前半ハイライトは新撰組による寺田屋襲撃での立ち回り。足元をとられながらも屋根伝いに逃れ、お龍らが準備していた船に乗りこんで何とか一命をとりとめます。

第二リールとなり、大政奉還を促すため二条城に赴いた象二郎の帰りが遅くなり海援隊内部に動揺が走ります。「この上は二条城に乗りこみ、慶喜討つべし」と隊員が声をあげても沈黙を貫く龍馬。業を煮やした仲間が一人、また一人と去っていく中、龍馬がまさに決断を下さんとしたその時、象二郎が吉報を持ち帰るのです。

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第二リール後半は近江屋での龍馬暗殺を描いていきます。本作は京都見廻組による犯行説を採っており展開としては王道。ただ見廻組=実行犯説が定説化してきたのが大正期になってからですので、公開時にはまだ目新しい解釈だったのかなと思われます。

見廻組の佐々木只三郎(春日清)が名を偽って龍馬らに取次ぎを依頼、只三郎は返事を持ってきた下僕の藤吉(浪野光雄)を切って捨てると仲間を誘導し、龍馬と中岡慎太郎(春路謙作)を襲撃します。不意を突かれた龍馬は剣を抜く暇も与えられず、眉間に致命傷を負い、「身は死しても魂は…永久…皇国の…大海原を守護し奉る」と中岡に言い残して力尽きるのでした。

◇◇◇

9.5mm版の『坂本龍馬』はチャンバラと呼べる場面は前半の寺田屋しか見当たらず、それも決して派手な立ち回りではありませんでした。龍馬を剣豪、あるいはアクションヒーローとして扱おうとする意図はなかったと思われます。

また全長版でクレジットされている西郷隆盛や勝海舟は数秒のみ登場、女優陣(森静子、西條香代子、泉春子)の出演場面もカットされています。経済思想家、あるいは私人龍馬の姿はここにはありません。

30分弱に切り詰められたダイジェスト版で強調されていたのは、国の行く末を案じ、天皇主体の新たな日本を作るため組織間の調整に身を削り、夢半ばで倒れていく憂国の士、龍馬でした。

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端々のセリフ(「それは皇国に殉する言葉ではなくて」「将軍家に一矢を報ひ皇国の爲に気を吐きませうぞ」)から伺えるように元々の脚本にそういった側面は含まれていたようです。その意味では戦後に流布した無頼派で、海外の諸事情に明るく、超派閥的に時代を動かしていく自由人の龍馬像とは根本的に違った設定です。9.5mm版編集は1930年代に行われたため、時代の要請として皇国史観や滅私奉公の要素が強調された可能性は高いと思われます。

[原題]
坂本龍馬

[製作年]
1928年

[JMDb]
坂本龍馬

[IMDb]
Sakamoto Ryôma

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ無) 200m *2リール

1940年代末~50年代前半 仏GIC社 9.5ミリ動画カメラ

「9.5ミリ動画カメラ」より

GIC 9.5mm Movie Camera
GIC 9.5mm Movie Camera
(w/ Som Berthiot Cinor B 1:1.19 F=20 C Mount)

戦前にパテ社動画カメラなどを手掛けたマルセル・ボリュー氏は戦後ETM(エレクトロ・テクニーク・メカニーク)社に籍を移し動画カメラ開発に関わっていました。市場での成功を収めた後、同社の筆頭株主となったボリュー氏は1949年に社名をGIC(グループマン・アンデュストリエル・シネマトグラフィーク)に変更、同社の第一弾商品として8/9.5/16ミリ動画カメラを発売しました。こちらは9.5ミリ用で一般的に「GIC 9.5」と呼ばれています。

ボリュー氏はやがてGIC社を離れ、自身の名を冠した会社を設立。同社が展開した8ミリ/16ミリカメラは現在の日本でも多くの愛好家から評価されています。

GIC9.5は堅牢な造りが特徴です。本体に栗色のシボ加工を施されており、レンズはソン・ベルティオ社のシノールBを標準搭載。速度は毎秒16フレーム固定で静止画撮影などの機能はありません。本機はシリアルナンバー21132で、側面にルーアンの写真機店ヌヴー社のシールが貼られています。

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ミラーレスでの試写

[メーカー]
仏GIC社

[シリアルナンバー]
21132

[時期]
1949~1953年

[レンズ]
ソン・ベルティオ シノールB 1:1.19 F=20 Cマウント

[本体]
5.4 × 10.0 × 15.5cm (レンズ、持ち手含まず)

1926 – 9.5mm『切紙細工 西遊記 孫悟空物語』(大藤信郎)

「9.5ミリ動画 05c 伴野商店」より


日本アニメーションの創始期、切紙細工アニメによる独自活動を展開した大藤信郎氏代表作の一つ。日本アニメーション映画クラシックス(JAFC)によるデジタル版がすでに公開されています。

JAFC版『切紙細工 西遊記 孫悟空物語』

JAFC版は現存するものとして最もオリジナルに近い16mm短縮版(約8分)を元にしています。伴野9.5mm版はその半分弱程の長さ。

JAFC版は大きく1)三蔵法師の出発、2)孫悟空の弟子入り、3)猪八戒登場と弟子入り、4)沙悟浄登場と弟子入り、5)怪物との闘いと霊山登場、6)経典の受け取りの6つの場面から成り立っています。伴野版は5)が完全にカットされ、天竺に辿りついた時にすでに雄宝殿がそびえている流れになっていました。

しかし伴野版にはJAFC版にはない場面や間字幕も含まれています。三蔵法師と悟空が出会う場面での説明字幕「石の下に五百年 大罰に苦しむ 孫悟空」はJAFC版には含まれていません。また沙悟浄登場の段では、伴野版だとピンホールショット風に沙悟浄が登場し、八戒に近づいて闘いの場面となっており、JAFC版ではこの流れが省略されています。

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ピンホールショット風沙悟浄の登場場面(伴野版のみ収録)

また伴野版で孫悟空、沙悟浄、猪八戒が登場する際の字幕に飾りでシルエットが描かれています。

もう一点大きな違いとして、雄宝殿で経典を受け取る描写がJAFC版と伴野版では左右反転した形となっています。JAFC版では当初は一行が左から右へ進んでいたのに4分ごろから右から左への移動に変わります。コンティニュイティーの視点からすると確かに不自然な気もします(日本人の感覚からすると天竺は西=左にあるイメージなので、16ミリ版の布置も理解できるところではありますが)。

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JAFC版より。三蔵法師一行が左を向いていて、経典を運ぶ竜が右向きに飛翔しています。

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伴野版。向きが左右真逆になっています。
切紙細工のストップモーションアニメは原理上手前から奥へ、あるいは奥から手前への遠近感表現を苦手としていて、左右の水平移動が中心となっていきます。大藤作品では回転や明滅など様々なアイデアを組みこむことで単調さを回避する工夫が施されています。またつぶらな目のキャラクターの愛らしさも印象的。妙に人間臭いのが特徴で、大藤作品独自の「体温」が伝わってきます。
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悟空にあしらわれクルクルと回転する猪八戒

[タイトル]
西遊記 孫悟空物語

[メーカー]
伴野商店

[公開]
1926年

[カタログ番号]
115

[フォーマット]
20m(ノッチ有)×2 白黒 無声 16fps 3分40秒

1912年 – 9.5mm 『液體空氣の實驗』(仏パテ社/伴野商店)

「9.5ミリ動画 05c 伴野商店」より

壓搾機械の方法で零度以下二〇〇〇度に冷却すると空氣は液體となります。而してその状態に於てそれは不思議な特質を所有します。パテー ベビーはこゝに思實に映寫して甚だ興味あるその多くの實驗を明かにお目にかけます。

『パテーベビーフヰルム 解説書 No. 1』
(大橋善次郎編集・出版、1926年)

伴野商店のカタログで189番として紹介されたフィルムで、1920年代中盤に仏パテ社で市販された動画に日本語字幕を付け直したもの。初出はさらに古く、1912年に「科学入門シリーズ」の一貫として公開された記録が残っています。

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カイゼル髭の男性が液体空気の作り方やその特性を紹介していきます。「有害ではありません」と管に口を近づけそのまま飲んでしまうなど科学物としてはなかなかワイルドな展開も含んでいます。

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1912年6月8日付の仏シネ・ジュルナル誌より
「液体空気(L’air liquide)」の文字が見えます

1912年は映画業界が軌道に乗った直後の時期ですでに多くの製作会社が勃興し多様なコンテンツを提供していました。ドラマだけではなく、地誌や科学も素材とされ毎週のように各社が新作を提供していたのです。

結果として、1912~14年の製作となる短編ドキュメンタリーが相当数残されました。1920年代中盤に仏パテ社が9.5ミリソフトの市販化に取りかかった時、この時期の動画が復刻の対象となりました。先日デジタル化した『消えゆく民 アイヌの人々』(1912年)も同じ流れで製作~公開~ソフト化された一本です。

[タイトル]
液體空氣の實驗

[原題]
L’Air liquide et les applications du froid intense, série instructive

[メーカー]
伴野商店

[仏パテ社版カタログ番号]
74

[フォーマット]
10m(ノッチ有)

1930年代前半 – 9.5mm『海豹島の膃肭獸』 (伴野商店、樺太/オットセイ)

「9.5ミリ動画 05c 伴野商店」より

海豹島(露名、チェレニ島、ロッペン島)は樺太の東海岸、オホーツク海にうかぶ絶海の孤島で、敷香から海上八十浬、長さ二百五十間、幅三十間、全島第三紀の岩層からなる、テーブル状の小さな岩山の四周を、寂然たる砂浜がとり巻いている。

米領ブリビロッツ群島、露領コマンドルスキー群島とともに、世界に三つしかない膃肭獣(おっとせい)の蕃殖場で、この無人の砂浜は、毎年、五月の中旬から九月の末ごろまで、膃肭獣どもの産褥となり、逞しい情欲の寝床となる。[…]

明治三十八年、この特異な島が日本のものになると、猟獲を禁じ、樺太庁では、年々、この島に監視員を送って膃肭獣を保護していたが、四十四年に日米露間で条約(一九一一年の「膃肭獣保護条約」のこと)を締結する見通しがあったので、条約締結と同時に猟獲を開始することにし、同年夏、大工と土工を送り、膃肭獣計算櫓、看視所、剥皮場、獣皮塩蔵所、乾燥室などの急造にとりかかった[…]。

『海豹島』 久生十蘭
(初出: 『大陸』1939(昭和14)年2月号)
[青空文庫]

樺太東部に位置する海豹島は、時期になると数万頭のオットセイがやってくる繁殖地として知られていました。海岸を埋め尽くすオットセイの群れは壮観で多くの観光客が船でやってきていたそうです。

『海豹島の膃肭獸』はその戦前の様子を今に伝える映像です。前半は島の全景と、オットセイたちが映し出されていきます。後半は岩場に集うロッペン鳥が登場、最後は樺太庁による保護と捕獲の話題に転じ、海岸の社屋と海風にたなびく日本国旗の映像で幕を閉じています。

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また同地は戦前作家(北原白秋、林芙美子)も多く足を踏み入れていたようです。『ジゴマ』邦訳などで知られる久生十蘭は北海道出身で、「海豹島」と題されたミステリ仕立ての奇譚を残しています。

[メーカー]
伴野商店

[メーカー番号]
042

[フォーマット]
20m(約2分半)、無声、ノッチ有

1912 – 9.5mm 『消えゆく民 アイヌの人々』(仏パテ・フレール社作品)

「9.5ミリ動画 05f 科学/歴史/地誌/産業」より

Pathé-Baby 9.5mm « Les Peuple qui disparaissent. Les Ainos » (1912, Pathé Frères)

1912年末にフランスで公開されたほぼ同名の作品を9.5ミリ用に再編集したもの。この作品については海外の映像研究家が論文を発表(『オリエンタリア』2017年第17号)しているため、一旦そちらを参照させていただきます。

アイヌの民が登場してくるもう一つの1912年映像作品は『消えゆく民 アイヌの人々』(英題:The Hairy Ainos)で、パレ・フレール社の製作によるものであった。同社は1902年に映画技術の特許を購入、時事映像の分野でリュミエール兄弟の後を継いだ。忽ちにしてパテ・フレール社は当時最大の映画製作会社となり、1909年に日本にも拠点を設立している。『消えゆく民 アイヌの人々』は長さにして僅か三分足らずの作品である。冒頭ではチセ(アイヌ式住宅)の前に立った四人の男性、次いで四人の女性が映し出される。字幕により、アイヌの人々は大半が猟と漁で生活しているとの説明が入る。次の場面では、海を背景として女性と子供とが歩いてくる。さらに丸木舟に乗った二人の男性が登場。

『消えゆく民 アイヌの人々』が公開された時期、原初の映画術でもたらされた驚きはすでに乗り越えられていた。このパテ社作品には儀式などの伝統から一旦距離を置き、日常生活に密着したいとの意思を読み取ることができる。旧来の時事映像作品と違い、リュミエール兄弟の下でアイヌ民族を撮っていたジレル氏が描いた古い舞踏であるとか、その他の特徴的な要素は本作にない。その代わりとして、朽ちた小屋の前で子供をあやしている女性が登場するのだ。広角レンズで撮影された老人も儀式用の服は着ておらず、頭にラウンペはなく、髭もほとんど見ることはできない。

マルコス・センテノ=マルティン
「表象外の眼差し:初期映画におけるアイヌ民族の描写について」
(『オリエンタリア』2017年第17号)

The other film featuring the Ainu people in 1912 is entitled Un peuple qui disparaît, les Aïnos (aka The Hairy Ainos) and was produced by Pathé Frères Company, which had bought the cinematograph patents in 1902 and succeeded the Lumière brothers in the production of actulités. Very soon, Société Pathé Frères became the biggest film production company of the time, and in 1909, it established headquarters in Japan. Un peuple qui disparaît, les Aïnos, which only lasts for three minutes, begins with four men followed by four women posing before a chise and an intertitle explaining that the Ainu were mainly hunters and fishers. In the next scene, a woman and a child are seen walking with the sea in the background and afterwards, two men enter scene on a chip (Ainu canoe). […]

When Un peuple qui disparaît, les Aïnos was released, the astonishment produced by primitive cinema was already overcome. Pathé film demonstrated an interest to move away from ritualized traditions and a willingness to get closer to everyday chores. Unlike previous actuality films, this footage does not contain traditional dances or other distinctive elements depicted by Girel. Instead, the sequence features a woman and her child before a dilapidated hut; a wide shot framing an elderly man who does not wear the ceremonial clothes nor any raunpe on his head, and his beard can be hardly seen.

Centeno Martín, Marcos
“Gazes outside the Representation. Early Film Portrayals of the Ainu People (1897-1918)”,
Orientalia, issue 17, 2017, pp. 189-211

筆者センテノ=マルティン氏は実際に北海道を訪れ、アイヌ民族についてのドキュメンタリー映画(“Ainu. Pathways to memory”)も監督されている人物です。論考後半では、タイトルの「消えゆく」という表現が同時期にアメリカン・ネイティヴに使われていた(1925年出版のゼイン・グレイの小説『滅び行く民族(原題:The Vanishing Americans)』)点にも注意を促していました。

映画の発明当初から少数民族への興味は見られたものの、独自の踊りや入墨、髭といった表層的な関心が優先されていたのに対し、『消えゆく民 アイヌの人々』では生活に密着していく発想が顕著となり、結果として表現されている「リアリティ」の質が変化している、というのがセンテノ=マルティン氏の主張の一つです。

異文化との接触・理解は段階を置いて進んでいくものですし、当初の好奇の眼差しが次第に研ぎ澄まされていくという話は一般的に見ても分かりやすいのではないかと思われます。

本作の字幕の幾つかには差別的な表現も含まれています。ある時代が少数民族をどう理解していたか(あるいは理解していなかったか)の証でもあるかと思われますのでデジタル化に際し修正などは行っておりません、ご了承くださいませ。

[タイトル]
Les Peuple qui disparaissent. Les Ainos

[原題]
Un peuple qui disparaît, les Aïnos

[IMDb]

[メーカー]
仏パテ・フレール社

[公開]
1912年

[仏パテ社版カタログ番号]
1230

[フォーマット]
20m(1977フレーム、13fps、3分)、無声、ノッチ有

1930年代後半 日本映画機社 エクセルL型 9.5ミリ動画カメラ

「9.5ミリ動画カメラ」より

late 1930s Nippon Eigaki & Co. Excel 9.5mm Movie Camera Model-L
late 1930s Nippon Eigaki & Co. Excel 9.5mm Movie Camera Model-L (with Excel Anastigmat f3.5 Lens)

1930年代の中盤~末に日本映画機社が発売していた9.5ミリ動画カメラ。

戦前の国産映写機は欧米(米英独墺仏)のコピーから始まっています。動画カメラも同様でエクセルは英コロネット社B型を参考にした外観となっています。手持ちのモトカメラ・アッシュと比較すると分かるように、高さと幅はほぼ同じながら奥行きが短くコンパクトな縦長デザインです。

独製モトカメラ・アッシュ(左)とのサイズ比較

上部に革製の持ち手がついており、少し上げると機種名とシリアルナンバー(9258)が見て取れます。正面部にスタートボタン、回りこむように金属製のプレートが留められています。レンズはエクセル・アナスティグマート。絞りはF3.5迄ですが、「f=20mm 2.9」の一段明るいレンズを備えた機体も見つかっています。

手巻きのスプリングを一杯に巻いてスタートボタンを押すと最初の十数秒勢いよく回ります。でもすぐに息切れして速度が落ちてしまいます。一分ほど回しても速度が落ちないモトカメラ・アッシュと比べると連続撮影の能力不足は否めません。

ただ、海外のカメラになかった機能で、エクセルの独自性が出ている部分が二か所あります。1)フィルムカートリッジと連動し、フィルム使用量の見える化が行われている。2)スタートボタンを押した状態で十数度回転させるとロックがかかり、力をかけなくても押した状態が持続する。実使用時にはどちらも便利な機能です。

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Excel Model-L Film Meter
蓋部に設置されたフィルム使用量メーター(上)とカートリッジの対応パーツ

光学系、革の質、モーターの安定性など、スペック的に海外動画カメラにはまだ追いついていないものの、片手の手のひらサイズに実用的な能力を詰めこんだ優良機種と見ました。

戦前の国産9.5mm動画カメラについてまとまった文献・研究などは残されていないようです。オンラインでは「ゼンマイ式8㎜カメラ館」が唯一の紹介ページ。参考になりました。

[メーカー]
日本映画機社(Nippon Eigaki & Co.)

[シリアルナンバー]
9258

[時期]
1930年代後半

[レンズ]
Excel Anastigmat F 3.5~14

[本体]
ダイキャスト/革張り 7.5 × 4.5 × 10.5cm (レンズ、持ち手含まず)