1930年代前半 – 9.5mm『海豹島の膃肭獸』 (伴野商店、樺太/オットセイ)

「9.5ミリ動画 05c 伴野商店」より

海豹島(露名、チェレニ島、ロッペン島)は樺太の東海岸、オホーツク海にうかぶ絶海の孤島で、敷香から海上八十浬、長さ二百五十間、幅三十間、全島第三紀の岩層からなる、テーブル状の小さな岩山の四周を、寂然たる砂浜がとり巻いている。

米領ブリビロッツ群島、露領コマンドルスキー群島とともに、世界に三つしかない膃肭獣(おっとせい)の蕃殖場で、この無人の砂浜は、毎年、五月の中旬から九月の末ごろまで、膃肭獣どもの産褥となり、逞しい情欲の寝床となる。[…]

明治三十八年、この特異な島が日本のものになると、猟獲を禁じ、樺太庁では、年々、この島に監視員を送って膃肭獣を保護していたが、四十四年に日米露間で条約(一九一一年の「膃肭獣保護条約」のこと)を締結する見通しがあったので、条約締結と同時に猟獲を開始することにし、同年夏、大工と土工を送り、膃肭獣計算櫓、看視所、剥皮場、獣皮塩蔵所、乾燥室などの急造にとりかかった[…]。

『海豹島』 久生十蘭
(初出: 『大陸』1939(昭和14)年2月号)
[青空文庫]

樺太東部に位置する海豹島は、時期になると数万頭のオットセイがやってくる繁殖地として知られていました。海岸を埋め尽くすオットセイの群れは壮観で多くの観光客が船でやってきていたそうです。

『海豹島の膃肭獸』はその戦前の様子を今に伝える映像です。前半は島の全景と、オットセイたちが映し出されていきます。後半は岩場に集うロッペン鳥が登場、最後は樺太庁による保護と捕獲の話題に転じ、海岸の社屋と海風にたなびく日本国旗の映像で幕を閉じています。

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また同地は戦前作家(北原白秋、林芙美子)も多く足を踏み入れていたようです。『ジゴマ』邦訳などで知られる久生十蘭は北海道出身で、「海豹島」と題されたミステリ仕立ての奇譚を残しています。

[メーカー]
伴野商店

[メーカー番号]
042

[フォーマット]
20m(約2分半)、無声、ノッチ有

1912 – 9.5mm 『消えゆく民 アイヌの人々』(仏パテ・フレール社作品)

「9.5ミリ動画 05f 科学/歴史/地誌/産業」より

Pathé-Baby 9.5mm « Les Peuple qui disparaissent. Les Ainos » (1912, Pathé Frères)

1912年末にフランスで公開されたほぼ同名の作品を9.5ミリ用に再編集したもの。この作品については海外の映像研究家が論文を発表(『オリエンタリア』2017年第17号)しているため、一旦そちらを参照させていただきます。

アイヌの民が登場してくるもう一つの1912年映像作品は『消えゆく民 アイヌの人々』(英題:The Hairy Ainos)で、パレ・フレール社の製作によるものであった。同社は1902年に映画技術の特許を購入、時事映像の分野でリュミエール兄弟の後を継いだ。忽ちにしてパテ・フレール社は当時最大の映画製作会社となり、1909年に日本にも拠点を設立している。『消えゆく民 アイヌの人々』は長さにして僅か三分足らずの作品である。冒頭ではチセ(アイヌ式住宅)の前に立った四人の男性、次いで四人の女性が映し出される。字幕により、アイヌの人々は大半が猟と漁で生活しているとの説明が入る。次の場面では、海を背景として女性と子供とが歩いてくる。さらに丸木舟に乗った二人の男性が登場。

『消えゆく民 アイヌの人々』が公開された時期、原初の映画術でもたらされた驚きはすでに乗り越えられていた。このパテ社作品には儀式などの伝統から一旦距離を置き、日常生活に密着したいとの意思を読み取ることができる。旧来の時事映像作品と違い、リュミエール兄弟の下でアイヌ民族を撮っていたジレル氏が描いた古い舞踏であるとか、その他の特徴的な要素は本作にない。その代わりとして、朽ちた小屋の前で子供をあやしている女性が登場するのだ。広角レンズで撮影された老人も儀式用の服は着ておらず、頭にラウンペはなく、髭もほとんど見ることはできない。

マルコス・センテノ=マルティン
「表象外の眼差し:初期映画におけるアイヌ民族の描写について」
(『オリエンタリア』2017年第17号)

The other film featuring the Ainu people in 1912 is entitled Un peuple qui disparaît, les Aïnos (aka The Hairy Ainos) and was produced by Pathé Frères Company, which had bought the cinematograph patents in 1902 and succeeded the Lumière brothers in the production of actulités. Very soon, Société Pathé Frères became the biggest film production company of the time, and in 1909, it established headquarters in Japan. Un peuple qui disparaît, les Aïnos, which only lasts for three minutes, begins with four men followed by four women posing before a chise and an intertitle explaining that the Ainu were mainly hunters and fishers. In the next scene, a woman and a child are seen walking with the sea in the background and afterwards, two men enter scene on a chip (Ainu canoe). […]

When Un peuple qui disparaît, les Aïnos was released, the astonishment produced by primitive cinema was already overcome. Pathé film demonstrated an interest to move away from ritualized traditions and a willingness to get closer to everyday chores. Unlike previous actuality films, this footage does not contain traditional dances or other distinctive elements depicted by Girel. Instead, the sequence features a woman and her child before a dilapidated hut; a wide shot framing an elderly man who does not wear the ceremonial clothes nor any raunpe on his head, and his beard can be hardly seen.

Centeno Martín, Marcos
“Gazes outside the Representation. Early Film Portrayals of the Ainu People (1897-1918)”,
Orientalia, issue 17, 2017, pp. 189-211

筆者センテノ=マルティン氏は実際に北海道を訪れ、アイヌ民族についてのドキュメンタリー映画(“Ainu. Pathways to memory”)も監督されている人物です。論考後半では、タイトルの「消えゆく」という表現が同時期にアメリカン・ネイティヴに使われていた(1925年出版のゼイン・グレイの小説『滅び行く民族(原題:The Vanishing Americans)』)点にも注意を促していました。

映画の発明当初から少数民族への興味は見られたものの、独自の踊りや入墨、髭といった表層的な関心が優先されていたのに対し、『消えゆく民 アイヌの人々』では生活に密着していく発想が顕著となり、結果として表現されている「リアリティ」の質が変化している、というのがセンテノ=マルティン氏の主張の一つです。

異文化との接触・理解は段階を置いて進んでいくものですし、当初の好奇の眼差しが次第に研ぎ澄まされていくという話は一般的に見ても分かりやすいのではないかと思われます。

本作の字幕の幾つかには差別的な表現も含まれています。ある時代が少数民族をどう理解していたか(あるいは理解していなかったか)の証でもあるかと思われますのでデジタル化に際し修正などは行っておりません、ご了承くださいませ。

[タイトル]
Les Peuple qui disparaissent. Les Ainos

[原題]
Un peuple qui disparaît, les Aïnos

[IMDb]

[メーカー]
仏パテ・フレール社

[公開]
1912年

[仏パテ社版カタログ番号]
1230

[フォーマット]
20m(1977フレーム、13fps、3分)、無声、ノッチ有

1930年代後半 日本映画機社 エクセルL型 9.5ミリ動画カメラ

「9.5ミリ動画カメラ」より

late 1930s Nippon Eigaki & Co. Excel 9.5mm Movie Camera Model-L
late 1930s Nippon Eigaki & Co. Excel 9.5mm Movie Camera Model-L (with Excel Anastigmat f3.5 Lens)

1930年代の中盤~末に日本映画機社が発売していた9.5ミリ動画カメラ。

戦前の国産映写機は欧米(米英独墺仏)のコピーから始まっています。動画カメラも同様でエクセルは英コロネット社B型を参考にした外観となっています。手持ちのモトカメラ・アッシュと比較すると分かるように、高さと幅はほぼ同じながら奥行きが短くコンパクトな縦長デザインです。

独製モトカメラ・アッシュ(左)とのサイズ比較

上部に革製の持ち手がついており、少し上げると機種名とシリアルナンバー(9258)が見て取れます。正面部にスタートボタン、回りこむように金属製のプレートが留められています。レンズはエクセル・アナスティグマート。絞りはF3.5迄ですが、「f=20mm 2.9」の一段明るいレンズを備えた機体も見つかっています。

手巻きのスプリングを一杯に巻いてスタートボタンを押すと最初の十数秒勢いよく回ります。でもすぐに息切れして速度が落ちてしまいます。一分ほど回しても速度が落ちないモトカメラ・アッシュと比べると連続撮影の能力不足は否めません。

ただ、海外のカメラになかった機能で、エクセルの独自性が出ている部分が二か所あります。1)フィルムカートリッジと連動し、フィルム使用量の見える化が行われている。2)スタートボタンを押した状態で十数度回転させるとロックがかかり、力をかけなくても押した状態が持続する。実使用時にはどちらも便利な機能です。

excel-model-l-9-5-movie-camera-07

Excel Model-L Film Meter
蓋部に設置されたフィルム使用量メーター(上)とカートリッジの対応パーツ

光学系、革の質、モーターの安定性など、スペック的に海外動画カメラにはまだ追いついていないものの、片手の手のひらサイズに実用的な能力を詰めこんだ優良機種と見ました。

戦前の国産9.5mm動画カメラについてまとまった文献・研究などは残されていないようです。オンラインでは「ゼンマイ式8㎜カメラ館」が唯一の紹介ページ。参考になりました。

[メーカー]
日本映画機社(Nippon Eigaki & Co.)

[シリアルナンバー]
9258

[時期]
1930年代後半

[レンズ]
Excel Anastigmat F 3.5~14

[本体]
ダイキャスト/革張り 7.5 × 4.5 × 10.5cm (レンズ、持ち手含まず)

1912- 9.5mm 『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』(1912年)

「9.5ミリ動画 05a 劇映画」より

Pathé-Baby 9.5mm « Mademoiselle Napierkowska : Danses Cambodgiennes »
(Extrait de « La Fièvre de l’or », 1912, dir.Leprince & Zecca)

1912 9.5mm Napierkowska : Danses Cambodgiennes

仏パテ社が9.5ミリ小型映画を最初に売り出した時にカタログに含まれていた初期のフィルムで、1912年に公開された中編映画(『La Fièvre de l’or』)の一場面を抽出したもの。

映画全体は金銭欲に取りつかれた男が亡父の銀行を乗っ取り投資ブームを仕掛け、人々が踊らされていく内容を描いています。途中の祝宴場面に使用されていたのがスタシア・ナピエルコウスカによるカンボジア風の舞踏でした。

[タイトル]
Danses Cambodgiennes

[原題]
La Fièvre de l’or

[製作年]
1912年

[IMDB]
tt0250381

[メーカー]
仏パテ社

[カタログ番号]
47

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ有) 10m *1リール

1926年4月17日 – 9.5mm 個人撮影動画『ニースにて/アントワーヌ・ジャロン一家』 Nice. Famille Antoine JALON 17-04-26

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

9.5mm Film d’amateur. « Nice. Famille Antoine JALON 17-04-26 »

昭和元年(1926年)に南仏ニースで撮影されたホームムービー。以前にデジタル化した『イラン・ゴレスタンの小さな家』と同一のカメラで撮影されたもの。ラベルの日付に従うならイラン編(1926年4月18日)の前日の動画。登場してくる人物も一部重なっています。

撮影場所は南仏の都市ニースの市街地。建物から出てきた家族連れが乗用車に乗りこむ前の様子を捉えています。カメラを意識している少年と蝶ネクタイの初老の男性はイラン編にも出ていました。少女が手にしている小さな傘は和傘でしょうか。彼の地でアジア趣味が好まれていた様子も伝わってきます。

デジタル化に際して幾つか問題がありました。撮影の途中フィルムが上手く回らず噛んでしまい、その部分が何度も露出され多重露出で白くなっていたのです。

sample08

フィルムを送る穴(パーフォレーション)のダメージもこの前後に見られます。フィルム送りが上手くいかなかった部分は動画化するとコマ落としした感じになってしまいました。個人による撮影なのでこの手のトラブルは時折あったと思われます。

アントワーヌ・ジャロン(Antoine Jalon)という人物が戦前フランスにいた記録は残っており末裔もご健在です。同姓同名の可能性もありますがひとまず連絡を取って確認を試みていきます。

1920年代後半 – 9.5mm 『サイゴンのフンヴーン廟/雄王庙』 戦前・アジア旅行記 2/7(ベトナム編)

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

1587c1930-the-hung-kings-temple-saigon-

The Hùng Kings Temple / Đền Hùng (Vietnam late 1920s)
US Tourists in South and South East Asia 02

以前に紹介したマレーシアでのペナンヒル登頂動画の続編。貴重な映像ですが、フィルムの状態があまり良くありません。汚れが多く、また以前湿気に触れた状態で放置されていたようで一部の映像が流れてしまっています。悪しからずご了承ください。

冒頭、地元の馬車が映し出され、川辺の風景が映し出されます。しばらくして登場してくるのが中華風の宗教建築物。カメラを引いていくと龍の欄干が見えます。往来を繰り返しているのはお参りしている人たちでしょうか。辮髪姿も見えます。

調べてみたところ紀元前にこの地を統治したとされるHùng王(雄王)にまつわる霊廟、フンブーン廟でした。元々はヴェトナムが仏領だった1926年に大戦の死者を弔うため建立されたもので、1975年にフンブーン廟と改名されています。隣接しているサイゴン動植物園も一瞬ですが登場しています。

[1966年頃のフンブーン廟]
vietnammoi.vnより

1930年代 – 9.5mm 『時代祭 (京都平安神宮)』(伴野商店)

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Jidai Festival (1930s Kyoto, Japan. Banno Co.)

1930年代の時代祭を収めた1リール物のドキュメンタリー。

明治維新の維新勤王隊から始まり神幸列までを丁寧に捉えています。沿道に多くの客が並び、通りに面した家の二階にも行列を楽しんでいる姿が見えます。

自転車や乗用車、路面電車なども映りこんでいて、1930年代の街の風景として見ても興味深いと思います。「水月食堂 サクラビール」「藤井大丸呉服店」「ユニオンビール」など看板の文字も解読できました。

jidai-matsuri-09
「水月食堂 サクラビール」
jidai-matsuri-18
「藤井大丸呉服店」
jidai-matsuri-23.pg
「ユニオンビール」

以前、個人が撮影した時代祭の9.5mm動画をデジタル化しました。その際のアングルとほぼ同じと思われる映像も含まれています。

左が伴野商会版、右の個人撮影動画はやや低めのアングルから撮影されています。