ルーシー・キーゼルハウゼン Lucy Kieselhausen (1900–1927) 墺

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Lucy Kieselhausen Mid/Late 1910s Autographed Postcard

オーストリアの舞踏家グレーテ・ヴィーゼンタールの門下生として頭角を現し、若くして舞台の人気者となりファッション誌のモデルとしても活躍していきます。映画界との接点は多くはありませんが1917年公開のドキュメンタリー短編『ベルンでのドイツ工作連盟展におけるファッションショー』にモデルとして登場、翌年から劇作品への出演を始め『千女一女物語(Tausend und eine Frau)』『七番目の列強(Die siebente Großmacht)』で端役を務めています。

1918年公開『七番目の列強』広告
独キネマトグラフ誌1918年8月号

その後1923年にアスタ・ニールセン主演の『地霊』(Erdgeist、リヒャルト・オスワルド監督)に出演。同時期にヘルタ・ファイストの下でダンスの勉強を続け、作曲家ハインツ・ティーセンの「サランボ組曲」に振付を提供。しかし自身の考案した舞踏が表舞台で披露されるのを見ることはできませんでした。1927年12月、浴室でベンジンを使用し手袋の清掃をしていた際、浴室のストーブの火が揮発したベンジンに着火、爆発を起こします。重度の火傷を負ってそのまま帰らぬ人となりました。

1927年12月末にオランダの新聞に掲載された訃報

映画出演作は端役4作のみですので女優としての評価がどうこうの話でもないのですが、第一次大戦後のドイツ語圏で舞踏畑で活躍した個性派でグリット・ヘゲーザ(Grit Hegesa)やハンネローレ・ジーグラー(Hannelore Ziegler)とも重なってくる感じです。

ちょうど先月(2021年4月)、ケルンに拠点を置く「西部ドイツ放送(Westdeutscher Rundfunk)」がラジオ番組「ルーシー・キーゼルハウゼン二重の立身物語(Die zwei Karrieren der Lucy Kieselhausen)」をオンライン公開しました。母親のレアさんに宛てた書簡や当時の証言を引用しながら1920年代のドイツ語圏で女性が、舞踏家が、そして若者が直面していたリアリティを再現していく内容でした。

[IMDb]
Lucy Kieselhausen

[Movie Walker]


[出身地]
オーストリア=ハンガリー帝国(ウィーン)

[データ]
[(Photochemie) K. 107. Bildnis von A. Binder, Berlin]

1910年頃 古写真 スタシア・ナピエルコウスカ Stacia Napierkowska (1886 – 1945) 仏

「ルイ・フイヤード関連コレクション」より

Stacia Napierkowska c1910 Cabinet Photo (Reutlinger, Paris)
Stacia Napierkowska c1910 Cabinet Photo (Reutlinger, Paris)

1910年代を中心に活躍した踊り子・女優スタシア・ナピエルコウスカのキャビネット写真。撮影は当時ファッション写真家で名を馳せたルーランジェ写真店(Reutlinger)によるものです。

ナピエルコウスカはポーランド人の父親の娘として1886年パリで生まれています。幼少時に数年トルコに滞在、その後フランスへ戻りますが直後に父親が亡くなり、生計を立てるためオデオン座やオペラ・コミーク座に立ち始めました。この時14才。異国情緒と優雅さを兼ね備えた舞踏が話題となり、舞台雑誌やモード誌で頻繁に取り上げられていきます。

1910年コメディア・イリュストレ紙10月1日号より
1910年コメディア・イリュストレ(Comoedia Illustrée)紙10月1日号より

同時期に勃興していたのが映画産業でした。短編作品に多く出演、喜劇からミステリー、歴史物まで多彩な活躍を見せていきます。

そんな彼女の名を映画史に残したのは1915年公開の連続活劇『レ・ヴァンピール』でした。第2話で主人公(エドゥアール・マテ)の婚約者として登場、劇場で踊りを披露中に何者かに毒殺されます。登場場面は短いものの「吸血鬼の舞」の禍々しさは印象深く、同作を代表する一場面として幾度となく引用されていくこととなりました。

『レ・ヴァンピール』(1915年)第2話より
『レ・ヴァンピール』(Les Vampires、1915年)第2話より

その後映画の出演は減っていき、そのまま忘れ去られてもおかしくありませんでした。しかしながら20年代になって再度脚光を浴びます。1921年『女郎蜘蛛』での女王アンティネア役です。

『女郎蜘蛛』(1921年)より
『女郎蜘蛛』(L’Atlantide、1921年)より

第一次大戦後の仏映画はリアリズムにこだわり話のテンポが悪くなる癖が抜けず、外国映画に押されてかつての勢いを失っていました。この苦しい状況で冒険やファンタジーを強く押し出した『女郎蜘蛛』は活路として期待されたのです。ナピエルコウスカは1922年に創刊された映画雑誌『シネミロワール』創刊号の表紙を飾っています。

『シネミロワール』創刊号表紙のナピエルコウスカ
『シネミロワール』創刊号表紙のナピエルコウスカ

同時期に初めて市販されたのが家庭用映写機のパテベビーでした。初期カタログにはナピエルコウスカ主演作『ミロール・ラルスイユ』(Milord l’Arsouille、1912)も含まれています。そしてもう一本、手持ちでは『カンボジア風舞踏』にも登場。これは社会派ドラマの中編『黄金に浮かされて』(La Fièvre de l’or)の一場面を抜粋したものです。

『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』
『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』(Napierkowska in Danses Cambodgiennes)

フランス劇映画の始まり(1910年頃)から黄金期(1912~18年)、そして停滞期(1919年~)に関わった点で重要な役割を果たした女優だと言えます。伝記面はほとんど知られていないのですが、1922年の『シネ・ミロワール』誌に前後篇2回に分けた自伝エッセイが掲載されています。

[IMDB]
nm0621051

[Movie Walker]
スタシア・ドウ・ナピエルコウスカ

[誕生日]
12月16日

[出身]
フランス(パリ)

[サイズ]
11.0 × 16.5cm

[撮影]
ルーランジェ写真店