キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事01キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事02

過ぐる一九一一年九月エクレールは驚ろくべき活動寫眞のレコード破りの不可思議なる”ジゴマール”を作り世界各國にエクレールの名を成さしめたことは諸君に強く印象を殘されて居る所であらふ。第一篇より引續き第二篇(ジゴマールとニック・カルテー)は表われ前の福寶堂が輸入して未曾有の人氣を集め遂に”ジゴマ君”の名とあの顔とは誰も知らぬ者はない位荀も日本人たる者ジゴマを知らざる者は無い樣になつたのは實に奇性な現象で”ジゴマ”といふと今では”賊”といふ普通名詞になつてしまつた。以来警察は絶對に”ジゴマ”を禁止し名さへも許されずになつた。第三篇は昨年三月倫敦で發賣され直に日本にも輸入したが時しもジゴマ禁止の嚴命で出す所の騒ぎでない所からそのまゝ今日に至つたが、いくらジゴマ君でも日本の分ずやの〇〇〇〇君には凹まされて今日まで暗い日活の藏の中にとぢ込められてゐたが漸く九月末出獄して遊樂館に出ることになつたが、”Z”の名は使用をゆるされず、タイトルも ”A detective’s victory”(探偵の勝利)となり字幕全部タイプライターで日本製の幕に變更し、”ジゴマ”、”ポーラン・ブーケ”の名は”名知らぬ悪漢””某探偵”となり了つた、後は看客の御想像にまかせて置く。

ジャッセによるジゴマ三部作の最終篇(「探偵の勝利」、原題 »Le Peau-d’anguille »)が公開された際の紹介記事。

青少年への悪影響を理由に1912年10月にジゴマが上映禁止となった話は良く知られています。

兒童が探偵小説を耽讀して、窃盗になつたり汽車往生を遂げたりすることは甚だ多い。先年東京近郊の品川線に於て汽車を止めた兒童は、探偵が兇賊を追うて走りくる汽車に飛乗つたのを眞似たのである。また此間裁判の判決を仰いだ東京芝公園に於る少女殺しは、芝居を眞似て過つて一少女を絞殺したのであるといふ。その影響実に大なりといふべし。而て此等の影響は活動寫眞に於て最も大である。[…]

我國では東京に於て近年警視廳の訓令によりフィルムの種類を甲乙に分ち、甲種は十五歳以下の兒童に觀せない。又フィルムの検閲を行ひ、活動館内の座席を區別して、男子席、婦人席及び家族席としてゐる。

『輓近の児童研究』(関寛之、洛陽堂、1919年)

1912年帝国教育会は「活動写真取り締まり建議」を文部省に提出、また警視庁は「活動写真取り締まり規則」を制定、活動写真を甲種、乙種に分け、甲種は15歳以下を禁止としたのです。

『視聴覚メディアと教育』(山口榮一著、玉川大学出版部、2004年)

日本映画検閲史の記念すべき第一歩は作品上映を物理的に禁じただけではなく、「ジゴマ」の語そのものを社会悪とみなしNGワード化したという話でもありました。そこで映画業界側が「ジゴマで駄目ならジゴマールで行こう」と改名して切り返した展開となっています。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報 1912年9月 通巻第163号)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報1912年9月)

西洋の石川五右衛門といふジゴマは活動寫眞で大評判、以来ジゴマの眷属が八方に擴がつて、昨今では日本ジゴマなどが製造致されましたが初めは仏蘭西のル、マタン新聞に掲載された同國のサージ氏の作品が本物で其れを活動に仕組んでから雑多のジゴマが湧き出した譯で厶います、茲には其本ジゴマの内の極々面白い荒筋を伺ひまする。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平、『日本實業新報』、1912年9月 通巻第163号)

「讀切新講談:ジゴマ」挿画

『ジゴマ』前後編(オリジナル三部作の最初の二作)が話題を呼び、一方で物議を醸していた最中に日本實業新報に掲載された一回読切のあらすじ紹介。冒頭に作者からの簡明な説明が置かれた後、『ジゴマ』『ジゴマ後編』の大筋を5段組み1頁にまとめたもの。中段に置かれた似顔絵が特徴をよく捉えています。

ファニー・ワード Fannie Ward/Fanny Ward (1872 – 1952)

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

ファニー・ワード1927年の直筆サイン入り絵葉書
Fannie Ward 1927 Autographed Postcard

嬢をして今日の人氣を博せしめた作品は、一千九百十四年に、早川雪洲氏やヂャック・ディーン氏などと一座して撮影した日本劇「チート」である。この映畫を製作して以来、嬢は米国映畫界の首腦女優となつた。

爾来、「テネッシーの赦罪者」「國防の爲めに」などを撮影して、益々名聲を昂めたが、昨年の始めに、パセ會社のエストラ映畫の專属女優となつた。

目下は、ラスキー會社の初舞臺當時に戀に落ちたヂャック・ディーン氏と結婚して、幸福な樂しい生活を送って居る。

當年四十四であるけれども、尚未だ二八の少女のやうに、若々しい容貌と豊かな肉體とを持つてゐる。嬢が斯界に喧傳される所以も一つには、この絢爛たる名花の趣を備へて居る爲めである。しかし、技藝そのものから云つても、嬢は優に大花形の中に加へられるだけの天分を持つて居る。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

Fannie Ward in Cheat
『チート』でのファニー・ワード

1910年代にハリウッドで花形となった女優としては最も芸歴の長い一人で1890年代にはすでにブロードウェイの舞台に立っていました。英米を股にかける形でキャリアを積み上げていくものの、1910年代半ばに舞台での人気が翳りを見せる中でデミルの要請に応じて映画女優に転身。1915年公開の『チート』(ラスキー社)でトップ女優の仲間入りを果たしました。

その後しばらくラスキー社花形として活動、1918年にパテ社傘下のアストラ社に転籍。パテ社が「特選長編(Extra-Selected Feature)」として配給した第一作がファニー・ワード主演の『お雪さん(A Japanese Nightingale)』でした。

日本人から見ると不自然なセットや設定が目につきますが当時の欧米の観衆はエキゾチックな魅力を感じたようです。1922年には3リール物の短編に編集されて再公開されるという当時としてはやや珍しい運命を辿った一篇です。

moving-picture-world-19180817
ムービング・ピクチャー・ワールド誌1918年8月17日

1920年代半ばに米パテックス社が9.5ミリ小型映画を市販し始めた時『お雪さん』が9.5ミリ化されたのもこの延長上にあります。ファニー・ワード出演作では実はもう一作『ミュージックホールでの初舞台』という作品が仏パテ社から9.5ミリ形式で販売されていました。短い抜粋ですが『チート』でも『お雪さん』でもありません。「遺失」作品の一部ではないのかなと気になっています。

サイン物は今回が2枚目の入手。絵葉書サイズのカードに名前と「1927年」の年号が手描きされています。もう一枚は仏シネマガジン誌のプロマイド写真で裏面に日付、仏語メッセージ、名前、住所が書かれています。

Fanny Ward's French Inscription dated Aug. 10 1921

謹しんで、1921年8月10日
ファニー・ワード
シャンゼリゼ通り114番

Sincèrement à vous, 10-8-21
Fanny Ward 114 Av. des Champs-Elysées

[IMDb]
Fannie Ward

[Movie Walker]
ファニー・ワード

[出身地]
合衆国(ミズリー)

[誕生日]
2月22日

[サイズ]
8.6 × 13.6cm(撮影:「S. Georges of Green St. W.C.2」)
17.2 × 23.8cm(シネマガジン製ポートレート写真))

ビリー・バーク Billie Burke (1884 – 1970) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

ビリー・バーク 1909年頃直筆サン入り絵葉書
Billie Burke c1909 Autographed Postcard

ビリー・バークは1939年の名作ミュージカル『オズの魔法使い』出演で多くの人々に記憶されています。主人公ドロシー(ジュディー・ガーランド)を導いていく「北の良い魔女」グリンダです。

Billie Burke in The Wizard of Oz
『オズの魔法使い』でのビリー・バーク

魔女グリンダの性格設定は(おそらく非現実の世界にしか存在しない)「包容力のある美しき母」でした。ビリー・バークの温かみのある、時にユーモラスな演技はあの役柄にマッチしていて他の女優さんでは替えが効かないのではないかと思います。

その芸歴は長く1900年代に舞台デビュー、若くしてブロードウェイの人気者になります。1910年代に映画に進出、パラマウント社初の連続劇『グロリア物語』(1916年)主演で成功を収めています。1914年には興行界の大物フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニアと結婚しており二人のロマンスは後に『巨星ジーグフェルド』(1936年)として映画化もされました。

Billie Burke in Motography Magazine 1916 April 29 Issue
モトグラフィー誌1916年4月29日号より『グロリア物語』の先行予告スチル

彼女は良く知られた美人さんというだけでなく、他に例を見ないほど完璧に演技の修練を収め、人を引き寄せる魅力に高潔な心、並々ならぬ人間力を備えている。その動きに見られるしなやかな才能は例外的と言ってよいだろうし、「銀幕値(スクリーン・バリュー)」も備えているのだがそれが「銀幕の天才」と呼べる位に達している。(モトグラフィー誌1916年4月22日号より。『グロリア物語』原作を手掛けた作家ルパート・ヒューズのインタビュー)

She is not only a famous beauty, but an actress of unusually thorough schooling and magnetism, high spirit and peculiarly human appeal. She has also an extrordinarily flexible pantomimic gift, and what is known as « screen value, » to a degree that might be called « screen genius. » (Rupert Hughes Interview in Motography Magazine 1916 April 22 Issue)

『オズの魔法使い』は技術・技法的に、そして美学的にも戦前ハリウッドの集大成と呼べる一作でした。そこに初期ブロードウェイやサイレント映画時代の経験値を持ちこんでいたのがビリー・バークだった、と見ることもできます。

サイン入りの絵葉書は英ロータリー・フォトグラフィック・シリーズの一枚で、英国南部の町ボーンマス在住のS・マクブロック嬢宛に送られています。消印はロンドン局1909年5月26日付。もう一枚同嬢が所有していたサイン無しの絵葉書とセットで入手したものです。

[IMDb]
Billie Burke

[Movie Walker]
ビリー・バーク

[出身地]
合衆国(コロンビア)

[誕生日]
8月7日

[データ]
8.8 × 13.7 cm

1933年 – アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

1933年 - アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡
Alexandre Arquillière 1933 Letter to Emile Drain

10月5日の12時半、バリュ通りのレストラン「デ・ヴォージュ」に世界演劇協会(SUDT)の同志数名が集まる予定になっています。興味あるのではないかな、と。良ければご参加を。

Quelques camarades de la S.U.D.T. se réunissent le 5 Octobre à midi et demi au restaurant « des Vosges » rue Ballu. Je pense que cela peut vous interesser et vous demande d’en être.

zigoma-contre-nick-carter-cine_journal-1912
1912年『ジゴマ後編(ポーリンの殉職とニック・カーターの復讐)』宣材スティル。左手前にジゴマ役のアルキリエール
1911-zigomar
スーパー8『松竹 日本映画史 前編』より『ジゴマ』抜粋

1911年の映画版『ジゴマ』で主役ジゴマを演じたのは舞台出身のアレクサンドル・アルキリエールでした。

アンドレ・アントワーヌが1887年に設立した「自由劇場」の古参メンバー。大手と一線を画した自然派志向で知られた演劇一派で、今で言うなら演劇界のオルタナティヴな流れに位置しています。

La_Rampe_1916-05-11-arquilliere-s
1916年の演芸誌ランプ表紙を飾ったアルキリエール

同劇場時代に知りあったフィルマン・ジェミエとはその後長く交友が続いていきます。ジェミエは1922年にオデオン座支配人となり、次いで1925年に国内活動に留まらないグローバル演劇を指向する「世界演劇協会(SUDT)」を設立しています(現在のユネスコ国際演劇協会のルーツの一つ)。

アルキリエールも多かれ少なかれこの活動に絡んでいたようで、俳優仲間のエミール・ドレン宛に会合の日時を知らせたのがこちらの手紙です。封筒も残っていて消印は1933年10月2日付。

いわゆる美形俳優の枠に括られる俳優さんではないものの、存在感と豊かな表情が舞台映えします。映画との関連も深く、1908年からアルベール・カペラーニ短編に登場、10年代にジャッセ作品の主要俳優となって「ジゴマ」が当たり役となりました。その後もジェルメーヌ・デュラックの不条理家庭劇『微笑むブーデ夫人』(1923年)やジャン・ルノワールのエキゾチックな南部劇『荒地(ブレッド)』(1929年)で重要な役割を演じていました。

[IMDb]
Alexandre Arquillière

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(ロワール県)

[誕生日]
4月18日

[データ]
住所入りの個人用便箋に手書き、13,5 x 21 cm。封筒はパリ市ガール・サン・ラザール局の1933年10月2日付消印有。

1912年 『ジゴマ後編(ポーリンの殉職とニック・カーターの復讐)』(イポリット・ヴィクトラン・ジャッセ、エクレール社)EYE映画博物館収蔵プリントと日本語版あらすじ

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

オランダのEYE映画博物館が保存しているJean Desmetコレクションのひとつで2019年8月に同博物館YouTubeチャンネルで公開されたもの。字幕はオランダ語で最後に幾つかフランス語が混じっていました。フランス公開時の原題は Zigomar contre Nick Carter (ジゴマ対ニック・カーター)。日本公開時の邦題は『ジゴマ後編』

ヴィクトラン・ジャッセによるジゴマ連作としては1911年の『ジゴマ』に次ぐ作品ですが、サジイ小説版には探偵ニック・カーターが登場するエピソードはなく脚本は映画版の完全オリジナル。EYE映画博物館だけではなくフランスのパテ/ジェローム・セイドゥ基金にも35ミリプリントが保存されており、2018年に特集企画の一環として上映された記録が残っています。

Zigomar contre Nick Carter (Ciné-Journal n.185, mars 1912)
シネ・ジュルナル誌1912年3月9日号の広告

シネ・ジュルナル誌では1912年3月9日号(第185号)と16日号(第186号)の2回に分け講評と第1部〜第4部あらすじが掲載されていました。オランダ語字幕では人間関係や展開が追いにくいためシネ・ジュルナル版のあらすじをさらに要約してみました:

物語は前作にも登場していた探偵ポーリンが自宅で爆破テロに遭う場面から始まります。辛くも一命を取り留めたものの重傷を負ったポーリン探偵。その知らせを受けた探偵ニック・カーターはポーリンを見舞いジゴマの捕縛に乗り出していきます。ニックが捜査を始めるとすぐにジゴマの手下たちが階段の踊り場で事故に見せかけた暗殺を謀ります。危難を逃れたカーターは手下たちの一人である女性オルガを味方に付けることに成功しました。(第一部)

ジゴマは部下の一人を自分そっくりに変装させ身代わりにします。ニック・カーターは一旦はジゴマ逮捕に成功するのですが捕まえたのは影武者でした。ジゴマは金庫破り、旅行者の誘拐など悪行の限りを尽くしていきます。探偵はマルセイユでの秘密会議に潜りこむことに成功、しかし変装を見破られ危うく処刑されそうになります。巨石で圧死しかけていたニックを救ったのはオルガでした。(第二部)

トゥーロンの酒場の地下に阿片窟があり、ニック・カーターはジゴマ捕縛のため変装して潜入捜査を行っています。しかしオルガと共に逆に追われる立場となり、自動車の追跡劇の末、再び悪党の手に落ちるのでした。(第三部)

ニック・カーターとオルガは紐で縛られ農家に監禁されていました。火に包まれた農家から脱出するも、退路を阻まれ別行動を余儀なくされます。ニックは無事逃れたものの海に飛びこんだオルガは力尽きジゴマの下に引き渡されるのでした。ジゴマは裏切者に報復すべく女を馬に括りつけ引き回しの刑にします。瀕死のオルガは農夫たちのおかげで一命を取り留めます。ニック・カーターは敵を油断させるため自分が死んだという偽りの死亡広告を出します。ジゴマ一団が祝杯を上げている最中にニックと警官一団が踏みこみ、遂に悪党を逮捕したのでした。(第四部)

この作品には監督ジャッセの映画史観が色濃く反映されています。同氏が1911年に発表した映画論「活動写真監督術考」日本語版の全訳を来週投稿の予定です。

[IMDb]
Zigomar contre Nick Carter

[Movie Walker]

[公開年]
1912年

[制作会社]
L’Eclair

[註]
EYE映画博物館「Jean Desmetコレクション」

1913年 書籍版初刊 『ジゴマ 第3巻』(レオン・サジイ著)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

1913年 『ジゴマ 第3巻』レオン・サジイ著 表紙
1913 Zigomar (fascicule no.3, Léon Sazie, Ed. Ferenczi)

レオン・サジイによる『ジゴマ』は大衆文学の一ジャンルである新聞連載小説として生み出されてきたものです。ル・マタン紙で1909年12月に連載が始まり(最初期と途中の一部は新聞付録の形で別刷り)、1912年9月の終了まで2年9カ月に渡って連載されていました。

1909年12月7日 – 1910年5月22日 :『ジゴマ(Zigomar)』164回掲載
   第一の書「目に見えぬあるじ(Le Maître invisible)」12月-1月(計37節)
   第二の書「獅子と虎(Les Lion et Les tigres)」2月-3月(計34節)
   第三の書「正義の時(L’Heure du justice)」3月-5月(計32節)
1910年7月12日 – 1910年11月15日:『ジゴマ/赤毛女(La Femme rousse)』
   第一の書「焼き印のある腕(Le Bras marqué)」7月-9月
   第二の書「あの世にて(Dans l’au-delà)」9月-10月(計34節)
   第三の書「マイ・ダーリン(My darling)」10月-11月(計26節)
1912年5月10日 – 9月14日:『ジゴマ/探偵の勝利(Le Peau-d’anguille)』
   第一の書「想定外の男(Un Homme inattendu)」5月- 6月(計63節)
   第二の書「最大限で!(Au plus fort!)」6月-9月(計72節)

sazie_zigomar-1913-28-fascicules
『ジゴマ(Zigomar)』フェレンツィ社版全28冊

書籍版は1913年にフェレンツィ社から出されています。同社は『ジゴマ』を28冊に分け(一冊一冊は薄いものです)、毎週水曜日に一冊出版していく方法をとりました。定価は20サンチーム。表紙イラストはジョルジュ・ヴァレ。同社は1922年に『ジゴマ』『ジゴマ/赤毛女』『ジゴマ/探偵の勝利』それぞれのソフトカバー版単行本を発売、こちらは一部内容が削られているそうです。

ジゴマ連作はこれで完結した訳ではなく、1916年の続編『独逸に与したジゴマ(Zigomar au service de l’Allemagne)』、1922年最終編『ジゴマ対ジゴマ(Zigomar contre Zigomar)』へと続いていきます。

今回入手したのは1913年に発売されたフェレンツィ版で、28分冊の第3冊目。第一の書「目に見えぬあるじ」の第23節から29節までを収録。ページ数は128頁。物語が始まったばかりで主人公の探偵たちも兇党ジゴマが実在するのかどうか分からず謎の敵を相手に手探りの捜査をすすめています。

久生十蘭氏による邦訳は小説版の『ジゴマ(Zigomar)』(「正義の時」まで)を元にしたもので、1922年のソフトカバー版を底本にしたと思われます。一部原文と照らし合わせてみたのですが、日本語に寄せつつも原作の雰囲気が結構残っていました。