1916 – 9.5mm 『快漢ブレーズ』(米トライアングル社、ダグラス・フェアバンクス主演、ジョン・エマーソン監督) イタリア語版

9.5ミリ 劇映画より

« The Americano » (1916, Triangle/Fine Arts Film Company, dir/John Emerson) 1920s 9.5mm Italian Version

鉱山技師のブレーズ(フェアバンクス)の元にカリブ海の小国パラゴニアから仕事の依頼が舞いこんだ。鉱山の再開作業に手を貸してほしいと云ふのである。一旦は斷つたブレーズであつたが、帰り際に垣間見た同国大統領の令嬢フアナ(アルマ・ルーベンス)の美しさに心惹かれ前言を翻すのであつた。

パラゴニアに到着したブレーズ。しかし市民の様子がおかしい。話を聞くと大統領バルデス派と軍部のエスパダ大臣の対立が激化し、バルデスは監獄に幽閉され、娘フアナも自宅に軟禁されたのだと云ふ。バルデス宅に入りこんだブレーズ青年。男の姿に目を留めたフアナは小さな毬にメッセージを添へ窓の外に投げ放ち助けを求めるのであつた。

ブレーズ青年の動きを警戒したクーデター派はその一挙一動を監視していた。カフエのテラスで食事中のブレーズの元に貧しい身なりの物売りが声をかける。此の物売りこそ、大統領を救はんと身をやつした首相カスティーユ(トート・デュクロウ)であつた。カスティーユに案内され監獄付近を探索していると「1899年11月23日」の文言がしたためられた紙片を発見。その謎を解くべくブレーズは再度フアナの元に向かう。

政変は成功したかに見えた。フアナは父の命と引き換えにクーデター派将軍(チャールス・スティーヴンス)に嫁ぐよう強要され涙に暮れている。残された時間は少ない。ブレーズらは大統領救出作戦に乗り出した。カリブ小国の命運と青年技師の恋物語の行く末や如何に。

1916年末公開、フェアバンクスにとってトライアングル社最後の作品となった一作。中米の架空の島国パラゴニアを舞台とし、政変の只中で奮闘する青年技師ブレーズの活躍を描いていきます。

トライアングル社での旧作と比べ人間関係やプロットの絡み具合が段違いに複雑。9.5ミリ版は元の1/4程に縮約されていたこともあって展開を追うのに一苦労。アクションの比率も少なく単体のエンタメ作品として見るなら前作『空中結婚』に軍配が上がると思います。一方で単純明快な作品ばかりを作っている状況から脱却したい製作側の思いも伝わってきます。この後独立プロを立ち上げユナイテッド・アーチストに合流していくフェアバンクスの試行錯誤のひとつなのかな、と。

Mildred Harris as a stenographer

小動物の使い方、手のクローズアップ、群衆表現などにスーパーバイザーとして関わったD・W・グリフィスの影響大。また前半に一瞬登場したタイピストの女性に見覚えがあって、確認したところ後にチャップリン夫人となるミルドレッド・ハリスと判明、当時日本でも名の知られていた女優ながら初期出演作の大半が失われていて今回初めて動いている姿を見ることができました。

[IMDb]
The Americano

[Movie Walker]


[公開]
1916年12月24日

[9.5ミリ版]
イタリア語字幕版(※)

[カタログ番号]
10-010

(※)フェアバンクスの初期短編については米パテックス社から『ドーグラスの好奇(Manhattan Madness)』、英パテスコープ社から『ドーグラスの飛行(American Aristocracy)』『空中結婚(The Matrimaniac)』『快漢ブレーズ』の9.5ミリプリントが発売されていました。ドイツやフランス、イタリアなどではイギリス版の字幕を差し替えたものが市販されており、今回入手したのは英パテスコープ版をベースにしたイタリア語版です。

アルマ・ルーベンス Alma Rubens (1897 -1931)

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Alma Rubens Autographed Postcards

Alma Rubens03
Alma Rubens 1926 Autographed Postcards

孃は今を去る二十有餘年以前米國加州桑港に生れた。さうして同地で女子教育を受けた孃は暫く家庭生活をなして居たのであつた。その當時加州は映畫の都として花の樣な女優は四方八方から寄り集ふのであつた。上は日ごろから愛活の心が殊に深かつたが、やがてその映畫上の華やかさに憧憬して、一九一五年の頃斯界にと志し、少しの舞臺上の經驗もなくトライアングル會社へと入つたのであつたが、忽ちその素質を認められ、それから後は只管映畫界の女優として專心努力勉強し、翌年は既に一方の主役となつたのである。さうして始めてドーグラス・フエアバンクス氏と『快漢ブレーズ』『火の森』等に共演し、尚『家の主人』『タウ・ラツクの螢』『心の花』『ジユヂス』『幽靈の花』『答』『戀の破壊者』その他數多のトライアングル特作映畫に主役を演じ、一九一八年まで同社主腦女優として在社し、ト社の解散と共にロバートソン・ゴール社に轉じ、更にホドキンソン映畫社に主演して居たが、昨年秋自社を樹て映畫撮影に從ひ、其映畫はホドキンソン社等の手に發賣されて居る。

「活動新人紹介 アルマ・ルーベン孃」
『活動画報』1919年4月号


ここで一言触れておいた方が良いと思うのですが、薬物を使用していた5年間を通じて入手に苦労したことは一度もありませんでした。買うだけの金が手元にあれば、の話ですが。

ひとたび「お薬仲間」として名が知られてしまうとそうなってしまうんです。どんな街、どんな村に行こうとどの地方にいようと、その話が独り歩きして自分より先に、あるいはほとんど同時に行く先々に知れ渡っている。

薬物癖で仕事に差支えが出たことは今までありませんでした。体が薬を欲し、リー[夫リカルド・コルテス]は構ってくれず、身も心も悲鳴を上げていましたがそれでも『ショーボート』の撮影を無事終わらせることができました。私にとっては最後の映画出演となった一作です。

『マイ・ライフ・ストーリー』アルマ・ルーベンス
ロチェスター・イヴニング・ジャーナル紙 1931年3月4日付

It might be fitting here to mention the fact at no time, throughout the five years I have been using dope, have I ever had any real difficulty in obtaining it – that is, as long as I had the money to pay for it.

Once a person gets the reputation of being « a dope friend », it is that way. No matter what city or village you may go, in whatever section of the land. your reputation either travels ahead of you, or else arrives almost simultaneously.

Up until this time the habit had never interferred with my work. Despite my suffering, physically, because of the craving for dope, and mentally, because of Rie’s apparent indifference, I managed to successfully complete « Show Boat », the last picture in which I starred.

My Life Story, Chapter XXVI / Alma Rubens
Rochester Evening Journal, Mar 4, 1931


1929年1月(医者に切りつけた事件)から1931年までの新聞記事

彼女の名を初めて知ったきっかけは高校生の時に読んだ『ハリウッド・バビロン』でした。薬物禍で自滅していった俳優たちが紹介されている章段で、決して大きく扱われていた訳ではなかったものの妙に印象に残ったのを覚えています。

アルマ・ルーベンスはグリフィス作品の端役で経験を積み、フェアバンクス初期短編で花形女優のチャンスを掴んでいきました。フェアバンクス初期作では数少ない「黒目黒髪」のヒロインでもあります。

1920年代、コスモポリタン映画社でキャリアを積みあげていった時期の写真を見ると多くが視線をカメラに向けておらず、伏し目がちだったり視線がやや泳いでいたりします。夢見がちでダウナーな雰囲気はこの時期のハリウッドには珍しいもの。他の女優との差別化を図るキャラ設定・演出も含まれているのでしょうが、演技や自伝から伝わってくる孤独感は性格の深い部分と間違いなくリンクしているものです。

戦前のハリウッドにはこういった俳優を生かした映画を作る能力はなかったと思いますし、その意味で真の代表作を残すことなく表舞台から姿を消していきました。1950年頃のフィルム・ノワールで見てみたかった、というのが偽らざる本心です。

[IMDb]
Alma Rubens

[Movie Walker]
アルマ・ルーベンス

[出身地]
合衆国(サンフランシスコ)

フュー・オ・ビ (Fy og Bi) デンマーク

北欧諸国 [Nordic Countries]より

Fy og Bi (Carl Schenstrøm & Harald Madsen) Autographed Postcard

1920年代欧州で人気のあったデンマーク出身コメディ・ユニット。ローレル&ハーディー、アボット&コステロと似た凸凹タイプの組みあわせで一時期英語圏にも「Long & Short」の名で紹介されていました。写真左側がのっぽのカール・シェンストローム(Carl Schenstrøm、1881 – 1942)、右がちびのハラルド・マドセン(Harald Madsen、1890 – 1949)になります。

40年代初頭にかけ55本の作品を残していてその多くはラウ・ラウリッツェン監督の手によるものでした。ハリウッドが得意としたような起承転結の明快な構成ではなく、作品毎にシチュエーションを設定し(多くは浮浪者二人組)、その枠で二人がドジっぷり・間抜けっぷりを発揮し別なシチュエーションに移っていく「ユルい」展開を好みます。残念ながら日本では公開された記録がありません。

本国デンマークでも戦後になると忘れ去られていくのですがドイツ限定で根強い人気があり、1960~80年代には無声版を30分~1時間にまとめ独語ナレーションを加えたTVドラマ版「パットとパタション(Pat und Patachon)」が放映されていました。テレビの黄金時代で記憶に残っている人も多く今でもDVDで入手可能、一部でカルト的な人気を誇っています。

独キネマトグラフ誌 1925年11月第979号

ドイツTV版「パットとパタション」オープニングより。別投稿した『凸凹の密輸人退治』(1925年)の映像を使っています。

脇を固める俳優に実力者を揃えていたのがシリーズの強みでした。初期常連メンバーだったのがベテラン俳優クリスティアン・シュレーダー(Christian Schrøder)とスティーナ・ベウ(Stina Berg)。

ヒロイン役ではリリィ・ラニ(Lili Lani)が準レギュラー扱いで出演数が多く、他に渡米前のグレタ・ニッセン(Greta Nissen)、1929年の『ライラ』で名を上げたモナ・マールテンソン(Mona Mårtenson)、ドイツ映画界でも活躍したアグネス・ペテルセン(Agnes Petersen)、マリア・ガーランド(Maria Garland)、マーガレット・ヴィビー(Marguerite Viby)の姿も見られます。

リリィ・ラニ(Lili Lani)
1924年『Polis Paulus’ påskasmäll』

マリア・ガーランド(Maria Garland)
1924年『Professor Petersens Plejebørn』

モナ・マールテンソン(Mona Mårtenson)
1931年『I Kantonnement』

グレタ・ニッセン(Greta Nissen)
1924年『Lille Lise Letpaataa』

アグネス・ペテルセン(Agnes Petersen)
1924年『Raske Riviera Rejsende』

マーガレット・ヴィビー (左、Marguerite Viby)と
ニナ・カルカー (右、Nina Kalckar)
1929年『Højt paa en kvist』

1920年代欧州では国境を越えて成功した喜劇は少なく、仏マックス・ランデと並びフュー・オ・ビは数少ない例外でした。元々欧州には自由な放浪者への憧憬が文化の一つとしてありますし、チャップリン初期短編やルノワールの『素晴しき放浪者』にもそういった要素を見ることができます。フュー・オ・ビの二人組はこの理想、神話を上手く形にし持続可能なロールモデルを作り出した点で評価できると思います。


[IMDb]
Carl Schenstrøm

[Movie Walker]


[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
11月13日


[IMDb]
Harald Madsen

[Movie Walker]


[出身地]
デンマーク(シルケボー)

[誕生日]
11月20日


1925 – 35mm 『凸凹の密輸人退治』断章 (スヴェンスク・フィルムインドゥストリ社、グスタフ・モランデル監督) 独プリント

« Polis Paulus’ påskasmäll » (1925, Svensk Filmindustri, dir/Gustaf Molander) 1920s German « Pat und Patachon als Polizisten » 35mm Fragments

先日ドイツのイーベイで題名不詳の35ミリフィルム数本がオークションにかけられていました。そのうちの一本がこちら。

ホテルのレストランで開かれているパーティーが舞台となっていて
 1)仮面姿の女性が燕尾服の男の背後にそっと近づいてキスをして逃げ去る場面
 2)年配の男女4人が談笑し食事をしている場面
 3)仮面をかぶった背の高い男性が投げキッスを送る場面
 4)会食中の女性が嬉しそうに微笑むクローズアップ
と展開していきます。

最初に目に留まったのはクローズアップされたぽっちゃり系の女優さんでした。

Stina Berg in « Polis Paulus’ påskasmäll »

1910~20年代北欧で活動していた名脇役スティーナ・ベウです!見覚えがあったため手持ちのデータを確認したところ1925年公開のスウェーデン作品『Polis Paulus’ påskasmäll』断章と判明しました。日本未公開作品で邦題はなく、英題(The Smugglers 「密輸人」)をそのまま訳出しています。

本作はデンマークの喜劇ユニット「フュー・オ・ビ(Fy og Bi)」が主演した喜劇連作の一作。同シリーズはデンマークのラウ・ラウリッツェン監督の手による物が多いのですが、本作で初めて国外(スウェーデン)の製作会社・監督に委ねられることになりました。

物語はディナ(スティーナ・ベウ)が自身の経営するホテルに姪アンヌ・マリー(リリィ・ラニ)を招待したことから始まります。アンヌ・マリーとステン(エリック・バークレイ)の恋愛模様と、町の警察官(ハラルド・マドセン=凹)と浮浪者(カール・シェンストローム=凸)の追跡劇が同時進行していく中で最後は地元で暗躍している犯罪グループが摘発されてハッピーエンド。

グスタフ・モランデルの監督・演出はこなれたもので喜劇要素を大事にしつつも多層的な展開を上手くまとめあげており、凍りついた湖や森などの美しい自然描写を随所に盛りこんでいます。

オーストリアとデンマークの映画協会がそれぞれ不完全な35ミリ版を所蔵しており、2009年に両者を組みあわせて1時間42分のリストア版が制作されています。入手した断片はこの修復版の中盤、50分20秒~52分40秒辺りに対応している部分でした。

[IMDb]
Polis Paulus’ påskasmäll

[Movie Walker]


[公開]
1925年4月6日

1928 – 『凸凹の狼狩人』 (Ulvejægerne、1925年、ラウ・ラウリッツェン監督) 仏語小説版 « フィルム・コンプレ »

« Loup, y es-tu? » (Le Film complet du jeudi, N° 514, 7 juin 1928)
based on 1925 Danish Film « Ulvejægerne »

「連休は父親の所に行ってこようかな、と。ユトランドのブレケルシュタット育ちって話しましたっけ。次いでにちょっと運動してこようと決めました」
ホテルレストランのオーナーは大きく目を見開いた。
「運動なんて毎日してるんじゃないか」
笑い出だした青年。
「今回はちょっと特別なんです。ユトランドの森に狼が沢山出てるみたいなんです」
ニコレ氏の驚きは驚愕に変わった。
「狼って。デンマークの森にまだ狼がいるなんて知らなかったよ」
ポール青年はうなずいた。
「僕もです。でも本当らしいんですよね。この記事見てもらえますか」
オーナーに差し出した新聞は朝刊のもので、該当記事に目をやったニコレ氏は得も言われぬ感情に体が震えるのを感じた。

– Je vais chez mon père, patron. Ne vous ai-je pas dit que j’étais de Brekerstatt, dans le Jutland…
« Je me promet, d’ailleurs, de faire du sport.
Le patron ouvrit les yeux tout grands.
-N’en faites-vous pas tous les jours?
Le jeune homme se mit à rire.
-Cette fois, il s’agit d’un sport un peu particulier. On annonce que les forêts du Jutland sont infestées par les loups.
L’étonnement de M. Nicolet se changea en ahurissement.
– Des loups! Je ne savais pas qu’il y avait encore des loups dans le Denmark.
Paul Lindsomm acquiesça.
– Moi non plus, mais c’est pourtant certain, lisez ce journal.
Il tendit au patron une feuille imprimée, qui datait du matin et M. Nicolet, dès qi’il eût jeté les yeux sur l’article qu’on lui signalait, se mit à trembler d’émotion.


自転車修理士として小銭を稼ごうとしていた凸と凹はペテンを見破られてあえなく廃業。

折しも新聞では狼が確認されたという報せが。狼狩に向かう村人たちに凸凹二人も合流します。

水辺でキャンプを張ろうとした一団でしたが先客の水着美女たちに見つかって追い払われてしまいます。 その後仲直り、思いもかけぬハーレム状態に何をしに来たのか忘れ果ててしまう始末

油断している一行の前に現れた狼の群れ、果たして狩人たちの運命や如何に…と物語は続いていきます。

「フィルム・コンプレ」は毎週木曜日に発行されていた16頁冊子形式の映画小説専門紙です。空気に触れているとボロボロになりやすい酸性紙で普段表に出さないのですが久しぶりに引っぱり出してきました。

フュー&ビの連作喜劇にはスラップスチックな追っかけ、サイドストーリーで絡んでくる恋愛要素、突然登場してくる謎の水着美女集団など幾つかの定型パターンがあります。『狼狩人』はそういった約束事を守った正統派の一作。今回見直してみてマック・セネット喜劇の影響が強いことに気が付きましたが、それも作品世界によく馴染んでいます。

[タイトル]
Loup, y es-tu?

[原題]
Ulvejægerne

[IMDb]
Ulvejægerne

[発行所]
Le Film complet du jeudi

[出版年]
1928年

[フォーマット]
26.0 × 18.0 cm、16頁

ヘッダ・ヴェルノン Hedda Vernon (1886 – 1925) 独

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Hedda Vernon 1916 Autographed Postcard

親愛なるお嬢様、残念なことに貴女がサイン用に送ってくださった絵葉書をどこかにやってしまいました。代わりにこちらを送りますのでお受け取りくださいませ。 ヘッダ・ヴェルノン

Mein liebes Fräulein, leider habe ich Ihre Karte, die Sie mir zur Unterschrift sandten, verlegt. Nehmen Sie bitte Diese dafür. Mit herzlichem Gruß. Hedda Vernon

消印は1916年(大正5年)の10月23日。宛先はヘンケ・ステグリック(Henke Steglik)嬢でしょうか。メッセージ面には5行の手書き文章と署名。「どこかにやってしまいました」は方便で、この時点で一番プロモーションに適した絵葉書に「差し替えた」が正しいのだろうなとは思います。

「どうやって映画(界)に入ってきたのか?」

徒歩で、でしょうか。今でも覚えているのですがとても遠かったです。やっとたどり着いたと思ったら監督さんに「遅刻だぞ」と怒られてしまって。指示で何か演技をすればさらに罵られる始末。映画が上映された時にお客さんから大きな拍手が挙がって、監督さん曰く「君には才能がある!」。日記に「来た、見た、勝った(Veni, vidi, vici)」って書いてやりました。

ヘッダ・ヴェルノン・インタビュー
『映画界の女性たち』(1919年)

„Wie ich zum Film kam?“

Per Beine; und ich erinnere mich noch, daß es sehr weit war. Und als ich schließlich da war, schimpfte der Regisseur, weilich zu spät kam; und als ich ihm was vorspielte, schimpfte er noch mehr; und als der Film heraus kam, klatschte das Publi­kum, und der Regisseur sagte: » Hedda, Sie sind ein Talent!« – Und ich schrieb in mein Tagebuch: »Veni, vidi, vici.«

Hedda Vernon Interview
in « Die Frau im Film » (Altheer & Co., Zürich, 1919)

リヒトビルト・ビューネ誌1913年8月第34号広告

1913年にドイツで国産犯罪活劇が流行し始めた時、ハリー・ピール監督、ルートヴィヒ・トラウトマン主演のケリー・ブラウン連作のヒロインに抜擢され、このジャンルで最初にアイドル的人気を博したのがヘッダ・ヴェルノンでした。『天馬』の邦題で知られる « Die Millionenmine » でヒロイン役を務めたこともあって1914年頃の日本の映画愛好家にも名を知られていました。

リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月第12号より『天馬』広告

キネマトグラフ誌1915年7月号広告

1914年に自身の名を冠した映画製作会社を立ち上げて独立。その後はアイコ映画社を中心に、夫でもあるフーベルト・メスト監督作品に多く出演。恋愛物、喜劇、歴史劇など様々なジャンルの作品に出演しています。1910年代中頃からは若手の突き上げを受けて人気面で伸び悩むものの、ドイツ活劇ジャンルの先駆けとして「別枠」の扱いを受けており10年代末頃まで自身の名前を前に出して一線での活躍を続けました。

Hedda Vernon in Die Neue Kino Rundschau (1919-03-30)

1919年、アイコ映画社の 自社俳優紹介広告欄より (ノイエ・キノ・ルンツシャウ誌1919年3月30日)

1920年代になると脇役に回る機会も増えてきます。それでも1921年にはメスト監督の『レディ・ゴディバ』に主演、英テニスンの詩を元にした同作は合衆国でも公開されました。

1922年、『レディ・ゴディバ』米公開時の広告

1925年に亡くなった後は再評価の機会がないまま忘れられていくのですが、2018年にボローニャ復原映画祭の「一世紀前の映画」企画で主演作『Puppchen』(1918年)復原版の上映記録が残っています。

[IMDb]
Hedda Vernon

[Movie Walker]
ヘッダ・ヴェルノン

[出身地]
ドイツ

[サイズ]
13.6 × 8.7cm

1913-1914『天馬』への道(ドイツ探偵活劇興亡史)

1914年に日本で公開された『天馬』についての調査の続報です。山本知佳氏の論文『日本におけるドイツ映画の公開 -1910年代を対象として-』末に公開作品のリストが時系列でまとめられているのですが、ドイツ語の原題が付されておらず元の作品がわかりにくくなっていました。2003年に公刊された独語の研究書『カメラの目と直感:初期ドイツ映画における探偵たち』巻末のリストを重ねあわせる形で輸入状況を整理していきます。まずは当時紹介されていた様々な活劇連作から。

・ヨセフ・デルモント(Joseph Delmont)作品

アイコ映画社を拠点に活躍していたドイツ映画のパイオニアの一人。代表作の一つである『生きる権利(Das Recht aufs Dasein)』の修復版をオランダのEYEが公開しています。

『夢か眞か』(原題不詳) 1913年8月5日・みやこ座
『秘密』(原題不詳、Das Recht aufs Daseinかも) 1913年10月25日・みやこ座
『ゲルダーン』(Der geheimnisvolle Klub) 1913年12月14日・みやこ座
『パナマの暴漢』 (Der Desperado von Panama)1914年10月01日・横濱オデオン座


・ケリー・ブラウン探偵物(Detektiv Kelly Brown)作品

ハリー・ピール監督、ルートヴィヒ・トラウトマン主演によるドイツ初の探偵活劇連作。1913年の『夜の影(ブラウン大探偵)』に始まり1914年の『盗まれたる百万金』まで続きます。日本で『天馬』として知られる « Die Millionemine » はシリーズ4作目として製作されたものです。この後も俳優や監督を変えた「ブラウン物」作品が単発で幾つか発表されています。

ブラウン物第1作『夜の影』(Schatten der Nacht) ドイツ初公開時の広告
キネマトグラフ誌1913年1月315号

ブラウン物第3作『人と仮面 第2部』(Menschen und Masken II)
リヒトビルト・ビューネ誌1913年9月36号

『ブラウン大探偵』(Schatten der Nacht/Nachtschatten)1913年9月5日・みやこ座
『ブラウン探偵(前編)』(Menschen und Masken 1)1913年12月25日・みやこ座
『ブラウン探偵(後編)』(Menschen und Masken 2)1914年1月上旬・みやこ座
『天馬』(Die Millionemine)1914年1月11日・みやこ座
『猛火(褐色の獣)』(Die braune Bestie)1914年2月19日・みやこ座
『名馬(空中のブラウン・夜の影の秘密)』(Der Geheimnisvolle Nachtschatten)1914年4月・みやこ座
『盗まれたる百万金(探偵王)』(Ein Millionnraub)1914年7月・遊楽館


・スチュワート・ウエッブス探偵物(Detektiv Stuart Webbs)

エルンスト・ライヒャー主演。ドイツ無声期で最も長く続いた探偵活劇シリーズ。当初はヨーエ・マイが監督していたものの途中で主演との対立が起こり降板。ブラウン物がアクション重視だったのに対し、ウエッブス物は科学知識を駆使した謎解きの要素が強いとされます。日本では第3弾の『人か幽霊か』まで紹介されましたが大戦勃発の影響を受けその後紹介が途切れています。

『地下室(不思議の別荘)』
リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月11号

『續地下室(二人ドーソン大佐)』
リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月13号

『地下室(不思議の別荘)』(Die Geheimnisvolle Villa) 1914年5月14日・帝國館
『續地下室(二人ドーソン大佐)』(Der Mann im Keller)1914年6月22日・帝國館
『人か幽霊か』(Der Geisterspuk)1914年6月22日・帝國館


・バスカヴィルの犬シリーズ(Der Hund von Baskerville)

アルヴィン・ノイス主演のホームズ物連作。この後デクラ社に移りシリーズ名をシャーロック・ホームズに変えて継続。

ホームズを演じたアルヴィン・ノイス
リヒトビルト・ビューネ誌1913年9月36号

『伏魔殿(淋しき家)』
キネマトグラフ誌1914年11月412号より

『伏魔殿(淋しき家)』(Das einsame Haus)1915年1月15日・電気館


・ルパン物(Lepain)

1914年前半に2作のみ製作されたルイス・ラルフ監督・主演の悪漢物。モーリス・ルブランの怪盗リュパンを念頭に置いていると思われますが綴りが違います。大戦勃発後製作が停止、戦後の1920~21年にかけて第3~6話の続編が制作されました。

リヒトビルト・ビューネ誌1914年2月8号

『血路(リイペエン)』(原題不詳)1914年9月22日・大正館
『馬賊の巨魁(無知の王ルパン)』(Der König der Unschuldigen)1915年2月27日・横濱オデオン座


・「女ブラウン」シリーズ(Miss Clever)

エレン・エンゼン・エック(Ellen Jensen-Eck)演じる女探偵ミス・クレヴァーを主演とした活劇。第一作『女ブラウン』(原題は「秘密城」)はフィルムが現存しオランダのEYEがオンライン公開しています。

『女ブラウン(黒三人組)』(Der Geheimschloß)1915年2月18日・横濱オデオン座
『續女ブラウン』(原題不詳)1915年3月31日・横濱オデオン座


・その他

『金剛』(Das Teufelsauge)1913年7月・キリン座
『心の閃(宝玉)』(Blau-Weisse Steine)1913年12月31日・キリン座
『天魔(ツエルノウスカ)』(Die Czernowska)1914年1月15日・電気館
『鬼探偵(黒十三結社)』(原題不詳)1914年2月11日・電気館
『スパイダー組(旋風/大探偵ブラウン)』(原題不詳)1914年2月28日・朝日館
『怪物(死したる客)』(Der Tote Gast) 1914年3月11日・みやこ座
『火中のブラウン探偵』(原題不詳) 1914年3月11日・みやこ座
『第二天馬(天馬續編)』(原題不詳)1914年7月14日・帝國館
『海底のダイヤ(下方の金剛石)』(原題不詳)1914年8月1日・横濱オデオン座
『白墨(爆弾の戒公)』(原題不詳)1914年9月20日・帝國館
『奪還(悪魔の爪に)』(Im Teufelskrallen)1915年1月1日・横濱オデオン座
『海と超人(海底鉄道)』(Der schienenweg unterm Ozean)1915年5月15日・横濱オデオン座
『治療室(間一髪/黒石竹花)』(Der Schwarze Nelke)1915年7月3日・横濱オデオン座
『バスカヴィルの熊/青自動車』(Der Bar von Baskaville)1915年7月10日・横濱オデオン座
『黒箱又はコブラ(社交界の賊)』 (Salonpiraten)1915年7月20日・横濱オデオン座
『三日間の死』(原題不詳) 1915年9月18日・横濱オデオン座
『コルソ城(晩かつた)』(原題不詳)1915年11月28日・帝國館
『隠証(暗室)』(Der Unsichtbare Zeuge)1916年下旬・みくに座
『疑問』(Der Trick. Welcher von Beiden?)1916年下12月・絹輝館


原作が特定できていない作品も多く、同一作品が二度、名前を変えて公開されているようなケースも見受けられます。完璧なリストではないのですが一定の傾向は見えてきます。

ブームの火付け役となったのが日活系の上野みやこ座で、ジャンルの先駆者であるヨセフ・デルモント作品やブラウン探偵物を紹介。次いで1914年に松竹系の帝國館でウエッブス探偵物が公開されるようになります。ブームに同調する形で横濱オデオン座やキリン座でも他シリーズの作品や単発ドラマが公開。同年夏に大戦が勃発し輸入が途切れるものの、1915~16年にかけても一部作品は細々と紹介されていたようです。

結構な数になりますが、本国ではこれでも序の口に過ぎなかったようです。戦中1916~17年にかけジョン・ディード探偵物、ハリー・ヒッグス探偵物、ウィリアム・カーン探偵物、ファントマス連作、ネモ博士連作、ジョー・ジェンキンス探偵物、トム・シャーク連作…20以上ものシリーズが制作され「探偵活劇のインフレ(die Inflation des Detektivfilms)」と形容される状況になっていきました。

日本ではドイツ犯罪活劇でも初期の作品、特にケリー・ブラウン物の人気が高く「天」「馬」「ブラウン」といったパワーワードを散りばめる形のプロモーションが中心となっていきました。一方のドイツでは戦中期に継続して公開されていたウェッブス物やジョン・ディーブス物の知名度、評価が高く日本との温度差が目立つ形になっています。


[参考文献]

・『カメラの目と直感:初期ドイツ映画における探偵たち』セバスティアン・ヘッセ著(独語)
« Kamera-Auge und Spürnase : der Detektiv im frühen deutschen Kino » Sebastian Hesse, Stroemfeld Verlag, Frankfurt – Basel 2003

・「エルンスト・ライヒャー、又の名をウェッブス探偵:ドイツ犯罪活劇映画の王」セバスティアン・ヘッセ(英語)
« Ernst Reicher alias Stuart Webbs: King of the German Film Detectives » Sebastian Hesse,
 in « A Second Life: German Cinema’s First Decades », Amsterdam University Press, 1996


・「日本におけるドイツ映画の公開 -1910年代を対象として-」 山本知佳
 日本大学文理学部人文科学研究所第97号、2019年研究紀要

・1914年上半期公開映画リスト「活劇、探偵劇」
 キネマ・レコード1914年7月 通巻第13号、キネマ・レコード社

・その他「キネマトグラフ」、「リヒトビルト・ビューネ」等当時物のドイツ語映画誌


月形龍之介 (1902- 1970)

日本・男優 [Japanese actors]より

Tsukigata Ryûnosuke Autographed Postcard

本名門田潔人。明治三十五年宮城縣で生る。元輝子ことマキノ智子と浮名を流した色男、東亜キネマが映畫俳優として振出し、マキノ主腦男優の一人で常に時代劇に主演して大向からヤンヤの喝采を博す。『討たるゝ者』が初演映畫で『怪物』『毒刄』『戦國時代』『轉落』『修羅八荒』『愚戀の巷』最近の主演では『毒蛇』『砂絵呪縛第二編』『雪の夜話』等でキビキビした胸のすくやうな演技を見せてフアンを喜ばしていゐる。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


マキノ以来のケンゲキ俳優月形は今フリー・ランサーとなり、千惠藏映畫、阪妻映畫、下加茂映畫、新興映畫等にドシ〱出演してゐる。トーキー俳優として臺詞がうまく、ケンゲキ俳優として殺陣が鮮やかなので、各社からひつぱりだこになつてゐる。劍道三段の腕前があり、現在のケンゲキ俳優中、眞劍を使ふスターは彼を措いて外にない。その殺陣には獨特の凄味がある。何しろ眞劍を使ふので、捕手達もビクビクものだが、未だ嘗て一度も人を負傷さしたことがないといふからえらいもの。

『映画とレビュー 人氣花形大寫眞帖』
(1936年1月、『冨士』昭和11年新年號附録)

[JMDb]
月形龍之介

[IMDb]
Ryûnosuke Tsukigata

[出身地]
日本(宮城)

[誕生日]
3月18日

西條香代子 (1906 – ?)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Saijô Kayoko Late 1920s Autographed Postcard

本名は中村香代子、明治卅九年正月の元日に神奈川縣鶴見に生れる、女學校卒業後、大正十四年五月一日日活へ入社、「闇の中の顔」へ出演好評を博す。「ダンスとピアノと琴が好きでイバニエズの戯曲物の愛讀を好み、バナゝと洋食と甘いお菓子が好きで、メリーピツクフオード愛好者です」住所京都市下京區西ノ京御輿ヶ岡町十五ノ五。

『日活俳優名鑑 1926+10』
(『大日活』二周年記念附録、1926年10月)


私は此の人の、あく事なき理智に輝いた眸の色に視入る時、恋の霊魂と化したあの静御前の姿が忍ばれてならない。

「佳人佳語」
(美町淑夫『うづまさ』1927年9月号)


明治三十九年一月一日極めてお芽出度い元旦の初日の出と共に神奈川縣の鶴見で孤々の聲を揚げた。中村香代子が本名で、當年二十三才。高等女學校卒業後大正十四年五月に日活に入社する。玉麗花のかんばせ、眞紅の唇、瀟洒たるスタイルは常に幾百萬のフアンをチャームしてゐる。主演『闇の中の顔』『日輪』『死の寶庫』『大陸の彼方』で好評を得。現に同社の花形女優。

『玉麗佳集』(1928年)


昭和元年〜2年にかけて人気を博した女優さんで、1926年8月『キネマ』誌の人気投票中間報告で25位(女優では11位)になっていました。

昭和3年(1928年)に髙島栄一氏とやりとりをしていた葉書が2枚手元にあります。一枚目は年賀状で「旅行中の爲失礼を致しました」の一文あり。もう一通は同年8月の暑中見舞いで「早速お尋ねを頂きまして恐縮し存じ上げました。私恙なく過して居ります」とのこと。

Saijô Kayoko 1928 New Year Greeting Card

Saijo Kayoko 1928 Summer Greeting Card

Saijô Kayoko 1928 Summer Greeting Card

この二通の間に阪妻『坂本龍馬』(1928年5月公開)に出演、同作を最後に映画界から引退。実質3年の短い女優活動でした。引退までの経緯とその後の消息が気になっていたところ1928年1月の新聞にこんな記事を見つけました。

阪妻プロダクシヨンの女優西條香代子こと中村かよ子は今度洋行することになり、先日京都府廰へ旅券下附願ひを出した。映畫俳優の洋行といへば大ていハリウッドと相場が決まつてゐるがこの人のはアメリカではなくフランスを中心にドイツ、イタ[リ]ーへ、しかも三年間滞在しようといふのである。

日布時事日曜版 1928年1月29日付 9面
(フーバー・インスティテューション
邦字新聞デジタル・コレクションより)

自身のキャリアアップのために邦画界を離れたい旨が語られています。実際に渡欧できたかは分かりませんが、映畫界からフェイドアウトしていった背景が理解できる内容で「そういう事情であれば」と納得できました。

[IMDb]
Kayoko Saijô

[JMDB] (二項目に分かれて記載されています)
西条加代子
西条喜代子

[出身地]
日本(神奈川県横浜市)

[生年月日]
1月1日

1932 – 35mm 『凱旋』(東活、安東太郎監督作品)

35mm « Gaisen » (1932, Tôkatsu, dir/Tarô Andô) 35mm excerpt

解散した東亞キネマの後継として設立され、短期間(1931年夏から32年後半)活動していたのが東活映画社でした。東亞の残党が多く在籍、この後に誕生した寶塚キネマの原型ともなっています。

東活映画社が活動していた時期、満州事変の影響を受け愛国的傾向を持つ作品が多く作られていました。最も有名な作品が肉弾(あるいは爆弾)三勇士で、東活からも32年3月に『忠烈肉弾三勇士』が発表されています。

その翌月に公開されたのが愛国映画『凱旋』でした。主演は帝キネ〜河合〜東亞で活躍した里見明。脚本は『忠烈肉弾三勇士』と同じ小国京二氏が担当。史実とされている出来事を元にした『忠烈肉弾三勇士』とは異なり『凱旋』は小国氏が原作を担当したフィクションです。

今回入手した35ミリ版は結末近い殉死場面のみの抜粋です。劇場公開版は7巻物の長編で女優陣(都賀静子、浅間昇子、小川雪子)の名もクレジットされており、大陸での戦闘場面だけではなく国内での家族や恋人との物語展開も含まれていたと思われます

[JMDb]
凱旋

[IMDb]
Gaisen

イタ・リナ Ita Rina/Jta Rina (1907 – 1979) セルビア/スロヴァニア/チェコ

オランダ~東欧~バルト三国 [Netherlands, Eastern Europe & Baltic States]より

Ita Rina c1931 Autographed Postcard
(Estonian Edition)

Ita Rina Autographed Postcard

Ita Rina 1930 Inscribed Postcard

母は自分の美しい娘二人をどの映画スターに譬えたらよいか決めかねていた。華奢な姉は愛らしい花形子役シャーリー・テンプル、童顔な女優のオードリー・ヘップバーンに似ているという話になった。姉よりぽっちゃり系の私は古風なディーヴァ女優、ネオレアリスム映画に出てくる情の濃いイタリア女優になぞらえられた。

「『キリマンジャロの雪』のエヴァ・ガードナーに似てない?」、私が12才かそこらで母は叔母にそんな質問をしていたのだ。

「どちらかといえば『モガンボ』かな」が叔母の回答だった。その理由は本人以外に窺い知れぬものではあったが。

「イタ・リナはどう?」、お遊びに混ざってきた姉が口にしたのはセルビア出身の無声映画女優の名。しばらくの沈黙があった。イタ・リナの容貌を正確に思い出せる者が誰一人いなかった。でも皆その名前だけは知っているのであった。記憶をさかのぼる限り、クロスワードでは必ずと言ってよいほど「著名なセルビア人女優(7文字)」で登場してくる名前だった。

『チェルノブイリ・ストロベリーズ』
(ヴェスナ・ゴールズワージー、2005年)

Mother could never decide which film star to compare her beautiful daughters to. While my slim sister was likened to the sweet child stars like Shirley Temple or gamine actresses like Audrey Hepburn, the plumper me seemed destined for similes with old-time divas and sultry neo-realist Italian beauties. « Isn’t she just like Ava Gardner in The Snows of Kilimanjaro? » Mother asked an aunt of mine when I was barely twelve. « I’d say Mogambo, » suggested the aunt for reasons known only to her. « How about Ita Rina? » my sister threw the name of one of Serbia’s silent-movie stars into the game. They paused for a moment. No one was certain about Ita Rina’s precise looks, but everyone knew the name, which has featured in every cross-word puzzle as « famous Serbian actress (7) » for as long as anyone can remember.

« Chernobyl strawberries : a memoir »
(Vesna Goldsworthy, 2005, Atlantic Books, London)

セルビアの現代作家ヴェスナ・ゴールズワージーの回想録『チェルノブイリ・ストロベリーズ』(2005年)にこんな情景が描かれていました。「12才かそこら」と書かれているので1970年代の話で、イタ・リナという女優が自国でどう捉えられていたかよく伝わってくるエピソードです。

Ita Rina in Erotikon (1929)

Ita Rina in Erotikon (1929)

イタ・リナを欧州レベルの花形女優に押し上げたのは『エロティコン』(1929年)の成功でした。チェコ出身の名監督グスタフ・マハティの出世作で、後年のヘディー・ラマール主演作『春の調べ』(1933年)につながってくるものです。両作に裸体描写が含まれていましたが『春の調べ』には自然主義/印象派風の光の戯れがあり、『エロティコン』にはドイツ表現主義と東欧由来の幻視・奇想が含まれていていずれも単なる初期ポルノで片付けることのできない作品です。

『エロティコン』は監督の個性や実験性が前面に出ていて個々の俳優の印象が残りにくい作品でもあります。「容貌を正確に思い出せる者が誰一人いなかった」の位置付けも作品のそんな性質からきているものです。

Ita Rina in Tonka Sibenice (1930)

イタ・リナは『エロティコン』の成功後、チェコとドイツを往復する形で映画出演を続けています。1931年の結婚と共に女優業から離れますが33年に復帰しトーキーにも出演。1930年『娼婦トンカ』、1935年『人生は続く』などで情感の深さや存在感を見せた女優でもあって『エロティコン』の濡れ場「だけ」で映画史に名前が残ってしまったのは残念な気がします。

サイン入り絵葉書2枚のうち片方は独ロス出版社の絵葉書にメッセージと日付(1930年5月)をしたためたもの。もう一枚はエストニア製絵葉書で1931年製。後者については1930年にエストニアの街ロクサを舞台にした『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)に主演しており、同作公開後に何らかの形でエストニアの映画愛好家が入手した一枚だと考えられます。

Tallinnは『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)のロケ地ロクサから十数キロの場所に位置する街です

[Movie Walker]


[IMDb]
Ita Rina

[出身地]
スロヴェニア(ディヴァーチャ)

[誕生日]
7月7日

1992 – 『1895』誌 第12号 特集:エクレール撮影所 1907-1918(仏映画史研究協会編)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

Revue « 1895 », n° 12
Studio Eclair 1907-1918 (Octobre 1992)

1992年、伊ポルデノーネ無声映画祭でエクレール社初期作の回顧上映会が開催されました。この企画にあわせフランスの映画史専門誌『1895』からエクレール社の特集号が公刊されています。内容は大きく1)経営状況の分析、2)主要俳優紹介、3)現存初期作(≒映画祭での上映作品)の粗筋、の三本立て。

1)に関しては1907年の設立時の定款、翌年の増資、収支報告などの一次資料をまとめたもの。資本金15万旧フランという小さな規模で誕生したエクレールがどのような運営を行っていたか見えてくる資料群です。

2)は1913年のフィルム・ルヴュ誌の俳優紹介企画を転載したもので『ジゴマ』『プロテア』で主演を務めたアルキリエール、アンドリオ以外にも『ジゴマ』で探偵役を務めたアンドレ・リアベル、『猿人バラウー』や『プロテア』で存在感を見せたリュシアン・バタイユなどジャッセ映画の常連俳優が紹介されています。

またあまり脚光を浴びてこなかった喜劇連作(「ゴントラン」「ガヴロッシュ」「リトル・ウィリー」)の主演役者にも紙数が割かれていて初期エクレール社の全体像が伝わってきます。

3)もフィルム・ルヴュ誌からの記事転載。モーリス・トゥールヌールの初監督作がエクレール社で、初期作『イヴリーの女羊飼』の粗筋も含まれていました。1913年5月にジャッセが亡くなって数か月後にトゥールヌールがデビューした形。画家を志した過去があり、構図や細部へのこだわりなど共通点のある両監督の接点、因縁を感じます。

全体としては当時物の記事や紙データに特化した内容で、国外(そしてフランスでもパリ以外)では入手の難しい情報が一冊に集約されています。ジャッセ作品の背景理解だけではなく普通に読み物として読んでも楽しめる特集号でした。

[出版年]
1992年10月

[出版者]
仏映画史研究協会(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

[ページ数]
192

[サイズ]
14.5 × 21.5 cm

1920年代後半 – 9.5mm 『日光旅行』(伴野商店)

9.5ミリ 伴野商店より

« Visiting Nikko » (Late 1920s Banno 9.5mm Print)

1920年代後半に伴野商店が自社の9.5ミリ作品を展開し始めた当初、御当地物のフィルムはそこまで重要視されていませんでした。カタログ番号70番台辺りから次第に数が増え始め(74番に『日本アルプス』、78番に『日本三景』)、20年代末頃にはカタログ内で結構な比重を占めるようになってきます。『日光旅行』は同社カタログの76番となっていて初期の御当地物9.5ミリに当たります。

カタログの150番台で発売された「新日本八景」のシリーズ(華厳の滝も含まれています)は鉄道省の協力を得て製作されたものでした。文部省ではなく鉄道省扱いなのが興味深い所。1920年代の好景気を受け、整備された国内インフラを活用して旅行の内需を掘り起こしていく目的が見て取れるからです。

訪れたことのある場所を動画で追体験する、未だ見たことのない土地の風光明媚に思いを馳せる…現在「ヴァーチャルツーリズム」と呼ばれるものの雛型とも言えそうな気がします。

[タイトル]
日光旅行

[メーカー]
伴野商店

[カタログ番号]
76

[発売年]
1920年代後半(1927年頃)

[フォーマット]
120m 白黒無声 ノッチ有

1921 – 9.5mm 『僧侶の特権なしに』(ジェームズ・ヤング監督、ボリス・カーロフ他出演) 米パテックス版

9.5ミリ 劇映画より

« Without Benefit of Clergy » (1921, Pathex Exchange, dir/James Young)
Late 1920s US Pathex 9.5mm Print

英領印度の街にアミーラという十六才の少女が住んでいた。家は貧しく、母親は返せなくなつた借金のかたに娘を売り渡そうとする。「豊かな生活をさせてくれる男がお前さんを待っているよ」、その言葉を信じて金貸しの家に向ったアミーラを待っていたのは貪欲な欲望に目を輝かせた薄汚い老人だった。

騙されたと知り、手を振り払つて逃げ出した女。騒動に気づいた通りがかりの英国人の青年技師ホールデンが仲裁に入る。助けられたアミーラの目にはホールデンが神様に見えた。青年もまたアミーラの心の美しさに引かれていく。ホールデンは市街地の一角に豪華な家を建て、アミーラをそこに住まわせるのであつた。

トウタという息子も得て、教会によって祝福はされなくとも二人の結婚生活は幸せに続いていた。だがそんな折に町を襲ったのがコレラの流行であつた。ホールデンが赴任先から戻ると罹患したトウタはすでに息を引き取ったところだつた。

町全体が病魔に侵され、通りには死者が倒れてゐる。妻の身を案じたホールデンは「丘の上に隔離された清潔な一角がある」とアミーラを連れて行こうとするが女は白人女たちの元に身を寄せることはできない、と断るのであつた…

文芸作家キプリングの短編を映像化したもので、英国領インド(現パキスタン)の街ラホーレを舞台とし現地の貧しい娘と英国人技師の悲恋を描いた内容。ヒロインを演じたヴァージニア・ブラウン・フェアーはユニヴァーサル社が発掘、西部劇を中心に売り出し中の新進女優でした。

植民地主義型のメロドラマでいかにも欧米圏から捉えた感じのステレオタイプな描写が多く見られます。さらに原作を忠実に再現しようとしすぎて映画そのものの流れが良くない個所も多々見られます。一方では異人種・異教徒間の恋愛の困難さ、格差社会、女性の性的搾取など原作の提起していた問題も描かれていました。

Boris Karloff as Ahmed (right)

また本作は『フランケンシュタイン』の主演俳優ボリス・カーロフの初期作品の一つでもあります。同氏は本作では英国人技師ホールデンに使えるインド人従者アフメドを演じていました。

本作は16ミリや35ミリでの保管記録や上映記録がなくソフト化もされてこなかった珍しい作品。米パテックス・エクスチェンジ社が公開した経緯から9.5ミリのカタログに含まれています。デビュー間もないヴァージニア・ブラウン・フェアー、ボリス・カーロフの姿を見れただけでも探し出した価値はあったかな、と。

[IMDb]
Without Benefit of Clergy

[Movie Walker]
僧侶の特権なしに

[公開]
1921年6月19日

[9.5ミリ版]
米パテックス版

[カタログ番号]
D25

1974 – 『サムライ – ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』(Le Cinéma selon Merville、ルイ・ノゲイラ著、セゲルス社) 仏語版初版

« Le Cinéma selon Melville » (1974, Rui Nogueira, First Edition, Ed. Seghers, Paris)

ノゲイラ:この頃すでに9.5ミリの映画を何本か撮られていたんですか。

メルヴィル:初めて手に入れた動画カメラが手回し式のパテーベビーで1924年の1月、私は6才でした。当時パリ9区のショセ・ダンタン通りに住んでいて、初めて撮ったフィルムは自宅の窓から通りを映したものでした。建物の屋根にかかった子供向け石鹸の大きな看板、通りを抜けていく車、小舞踏病にかかった小犬…あの犬は通り向かいに住んでいた素敵な婦人の飼い犬だったかな。[…] 逆にパテーベビー映写機は手離せなくてね。あれ一台あると世界中の映画を自宅で見ることができたので。各作品の粗筋と写真一枚が掲載されていたパテーベビーのレンタル用カタログは世界で一番美しい物でした。西部劇あり、キートン、ロイド、ラングドンにチャップリンのフィルムをサルトーニ写真館で借りたものです。こんな感じで2〜4巻組のフィルムを毎週4、5本見るのが常になっていました。あの熱中ぶりは完全に常軌を逸していたのですが、私の映画の素養の根っこでもあります。

Nogueira: A cette époque, vous avez déjà tourné plusieurs films en 9 mm 5?

Merville: J’ai eu ma première caméra, une Pathé Baby à manivelle, en janvier 1924. J’avais donc six ans. J’habitais alors la Chaussée d’Antin et mon premier film je l’ai fait sur cette rue, de ma fenêtre. On pouvait voir le Bébé Cadum, les voitures qui passaient, un petit chien qui avait la danse de saint Guy, lequel appartenant à une dame charmante, de l’autre côté de la rue. […] je ne me suis jamais lassé de mon Pathé Baby projecteur, puisque je pouvais voir chez moi tous les films du monde. Le catalogue de films de location Pathé Baby, un catalogue énorme avec la résumé et une photo de chaque film, était la chose la plus belle du monde. Il y avait des westerns, tous les Keaton, les Harold Lloyd, les Harry Langdon, les Chaplin, etc. que l’on louait chez un photographe, Sartoni. Ainsi, toutes les semaines je pouvais voir quatre ou cinq films nouveaux de 2, 3 ou 4 bobines. C’était l’amour fou, complètement. La base de ma culture cinématographique.

(Le Cinéma selon Melville, Rui Nogueira, p.18, Ed. Seghers, 1974)

仏フィルム・ノワール界の重鎮(『サムライ』『仁義』『いぬ』)として知られるジャン・ピエール・メルヴィル監督が自身のキャリアを辿りなおしたインタビュー集。2003年に晶文社から邦訳が出ています。同監督が幼い頃パテベビー映写機/撮影機と出会ったエピソードが含まれているのでその部分をご紹介。

入手したのは15年以上昔の話。「メルヴィルの選ぶ戦前ハリウッド監督63傑」のリスト目当てで学生時代に数年かけて見つけ出しました。

リスト以上に印象深かったのが動画カメラと映写機のエピソードでした。フランスではトリュフォー監督も少年時代にパテベビーのカメラを使っていました。お気に入りの監督が二人も「パテーベビー」を経由して映画世界に入ってきている、一体どんなものなのだろう…気になりつつもいきなり戦前の映写機を使う発想には至らず数年が経過。頭の片隅にひっかった疑問は消えず、上手く動かなくてもいいからひとまず一台手に入れてみよう、と中古のパテベビーを購入したのがかれこれ10年前。

当初は失敗ばかりでしたが経験値を上げていけばどうにかなるもので、9.5ミリの実写やデジタル化は今の自分の生活に溶けこんでいます。第一歩を後押ししたのはこのインタビュー集で、その意味で人生を変えた一冊になるのかな、と。

1924 -『ニーベルンゲン』独プレミア上映用パンフレット

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items]より

« Die Nibelungen: Ein Deutsches Heldenlied »
(Decla-Bioscop / UFA, Germany, 1924. Original program for the German premiere of the film « Die Nibelungen: Sigfried » on February 14, 1924)

デクラ=ウーファ社作品『ニーベルンゲン』は1924年2月14日、ベルリンのウーファ・パラスト・アム・ツォー館にて封切られた。

Der Decla=Ufa=Film « Die Nibelungen » wurde am 14. Februar 1924 im Ufa=Palast am Zoo in Berlin das erste Mal öffentlich ausgeführt.

1924年2月14日、ニーベルンゲン2部作の第1部『ジークフリート』がプレミア公開された際の公式パンフ。12.5×17.5センチで全24頁。冒頭に見開きでスタッフ名/キャスト名の一覧。

何よりニーベルンゲン映画で20世紀に神話の世界を生き生きと蘇らせたかったのです。生き生きと、見た人が信じてしまうほどの迫真さで。

「ニーベルンゲン映画の着地点」フリッツ・ラング

Vor allem aber hoffte ich, im Nibelungen=Film die Welt des Mythos für das 20. Jahrhundert wieder lebendig werden zu lassen, – lebendig und glaubhaft zugleich.

« Worauf es beim Nibelungen=Film ankam », Fritz Lang

内容は監督ラング、脚本テア・フォン・ハルボウの寄稿文と、二部作のあらすじを収録。ラング、ハルボウに登場人物8名を加え計10枚の写真があしらわれています。

『ニーベルンゲン』最初の公式紙資料であり、監督・脚本のエッセイが掲載されていることから史料価値が高く、先日触れたドキュメンタリー映画『ニーベルンゲンの遺産』でも紹介されていました。

[内容]
「ニーベルンゲン映画とその製作」(Vom Nibelungen=Film und seinem Entstehen)テア・フォン・ハルボウ
「ニーベルンゲン映画の着地点」(Worauf es beim Nibelungen=Film ankam)フリッツ・ラング
「ニーベルンゲン第一部『ジークフリート』あらすじ」(Inhaltsangabe für Nibelungen I. Teil « Sigfried »)
「ニーベルンゲン第二部『クリムヒルトの復讐』あらすじ」(Inhaltsangabe des 2. Teiles der Nibelungen « Kriemhilds Rache »)

シルヴィア・バタイユ Sylvia Bataille (1908 – 1993) 仏

フランス [France]より

Sylvia Bataille 1930s Inscribed Postcard

ジャン・ルノワール監督作『ピクニック』のヒロインとして知られている仏女優さん。美しいブランコの場面でも有名な作品です。

『ピクニック』(1936年製作、46年公開)より

同作は1936年6月に2週間の予定でクランクインするも悪天候に見舞われて撮影が難航、資金調達の問題やスタッフ間の意見対立もあって8月に中断となります。未完成のまま放置されていたフィルムを戦後、プロデューサーのピエール・ブラウンベルジェがひとつの作品にまとめあげ1946年に初めて劇場公開されました。

劇場公開後の1946年9月、パリのラジオ局で本作のラジオドラマ版がオンエアされました。ヒロイン役の声を務めたのはシルヴィアさん本人で、本編に入る前に撮影を振り返ったコメントも残しています。自身の肉声で紹介された『ピクニック』は珍しい上、あまり知られていない音源でもありますので日本語に訳してみました:

ネッド・リヴァル:シルヴィア・バタイユさんが隣におられますので今夜は彼女自身から撮影について語っていただけたらと思います。

シルヴィア・バタイユ:作品のロケはマルロット近郊、ロワン川の川辺で行われました。元々は半月の予定だったのが悪天候でいつものペースで仕事ができず二ヵ月間も留まることに。撮影スタッフにとって本当のピクニックになってしまいました。ルノワール監督が映画の舞台に選んだあの場所は父上に当たられるオーギュスト・ルノワール氏が晩年によく絵を描いていて、監督自身も幼い頃に多くの時間を過ごした所だったんですよ。私たちは二ヵ月もの間1880年代の衣装に身を包まれ世の中から切り離された生活を送っていました。なので元の生活に戻らないといけなくなった時は皆さんどうしましょうって感じでしたね。

シルヴィア・バタイユ
『ピクニック(ジャン・ルノワール)』
1946年9月21日放映ラジオドラマ版紹介より

Ned Rival: Sylvia Bataille est près de moi et elle va vous dire, elle-même, quelques mots sur la réalisation cette nuit.

Sylvia Bataille : Les extérieurs du film étaient tournés en environ de Marlotte, sur les bords du Loing. Ce fut pour tout équipe une réelle partie de campagne, car partis pour 15 jours, nous somme restés deux mois, le mauvais temps ne nous ayant pas permi de travailler au rythme normal. Jean Renoir avait choisi comme cadre pour son film cet endroit, où il a passé une grande partie de sa jeunesse, car son père, Auguste Renoir, il peignait pendant les dernières années de sa vie. En costume d’époque 1880s pendant deux mois, nous vivion à l’écart du monde moderne. Nous avons été légèrement désemparés, quand il a fallu nous y ré-adapter.

Sylvia Bataille
L’Ecran sans image : « Une partie de campagne » de Jean Renoir
21 Septembe 1946
(Re-diffusion France Culture, 26 Mai 2019)

写真家ジャック・アンドレ・ボワファールによる
1930年頃のポートレート写真

『天使たちの地獄』(1941年、クリスチャン=ジャック監督作品)

[IMDb]
Sylvia Bataille

[Movie Walker]
シルヴィア・バタイユ

[出身地]
フランス(パリ)

[生年月日]
11月1日

1930年代中盤・日本 9.5ミリ個人撮影動画 『無題(素人劇)』

9.5ミリ 個人撮影動画 [日本]より

Mid 1920s Japanese 9.5mm Home Movie (Amateur Drama)

道端に座りこんでいた麦藁帽姿の老人。背伸びをしてふと目をやると道路に財布が落ちています。先ほど通り過ぎていった男が落としたようです。

恐々と財布を拾うと中には札束が。はてさて、どうしたものか。

料理屋に向かう男の後ろ姿。うどんを食べて腹一杯、酒も進みます。

店を出たところで、「おい待て」の声。警官に見つかったようです。慌てて逃げだした男、「逃げると撃つぞ!」。哀れ御用の身となるのでした…

…となったらさぁ大変だ。豪遊は夢想に留め、男は財布を届けることにしたのでした。

1930年代中頃~後半に制作された9.5ミリ素人劇。以前に紹介した『無題(草上の昼食)』と同じ東北で撮影された一連の動画のひとつ。短い時間内で起承転結をまとめ道徳的なオチもついています。料理屋の場面では壁の品書きも映っていますが光の加減から屋内ではないようで、戸外に簡易セットを自作したと思われます。

1920年代中頃〜後半・フランス 9.5ミリ個人撮影動画 『無題』(パリ・トロカデロ宮殿と水族館)

« Palais de Trocadéro / Aquarium »
Mid-late 1920s 9.5mm French Home Movie

パテベビー撮影機が出回り始めた1920年代中頃~後半に撮影されたと思われる個人撮影動画。パリ観光に訪れた際の映像を記録した内容です。

エッフェル塔の手前に位置するトロカデロ広場は現在でも観光・撮影スポットとして知られています。この広場に建っているシャイヨー宮は1937年の建立で、それ以前にはトロカデロ宮殿がありました。19世紀後半のパリ万博の折に建設されたオリエンタル様式の宮殿で、今回の動画はその正面を捉えた映像から始まっています。

トロカデロ宮殿の前には4体の彫像が置かれていました。解体に伴い移設され、現在3体(象・馬・サイ)はオルセー美術館に、残りの1体(牛)はニームに置かれています。象とサイの動画に映っている年配の女性は撮影者さんの家族だと思われます。

この後広場近くに位置する水族館に移動。入口に向かう鳥打帽姿の青年が2度映し出されます。たまたま映りこんだ通行人ではなく撮影者さん本人で、先ほど登場した女性(母親)に撮ってもらった可能性が高いかなと。

水族館内で水槽を撮影。ガラス越しに撮影された魚たちが幻想的な動きを見せます。

最後はセーヌ川河畔の風景や往来する観光船の映像で終了。

初期のベビーカメラは暗い場所での撮影を想定していませんでした。屋内撮影、しかも水族館で撮影された個人撮影動画は珍しく驚かされました。

1930年代中盤 仏パテ社 Lux(リュクス/ルックス) 9.5mm映写機 YC型

映写機 [Projectors]より

c1933 Pathé Lux 9,5mm Silent Projector Type YC

パテベビー映写機の後継機として1930年代初頭に発売されたのがリュクス映写機(日本では「ルックス」表記)でした。1931年のYA型に始まり30年代中盤まで幾度かのモデルチェンジを行っており、今回入手した機体は1933年に市販されたYC型となっています。後期型の大きな変更点は以下の3点。

1)劣化しやすく不評だった合金製のフィルムゲート部の改良
2)100Wおよび150Wランプへの対応とランプハウスの大型化
3)排熱機構の強化

社名をあしらった金属プレートや電流計のデザインが変更されるなど他にもマイナーチェンジ多数。

錆び付きや汚れ、細かなペイントロスが見られ幾つかのパーツ(背面のプレート、ランプハウスの屋根)が欠品しているなど完璧なコンディションではありませんでした。欠品パーツに関しては手持ちのスペアで対応。フィルム送りのメカニズムや光学系は生きていて実写できる状態でした。

レンズはベーシックなタイプの仏パテ社オリジナルレンズ(F=32mm)。当時のカタログを見るとスクリーンとの距離10メートルまでの映写に対応しており、1メートルの距離だと21×16センチ程度、4メートルの距離で96×72センチ程度の出力ができたそうです。パテ社オリジナルレンズを含め5種類のレンズ・オプションがあった話はまた次回に触れていきます。

黄色い線の辺りにベビー映写機が隠れています

リュクス映写機を側面から見てみます。小さいハンドクランクの部分に10/20mフィルムの格納部分があってその下にレンズ、さらにフィルム送り機能を収めた箱、送られてきたフィルムを収納するスペース、一番下に変圧器を組みこんだ土台と続いていきます。この構造はパテベビー映写機そのままで、リュクス映写機には30年代インダストリアルデザインに進化したベビー映写機が隠されていると見る事もできます。

リュクス映写機は日本にも輸入されていました。ベビー映写機の倍以上の価格設定で、安価な国産9.5ミリ映写機の普及と重なったため流通は限定的でした。映写時にフィルムを焼いてしまうリスクが高く、モーター音が大きいなど改良すべき点が多く数年後には後継機種に代わられていったものの、仏パテ社の創意が詰めこまれている映写機だと思います。

[メーカー名]
仏パテ社

[発売時期]
1933年

[シリアル番号]
21274 YC

[対応ランプ]
O型(115V 50W)
S型(115V 100W)
SS型(115V 150W)

[対応電圧]
90〜130V

[レンズ]
パテ・パリ F=32mm