1910年中盤 – ドイツ無声映画35ミリフィルム断片 タイトル不明(マックス・マック監督作?)

昨年末、独イーベイで一本の35ミリフィルムが売りに出されているのを見つけました。

独イーベイの商品説明に付されていた写真

字幕やクレジットがなくタイトルは不明。商品説明に冒頭数コマを撮影した写真が添えられていました。室内装飾やカメラの構図など1910年代中盤の作品に見えます。この時期のフィルムは頻繁に出てくるものではないためやや博打ではあるものの取り寄せてみました。

年が明け、連休の最終日にフィルムが到着。

Mid 1910s Unidentified German Film 35mm Fragments
(Presumed Max Mack’s 1916 « Adamant’s Last Race/Adamants letztes Rennen »)

フィルムが巻かれた映写機用リールを取り外した状態です。側面に鉄筆での書きこみがあります。「Aus~」ではないかと思われますがまだ解読できていません。

目視で内容を確認していきます。フィルムは3つの場面をつなげたものでした。赤の染色がほどこされていて場面によって濃さが異なっています。切れた部分をテープで補強した一ヶ所は樹脂が劣化しベタベタになっていました。他に小傷がある以外は比較的良い状態です。

元々35ミリはコレクション対象にしていないため手元に再生環境がありません。以前に齣フィルム撮影用に自作したツ-ルを転用して即席のスキャンを行いました。

[場面1] ややロングショットで撮られた場面。冒頭に小間使いを連れた青年が登場。小間使いは両手に何かを持っています。小間使いから受け取ったものをコレクション保存用と思われる棚に収めます。

次いで別な女性が登場。服装が異なっていますがこちらもお手伝いさんのようです。両手には動物の置物。青年は受け取った置物をテーブルに載せると満面の笑みを浮かべます。

さらに別な女性が登場。ゆったりしたドレス姿で奥さんではないかと思われます。青年はまずテーブルの置物を女性に見せるのですが芳しい反応はありません。青年は女性を連れてコレクション棚前に移動。

[場面2] 場面が切り替わりミドルショットに。棚から取り出したコレクション品を自慢気に披露しますが女性は無反応で冷めた表情を浮かべています。

[場面3] 黒髪の女性が服を変えて再登場。壺や皿が飾られた棚を前に物思いの表情。奥から登場した青年がその手を取ってキスするものの嫌がるように振り払い出て行ってしまいます。青年が憮然とした表情を浮かべている所でフィルムが終了しました。

あちこちから骨董品を買い漁ってくる裕福な夫とそれをよく思っていない若妻。夫婦の不和を描いた場面と思われます。さて、これだけの情報から作品を特定できるでしょうか。

青年役を務めている男優はやや面長、短めに刈上げた髪型で右の額が広い感じです。目はクリンとしていて眉は短め。

オーストリア出身の俳優ヒューゴ・フリンク(Hugo Flink、1879 – 1947)です。1910年から映画に出演しており、10年代にアスタ・ニールセンやヘンニ・ポルテンの相手役を務めるなど人気のあった役者です。

女優さんは黒目黒髪。眉毛が「へ」の字型で端が細くなっています。二重瞼でやや腫れぼったそうな眼付き、鼻筋は細めで小ぶり。アーリア系ではなくユダヤか東欧の血を引いているように見えます。

Maria Orska Autographed Postcard

現時点で断定はできないものの1910〜20年代に活躍したユダヤ系女優マリア・オルスカ(Maria Orska、1893 – 1930)の可能性があるのかな、と。フリンクとオルスカは1916年に一度共演歴(『競走馬アダマント最後のレース(Adamants letztes Rennen)』)があります。

マリア・オルスカは1920年代ヨーロッパで人気があった舞台女優です。キャリアの初期に十数作の映画に出演。1917年マックス・マック監督作『黒い踊り子(Die schwarze Loo)』はドイツ・キネマテークが35ミリのネガ・ポジを保存しているのですが同じ監督による『競走馬アダマント最後のレース』は現存が確認されていないようです。

『競走馬アダマント最後のレース』でオルスカは姉と妹の二役を演じています。駆け落ちまでして一緒になった夫に最後は冷たくされて亡くなった姉の恨みを晴らすため、妹が名前を偽って男に接近し再婚を果たしたのち復讐を果たす…という内容。筋立てに夫婦の対立の要素を見て取ることができます。

またタイトルの「アダマント」はフリンク演じる不実な夫が所有している競走馬の名前になります。競馬用厩舎の経営に成功し一財産を築き上げるも、最後は所有馬アダマントの敗北で財産を失ってしまいます。

スキャン画像を見ると馬の像が置かれています。単なる偶然ではなさそう。

マリア・オルスカは最初にサイン物を手に入れた女優の一人でもあるので遺失作の断片だったら嬉しいかな、と。ひとまず現地専門家に連絡を入れ確認をとることにします。

マリア・オルスカ Maria Orska (1893 – 1930)

Maria Orska Late 1910s Autographed Postcard

ウィーンで昨夜、女優のマリア・オルスカさんが亡くなっているのが発見された。享年35才、死因は睡眠剤(バルビタール)中毒。ひとつの人生がここで悲劇的な終わりを告げた。良き意図を備えた仲間たちが幾度となく救い出そうとしてきたのだが、手遅れなまでに病んだオルスカを苦しみから救い出すことは叶わなかった。

大戦が始まってすぐの頃オルスカは名声の頂点にあり、舞台女優としてだけでなく映画女優としても名を成していた。同嬢を発見し銀幕デビューさせたのはマックス・マック氏で、同監督の元で多大なる成功を収めたのである。とはいえ著名女優としての活動は長く続かなかった。ありとあらゆる薬物にのめりこんで演技力を大きく損ない、瞬く間に転げ落ちていった。

ピリピリと苛立ったこの時代の芸術家たちにとって、薬物中毒は大きな危険をはらむものとなってきている。ウォーレス・リードやハリー・ヴァルデン、アニータ・ベルバー、今またマリア・オルスカと言った犠牲者はこの危機が増しつつあることを示している。

「マリア・オルスカ」
キネマトグラフ誌1930年5月2日付第101号

In Wien ist gestern nacht die Schauspielerin Maria Orska aiebenunddreißigjährig an den Folgen einer Veronalvergiftung gestorben. Hiermit endet die Tragödie eines Lebens, die von wohlmeinenden Mitmenschen immer wieder hinausgezogert wurde, ohne der schwerkranken Orska Heilung von dem Leiden bringen zu können. Als die Orska in den ersten Kriegsjahren auf der Höhe ihres Ruhmes stand, war sie nicht nur ein großer Bühnen-, sondern auch ein Filmstar von Bedeutung. Für die Leinwand wurde sie von Max Mack entdeckt, unter dessen Regieführung sie ihre nachhaltigsten Erfolge erzielte. Aber ihre Karriere währte nicht lange, weil sie sich bald zur Steigerung ihrer schwachen Leistungskraft mit Rauschmitteln aller Art aufpeitschte, die ihr in kurzer Zeit den vollkommenen Zusammenbruch brachten.

Die Gefahr, sich an Rauschgifte zu verlieren, ist für die Künstler in unserer nervösen Zeit besonders groß geworden, und Opfer wie Wallace Reid, Harry Walden. Anita Berber und nun auch Maria Orska bezeichnen die Gefahr dieser Entwicklung.

Maria Orska
Der Kinematograph, No. 101 (1930 May 2)

1900年代末ロシアのサンクトペテルスブルグで見いだされ、ウィーンで演技の修業を積み舞台デビューを果たしています。その後拠点をドイツに移し「デイジー・オルスカ」の名で知名度を上げていきます。

1915年8月、映画女優デビュー直後に
リヒトビルト・ビューネ誌に掲載された広告より。

第一次大戦開始頃がキャリアの転換点でドイツ映画界の先駆者であるグリーンバウム社と契約を結び1915~17年にかけてマックス・マック監督作の主演を務めました。身寄りのないロマ族の少女を演じた1917年作『黒い踊り子(Die schwarze Loo)』はフィルムが現存しドイツ映画博物館が修復版をオンライン公開しています。

1917年7月「リヒトビルト・ビューネ」誌より『黒い踊り子』広告

その後は舞台活動が中心となり、20年代には欧州全体で知られるほどの知名度を獲得しましたが薬物中毒で失速。1930年に睡眠薬の過剰摂取でその短い人生を閉じています。映画女優としては1922年に公開された歴史大作『フリードリヒ大王(Fridericus Rex)』が最後の出演となっています。

[IMDb]
Maria Orska

[Movie Walker]


[出身地]
ムィコラーイウ(ロシア/現ウクライナ)

[誕生日]
3月16日

[データ]
Verl. Herm. Leiser Berlin Wilm.

[サイズ]
8.7 × 13.6 cm

フローレンス・ターナー Florence Turner (1873–1959) 米

Florence Turner 1923 Leafcut Autograph & Related Newspaper Clipping

俳優に對する待遇も次第に改まつた。ゼームス・クルーズが、一九一一年に始めてパテエの俳優となり、程なくタンハウザーに轉じて、『百萬弗の秘密』に出演した時は、一日僅かに五弗の給料を貰つたに過ぎぬ。かうした慘じ目な生活が、間もなく人に羨まれるほど花やかなものとなつたのである。殊にスター・システムの發生は、俳優の地位を著しく向上せしめ、靑年男女はこの職業に憧憬して俳優たらんことを欲する。スター・システムは如何にして發生したかといふに、バイオグラフのフローレンス・ローレンス孃が、カール・レーンムルの『インプ映畫』に迎へられて、スターとなつたのが其の起りで、それまではバイオグラフ・ガールとか、ヴアイタグラフ・ガールとかの稱呼が使はれてゐた。かくして映畫の價値は、出演俳優の顔ぶれ如何で定まるやうになり、製作者はスターの人氣を喚起するために宣傳これ努むるところがあつた。

「新職業としての映畫俳優」
『欧米及日本の映画史』石巻良夫、プラトン社、1925年、94-95頁

ハリウッド映画史のスター俳優システムを紐解いていくと、1910年頃に登場した「バイオグラフ・ガール」フローレンス・ローレンスと「ヴアイタグラフ・ガール」フローレンス・ターナーの二人に辿りつきます。

『真夏の夜の夢』(A Midsummer Night’s Dream、1909年)

『ワシントン・パークに面した窓』(A Window on Washington Park、1913年)

『東は東』(East is East、1916年)

フローレンス・ターナーは1907年にヴァイタグラフ社でデビュー、花形の人気を博すようになりました。1909年に同社で初めてシェークスピア作品が本格的に映画化された(『真夏の夜の夢』『十二夜』)際はジュリー・スワイン、エディス・ストーリー、クララ・キンボール・ヤングらと並んで主要キャストの一画を務めています。

1912年頃から後続の若手に押されるようになってきたものの、1913年の米映画誌での投票では全体で23位、女優部門では13位(ちなみに14位がパール・ホワイト)と健闘を見せます。英国拠点で自身の名を冠したプロダクションを立ち上げたのがこの時期で、それまでのお姫様役から脱却した作風に挑戦。物質的な幸せと精神的な幸福について問うた社会派劇『東は東』は現在でも高い評価を得ています。

1920年代以降は脇役に回ることが多くなります。10年代のような華やかなスポットライトを浴びることはありませんでしたが『キートンの大学生(カレッジ・ライフ)』の母親役など日本で公開された作品にも幾つか出演していました。

今回紹介するのは1923年にイギリスで残されたサインです。同年末、イギリスでは不振に陥っていた自国映画産業を保護するため、国内上映作品の1/4を国産にする法制度が整えられます。この際に組合のミーティングに参加しスピーチを行った記事がサインに糊付けされていました。英国で映画製作を行った実績があったからこそで、彼女の存在感や影響力が1920年代まで続いていた様子が伝わってきます。

[IMDb]
Florence Turner

[Movie Walker]
フローレンス・ターナー

[出身地]
合衆国(ニューヨークシティー)

[誕生日]
1月6日

2022年1月5日 – 京都等持院 マキノ省三・雅弘墓所 & 京都蓮華寺 伊藤大輔墓所 「熱眼熱手」

先年、伊藤大輔監督が雅弘氏に謹呈した自著を譲り受ける機会がありました。「等持院に先生のお墓があります。是非寄ってあげて下さい」と教えてもらい、今回は必ず寄ろうと決めていました。

吟松寺を離れてそのまま紙屋川沿いに南下。金閣寺の脇を抜けてきぬかけの路に入っていきます。立命大の敷地に隣接した観光道路で、普段は通学する学生や走りこみの部活生が見られますがさすがにこの日はほぼ無人でした。

衣笠キャンパスのすぐ南、住宅街に囲まれるように等持院が位置しています。墓地の南西に牧野家のお墓がありました。

The Makino Family Tomb at the Toji-in/Kyoto

省三氏の墓を中心に右に卒塔婆、左に雅弘氏のお墓。

荘厳院浄空映画雄飛居士、直心院禪機映光雅人居士。雅弘氏の方は青文字、省三氏はおそらく金色で戒名が刻まれていました。智子(輝子)さんは東京・高徳寺の加藤家のお墓に入られたそうです。

Grave of Ito Daisuke, at the Renge-ji/ Kyoto

風情の或る住宅街を抜け、等持院から歩いて15分ほど。蓮華寺の五智如来が出迎えてくれました。境内墓地の南側に伊藤監督のお墓があります。誰かがお参りを済ませた後で仏花と鏡餅がお供えしてありました。雲の合間から射しこんだ日差しが熱眼熱手の碑を照らし出していました。

今回移動したルートは上のようになっています。四条大宮からバスで鷹峯源光庵前(A)に向かい、そこから吟松寺(B)、等持院(C)を経て蓮華寺(D)へ。距離にして5キロ程の旅となりました。

2022年1月5日 – 京都・おもちゃ映画ミュージアム

2022年1月5日夕方、京都のおもちゃ映画ミュージアムにお邪魔してきました。

戦前の映写機やフィルムについて調べていると頻繁に名前を見かけます。開館した2015年にはすでに京都を離れていたため訪れるのは今回が初めて。

Toyfilm Museum

四条大宮から北西に道なりで進み、壬生馬場町、中京警察署の辺りまで行くと看板が出ていました。古民家を改修したもので、木窓の隙間から映写機が顔をのぞかせています。

玄関を開けてすぐ、左手の土間に沿ってチラシやグッズが並んでいます。右手の和室を改造した大きな部屋がメイン展示室になっていました。

木棚にズラリと並んでいるのは1900~30年代の幻灯機と、そこから派生してきた初期型の35ミリ映写機です。エルンスト・プランクなどドイツ製から朝日やキング映写機の国産まで揃っています。

紙製フィルム専用のレフシー映写機。実物を見るのは初めてです。9.5ミリ形式ではパテベビー映写機とリュクスが複数台、独アレフ製、国産のアルマ映写機などが置かれていました。

幻灯機・映写機と並ぶミュージアム収集品の中心がプレ・シネマと呼ばれるジャンルです。

手持ち型のステレオスコープ

据置き型のステレオスコープ

ゾーイトロープ

ミュートスコープ

フェナキストスコープ

いずれも日本では入手しにいものでまとまった形で見ることが出来たのは貴重な体験でした。

展示室の奥の広い土間が映写室となっていて、大型スクリーンで動画を見ることができます。お邪魔した時には次回のイベント時に使用予定の米スラップスティック短編集が流れていました。フィルムをデジタル化した動画データも閲覧可能で市川右太衛門主演の『浄魂』、阪東妻三郎主演の『雲母坂』を見せていただきました。

一通りコレクションを見終えた後、元大阪芸術大学教授、現在ミュージアムの代表を勤めておられる太田米男氏、理事をされている河田隆史氏に貴重なお話を色々お伺いすることができました。とても楽しく充実した時間でした。お忙しい中ご対応していただきありがとうございました。

2022年1月6日 – 京都・今出川通り 古書店めぐりと『メトロポリス(他一篇)』(昭和3年)

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items] より

Metropolis (Thea von Harbou, Translated by Hata Toyokichi, Kaizo-sha, 1928)

松之助像に挨拶を済ませて古本屋巡りをスタート。ゴールデンウィークであれば春の古本市に足を運ぶのですが時期がずれたので一軒一軒足で潰していきます。

まずは百万遍の吉岡書店~井上書店へ。大正期の映画誌や説明本が埋もれていないかな、と床の木箱まで漁りましたが収穫はなし。それでも人文系や洋書の充実はさすがでタイトルを見ているだけで刺激になります。

その後白河通りへと向かい善行堂~竹岡書店へ。

善行堂はセレクトショップ指向の古本屋さんで店内にジャズが流れています。横積みになっていた書籍のひとつで手が止まりました。

「…メトロポリス?」

奥付を見ると昭和3年(1928年)の初版。正式書名は『メトロポリス(他一篇)』。訳者は秦豊吉。映画のスチル写真も10枚ほど収められています。

邦訳があること自体初耳でした。ドイツ語版、英訳、仏訳いずれも1920年代の版は入手困難で灯台下暗しとはまさにこのこと。喫茶店で足を休めながら400ページを一気読み。巡礼の最後に素敵な発見がありました。

1924 – 9.5mm 『ニーベルンゲン 第1部 ジークフリート』(フリッツ・ラング監督)イリス商会1925年製 二折りリーフレット

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items] より

Die Nibelungen: Siegfried (2-Folded Leaflet Made by C. Illies & Co. for 1925 Japanese Première)

ジークフリート物語

いつの頃と確とは知らず。ただゲルマン人々の血に潜み、骨に徹して傳へ来りし物語よ。

ネーザーランド王ジークムントは公子ジークフリートに稀代の劍鍛つ業収めしめんとてその頃鍛冶の誉高かりしニーベルング族の老傴僂ミーメの洞に遣はしぬ。日毎夜毎劍鍛つ業公子に勵む内三年五年は束の間よ。公子は眉秀で眼圓らに肉緊りて、心智く、業も一極優れて逞しき若者とはなりぬ。今はミーメに別れを告げグラニと呼ぶ雪白の名馬に跨りてアルベリツヒの崫に「ニーベルンゲンの寶」を得んと勇み行きぬ。やがてウオルムスの深き谿へと來れば地を轟かし森を震して、大な火龍熖を吹きて丘の如く道を阻みぬ。ジークフリートは名劍バルムンクを揮ひて火龍を殺しぬ。血奔りて掌を燒けるに思はず唇を當つれば不思議や、彼は梢なる小鳥の歌を解し得ぬ。

「人は知らぬ」火龍の秘密よ、血潮に浴せば不死身になるぞ。人は知らぬ、われ等のみ知る、火龍の秘密よ。ジークフリート喜びて裸身にて血の池に浴びぬ。此時上よりライムの枯葉一つ舞い落ちかゝりて、脊に拳程の肌、血に染みざりしを彼は知らざりしぞ悲しき禍の源なる。アルベリツヒの許には崫々に寶物數多充み滿たれば、之を獲んとて遂にアルベリツヒを倒しぬ。アルベリツヒは最後の際に「ニーベルンゲンの寶」に呪を與へ自ら石と化して死せり。ジークフリートは、隠身の蓑を携へて今は只管にラインを指して急ぎぬ。

旅衣はるかに、ジークフリートはラインの邊に來りぬ。彼方突几と高く聳ゆるグンター城には、ブルガンデイーの美と徳との徴、髪長く眸淨らなる王妹クリームヒルトなる乙女ありぬ。彼は必ず得て永く共に契らんと心決めぬ。され共、グンター王の股肱、心剛く知惠深きハーゲン、トロンエは優れたる若者を憚りて、クリームヒルトを許す爲に一つの難題を與へぬ。「我は十二人の王を統べたり。いかで、グンター王の配下に立たん!」と怒るジークフリートを優しくクリームヒルトは難題を受けよと乞ひぬ。 ジークフリート心を決めて、北極光紫に映ゆる氷島で強勇の女王ブルンヒルダと戰技を競ふ、グンター王を助け勝たしめ女王を得て歸城しぬ。

ブルガンデイーの城内に祝の頌歌高く擧りぬ。王はブルンヒルダと、ジークフリートはクリームヒルトと、婚宴の夜は歡びに溢れれぬれど、胸の中秘かにジークフリートを慕へるブルンヒルダはグンター王に冷やなりければ王の氣を入れ、變身の蓑もてグンター王に化身し、女王の心を試みしが、この秘密を覺りしブルンヒルダは、怨み憤り、さきに、クリームヒルトを欺きて不死身の秘密を知れるハーゲン、トロンエと計りて、鹿猟に事寄せて彼を失んとしぬ。其の日、トロンエは、ジークフリートの渇けるに乗じ、美しき池に到り脊後より鋭き槍を投げてジークフリートを殺しぬ。あはれ、若き王、ジークフリートは、かの呪はれし寶の爲に命を果てぬ。愛惜と悔恨に胸破れてブルンヒルダも亦、彼が亡體の側に自ら死せり。しかも、心深く、永く呪と復讐の誓を刻みし。クリームヒルトは只黙して冷たき涙を流してありぬ。

さもあればあれ、今とは樣變わりて、古の世、人心義に厚く、仇には剛くありしこそ、あはれ掬めども盡きぬ味かな。

◇◇◇

1925年2月、日本で二ーベルンゲン第一部『ジークフリート』が封切りされた際に先行して配布された2色刷りの粗筋・配役紹介。

木版画調の枠に飾られた4枚のスチル写真が大きくあしらわれ、下に粗筋がまとめられています。筋をまとめた人物の名は明記されてはいませんが堂々とした擬古文の調べは素人離れしておりそれなりに名の知れた活動弁士、又はそれに類した経験を積んだ持ち主と思われます。硬質なゲルマン古神話が「もののあはれ」に違和感なく置き換えられているのには驚きました。

1927 – 『大いなる跳躍』 (アーノルド・ファンク監督) 1930年代 英パテスコープ社プリント

Gita the Goat-Girl (Der große Sprung, UFA, dir/Arnold Fanck)
UK Pathescope 9.5mm Print 1st reel

イタリアはチロル地方の小さな村に「羊娘」とあだ名される少女ジータが暮らしていた。快活な性格と麗しい容貌に言い寄る若者も少なくなかつたが本人はピンとこないようである。「三本針」と呼ばれる巨大な奇岩によじ登って男たちを煙に巻くのであつた。

そんな或る日、ジータが水辺で羊と戯れているとどこかから悲鳴が聞こえた。目を上げると湧水を流してくる懸樋の先に男が引つかかつている。観光客が足を滑らせ流されてきたようである。ジータは懸樋に昇ると絡まつていた紐を噛み切つて男を助けたのであつた。

数日後、ジータが「三本針」で涼んでいると見慣れない高級車が見えた。降り立つたのは先日の観光客。都会から来たミカエルという名の若社長で、ジータに一目惚れし求婚に訪れたのであつた。想いを伝えたい一心でミカエルは切り立つ岩をよじ登つていく。地元青年のトニも負けじと追いかけたがミカエルが一歩早かった。「お嬢さん、貴女の御手を頂戴してもよろしいでせうか?」…リタは自分の手のひらを見つめ小首をかしげた。はてさて、高さ十数メートルの決死のプロポーズの行方や如何に。

『聖山』(1926年)や『死の銀嶺』(1929年)で知られる山岳映画の名匠ファンク監督の手による喜劇作品。前半は奇岩「三本針」の周辺で繰り広げられる恋の駆け引きを、後半はヒロインのパートナーを目指して繰り広げられる大掛かりなスキー大会を描いており、2本組で発売された9.5ミリ版の各巻が対応しています。

1924年6月、膝を怪我してしまい長期間舞踏から離れざるをえなくなりました。この時期にアーノルド・ファンク監督の『アルプス征服(Der Berg des Schicksals)』を見て、とても感銘を受けファンク氏に会いにいきました。お会いできたことで『聖山(Der heilige Berg)』の踊り子ディオティマ役を頂戴する結果になつたのです。一年半をかけ同作でご一緒させていただき、その後すぐに2作目の『大いなる跳躍(Der große Sprung)』が続きました。

「レニ・リーフェンシュタール」
『映画芸術家:自分自身を語る』(1928年)

Im Juni 1924 hatte ich mir das Knie verletzt, so daß ich lange Zeit mit dem Tanz aussetzen mußte. In dieser Zeit sah ich den Arnold Fanck-Film „Der Berg des Schicksals », der einen so starken Eindruck auf mich machte, daß ich Arnold Fanck aufsuchte. Die Folge dieser Begegnung war, daß mich Dr. Fanck für die Rolle der Tänzerin Diotima in seinem Film „Der heilige Berg » engagierte. Anderthalb Jahre arbeiteten wir an diesem Film, dem sofort der zweite „Der große Sprung » folgte.

Leni Riefensthal
Filmkünstler; wir über uns selbst (1928, Sibyllen-Verlag, Berlin)

シリアスな人間ドラマで見慣れているはずのリーフェンシュタールやトレンカーがとぼけた顔で荒唐無稽な恋愛ファンタジーを演じている様子は必見。十数メートルの高みでリーフェンシュタールが両腕を広げゆっくりと立ち上がる場面、燕尾服姿で大きな花束を抱えたシュニーベルジェが垂直の岩肌を登る場面など各々の身体能力の高さも存分に発揮されています。

『大いなる跳躍』は2020年にデジタル版(DVD/ブルーレイ/ストリーミング)が発売されており英語字幕付きで見れるようになりました。9.5ミリ版と比較した所、一ヶ所気になる部分が見つかりました。

若社長ミカエルが「三本針」を登るジータに求婚する場面です。頂上に辿りついたミカエルがシルクハットを上げて挨拶する場面が、デジタル版と9.5ミリ版では左右反転しています。

燕尾服の胸ポケットに注目してみます。上の写真で分かるように上着の左胸にポケットがあってハンカチ(又は手袋)らしき白い布が覗いています

帽子をとって挨拶する場面では右胸にポケットがあって白い布が見えています。またデジタル版ではジータが青年に手を貸して自分の体の右隣に引き上げるのですが、三人並んだ場面でミカエルは左隣にいます。コンティニュイティー(連続性)視点からデジタル版が左右反転していると見てよさそうです。

フィルムの表裏は一般に思われている以上に見分けにくく編集や修復(ダメージのある個所を置き換える)時のヒューマンエラーはありえるものです。最新のデジタル版にまでエラーが継承されている可能性がゼロではないため、できるだけオリジナルに近いプリントを参照する必要性を実感します。

[公開年]
1927年

[IMDB]
Der große Sprung – Eine unwahrscheinliche, aber bewegte Geschichte

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB748

[9.5ミリ版発売年]
1932年8月

[フォーマット]
9.5mm 100m×2巻 白黒無声 ノッチ有

2021 – DVD デジタル修復版『ティーミン』(1919年、ルイ・フイヤード監督)

「ルイ・フイヤード」より

Tih-Minh (1919, Gaumont, dir/Louis Feuillade, 4K Digital-Restored Version)

『ジュデックス』は重要な転換点となった。以後、フイヤード監督は悪漢でなく、犯罪者に正しく立ち向かう者が視聴者の共感を得るような見せ方、タイトルの選び方をしていく。記憶に残すほどの作品ではないものの『續ジュデックス』でも同様だったし、その後の二作『ティーミン』(1918年)と『バラバス』(1919年)にしてもそうであった。両作とも12章仕立て、物語は灰色がかったパリ郊外から離れ、花と棕櫚のニース、かぐわしい香草が生い茂りドライストーンの一軒家が点在する同地近郊の丘陵地を舞台に展開していくのである。 […] 『ティーミン』では所々にシュールレアリズム風のキラリとした光があって(修道女に変装した悪党団、木々と花々の合間の隠しマイク、庭で踊る狂女など)同作を『レ・ヴァンピール』に次ぐ作品としている。

『フイヤード』 フランシス・ラカサン著
(アンソロジー・デュ・シネマ第15巻、1966年)

JUDEX marque un tournant important ; désormais, ce n’est plus le criminel que Feuillade désigne à la sympathie du public, mais son loyal adversaire. Il en sera ainsi encore dans LA NOUVELLE MISSION DE JUDEX, film à oublier, et dans les deux suivants : TIH MINH (1918) et BARRABAS (1919), tous deux en douze épisodes, qui se déroulent non plus dans la grisaille de la banlieue parisienne, mais parmi les fleurs et les palmiers de Nice ou dans les collines de l’arrière-pays, parfumées du thym et parsemées de petits villages aux maison de pierres sèches. […] Le premier est embrasé à certains endroits par des éclats surréalistes (bandits déguisés en religieuses, microphones cachés dans les fleurs et les arbres, folles dansant dans un jardin, etc.) qui le placent immédiatement derrière LES VAMPIRES.

Feuillade, Francis Lacassin
Anthologie du Cinéma, No.15
(supplément à l’Avant-Scène du Cinéma No 59 de Mai 1966)

※本作の粗筋については仏語小説版の紹介を参照してください。

1918年前半に撮影、翌年初頭に公開された12幕物の活劇でフイヤード監督にとっては『ファントマ』『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』『續ジュデックス』に次ぐ第5作目の連続劇に当たります。撮影開始百年の節目となる2018年から4Kによるデジタル修復プロジェクトが始動、公開から一世紀に当たる2019年に新版が完成。2020年にボローニャ復元映画祭でのプレミアを経た上で先日円盤(DVD/ブルーレイ)の流通が始まった所です。

フイヤードの監督キャリアを1)初期短編、2)初期活劇、3)中期活劇、4)後期連作と中長編に区切った時、『ティーミン』は第3期の始まりを告げる一作となっています。これまでDVDなどで市販されてきたフイヤード作品は第1と第2期のみでしたので、今回初めて中~後期の作品を見ることができるようになった次第です。

長らく幻の作品とされていた『ティーミン』は幾つかの点で旧作と異なっています。

同作が制作・公開された1918~19年は大戦が終わりをつげ欧州が新たな回復基調に向かい始めた時期に当たります。社会・文化・政治の価値観そのものがリセットされ、次の1920年代を見据えた動きがあちこちで見られるようになりました。映画業界、そして連続活劇ジャンルも例外ではありませんでした。

『ファントマ』~『ジュデックス』の成功もあり、以前より自由に作品を撮れるようになったフイヤードは活動拠点を生れ故郷の南仏に移します。『ティーミン』は風光明媚な観光地として知られるニースやコートダジュールで撮影されたものです。

作品のあちこちに海が登場、浜辺に沿った大通り、堤防や船着き場、岩場や岸壁など港町の利を生かしたロケーションの選定が行われています。地中海の明るい光、開かれた水平線がコントラストや構図に与える影響は大きく、パリ主体で製作された旧来型の連続劇と雰囲気が大きく変わりました。

第11章では悪漢たちがアパルトマンの屋根伝いに逃亡を図ります。活劇ではお約束の展開ではあるもののカメラはその先の尾根や緑に囲まれた住宅街も捉えています。建物が密集し整然と立ち並ぶパリ中央部でこういう絵にはならない訳で、撮影拠点の変更が市街地での撮影にも影響を及ぼしているのが分かります。

旧作との印象の違いは植生にも現れています。

アフリカ原産の多肉植物や地中海周辺に自生する草花が多く登場。天に向かって広がる曲線、あるいは放射状に広がる葉が映りこんで画面に異様な装飾性と緊張感を付け加えています。

地中海周辺の植物相(フローラ)を構図に取りこんでいく手法は『ティーミン』の有名な場面でも見て取ることができます。

第8章『慈悲の枝』では駕籠ごと崖から落とされたティーミンが木の枝に引っかかって九死に一生を得ています。崖の岩場に手をかけてよじ登ろうとしているヒロインを上から捉えたのがこの一枚。高所から落ちかけて危機一髪の設定は旧来活劇の焼き直しですし、見る人によっては「またこのパターンか」となりそうです。

ティーミンを助けた「枝」はゴツゴツした針葉樹で日本の松に似ています。地中海東部を原産とするトルコ松(ターキッシュ・パイン)ではなかろうか、と。フランスでは南部にしか自生していない樹木がヒロインを助けるのがポイントで、上部に聖性を帯びた「慈悲の枝」が広がり、その下で必死のヒロインが岩場に手をかけている構図がフイヤードの思考形態、宗教観や郷土愛を如実に反映しています。『ティーミン』そのものが南仏の風景によって連続活劇の紋切り型を再解釈・再構築していくプロジェクトであった。そんな風に言い換えることもできるのでしょう。

◇◇◇

『ティーミン』を理解していく上で避けて通れないのが「心」をめぐる問題です。

第1章半ばで悪党団に拐かされ第4章で救出されるまで姿を現さない。その後は薬品の影響で記憶と言葉を失い友人や恋人も判別できず不安定な表情、所作が目立つ。第7章で記憶を取り戻すも以後の物語展開に大きな貢献はしていない…5時間半近い本作を見ていると主人公ティーミンの活躍がほとんど描かれていない点が気になってきます。

ティーミンの存在意義とは、フイヤードが彼女に託した役割は果たして何だったのか。ひとつの仮説を立てることができると思います。

心に受けた傷が要因となって記憶や振舞いに異常を生じるも、あるきっかけから記憶が蘇りそこから治癒と回復に向かう。ティーミンが作中で生きた物語には初期精神分析の提案した心的外傷、トラウマの概念が色濃く反映されています。第3話では専門医も登場、記憶を失ったティーミンが心身の不調と闘っている様子が描かれていきます。ティーミンは若い頃に父親を殺害される辛い体験をしていて、第7章では最近の記憶と同時に当時の事件の記憶と言葉を取り戻し、悪党団の暗躍する理由を解き明かす鍵となっていく…

ティーミンは心の軌跡によって物語を中盤で好転させていく役割、いうなればゲームチェンジャーの機能を果たしているのです。

1910~20年代にかけ心をめぐる新しい知見を取りこんだ文芸の流れ(『失われた時を求めて』、『ユリシーズ』、シュールレアリズム)が一つのトレンドとなっていました。例えば『ユリシーズ』の連載は1918年3月に始まっていて『ティーミン』撮影と重なっています。直接の影響云々ではないにせよ、フイヤードが時代の最先端を意識したという仮説は十分に成り立つと思います。

とはいえ視覚芸術である映画の枠組みで「心」を描くのは容易ではありません。冒頭からティーミンに感情移入して見ていれば話は変わるのでしょうが、そもそも登場頻度が少なく存在感の希薄なヒロインに字幕一つで「そう、思い出した!」と言われても受け手側が共感しづらい流れになってしまっています。

『ティーミン』構想時のフイヤードが精神分析に興味を持っていたと仮定すると他のいくつかのエピソードも理解しやすくなります。上の2枚は記憶と理性を失った女性たちが幽閉されているキルケー館のエピソードより。下の2枚は助けにやってきた外交官が策略により妄想癖、虚言癖のある危険人物とみなされ隔離されるエピソードから。理性と狂気、意識と無意識、ノーマルとアブノーマルなど連続活劇の世界観には似つかわしくない不穏で重めの空気が流れます。

こういった傾向は一般的に「幻想的な場面が所々含まれている」の形で解釈されています。冒頭に引用したラカサンの例でいうなら「所々にシュールレアリズム風のキラリとした光があって」の部分です。ただ、この見方は厳密には不正解なのだろうと思います。

『ティーミン』には通常の「アクション活劇」の側面もあって、善対悪の丁々発止も描かれています。一方ではヒロインに託された「心の物語」が並走していて、キルケー館や隔離部屋のエピソードはその世界観を補完する意味で挿入されたと考えれば整合性がでてきます。

しかしこの試みは上手くいかなかった。

記憶喪失、失語症、心の病と闘うティーミンの物語が十全に機能せず作中でぼやけてしまったことでそれを補完するはずのエピソード群も本来の意味を失ってしまった。結果的に視聴者にとってはやや奇妙な、幻想的な質を帯びた描写があちこちに散らばっているように見えてしまう、というのが実際の所だったのでしょう。次作『バラバス』以降にこの種の試みが見られなくなったのにはフイヤード監督なりの思いが反映されているはずです。

◇◇◇

『ティーミン』での試行錯誤はブラッシュアップされ翌年の『バラバス』へと結実していきます。例えば南仏の美しさを伝えるためにフイヤード作品史上初の空撮が登場、物語の展開もスムーズで分かりやすいものとなっていきます。一方で『ティーミン』に過渡期ならではの面白さがあるのも否定できません。今回のデジタル版がフイヤード中期~後期活劇の再評価につながる第一歩になってほしい。海外の一愛好家として切に願っています。

[出版年月日]
2021年12月8日

[出版者]
ゴーモン・ビデオ(Gaumont Vidéo)

[EAN]
3607483290484

[再生時間]
324分

[フォーマット]
19.3 x 13.6 x 1.7cm 180g

大正14年(1923年)頃 35ミリ齣フィルム 30枚

c1923 35mm nitrate film fragments

大正末期に個人コレクターが集めた35ミリ齣フィルムのセット。革製の表紙に金文字で商品名をあしらった蛇腹型フィルムブックに収納されています。写真や絵葉書を貼るアルバムと違い、4か所のスリットに囲まれた中心部に四角い切り抜きがあり、光に翳すとコンテンツが見える仕組みになっていました。

齣フィルムは全部で30枚。邦画(8枚)、洋画(15枚)、相撲(7枚)の三種に大別できます。

邦画では尾上松之助と阪東妻三郎のフィルムが収められていました。その他のフィルムもすべて時代劇/旧劇のみで新派劇や現代劇は含まれていません。

一番充実していたのは米国映画でした。左はパール・ホワイトの中期活劇『電光石火の侵入者』(1919年)の広告をあしらったもの。名脇役ワーナー・オーランド演じるアジア系の悪漢に銃を突きつけている場面です。左はフェアバンクス短編からの一コマ。

アクション多めのヒーロー活劇が好きだった様子は他のフィルムからも伝わってきます。左はエディー・ポーロ。右は西部活劇からの一枚。

最も登場回数の多かったのがチャールズ・ハッチソン。以前に『ハリケーン・ハッチ』(1921年)の説明本『スピードハッチ』(1923年)の齣フィルムを紹介済。上の4枚はその両作の間に制作・公開された『豪傑ハッチ』(Go Get ‘Em Hutch、1922年)用のスチル写真をベースにしています。右上の一枚にはヒロイン役のマーガレット・クレイトンが登場、右下で驚いた顔をしているのは悪役のリチャード・ニール。

他に一枚ハリー・ケイリー(Harry Carey Sr.)も含まれていました。長いキャリアを持つ西部劇俳優で自国では根強い人気を誇っています。残り6枚は現時点で未特定。

角界関連の齣フィルムは初めて目にしました。

最上段のベテラン力士、第19代横綱・常陸山を除くと若手が並んでいます。中段左から伊吹山末吉、常陸島朝吉、阿蘇ヶ嶽寅吉と続き下段左から若葉山鐘、東雲衑藏、福栁伊三郎。

「故常陸山」とあるように常陸山は1922年の夏に亡くなっています。また阿蘇ヶ嶽は1924年春に廃業。阪妻が1923年初頭にマキノ等寺院に入社し知名度を上げ始めた点も考慮すると齣フィルム全体が1923年に流通したと見て間違いないと思われます。

大正4年 – 「フイルムの行衛」(森田 淸、『キネマ・レコード』 1915年6月 通巻第24号)

« Destiny of A Film » (Morita Kiyoshi, Kinema Record No.24, 1915 June Issue)

毎月我國へ輸入せらるゝ處の陰陽のフイルムは尺數に於て實に何十萬呎を算するのであるがその割合に映畫商及び映畫會社の倉庫に充滿しないのは如何なる原因かと沈思默考したあげく漸く會社その他映畫商の内幕から魂膽を知る事が出來た。[…]

敢へて會社名は云はないが、一昨年中に輸入せられた千呎余りの一米國映畫は或る購買者のあつた爲め會社は賣つて了つた。購入した商會は此映畫を以て東北地方の巡業に六ヶ月間使用した處から疵を生じた爲め一端元の商會へ送り返した。商會では加工術を以て再び無疵な映畫としたあげく複寫して陰画を作りそして之は保存して陽画は直ちに大阪の或る個人經營の映畫商に賣却した。その時の賣値は一呎に付いて四銭と云ふ事であつた。求めた商会では又々之れを以て地方巡業に使用しその後數ヶ月後にして田舎廻りの小活動屋に賣つたが此の時には既に此の映畫は複寫手數料などゝ云ふ裏面の難に遭つて來たのみならず最初の千呎は映寫禁止の爲め沒収となつて警察官の手の殘つた場面や巡業中不正技師の爲に他に賣られた場面等にて大半は影が無くなつて居た。田舎廻りの活動屋は之を以て尚村の鎮守の祭禮等に村人の前に提供して大能書を並べ立てゝ居たが今度は殆ど映寫に絶へぬ處から或る玩具屋点に賣却して了つた。玩具店では其の中の比較的良好なる場面を接續して小兒用教育活動の映畫とし尚且つ殘余は一駒一駒に切つて小袋に入れて之れも子供の「樂しみ袋」として了つたのである […]。

「フイルムの行衛 – 行衛不明のフイルムと盗賊に等しき行爲」 森田 淸
『キネマ・レコード』1915年6月通巻第24号

今回投稿したいわゆる「齣フィルム」の発生経緯に関して、1915年のキネマ・レコード誌に興味深い一節を見つけました。

齣フィルムをめぐる社会・文化・経済的な背景は以前にも何度か引用した福島可奈子氏の論文「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」で詳述されています。

映画館で何度もかけられて使い物にならなくなったフィルムをそのまま、あるいは巡業先で興行師がその場で切り売りしたり、また下請業者が複製・着色して子供向けに玩具として販売した。

「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」
福島 可奈子(『映像学』2018年 99巻 p.46-68)

福島論文では齣フィルムの発生経緯について一般論のレベルで記述されているのみです。間違いではないものの、キネマ・レコード誌の例のように個別案件で見ていくと実態はもっと錯綜し複雑だったと分かります。

1910年代は各国で映画産業が軌道に乗り始めた時期であり法規制が追いつかずグレーゾーンが多数存在していました。そのため森田氏が伝えているような怪しげな動き(映画会社が許可なくネガを複製してしまう、映写技師がフィルムの一部を勝手に自分のものにする等)が横行する余地が大きかったといえます。

初期映画をめぐる混沌とした状況を前に法制度が整えられていきます。1)コンテンツ面を管理する検閲、2)年齢制限を含めた作品のレーティング、3)フィルムの物理的リスク(燃えやすい可燃性フィルム)の管理を目的とした法制度と技術の整備、4)フィルムの所有権や著作権管理をめぐるシステムの厳格化などが急ピッチで進められていきました。

齣フィルムは2番目と4番目の問題に深く関わっています。

(福島論文で指摘されているように)年齢制限が導入され、一部の作品を見ることが出来なくなった児童向けに発案された救済ツールであったと同時に、著作権や所有権の制度が十分に整っていなかった時代に流通最末端に発生してきたあぶく銭を生み出す魔法の「殘余」でもあった。切れ切れになって生き残ったフィルムを通じてそんな時代風景が見えてきます。

ロート・イラ Lóth Ila (1900 – 1975)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(06)

Lóth Ila Late 1910s Hungarian Postcard

1900年(一説には1899年)ブダペスト生まれ。演劇学校を卒業後、16歳で映画女優としてデビュー後、その才を高く評価されスター映画社に入社。1916年から1921年秋にかけ、同社の花形女優として活躍しました。1921年末にミュンヘン軽喜劇芸術映画社に移籍、2年程ドイツ映画界での活動を続けますが1923年、結婚と共に一旦女優業を離れます。戦後、1940年代末に老け役として映画界に復帰、亡くなる直前の1970年代中盤まで女優人生を全うしました。

A magyar « Weixler Dorrit »
「演劇生活(Színházi Élet)」誌
1918年7月28日-8月4日付第30号

「演劇生活」誌では1918年の初め頃から誌面に登場するようになってきています。前年末に軽喜劇『リリ』を映画化した作品に出演しており劇界でも認知されるようになってきた流れです。この時期はドイツの娘役女優ドリット・ワイクスラーを引き合いに「ハンガリーのドリット・ワイクスラー(A magyar « Weixler Dorrit »)」と形容されていました。

『山麓にて(Hegyek alján)』

『壱弗(Egy Dollár)』

ロート・イラに関してはハンガリー国立映画協会アーカイヴ(NFI Filmarchívum)が丁寧な発掘作業を試みています。戦前ハンガリーを代表する監督バログ・ベーラ(Balogh Béla)の手による1920年作品『山麓にて(Hegyek alján)』、さらにハンガリー無声期の最終作となる1923年作品『壱弗(Egy Dollár)』(ウエ・ユンス・クラフト監督)の2作を修復、その一部はオンラインでも公開されています。

『過去との邂逅』(Találkozás a múlttal – Lóth Ila, 1967年, ハンガリー国立映画協会アーカイヴ)

またハンガリー国立映画協会アーカイヴには1967年の記録映像も残されています。女優さん本人に自身の古い作品を見てもらいながらコメントを貰う内容で初期作の断片も収録されていました。

デビュー当初はアイドル女優の扱いを受けていた彼女ですが20年頃になると『ジェーン・エア』や『デイヴィッド・コパフィールド』など文芸作品でもヒロインを演じるようになっています。ハンガリー初期映画が成長・成熟を遂げていく軌跡と、映画女優としての立ち位置の変化が軌を一にしています。

[IMDb]
Ila Lóth

[Hangosfilm]
Lóth Ila

[出身地]
ハンガリー(ブダペスト)

[データ]
City III 102, Színházi Élet kiadása, Angelo Fotografia

モンタグ・イロナ Montagh Ilona (c1899 – ?)

絵葉書と『演劇生活 Színházi Élet』誌から見る
1910年代ハンガリー映画(07)

Montagh Ilona Late 1910s Hungarian Postcard

ハンガリーでは今までそれほど多くのコメディ映画は作られてこなかった。だが見ることのできた数少ない幾つかの作品から判断する限り、我々はドイツ人よりこのジャンルに向いていると思われる。名匠オイゲン・イッレーシュが脚本と監督を手掛けた新作喜劇は『伯爵夫人泥棒』のタイトルで近日公開予定。同作の目玉となっているソムレイ・アルトゥール氏に加え、若手女優モンタグ・イロンカ [原文ママ] が感情の起伏の激しい演技を見せる。

「ハンガリー喜劇新作」
『演劇生活』1916年第7号

1899年頃に生まれる。早くから演技の道を志し10代半ばで国立劇場に立ち『ポーランドの血』で高い評価を得る。1916年、エイゲン・イーレッシュ監督作の喜劇短編2作に出演。1917年から拠点をベルリンに移し、レッシング劇場で上演された軽喜劇『空の女王(Königin der Luft)』がヒット作となり同劇場付き女優となり、後にコーミッシェ・オーパー (Komische Oper Berlin)に転籍。

1920年代には米国に進出。21年初頭にニューヨークの39番街劇場で上演された『結婚同然(Almost Married)』で成功を収めます。この時の相手役が後のドラキュラ俳優ベラ・ルゴシ(ルゴシ・ベーラ/Lugosi Béla)。共同作業が続く中でロマンスが生まれ1921年9月に結婚、しかし妻に女優業を引退してほしかったルゴシと女優キャリアを続けたいイロナが対立、翌年には離婚しています。離婚後の消息は不明。熱心なベラ・ルゴシ愛好家の調査によると1935年に万引きで逮捕された記録が残っており不況期に生活の困窮していた様子が伺えます。

ルゴシの伝記で名を見かける機会があるものの若い頃の写真がほとんど残っていないそうで1918年のポートレート入絵葉書は貴重な一枚です。

[IMDb]
Ilona Montag

[Hangosfilm]


[データ]
1066 Bildnis von Angelo Budapest 1918

ヘルガ・モランデル Helga Molander (1896–1986) 独

Helga Molander 1920s Autographed Postcard

1896年、現在はポーランドに位置しているドイツの町ケーニッヒスヒュッテで生まれる。舞台で演技の経験を積んだ後、1910年代末に映画女優としてデビュー。着実に出演作を増やし1920年にはハノーヴァーに設立されたフェリー映画社の花形女優に迎え入れられます。

キネマトグラフ誌1920年6月号より
フェリー映画社広告

1921年『名花サッフォー』(Sappho)より

1921年には『名花サッフォー』に出演。ポーラ・ネグリ演じる妖婦に婚約者を奪われるマリア役を演じていました。

1925年『待乙女三人』(Die drei Portiermädel)より
左から二番目にヘルガ・モランデル

1923年頃から活動拠点をテラ映画社(テラフィルムクンスト)に移し、同社の大物監督&プロデューサー、マックス・グラス氏の作品で主演を務めるようになります(1923年『鉄仮面の男』『ボブとマリー』)。1920年代中盤がキャリアのピークとなり、トーキー到来と共に銀幕を離れています。

その私生活は波乱に満ちたものでした。

映画界でのデビュー前に舞台俳優と結婚。1916年に長男のハンス・ユルゲンが誕生するも結婚生活が上手くいかず1918年に離婚しています。母方にユダヤの血が流れていたため1930年代にはドイツを離れパリに向かいます。このとき同行したのが先に名前の上がったマックス・グラス氏でした。ドイツを離れることを拒んだ母親は強制収容所で亡くなったそうです。

グラス氏はパリで映画会社を立ち上げたのですが、親独政権が誕生すると身の危険を感じブラジルに脱出。ヘルガさんもまた同地で合流します。戦後、グラス氏が離婚した1957年に正式に再婚しグラス夫人となりました。テラ映画社時代から事実婚の状態だったそうで、カトリックで離婚が認められていなかったためこのタイミングになったとのことです。

母親について?例外的なまでに美しく、とても知的で、そばに寄ってくる男たち皆を魅了してしまう女性でした。天賦の才を備えていたとは思わない。でも美貌と知性が噛みあい、生れもっての才能に欠けていたものを埋めあせていたのです。

『理由ある反抗』
ハンス・ユルゲン・アイゼンク

What can I say about my mother? She was exceptionally beautiful, highly intelligent, and fascinating to every male who came near her. I don’t think she was a natural actress, but her combination of beauty and intelligence made up for her what nature had failed to give her in talent.

Rebel with a Cause, Hans Eysenck
(Transaction Publishers, 1997)

最初の結婚で生まれた息子とは早くから疎遠になっていました。ハンス・ユルゲンはイギリスに留学後心理学を学び、著名な学者となります。現在でも性格診断の分野で言及されることの多い「アイゼンク性格検査」を提唱したハンス・ユルゲン・アイゼンク(1916 – 1997)氏で、同氏は回想録に母親の思い出を書き残しています。

[IMDb]
Helga Molander

[Movie Walker]
ヘルガ・モランデル (Helga Molander)

[出身地]
ドイツ (ケーニッヒスヒュッテ、現ポーランド・ホジュフ)

[誕生日]
3月19日

[データ]
Karl Schenker phot.

[サイズ]
8.6 × 13.2 cm

ヘルマ・ヴァン・デルデン Herma van Delden (生没年不詳) 蘭

Herma van Delden 1922 November Autographed Postcard (with message on the back)

1920年代初頭に主にドイツ映画で活動していた女優さん。ツェルニーク=マラ映画社でリア・マラ主演作に脇役として登場しつつ、フレート・ザウアー監督作などで幾度かヒロイン役を任されています。

名前からオランダ系ではないかと思われ、キャリア後期には同国の無声映画にも出演。現存作品は確認できていませんが、オランダのEYE映画博物館のホームページに1922年作品「黒幕(De man op den achtergrond)」出演時の集合写真が紹介されていました。

2列目右端の椅子に座っている女性がヘルマさんだと思われます。

もう一枚、オランダ初期映画のデータをまとめた『喜びと悲しみと』(Of Joy And Sorrow、ジェフリー・ドナルドソン、1997年、オランダ映画博物館)には「黒幕(De man op den achtergrond)」のスチール写真がありました。

入手した絵葉書は1922年11月23日付チェコスロバキアの消印がある一枚で、女優さん自身の手書きのメッセージが含まれています。宛先はウィーン在住のハンス・ルドルフ・ヘーニッヒ氏(Hans Rudolph Hönig)。フレンドリーな口調で書かれた文章で、最後には「1923年にウィーンにお邪魔する機會があるかも(Vielleicht komme ich 1923 noch nach Wien)」の追伸が残されていました。

1924 – 『靑春の歌』(日活京都、村田實監督) 鈴木傳明&高島愛子 絵葉書

Suzuki Denmei & Takashima Aiko in « Seishun no Uta »
(A Song of Youth, 1924, Nikkatsu Kyoto, dir/Murata Minoru) Postcard

村田實氏の「運轉手榮吉」に次ぐ作品は新加入の高島愛子孃と鈴木傳明氏共演になる學生ローマンス劇と決し、目下脚本選定中である。

撮影所通信
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月1日付第176号

村田實氏は既報の如く高島愛子孃第一回作品として田中總一郎氏原作脚色になる戀愛詩劇の「靑春の譜」と決し愈々監督を開始した。俳優は高島愛子孃鈴木傳明氏南光明氏東城坊恭長氏等にて、技師は横田達之氏擔當である。

撮影所通信
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月11日付第177号

村田實氏の監督中なる高島愛子孃鈴木傳明氏共演の第壹回作品は「靑春の歌」と改題されて近日完成される筈である。尚既報出演俳優の外近藤伊與吉氏がリューコデー張りの敵役で出演して居る。ロケーションは阪神沿線の芦屋へ出張した。

撮影所通信
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月21日付第178号

畧筋 – スポーツマンとして其名を知られた工科大學生瀨戸は歴史学を専攻して居る津田とは親友で、津田の師たる原文學博士の令孃美代子とは淡い初戀の仲であつた。四年の後、米國へモーターの研究に留學して居た瀨戸は歸朝して來て、彼の發明したモーターをもつてオートバイ競爭に現はれ、優勝の月桂冠を戴いた。彼は絶ゑて久しく美代子と再會したが、美代子は今や父博士の助手たる津田に戀されて居る身であつた。瀨戸は親友たる津田が美代子を戀して居ると知つて、戀を諦めやうとしたが、美代子としては初戀の儚忘れ難く瀨戸を愛して居たのである。

近作映畫紹介
『キネマ旬報』 大正13年(1924年)11月21日付第178号

比較的に短いので倦怠を來さないといふ事が唯一の取柄である所の情ない映畫である。あの原作とあの俳優では少し位監督が氣を効かした所で全然無駄である。表はす可き事を少しも摑まずに、本筋とは無關係な御説教や饒舌やで好い氣になつてゐる脚色は特に笑止である。[…]

俳優は皆駄目。元來活劇專門たる可き人達をかういふ所に使ふのが間違ひである。近藤氏はも少し重味があつたらと思はれる。

どうせあの顔觸れである以上、も少し活劇味をふんだんに盛らなければ成功しないことは初めから判り切つた事である。映畫全躰としての弱點は茲にある。

主要映畫批評 岩崎秋良
『キネマ旬報』 大正14年(1925年)1月1日付第181号


高島愛子日活入社第一回作品として新人鈴木傳明其他素晴らしい配役で自働車、馬を飛ばしての大活劇。

『映画と劇』 大正14年(1925年)新年号

さて「靑春の歌」は良いのかと云はれると誠に困るのである。名監督の評ある村田實だつて、如何に大家の作でも内容の貧弱さと空虚なのは救はれやうがない。それでも此の監督だから、あれだけ興味のあるものとして觀られたのだ、部分ゝゝに良い味が出てゐた、小手先の利いていることが特に目立つていた。[…]

批評家は口を揃へて傳明も愛子も演技が下手だと誹してゐる、が傳明も愛子もあのタイプだけで今の人氣は湧いて來たのである、二人の演技はこれからの問題なのである。それ程に今の映畫俳優の演技は役者じみた極りきつたものになつてしまつていて、どれも、これも、時代離れのした性格の表現しか出來ないのである。この物足りなさの中へ、フアンの生きてゐる時代のある一面を代表した、清新なタイプの人間がスクリーンに現れて來た。そこに彼等の人氣の根據がある。

「高島愛子と鈴木傳明 – 『靑春の歌』を觀て」東四郎
『映画と劇』大正14年(1925年)2月号

日活に転じた高島愛子さんの第一回主演作品『靑春の歌』スチール写真をあしらった絵葉書一点。

『靑春の唄』は前々から気になっていた作品でもあって今回上映前後の情報をまとめてみました。1924年11月のキネマ旬報で企画から製作の流れが丁寧に追われており、日活による広告も二度挟まれています。ただし公開後の同誌批評欄は酷評と呼べる内容でした。キネ旬のみならず批評家筋の評価はのきなみ低かったようで、それに対し東四郎氏が『映画と劇』に擁護の一文を寄稿した…という流れになっています。

東氏にしても作品が「貧弱」で「空虚」な点や、両主演の演技力に問題のあることを否定している訳ではありません。それでも現在という「時代」につながった「清新」な人物像(タイプ)が登場してきている、という点を強調したがっているのです。こういう議論って往々にして古い形式や価値観と新しいそれが入れ替わる端境期に見られるものですよね。旧来の表現や形式が停滞を見せる中、若い感性が(ヌーヴェルヴァーグ的な)一瞬の切り込みを見せたとも解釈できる流れで、その切れ味の怜悧さは絵葉書の写真からも伝わってきます。

[JMDb]
青春の歌

[IMDb]
Seishun no uta

1920年代 東南~南アジア旅行記 03 『マレーシア、ペナンヒルのケーブルカー登頂とジョージタウンの水上住宅』

« Penang And Up The Peak » (Malaysia late 1920s) Penang Hill & George Town
from US 9.5mm Home Movies shot in South and South East Asia

1920年代後半に東南アジアを訪れた米国人観光客が記録した7本のフィルムより、現在マレーシアの一部となっているペナン島周辺で撮影された映像をまとめたもの。フィルムケース側面には「Penang And Up The Peak」の手書き文字があります。

冒頭に宗教建築物の遺構が映し出され、手前に立っている旅行者の姿が見えます。次いで川下りとなり、ボートを操舵している男の後ろ姿。跳ねる水に迫力があります。

その後、ペナンヒルを登っていくケーブルカーが登場。上りと下り列車がすれ違う個所だけ複線になっています。現在は高速ケーブルカーとして人気を呼んでいますがその開通は1923年。初期の車両を捉えたものと思われます。

ケーブルカーから山麓を見下ろし、おそらく中間駅(左下)で働いている地元民を捉えた後に動画は船上視点に切り替わり、海岸に密集する集落、船を追走してくるボートを映し出していきます。

湾岸に小さな家が立ち並ぶ風景は京都伊根町の舟屋にも似ていて趣があります。

ペナン島の玄関口に当たるジョージタウンの湾岸部には、華僑の一族が暮らす水上住宅があったことで知られています。

現在のジョージタウン(クリエイティヴ・コモン:ソース Flickr

ウィキに転載されていたジョージタウンの近影。背景の丘や木立の感じから見てこの画像の赤枠で囲った部分とその少し左側、見切れている部分が動画に映っています。

1920年代 東南~南アジア旅行記 02 『 サイゴンのフンヴーン廟/雄王庙 』 (Golf at Saigon)

« Golf at Saigon » (Vietnam late 1920s) The Temple of Hung King
from US 9.5mm Home Movies shot in South and South East Asia

1920年代後半に東南アジアを訪れた米国人観光客が記録した7本のフィルムより、ベトナムのホーチミンで撮影された映像をまとめたもの。フィルムケース側面には「Golf at Saigon(サイゴンでゴルフ)」の手書き文字があります。

フィルム前半はゴルフをしている姿が記録されています。地元の子供さんがキャディーを務めているようです。コース内の移動に使用されれている馬車がカメラの前を横切っていきます。フィルム半ばで木々が鬱蒼と茂る川辺の映像に切り替わり、しばらくすると中華風の宗教建築物が映し出されました。

カメラを引いていくと龍の欄干を配した石段。往来を繰り返しているのはお参りしている人たちでしょうか。紀元前にこの地を統治したとされるHùng王(雄王)にまつわる霊廟、フンブーン廟です。

こちらはグーグルマップに登録されている現在の外観。元々はヴェトナムが仏領だった1926年に大戦の死者を弔うため建立されたもので、1975年にフンブーン廟と改名されています。隣接しているサイゴン動植物園も一瞬ですが登場していました。

1920年代 東南~南アジア旅行記 01 『アユタヤ、バンコク』 (Aryudhya, Bangkok)

« Aryudhya, Bangkok » (Thailand late 1920s) Ayutthaya/Viharn Phra Mongkol Bopit
from US 9.5mm Home Movies shot in South and South East Asia

1920年代後半に東南アジアを訪れた米国人観光客が記録した7本のフィルムより、タイのアユタヤとバンコクで撮影された映像をまとめたもの。フィルムケース側面には「Aryudhya, Bangkok」の手書き文字があります。

フィルムの冒頭、まずは巨大な仏像が映し出されます。あまりの大きさに全身が収まりきらず頭から足元にカメラが下りてくるとそこには指の長さ程の観光客が立っています。座仏像の周辺に立つ卒塔婆のような塔。

後半、通りの場面に切り替わり歩いている人々が映し出されていきます。市街地ではなく小さな町のような感じです。最後にまた仏教寺院の映像。剣を掴んで仁王立ちになった鬼神像の前で観光客が何かを話しているとことで動画が終了。

名の知れた遺跡だろうと予測できたものの、画像を検索しても似たような大仏、廃墟は出てきませんでした。動画そのままの姿では現存していないようなのです。やりかたを変えて調べたところ修復される以前のウィハーン・プラモンコンボピット(Viharn Phra Mongkol Bopit)とその周辺と判明しました。

戦前のウィハーン・プラモンコンボピット(Viharn Phra Mongkol Bopit)を
撮影した古写真

修復された礼拝堂(左)と金箔をほどこされた現在の姿(右。いずれもグーグルマップより)。

プラモンコンボーピットはタイ国内では最大級の大きさ(高さ13メートル)を誇る大仏です。18世紀のビルマ軍攻撃により寺院は一部を残して破壊されていて、1950年代中盤に礼拝堂を再建。1990年代に仏像に金箔がほどこされたそうです。

動画途中に登場してくる塔はプラモンコンボーピットの北に位置する仏教寺院(ワット・プラ・シーサンペット)で、3基の仏塔に王の遺骨を納めたもの。

仏像は複数アングルから撮影されており、また台座周りを歩き回っているショットもあって1920年代当時の状態を確認する資料として貴重ではないかと思われます。地元民の信仰の対象としては修復された姿が正しいのでしょうが往時の廃墟感にも魅力があります。

1980年代 – 復刻版・中国初期映画女優絵はがき(協興隆老廣告) その二

協興隆老廣告明信片
(Old Advertisement of Xiexing Long)

以前に紹介した上海製の絵葉書「協興隆老廣告」の別セット。8枚組で紙ケース入り。「良友」「新華画報」「婦人畫報」といった一般誌・女性誌と「上海影壇」の表紙をポストカードサイズに復刻したものです。

陳波兒 1930年『良友』
(陈波儿, 1907 – 1951)Chén Bōer [IMDb]

阮玲玉 1934年12月『良友』
(1910 – 1935)Ruǎn Língyù [IMDb]

李霞卿 1936年9月『婦人畫報』
(1912 – 1998)Lǐ Xiáqīng [IMDb]

陳雲裳 1939年4月『新華画報』
(陈云裳, 1919 – 2016)Chén Yúnshang [IMDb]

談瑛 1946年 雑誌名未詳
(谈瑛, 1915 – 2001)Tán Yīng [IMDb]

王丹鳳 1943年10月 『上海影壇』
(王丹凤、1924 – 2018)Wáng Dānfèng [IMDb]

周璇 1943年11月 『上海影壇』
(1920 – 1957)Chow Hsuan/Zhōu Xuán [IMDb]

胡楓 1944年3月 『上海影壇』
(胡枫)Hú fēng

陳雲裳や周璇、談瑛は複数枚に登場。上海出身あるいは同地を拠点に活動していた女優・歌手を中心にピックアップされています。また後に監督業にも進出、中国アニメ界の先駆者として活躍した陳波兒、中国初の民間女性パイロットでもある李霞卿など中国の文化・社会に影響を与えた女性にも配慮が払われています。

今回調べていてたまたま発見。3週間ほど前(2021年10月11日)にインターネット・アーカイヴに「上海影壇」誌全巻のデジタル版がアップロードされていました。現物を手に入れるのは難しい雑誌だけにこういった形でデータが公開されるのは助かります。