1916-1917 DVD 『ミスタンゲット:無声映画特選集』(2016年、LCJ出版社)

Mistinguett : 3 chefs-d’oeuvres du cinéma muet
(2016, LCJ Editions & Productions)

戦前フランスで活躍し「ミス(la Miss)」の愛称で親しまれた舞台パフォーマー、ミスタンゲット。「ミス」は略称であると同時に英語の”ミス”でもあって、こと彼女に関しては「お嬢」と訳したくなる雰囲気を含んでいます。舞台デビューは19世紀末までさかのぼりその後ミュージック・ホールを中心に人気を博していくのですが、移ろ気で口の悪い愛好家も少なくない業界で長きに渡って愛されてきた例外的な芸能人でした。

初期映画界との接点も深く1908年にパテ社短編で映画デビュー、リガダン物喜劇や1914年版『噫無情(レ・ミゼラブル)』にも出演。1916年~17年の主演作3本をまとめたのがこのDVDセットです。以前に触れたように2018年に東京大学で「ミスタンゲットを発見せよ―フランス・サイレント映画の夕べ」が開催されており、その時に上映された『金髪のシニョン』が含まれています。

舞台女優ミスタンゲットの手元に次作の脚本が届けられた。「金髪のシニョン」とあだ名される町娘を演じる予定で、役になりきるためそれらしく扮装して場末の酒場に乗り出してみた。そこで出会ったのは胡散臭い3人組の男。誤って貴金属を身に着けたままだったのを気づかれ、ミスタンゲットは男たちに追われる羽目となつた…

『金髪のシニョン』(Chignon d’or, 1916, 51分)


お針子として働いていたマルゴは仕事帰りに同僚とミュージック・ホ-ルに足を向けた。「あんたって花形女優のミスタンゲットにそっくりだよね」。マルゴは自分とそっくりな女優に熱を上げ夜遅くまで舞台にかじりついていた。厳格な父親には理解されず、家出したマルゴは張り子の仕事を失い通りの花売りとなつた。ある日、そんなマルゴに偶然に目を止めたのがミスタンゲットの彼氏ポッジであつた…

『巴里の花』(Fleur de Paris, 1916, 43分)


女探偵として知られるミスタンゲットは激務の合間に婚約者ジャンとの束の間の逢瀬を楽しんでいた。ジャンは諜報機関に属しており、敵国の潜水艇の動きを調べるべく南仏ニースへと向かった。だがジャンの動きは敵に見ぬかれ、罠に落ちた男は銃撃を受け重傷を負う。電報でその知らせを受け取ったミスタンゲットは鳥打帽の男に変装し、単身で敵のアジトに侵入を試みる…

『女探偵ミスタンゲット』(Mistinguett détéctive, 1917, 30分)

『金髪のシニョン』は下町犯罪物とハリウッド製連続活劇を混ぜた発想で、ヒロインが屋根伝いに敵から逃れたり地下室で炎に巻かれるなどアクションの要素を強調。『巴里の花』はコミカルな調子で始まりつつ、次第に「人違い(quiproquo)」のドラマが展開し最後はメロドラマとして閉じていきます。『女探偵』は敵国の諜報活動をミスタンゲットが撃退する物語で第一次大戦下の愛国主義の空気も反映しています。

3作いずれも監督はアンドレ・ユゴン。1920年代作品(『カマルグの王』)の9.5ミリ版紹介で触れたようにパテ、ゴーモン、エクレール社の大手と距離を置き、自社で映画製作を行った仏インディ映画監督のさきがけでもあります。作品で個性を主張するタイプではなく、職人肌でかっちりした娯楽作をまとめるのを得意としていてこのDVDセットでもその実力を再確認することができます。

[原題]
Mistinguett : 3 chefs-D’oeuvres du cinéma muet

[出版年月日]
2016年7月15日

[出版者]
LCJ出版社(LCJ Editions & Productions)

[EAN]
3550460051502

[再生時間]
120分

[フォーマット]
18.03 x 13.76 x 1.48cm 83.16g

ミスタンゲット Mistinguett (1873 – 1956) 仏

フランス [France]より

Mistinguett Autographed Postcard

Mistinguett Autographed Postcard

2018年12月、東京大学で『ミスタンゲットを発見せよ――フランス・サイレント映画の夕べ』が開催されていました。1910年代の短編3本に弁士の語りを加えた内容で日本でも無声映画女優としての彼女にスポットが当たったのは喜ばしい出来事でした。

公私ともに付きあいのあったモーリス・シュヴァリエと並び、ミスタンゲットは1920~50年代のフランス下町文化を代表する位置付けです。日本で言うと昭和レトロに近い懐かしさを覚える世界がフランスにもあって、そこにミスタンゲットの姿と歌声が含まれている訳です。下町っ子らしい、気さくで、愛嬌と温かみを感じる「粋」が彼女の持ち味です。

[IMDb]
Mistinguett

[Movie Walker]


[出身地]
フランス (アンジャン=レ=バン)

[誕生日]
4月3日

[データ]
Edition artistique de WALERY, photographe. 9 bis, rue de Londres, Paris

« A Gabrielle Marrodin
souvenir,
Mistinguett »
ルーマニアのヴァスルイ在住のガブリエル・マロディン嬢宛

[サイズ]
8.9 × 13.8 cm

1922 – 9.5mm 『カマルグの王』(アンドレ・ユゴン監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

魔法をつかふ一人のボヘミアの女がルノ婚約女であるリヴエットに或る運命を告げました。所がその勇氣と武功とから人々の賞讃を得た傲慢なルノーはカマルグ王の綽名を受けたのであります。而してリヴエットを怖れさせた魔法つかひを罸しやうと思ひました。併しそのボヘミアの女に出會つた彼はその女から發する不思議なチヤームに捕へられたのであります。でその眼の權威とその輝やくほゝ笑みから彼女はルノーに泥地の眞中の一軒家であひゞきを約束しました。とその婚約者の裏切りを知らされたリヴエットは不實ものに出會ふべく同じ場所へと赴いたのであります。けれどルノーは人々が踏込むたゞ一つの淺瀬を示したその標示杭を變へたのであります。それでリヴエツトは彼女を葬むつた泥水よりも尚一層ルノーの裏切りから死んだのであります。この立派なドラマのその感動させる演出の所作にプロヴアンスの美しき空がまた詩的なありさまを加へます。

『パテーベビーフヰルム 解説書 No. 1』
(大橋善次郎編集・出版、1926年)

1890年に公刊された地方色の色濃い運命劇をアンドレ・ユゴン監督が自身の脚本を元に映像化した一作。ゴーモン=パテ社アーカイヴに35ミリを元にした一時間版が現存。

冒頭から西部劇風の世界が展開し驚かされますが、南仏カマルグに伝わる独自の土着文化を元にしたものです。二枚目俳優として人気のあったシャルル・ド・ロシュフォールが「カマルグ王」を演じ、若手女優として台頭していたエルミール・ヴォーティエがヒロイン役、呪術的な力を持つ流浪の女にクロード・メレルを配しています。

アンドレ・ユゴンは大手制作会社と一線を画した独立系/仏インディ系映画監督の祖に位置づけられる人物です。ユゴン映画社製作による本作は宿命劇、土着風味やメロドラマの要素を上手く絡めて要を得た作品に仕上がっています。

本作の特徴としてはあまり強調したくないのですが、『カマルグの王』はフランスで初めて長編劇映画に女性の全裸を登場させた作品になるのではないかと思われます(9.5ミリ版ではカット)。1920年代のフランスの規制はアメリカや日本に比べて緩く、濡れ場とは違う、文脈に沿った裸体は許容される傾向にありました。倫理規制の強い時代ですし、原作に基くとは言え当時も賛否両論あったと思われます。それでも商業的リスクの大きいチャレンジに取り組む辺りが大手の監督とはやはり異なった姿勢となっています。

9.5ミリ版は1924年発売。早い時期に絶版になったタイトルで今回入手したフィルムもほぼ一世紀前のものとなります。1/4程に切り詰められていてもオリジナルの良さをある程度伝えているのかな、と。脚本の完成度、演技・演出の質も高く1920年の『労働』(アンリ・プクタル監督)、1919年の『恋するスルタン』と並び1920年前後の仏映画を代表する隠れた名作の一つです。

[公開年]
1922年

[IMDB]
Le Roi de Camargue

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
692

[9.5ミリ版発売年]
1924年

[フォーマット]
9.5mm 無声 10m×6巻

映写機用レンズの肖像 [09]: 独メイヤー・ゲルリッツ社 キノン・スーペリアー I f=25ミリ

Meyer Görlitz Kinon Superior I F=25mm Projection Lens from Eumig P3 8mm Silent Projector

以前にf=20mm40mmの2本を紹介した独メイヤー・ゲルリッツ社の映写機用レンズ「キノン・スーペリアー」の25mmを手に入れることができました。3群4枚のペッツバール型。1930年代中盤に市販されていた墺オイミッヒ社の8ミリ映写機P3についていたものです。

映写機は配線が大きくいじられていて現状で動かないのですが、スイッチ類を変えれば使えそうな気配もあってレストアするかどうか思案中。ひとまず先にレンズの写りを試してみました。

前回同様にイハゲー社の金属製エクステンションチューブ一部を流用し、3Dプリンタで作成した樹脂リングをかませる形でExaktaマウントに変更、さらにマイクロフォーサーズに変換してミラーレスカメラに取り付けていきます。

外出ついでに試写してみたのが下のサンプル画像2枚。

f=20mmと同じくイメージセンサーより若干小さく映るため四隅がケラレています。コーティングされていない戦前レンズで逆光に弱いものの、点光源が多い被写体を選ぶと強いグルグルボケが発生。

白黒フィルムを前提に作られているにもかかわらず色の立ち具合の強いレンズでもあります。レンズ中央で色味の強い対象を捉え、周辺(今回は左半分)に点光源を置くと面白いアウトプットになります。

1952年頃のメイヤー社カタログより。キノンに関しては1.8/35mm、1.8/50mm、1.8/65mm、2.2/65mm、1.6/105mmの5種類を掲載。20mmや25mm辺りの短い焦点距離は戦後作られなくなっていたのが分かります。

試写に使用したマイクロフォーサーズのセンサーサイズであればf=25~35mmで十分な気がしました。センサーサイズの大きなカメラで使うなら50~65mmを見つけたいところです。

ラヴィニア・ウォーレン Lavinia Warren (1842 – 1919) 米 & プリモ・マグリ伯爵 Primo Magri 伊

小人症映画小史(03)

Lavinia Warren (aka Mrs. General Tom Thumb aka Countess Lavinia Magri) & Count Primo Magri
1909 Autographed Postcard

1900年代初頭、ラヴィニアとマグリ伯爵は夏になるとニューヨークのコニーアイランドにある「小人の町・リリプティア」に出演するようになった。リリプティアはいわゆる「小人の町」で、町としての機能を完全に残しつつもサイズ感だけを縮小しつつ、あちこちのサーカスや見世物小屋から雇い入れた小人症パフォーマー300余名が不自由なく生活できるようになっていた。

コニーアイランドを離れた後、ラヴィニアとマグリ伯爵はハリウッドへと足を伸ばした。新進著しい映画産業の中心地として東海岸に取って代わった直後の時期である。1914年にラヴィニアとマグリ伯爵は無声映画作品『小人求婚譚』に出演。ラヴィニアは『プチ婦人』、伯爵は『ノミ伯父さん』役を演じていた。

マグリ伯爵と再婚していた時期ですら、ラヴィニアはもっぱら親指トム将軍の未亡人として知られていた。ラヴィニア自身、トム将軍の名前の響きが備えた抗いがたい力を熟知していたのである。写真に「ラヴィニア・マグリ伯爵夫人」とサインする時も、「親指トム将軍夫人」と書き添えることが多かった。

『親指トム将軍:ある小人男の驚くべき真実のストーリー』
(ジョージ・サリヴァン著、2011年)

[…] early in the 1900s, Lavinia and the Count began to spend their summers as performers at « Lilliputia » at New York’s Coney Island. Lilliputia was a « midget city », a complete village scaled in size to accommodate some 300 dwarfs who had been hired awar from circuses and carnival sideshows. […]

After Coney Island, Lavinia and the Count traveled to Hollywood, which had recently replaced the East Coast as the center of the fast growing movie industry. In 1914, Lavinia and the Count appeared in The Lilliputians’ Courtship. a silent film. Lavinia was cast as « Lady Petite », the Count as « Uncle Tiny Mite ». […]

Even during the time she was married to Count Magri, Lavinia was generally known as Tom Thumb’s widow. She well knew the drawing power of Tom’s name. […] And while she signed souvenir photographs as « Countess Lavinia Magri, » she frequently added « Mrs. General Tom Thumb. »

Tom Thumb : The Remarkable True Story of a Man in Miniature
(George Sullivan, Clarion Books, 2011)

1842年米マサチューセッツ州生まれ。教職を本業とし、舞台で歌や楽器演奏を副業としていた時期にスカウトを受け芸人として独立。P・T・バーナム主催の巡業公演中に知り合った親指トム将軍(本名チャールズ・ストラットン)に見初められ1864年に結婚。婚礼の様子は大々的にメディアで取り上げられ、リンカーン大統領主催によるホワイトハウス歓迎会に招待されるなど当時最も知名度の高い小人症パフォーマーの一人となりました。本邦での知名度は高くありませんが日本語版ウィキの「小人症」でトップに置かれている無名の写真はラヴィニアさんの肖像です。

親指トム将軍とラヴィニア・ウォーレン婚礼の様子を
撮影したキャビネット写真(19世紀後半、個人コレクション)

1904年、コニーアイランドに大型アミューズメントパーク「ドリームランド」が建設された際、その人気企画となった小人の町・リリプティアに参加。1910年代後半に表舞台を退き夫と共に飲食店の経営を行い1919年に亡くなっています。

『コニーアイランドの歴史』(History of Coney Island, William Reynolds, NY: Burroughs & Co., 1904)より

最晩年に夫のマグリ氏と共に映画に出演。1915年に米ミューチャル社から配給された『小人婚活譚』(The Lilliputians’ Courtship)でフィルムは現存しておらず、姿が記録された動画は存在していないようです。

今回入手したのは1909年にパリで開催されたイベント「リリパットの小人王国」に参加した際の絵葉書。夫マグリ氏との連名サインが残されています。

[IMDb]
Lavinia Warren

[Movie Walker]


[出身地]
合衆国(マサチューセッツ州ミドルボロ)

[生年月日]
10月31日

1914 – 9.5mm 『小人たちの王国 対 巨人国の王ギガス』 (1914年、仏、フェルディナン・ゼッカ)仏パテ社プリント

小人症映画小史(01)

Le Royaume nain de Lilliput contre Gigas le long, prince des géants (1914, Pathé, dir/Ferdinand Zecca) Mid 1920s French Pathé 9.5mm Print

小人国の宮廷で皇女ピッコリーナの婚約が発表された。皇女に横恋慕していた巨人国のギガス王(モーリス・シュヴァリエ)はこの知らせに激怒し姫の拉致を命ずる。新郎新婦の披露の場に向かおうとしたピッコリーナ姫は、巨人族の者たちによって馬車ごとかどわかされてしまう。

求婚したギガス王に返ってきたのは厳しい平手打ちであつた。王はピッコリーナを石牢に幽閉し心変わりを待つ。一方小人国は巨人国に宣戦を布告。皇女を奪還するため軍隊が出動し敵国へと進んでいく。

小人軍の攻撃に巨人族は総崩れとなった。ギガス王は囚われの身となり、牢から救出されたピッコリーナ姫の前に引き出される。兵たちはギガスの処刑を望むのだが慈悲深いピッコリーナはその助命を命ずるのであった。

1914年に公開された短編で、フランス初期映画に貢献の大きいフェルディナン・ゼッカ監督に帰されている一作。GPアーカイヴに15分弱の35ミリ版が現存。9.5ミリ版は2/3に短縮されたもので前半に一か所GP版に存在していない場面が含まれています。

このフイルムの連續は十八世紀に於ける生活の凡ての形ちをもつた腐敗の説明を與へてゐます。スイフトの不朽の傑作ガリヴアーの旅行は 我々を架空の國の中へと運んで行くので、其處には凡ての物が大きさを縮め 世界での最も小男達が巨人の勝利者となるのであります。

「リリツプユの王國」
(『パテーベビーフヰルム 解説書 No. 1』、大橋善次郎編集・出版、1926年)

当時9.5ミリ版は日本にも輸入され流通していました。大橋氏はタイトルを直訳し「リリツプユの王國」として紹介。フィルムを卸していた三友商会のカタログでは「小人國と大人國の戰爭」となっています。ヤフオクでは後者のタイトルで売られているのを見た覚えがあります。

この映画は1909年にパリで開催された屋外型娯楽イベント「リリパットの小人王国」から派生してきたプロジェクトでもありました。フィルムにクレジットはされていませんが主演は同イベントに参加していたドイツのツーシュケ小人一座。敵役のギガス王に(後に国際的スターとなる)若き日のモーリス・シュヴァリエが配されています。

ツーシュケ小人座(Tschuschkes Liliputaner-Truppe)の集合写真をあしらった1913年頃の絵葉書(個人コレクションより)。フィルムとの対応を下に示しておきます。

また作品途中にパイプを手にしたぽっちゃり型の王国民が登場。「トルコの一寸法師」として知られた小人症のピン芸人、ハヤティ・ハッシド(Hayati Hassid)氏です。

Hayati Hassid, « the Turkish Tom Thumb »
1909 Autographed Postcard

身体障碍(disability)と表現をめぐる近年の研究で指摘されているように初期映画で小人症の役者は「個人」として認められていませんでした。わずかな例外(仏デルファン、マルヴァル、米ハーバート・ライス、ハリー・アール)を除くと役者名のクレジットがないため映像が残っていても誰か分からないケースが目立つのです。そういった欠落を埋め、不均衡を是正していくのも後世の役割ではないかなと思います。

[IMDb]
Le royaume nain de Lilliput contre Gigas le long, prince des géants

[Movie Walker]


[公開]
1914年1月2日

[9.5ミリ版タイトル]
Royaume de Lilliput

[カタログ番号]
198

[フォーマット] 10m×7、ノッチ有、白黒無声

1917年頃 仏エクレール社 業務用貸出フィルムカタログ

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Victorin-Hippolyte Jasset]」より

c1917 « Extrait du catalogue des films en location » (Union/Films Eclair)

『ジゴマ』や『プロテア』で成功を収めた仏エクレール社が業務用(個人ではなく映画館向け)に配布していたカタログ。サイズは縦21.0×横13.5センチ。計20ページで、メモ用の罫線が引かれた最後の2ぺージ以外の18ページが作品目録に割かれています。

表紙には社名、タイトル、所在地、電報番号、電話番号が記載されており、開くとすぐにカタログが始まります。「劇映画」として199作、「喜劇」124作、「お笑いと舞台芸」100作、「ドキュメンタリー」108作の4つのカテゴリーに分けられており、計531本のフィルムがリストアップされていました。

カタログの一番目立つ最初に置かれているのはジャッセ監督による『ジゴマ』第一篇と第二篇。その後も『プロテア』などジャッセ作品を中心としたリストが続き、同監督がエクレール社の花形監督だった様子が伝わってきます。

ちなみに『プロテア』に関しては

「プロテア 第1篇 ……… 1,475
 プロテア 第2篇 ……… 1,315
 プロテア 第3篇 ……… 2,031
   -     ……… 1,710
   -     ……… 1,330」

という書き方になっています。これはプロテア第3篇が3話物として公開された状況を受けたものです。

また「劇映画」欄の後半にはシャーロック・ホームズ・シリーズをまとめて掲載。1912年にジョルジュ・トレヴィル監督主演で製作されたもので、数作(「マスグレーヴ家の儀式」「ぶな屋敷」)が現存しています。

続く「喜劇」の項目では、同一主人公によるシリーズ物が多く紹介されていました。「ウィリー少年物」が一番本数が多く(23作)、そのあとにゴントラン連作、ガブロッシュ連作、カジミール連作…と続いていきます。

作品の公開時期に目をやると1917年9月に公開された『プロテア』第4篇は載っていないのに対し、それ以前に製作・公開された『プロテア』第1〜3篇が掲載されています。その他の作品も1917年春公開の作品まで掲載(1917年5月公開『黒大尉 Le Captaine noir』、1917年4月公開『見えない死 Le Mort invisible』)。1917年半ばに製作・配布されたカタログだと思われます。

EYE映画博物館 ジャン・デスメット・コレクション収蔵の初期エクレール社喜劇短編

『ジャン・デスメットと初期オランダのフィルムトレード』(Ivo Blom著、2003年、アムステルダム大学出版)

『ジャン・デスメットの夢工場:映画フィルム冒険時代 1907-1916』(EYE映画博物館編、2015年、 nai010出版社)

20世紀初頭に映画配給者として活動していたジャン・デスメット(Jean Desmet)氏の35ミリフィルム・コレクションは現在ユネスコの記憶遺産に指定されています。現在フィルムはオランダのEYE映画博物館が管理していて同組織のYouTube公式でデジタル版を見ることが可能です。

コレクションには仏エクレール社の作品も多く含まれています。その中で同社が制作していた喜劇短編を整理してみました。

1:ウィリー少年物

英リヴァプール出身のウィリー君(本名 William Jackson)を主演に据えたジュヴナイル・コメディ。小憎らしい表情を浮かべた少年が様々なシチュエーションでドタバタと笑いを引き起こしていく内容で、ゴーモン社の「ベベ」シリーズ(ルイ・フイヤード監督)と人気を競っていました。

『ウィリー少年と老求婚者』
(Willy et le vieux soupirant、1912) IMDB/YouTube

『管理人の王ウィリー』
(Willy roi des concierges、1912) IMDB/YouTube

2:ゴントラン物

カイゼル髭を生やしたゴントラン君を主人公に据えた連作で、主演はルネ・グレアン(René Gréhan)。他シリーズに比べ攻撃性や破壊力は控えめで、展開にロマッチック・コメディの要素を含んでいます。

『ゴントラン君と麗しき謎の隣人』
(Gontran et la voisine inconnue、1913) YouTube

3:ガヴロッシュ物

破天荒な太眉キャラでエクレール喜劇の中心となっていたのがポール・ベルト(Paul Bertho)でした。初期作品でぽっちゃり系喜劇女優サラ・デュアメルとの共演で息の合った凸凹ぶりを見せています

『ガブロッシュ君の画伯』
(Gavroche peintre célèbre、1912) IMDB/YouTube

『ガブロッシュ君の遊園地』
(Gavroche au Luna-Park、1912)IMDB/YouTube

『ガブロッシュ君の傘屋』
(Gavroche vend des parapluies、1913) IMDB/YouTube

『ガブロッシュ君の狩猟夢』
(Gavroche rêve de grandes chasses、1912) IMDB/YouTube

『ガブロッシュ君の玉の輿』
(Gavroche veut faire un riche mariage、1912) IMDB/YouTube

『ガブロッシュ君とカジミール君の肉体改造』
(Gavroche et casimir s’entrainent、1913) IMDB/YouTube

映画史上に残る作品ではないもののいずれも及第点以上の出来映え。

米語には「忘れられた喜劇俳優(Forgotten Clowns)」の呼び方があって、戦前期の無名の喜劇役者を一括で評価していく動きを見ることができます。ごく一部にコレクターが存在、略歴や作品データをまとめた書籍が公刊されていたりするのです。

実際はそういった動きが始まってすらいない国の方が多いわけで初期エクレール喜劇についても正当な評価にはまだ時間がかかりそうです。それにしても、かつて無声映画祭の特別企画でしか見ることのできなかった作品が当たり前のようにYouTubeで公開されている状況は驚くべきものがあります。

ロー・ホール Loo Holl と『武士道』(東亜キネマ、1926年、H・K・ハイラント&賀古残夢)

Loo Holl c1920 Autographed Postcard

日本とドイツが共同制作し、1926年に公開された映画「武士道」のフィルムがロシアで見つかり、9月の第4回京都映画祭で特別上映されることになった。日本で最初の本格的な国際合作映画とみられる。

日本最初の国際合作を発見/1926年映画「武士道」
四国新聞 2004年8月11日付

2004年、邦画史上初めての国際合作作品となる『武士道』(1925年)が発見され、京都映画祭で上映されることになったというニュースが報じられました。東京国立近代美術館フィルムセンター(当時)研究員の常石史子氏を中心として1996~2004年に行われたロシア・ゴスフィルモフォンドの調査および収蔵作業(NFCニューズレター 2005年6-7月 第61号PDF)による成果のひとつです

日本側では東亜キネマが制作の中心となり、賀古残夢監督が現場を回す形で作業が進められていきました。出演は明石潮と岡島艶子。本作で「日本」がどう描かれていたかについては立命館大学のアート・リサーチセンターのサイトに報告がありますので興味のある方はご参照ください。

ドイツでは邦題をそのままアルファベット表記した「Bushido」として公開されました。

専門誌の様々な記事で伝えられているように、ハインツ・カール・ハイラント氏は日本で時代劇映画を作り上げた。日本の映画会社東亜キネマが共同で製作に当たった。監督は賀古残夢氏。主演はロー・ホール、カール・W・テティング、岡島艶子、明石潮の四氏。現時点でドイツ版が公開中。

独キネマトグラフ誌 1926年3月 第994号

Wie durch verschiedene Artikel in den Fachzeitungen bekannt geworden ist, fertigte Heinz Karl Heiland in Japan einen historischen Film an, und zwar mit Unterstützung der Toa Cinema Co., eines japanischen Fiimkonzerns. Die Regie führte Zanmu Kako. die Hauptrollen sind besetzt mit Loo Holl, Carl W. Tetting, Tsuyako Okazima und Ushio Akashi. Die deutsche Bearbeitung liegt nunmehr vor.

« Einsendungen aus der Industrie »
Der Kinematograph, Nr. 994 (1926 March Issue)


独キネマトグラフ誌1927年5月1056号に
掲載された粗筋紹介ページ(右半分)

共同監督として名を連ねているハインツ・カール・ハイラント(Heinz Carl Heiland)は元々旅行家兼エッセイストで、第一次大戦前に映画監督として業界に参加してからも異国情緒を重視した設定を得意としていました。戦後、自身の名を関した制作会社を立ち上げ、女優ロー・ホール(Loo Holl)をヒロインに据えた作品を多く発表していきます。

ロー・ホールは『武士道』と同時期に日本で撮影された『白い藝者』(ドイツ=デンマーク合作、1926年公開)でも主演エヴァ役を担当。日本を訪れたドイツ人技師が芸者と恋に落ちて…の展開は蝶々夫人に影響を受けた感じでしょうか。初期邦画に縁のあった女優さんのサイン絵葉書を日本にお迎えできるのは光栄です。

リリー・ヤコブソン (Lilly Jacobsson/Jacobson 1893–1979) スウェーデン

Lilly Jacobsson c1920 Autographed Postcard

スウェーデン出身、1911年にスヴェンスカ・ビオグラフテアーテン社短編映画の端役で女優デビュー。その後デンマークのノルディクス社に籍を移し、1910年代後半の北欧映画を代表する花形となりました。目鼻立ちのくっきりした北欧美人で当時の人気も納得ながらお人形さんの扱いに辟易し1910年代末に結婚と共に女優業引退を表明。

それを惜しいと思ったのが共演の経験もあるアスタ・ニールセンでした。自身が制作の中心となった大作『女ハムレット』(1921年)のオーフィリア役をオファーします。ハムレットへの淡い恋心が混乱に、狂気に変わり、自死で果てていく難しい役柄を見事にこなしました。

『マハラジャ最愛の妻』(Maharadjahens yndlingshustru 、1917年)より

『國民の友』(Folkets ven、1918年)より(右)

Lilly Jacobson & Gunnar Tolnaes in Himmelskibet (1918)

『エクセルシオール号/火星への旅』(Himmelskibet、1918年)でのヤコブソンとトルナエス

Lilly Jacobson in Hamlet (1921)

『女ハムレット』(Hamlet、1921年)より

今回入手したのは『マハラジャ最愛の妻』(1917年)のスチルをあしらった絵葉書。「リリー・ヤコブソン・エドワーズ (Lilly Jacobsson Edwards)」とサインしているため1919年にコーベット・エドワーズ氏と結婚した後のサインになると思われます。

[IMDb]
Lilly Jacobson

[Movie Walker]
リリー・ヤコブソン

[出身地]
スウェーデン(ヨーテボリ)

[生年月日]
6月8日

1933 – 9.5mm 『嵐の孤児』(パテ・ナタン社、モーリス・トゥールヌール監督) 英パテスコープ社無声版

Orphans of The Storm (« Les deux orphelines », 1933, Pathé-Nathan, dir/Maurice Tourneur) UK Pathescope 9.5mm Print

戦前フランスを代表する監督の一人、トゥールヌールによる『嵐の孤児』(1933年)の9.5ミリ版。元々トーキーとして公開されたものですがこちらは英語字幕埋めこみ版となっています。プリント状態が悪く全体に傷が目立ちます、ご了承ください。

『嵐の孤児』は革命期のフランスで生き別れとなった姉妹の運命を描いたメロドラマで、映画化作品としては1921年の無声版(グリフィス監督、リリアン&ドロシー・ギッシュ主演)がよく知られています。元々1870年代に戯曲として書かれた作品が後年小説化されたもの。グリフィス版は小説を下敷きとしつつ独自要素を多く加えていて、後半はほとんどオリジナルの展開となっていました。

ルネ・サンシール
(Renée Saint-Cyr as Henriette)

トゥールヌール版で姉アンリエットを演じたのはルネ・サンシール。戦後まで長く活躍された女優さんで、個人的にも晩年に出演した喜劇作の芸達者ぶりで記憶によく残っています。『嵐の孤児』は彼女の映画初主演作で、全盛期のダニエル・ダリューに肉薄する演技を見せています。

ジャン・フランセイとレジーヌ・ドレアン
(Jean Francey as Pierre & Rosine Deréan as Louise)

盲いた妹ルイーズを演じたのはロジーヌ・ドレアン。サッシャ・ギトリやマルク・アレグレ監督の戦前作品で活躍、化粧の仕方もあってルネ・サンシールと並ぶとリアルな姉妹感があります。

トーキー定着で俳優の入れ替えが進んでいた時期に新進女優のキャスティングに成功した一作ながら見どころは他にもあります。『嵐の孤児』には市中で拉致してきた盲目の少女(ロジーヌ・ドレアン)を物乞いにして日銭を稼がせる「貧困ビジネス」物語が含まれていました。元締めのラ・フロシャールという中年女性が登場するのですが、トゥルヌール版『嵐の孤児』ではこの女性のインパクトが姉妹の可憐さを上回っています。

イヴェット・ギルベール
(Yvette Guilbert as La Frochard)

強欲で憎々しいラ・フロシャールを演じたのはイヴェット・ギルベール。ムルナウの『ファウスト』でも存在感を見せていた戦前フランス演芸界の大物、彼女の映画女優キャリアでベストの演技になるだろうと思われます。他にも脇役で無声映画時代からのベテラン(カミーユ・ベール、ガブリエル・ガボリオ、エミー・リン)が多く出演しており演技の質全体を底上げしています。

1933年はフランスでも不況の影響が如実に表れてきた時期でした。トゥルヌール版『嵐の孤児』は小規模予算で製作されており、セットや衣装の華やかさではグリフィス版に相当見劣りします。一方で装飾がないために演技や照明・構図の重要性が否応なく増すという話でもあって、トゥルヌールの卓越したセンスが(後年のより大掛かりな作品以上に)伝わってきやすい一作になっています。

[タイトル]
Orphans of The Storm

[原題]
Les deux orphelines

[公開年]
1933

[IMDB]
Les deux orphelines

[Movie Walker]


[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB 30165

[9.5mm発売]
1935年11月

[フォーマット]
9.5mm 白黒無声 100m×4巻 ノッチ無 英語字幕

1919 – 『嵐の孤児』& 『黒き仮面の淑女』他 、クロアチア映画社販促用ポストカード + 出演者サイン入り絵葉書

Dvije sirote (1919, Croatia Film, dir/Alfred Grinhut) & Dama sa crnom krinkom (1918, Croatia Film, dir/Robert Staerk) 9 Promotional Postcards

フィルムの現存数が少なく紙資料へのアクセスが難しい。初期映画を扱っている者にとって東欧は未だ鬼門に当たっています。

旧ユーゴスラヴィア構成国の一つクロアチアでは1917年に初の映画製作会社「クロアチア映画社」が設立。劇映画とドキュメンタリー作品数本を残して1920年に活動を停止しておりフィルムは全て遺失したとされています。同社作品の幾つかについては配給元のユーゴスラヴィア映画社との連名で販促用絵葉書が市販されていました。25までの連番が付されたセット物で英語圏では「ユーロピアン・フィルムスター・ポストカード」が同シリーズのオンライン紹介記事を残しています。

今回9枚を入手、このうちの4枚を占める『嵐の孤児』を紹介していきます。

同作はグリフィス版が公開される3年前に制作されたもので、1919年にザグレブで公開されています。ヒロインを演じたのはゾルカ・グルンド(Zorka Grund)。舞台俳優、映画監督として知られるアルノシュト・グルンドの娘に当たります。

ユーロピアン・フィルムスター・ポストカードでは「絵葉書ベースで推察するに、ゾルカ・グルンドが妹ルイーズと姉アンリエットの一人二役を演じたのでは(On the basis of the postcards, it seems that Zorka Grund played both Louise and Henriette.)」の仮説を立てています。確かに絵葉書を見ると貴族風の衣装をまとった写真(上段2枚)と、市民風の慎ましい姿(下段2枚)の2種類を確認できます。

しかし医者から告げられたのは決して口外できない恐ろしい話だった。数か月後ディアンヌ・ド・ボードリー孃は母になる、と云ふのであつた。

『二人の孤児』
アドルフ・デヌリー(1887-1889 連載小説版)

Mais un terrible mystère lui fut alors secrètement révélé par le médecin : Dans quelques mois, mademoiselle Diane de Vaudrey allait devenir mère!… (p.28)

Les Deux Orphelines
Ennery, Adolphe d’
(d’après le drame de MM. Adolphe d’Ennery et Eugène Cormon. 1887-1889.)

ところが物語と照合していくとどうも違うようなのです。『嵐の孤児』原作では貴族の娘ディアンヌが父の意向でリニエ伯爵に嫁ぐ前、初恋の男性との間に子供を宿してしまい、生まれたばかりの赤ん坊をこっそり里子に出す場面があります。この子供がルイーズで、引き取られた家の娘アンリエットの妹として育てられる…という設定です。赤ん坊を前にしたゾルカ・グルンドのショットはこの場面に対応。若き日のディアンヌ(後のリニエ伯爵夫人)と娘のルイーズの二役を務めていたが正しい解釈になるのかなと思われます。

そうすると姉のアンリエットを演じていた俳優が分からなくなります。絵葉書にアンリエットの登場場面が一枚もないため断定はできないのですがシリーズ連番の25番で紹介されている女優「Štefa Kostinčer」の可能性が高いのではないかと。

映画産業が勃興した直後であり、当時のクロアチアにまだ映画専属俳優はおらず、出演しているのは皆キャリアを積んだ舞台俳優たちでした。

ディアンヌ・ド・リニエ伯爵夫人は教会前の石段を下りかけて足を止め、盲いた少女を同情の目で見つめた。

Mais Diane de Linières, au moment de descendre, s’était arrêtée sur les marches, et regardait avec compassion la jeune aveugle. (p.530)

ibid

この絵葉書では3名の女優が並んでいます。貧困ビジネスの元締めであるラ・フロシャール(左端)が、盲目の少女ルイーズ(中央)を教会前で歌わせて物乞いさせていると 、教会から出てきたリニエ伯爵夫人(右端)がその姿に親近感を覚え、実の娘とは知らずに声をかける場面です。悪女ラ・フロシャールを演じたのはミリシャ・ミヒチッチ(Milica Mihičić)、歳を取ってからのリニエ伯爵夫人をベテラン舞台女優ボグミラ・ヴィルハー(Bogumila Vilhar)が務めています。

Milica Mihičić, Bogumila Vilhar, Ivo (Ivan) Mirjev Autographed Postcards

クロアチア映画社版『嵐の孤児』に出演していた3名の俳優のサイン入り絵葉書。右端のIvo (Ivan) Mirjev氏のみ配役が特定できていません。いずれも舞台を主戦場としていた俳優で映画出演はキャリア上特筆すべきものではなかったようです。それでもこういった役者たちが初期クロアチア映画の立ち上げに貢献していた、と見えてきたのが大きな収穫でした。

[IMDB]
Dvije sirotice

[公開年]
1919

[Movie Walker]


[データ]
8.5 × 13.5cm。左下に制作会社クロアチア映画社のロゴ、右下に配給会社ユーゴスラヴィア映画社のロゴ有。

1957 – 9.5mm 『太平洋の怪獣ゴジラ』(『ゴジラ』仏編集版、東宝他) 1960年頃 仏フィルム・オフィス版

Godzilla (« Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique », Toho)
c1960 French Film Office 9.5mm Print

『ゴジラ』の日本初公開(1954年)から2年後の1956年、追加撮影された場面を加え設定を変更した編集版『怪獣王ゴジラ(Godzilla, King of the Monsters! )』がアメリカで公開されています。オリジナル版『ゴジラ』を英語字幕付きで正式に観ることができるようになったのは2000年代になってからで、それまでの欧米ではUS編集版を元にゴジラの受容・理解が進んでいったとされています。

実際には欧州でも国によってプリントの異同がありました。西ドイツでUS版は採用されず東宝オリジナル版を独自編集した版が公開されていました。フランスではUS版を再編集し完全吹き替え版とした『太平洋の怪獣ゴジラ(Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique)』が1957年にリリースされています。

今回紹介するのはこの『太平洋の怪獣ゴジラ』をベースにした9.5ミリ版です。仏フィルム・オフィス社が1958~62年頃に発売したもので100mリール4本構成、実写時の上映時間は50分程。音声は含まれておらず会話や説明が仏語字幕で画面に埋めこまれた形になっています。

US版は1)米国の観客が感情移入しやすくするため”語り部”となる米国人リポーター(レイモンド・バー)を導入し、2)当時の米国世論にそぐわない反核の要素を削除する、という二つの方針を軸に編集されたものでした。仏版ではこの版をベースとしつつも米国人記者の要素を減らし、時系列上の展開をオリジナルに近い形に戻そうとする傾向が見られます。

仏9.5ミリ版は大戸島の浜辺で物語が始まります。不漁が続き「呪いだ」「呉爾羅(ゴジラ)の仕業だ」と島民たちが噂しあうなか、ある夜民家が謎の理由で押しつぶされる災害が発生。国会で原因を調査する委員会が組織され、その会議の報告を傍聴する席に米国特派員スティーブ・マーティン(レイモンド・バー)の姿がありました。

古生物学者・山根(志村喬)の提言を受け調査団が派遣され、マーティンも同行します。放射能による汚染が確認され人々の警戒心が募る中、突如鳴り響いた半鐘。尾根の先に顔をもたげた怪獣が彷徨を轟かせ一帯はパニックに。

山根博士は撮影した写真を持ち帰り国会で怪獣の発生を報告、地元の伝承にちなみゴジラと名付けます。国会は自衛隊を派遣しゴジラ攻撃に乗り出していきます。一方山根博士の娘・恵美子(河内桃子)はかつての婚約者・芹沢(平田昭彦)から秘密裏に実験していた研究の話を聞かされます。

自衛隊による攻撃は失敗しゴジラは東京湾から上陸。品川駅を破壊し辺り一帯を焦土と化していきます。

非常警報発令。取材を行っていた建物が倒壊し逃げ遅れたマーティンは大怪我を負います。万策尽きたかと思える中、被害に心を痛めた恵美子は約束を破って芹沢の秘密を明かし首都を救おうするのでした…

仏フィルム・オフィス版は元となったUSプリントの影響もあって原水爆の言及は一切ありません。人間関係もできるかぎり省略されていて恵美子と萩原(宝田明)の恋模様、ゴジラに対する考え方の対立、市井の人々の反応といった要素は見えなくなっています。またUS版で主役だった米国記者マーティンは被災者の一人として扱われていました。

オリジナルの完成度と比べダウンスケール感は否めないものの約50分の短い尺でゴジラそのものインパクトを伝えたい意図は伝わってきます。1950年代にオリジナル版を直輸出しても理解されにくい部分が多かったでしょうし、ワンクッション置いて広く認知してもらう戦略はあながち間違いではなかったと思います。

ちなみに9.5ミリ形式フィルムは1920代半ばから70年代半ばまで約半世紀の歴史があるのですが、欧米圏(英仏米独)で9.5ミリ化された日本の長編映画は後にも先にもこの『ゴジラ』一作だけです。

[参照リンク]
Toho Kingdom [英語] … 東宝作品に関する情報交換掲示板でイタリア語版や仏語版についての情報・画像あり
Schnittberichte [ドイツ語] … 独版と東宝オリジナル版の比較検証
Cinemore: 『ゴジラ』 原点にして異彩を放つ第一作目【川原瑞丸のCINEMONOLOGUE Vol.57】 [日本語] … 海外版への言及がある訳ではないのですが要を得ていて面白かったです。


[タイトル]
Godzilla

[原題]
Godzilla, le monstre de l’Océan Pacifique

[公開年]
1957

[IMDB]
Godzilla

[メーカー]
仏フィルム・オフィス社

[フォーマット] 9.5mm 白黒無声 100m×4巻 ノッチ無

映写機用レンズの肖像 [08]: 独メイヤー・ゲルリッツ社 キノン・スーペリアー f=20ミリ

Meyer Görlitz Kinon Superior F=20mm Projection Lens

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
キノン・スーペリアーメイヤー・ゲルリッツ社ドイツ20mm不明不明1930年代中盤?ペッツバール型3群4枚64.6525.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット14.05.214.1メニスカス12.60.712.6

キノン・スーペリアーの焦点距離20ミリ。単体で購入したもので本来の映写機名は不明。

鏡胴部分が大きく全長は65ミリほどあります。根元にレンズのユニット本体をねじこんだ形で、レンズそのものは直径15ミリ弱、ユニット全体の長さも20ミリほどと思ったよりコンパクトなものでした。構成は焦点距離40ミリ同様3群4枚のペッツバール。

20ミリの焦点距離は撮影用レンズで言うと広角レンズに当たります。レンズ性能比較用に自作したシステムが広角寄りのレンズに対応しておらず実写のサンプルを撮れていないのですが、ひとまずミラーレスに載せて試し撮りをしてみました。

フランジバックの兼ねあいで四隅が大きくケラれました。とはいえこの形の方がレンズの特徴が見えやすいですね。

ドミプランやトリオプランと同様、ピントを外れた場所の点光源に玉ボケの出やすいレンズです。キノン・スーペリアーではグルグルボケの出方が強く、円い玉ボケがレンズの外周に近づくにつれ潰れて弧の形となり互いに重なりあうことで個性的な絵面になります。

角度を変えてもう一枚。中央奥の点光源が歪みのないバブルボケになっているのが分かります。トリオプランやドミプランなどで発生してくる玉ボケは、絞りに使用されるブレードの影響を受けて実際には六角形だったり十五角形だったりします。映写機用レンズには絞りの発想がない(=ブレードがない)ため綺麗な円になります。

本来の映写機用レンズとして使用する場合、横長の矩形部分でフィルムを映写することになります。四隅を中心に流れの目立つ画質になるのがこの写真からでも分かります。

今回独メイヤー社と仏エルマジ社のレンズを複数紹介してきました。どちらが優れている云々ではなくて、それぞれの会社が理想としているレンズ観が如実に表れていて興味深かったです。

映写機用レンズの肖像 [07]: 独メイヤー・ゲルリッツ社 キノン・スーペリアー I f1.6 40ミリ

Meyer Görlitz Kinon Superior I F1:1.6 40mm for Pathex 200B Projector (Mid 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
キノン・スーペリアー Iメイヤー・ゲルリッツ社ドイツ40mm1.6パテックス200B1930年代中盤ペッツバール型3群4枚64.6529.9
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット26.19.115.25メニスカス21.14.21.621.15.0

数々の個性派レンズ(トリオプラン、オレストール、テレメゴール…)で知られている独光学メーカー、メイヤー・ゲルリッツ社が映写機用レンズの主力として製造していたのが「キノン・スーペリアー(Kinon Superior)」です。こちらの個体は焦点距離40ミリ、1930年代半ばの独パテックス社200B映写機に付属していたものです。

この時期の標準だったペッツバール型3群4枚のレンズ構成。前玉がかなりがっしりしていて厚みもあります。

フィルムの映写作例では四隅まで光量が落ちず、中心部分で細やかな質感を再現できていました。ただし画面の中央に比較的近い所から放射状に流れるような動きが見られます。

ミラーレスにマウントして撮影してみました。

キノン・スーペリアーは絞り開放で使用した際に周縁部にグルグルとしたボケが出やすいレンズとして知られています。個性的な写真を狙っている愛好家が探している一本ですが、今回テストした40ミリはそこまで極端な結果は出ませんでした。強い点光源を中央付近に集めるとバブルボケ/グルグルボケがはっきり出てくるのですが、狙い過ぎた感じになるので今回は避けました。

このレンズに関しては後年の焦点距離50ミリが有名で、ミラーレスにマウントした作例が多く紹介されています。昨今の改造レンズブームで入手しにくくなっているものの同レンズを搭載したバウアー社パンタリュクス映写機(Bauer Pantalux)が時折安く中古市場に出てくるので探している方はその辺が狙い目だと思います。

映写機用レンズの肖像 [06]: 仏エルマジ社 マジステール F1.9 45ミリ

Hermagis Magister F=1.9 45mm for Paillard Bolex Type DA Projector (Mid 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
マジステール仏エルマジ社フランス45mm1.9ボレックスDA型1930年代中盤ペッツバール型3群4枚46.025.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット20.08.0メニスカス22.54.60.522.44.0

パイヤール・ボレックス社の9.5ミリ/16ミリ両用DA型映写機に付属していたレンズ。同映写機はF1.9の40ミリを装備していたD型のアップデート版に当たります。鏡胴の形は他のマジステールとは異なるものの、レンズ構成はペッツバール式で変更はありません。

9.5ミリフィルムを実写してみたときのサンプル画像がこちらです。F1.6/40ミリとF1.9/40ミリがやや褐色気味の柔らかい描写をしていたのと比べ、F1.9/45ミリは彩度が低く、かっちりした印象の絵を返してきます。

ミラーレスにマウントした接写作例。被写体深度はやや深めでピントあわせがしやすいです。彩度が低いため「枯れた」感じの渋いアウトプットになりました。ピントがあっている部分の解像度はF1.9/40ミリより一段階高いものとなっています。

焦点距離40mmを装備しているボレックス社のD型映写機は250ワット光源での映写を前提とした一台です。焦点距離45mmを装備しているDA型は400ワットのランプで映写する形にアップデートされていました。無理に明るさを追求する必要がなくなり描写の精度を重視したレンズづくりに向ったのがF1.9/45mmだった、と見ることもできます。

映写機用レンズの肖像 [05]: 仏エルマジ社 マジステール F1.9 40ミリ

Hermagis Magister F=1.9 40m for Paillard Bolex Type D Projector (Mid 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
マジステール仏エルマジ社フランス40mm1.9ボレックスD型1930年代中盤ペッツバール型2群4枚52.025.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット25.08.0凸凹ダブレット20.07.5

パイヤール・ボレックス社の9.5ミリ/16ミリ両用D型映写機に付属していたレンズ。9.5ミリフィルムを実写する時に使用しているメイン機の一台でもあるため今回はレンズの分解は行いませんでした。鏡胴の形が異なるもの、同時に紹介しているF1.6の40ミリと同じく2群4枚のペッツバール式となっています。

9.5ミリフィルムを実写した際のサンプル画像。この時はピントあわせが上手くいかず、左側のフォーカスが外れ気味になっています。描写の質感は毛並の柔らかい表現などF1.6の40ミリに近いものがあります。四隅の光量低下が多少目立ち、周辺部に流れるような動きが見られます。

ミラーレスにマウントした際の接写作例。やはりF1.6の40ミリに似た感じ。開放での被写体深度はやや浅目。赤系の発色が鮮やかでピントのあっているやや先で二線ボケが出ています。ただしF1.6の背景に見られた玉ボケは見られず、ソフトに溶けるようなボケが出ています。

コントラストが強くはっきしりした絵面になる一方、白い部分で白飛びが発生。フィルム実写時にも画面上部に似たような傾向が出ているのが分かります。

エストニアより(映画)愛をこめて ヤーク・ヨエカッラス氏旧蔵サイン絵葉書

先日エストニアからの航空便が届きました。オンライン経由で取引したサイン物の絵葉書が計6点収められていました。

珍しい名前が多かったため蒐集家の古いコレクションがばらされたと思ったのですが、話を伺ったところセラーのヤーク・ヨエカッラス(Jaak Jõekallas)氏が個人で集めてきたサイン物の一部だそうです。「日本に発送するのは初めてだよ」と英語のメッセージが届き、返信がてら幾つか質問させてもらったところ素敵な話を色々聞かせていただきました。

前に書いたように、ソ連の時代には地元の骨董屋に独ロス社の絵葉書が沢山置いてあったんですよ。そういった店の多くは今は廃業してしまいましたけど、それでもまだ営業を続けているお店で面白い掘り出し物を見つけることがあります。

And as I already told, at the Soviet time there was a lot of old Verlag Ross postcards for sell in our antique shops. Nowadays most of these shops are closed but … sometimes is possible to find something interesting from these shops which are still working.

ソ連による併合以前に輸入されていたドイツやイギリス、合衆国製の絵葉書が1990年代にまだ町中のアンティークショップで売られていたそうで、ヤークさんは幼い頃からそういった紙物を集め始めていたそうです。

本サイトでも以前に紹介したイタ・リナ(Ita Rina)の話も少し出ました。1930年に公開された主演映画『情浪』(Wellen der Leidenschaft/Kire lained)がエストニアで撮影されていてこちらから話を振ってみたのですが、ヤークさんも当然その話は知っていて、しかも同作を監督したロシア出身の映画俳優・監督ウラディミール・ガイダロフの伝記を最近読んだ、とのこと。英語とロシア語の両刀使いは古いサイン物を集める際には強力な武器になります。正直羨ましい限りでした。

ちなみにヤークさんの名前はエストニアのウィキにも登録されています。1969年生まれで本職はオペラ歌手。古い映画関連紙物のコレクターとして知られており書籍も出版されているそうです。

ヤーク氏は映画俳優の絵葉書(ロス社、ピクチャーゴーア、また旧ソ連で出版されたものなど)、映画雑誌や書籍の収集でも知られている。

エストニア版ウィキペディアより

Kogub ka filminäitlejate postkaarte (Verlag Ross, Picturegoer jt, sealhulgas ka endise Nõukogude Liidu väljaanded) ning filmiajakirju ja -raamatuid.

『キノスタルジア』 (Kinostalgia. Filmistaaride lummuses, Jaak Jõekallas, 2018, Hea Lugu)

2019年にエストニア公共放送(ERR)で自著を紹介した番組がオンエアされました(ERR公式HPより)

2018年に出版された『キノスタルジア』は同氏の所蔵写真、絵葉書から600点を収めた一冊。表紙を飾っているのはキャロル・ロンバート。現在のエストニアはIT国家として知られていますが音楽や文芸思想でも優れた才能を輩出しており、こういった書籍からも質の高い文化の薫りが伝わってきます。

ジーナ・レリ Gina Relly(1891–1985)仏

フランス [France]より

Gina Relly Early 1920s Autographed Postcard

類い稀な才の音楽家の母親、巧みな畫家である父親の元で育てられ、ジーナは美しさと調和を好む子供に育つていつた。齢二十五ながら藝術家として残してきた實績は、より年を重ねた者たちも敵わないほどである。

若くしてデビユーを果たしたのは歌劇であつた。妙なる声の持ち主だつたのである。しかし程なくして舞臺を離れ映画界に足を踏み入れる。寫眞で映えるに違いない、最初に氣がついたのは喜劇役者のジヨルジユ・トレヴイル氏である。手始めの契約でまずは嬢を一本映畫に出演させてみたのだが、氏の満足はこの上なく契約の更新と相成つた。

次いでルネ・ナヴアール氏が『秘密文書』で大役を割り当て、さらにリユシアン・レーマン氏の『キマイラ』に出演。これらの作品を通じて他の多くの映画監督が嬢に目を留めることとなつた。他に『仮面の少女ニーヌ』次いで『借り』に登場している。

米國フオツクス會社との契約は嬢の才能が認められた証でもあつた。撮影で紐育にいたところ連續劇『貧しき者たちの王』のヒロイン役でルネ・ルプランス監督から白羽の矢が当たる。国外への再流出は避けたい所である。我が国の花形女優の数は決して多くないのであるから!

「仏蘭西花形物語:ジーナ・レリ嬢」
『モンシネ』誌 1922年2月創刊号

[…] Sa mère, musicienne d’un rare talent, et son père, habile artiste-peintre, contribuèrent à développer chez leur enfant le gôut de la beauté et de l’harmonie.

Sachez de plus que Gina Relly a seulement vint-cinq ans, et que cependant ella a déjà derrière elle un passé artistique que bien des artistes plus âgées ne possèdent pas.

Toute jeune, elle débuta dans l’opérette, car elle a une voix exquise.

Mais elle ne devait pas tarder à abandonner le théâtre pour le cinéma. Ce fut Tréville qui, le premier, songéa qu’elle devait être très photogénique. Il l’engagea pour un film d’abord et fut si satisfait qu’il renouvela l’engagemnt.

René Navarre, ensuite, lui confia un rôle important, dans Document secret, puis ce fut Lehman qui la fit tourner dans La Chimère. Ces créations l’avient signalée à l’attention d’autres metteurs en scènes, aussi la vimes-nous dans Nine, et puis dans La Dette, chez Harry.

La consécration de son talent fut un engagement de la célèbre firme américaine, la Fox-film. Elle tourna donc à New York et c’est là que René Leprince fut la chercher pour L’Empereur des pauvres. Espérons que nous ne laisserons plus cette vedette. Nous n’en avons pas tellement!

Une Vedette française : Gina Relly
Mon Ciné, No 1 (Février 1922)

1922年に仏映画雑誌モンシネが創刊された時、国産の花形女優として最初に紹介されたのがジーナ・レリ。以前に紹介したフランス・デリアジュヌヴィエーヴ・フェリクス等と並び、1910年代末頃に台頭してきた女優さんの一人です。

この世代は巡りあわせ的に不運なところがあって、経験を積んでいざ本格的に活躍!となった1920年代初頭に業界が大きく変貌、映画のスタイルが変わり、愛好家層が入れ替わり、ファッションや髪型の流行も激変し、余程の実力者でもなければ時代に取り残されて忘れられていった者が目立ちます。

モンシネ誌の紹介にあるように、ジーナ・レリは1920年に米フォックス社と契約を結び『窓の顔(The Face at Your Window)』でヒロインを務めます。その後フランスに戻り12幕物の連続ドラマ『貧しき者たちの王』でも主人公(レオン・マト)の恋人~妻役を務めて話題を呼びました。

『貧しき者たちの王』(L’Empereur des pauvres, 1922)でのジーナ・レリ。GPアーカイヴより。

モンシネ誌 1922年6月8日付第16号表紙


同作公開後のインタビュー(モンシネ誌16号)では将来の夢として再度ハリウッド行きの話などもしていたのですが実現することはありませんでした。元々彼女が得意としていたのは初期のメアリー・ピックフォードやメエ・マレーに近い可憐な娘役、1920年代にモダンな女性像が受け入れられていく中で過去のイメージが足かせとなって活躍の場を失っていきます。1920年代中盤まで雑誌モデルでの活動記録が残っていますがその後の消息は不明となっています。

[IMDb]
Gina Relly

[Movie Walker]
Gina Relly

[出身地]
フランス

[生年月日]
12月24日

バルトシュ・オルガ Bartos Olga(生没年不詳) ハンガリー

ハンガリー [Hungary]より

Bartos Olga 1921 Inscribed Postcard

第一次大戦の末期、1917年にハンガリーのロイヤル・オルフェウム劇場(Royál-Orfeum)で軽歌劇の主役として注目を浴びた女優さん。翌1918年にウィーンのロナッヒャー劇場と契約を結んだニュースがハンガリーの演劇誌でも大きく取り上げられていました。

「演劇生活」誌(Színházi Élet) 1918年9月1日 第35号表紙

この後もウィーンのアポロ藝術劇場で幾つかの出演記録(1920年『Die Apachen』、1921年『タンゴの女王 Die Tangokönigin』)が残されていますが、同劇場の支配人であるヘルベルト・トラウ氏と入籍したようで雑誌での名字表記が「Bartos-Trau」に変わります。今回入手したサインはこの時期のもの。

面識こそ御座いませんが貴方様からの讃辞に親愛なる感謝をこめて

1921年2月8日 オルガ・バルトシュ=トラウ

Unbekannterweise freundliche Grüße und Dank für ihre schmeichelhaften Zeilen.

8 II 1921. Olga Bartos-Trau

20年代中盤以降はメディアでの露出が減っていくものの、1927年の雑誌の紹介記事からは活躍の場をチューリッヒまで広げていた様子が伺えます。

独「ライフ」誌(Das Leben)
1927年7月号

映画界との接点は多くありませんが一作主演の記録あり。1919年公開の墺作品『Die lichtscheue Dame』で、ジョルジュ・オーネの小説『灰色の淑女(La Dame en gris)』を下敷きにした作品のようです。

[IMDb]
Olga Bartos

[Movie Walker]


[出身地]
ハンガリー

[データ]
1301 Bildnis von Angelo Budapest 1918