1919 – 『嵐の孤児』& 『黒き仮面の淑女』他 、クロアチア映画社販促用ポストカード + 出演者サイン入り絵葉書

Dvije sirote (1919, Croatia Film, dir/Alfred Grinhut) & Dama sa crnom krinkom (1918, Croatia Film, dir/Robert Staerk) 9 Promotional Postcards

フィルムの現存数が少なく紙資料へのアクセスが難しい。初期映画を扱っている者にとって東欧は未だ鬼門に当たっています。

旧ユーゴスラヴィア構成国の一つクロアチアでは1917年に初の映画製作会社「クロアチア映画社」が設立。劇映画とドキュメンタリー作品数本を残して1920年に活動を停止しておりフィルムは全て遺失したとされています。同社作品の幾つかについては配給元のユーゴスラヴィア映画社との連名で販促用絵葉書が市販されていました。25までの連番が付されたセット物で英語圏では「ユーロピアン・フィルムスター・ポストカード」が同シリーズのオンライン紹介記事を残しています。

今回9枚を入手、このうちの4枚を占める『嵐の孤児』を紹介していきます。

同作はグリフィス版が公開される3年前に制作されたもので、1919年にザグレブで公開されています。ヒロインを演じたのはゾルカ・グルンド(Zorka Grund)。舞台俳優、映画監督として知られるアルノシュト・グルンドの娘に当たります。

ユーロピアン・フィルムスター・ポストカードでは「絵葉書ベースで推察するに、ゾルカ・グルンドが妹ルイーズと姉アンリエットの一人二役を演じたのでは(On the basis of the postcards, it seems that Zorka Grund played both Louise and Henriette.)」の仮説を立てています。確かに絵葉書を見ると貴族風の衣装をまとった写真(上段2枚)と、市民風の慎ましい姿(下段2枚)の2種類を確認できます。

しかし医者から告げられたのは決して口外できない恐ろしい話だった。数か月後ディアンヌ・ド・ボードリー孃は母になる、と云ふのであつた。

『二人の孤児』
アドルフ・デヌリー(1887-1889 連載小説版)

Mais un terrible mystère lui fut alors secrètement révélé par le médecin : Dans quelques mois, mademoiselle Diane de Vaudrey allait devenir mère!… (p.28)

Les Deux Orphelines
Ennery, Adolphe d’
(d’après le drame de MM. Adolphe d’Ennery et Eugène Cormon. 1887-1889.)

ところが物語と照合していくとどうも違うようなのです。『嵐の孤児』原作では貴族の娘ディアンヌが父の意向でリニエ伯爵に嫁ぐ前、初恋の男性との間に子供を宿してしまい、生まれたばかりの赤ん坊をこっそり里子に出す場面があります。この子供がルイーズで、引き取られた家の娘アンリエットの妹として育てられる…という設定です。赤ん坊を前にしたゾルカ・グルンドのショットはこの場面に対応。若き日のディアンヌ(後のリニエ伯爵夫人)と娘のルイーズの二役を務めていたが正しい解釈になるのかなと思われます。

そうすると姉のアンリエットを演じていた俳優が分からなくなります。絵葉書にアンリエットの登場場面が一枚もないため断定はできないのですがシリーズ連番の25番で紹介されている女優「Štefa Kostinčer」の可能性が高いのではないかと。

映画産業が勃興した直後であり、当時のクロアチアにまだ映画専属俳優はおらず、出演しているのは皆キャリアを積んだ舞台俳優たちでした。

ディアンヌ・ド・リニエ伯爵夫人は教会前の石段を下りかけて足を止め、盲いた少女を同情の目で見つめた。

Mais Diane de Linières, au moment de descendre, s’était arrêtée sur les marches, et regardait avec compassion la jeune aveugle. (p.530)

ibid

この絵葉書では3名の女優が並んでいます。貧困ビジネスの元締めであるラ・フロシャール(左端)が、盲目の少女ルイーズ(中央)を教会前で歌わせて物乞いさせていると 、教会から出てきたリニエ伯爵夫人(右端)がその姿に親近感を覚え、実の娘とは知らずに声をかける場面です。悪女ラ・フロシャールを演じたのはミリシャ・ミヒチッチ(Milica Mihičić)、歳を取ってからのリニエ伯爵夫人をベテラン舞台女優ボグミラ・ヴィルハー(Bogumila Vilhar)が務めています。

Milica Mihičić, Bogumila Vilhar, Ivo (Ivan) Mirjev Autographed Postcards

クロアチア映画社版『嵐の孤児』に出演していた3名の俳優のサイン入り絵葉書。右端のIvo (Ivan) Mirjev氏のみ配役が特定できていません。いずれも舞台を主戦場としていた俳優で映画出演はキャリア上特筆すべきものではなかったようです。それでもこういった役者たちが初期クロアチア映画の立ち上げに貢献していた、と見えてきたのが大きな収穫でした。

[IMDB]
Dvije sirotice

[公開年]
1919

[Movie Walker]


[データ]
8.5 × 13.5cm。左下に制作会社クロアチア映画社のロゴ、右下に配給会社ユーゴスラヴィア映画社のロゴ有。

1921年 – クロアチア・ザグレブ公演中のモスクワ芸術座カチャーロフ・グループ 直筆サイン入り絵葉書8点

Moskovskii Khudozhestvennii Teatr at Zagreb (1921).
8 Autographed Postcards

ロストフ・ナ・ドヌー、エカテリノダールと回った一行は、1920年3月にはノヴォロシイスクから海路グルジアに渡る。ここに至ってようやくモスクワと連絡がついたものの、劇団からはいま帰ってもしょうがないとのつれない返事がかえってきただけ。そこで再び海路コンスタンチノーブルへ渡った一行は公演を重ねながらバルカン半島を北上して行くことにした。この巡演は「ソフィア、ベオグラード、リュブリアナ、ノヴィ・サド、ザグレブなど、どこでも熱い歓迎を受け」(Inov 2003:14)、バルカン諸国に多くの芸術座シンパを生んだのだという。

「1920年代在外ロシアにおけるロシア劇団の受容について」
大平陽一

1919年夏に海外巡業へ向かったモスクワ芸術座のメンバーがロシア革命の余波で帰国できなくなり、その後チェコスロバキア政府の援助を受けてプラハを拠点に活動し始めた…という「プラハ・グループ」を論じた一節です。大きくはロシア/ソヴィエト演劇史の一エピソードの括りながら、中欧~東欧への文化的影響や「文化の越境」といった視点から見ても興味深いものです。

革命前、舞台俳優たちはしばしば映画にも出演していた。

「異境のモスクワ芸術座:モスクワ芸術座プラハ・グループと女優マリア・ゲルマノワ」
諫早勇一

プラハ・グループを扱ったもう一本の論文で触れられていたように帝政期ロシアの舞台俳優の多くが映画と接点をもっていました。1923年には『カリガリ博士』で知られるロベルト・ヴィーネ監督による独映画『罪と罰』が公開されましたが、同作のキャストはプラハ・グループ所属の俳優で固められたものです。

ラスコーリニコフ(クマラ)

ラスコーリニコフの母と妹(スクルスカヤ&タラソワ)

死の床のマルメラードフ(右、タルカーノフ)とその妻(左、ゲルマノワ)

ラスコーリニコフとソーニャ(右、クルィジャノフスカヤ)

スヴィドリガイロフ(シャーロフ)

今回紹介するのはこの一団が正式にプラハを拠点とする直前の時期(1921年初頭)にクロアチアのザグレブで公演を行った際に残したサイン物のセットです。2016年と2021年の2度に分けて購入したもので元々は15枚ほどの塊でした。予算の都合ですべてを揃えることはできませんでしたが看板女優のオリガ・クニッペル・チェーホワ(戯曲家チェーホフの妻)、花形女優のクルィジャノフスカヤやオルロワ、実力派のマッサリチノフなどが含まれています。

・オリガ・クニッペル・チェーホワ [Olga Knipper-Chekhova] 日本語wiki
・ウェラ・オルロワ [Vera Orlova] IMDb/Movie Walker
・ピョートル・シャーロフ [Petr Sharov] IMDb/Movie Walker
・ヴァシーリー・ヴァシレフ [Vasilij Vasilev] IMDb
・ピョートル・バクシェイエフ [Pyotr Baksheyev] IMDb
・マリア・クルィジャノフスカヤ [Maria Kryshanovskaya] IMDb/Movie Walker
・エリザベータ・スクルスカヤ [Elisabeta Skulskaja] IMDb/Movie Walker
・ニコライ・マッサリチノフ [Nikolaj Osipovic Masalitinov] IMDb

ロシア革命の余波が西欧映画に与えた例としては仏アルバトロス映画社や映画プロデューサー・エルモーリエフの活動が知られています。後者が渡仏前に製作していた作品には芸術座俳優(オルロワ、バクシェイエフ、ゲルマノワ)が多く出演していました。コンスタンチノープル経由でパリに亡命したエルモーリエフが仏無声映画史の発展に深くかかわり、一方で芸術座俳優たちがプラハ経由でドイツ表現主義に絡んでいく…別ルートで同時進行していた2つの風景が同じ根を持っていたと確認できる映画史資料でもあります。

[IMDb]
Raskolnikow

[Movie Walker]
罪と罰

ウェラ・オルロワ Vera Orlova (1894–1977)

こちらは1910年代から活動を続けていた女優ウェラ・オルロワ。以前に紹介したオリガ・クニッペル同様、1921年にモスクワ芸術座がクロアチア首都ザグレブを訪れた際に残されたサインと思われます。サイン日付は1921年1月28日。

舞台が中心ではあるものの映画でも重要な役どころを多く演じており、1916年の『スペードの女王』、1923年の『罪と罰』、1924年の『アエリータ』など現在でも評価の高いロシア・ソ連初期映画で演技力を発揮しています。

[Movie Walker]
ウェラ・オルロワ

[IMDb]
nm0650153

[誕生日]
5月27日

[撮影]
トンカ・スタジオ(ザグレブ)

オッシー・オスヴァルダ(1899 – 1948) 昭和3年の書簡

Ossi Oswalda 1928 Signed Letter

1910年代中盤にルビッチ映画の主演を務めて人気を得ていたオッシー・オスヴァルダの手紙。旅行で滞在していたクロアチの首都ザグレブで書かれた一通で、全体がクロアチア語でタイプ打ちされている珍しい内容となっています。

1928年6月27日付。

自身のプロダクションを立ち上げたものの興行に失敗、UFAに戻った時期にあたります。人気に陰りがあって海外に活路を求めていた形跡もあります。手紙の冒頭にユーゴスラビアのメディアのお偉いさんと会った旨が記されているため一連の流れにあるのかもしれません。