ロー・ホール Loo Holl と『武士道』(東亜キネマ、1926年、H・K・ハイラント&賀古残夢)

Loo Holl c1920 Autographed Postcard

日本とドイツが共同制作し、1926年に公開された映画「武士道」のフィルムがロシアで見つかり、9月の第4回京都映画祭で特別上映されることになった。日本で最初の本格的な国際合作映画とみられる。

日本最初の国際合作を発見/1926年映画「武士道」
四国新聞 2004年8月11日付

2004年、邦画史上初めての国際合作作品となる『武士道』(1925年)が発見され、京都映画祭で上映されることになったというニュースが報じられました。東京国立近代美術館フィルムセンター(当時)研究員の常石史子氏を中心として1996~2004年に行われたロシア・ゴスフィルモフォンドの調査および収蔵作業(NFCニューズレター 2005年6-7月 第61号PDF)による成果のひとつです

日本側では東亜キネマが制作の中心となり、賀古残夢監督が現場を回す形で作業が進められていきました。出演は明石潮と岡島艶子。本作で「日本」がどう描かれていたかについては立命館大学のアート・リサーチセンターのサイトに報告がありますので興味のある方はご参照ください。

ドイツでは邦題をそのままアルファベット表記した「Bushido」として公開されました。

専門誌の様々な記事で伝えられているように、ハインツ・カール・ハイラント氏は日本で時代劇映画を作り上げた。日本の映画会社東亜キネマが共同で製作に当たった。監督は賀古残夢氏。主演はロー・ホール、カール・W・テティング、岡島艶子、明石潮の四氏。現時点でドイツ版が公開中。

独キネマトグラフ誌 1926年3月 第994号

Wie durch verschiedene Artikel in den Fachzeitungen bekannt geworden ist, fertigte Heinz Karl Heiland in Japan einen historischen Film an, und zwar mit Unterstützung der Toa Cinema Co., eines japanischen Fiimkonzerns. Die Regie führte Zanmu Kako. die Hauptrollen sind besetzt mit Loo Holl, Carl W. Tetting, Tsuyako Okazima und Ushio Akashi. Die deutsche Bearbeitung liegt nunmehr vor.

« Einsendungen aus der Industrie »
Der Kinematograph, Nr. 994 (1926 March Issue)


独キネマトグラフ誌1927年5月1056号に
掲載された粗筋紹介ページ(右半分)

共同監督として名を連ねているハインツ・カール・ハイラント(Heinz Carl Heiland)は元々旅行家兼エッセイストで、第一次大戦前に映画監督として業界に参加してからも異国情緒を重視した設定を得意としていました。戦後、自身の名を関した制作会社を立ち上げ、女優ロー・ホール(Loo Holl)をヒロインに据えた作品を多く発表していきます。

ロー・ホールは『武士道』と同時期に日本で撮影された『白い藝者』(ドイツ=デンマーク合作、1926年公開)でも主演エヴァ役を担当。日本を訪れたドイツ人技師が芸者と恋に落ちて…の展開は蝶々夫人に影響を受けた感じでしょうか。初期邦画に縁のあった女優さんのサイン絵葉書を日本にお迎えできるのは光栄です。

映写機用レンズの肖像 [08]: 独メイヤー・ゲルリッツ社 キノン・スーペリアー f=20ミリ

Meyer Görlitz Kinon Superior F=20mm Projection Lens

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
キノン・スーペリアーメイヤー・ゲルリッツ社ドイツ20mm不明不明1930年代中盤?ペッツバール型3群4枚64.6525.0
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット14.05.214.1メニスカス12.60.712.6

キノン・スーペリアーの焦点距離20ミリ。単体で購入したもので本来の映写機名は不明。

鏡胴部分が大きく全長は65ミリほどあります。根元にレンズのユニット本体をねじこんだ形で、レンズそのものは直径15ミリ弱、ユニット全体の長さも20ミリほどと思ったよりコンパクトなものでした。構成は焦点距離40ミリ同様3群4枚のペッツバール。

20ミリの焦点距離は撮影用レンズで言うと広角レンズに当たります。レンズ性能比較用に自作したシステムが広角寄りのレンズに対応しておらず実写のサンプルを撮れていないのですが、ひとまずミラーレスに載せて試し撮りをしてみました。

フランジバックの兼ねあいで四隅が大きくケラれました。とはいえこの形の方がレンズの特徴が見えやすいですね。

ドミプランやトリオプランと同様、ピントを外れた場所の点光源に玉ボケの出やすいレンズです。キノン・スーペリアーではグルグルボケの出方が強く、円い玉ボケがレンズの外周に近づくにつれ潰れて弧の形となり互いに重なりあうことで個性的な絵面になります。

角度を変えてもう一枚。中央奥の点光源が歪みのないバブルボケになっているのが分かります。トリオプランやドミプランなどで発生してくる玉ボケは、絞りに使用されるブレードの影響を受けて実際には六角形だったり十五角形だったりします。映写機用レンズには絞りの発想がない(=ブレードがない)ため綺麗な円になります。

本来の映写機用レンズとして使用する場合、横長の矩形部分でフィルムを映写することになります。四隅を中心に流れの目立つ画質になるのがこの写真からでも分かります。

今回独メイヤー社と仏エルマジ社のレンズを複数紹介してきました。どちらが優れている云々ではなくて、それぞれの会社が理想としているレンズ観が如実に表れていて興味深かったです。

映写機用レンズの肖像 [07]: 独メイヤー・ゲルリッツ社 キノン・スーペリアー I f1.6 40ミリ

Meyer Görlitz Kinon Superior I F1:1.6 40mm for Pathex 200B Projector (Mid 1930s)

レンズ名メーカー名製造国焦点距離F値使用映写機製作時期レンズタイプレンズ構成長さ(鏡胴含む)外径(鏡胴含む)
キノン・スーペリアー Iメイヤー・ゲルリッツ社ドイツ40mm1.6パテックス200B1930年代中盤ペッツバール型3群4枚64.6529.9
前玉タイプ前玉外径前玉厚みスペーサー(間隔環)中玉タイプ中玉外径中玉厚みスペーサー(間隔環)後玉タイプ後玉外径後玉厚み
凸凹ダブレット26.19.115.25メニスカス21.14.21.621.15.0

数々の個性派レンズ(トリオプラン、オレストール、テレメゴール…)で知られている独光学メーカー、メイヤー・ゲルリッツ社が映写機用レンズの主力として製造していたのが「キノン・スーペリアー(Kinon Superior)」です。こちらの個体は焦点距離40ミリ、1930年代半ばの独パテックス社200B映写機に付属していたものです。

この時期の標準だったペッツバール型3群4枚のレンズ構成。前玉がかなりがっしりしていて厚みもあります。

フィルムの映写作例では四隅まで光量が落ちず、中心部分で細やかな質感を再現できていました。ただし画面の中央に比較的近い所から放射状に流れるような動きが見られます。

ミラーレスにマウントして撮影してみました。

キノン・スーペリアーは絞り開放で使用した際に周縁部にグルグルとしたボケが出やすいレンズとして知られています。個性的な写真を狙っている愛好家が探している一本ですが、今回テストした40ミリはそこまで極端な結果は出ませんでした。強い点光源を中央付近に集めるとバブルボケ/グルグルボケがはっきり出てくるのですが、狙い過ぎた感じになるので今回は避けました。

このレンズに関しては後年の焦点距離50ミリが有名で、ミラーレスにマウントした作例が多く紹介されています。昨今の改造レンズブームで入手しにくくなっているものの同レンズを搭載したバウアー社パンタリュクス映写機(Bauer Pantalux)が時折安く中古市場に出てくるので探している方はその辺が狙い目だと思います。

1922 – Super8 『吸血鬼ノスフェラトゥ』(F・W・ムルナウ監督) 西独DEFA版

1922-『吸血鬼ノスフェラトゥ』

Nosferatu: Ende des Vampirs
(From « Nosferatu », dir/F.W. Murnau, 1922) DEFA Super8 Print

先月末にスキャンと併せて映写機での実写を行いました。

名の知れた一作でもあって英語版の16ミリや8ミリを市場で見かけることがあります。フィルムの現存状況や修復版の元となった35ミリプリントの詳細な情報はブレントン・フィルム [英語]でまとめられています。

ドイツでは西ドイツのDEFA社から2巻(前編『吸血鬼の棲まう城』245番、後編『吸血鬼の最期』247番)に分けられたスーパー8のダイジェスト版が発売されていました。こちらはその後編。

このフィルムに関しては2017年に一度実写でのスクリーン画像をそのまま撮影しています(使用映写機はベル&ハウエルのフィルモソニック498型)。

実写では中央部で白飛びが目立ち顔の肌の細かな陰影が消えてしまっています。ただし光量の落ちる周辺部は比較的しっかりと描写できていました。ランプを使うと光源となる中心がどうしても明るくなるためこういった質感になります。一方デジタルスキャンは四隅まで満遍なく安定しているものの暗い部分で潰れてしまい細部を拾えていない所があります。

またDEFA版8ミリではフィルムを送る穴(パーフォレーション)の上下まで映像が広がっています。実写時にこの部分は映写されないため、左側がトリミングされる形になり被写体が左に寄っていました。

本作を下敷きにしたヘルツォーク監督の『ノスフェラトゥ』(1979年)では吸血鬼と同時にやってくるペストの要素が強調されていました。古来から吸血鬼伝説と疫病への恐怖は連動してきたもので、本作にも公開の2年程前まで猛威を振るったスペイン熱の記憶が見え隠れしています。

[原題]
Nosferatu: Ende des Vampirs

[製作年]
1922

[IMDB]
Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens

[Movie Walker]


[メーカー]
DEFA

[カタログナンバー]
247

[フォーマット]
Super8 白黒無声

ルーシー・キーゼルハウゼン Lucy Kieselhausen (1900–1927) 墺

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Lucy Kieselhausen Mid/Late 1910s Autographed Postcard

オーストリアの舞踏家グレーテ・ヴィーゼンタールの門下生として頭角を現し、若くして舞台の人気者となりファッション誌のモデルとしても活躍していきます。映画界との接点は多くはありませんが1917年公開のドキュメンタリー短編『ベルンでのドイツ工作連盟展におけるファッションショー』にモデルとして登場、翌年から劇作品への出演を始め『千女一女物語(Tausend und eine Frau)』『七番目の列強(Die siebente Großmacht)』で端役を務めています。

1918年公開『七番目の列強』広告
独キネマトグラフ誌1918年8月号

その後1923年にアスタ・ニールセン主演の『地霊』(Erdgeist、リヒャルト・オスワルド監督)に出演。同時期にヘルタ・ファイストの下でダンスの勉強を続け、作曲家ハインツ・ティーセンの「サランボ組曲」に振付を提供。しかし自身の考案した舞踏が表舞台で披露されるのを見ることはできませんでした。1927年12月、浴室でベンジンを使用し手袋の清掃をしていた際、浴室のストーブの火が揮発したベンジンに着火、爆発を起こします。重度の火傷を負ってそのまま帰らぬ人となりました。

1927年12月末にオランダの新聞に掲載された訃報

映画出演作は端役4作のみですので女優としての評価がどうこうの話でもないのですが、第一次大戦後のドイツ語圏で舞踏畑で活躍した個性派でグリット・ヘゲーザ(Grit Hegesa)やハンネローレ・ジーグラー(Hannelore Ziegler)とも重なってくる感じです。

ちょうど先月(2021年4月)、ケルンに拠点を置く「西部ドイツ放送(Westdeutscher Rundfunk)」がラジオ番組「ルーシー・キーゼルハウゼン二重の立身物語(Die zwei Karrieren der Lucy Kieselhausen)」をオンライン公開しました。母親のレアさんに宛てた書簡や当時の証言を引用しながら1920年代のドイツ語圏で女性が、舞踏家が、そして若者が直面していたリアリティを再現していく内容でした。

[IMDb]
Lucy Kieselhausen

[Movie Walker]


[出身地]
オーストリア=ハンガリー帝国(ウィーン)

[データ]
[(Photochemie) K. 107. Bildnis von A. Binder, Berlin]

レオポルディーネ・コンスタンチン Leopoldine Konstantin (1886–1965) 墺

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Leopoldine Konstantin Late 1910s Autographed Postcard

オーストリア出身の舞台女優/映画女優で1900年代後半にはすでにベルリンの劇場に立っていました。

1910年頃にドイツで映画産業が勃興した折、舞台界から先駆者として業界に参入したのがマックス・ラインハルトでした。神話世界と現実世界を交差させた『恵みの島』(Die Insel der Seligen、1913年)はエロスを含みこんだファンタジーとして高い評価を受けているものです。同作後半では、妖精の島に紛れこんでしまった老紳士二人が魔女キルケ(レオポルディーネ・コンスタンチン)にたぶらかされ、妖術によって豚に変えられてしまう場面が含まれています。

ラインハルト門下生は個性的な演技派が多かったこともあり初期ドイツ映画界では重宝されていました。レオポルディーネ・コンスタンチンも1910年代を通じメスター社のハンス・オーベルレンダー監督作品を中心に活躍。10年代中盤にドイツで探偵活劇が流行した時にはスチュワート・ウェッブス連作と並ぶ人気シリーズ、ジョー・ディーブス物に出演した記録も残っています(1917年)。

『カイロの結婚』(1933年)より

1920年代初頭に映画界を離れ舞台に専念、10年以上のブランクを経てカムバックした後は母親役を中心に活動。この時期の出演作の幾つか(ウーファ社『カイロの結婚(Saison in Kairo)』『桃源境(Prinzessin Turandot)』など)は日本でも公開されていました。

『汚名』(1946年)より

40年代に渡米しハリウッドに挑戦、言葉の壁もあって大成こそしませんでしたが、ヒッチコックの『汚名』(Notorious、1946年)でナチス残党グループリーダー(クロード・レインズ)の母親役を演じ熟練の演技を見せました。同作が最後の映画出演となり50年代に女優業から引退しています。

[IMDb]
Leopoldine Konstantin

[Movie Walker]
レオポルディーネ・コンスタンチン

[出身地]
オーストリア=ハンガリー帝国(モラヴィア地方ブルノ、現チェコ)

[データ]
[Verl. Herm. Leiser, Berlin-Wilm. 9271 Phot. Becker & Maas, Berlin]

フュー・オ・ビ (Fy og Bi) デンマーク

北欧諸国 [Nordic Countries]より

Fy og Bi (Carl Schenstrøm & Harald Madsen) Autographed Postcard

1920年代欧州で人気のあったデンマーク出身コメディ・ユニット。ローレル&ハーディー、アボット&コステロと似た凸凹タイプの組みあわせで一時期英語圏にも「Long & Short」の名で紹介されていました。写真左側がのっぽのカール・シェンストローム(Carl Schenstrøm、1881 – 1942)、右がちびのハラルド・マドセン(Harald Madsen、1890 – 1949)になります。

40年代初頭にかけ55本の作品を残していてその多くはラウ・ラウリッツェン監督の手によるものでした。ハリウッドが得意としたような起承転結の明快な構成ではなく、作品毎にシチュエーションを設定し(多くは浮浪者二人組)、その枠で二人がドジっぷり・間抜けっぷりを発揮し別なシチュエーションに移っていく「ユルい」展開を好みます。残念ながら日本では公開された記録がありません。

本国デンマークでも戦後になると忘れ去られていくのですがドイツ限定で根強い人気があり、1960~80年代には無声版を30分~1時間にまとめ独語ナレーションを加えたTVドラマ版「パットとパタション(Pat und Patachon)」が放映されていました。テレビの黄金時代で記憶に残っている人も多く今でもDVDで入手可能、一部でカルト的な人気を誇っています。

独キネマトグラフ誌 1925年11月第979号

ドイツTV版「パットとパタション」オープニングより。別投稿した『凸凹の密輸人退治』(1925年)の映像を使っています。

脇を固める俳優に実力者を揃えていたのがシリーズの強みでした。初期常連メンバーだったのがベテラン俳優クリスティアン・シュレーダー(Christian Schrøder)とスティーナ・ベウ(Stina Berg)。

ヒロイン役ではリリィ・ラニ(Lili Lani)が準レギュラー扱いで出演数が多く、他に渡米前のグレタ・ニッセン(Greta Nissen)、1929年の『ライラ』で名を上げたモナ・マールテンソン(Mona Mårtenson)、ドイツ映画界でも活躍したアグネス・ペテルセン(Agnes Petersen)、マリア・ガーランド(Maria Garland)、マーガレット・ヴィビー(Marguerite Viby)の姿も見られます。

リリィ・ラニ(Lili Lani)
1924年『Polis Paulus’ påskasmäll』

マリア・ガーランド(Maria Garland)
1924年『Professor Petersens Plejebørn』

モナ・マールテンソン(Mona Mårtenson)
1931年『I Kantonnement』

グレタ・ニッセン(Greta Nissen)
1924年『Lille Lise Letpaataa』

アグネス・ペテルセン(Agnes Petersen)
1924年『Raske Riviera Rejsende』

マーガレット・ヴィビー (左、Marguerite Viby)と
ニナ・カルカー (右、Nina Kalckar)
1929年『Højt paa en kvist』

1920年代欧州では国境を越えて成功した喜劇は少なく、仏マックス・ランデと並びフュー・オ・ビは数少ない例外でした。元々欧州には自由な放浪者への憧憬が文化の一つとしてありますし、チャップリン初期短編やルノワールの『素晴しき放浪者』にもそういった要素を見ることができます。フュー・オ・ビの二人組はこの理想、神話を上手く形にし持続可能なロールモデルを作り出した点で評価できると思います。


[IMDb]
Carl Schenstrøm

[Movie Walker]


[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
11月13日


[IMDb]
Harald Madsen

[Movie Walker]


[出身地]
デンマーク(シルケボー)

[誕生日]
11月20日


1925 – 35mm 『凸凹の密輸人退治』断章 (スヴェンスク・フィルムインドゥストリ社、グスタフ・モランデル監督) 独プリント

« Polis Paulus’ påskasmäll » (1925, Svensk Filmindustri, dir/Gustaf Molander) 1920s German « Pat und Patachon als Polizisten » 35mm Fragments

先日ドイツのイーベイで題名不詳の35ミリフィルム数本がオークションにかけられていました。そのうちの一本がこちら。

ホテルのレストランで開かれているパーティーが舞台となっていて
 1)仮面姿の女性が燕尾服の男の背後にそっと近づいてキスをして逃げ去る場面
 2)年配の男女4人が談笑し食事をしている場面
 3)仮面をかぶった背の高い男性が投げキッスを送る場面
 4)会食中の女性が嬉しそうに微笑むクローズアップ
と展開していきます。

最初に目に留まったのはクローズアップされたぽっちゃり系の女優さんでした。

Stina Berg in « Polis Paulus’ påskasmäll »

1910~20年代北欧で活動していた名脇役スティーナ・ベウです!見覚えがあったため手持ちのデータを確認したところ1925年公開のスウェーデン作品『Polis Paulus’ påskasmäll』断章と判明しました。日本未公開作品で邦題はなく、英題(The Smugglers 「密輸人」)をそのまま訳出しています。

本作はデンマークの喜劇ユニット「フュー・オ・ビ(Fy og Bi)」が主演した喜劇連作の一作。同シリーズはデンマークのラウ・ラウリッツェン監督の手による物が多いのですが、本作で初めて国外(スウェーデン)の製作会社・監督に委ねられることになりました。

物語はディナ(スティーナ・ベウ)が自身の経営するホテルに姪アンヌ・マリー(リリィ・ラニ)を招待したことから始まります。アンヌ・マリーとステン(エリック・バークレイ)の恋愛模様と、町の警察官(ハラルド・マドセン=凹)と浮浪者(カール・シェンストローム=凸)の追跡劇が同時進行していく中で最後は地元で暗躍している犯罪グループが摘発されてハッピーエンド。

グスタフ・モランデルの監督・演出はこなれたもので喜劇要素を大事にしつつも多層的な展開を上手くまとめあげており、凍りついた湖や森などの美しい自然描写を随所に盛りこんでいます。

オーストリアとデンマークの映画協会がそれぞれ不完全な35ミリ版を所蔵しており、2009年に両者を組みあわせて1時間42分のリストア版が制作されています。入手した断片はこの修復版の中盤、50分20秒~52分40秒辺りに対応している部分でした。

[IMDb]
Polis Paulus’ påskasmäll

[Movie Walker]


[公開]
1925年4月6日

ヘッダ・ヴェルノン Hedda Vernon (1886 – 1925) 独

ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]より

Hedda Vernon 1916 Autographed Postcard

親愛なるお嬢様、残念なことに貴女がサイン用に送ってくださった絵葉書をどこかにやってしまいました。代わりにこちらを送りますのでお受け取りくださいませ。 ヘッダ・ヴェルノン

Mein liebes Fräulein, leider habe ich Ihre Karte, die Sie mir zur Unterschrift sandten, verlegt. Nehmen Sie bitte Diese dafür. Mit herzlichem Gruß. Hedda Vernon

消印は1916年(大正5年)の10月23日。宛先はヘンケ・ステグリック(Henke Steglik)嬢でしょうか。メッセージ面には5行の手書き文章と署名。「どこかにやってしまいました」は方便で、この時点で一番プロモーションに適した絵葉書に「差し替えた」が正しいのだろうなとは思います。

「どうやって映画(界)に入ってきたのか?」

徒歩で、でしょうか。今でも覚えているのですがとても遠かったです。やっとたどり着いたと思ったら監督さんに「遅刻だぞ」と怒られてしまって。指示で何か演技をすればさらに罵られる始末。映画が上映された時にお客さんから大きな拍手が挙がって、監督さん曰く「君には才能がある!」。日記に「来た、見た、勝った(Veni, vidi, vici)」って書いてやりました。

ヘッダ・ヴェルノン・インタビュー
『映画界の女性たち』(1919年)

„Wie ich zum Film kam?“

Per Beine; und ich erinnere mich noch, daß es sehr weit war. Und als ich schließlich da war, schimpfte der Regisseur, weilich zu spät kam; und als ich ihm was vorspielte, schimpfte er noch mehr; und als der Film heraus kam, klatschte das Publi­kum, und der Regisseur sagte: » Hedda, Sie sind ein Talent!« – Und ich schrieb in mein Tagebuch: »Veni, vidi, vici.«

Hedda Vernon Interview
in « Die Frau im Film » (Altheer & Co., Zürich, 1919)

リヒトビルト・ビューネ誌1913年8月第34号広告

1913年にドイツで国産犯罪活劇が流行し始めた時、ハリー・ピール監督、ルートヴィヒ・トラウトマン主演のケリー・ブラウン連作のヒロインに抜擢され、このジャンルで最初にアイドル的人気を博したのがヘッダ・ヴェルノンでした。『天馬』の邦題で知られる « Die Millionenmine » でヒロイン役を務めたこともあって1914年頃の日本の映画愛好家にも名を知られていました。

リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月第12号より『天馬』広告

キネマトグラフ誌1915年7月号広告

1914年に自身の名を冠した映画製作会社を立ち上げて独立。その後はアイコ映画社を中心に、夫でもあるフーベルト・メスト監督作品に多く出演。恋愛物、喜劇、歴史劇など様々なジャンルの作品に出演しています。1910年代中頃からは若手の突き上げを受けて人気面で伸び悩むものの、ドイツ活劇ジャンルの先駆けとして「別枠」の扱いを受けており10年代末頃まで自身の名前を前に出して一線での活躍を続けました。

Hedda Vernon in Die Neue Kino Rundschau (1919-03-30)

1919年、アイコ映画社の 自社俳優紹介広告欄より (ノイエ・キノ・ルンツシャウ誌1919年3月30日)

1920年代になると脇役に回る機会も増えてきます。それでも1921年にはメスト監督の『レディ・ゴディバ』に主演、英テニスンの詩を元にした同作は合衆国でも公開されました。

1922年、『レディ・ゴディバ』米公開時の広告

1925年に亡くなった後は再評価の機会がないまま忘れられていくのですが、2018年にボローニャ復原映画祭の「一世紀前の映画」企画で主演作『Puppchen』(1918年)復原版の上映記録が残っています。

[IMDb]
Hedda Vernon

[Movie Walker]
ヘッダ・ヴェルノン

[出身地]
ドイツ

[サイズ]
13.6 × 8.7cm

1913-1914『天馬』への道(ドイツ探偵活劇興亡史)

1914年に日本で公開された『天馬』についての調査の続報です。山本知佳氏の論文『日本におけるドイツ映画の公開 -1910年代を対象として-』末に公開作品のリストが時系列でまとめられているのですが、ドイツ語の原題が付されておらず元の作品がわかりにくくなっていました。2003年に公刊された独語の研究書『カメラの目と直感:初期ドイツ映画における探偵たち』巻末のリストを重ねあわせる形で輸入状況を整理していきます。まずは当時紹介されていた様々な活劇連作から。

・ヨセフ・デルモント(Joseph Delmont)作品

アイコ映画社を拠点に活躍していたドイツ映画のパイオニアの一人。代表作の一つである『生きる権利(Das Recht aufs Dasein)』の修復版をオランダのEYEが公開しています。

『夢か眞か』(原題不詳) 1913年8月5日・みやこ座
『秘密』(原題不詳、Das Recht aufs Daseinかも) 1913年10月25日・みやこ座
『ゲルダーン』(Der geheimnisvolle Klub) 1913年12月14日・みやこ座
『パナマの暴漢』 (Der Desperado von Panama)1914年10月01日・横濱オデオン座


・ケリー・ブラウン探偵物(Detektiv Kelly Brown)作品

ハリー・ピール監督、ルートヴィヒ・トラウトマン主演によるドイツ初の探偵活劇連作。1913年の『夜の影(ブラウン大探偵)』に始まり1914年の『盗まれたる百万金』まで続きます。日本で『天馬』として知られる « Die Millionemine » はシリーズ4作目として製作されたものです。この後も俳優や監督を変えた「ブラウン物」作品が単発で幾つか発表されています。

ブラウン物第1作『夜の影』(Schatten der Nacht) ドイツ初公開時の広告
キネマトグラフ誌1913年1月315号

ブラウン物第3作『人と仮面 第2部』(Menschen und Masken II)
リヒトビルト・ビューネ誌1913年9月36号

『ブラウン大探偵』(Schatten der Nacht/Nachtschatten)1913年9月5日・みやこ座
『ブラウン探偵(前編)』(Menschen und Masken 1)1913年12月25日・みやこ座
『ブラウン探偵(後編)』(Menschen und Masken 2)1914年1月上旬・みやこ座
『天馬』(Die Millionemine)1914年1月11日・みやこ座
『猛火(褐色の獣)』(Die braune Bestie)1914年2月19日・みやこ座
『名馬(空中のブラウン・夜の影の秘密)』(Der Geheimnisvolle Nachtschatten)1914年4月・みやこ座
『盗まれたる百万金(探偵王)』(Ein Millionnraub)1914年7月・遊楽館


・スチュワート・ウエッブス探偵物(Detektiv Stuart Webbs)

エルンスト・ライヒャー主演。ドイツ無声期で最も長く続いた探偵活劇シリーズ。当初はヨーエ・マイが監督していたものの途中で主演との対立が起こり降板。ブラウン物がアクション重視だったのに対し、ウエッブス物は科学知識を駆使した謎解きの要素が強いとされます。日本では第3弾の『人か幽霊か』まで紹介されましたが大戦勃発の影響を受けその後紹介が途切れています。

『地下室(不思議の別荘)』
リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月11号

『續地下室(二人ドーソン大佐)』
リヒトビルト・ビューネ誌1914年3月13号

『地下室(不思議の別荘)』(Die Geheimnisvolle Villa) 1914年5月14日・帝國館
『續地下室(二人ドーソン大佐)』(Der Mann im Keller)1914年6月22日・帝國館
『人か幽霊か』(Der Geisterspuk)1914年6月22日・帝國館


・バスカヴィルの犬シリーズ(Der Hund von Baskerville)

アルヴィン・ノイス主演のホームズ物連作。この後デクラ社に移りシリーズ名をシャーロック・ホームズに変えて継続。

ホームズを演じたアルヴィン・ノイス
リヒトビルト・ビューネ誌1913年9月36号

『伏魔殿(淋しき家)』
キネマトグラフ誌1914年11月412号より

『伏魔殿(淋しき家)』(Das einsame Haus)1915年1月15日・電気館


・ルパン物(Lepain)

1914年前半に2作のみ製作されたルイス・ラルフ監督・主演の悪漢物。モーリス・ルブランの怪盗リュパンを念頭に置いていると思われますが綴りが違います。大戦勃発後製作が停止、戦後の1920~21年にかけて第3~6話の続編が制作されました。

リヒトビルト・ビューネ誌1914年2月8号

『血路(リイペエン)』(原題不詳)1914年9月22日・大正館
『馬賊の巨魁(無知の王ルパン)』(Der König der Unschuldigen)1915年2月27日・横濱オデオン座


・「女ブラウン」シリーズ(Miss Clever)

エレン・エンゼン・エック(Ellen Jensen-Eck)演じる女探偵ミス・クレヴァーを主演とした活劇。第一作『女ブラウン』(原題は「秘密城」)はフィルムが現存しオランダのEYEがオンライン公開しています。

『女ブラウン(黒三人組)』(Der Geheimschloß)1915年2月18日・横濱オデオン座
『續女ブラウン』(原題不詳)1915年3月31日・横濱オデオン座


・その他

『金剛』(Das Teufelsauge)1913年7月・キリン座
『心の閃(宝玉)』(Blau-Weisse Steine)1913年12月31日・キリン座
『天魔(ツエルノウスカ)』(Die Czernowska)1914年1月15日・電気館
『鬼探偵(黒十三結社)』(原題不詳)1914年2月11日・電気館
『スパイダー組(旋風/大探偵ブラウン)』(原題不詳)1914年2月28日・朝日館
『怪物(死したる客)』(Der Tote Gast) 1914年3月11日・みやこ座
『火中のブラウン探偵』(原題不詳) 1914年3月11日・みやこ座
『第二天馬(天馬續編)』(原題不詳)1914年7月14日・帝國館
『海底のダイヤ(下方の金剛石)』(原題不詳)1914年8月1日・横濱オデオン座
『白墨(爆弾の戒公)』(原題不詳)1914年9月20日・帝國館
『奪還(悪魔の爪に)』(Im Teufelskrallen)1915年1月1日・横濱オデオン座
『海と超人(海底鉄道)』(Der schienenweg unterm Ozean)1915年5月15日・横濱オデオン座
『治療室(間一髪/黒石竹花)』(Der Schwarze Nelke)1915年7月3日・横濱オデオン座
『バスカヴィルの熊/青自動車』(Der Bar von Baskaville)1915年7月10日・横濱オデオン座
『黒箱又はコブラ(社交界の賊)』 (Salonpiraten)1915年7月20日・横濱オデオン座
『三日間の死』(原題不詳) 1915年9月18日・横濱オデオン座
『コルソ城(晩かつた)』(原題不詳)1915年11月28日・帝國館
『隠証(暗室)』(Der Unsichtbare Zeuge)1916年下旬・みくに座
『疑問』(Der Trick. Welcher von Beiden?)1916年下12月・絹輝館


原作が特定できていない作品も多く、同一作品が二度、名前を変えて公開されているようなケースも見受けられます。完璧なリストではないのですが一定の傾向は見えてきます。

ブームの火付け役となったのが日活系の上野みやこ座で、ジャンルの先駆者であるヨセフ・デルモント作品やブラウン探偵物を紹介。次いで1914年に松竹系の帝國館でウエッブス探偵物が公開されるようになります。ブームに同調する形で横濱オデオン座やキリン座でも他シリーズの作品や単発ドラマが公開。同年夏に大戦が勃発し輸入が途切れるものの、1915~16年にかけても一部作品は細々と紹介されていたようです。

結構な数になりますが、本国ではこれでも序の口に過ぎなかったようです。戦中1916~17年にかけジョン・ディード探偵物、ハリー・ヒッグス探偵物、ウィリアム・カーン探偵物、ファントマス連作、ネモ博士連作、ジョー・ジェンキンス探偵物、トム・シャーク連作…20以上ものシリーズが制作され「探偵活劇のインフレ(die Inflation des Detektivfilms)」と形容される状況になっていきました。

日本ではドイツ犯罪活劇でも初期の作品、特にケリー・ブラウン物の人気が高く「天」「馬」「ブラウン」といったパワーワードを散りばめる形のプロモーションが中心となっていきました。一方のドイツでは戦中期に継続して公開されていたウェッブス物やジョン・ディーブス物の知名度、評価が高く日本との温度差が目立つ形になっています。


[参考文献]

・『カメラの目と直感:初期ドイツ映画における探偵たち』セバスティアン・ヘッセ著(独語)
« Kamera-Auge und Spürnase : der Detektiv im frühen deutschen Kino » Sebastian Hesse, Stroemfeld Verlag, Frankfurt – Basel 2003

・「エルンスト・ライヒャー、又の名をウェッブス探偵:ドイツ犯罪活劇映画の王」セバスティアン・ヘッセ(英語)
« Ernst Reicher alias Stuart Webbs: King of the German Film Detectives » Sebastian Hesse,
 in « A Second Life: German Cinema’s First Decades », Amsterdam University Press, 1996


・「日本におけるドイツ映画の公開 -1910年代を対象として-」 山本知佳
 日本大学文理学部人文科学研究所第97号、2019年研究紀要

・1914年上半期公開映画リスト「活劇、探偵劇」
 キネマ・レコード1914年7月 通巻第13号、キネマ・レコード社

・その他「キネマトグラフ」、「リヒトビルト・ビューネ」等当時物のドイツ語映画誌


1924 -『ニーベルンゲン』独プレミア上映用パンフレット

フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items]より

« Die Nibelungen: Ein Deutsches Heldenlied »
(Decla-Bioscop / UFA, Germany, 1924. Original program for the German premiere of the film « Die Nibelungen: Sigfried » on February 14, 1924)

デクラ=ウーファ社作品『ニーベルンゲン』は1924年2月14日、ベルリンのウーファ・パラスト・アム・ツォー館にて封切られた。

Der Decla=Ufa=Film « Die Nibelungen » wurde am 14. Februar 1924 im Ufa=Palast am Zoo in Berlin das erste Mal öffentlich ausgeführt.

1924年2月14日、ニーベルンゲン2部作の第1部『ジークフリート』がプレミア公開された際の公式パンフ。12.5×17.5センチで全24頁。冒頭に見開きでスタッフ名/キャスト名の一覧。

何よりニーベルンゲン映画で20世紀に神話の世界を生き生きと蘇らせたかったのです。生き生きと、見た人が信じてしまうほどの迫真さで。

「ニーベルンゲン映画の着地点」フリッツ・ラング

Vor allem aber hoffte ich, im Nibelungen=Film die Welt des Mythos für das 20. Jahrhundert wieder lebendig werden zu lassen, – lebendig und glaubhaft zugleich.

« Worauf es beim Nibelungen=Film ankam », Fritz Lang

内容は監督ラング、脚本テア・フォン・ハルボウの寄稿文と、二部作のあらすじを収録。ラング、ハルボウに登場人物8名を加え計10枚の写真があしらわれています。

『ニーベルンゲン』最初の公式紙資料であり、監督・脚本のエッセイが掲載されていることから史料価値が高く、先日触れたドキュメンタリー映画『ニーベルンゲンの遺産』でも紹介されていました。

[内容]
「ニーベルンゲン映画とその製作」(Vom Nibelungen=Film und seinem Entstehen)テア・フォン・ハルボウ
「ニーベルンゲン映画の着地点」(Worauf es beim Nibelungen=Film ankam)フリッツ・ラング
「ニーベルンゲン第一部『ジークフリート』あらすじ」(Inhaltsangabe für Nibelungen I. Teil « Sigfried »)
「ニーベルンゲン第二部『クリムヒルトの復讐』あらすじ」(Inhaltsangabe des 2. Teiles der Nibelungen « Kriemhilds Rache »)

アスタ・ニールセン(1881 – 1972)、1949年の書簡

北欧諸国 [Nordic Countries]より

Asta Nielsen 1949 Singed Letter

1949年10月11日
親愛なるフィッシャー樣

お問いあわせ心より感謝しております。
(そうそう、ドイツ語で書かないといけないですよね)
「スイス画報」誌のためとの話で心より感謝申し上げます。 御誌への好奇心がムクムク湧いてきています。
最近撮った写真は手元に御座いませんのでご了承くださいませ。
貴殿と御誌のご発展を心よりお祈り申し上げます。
かしこ

アスタ・ニールセン

11.10.49

Käre Her Redaktör Fischer.

Hjertelig Tak for Deres Henvendelse For mi (det er sandt, jeg maa jo skrive Tysk)
Also, herzlichem Dank für Ihre Bemühung mit der Schweizer Illustrierten, nun bin ich neugierig, ob ich etwas davon höre.
Wie ich Ihnen schon hier sagte, bin ich nicht im Besitz von Bildern aus der letzte Zeit.
Ich hoffe, dass es Ihnen beide nach Wunsch geht und sende dir herzlichste Grüsse.
Ihre sehr ergebene,

Asta Nielsen

アスタ・ニールセンが戦後の1949年、スイスの雑誌の編集者に送った書簡。記事用に近影の写真を所望した編集者にやんわりと断りを入れた内容です。折りたたんで封をすると三辺にミシン目ができるタイプの封筒を使用。印刷された15オーレの切手の脇に5オーレの切手が追加で貼ってあります。

最初はデンマーク語で書き出しながらすぐドイツ語に変わるのですが、狙ってやったわけではなく間違えに途中で気づいてそのまま修正し書き続けたように見えます。ミスタイプを打ち直した個所も多く、秘書に打ってもらったのではなく本人がタイプしているのではないのかな、と。

オスロ(ノルウェー)のホテルに滞在しているスイスの雑誌の編集者に宛て、デンマークからドイツ語の手紙を書く…欧州を股にかけて活躍した名女優さんらしいスケールの大きな話です。

1926年12月、ケルンで残されたと思われる
サイン入り絵葉書

Asta Nieslen Signed Card

雑誌切抜きを貼りつけた手製カードに
(戦後、1940年台後半から50年台始め)

アスタ・ニールゼン、彼女の名は今や我愛活家の腦裡より忘れられようとして居るけれどもニールゼンはその藝能に於て又技巧に於て、他の追從を許さぬ獨得の領域を持つた名女優であつた。幻惑的な嫋弱[たおやか]なすつきりした姿、人の胸に迫る沈痛な面持。ニールゼンには斯うした北歐の女性の備ふる典型を持つて居る。さうしてその五體より湧き出る彼女の表現、夫[それ]はあの物寂たビオスコツプ藝術映畫に缺くべからざる權威でもあつた。『ハンナ嬢』の如き、『愛の叫び』の如き、『女優の末路』の如き、『浮縁の血統』の如き、實に彼女の藝術の一旦を伺ふにて遺憾なきものであつた。

ニールゼンの生國は平和に満ちた丁抹である。北歐劇壇にニールゼンの名が漸く表れ始めた頃、彼女は故国を後にして独逸伯林の都に來て、劇作家ウルバン、ガツトウ氏と知り、兩者は戀にも生き、結婚して共々ビオスコツプ社の招聘により、ガツトウ氏劇作指導の下にニールゼン映畫を作る事となり、數十の映畫を撮影したのであつたが、折から戰亂となり、嬢は夫君と共に避けて故國丁抹に歸つた。

「歐州活動女優物語:アスタ・ニールゼン嬢」
『活動画報』 1919年8月号

身振りの多様さと表情の豊かさは、アスタ・ニールセンの場合驚嘆に値する。

「アスタ・ニールセン:その愛の演技と老け役の演技」
ベラ・バラージュ『視覚的人間』岩波文庫版所収
(佐々木基一、高村宏訳)

1921年『女ハムレット』より


[Movie Walker]
アスタ・ニールセン

[IMDb]
Asta Nielsen

[出身地]
デンマーク(コペンハーゲン)

[誕生日]
9月11日

ケーテ・ハーク Käthe Haack (1897–1986) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Käthe « Käte » Haack c1920 Autographed Postcard

1910年代に女優デビュー、戦前〜戦後と途切れることなく映画出演を積み重ね、亡くなる直前の1985年まで長い役者人生を送ったのがケーテ・ハークでした。

女優に憧れ10代でレッシング劇場と契約を結んだ直後にマックス・マック監督の目に留まり、その勧めに従って映画界に入ったそうです。演技に芝居がかった大袈裟さがなく、独特の柔らかさと温かみを帯びています。そのため自然体の演技を好む監督さん(パウル・レニ、フィル・ユッツィ、ゲルハルト・ランプレヒト、パブスト、オフュルス)との相性が良く、とりわけ20年代のランプレヒト作品の常連になっていました。同監督が1931年に発表し、日本でも人気の高い『少年探偵団』(日本での公開後に原作邦訳が三冊同時出版されたそうです)で探偵エミール君の母親を演じていたのもそういった流れに連なるものです。

その後母親役から老け役へ、活動拠点も映画からテレビに移っていきます。女優歴は71年に及び、ダニエル・ダリュー(80年)やリリアン・ギッシュ(76年)に次ぐ息の長いものとなりました。特定の映画会社の花形女優ではなかったため雑誌の表紙を飾ることは稀でしたし、知名度で言っても先の二人にはかないませんが、彼女の出演作にはドイツ戦前映画の裏名作が多く含まれていて質的に見劣りしないものです。

今回入手した絵葉書は名前が「Käthe」ではなく初期の「Käte」表記となっている一枚(発音は変わらず)。サインもKäteと書いていますので1910年代末から20年頃でしょうか。

[IMDb]
Käthe Haack

[Movie Walker]
ケーテ・ハーク

[出身地]
ドイツ(ベルリン)

[誕生日]
8月11日

[データ]
[Photochemie, Berlin. K.1863. Bildnis von A. Binder, Berlin] 9.0 × 13.6cm

イローナ・カロレヴナ Ilona Karolewna (生没年不詳) ウクライナ

Ilona/Jlona Karolewna Late 1920s Autographed Postcard

イローナ・カロレヴナ嬢はキエフの生れである。踊り子となつてサンクトペテルブルクで初舞臺を踏んだ。歐州を興行で回り伯林に留まる事を選んだ。映畫界に足を踏み入れ、独逸映畫協会(DEFU)で幾つか端役を経験した。その後、巴里のシネロマン社と契約を結び、同社で数年の活躍を見せた。現在は映画界から完全に足を洗つている。

(「A-Z:ルクセンブルグ週刊画報」1935年11月24日付)

Ilonka [sic] Karolewna wurde in Kiev geboren. Sie wurde Tänzerin und trat zuerst in St. Petersburg auf. Sie machte ein Tournee durch Europa und blieb in Berlin. Als sie zum Film trat sie in einigen kleinen Rollen bei der Defu [Deutsche Film Union] auf. Sie wurde ferner von der Direktionder Cinéromans in Paris engagiert und spielt einige Jahre für diese Gesellschaft. Jetzt sie sich ganz zurück gezogen. (A-Z : Luxemburger illustrierte Wochenschrift, 24/11/1935)

オーストリア演劇博物館所蔵のポートレート
https://www.theatermuseum.at/de/object/0efa0d1169/

1920年代半ばに踊り子として訪れた欧州で話題を集め、ファッション・モデルや商品広告など写真の被写体として活躍。ほぼ同時期に映画出演を始めていて、マックス・ランデがヴィルマ・バンキーと共演した『脱線曲馬王』の端役で女優デビュー。ドイツのハリー・ピールの目に留まり、同氏が監督主演した2作のサーカス物『黒い道化師』(1926年)『ビーリー曲芸団』(1927年)の主要キャストに抜擢。その後フランス拠点で女優活動を続け30年代初頭に製作された旅芸人映画を最後に業界を離れています。

『ビーリー曲芸団』(Was ist los im Zirkus Beely?、1927年)より

出演作のうち『ビーリー曲芸団』は以前から現存が知られていてデジタル修復もされていました。もう一方の『黒い道化師』は遺失作品とされていますが、チェコのフィルム収集家が35ミリポジを所有しているようで一部がユーチューブで公開されていました。

[IMDb]
Ilona Karolewna

[Movie Walker]


[出生地]
ウクライナ(キエフ)

[データ]
Phot. A[nton]. Sahm. München. 8.8 × 13.7 cm

1928 – 9.5mm 『スピオーネ』(フリッツ・ラング監督) 独パテックス社4リール版

「フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items]」より

Spione (Early 1930s German Pathex 9.5mm Version)

昨年『メトロポリス』『ファウスト』で世話になったドイツのフィルム収集家ヴォルフ・ヘルマンさんと再度ご縁があり、ラング監督のスパイスリラー『スピオーネ』9.5ミリ版全4巻を入手できました。

英パテスコープ社版は現存数が多く市場で何度か見た覚えがあります。こちらは流通数の少ない独パテックス版。『スピオーネ』は複雑に絡みあうサイドストーリーやサブプロットが特徴なのですが、そういった要素はカットされ、悪漢ハギー(ルドルフ・クライン=ロッゲ)と英国諜報員326号(ヴィリー・フリッチ)、その狭間で揺れる女スパイ・ソニア(ゲルダ・マウルス)三者の駆け引きに重点を置いた展開に編集されています。

リール1:ハギーの指令で326号に近づいたソニアが恋に落ち、お守りを渡すまで
リール2:前半はソニアに騙された326号が自暴自棄になる展開。後半は日本外交官マスモト/マツモトの秘密書類をめぐる駆け引き
リール3:ハギーが急行列車で諜報員326号謀殺を図る件
リール4:ハギーがソニアを人質に諜報局を脅迫〜銀行爆破、逮捕劇

キャスティングの魅力、語りのスリリングさ、強いインパクトを残す構図…ラング世界を9.5ミリフィルムの質感で追体験できるのは至福の時間でした。

1930年代中盤 – 9.5mm 『ニーベルンゲン 第一部:ジークフリード』(1924年) & 『メトロポリス』(1926年)独パテックス版予告編

「フリッツ・ラング関連 [Fritz Lang Related Items]」より

« Nibelungen » & « Metropolis »
c1933 German Pathex 9.5mm trailer


1933〜34年頃、独パテックス社がプロモの為に制作した9.5ミリ版の予告編。

ちょうど昨年の今頃、古い映写機をベースに9.5ミリ専用スキャナーの制作を行っていました。この際、解像度を確認していくサンプルに使用していたのこの予告編でした。コマ数がそこまで多くないため扱いやすかったのと、自分自身のモチベーションを上げるのにちょうど良かったのかなと思います。

綺乃九五式はその後レンズ回りを中心に改良を加えています。どのくらい画質が向上したのか確認してみました。

まずは『ニーベルンゲン 第一部:ジークフリートの死』から。左が2019年10月9日にラズパイカメラのV2を使ってスキャンした画像。右が2020年9月5日にラズパイHQカメラで同一フレームをスキャンした画像です。

昨年スキャンを行った際は、光の散らし方が上手くいっておらず画面右に明るい個所がまだら状に発生、文字が滲んでいました。今回のスキャンではその欠点が修正されています。

またHQカメラに切り替えたことで解像度が向上、細やかな濃淡をシャープに撮影することができるようになっています。主人公の腰の辺りを拡大してみました。

汚れや傷もクリアになっているのが分かります。

ニーベルンゲン予告編の最後のショットと、『メトロポリス』予告編の最初の場面。どちらも縦線が強調された構図です。旧スキャンにはわずかながらレンズの「歪み」があります。いわゆる「球面収差」に関わる話で、右のHQカメラの方が縦横の直線を正確に描写できています。

新スキャンの方では肌のグラデーションが自然に再現されています。

映写機で投影した画像と比べれば旧スキャンでも十分にシャープな映像だとはいえます。ラズパイHQカメラは一段階アップグレードされていて目標に一歩近づいた気がします。後はノイズ除去や修復力勝負ですね


ミッツィ・パルラ Mizzi Parla (生没年不詳) 独

「ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Mitzi Parla Autographed Postcard-1

フランスの映画製作会社にとって、ドイツ帝国は疑いもなく最も魅力的なマーケットのひとつであった。自国の競争力が充分ではなく、1914年時点でさえメスター社、PAGU社、ヴァイタスコープらの製作会社だけでは自国の映画館での需要を満たすことができなかったのである。

(「フレンチ・コネクション:第一次大戦以前の仏独映画連携」)

For French film producers, the German Reich was undoubtedly a most attractive market. National competition was not up to par (even as late as 1914, firms such as Messter, PAGU and Vitascope were unable to satisfy the demand from German cinemas out of their own production […].

« The French Connection: Franco-German Film Relations before World War I »,
Frank Kessler and Sabine Lenk
in A Second Life: German Cinema’s First Decades (1996)

サイレント映画産業が発達し始めた1910年代、普仏戦争の遺恨を残しつつも仏独ではある程度の交流は行われていました。特にフランスの映画界はドイツ進出に積極的で、多くの大手会社がベルリンを拠点に自作配給を行っています。

1913年頃から反仏感情が掻きたてられ、プロパガンダを交えた喧々諤々の状況となるとフランスの映画製作会社はそれぞれの対応を始めた。パテ社はフランス語の響きが強い「パテ・フレール社」を旗印とした配給を続けていた。レオン・ゴーモンは自社作品をドイツの配給網に委ねることに決め、1913年9月12日には「独ゴーモン社」を設立した。

As from about 1913 onwards anti-French feelings were being stirred up and propaganda polemics came to the fore, French firms reacted in different ways. Pathe continued to advertise with its own French-sounding name ‘Pathe Freres & Co’ and kept its own distribution. Leon Gaumont decided to have his films handled by well-known German distributors […]; he also founded the ‘Deutsche Gaumont Gesellschaft’ on September 12th, 1913.

当初、ゴーモン社はフランスで公開していた作品(看板女優シュザンヌ・グランデ主演ドラマ、子役ビュビ君シリーズ、レオンス・ペレ監督の短編コメディ、ドキュメンタリー作など)をそのまま輸出していました。1913年秋から様相が変わってきます。組織改編に伴い、ドイツ人俳優を主演としドイツ国内で制作されたオリジナル作品が封切られていきます。

第一弾は実力派の若手俳優レオ・ポイカートを主演とした『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』でした。1913年10月4日公開。同作品にヒロインとして登場したのがミッツィ・パルラでした。

Mizzi Parla in Durch Leid zum Glück [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『悲しみから幸あり(Durch Leid zum Glück)』

歌と踊りを得意とし、明るい性格でステージの人気を得ていたようです。レオ・ポイカートとのダブル主演映画は初めてではなく、これ以前にもBB映画社~タルガ映画社で数本製作されています。独ゴーモンがタルガ映画社に制作を委託して時代の流れに対応したのが実際の様です。

またこの時期の仏ゴーモン社は初期トーキーの実験を行っていました。フィルム上で録音をシンクロさせた訳ではなく、映写機に併設された「蓄音機」で音を出すゴーモン社独特のシステムを開発。ルドルフ・クリスティアンとミッチ・パルラ主演の『おいらの女中』がこの方式で製作され、実際にウニオン劇場で公開された記録が残っています。

10月半ばには独ゴーモンオリジナル作品第二弾の『エルゼは踊る(Tanz=Else)』公開。ミッツィ・パルラの単独主演作で映画誌の表紙も飾っています。

Mizzi Parla in Tanz-Else [Kinematographische Wochenschau, 1913]
『エルゼは踊る(Tanz=Else)』

こういった活動も歴史の流れに逆らうことはできませんでした。1914年8月に独仏が開戦、独ゴーモン社は映画製作・配給機能を停止。ミッツィ・パルラはBB映画社で映画出演を続けますが次第に露出も減り1918年の短編を最後に業界を離れています。

[IMDb]
Mizzi Parla

[Movie Walker]

[出身地]
不明

[誕生日]
不詳

[サイズ]
8.6 × 13.5 cm

[データ]
Verlag Photochemie, Berlin N. K.273 Bildnis von A. Binder, Berlin

1926 – 9.5mm 『ファウスト』(F・W・ムルナウ、英パテスコープ版、4リール)

「9.5ミリ 劇映画」より

獨ウーフア映畫『フアウスト』

「最後の人」を發表したフランク・W・ムルナウ氏は又、昨年、この驚嘆すべき特作映畫を物した。

原作は文豪ゲーテの不朽の藝術たる事は人既に知る所。ムルナウは今、卓抜した才能を縦横に發揮して、この大作品を完成したのである。

キヤストは次の通り。ファウストに扮するのは北歐コペンハーゲンの名優ゲースタ・エクマン、フアウストを誘惑するメフイストフヱレスには有名なエミール・ヤニングスが扮し、可憐なグレチヘンは、新たに見出された年若き名花カルミラ・ホルンがつとめ、マルテ夫人をイヴエツト・ギルベルトが巧にこなしてゐる。とまれ、映畫「フアウスト」は万人を驚倒させるに足るだけの内容なり表現なりを具へてゐる事に間違はないのである。

『日本映画年鑑 第三年版』(1927年、朝日新聞社)

ムルナウ作品で唯一9.5ミリ化されたのが本作。4巻構成で上映時間は50分弱、オリジナルの半分ほどに切り詰められた短縮阪となります。第一巻はメフィストフェレスを召還した老学者ファウストが若さを手に入れるまで。第二巻はイタリア滞在を経て地元に戻ったファウストがグレッチェンと恋に落ちるまで。第三巻はファウストとグレッチェンの逢瀬が家族に見つかるまで。第四巻でその後の展開と最後の救済を描いています。

『日本映画年鑑』はグレッチェンの叔母マルテを演じるイヴェット・ギルベールに言及していました。

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マルテを演じるイヴェット・ギルベール(Yvette Guilbert)

19世紀末~1900年代初頭のパリで活躍した歌手で、不倫などの背徳的なテーマや下品なコミックソングを得意としていました。独特の存在感があって当時ロートレックやピカソ等が彼女をモデルに絵を描いています。美術の授業で見た覚えがあるのではないでしょうか。

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ロートレックによるイヴェット・ギルベール、1894年

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ホモセクシュアルだったムルナウは男女のピュアな恋愛(ファウストとグレッチェン)をどこか完全には信じていない節があります。メフィストフェレストとマルテの生々しい肉欲を楽し気に描いている件もそうで、キリスト教社会の「正しさ」に細部で抵抗していく姿勢は『サンライズ』から『タブウ』でも再登場してきます。最後に愛は勝つ風の美談は市場向けの綺麗事で、表現者ムルナウの本質はこういった場面にチラチラと見えているのかな、と。

[原題]
Faust – Eine Deutsch Volkssage

[公開年]
1926年

[IMDB]
Faust – Eine Deutsch Volkssage

[Movie Walker]
ファウスト

[メーカー]
英パテスコープ版

[メーカー記号]
SB740

[9.5ミリ版発売年]
1933年

[フォーマット]
9.5mm 無声 4リール(49分)

大正5年 (1916年) マックス・マック編著『ザッペルンデ・ラインヴァント(活動寫眞)』

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「ザッペルンデ・ラインヴァント(Die Zappelnde Leinwand)」は「躍動するスクリーン」の意味合いで、1910年代のドイツ語圏でムービング・ピクチャー(活動寫眞)の訳語に使われていたようです。しかし早くから映画(Kino)の言葉が定着していたこともあり、実際には普及することなく消えていきました。

本書は1916年に発表された映画界の紹介本。映画監督・俳優として人気のあったマックス・マック(以前に1912年の 『コレッティを探せ(Wo ist Coletti?)』8ミリ版を紹介済)が編纂したものです。後に『ヴァリエテ』監督として世界的な名声を得るE・A・デュポンが執筆者一覧に名を連ねています。

この書籍が出版された頃は第一次大戦が激化しており、それまで人気のあったアメリカやフランス製の映画輸入が途切れています。ドイツ映画界は自給自足で回していかざるをえなくなりました。次第に花形俳優たちが現れていき、後の1920年代全盛期の基礎を築いていった時期に当たります。

グラスハウス・スタジオの様子や、撮影時にスタッフが守るべきマナーなど製作者目線の記事が見られる一方、新たにドイツ映画界を輝かせている俳優たち(ミーア・マイ、ハンニ・ヴァイセ、エルナ・モレナマリア・カルミヘラ・モヤ、リタ・サチェット、レッセル・オルラマリア・オルスカ)の紹介が行われています。

映画産業がようやく形を取り始めたこの時期、「映画論」の発想はまだありませんでした。それでも監督や脚本畑の人たちを中心に状況を改善しようとする動きがあって、一つの大きな転換点が1919年の『映画製作論(Wie ein Film geschrieben wird und wie man ihn verwertet)』だとされています。同書の著者は『ザッペルンデ・ラインヴァント』にも参加していたE・A・デュポン。その意味で本書は「映画の理論化」を生み出していく大きな流れの一部だったと見る事もできます。

[原題]
Die Zappelnde Leinwand

[出版者]
アイスラー&Co.(ベルリン)

[出版年]
1916年

[フォーマット]
ハードカバー(紙カバー欠)、144頁

1912 – ノーマル8 『コレッティを探せ』(1912年、マックス・マック監督)

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1912年に公開されたドタバタ喜劇。「探偵コレッティを48時間以内に捕まえることができたら100万マルク進呈!」の広告に人々が踊らされていく様子をコミカルに描いていきます。定番の追跡から女装まで様々な要素をコンパクトに詰めこみ、ベルリン市街地での撮影で都市風景をうまく取りこんでいます。

ヒロイン役で登場しているのは英女優のマッジ・レッシング。1900~10年代の綺麗目ポストカードも多く残っている女優さんながら、本作ではかなりはっちゃけた感じでドタバタを楽しんでいます。また途中に初期の個性派俳優として知られるハインリヒ・ピール(Heinrich Peer)も登場しています。

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女装中のマックス・マック(左)とマッジ・レッシング(右)
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ハインリヒ・ピール(右)

[原題]
Wo ist Coletti?

[製作年]
1912年

[IMDB]
tt0003565

[メーカー]
独DEFA社

[カタログ番号]
222

[フォーマット]
ノーマル/スタンダード8 60m(無声)