レンケッフィ・イツァ Lenkeffy Ica(1896–1955)と『シュラムの乙女(Szulamit)』(1916年、イレシュ・イェネー監督)

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1910年代ハンガリー映画(05)

1896年、役者夫婦の娘としてミシュコルツに生れる。正式に演劇の勉強を学ぶことなく10代半ばにしてコメディ劇場で初舞台を踏む。後にハンガリー劇場や王立劇場とも契約するなど舞台女優との活動記録も残されています。キャリア初期の無名時代から映画に出演、1~2リール物の喜劇やメロドラマでヒロインを務めたハンガリー映画女優のパイオニアでした。

1912年の初期喜劇『戀は口に苦し』より

キャリア最初期の短編喜劇『恋は口に苦し(Keserű szerelem)』は一言で要約してしまうと意に沿わない高齢求婚者を下剤で追い払う話です。

1916年にはイレーシュ・イェネー監督『シュラムの乙女(Szulamit)』に主演。山中で迷い井戸に落ちた少女と、彼女を助けた騎士の間に生まれるロマンスを描いたものです。ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル地区でロケ撮影され全編に旧約聖書風の異郷感が漂っています。『演劇生活』誌1916年13号では3頁に渡る映画評とイェネー監督による同じく3頁分の寄稿で小特集が組まれていました。

『シュラムの乙女(Szulamit)』特集記事より

この一作だけでも十分にハンガリー映画史に残る貢献ですが、彼女はもう一つ重要作に主演しています。ベレギ・オスカーと共演した1919年作『黄金の男(Aranyember)』です。

『黄金の男(Aranyember)』公開時に「演劇生活」1919年6号の表紙を飾る

『黄金の男(Aranyember)』でのレンケッフィとベレギ

この後1920年頃からイカ・フォン・レンケフィー名義でドイツ映画に進出。1922年にはエミール・ヤニングスが主演したシェークスピア映画『オセロ』でヒロインのデスデモナ役を務めました。翌1923年に銀行家と再婚し女優業を離れています。


[IMDb]
Ica von Lenkeffy

[IMDb]
Szulamit

[Hangosfilm]
Szulamit

ベレギ・オスカー Beregi Oszkár (Sr.) (1876 – 1965) と『黄金の男』(1919年)&『怪人マブゼ博士』(1933年)

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1910年代ハンガリー映画(03)

Beregi Oszkár (Sr.) c1909 Autographed Postcard

1890年代末から本格的に演劇活動を始め、劇場を転々としつつ下積みを重ね、1900年代に人気役者の仲間入り、映画産業の勃興した1910年代に人気のピークを迎えています。

舞台では古典劇、歴史劇を得意としハムレットやリア王、ファウスト等を十八番としていました。

『演劇生活』誌1917年第22号表紙
同号では小特集が組まれ少年時代の写真も掲載されていました

声が魅力の一つでもあったため無声映画との相性を疑問視する声もありましたが、コルヴィン映画社からの主演作で杞憂だと証明してみせました。1917年には4作品で主演、この内一本がコルダ・シャーンドル監督作『カリフの鶴』(Gólyakalifa)です。二年後に再度コルダ監督と組んで製作されたのが『黄金の男』(Az aranyember)でした。

『演劇生活』誌1917年第43号より
『カリフの鶴』スチル

『黄金の男』より
左端に義母役のベルキー・リリ

19世紀後半の同名小説を原作としたもので、オスマントルコからドナウ川を越えてハンガリー領に入ろうとしたトルコ人の父娘と、二人を助けようとしたハンガリー人大尉(ベレギ)の物語を綴っていきます。

1920年代になるとドイツ映画界に進出。マイケル・カーティスの大作歴史劇『イスラエルの月』(Die Sklavenkönigin、1924年)等で活躍、短期間ハリウッドにも渡りますが旧大陸と同じ成功を収めることはできませんでした。

マイケル・カーティス監督作品『イスラエルの月』(1924年)より

映画キャリアの代表作となるもう一作はトーキー到来後の1930年代に公開されています。フリッツ・ラング監督の戦前ドイツ最終作となる『怪人マブゼ博士』(Das Testament des Dr. Mabuse、1933年)です。怪優ルドルフ・クライン=ロッゲを相手に一歩も引かない濃厚な演技にハンガリー戦前演劇を支えてきた名優の意地を見ることができます。

『怪人マブゼ博士』(1933年)でのベレギ(左)とルドルフ・クライン・ロッゲ(右)

[IMDb]
Oscar Beregi Sr.

[IMDb]
Az aranyember

[Hangosfilm]
Az Aranyember

ホッライ・カミッラ(Hollay Kamilla / Camilla von Hollay, 1899 -1967) と『アフロディーテ』(1918年、デエーシ・アルフレード監督)

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1910年代ハンガリー映画(04)

Hollay Kamilla 1910s Autographed Postcard
Hollay Kamilla 1910s Autographed Postcard

ハンガリー映画の黎明期に勢いのあったスター映画社と契約を結び、イレーシュ・イェネ監督作品『János vitéz』(1916年)の脇役として映画デビュー。同作で主演を務めたデエーシ・アルフレードが監督転向後、その作品のヒロインとして重用されるようになりました。

デエーシ・アルフレード監督作品
『Siófoki történet』でヒロインを務める
「演劇生活」誌1917年44号より

水着姿での一枚
「演劇生活」誌1918年35号

スター映画社の宣伝ページ
「演劇生活」誌1918年46号より

スター映画社の作品はほとんど残っていないのですが、近年の調査から少なくとも3本の現存が確認されハンガリー国立映画アーカイヴに返還されました。その一本『アフロディーテ』(1918年)にホッライ・カミッラ名義時代の演技を見ることができます。

Hollay Camilla in Afrodite (1918)

『アフロディーテ』(1918年)より

「演劇生活」誌1918年37号スター映画社
特集記事より『アフロディーテ』スチル

1922年からはカミーラ・フォン・ホレイ名義でドイツに活動拠点を移します。日本でも公開された表現主義調の戦争ドラマ『世の果』では準ヒロインの妊婦役を演じていました。

Hollay Camilla in Am Rande der Welt (1927)

『世の果』(Am Rande der Welt、1927年)より

[Movie Walker]
カミーラ・フォン・ホレイ

[IMDb]
Camilla von Hollay

[Hangosfilm]
Aphrodite

ゴンバセージ・フリーダ (Gombaszöghy/Gombaszögi Frida, 1890 – 1961) と『私は死にたい』(1918年、アンタルッフィ・シャーンドル監督)

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1910年代ハンガリー映画(02)

1890年生まれ。1909年演劇学校卒業後に舞台女優の活動を始め、1910年代中盤にかけ知名度を上げていきます。1916年にコメディ劇場(Vígszínház)付き女優となり、翌年から主役が付き始め以後1933年まで同劇場花形として活躍します。

コメディ劇場(Vígszínház)と契約後 初めて「演劇生活」誌表紙を飾った1916年第8号(2月)

同劇場で花形となり
「演劇生活」誌1917年第1号の表紙を飾る

1918年末、アンタルッフィ・シャーンドル監督・主演作
『ボディガード(A testõr)』でヒロインを務める

1919年に一青年による襲撃を受け、顔面部を撃たれるという事件の被害者となりました。著名な整形外科医エルネー・ラースローによる施術で傷はほとんど見えない状態まで回復しましたが、しばらくの間休業を余儀なくされます。事件当時、『演劇生活』誌では「病気による数ヵ月の療養」と説明されており襲撃の事実は伏せられていました。

1922年にハンガリー新聞業界の大物ミクローシュ・アンドール氏と二度目の結婚。同氏が1933年に亡くなった後に事業を引き継ぎ女優業から一旦は引退。戦後になって演劇活動を再開し1961年に亡くなっています。

1917〜20年にかけ数作の映画に出演。確認できる限り最も古い出演作はマイケル・カーティスの初期作『Farkas』(1917年)。その後レックス映画社(Rex Filmgyár)で無名時代のポール・ルーカス(Lukács Pál)と共演。1918年に公開された『私は死にたい(Vorrei morir)』が現存しハンガリー国立映画協会がVimeoで公開しています。舞台色の強いメロドラマながらバストショット〜クローズアップでの感情表現は質が高く見るべきものがあります。

[IMDb]
Vorrei morir

[Hangosfilm]
Vorrei morir

フェダーク・シャーリ (Fedák Sári, 1879 – 1955)と『三週間』(1917年、ガラシュ・マールトン監督)

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1910年代ハンガリー映画(01)

『シビル』(1914年)より

『シビル』(1914年)より、直筆サイン入り絵葉書 右は共演のアールパード・ラタバール(Árpád Latabár)

フェダーク・シャーリは1890年代末からの長いキャリアを持つオペレッタ女優です。1910年代中盤には『シビル』(1914年)、『謝肉祭』(1916年)、『大理石の花嫁』(1917年)で人気のピークを迎えていました。

1917年に初めて映画に出演。英作家エリノア・グリンの同名小説を下敷きにした『三週間』(Három hét)です。『演劇生活』誌ではブダペストで公開された際のリポートが掲載されていました。前売り券が売り切れ、当日券の発売がなく見れない人々が続出したエピソードが紹介されています。

『三週間』の功績の一つとして同国の舞台劇愛好家に「映画」を認識させた点を挙げることができます。当時、まだまだ映画は格下のジャンル、見世物だと考えている人が多くいました。絶大な人気を誇っていたフェダーク・シャーリが映画に主演した事自体がインパクトであり、風向きの変化を後押ししていきました。

ドイツ・キネマテークが公開しているドイツ語版

[IMDb]
Három hét

[Hangosfilm]
Három hét

1918 – 『演劇生活』誌 28号〜39号(7~9月) 合本 « Színházi Élet »

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1910年に創刊されたハンガリーの演劇週刊誌。18年夏〜秋の12冊を合本にして愛蔵版としたもの。グラビア、新作劇の紹介・講評、劇中歌の楽譜や諸々のエッセイ、広告を含んだ内容です。1冊の紙数は52ページで12冊だと600頁になります。

第一次大戦の負け戦がほぼ確定となっていて、オーストリアのハプスブルグ家から独立し共和国となる(1918年11月)直前、国として大きな岐路に立っていた時期に当たります。エンタメ誌ですので政治の話はされていませんが、ハンガリー俳優がハンガリー語で演じた劇を扱った雑誌が売れるようになった状況そのものが文化アイデンティティの自覚とつながっていたのでしょう。

終戦後、国内に平和が戻ってくるとハンガリー演劇はさらなる盛り上がりを見せ、アイドル的な雰囲気を漂わせた若手も目立つようになってきます。今回入手した雑誌はその直前でガチの演劇人が多く登場してくる印象があります。

またこの時期にハンガリーでも映画産業が拡大しておりグラビアや特集で登場してくる役者たちも多かれ少なかれ映画と接点を持っていました。手元の合本でも幾つかの記事で映画作品や映画会社が取りあげられています。20年代には舞台と映画の棲み分けがはっきりしてくるので過渡期的な状況と見ることもできます。

◇◇◇

ハンガリー初期映画に関わる記事や写真を幾つかピックアップしてみます。

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35号ではマイケル・カーティス監督の初期作『99』が取りあげられています。後にハリウッドに渡って初代ドラキュラとなるベラ・ルゴシの初期作品でもあります。ヒロイン役はクレール・ロットー

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次いで37号でデエーシ・アルフレード(Deésy Alfréd)監督の『アフロディーテ』の紹介記事と『カサノヴァ』のスチル写真が掲載されていました。前者のヒロインはホッライ・カミッラでした。

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38号にはアレクサンダー・コルダ監督の初期作『森の精』。ヒロインにレンケッフィ・イツァを配しています。

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39号にはアストラ映画社の紹介記事。ちなみに『99』はフェニックス映画社、『アフロディーテ』がスター映画社、『森の精』がコルヴィン映画社で、この辺が1910年代末に認知度を増してきている様子が伝わってくるものです。

フェダーク・シャーリラーバシュ・ユーツィが表紙を飾っている他、先日スペイン風邪流行との絡みで触れたバンキー・ユディットのグラビアやセントジョールジー・マールタ訃報を見つけました。

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現在のハンガリーはユーロ圏には属さず文化・政治面で独自路線を取っています。市場も閉じた感じで現地の物を日本に輸入するのは難しいです。今回和歌山を拠点にハンガリー製品の輸入販売を行っているコツカマチカ(Kockamacska)さんに輸入の代行を依頼、コロナ禍に伴う配送難と重なりながらも無事届けていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

バンキー・ユディット (Bánky Judit、1896 – 1918) ハンガリー

Bánky Judit mid 1910s Postcard [Színházi Élet] 01Bánky Judit mid 1910s Postcard [Színházi Élet] 02

今回のコロナ禍をめぐる報道では1918~1920年に発生していたスペイン風邪が繰り返し話題に上っています。医療体制も整っていない時代の世界的感染は凄まじいもので、その影響は映画や演劇界にも及んでいました。当時のスペイン風邪で失われた才能のひとつがハンガリーの舞台女優バンキー・ユディット (Bánky Judit)でした。

10代の頃から演劇学校に所属、1913年から端役として舞台に立ち始めます。1914年、卒業後にセゲド国民劇場と契約、その後コメディー劇場に転籍し知名度を上げていきます。

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1917年、コメディー劇場『嫉妬(Féltékenység)』でのクラウディア役(『演劇生活』誌1917年第40号)

1917年、映画監督アレクサンダー・コルダが自身の映画会社の第2弾として制作した『カリフの鶴(Gólyakalifa)』でヒロインに抜擢されました。共演は当時の男優で最も人気のあったオスカー・ベレギ。『カリフの鶴』はイスラム世界を舞台にした寓話的な物語で、ロッテ・ライニガーによるアニメ作品が良く知られています。コルダ版は舞台を現代に移した形のようです。

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1917年『カリフの鶴』撮影時の集合写真(『演劇生活』誌1917年第26号)

1918年に第一次大戦が終戦。ハンガリー演劇に活気が戻り始めたこれからというタイミングで不幸が訪れます。折しも欧州全土を襲っていたスペイン熱に罹患、重度の肺炎を患い1918年10月に亡くなっています。

スペイン熱の大流行で病院を4度移る羽目となりそこから戻ることはなかった。肺炎の併発に華奢な体はとても耐えきれず、日曜の午後、若く美しい、才能に満ちた気立ての良い若手女優は22才の若さでこの世を去った。

マジャールオルザーク紙 1918年10月29日付

Betegségéhez tüdőgyulladás járull, amelylyel gyenge fizikuma nem birt megbirkózni s a viruló Szépségű, tehetséges és nagyon rokonszenves fiatal színésznő szombaton délután, huszonkétéves korában meghalt.

Magyarorszag (1918-10-29, p.193)

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『演劇生活』誌1918年第44号の追悼記事より

ハンガリーではこの一か月前にセントジョールジイ・マールタ(Szentgyörgyi Márta, 1888 – 1918)が似たような亡くなり方をしています。立て続けの訃報はハンガリーの演劇界に大きな衝撃をもたらしました。

[IMDb]
Judit Bánky

[Movie Walker]

[出身地]
ブダペスト(ハンガリー)

ラーバシュ・ユーツィ Lábass Juci / Lucie Labass (1896 – 1932) ハンガリー


「 ハンガリー [Hungary]」より

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1896年7月22日、スボティッツア(現セルビア領)に生れる。父親はエンジニア。幼少時は親の希望で修道会で育てられ、10代で舞台女優を夢見てブタペストに上京、女優ラーコシ・シディの下で学びました。

1913年に正式にデビュー、早くからその才能を認められキング劇場(Király Színház)と長期契約を結びます。歌と演技の上手さですぐ花形女優となり、1910年代から20年代にかけ多くの作品で聴衆を魅了していきました。

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ブダペスト新聞1912年6月13日付。演劇学校で学んでいた際にオペレッタ端役として出演した際の記事で、メディアに名前が登場したものとしては最初期の一つ
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1916年『演劇生活』第36号誌表紙

1917年に『イスタンブールの薔薇』に出演。コシャーリ・エミ、エルネ・キラーリ、ラートカイ・マールトンらと共演しています。当時の雑誌でも大きく扱われ彼女の代表作としてよく名前の挙がる作品です。

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『イスタンブールの薔薇』主要キャスト集合写真。右から二番目にラーバシュ『舞台生活』誌1917年27号)
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エルネ・キラーリと並んだ一枚(『舞台生活』誌1917年37号)

最初の舞台で共演した俳優ラートカイ・マールトン(Rátkai Márton)と結婚、長くは続かず数年後に離婚しています。

1910年代から映画にも出演。アレキサンダー・コルダ、マイケル・カーティスの初期作に登場、1917年の愛国主義メロドラマ『大地に囚われし者たち』(A föld rabjai)など幾つかの作品が現存しています。1920年代半ばにはE・A・デュポンの『緑のマニュエラ』でもヒロインを務めていました。

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『大地に囚われし者たち』(A föld rabjai)

20年代後半になると舞台、メディアへの登場回数が減るようになってきます。女優自身も歌唱力を生かしたオペラ的な作品に挑戦。1931年にテナー歌手と再婚。1932年8月、舞台を終え帰宅後の就寝中に心臓発作で亡くなっています。心臓を患っていた話は知られておらず、唐突な訃報に当初は自殺説が流れるなど騒ぎとなりました。

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ちなみにラーバシュ・ユーツィの親戚筋(甥・姪の子供)に当たるラーバシュ・エンドレ(Lábass Endre, 1957-)氏は有名な作家さんで、サイン絵葉書など貴重な画像を写真ブログで公開しています。たまたま見つけたサイン絵葉書の情報を求め7、8年前に初めてお邪魔して、以来ハンガリー初期映画の世界に深入りしていくきっかけとなったサイトでもあります。

[IMDB]
Lucie Labass

[誕生日]
7月22日

[出身]
ハンガリー

[サイズ]
9.0 × 14.0 cm

ラーバシュ・ユーツィ Lábass Juci / Lucie Labass (1896 – 1932) ハンガリー

「ハンガリー [Hungary]」より

Lábass Juci / Lucie Labass 1926 Inscribed Postcard
Lábass Juci / Lucie Labass 1926 Inscribed Postcard

ハンガリー出身の女優さんで近々、スペインの煙草売り娘から胡散臭いキャバレーの踊り子へ身を堕としていくアルゼンチニータの役でお目にかかるはずである。映画のタイトルは『麗しのマヌエラ』でクララ・ラツカの小説を基にしている。舞台は南米。

エクラン・イリュストレ誌 1924年9月11日付 第2号

Labass Jucie in La Belle Manuela
Labass Jucie in La Belle Manuela
(L’Ecran illustré 1924 issue 2)

Une artiste hongroise que l’on verra dans le rôle d’Argentinita, cigarière espagnole, devenue danseuse de cabaret borgne. Le film porte le title de La Belle Manuela, d’après le roman de Clara Ratzka. L’action se déroule en Amérique du Sud. (Cliché National Film, Berne.)

L’écran illustré 1924 Issue 2

1910年代後半~20年代前半にハンガリーで活躍していた女優さん。若くして亡くなったこともあり現在では自国でも知られていないのではないかと思います。主戦場は劇場でしたが1915年頃から映画に出演し始め『大地の囚われ人』(A föld rabjai、1917年)、『麗しのマヌエラ』(Die grüne Manuela、1923年)で主演を務めています。

手元の一枚は筆跡にスレが目立つものの1926年のメッセージ&サインが含まれています。

[IMDB]
Lucie Labass

[Movie Walker]

[誕生日]
7月22日

[メーカー]
Élet kiadásairen

[出身]
ハンガリー

[サイズ]
9.0 × 14.0 cm

1917-22 忘れじの独り花(16)エディット・メラー Edith Meller (1897 – 1953)

「フィア・エーマンス旧蔵サインコレクション」より

Edith Meller c1920 Autographed Postcard
Edith Meller c1920 Autographed Postcard
第一次大戦中の1916年にデビューし1922年頃まで旺盛な活動を見せていたハンガリー出身の女優。

初期はナチオナール映画社やPAGU社作品に多く出演。このうち助演した1917年の « Der feldgraue Groschen »が現存しており、オンラインで動画が公開されています。

« Der feldgraue Groschen »でのエディット・メラー(右端)

1920年にPAGU社で製作された恋愛アドベンチャー『熱国の呪』(Indische Rache)は日本でも公開されています。

Edith Meller in Die wilde Ursula (1918)
キノベジッツァー誌 1918年5月13日付
初期主演作 « Die wilde Ursula » の紹介記事

[IMDB]
nm0577914

[Movie Walker]
エディット・メラー

[誕生日]
9月16日

[出身]
ハンガリー(ブダペスト)

[サイズ]
8.6 × 13.6cm

[データ]
Film-Sterne 133/4. J.Brass

エルンスト・マトレイ Ernst Matráy (1891 – 1978) ハンガリー

「国別サインリスト ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

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Ernst Matray 1920 Autographed Postcard

ハンガリー出身の舞踏家、俳優、監督兼振付師。

1910年代初頭にマックス・ラインハルトに才能を見いだされ舞台デビュー。ラインハルト劇団で話題を呼んだ『奇跡』(マリア・カルミ主演、1911年)に出演し、ダンスパートの振付も担当しました。

Ernst Matray in Hilde Warren und der Tod (1917)
1917年作品『ヒルデ・ワーレンと死神』(ヨーエ・マイ作品、脚本フリッツ・ラング)

映画では牧神、道化師、悪魔など異形の役どころが多く回ってきていたようです。フリッツ・ラングが脚本を書いた『ヒルデ・ワーレンと死神』では放蕩の生活を続け、最後母親に銃で撃ち殺されるろくでなしの息子を演じていました。

俳優時代のルビッチとも共演歴があり、短期間ながらも共同で映画会社を設立、両者の名前からMalu映画社と名付け経営を行っています。同時期に監督業にも進出し1916年に『オペラ座の怪人』を残しました。フィルム自体は現存していないものの、この小説の最初の映像化で初期ホラー愛好家が見たがっている作品の一つです。

トーキーの時代となり、1930年代にハリウッドに渡ってから新たなキャリアが開けてきます。当時の妻だった女優マリア・ソルヴェクと振付師のチームを組み、MGMなど大手作品のダンス場面を担当したのです。

Waterloo Bridge (1940)
『哀愁』(1940年)のバレエ場面

日本でもよく知られた『哀愁』(1940年)や『心の旅路』(1942年)の舞踏場面はマトレイ夫婦が振付したものでした。メロドラマ作品に一瞬現れるダンスやバレエを意識する機会はあまりないため、こんな形で無声映画の血流が続いていくのかと驚かされました。

絵葉書の写真は『吸血鬼ノスフェラトゥ』と重なります。サインの年号(1920年)を見ると同作公開より前になっています。

[IMDB]
nm0559305

[Movie Walker]
Ernst Matray

[誕生日]
5月27日

[出身]
ハンガリー(ブダペスト)

[サイズ]
9.0 × 14.0cm

[データ]
Photochemie, Berlin. K.2289. Phot. Nicola Perscheid, ,Berlin

クレール・ロットー Claire Lotto (1893 – 1952) 独

「国別サインリスト ドイツ/オーストリア [Germany/Austria]」より

Claire Lotto Autographed Postcard
Claire Lotto Autographed Postcard

名優カール・デ・フォグト(Carl de Vogt)の奥さんでもあった女優で、1920年代前半~中盤のサインと思われます。

20年代前半のドイツで人気を得て幾つかの作品は日本でも公開されていました。芸歴は意外と長く1910年代中頃からすでに活躍。下積み時代にハンガリー映画に多く出演しており、マイケル・カーティス(ケルテース・ミハーイ)の初期短編の常連でもありました。

Claire Lotto in Az utolsó hajnal
Claire Lotto in Az utolsó hajnal (1917, Kertész Mihály)

1917年作品『最後の暁』マイケル・カーティス作品

カーティス初期作は現存しているものが多く、何かの機会に観ることがあればクレールさんがひょいと登場している可能性もありえます。

[異表記]
Cläre Lotto, Kläry Lotto

[IMDB]
nm0521556

[Movie Walker]
クレール・ロットー (Claire Lotto)

[誕生日]
9月23日

[出身]
ドイツ(ポメラニア)

[サイズ]
9.1 × 14.0cm

[データ]
Verlag Herm. Leiser, Berlin Wilm. 3833 Westi

ヴィルマ・バンキー Vilma Bánky (1901 – 1991)

「ハンガリー [Hungary]」より

Vilma Banky Autographed Postcard
Vilma Banky Autographed Postcard

二年前ヴィルマ・バンキーの名は映画フアンの間でも全く知られていなかった。オーストリアで数本の作品を撮っただけで、同国の監督数人だけがその才を高く評価していたのであつた。マックス・ランデ氏が仏監督ヴィオレ氏の元『曲芸王』を撮った時、地元の女優で見映えの良い者を探していてバンキー嬢の美しさと雅さの虜となつた。同嬢がヒロイン役に選ばれたのである。その後程なくして、バンキー嬢は『ポチョムキン』でジャン・アンジェロ氏と共演、同作は最近AGC社によって編纂された一作である。

ハンガリー出身の嬢の才は米映画会社の長の目に留まり、米国に招待されることと相成つた。かくしてバンキー嬢は航路ニューヨークへと向かったのである。ファーストナショナル社でロナルド・コールマン氏を相手に『ダーク・エンゼル』を取り上げた。モーリス・トゥールヌールの手になる一作である。

(「出づる星:ヴィルマ・バンキー」モンシネ誌1926年3月4日付211号)

Il y a deux ans, Vilma Banky n’était guère connue des cinéphiles; elle avait tourné quelques films en Autriche et seuls les metteurs en scène de ce pays avaient apprécié son talent. Lorsque Max Linder réalisa avec le metteur en scène français Violet Le Roi du Cirque, il chercha une jolie partenaire parmis les artistes locales et fut charmé par la beauté et la grâce de Vilma Banky. Cette dernière fut donc sa partenaire dans son film. A peu près à la même époque, Vilma Banky devint la partenaire de Jean Angelo dans Potemkine, l’oeuvre que l’Agence Générale Cinématographique a éditée récemment en France.

Le talent de cette jeune artiste, qui est Hongroise, fut remarqué par un directeur de firme américaine qui l’invita à venir tourner aux Etats-Unis. C’est ainsi que Vilma Banky s’embarqua pour New-York. Elle tourna un film à la First National l’Ange des Ténèbres (The Dark Angel) sous la direction de Maurice Tourneur.

Les Etoiles qui se lèvent : Vilma Banky
(Mon Ciné No 211, 4 Mars 1926)

ルドルフ・ヴァンチノの遺作『熱砂の舞』(1926年)の踊子役で世界中を夢中にさせ、その後もロナルド・コールマンとの共作(『夢想の楽園』)で初期映画史に確かな足跡を残した女優さん。ハリウッド映画界で初めて大成したハンガリー女優でもあります。

[IMDb]
nm0126566

[Movie Walker]
ヴィルマ・バンキー

[出身]
ハンガリー

[誕生日]
1月9日

リア・デ・プッティ Lya de Putti (1897- 1931)

パラマウントの「サタンの嘆き」と「神我に二十仙を賜ふ」、ファースト・ナショナルの「燃ゆる唇」ドイツ、ウフアの「ヴアリエテ」 – リア・ド・プテイの昭和二年はまことに華々しかつた。ド・プテイの美は、昨年一年間で最極限にまで世人に持て囃されるる到つたかの觀を呈した。だが、もちろん彼女としては「ヴアリエテ」の女の役に止めを刺す。あの爛れる樣な、ムツとする樣な、チクチクと神經に突きさゝる樣なド・プテイの「官能」はどうだ。(ユ社に移つてからの映畫は今年は間違いなく見る事が出來るだらう。)

『日本映画年鑑 昭和二年昭和三年 第四年版』
(朝日出版社、1928年4月)

1925年に公開されたドイツ映画『ヴァリエテ』で鮮烈な演技を見せたのがこの女優さんでした。

獣の匂いの漂うヤニングス、あどけなさと官能の混じりあったリア・デ・プッティの絡みはアメリカでも大きな話題を呼びました。

また彼女は初期のムルナウ作品にも登場しています。絵画指向の強いムルナウはリア・デ・プッティをむしろ「素材」として使い『ファントム』のもっとも夢幻的な場面に彼女を登場させていました。

[IMDb]
nm0211048

[出身]
ハンガリー

[誕生日]
1月10日

イロシュヴァイ・ロージ Ilosvay Rózsi (1901 – 1954) ハンガリー

Ilosvay Rózsi Autographed Postcard
Ilosvay Rózsi Autographed Postcard

舞台を中心に活動を行いながら映画と接点を持っていたハンガリー女優さん。1920年前後に人気があったようでブロードウェーの名作『キキ』のハンガリー版で主役を務めた記録があります。

映画では1918年『ルル』に出演。大きな役ではなかったようですが初代ドラキュラであるベラ・ルゴシと共演を果たしています。

ヴァルシャーニ・イレーン Varsányi Irén (1876 – 1932)

「 ハンガリー [Hungary]」より

Varsányi Irén Autographed Postcard
Varsányi Irén Autographed Postcard
Varsányi Irén in Anna Karenina (1918)
Varsányi Irén in Anna Karenina (1918)

2015年の11月にハンガリーの古書店で売られていたサイン物の輸入代行を試みました。昨日その商品が到着、こちらはその1枚、初期映画や舞台で活躍したヴァルシャーニ・イレーンのサイン入り絵葉書となります。

黒髪で黒目の彼女はビノシュにも通じる雰囲気を漂わせています。出演作では『アンナ・カレーニナ』(1918年)が現存しています。