1974 – 『サムライ – ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』(Le Cinéma selon Merville、ルイ・ノゲイラ著、セゲルス社) 仏語版初版

« Le Cinéma selon Melville » (1974, Rui Nogueira, First Edition, Ed. Seghers, Paris)

ノゲイラ:この頃すでに9.5ミリの映画を何本か撮られていたんですか。

メルヴィル:初めて手に入れた動画カメラが手回し式のパテーベビーで1924年の1月、私は6才でした。当時パリ9区のショセ・ダンタン通りに住んでいて、初めて撮ったフィルムは自宅の窓から通りを映したものでした。建物の屋根にかかった子供向け石鹸の大きな看板、通りを抜けていく車、小舞踏病にかかった小犬…あの犬は通り向かいに住んでいた素敵な婦人の飼い犬だったかな。[…] 逆にパテーベビー映写機は手離せなくてね。あれ一台あると世界中の映画を自宅で見ることができたので。各作品の粗筋と写真一枚が掲載されていたパテーベビーのレンタル用カタログは世界で一番美しい物でした。西部劇あり、キートン、ロイド、ラングドンにチャップリンのフィルムをサルトーニ写真館で借りたものです。こんな感じで2〜4巻組のフィルムを毎週4、5本見るのが常になっていました。あの熱中ぶりは完全に常軌を逸していたのですが、私の映画の素養の根っこでもあります。

Nogueira: A cette époque, vous avez déjà tourné plusieurs films en 9 mm 5?

Merville: J’ai eu ma première caméra, une Pathé Baby à manivelle, en janvier 1924. J’avais donc six ans. J’habitais alors la Chaussée d’Antin et mon premier film je l’ai fait sur cette rue, de ma fenêtre. On pouvait voir le Bébé Cadum, les voitures qui passaient, un petit chien qui avait la danse de saint Guy, lequel appartenant à une dame charmante, de l’autre côté de la rue. […] je ne me suis jamais lassé de mon Pathé Baby projecteur, puisque je pouvais voir chez moi tous les films du monde. Le catalogue de films de location Pathé Baby, un catalogue énorme avec la résumé et une photo de chaque film, était la chose la plus belle du monde. Il y avait des westerns, tous les Keaton, les Harold Lloyd, les Harry Langdon, les Chaplin, etc. que l’on louait chez un photographe, Sartoni. Ainsi, toutes les semaines je pouvais voir quatre ou cinq films nouveaux de 2, 3 ou 4 bobines. C’était l’amour fou, complètement. La base de ma culture cinématographique.

(Le Cinéma selon Melville, Rui Nogueira, p.18, Ed. Seghers, 1974)

仏フィルム・ノワール界の重鎮(『サムライ』『仁義』『いぬ』)として知られるジャン・ピエール・メルヴィル監督が自身のキャリアを辿りなおしたインタビュー集。2003年に晶文社から邦訳が出ています。同監督が幼い頃パテベビー映写機/撮影機と出会ったエピソードが含まれているのでその部分をご紹介。

入手したのは15年以上昔の話。「メルヴィルの選ぶ戦前ハリウッド監督63傑」のリスト目当てで学生時代に数年かけて見つけ出しました。

リスト以上に印象深かったのが動画カメラと映写機のエピソードでした。フランスではトリュフォー監督も少年時代にパテベビーのカメラを使っていました。お気に入りの監督が二人も「パテーベビー」を経由して映画世界に入ってきている、一体どんなものなのだろう…気になりつつもいきなり戦前の映写機を使う発想には至らず数年が経過。頭の片隅にひっかった疑問は消えず、上手く動かなくてもいいからひとまず一台手に入れてみよう、と中古のパテベビーを購入したのがかれこれ10年前。

当初は失敗ばかりでしたが経験値を上げていけばどうにかなるもので、9.5ミリの実写やデジタル化は今の自分の生活に溶けこんでいます。第一歩を後押ししたのはこのインタビュー集で、その意味で人生を変えた一冊になるのかな、と。

シルヴィア・バタイユ Sylvia Bataille (1908 – 1993) 仏

フランス [France]より

Sylvia Bataille 1930s Inscribed Postcard

ジャン・ルノワール監督作『ピクニック』のヒロインとして知られている仏女優さん。美しいブランコの場面でも有名な作品です。

『ピクニック』(1936年製作、46年公開)より

同作は1936年6月に2週間の予定でクランクインするも悪天候に見舞われて撮影が難航、資金調達の問題やスタッフ間の意見対立もあって8月に中断となります。未完成のまま放置されていたフィルムを戦後、プロデューサーのピエール・ブラウンベルジェがひとつの作品にまとめあげ1946年に初めて劇場公開されました。

劇場公開後の1946年9月、パリのラジオ局で本作のラジオドラマ版がオンエアされました。ヒロイン役の声を務めたのはシルヴィアさん本人で、本編に入る前に撮影を振り返ったコメントも残しています。自身の肉声で紹介された『ピクニック』は珍しい上、あまり知られていない音源でもありますので日本語に訳してみました:

ネッド・リヴァル:シルヴィア・バタイユさんが隣におられますので今夜は彼女自身から撮影について語っていただけたらと思います。

シルヴィア・バタイユ:作品のロケはマルロット近郊、ロワン川の川辺で行われました。元々は半月の予定だったのが悪天候でいつものペースで仕事ができず二ヵ月間も留まることに。撮影スタッフにとって本当のピクニックになってしまいました。ルノワール監督が映画の舞台に選んだあの場所は父上に当たられるオーギュスト・ルノワール氏が晩年によく絵を描いていて、監督自身も幼い頃に多くの時間を過ごした所だったんですよ。私たちは二ヵ月もの間1880年代の衣装に身を包まれ世の中から切り離された生活を送っていました。なので元の生活に戻らないといけなくなった時は皆さんどうしましょうって感じでしたね。

シルヴィア・バタイユ
『ピクニック(ジャン・ルノワール)』
1946年9月21日放映ラジオドラマ版紹介より

Ned Rival: Sylvia Bataille est près de moi et elle va vous dire, elle-même, quelques mots sur la réalisation cette nuit.

Sylvia Bataille : Les extérieurs du film étaient tournés en environ de Marlotte, sur les bords du Loing. Ce fut pour tout équipe une réelle partie de campagne, car partis pour 15 jours, nous somme restés deux mois, le mauvais temps ne nous ayont pas permi de travailler au rythme normal. Jean Renoir avait choisi comme cadre pour son film cet endroit, où il a passé une grande partie de sa jeunesse, car son père, Auguste Renoir, il peignait pendant les dernières années de sa vie. En costume d’époque 1880s pendant deux mois, nous vivion à l’écart du monde moderne. Nous avons été légèrement désemparés, quand il a fallu nous y ré-adapter.

Sylvia Bataille
L’Ecran sans image : « Une partie de campagne » de Jean Renoir
21 Septembe 1946
(Re-diffusion France Culture, 26 Mai 2019)

写真家ジャック・アンドレ・ボワファールによる
1930年頃のポートレート写真

『天使たちの地獄』(1941年、クリスチャン=ジャック監督作品)

[IMDb]
Sylvia Bataille

[Movie Walker]
シルヴィア・バタイユ

[出身地]
フランス(パリ)

[生年月日]
11月1日

1920年代中頃〜後半・フランス 9.5ミリ個人撮影動画 『無題』(パリ・トロカデロ宮殿と水族館)

« Palais de Trocadéro / Aquarium »
Mid-late 1920s 9.5mm French Home Movie

パテベビー撮影機が出回り始めた1920年代中頃~後半に撮影されたと思われる個人撮影動画。パリ観光に訪れた際の映像を記録した内容です。

エッフェル塔の手前に位置するトロカデロ広場は現在でも観光・撮影スポットとして知られています。この広場に建っているシャイヨー宮は1937年の建立で、それ以前にはトロカデロ宮殿がありました。19世紀後半のパリ万博の折に建設されたオリエンタル様式の宮殿で、今回の動画はその正面を捉えた映像から始まっています。

トロカデロ宮殿の前には4体の彫像が置かれていました。解体に伴い移設され、現在3体(象・馬・サイ)はオルセー美術館に、残りの1体(牛)はニームに置かれています。象とサイの動画に映っている年配の女性は撮影者さんの家族だと思われます。

この後広場近くに位置する水族館に移動。入口に向かう鳥打帽姿の青年が2度映し出されます。たまたま映りこんだ通行人ではなく撮影者さん本人で、先ほど登場した女性(母親)に撮ってもらった可能性が高いかなと。

水族館内で水槽を撮影。ガラス越しに撮影された魚たちが幻想的な動きを見せます。

最後はセーヌ川河畔の風景や往来する観光船の映像で終了。

初期のベビーカメラは暗い場所での撮影を想定していませんでした。屋内撮影、しかも水族館で撮影された個人撮影動画は珍しく驚かされました。

1930年代中盤 仏パテ社 Lux(リュクス/ルックス) 9.5mm映写機 YC型

映写機 [Projectors]より

c1933 Pathé Lux 9,5mm Silent Projector Type YC

パテベビー映写機の後継機として1930年代初頭に発売されたのがリュクス映写機(日本では「ルックス」表記)でした。1931年のYA型に始まり30年代中盤まで幾度かのモデルチェンジを行っており、今回入手した機体は1933年に市販されたYC型となっています。後期型の大きな変更点は以下の3点。

1)劣化しやすく不評だった合金製のフィルムゲート部の改良
2)100Wおよび150Wランプへの対応とランプハウスの大型化
3)排熱機構の強化

社名をあしらった金属プレートや電流計のデザインが変更されるなど他にもマイナーチェンジ多数。

錆び付きや汚れ、細かなペイントロスが見られ幾つかのパーツ(背面のプレート、ランプハウスの屋根)が欠品しているなど完璧なコンディションではありませんでした。欠品パーツに関しては手持ちのスペアで対応。フィルム送りのメカニズムや光学系は生きていて実写できる状態でした。

レンズはベーシックなタイプの仏パテ社オリジナルレンズ(F=32mm)。当時のカタログを見るとスクリーンとの距離10メートルまでの映写に対応しており、1メートルの距離だと21×16センチ程度、4メートルの距離で96×72センチ程度の出力ができたそうです。パテ社オリジナルレンズを含め5種類のレンズ・オプションがあった話はまた次回に触れていきます。

黄色い線の辺りにベビー映写機が隠れています

リュクス映写機を側面から見てみます。小さいハンドクランクの部分に10/20mフィルムの格納部分があってその下にレンズ、さらにフィルム送り機能を収めた箱、送られてきたフィルムを収納するスペース、一番下に変圧器を組みこんだ土台と続いていきます。この構造はパテベビー映写機そのままで、リュクス映写機には30年代インダストリアルデザインに進化したベビー映写機が隠されていると見る事もできます。

リュクス映写機は日本にも輸入されていました。ベビー映写機の倍以上の価格設定で、安価な国産9.5ミリ映写機の普及と重なったため流通は限定的でした。映写時にフィルムを焼いてしまうリスクが高く、モーター音が大きいなど改良すべき点が多く数年後には後継機種に代わられていったものの、仏パテ社の創意が詰めこまれている映写機だと思います。

[メーカー名]
仏パテ社

[発売時期]
1933年

[シリアル番号]
21274 YC

[対応ランプ]
O型(115V 50W)
S型(115V 100W)
SS型(115V 150W)

[対応電圧]
90〜130V

[レンズ]
パテ・パリ F=32mm

1920s – 9.5mm 『美しい浴客』(仏パテ社/英パテスコープ)

Graceful Bathers (Les Jolies Baigneuses) 1920s Pathé Baby 9.5mm film
Kino Type 9.5 Scanner Digitalization

水の清らかさに誘はれてこの温雅な水神達は、無作法者の目から隠れたと信じて 自由に水を浴びてゐます。パテベビーはあなた方の爲めに 彼女等の面白い飛躍をこゝに現します。

『パテーベビーフヰルム 解説書 No. 1』 (大橋善次郎編集・出版、1926年)

綺乃九五式スキャナーの調整テストの為に短いフィルムを動画化してみました。以前に紹介した『美しい浴客』で、元々ユーチューブに高画質の動画があったためそちらをリンク。動画が削除されていたので綺乃九五式版をアップしておきます。

当初「水着美女」で名高いセネット短編の抜粋と思ったのですが、石橋は欧州風の造り。静止画で確認すると背景に一瞬映りこんだフランス語の看板(「ルー川ホテル Hôtel du Loup」)を見つけることができました。以前、南仏の観光地ルー川周辺で撮影された個人動画を紹介しましたが、同地周辺で撮影された仏パテ社のオリジナル動画のようです。

[タイトル]
Graceful Bathers

[原題]
Les Jolies baigneuses

[メーカー]
英パテスコープ社(?)

[仏パテ社版カタログ番号]
378

[フォーマット]
Cleopatra

10m(ノッチ有)

イローナ・カロレヴナ Ilona Karolewna (生没年不詳) ウクライナ

Ilona/Jlona Karolewna Late 1920s Autographed Postcard

イローナ・カロレヴナ嬢はキエフの生れである。踊り子となつてサンクトペテルブルクで初舞臺を踏んだ。歐州を興行で回り伯林に留まる事を選んだ。映畫界に足を踏み入れ、独逸映畫協会(DEFU)で幾つか端役を経験した。その後、巴里のシネロマン社と契約を結び、同社で数年の活躍を見せた。現在は映画界から完全に足を洗つている。

(「A-Z:ルクセンブルグ週刊画報」1935年11月24日付)

Ilonka [sic] Karolewna wurde in Kiev geboren. Sie wurde Tänzerin und trat zuerst in St. Petersburg auf. Sie machte ein Tournee durch Europa und blieb in Berlin. Als sie zum Film trat sie in einigen kleinen Rollen bei der Defu [Deutsche Film Union] auf. Sie wurde ferner von der Direktionder Cinéromans in Paris engagiert und spielt einige Jahre für diese Gesellschaft. Jetzt sie sich ganz zurück gezogen. (A-Z : Luxemburger illustrierte Wochenschrift, 24/11/1935)

オーストリア演劇博物館所蔵のポートレート
https://www.theatermuseum.at/de/object/0efa0d1169/

1920年代半ばに踊り子として訪れた欧州で話題を集め、ファッション・モデルや商品広告など写真の被写体として活躍。ほぼ同時期に映画出演を始めていて、マックス・ランデがヴィルマ・バンキーと共演した『脱線曲馬王』の端役で女優デビュー。ドイツのハリー・ピールの目に留まり、同氏が監督主演した2作のサーカス物『黒い道化師』(1926年)『ビーリー曲芸団』(1927年)の主要キャストに抜擢。その後フランス拠点で女優活動を続け30年代初頭に製作された旅芸人映画を最後に業界を離れています。

『ビーリー曲芸団』(Was ist los im Zirkus Beely?、1927年)より

出演作のうち『ビーリー曲芸団』は以前から現存が知られていてデジタル修復もされていました。もう一方の『黒い道化師』は遺失作品とされていますが、チェコのフィルム収集家が35ミリポジを所有しているようで一部がユーチューブで公開されていました。

[IMDb]
Ilona Karolewna

[Movie Walker]


[出生地]
ウクライナ(キエフ)

[データ]
Phot. A[nton]. Sahm. München. 8.8 × 13.7 cm

1917 – 9.5mm 『意志』(アンリ・プクタル監督、ユゲット・デュフロ主演)

« Volonté » (1917, directed by Henri Pouctal, 1920s French Pathé 9.5mm Print)

資産家エロー家の跡継ぎルイ(レオン・マト)は日々周囲に流される人生を送っていた。

孫の将来を心配した祖母(ウージェニー・バド)は旧友の遺児である娘エレーヌ(ユゲット・デュフロ)をルイの嫁にしたいと考えていた。しかしルイは友人トジア(ポール・アミオ)に紹介された浮薄な貴婦人ディアンヌ(シュザンヌ・ランケル)との関係をずるずると続けていた。

周囲の勧めに従いエレーヌと式を挙げ、子供まで作ったルイ。だが過去と決別する事ができずいつしかディアンヌとよりを戻してしまう。正妻となったエレーヌに恨みを覚えていたディアンヌは偽の手紙で夫妻の仲を裂こうとした。偽りの告発を信じ、エレーヌとトジアが深い仲にあると疑ったルイはトジアに決闘を申しこむ…

監督のアンリ・プクタルは元々アンドレ・アントワーヌ人脈の舞台人で、1910年頃に映画界に参入してきました。パテ社を拠点とし1922年に亡くなるまで100作に及ぶ作品を残しています。中でもゾラの小説を原作とした『労働』(1919年)は映像美とリアリズムで突出した作品でした。しかしながら他にめぼしい現存作が無く、自国でも監督としての力量が正当に評価されないまま今に至っています。

中期作の『意志』(1917年)が9.5ミリ形式で発売されていたのは知っていて、何年も探していたのをようやく入手することができました。セットやカメラワークに舞台劇の硬さが残っていますが、時折挟まれるショットのアングル感や感情表現に垢抜けたセンスが見られます。

描かれているのは19世紀末のブルジョワ恋愛模様で現在からするとそこまで魅力的に映らないかもしれません。しかしよく見てみると資産はあるが意志が弱く正妻をないがしろにするダメ男、その正妻に敵意を抱きプレゼントの高価な扇を持ち歩くマウンティング好きな不倫女子、子育てに追われ自分の小さな幸せを守るのに精いっぱいのヒロイン…と実は今のワイドショーが面白おかしく暴きたてるゴシップの構造と変わっていなかったりします。色々と進化していないのかな、と。

フィルムケースのタイトル表示が赤地なのはキリスト教系の出版社「ボンヌ・プレス」がパテ社と提携して市販していた印です。夫が人生を悔い改める結末が評価されたものと思われますが、一方でクライマックスの決闘場面を丸々削除してしまったことで物語の説得力が弱くなっています。9.5ミリ版編集時に制作側で自己検閲が入ることもあった、と小ネタで知っておくのも良さそうです。

[IMDb]
Volonté

[公開]
1917年4月13日

[メーカー名]
仏パテ社/ボンヌ・プレス社

[カタログ番号]
852

[9.5ミリ版発売]
1925年8-9月

[フォーマット]
9.5ミリ、10メートル×6巻、白黒無声、ノッチ有

1929 – 『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』 米プロモ用プレス写真

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』より

« La Merveilleuse Vie de Jeanne D’Arc » 1929 US Press Photo

現在フランスで祝典が行われているジャンヌ・ダルク400年祭に関連した忘れ難い出来事のひとつが、仏歴史大作映画『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』のオペラ座プレミア公開である。映画はジャンヌの生き様を生き生きと描き出している。この写真は軍馬に乗り、兵を率いてオルレアン解放に向うジャンヌの姿を写したものである。

A memorable event in connection with the Quincentenary of St. Joan, now being celebrated in France, is the production, at the National Opera House in Paris, of Great French Historical Film, « La Merveilleuse Vie De Jeanne D’Arc, Fille De Lorraine. » The film portraits graphically the life of the immortal Joan of Arc. Photo shows Joan of Arc mounted her charger, leading her troops to relieve the siege of Orleans.

合衆国で紹介された際のプレス用写真。映画中盤にジャンヌ・ダルク(シモーヌ・ジュヌヴォワ)が兵を率いてオルレアン奪還に向かう場面を撮影した一枚。解像度の高い写真ではありませんがVHSや9.5mmフィルムで確認しにくいエキストラの表情や衣装が写っています。

裏面に映画の紹介文をタイプ打ちした紙が貼られており、ニューヨークの「アトランティック写真(Atlantic Photos)」「1929年5月22日(22 MAY 1929)」のスタンプが押されています。

IMDbによると『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』の劇場公開は1929年11月1日。その半年前の4月18日にパリ・オペラ座でプレミア公開されており、4日後の4月22日に文章がタイプ打ちされ、5月22日に写真が準備された流れになっています。

1931 – 9.5ミリ個人撮影動画の自家現像における染色術


染色法(Tinting)

通常酸性染料を使用する。それは炭酸曹達溶液叉は現像液によつて脱色することが出來て、且つ手に染まつても同樣にして洗ひ落すことが出來るからである。[…]

染料は各種類があるが、通常使用される種類は、
  ピンク(桃色、紅色)、赤、オレンジ、
  黄色、グリーン、ブルー(藍色)、紫、

染料は通常0.2%溶液即ち10リットルの水に對して20グラム位を溶解する。然し、赤色の濃いものを着けるには50グラム位、グリーン、ブルーなどは40グラム位を大略の程度と考へてよろしい。

酸性染料は、斯くして出來た溶液の中に、氷醋酸0.05%即ち10リットルに對して5c.c.を加へる。氷醋酸は酸性染料の媒染剤である。

フヰルムは、この溶液に浸されゝば適宜の濃度に染められるが、時間にして凡そ、1-3分間である。

染色を終れば、少時水洗して餘分な色素を除き、乾燥させるのである。

『シネ・ハンドブック』(歸山教正著
日本アマチュア・シネマ・リーグ、1930年)


歸山教正氏が『活動寫眞撮影術』の前年に公刊した入門書からの一節。

1920年代後半~30年代前半に9.5ミリで撮影したフィルムを自家現像し、なおかつ「色を付ける」手法が行われていました。薬品の配合まで自力で行う必要があるためそれなりにハードルも高く、実際の使用作品はそこまで多く残っていないようです。 こちらは1931年にフランスの地方の河畔で撮影された2本セット。古い家並みが点在する傍らに小川(プチ・マラン川)があって、友人たちと共にボートで川遊びに訪れた際の動画となっています。二本目は友人と共に食事中の映像がメインです。

フィルムにはオレンジ、青、紫、黄、赤の染色が施され、白黒部分も通常の現像と違って黒く染められた独特の質感に仕上がっています。

表面が流れている個所もあり必ずしも成功しているとは言い難いものの、白黒フィルムの時代に「色」がどう扱われていたのか、どう「見えていた」のか理解する手がかりになります。


1927 – 『新ロシア藝術:映画編』(ルネ・マルシャン&ピエール・ワインスタイン)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [03]

L’Art dans La Russie Nouvelle – Le Cinema
René Marchand et Pierre Weinstein (1927)

1927年初めに公刊された書籍で、当時発展しつつあったソ連映画の現状を紹介したもの。『アエリータ』(1924年)や『戦艦ポチョムキン』(1925年)が公開された後に書かれています。

この時期、多くの人々にとって新興国ソ連は実体のよく分からない怖い存在で、同国の映画製作の状況を客観的に整理し国外発信できる人はごく僅かでした。日本ではロシア文学研究者の昇曙夢氏が『プロレタリヤ劇と映画及音楽』(新ロシヤ・パンフレツト 第5編、1925年)を残していましたが、仏語圏ではこの書籍がそれに対応する位置付けです。

北方活動会社(セフザプキノ)の撮影風景(上)と『アエリータ』を製作した芸術コレクチーヴ「ルーシ」のアトリエ(下)

書籍の前半は新都モスクワと旧都ペトログラードの対立を軸に話が進んでいきます。旧都ペトログラードは映画製作のノウハウを持ち、映画館も多くあって革命発生後もしばらくは映画産業の中心となっていました。しかし電力不足で映画館が次々と閉鎖、車を改造した移動式の上映車を使って急場をしのいでいきます。一方の新都モスクワは物資や資本にはこと欠かなかったのものの政府の方針が定まらず満足な作品が作れない状態が続いていました。

首都での映画製作が停滞、政府の指針も明確ではない中、1920年代初頭にウクライナ、アゼルバイジャン、グルジア、ウズベキスタンの一部で映画作りが活性化していきます。『新ロシア藝術:映画編』中盤は、 国家映画委員会ゴスキノやペトログラード拠点の北西活動社と並べる形で各社の特色や代表作を紹介していきます。

書籍後半は1923・24年の共産党大会で映画政策の指針が決定された経緯と、その影響について触れています。ソ連における映画の役割を定義し、同国の映画産業の骨組みとなっていった重要な決定で、書籍の巻末に指針の仏訳が付録として掲載されています。

昇曙夢の『プロレタリヤ劇と映画及音楽』と比べてみると『新ロシア藝術:映画編』は1918~22年の動きを丁寧に追っているのが分かります。また数値データを多く掲載しており、年毎の制作数や映画館数の変化が分かりやすく示されています。一方の昇曙夢氏は良い作品とそうでないものの見極めが上手く、作品を見たくさせるプレゼン能力の高さが際立っています。

映画産業の政策策定にも共産党内部の力学が働いていた話はどちらの書物にも書かれておりませんし、この2冊だけで当時のソ連映画界の全貌が理解できる訳ではありません。またグルジア国営活動社や全ウクライナ活動写真部にしても現時点では各国の映画史と結びつけて考えていく必要があります。そういった要素を割り引いても当時のソ連映画の勢いが伝わってくる読み応えのある一冊でした。

[出版者]
リーデル出版社(Les Editions Rieder)

[出版年]
1927

[ページ数]
176

[フォーマット]
21 x 16 cm

ファルコネッティ Renée Jeanne Falconetti (1892 – 1946)

「フランス [France]」より

Falconetti late-1920s / early-1930s Autographed Postcard

サインを求めてくる者たちを毎晩のようにす相手した後、ファルコネッティがスタッフ用入口から出てくるといつも同じ青年とすれ違った。

『ファルコネッティ伝』
(エレーヌ・ファルコネッティ著、93頁)

実子エレーヌさんによる伝記では1923年頃の女優が毎日のようにサイン攻めにあっていた話が触れられていました。

こちらは1920年代後半~30年代初と思われる直筆サイン入りの絵葉書。パリのマニュエル兄弟写真社の撮影で右下に同社ロゴがエンボス仕様で刻まれています。

『ソムリヴ伯爵夫人』(La Comtesse de Somerive, 1917年)
GPアーカイヴスより

上の写真は女優キャリアの初期(デビューから2年後)の1917年に出演した短編映画の一コマ。下積み期ながら懊悩の表現が10年後の『裁かるゝジャンヌ』を予告しています。

[IMDb]
Maria Falconetti

[Movie Walker]
ルネ・ファルコネッティ

[出身地]
フランス(パンタン)

[誕生日]
7月21日

2013 -『アルデンヌ⁼ワロン誌増刊 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ 1862-1913』(ポワント・デ・ギヴェと周辺地域地方史研究会)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

2013 - Ardenne Wallonne (Hors-série) : Victorin-Hippolyte Jasset 1862 - 1913

ヴィクトラン・ジャッセ監督の死後百年となる2013年、同氏の生家があるアルデンヌ地方の地方誌が特集号を出しました。

序文が置かれた後、第1章)劇場に雇われていた青年時代からニック・カーター連作で映画監督として名を上げるまで、第2章)ニック・カーターから『ジゴマ』、第3章)遺作『プロテア』を含む晩年作品と展開していき、最後に「付録」として本作でも全訳を掲載したジャッセの論考『活動寫眞監督術考』が収められています。

ヴィクトラン・ジャッセがフュメ(Fumay)で過ごした幼少時や青年期の情報はほとんど知られていない。

冒頭の断り書きにあるようにジャッセ監督については若い頃の情報がほとんど伝わっておりません。それでも父親がイゼール県出身の大工さんで鉄道の敷設工事に関わっていたこと、母親は再婚でジャッセにとって義兄にあたる人物がいた話が触れられています。序文ではこの義兄の家に残されていた親族写真が掲載されていました。数少ないプライベート写真と思われます。

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第1章ではエクレール社の映画監督として名を上げるまでの話が触れられています。断定されてはいないものの現在でもパリのナシオン広場に置かれている「共和国の勝利像」作者である彫刻家エティエンヌ・ジュール・ダルーの弟子だった可能性があるそうです。世紀が変わって1900年代冒頭となりイポドローム劇場に雇われます。舞台背景のデザインやポスター制作を担当していたそうで、雑誌にはジャッセのデザインしたイベント告知用ポスターが掲載されていました。

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この後初期映画界と接点が生まれ、アリス・ギィ・ブランシュのアシスタントを経て自身が監督として生計を立てるようになっていきます。ニック・カーター物でヒットを飛ばし、ジゴマで一世を風靡、その後社会派作品や怪異色にも展開しつつ『プロテア』を遺作として1913年に病没。とりたてて新しい情報はないものの『ジゴマ』封切時に映画館前に貼り出されていたポスター、『ニック・カーター』演出中のバックヤード・ショット、『プロテア』主人公役のジョゼット・アンドリオの全身ポートレートなど貴重な写真が含まれていました。

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ジゴマ公開中の映画観の様子

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ジョゼット・アンドリオ

地元の歴史愛好家たちによる「自分たちの町からこんな凄い監督が生まれたんだよ」の思いがこめられた一冊。地方紙の増刊号ですのでフランス全土に流通しているものではありません。

とはいえジャッセ監督についての単独の著作物は1975年の『ジャッセ』が唯一で、本作は35年ぶりにその記録を変えたことにもなります。本誌が映画史視点ではなく、地方史の観点から出版されたのはある意味示唆に富むものです。

例えばジャッセの後継者となったフイヤード監督は当初パリを中心に活動しつつ、中期以降は出身地の南仏(ニース)に戻り地方色・郷土色を強めた作品を発表するようになっていきました。首都一極の世界観に逆らう感覚は「郷土色重視 (régionalisme)」とも呼ばれ、映画のみならず文芸・アート一般で重要な意味を持ってくるものです。

ジャッセ作品にはフイヤードほど直接に反=パリ指向を打ち出した形跡はありませんが、地方の労働者の子として生まれ育った記憶・経験が何らかの形で反映されている可能性は高く『活動寫眞監督術考』などと照らしあわせながら視点を掘り下げていくことはできると考えています。

[原題]
Ardenne Wallonne (Hors-série) : Victorin-Hippolyte Jasset 1862 – 1913

[出版者]
Revue Ardenne Wallonne

[出版年]
2013

[フォーマット]
ソフトカバー、32ページ、29.5 × 21.0 cm

1930 – 9.5mm『麗しき悪女』(Une belle garce、マルコ・ド・ガスティーヌ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』に次いで製作されたガスティーヌ監督初のトーキー作品。英9.5ミリ版は無声で英語字幕入り。

舞台は波止場で営業を続けている小さなサーカス一座。猛獣使いのラバス(ガブリエル・ガブリオ)は妻子ある立場にも関わらず新入りの娘ロゼッタ(ジーナ・マネス)に惚れ上げてしまいます。ところが女はラバスの息子レオに色目を使い、ラバスの心は乱れるばかり。ある日のショーで、ロゼッタに良い所を見せようとライオン二頭を相手に無理な芸を披露したところ…と続いていきます。

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曲芸団を舞台にした不貞と愛憎のドラマとしては1925年のドイツ作品『ヴァリエテ』が有名です。『ヴァリエテ』が生々しい欲望を劇的に描き上げていたのと比べると『麗しき悪女』はウエットなメロドラマ感が強く出ています。また幾つかのサイドストーリーが展開されていて、そちらに監督の趣味性が色濃く反映されています。

1)野生動物への愛着:

ガスティーヌは1932年にはパテ社を離れ短編ドキュメンタリーを撮り始めます。この時に多く主題とされていたのがアフリカの野生動物でした。『麗しき悪女』に登場するサーカス一座の猿やライオンはこういった監督の個人的な好みを反映したものです。

2)映像デザインとしての照明

画家として名を上げ、デザイナーとして映画業界に関わりはじめたガスティーヌにとってセットやコスチュームのデザインは大きな意味を持っています。『麗しき悪女』は照明を上手く使った構図が幾つか見られました。

サーカス一座の踊り子がダンスを披露する場面や、猛獣使いがライオンと対峙する場面では照明が画面上でキラキラする効果を強調しています。

3)女優の選択

中年男の心を狂わせる「美麗な悪女」を演じたのは演技派ジーナ・マネス。ガスティーヌ旧作で主役を張ってきた女優は古風なタイプが多いのですが、本作には自由奔放で気の強い新時代の女優を抜擢、フェミニズム的な流れを多分に意識した配役でもあります。

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一方で踊り子としてシモーヌ・ジュヌヴォワも出演。彼女自身がこの時期の書簡で「モダンな女性を演じたい」と語っていて、ガスティーヌが願いを叶えてあげた形になっています。上の写真で二人並んで踊っている右側がジュヌヴォワです。

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以前に『恋山彦』の投稿で触れたように無声映画からトーキーへの移行期はカメラの移動が重くなり今見るとぎこちない印象を与える作品が多かったりします。『麗しき悪女』にもその欠点は見られ、トーキー肯定派と否定派が激論を交わしていた1930年のフランスで賛否両論を引き起こしていました。正直どちらの言い分も分かるのですがそれでもガスティーヌ監督の個性やセンスは随所に見て取れると思います。

[タイトル]
Jealousy in the Circus

[原題]
Une belle garce

[公開年]
1930年

[IMDB]
Une belle garce

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB846

[9.5ミリ版発売年]
1937年5月発売

[フォーマット]
9.5mm 無声 120m×2巻 ノッチ無

1923 – 9.5mm サンドラ・ミロワノフ主演『聖女ベアトリクス伝説』 (ジャック・ド・バロンセリ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix

映画を倫理教育に活用していこうとする発想は古く、欧米では早くから宗教的テーマを扱った作品が製作されていました。1920年代フランスでも例えば『聖テレーズ伝説』(La vie miraculeuse de Thérèse Martin、1929)やルルドの奇跡譚を扱った『聖ベルナデット伝説』(La vie merveilleuse de Bernadette、1929)が公開されています。

今回紹介する『聖女ベアトリクス伝説』も同様の傾向を持つ作品ですが、サンドラ・ミロワノフやエリック・バークレー、シュザンヌ・ビアンケッティら有名な俳優を配することでより広い客層をターゲットに入れています。

時は13世紀、若い修道女が幼馴染の領主と再会、恋愛感情から修道院を脱走。世俗の幸福を手に入れるもやがて現実(夫の不貞、子供の病死、貧困)に打ちのめされ、無一文で修道院に戻った所…と続いていくのがメインストーリーです。シャルル・ノディエの短編を下敷きにしていますがキリスト教社会では古くから知られた伝承です。

1910年代にはドイツのマックス・ラインハルトがマリア・カルミ主演で舞台化し、後に同女優の主演で映画化(『奇蹟』)されてもいます。『奇蹟』と『聖女ベアトリクス伝説』 は対照的な作品で、前者が視覚的な訴えかけを重視しているのに対し、後者は伝説の流れを丁寧に追おうとしています。

以前に『氷島の漁夫』でも触れたようにバロンセリ作品は個々の構図を見ると勝れているのに映画としては冗長に流れる欠点があります。好みの問題と言えなくもなく、一続きのストーリー感のある聖女伝としてはこちらの方が分かりやすいかもしれません。

Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix
Sandra Milowanoff in La Légende de soeur Béatrix (1923, Jacques de Baroncelli) 9.5mm French Pathé Version

[タイトル]
La Légende de soeur Béatrix

[公開年]
1923年

[IMDB]
La Légende de soeur Béatrix

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
986

[9.5ミリ版発売年]
1925年

[フォーマット]
9.5mm 無声 20m×4巻 ノッチ有

サンドラ・ミロワノフ、1939年の直筆書簡 Sandra Milowanoff/Milovanoff (Александра Милованова, 1892 – 1957) 露/仏

「フランス [France]」より

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1939 Sandra Milowanoff Handwritten letter to René Brest (Paris-Soir)

1939年1月9日

親愛なるブレスト様

貴方の素晴らしい記事にどう感謝して良いのか見当もつきません、目に涙を浮かべながら読ませていただきました。私について書いてくださった素敵な言葉にとても胸打たれました。決して忘れることはないでしょう。

いつかパリ・ソワール誌の編集部にお邪魔させていただく機会があれば直に御礼させていただきますね。夫と私より、多大なる感謝と最大の敬意をこめて。

サンドラ・ミロワノフ

追伸:感極まっております、悪筆と文法の間違いお許しくださいませ。

Cher Monsieur Brest,

Je ne trouve pas les mots pour vous remercier de votre admirable article, —c’est en pleurant que je le lu. Mille, mille fois merci, et croyez-moi que vos bonnes paroles dite sur moi, m’avait tellement touché, je ne les oublierai jamais.

Un jour je ferai ma visite au Paris-Soir, pour vous dire tout ça personnellement. Mon mari et moi vous prions, Cher Monsieur, de croir en notre grande reconnaissance et en nos sentiments les plus profonds.

Sandra Milowanoff

P. S. Excusez mon ecriture et mes fautes, mais je suis tres emu.

Sandra-Milovanoff-19240101-Cinea-01
仏『シネア』誌1924年1月号の特集記事より

[…] アンナ・パヴロワ団の一員として雇われた。欧州各国の首都で展開されたツアーにメンバーとして参加、偉大な芸術家パヴロワの下で2年を過ごした後、セルゲイ・ディアギレフの有名なロシア・バレエ団に転籍、多くの人々に知られているようにロンドンのドルーリー・レーンやパリのオペラ座、モンテカルロのグラン・カジノやベルリンのクロール劇場で大成功を収めている。

1918年、ロシア革命によりサンドラ・ミロワノフ嬢は亡命を余儀なくされる。コート・ダジュールに滞在、先に見たように映画女優としてのデビューと相成った。うなぎ上りの人気にメキメキと地位を上げていった。名高いフイヤードの一座に加わっていたこともあって短期間に映画女優としての腕をあげていったのである。

『スペクタクル』誌1925年9月25日付

Anna Pavlowa, qui l’engage dans sa troupe. Après deux années passées aux’ côtés de la grande artiste dans les tournées triomphales que cette dernière entreprend dans les capitales de l’Europe, Sandra passe dans la fameuse troupe des Ballets Russes de Serge de Diaghilev, qui remportent le succès que l’on sait successivement à Londres (Drury-Lane), Paris (Opéra), Monte-Carlo (Grand Casino), Berlin (Kroll-Theater), etc..

[…] En 1918, la Révolution oblige Sandra Milowanoff à fuir. C’est ensuite le séjour sur la Côte d’Azur — et enfin des débuts à l’écran, comme nous les avons retracés plus haut. Sandra Milowanoff offre un exemple particulièrement net de carrière sans cesse ascendante et de popularité rapide. Grâce à son séjour dans la troupe de Feuillade, bian connue pour son activité, elle a pu en peu de mois acquérir les qualités si particulières de l’artiste de cinéma.

Les Spectacles, 25 Septembre 1925

ロシア出身でバレリーナとしての修業を積み、ロシア革命後に活動拠点をフランスに移し映画女優として名を上げたサンドラ・ミロワノフがジャーナリストのルネ・ブレステ氏に宛てて送った礼状。

映画女優としてはフイヤードの後期活劇(『パリっ娘』『狂乱の悪鬼』)で注目を浴び、1924年の仏女性誌での人気投票でメアリー・ピックフォードに次ぐ評価を得ていました。ちょうどこの時期9.5ミリ小型映画が市販化されたこともありパテベビーからも『聖女ベアトリクス伝説』『氷島の漁夫』『噫無情』『ネーヌ』『ジョカスト』『コレットの涙』など多くの出演作がソフト化されています。トーキー到来の後は言葉のハードルに苦しみ映画界を離れています。

[IMDb]
Sandra Milovanoff

[Movie Walker]
サンドラ・ミロワノフ

[出身地]
ロシア(サンクトペテルブルグ)

[誕生日]
6月23日

[データ]
パリ・ソワール紙、ルネ・ブレステ氏。1939年1月9日付。封筒裏面にはパリ・ソワール紙の社名入り印あり。

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事01キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事02

過ぐる一九一一年九月エクレールは驚ろくべき活動寫眞のレコード破りの不可思議なる”ジゴマール”を作り世界各國にエクレールの名を成さしめたことは諸君に強く印象を殘されて居る所であらふ。第一篇より引續き第二篇(ジゴマールとニック・カルテー)は表われ前の福寶堂が輸入して未曾有の人氣を集め遂に”ジゴマ君”の名とあの顔とは誰も知らぬ者はない位荀も日本人たる者ジゴマを知らざる者は無い樣になつたのは實に奇性な現象で”ジゴマ”といふと今では”賊”といふ普通名詞になつてしまつた。以来警察は絶對に”ジゴマ”を禁止し名さへも許されずになつた。第三篇は昨年三月倫敦で發賣され直に日本にも輸入したが時しもジゴマ禁止の嚴命で出す所の騒ぎでない所からそのまゝ今日に至つたが、いくらジゴマ君でも日本の分ずやの〇〇〇〇君には凹まされて今日まで暗い日活の藏の中にとぢ込められてゐたが漸く九月末出獄して遊樂館に出ることになつたが、”Z”の名は使用をゆるされず、タイトルも ”A detective’s victory”(探偵の勝利)となり字幕全部タイプライターで日本製の幕に變更し、”ジゴマ”、”ポーラン・ブーケ”の名は”名知らぬ悪漢””某探偵”となり了つた、後は看客の御想像にまかせて置く。

ジャッセによるジゴマ三部作の最終篇(「探偵の勝利」、原題 »Le Peau-d’anguille »)が公開された際の紹介記事。

青少年への悪影響を理由に1912年10月にジゴマが上映禁止となった話は良く知られています。

兒童が探偵小説を耽讀して、窃盗になつたり汽車往生を遂げたりすることは甚だ多い。先年東京近郊の品川線に於て汽車を止めた兒童は、探偵が兇賊を追うて走りくる汽車に飛乗つたのを眞似たのである。また此間裁判の判決を仰いだ東京芝公園に於る少女殺しは、芝居を眞似て過つて一少女を絞殺したのであるといふ。その影響実に大なりといふべし。而て此等の影響は活動寫眞に於て最も大である。[…]

我國では東京に於て近年警視廳の訓令によりフィルムの種類を甲乙に分ち、甲種は十五歳以下の兒童に觀せない。又フィルムの検閲を行ひ、活動館内の座席を區別して、男子席、婦人席及び家族席としてゐる。

『輓近の児童研究』(関寛之、洛陽堂、1919年)

1912年帝国教育会は「活動写真取り締まり建議」を文部省に提出、また警視庁は「活動写真取り締まり規則」を制定、活動写真を甲種、乙種に分け、甲種は15歳以下を禁止としたのです。

『視聴覚メディアと教育』(山口榮一著、玉川大学出版部、2004年)

日本映画検閲史の記念すべき第一歩は作品上映を物理的に禁じただけではなく、「ジゴマ」の語そのものを社会悪とみなしNGワード化したという話でもありました。そこで映画業界側が「ジゴマで駄目ならジゴマールで行こう」と改名して切り返した展開となっています。

1933年 – アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

1933年 - アレクサンドル・アルキリエール(ジゴマ役俳優)直筆書簡
Alexandre Arquillière 1933 Letter to Emile Drain

10月5日の12時半、バリュ通りのレストラン「デ・ヴォージュ」に世界演劇協会(SUDT)の同志数名が集まる予定になっています。興味あるのではないかな、と。良ければご参加を。

Quelques camarades de la S.U.D.T. se réunissent le 5 Octobre à midi et demi au restaurant « des Vosges » rue Ballu. Je pense que cela peut vous interesser et vous demande d’en être.

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1912年『ジゴマ後編(ポーリンの殉職とニック・カーターの復讐)』宣材スティル。左手前にジゴマ役のアルキリエール

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スーパー8『松竹 日本映画史 前編』より『ジゴマ』抜粋

1911年の映画版『ジゴマ』で主役ジゴマを演じたのは舞台出身のアレクサンドル・アルキリエールでした。

アンドレ・アントワーヌが1887年に設立した「自由劇場」の古参メンバー。大手と一線を画した自然派志向で知られた演劇一派で、今で言うなら演劇界のオルタナティヴな流れに位置しています。

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1916年の演芸誌ランプ表紙を飾ったアルキリエール

同劇場時代に知りあったフィルマン・ジェミエとはその後長く交友が続いていきます。ジェミエは1922年にオデオン座支配人となり、次いで1925年に国内活動に留まらないグローバル演劇を指向する「世界演劇協会(SUDT)」を設立しています(現在のユネスコ国際演劇協会のルーツの一つ)。

アルキリエールも多かれ少なかれこの活動に絡んでいたようで、俳優仲間のエミール・ドレン宛に会合の日時を知らせたのがこちらの手紙です。封筒も残っていて消印は1933年10月2日付。

いわゆる美形俳優の枠に括られる俳優さんではないものの、存在感と豊かな表情が舞台映えします。映画との関連も深く、1908年からアルベール・カペラーニ短編に登場、10年代にジャッセ作品の主要俳優となって「ジゴマ」が当たり役となりました。その後もジェルメーヌ・デュラックの不条理家庭劇『微笑むブーデ夫人』(1923年)やジャン・ルノワールのエキゾチックな南部劇『荒地(ブレッド)』(1929年)で重要な役割を演じていました。

[IMDb]
Alexandre Arquillière

[Movie Walker]

[出身地]
フランス(ロワール県)

[誕生日]
4月18日

[データ]
住所入りの個人用便箋に手書き、13,5 x 21 cm。封筒はパリ市ガール・サン・ラザール局の1933年10月2日付消印有。

1912年 『ジゴマ後編(ポーリンの殉職とニック・カーターの復讐)』(イポリット・ヴィクトラン・ジャッセ、エクレール社)EYE映画博物館収蔵プリントと日本語版あらすじ

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

オランダのEYE映画博物館が保存しているJean Desmetコレクションのひとつで2019年8月に同博物館YouTubeチャンネルで公開されたもの。字幕はオランダ語で最後に幾つかフランス語が混じっていました。フランス公開時の原題は Zigomar contre Nick Carter (ジゴマ対ニック・カーター)。日本公開時の邦題は『ジゴマ後編』

ヴィクトラン・ジャッセによるジゴマ連作としては1911年の『ジゴマ』に次ぐ作品ですが、サジイ小説版には探偵ニック・カーターが登場するエピソードはなく脚本は映画版の完全オリジナル。EYE映画博物館だけではなくフランスのパテ/ジェローム・セイドゥ基金にも35ミリプリントが保存されており、2018年に特集企画の一環として上映された記録が残っています。

Zigomar contre Nick Carter (Ciné-Journal n.185, mars 1912)
シネ・ジュルナル誌1912年3月9日号の広告

シネ・ジュルナル誌では1912年3月9日号(第185号)と16日号(第186号)の2回に分け講評と第1部〜第4部あらすじが掲載されていました。オランダ語字幕では人間関係や展開が追いにくいためシネ・ジュルナル版のあらすじをさらに要約してみました:

物語は前作にも登場していた探偵ポーリンが自宅で爆破テロに遭う場面から始まります。辛くも一命を取り留めたものの重傷を負ったポーリン探偵。その知らせを受けた探偵ニック・カーターはポーリンを見舞いジゴマの捕縛に乗り出していきます。ニックが捜査を始めるとすぐにジゴマの手下たちが階段の踊り場で事故に見せかけた暗殺を謀ります。危難を逃れたカーターは手下たちの一人である女性オルガを味方に付けることに成功しました。(第一部)

ジゴマは部下の一人を自分そっくりに変装させ身代わりにします。ニック・カーターは一旦はジゴマ逮捕に成功するのですが捕まえたのは影武者でした。ジゴマは金庫破り、旅行者の誘拐など悪行の限りを尽くしていきます。探偵はマルセイユでの秘密会議に潜りこむことに成功、しかし変装を見破られ危うく処刑されそうになります。巨石で圧死しかけていたニックを救ったのはオルガでした。(第二部)

トゥーロンの酒場の地下に阿片窟があり、ニック・カーターはジゴマ捕縛のため変装して潜入捜査を行っています。しかしオルガと共に逆に追われる立場となり、自動車の追跡劇の末、再び悪党の手に落ちるのでした。(第三部)

ニック・カーターとオルガは紐で縛られ農家に監禁されていました。火に包まれた農家から脱出するも、退路を阻まれ別行動を余儀なくされます。ニックは無事逃れたものの海に飛びこんだオルガは力尽きジゴマの下に引き渡されるのでした。ジゴマは裏切者に報復すべく女を馬に括りつけ引き回しの刑にします。瀕死のオルガは農夫たちのおかげで一命を取り留めます。ニック・カーターは敵を油断させるため自分が死んだという偽りの死亡広告を出します。ジゴマ一団が祝杯を上げている最中にニックと警官一団が踏みこみ、遂に悪党を逮捕したのでした。(第四部)

この作品には監督ジャッセの映画史観が色濃く反映されています。同氏が1911年に発表した映画論「活動写真監督術考」日本語版の全訳を来週投稿の予定です。

[IMDb]
Zigomar contre Nick Carter

[Movie Walker]

[公開年]
1912年

[制作会社]
L’Eclair

[註]
EYE映画博物館「Jean Desmetコレクション」

1913年 書籍版初刊 『ジゴマ 第3巻』(レオン・サジイ著)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

1913年 『ジゴマ 第3巻』レオン・サジイ著 表紙
1913 Zigomar (fascicule no.3, Léon Sazie, Ed. Ferenczi)

レオン・サジイによる『ジゴマ』は大衆文学の一ジャンルである新聞連載小説として生み出されてきたものです。ル・マタン紙で1909年12月に連載が始まり(最初期と途中の一部は新聞付録の形で別刷り)、1912年9月の終了まで2年9カ月に渡って連載されていました。

1909年12月7日 – 1910年5月22日 :『ジゴマ(Zigomar)』164回掲載
   第一の書「目に見えぬあるじ(Le Maître invisible)」12月-1月(計37節)
   第二の書「獅子と虎(Les Lion et Les tigres)」2月-3月(計34節)
   第三の書「正義の時(L’Heure du justice)」3月-5月(計32節)
1910年7月12日 – 1910年11月15日:『ジゴマ/赤毛女(La Femme rousse)』
   第一の書「焼き印のある腕(Le Bras marqué)」7月-9月
   第二の書「あの世にて(Dans l’au-delà)」9月-10月(計34節)
   第三の書「マイ・ダーリン(My darling)」10月-11月(計26節)
1912年5月10日 – 9月14日:『ジゴマ/探偵の勝利(Le Peau-d’anguille)』
   第一の書「想定外の男(Un Homme inattendu)」5月- 6月(計63節)
   第二の書「最大限で!(Au plus fort!)」6月-9月(計72節)

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『ジゴマ(Zigomar)』フェレンツィ社版全28冊

書籍版は1913年にフェレンツィ社から出されています。同社は『ジゴマ』を28冊に分け(一冊一冊は薄いものです)、毎週水曜日に一冊出版していく方法をとりました。定価は20サンチーム。表紙イラストはジョルジュ・ヴァレ。同社は1922年に『ジゴマ』『ジゴマ/赤毛女』『ジゴマ/探偵の勝利』それぞれのソフトカバー版単行本を発売、こちらは一部内容が削られているそうです。

ジゴマ連作はこれで完結した訳ではなく、1916年の続編『独逸に与したジゴマ(Zigomar au service de l’Allemagne)』、1922年最終編『ジゴマ対ジゴマ(Zigomar contre Zigomar)』へと続いていきます。

今回入手したのは1913年に発売されたフェレンツィ版で、28分冊の第3冊目。第一の書「目に見えぬあるじ」の第23節から29節までを収録。ページ数は128頁。物語が始まったばかりで主人公の探偵たちも兇党ジゴマが実在するのかどうか分からず謎の敵を相手に手探りの捜査をすすめています。

久生十蘭氏による邦訳は小説版の『ジゴマ(Zigomar)』(「正義の時」まで)を元にしたもので、1922年のソフトカバー版を底本にしたと思われます。一部原文と照らし合わせてみたのですが、日本語に寄せつつも原作の雰囲気が結構残っていました。

1927 – 9.5mm 『ベルフェゴール:ルーヴルの怪人』(Belphégor)英パテスコープ版

「9.5ミリ 劇映画」より

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ルーブル美術館に安置された古代エジプトの太陽神、アンモンの像。夜、像の周囲で怪しげな物音が聞こえた、不審に思った職員が近づいていくとそこに立っていたのは黒い異教の顔立ちをしたベルフェゴールだった。

翌朝、倒れたアンモン像の脇で倒れた職員が発見される。男は「亡霊が!」と言い残して息を引き取った。

メディアは悪党による犯罪説を追っていた。新聞記者ジャック・ベルトンの手元に届いた「この事件には手を出すな」の脅迫状。ジャックは探偵シャントコック(ルネ・ナヴァール)に話を持ちかけた。シャントコックは秘書として働いている娘のコレットと共に捜査に乗り出した。

美術館内部での怪しい動きを察知したメナルディエ警部は深夜の張りこみを行っていた。深夜に一党を逮捕しようと試みるものの、ガスによって動きを封じられ意識を失った。悪党たちが床に安置された石を移動させると現れた隠し扉、そこにはアンリ三世の遺した莫大な財宝が眠っていた…

1927年に出版された小説を元にした連続活劇。原作は『ジュデックス』等で知られるアルチュール・ベルネッド。1927年のサイレント映画版は4部構成で総長5時間に及ぶものでした。英パテスコープ社の9.5ミリ版はこの大作を25分にダイジェストしたものです。

1920年代中盤、連続活劇はすでに時代遅れになっていました。それでも熱烈な愛好家は多く『ヴィドック』(Vidocq、1923年)や『シューアン党』(Jean Chouan、1926年)等リバイバルの動きも現れていました。『ベルフェゴール』もそういった活劇復権の流れに位置づけられます。

アンリ・デフォンテーヌ監督による演出は型通りで、作品の展開も単調、活劇黄金時代の驚きはほとんどありません。映画としては成功しているとは言い難いのですが、作品の端々に現れる怪異色や秘宝の設定は決して悪くありません。

こういった要素を生かし1965年にはジュリエット・グレコらを主演にTVドラマ・シリーズが作られました。原作を一部改変しているものの、異様な緊張感に心地よいスピード感のある編集でフランスのテレビ史に残る傑作として名高い一作です。

[原題]
Belphégor

[公開年]
1927年

[IMDB]
Belphégor

[メーカー]
英パテスコープ版

[メーカー記号]
SB818

[9.5ミリ版発売年]
1936年

[フォーマット]
9.5mm 無声 400フィート2リール(25分)を800フィートリールに再マウント