1912- 9.5mm 『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』(1912年)

「9.5ミリ動画 05a 劇映画」より

Pathé-Baby 9.5mm « Mademoiselle Napierkowska : Danses Cambodgiennes »
(Extrait de « La Fièvre de l’or », 1912, dir.Leprince & Zecca)

1912 9.5mm Napierkowska : Danses Cambodgiennes

仏パテ社が9.5ミリ小型映画を最初に売り出した時にカタログに含まれていた初期のフィルムで、1912年に公開された中編映画(『La Fièvre de l’or』)の一場面を抽出したもの。

映画全体は金銭欲に取りつかれた男が亡父の銀行を乗っ取り投資ブームを仕掛け、人々が踊らされていく内容を描いています。途中の祝宴場面に使用されていたのがスタシア・ナピエルコウスカによるカンボジア風の舞踏でした。

[タイトル]
Danses Cambodgiennes

[原題]
La Fièvre de l’or

[製作年]
1912年

[IMDB]
tt0250381

[メーカー]
仏パテ社

[カタログ番号]
47

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ有) 10m *1リール

1910年頃 古写真 スタシア・ナピエルコウスカ Stacia Napierkowska (1886 – 1945) 仏

「ルイ・フイヤード関連コレクション」より

Stacia Napierkowska c1910 Cabinet Photo (Reutlinger, Paris)
Stacia Napierkowska c1910 Cabinet Photo (Reutlinger, Paris)

1910年代を中心に活躍した踊り子・女優スタシア・ナピエルコウスカのキャビネット写真。撮影は当時ファッション写真家として名を馳せたルーランジェ写真店(Reutlinger)によるものです。

ナピエルコウスカはポーランド人の父親の娘として1886年パリで生まれています。幼少時に数年トルコに滞在、その後フランスへ戻りますが直後に父親が亡くなり、生計を立てるためオデオン座やオペラ・コミーク座に立ち始めました。この時14才。異国情緒と優雅さを兼ね備えた舞踏が話題となり、舞台雑誌やモード誌で頻繁に取り上げられていきます。

1910年コメディア・イリュストレ紙10月1日号より
1910年コメディア・イリュストレ(Comoedia Illustrée)紙10月1日号より

同時期に勃興していたのが映画産業でした。短編作品に多く出演、喜劇からミステリー、歴史物まで多彩な活躍を見せていきます。

そんな彼女の名を映画史に残したのは1915年公開の連続活劇『レ・ヴァンピール』でした。第2話で主人公(エドゥアール・マテ)の婚約者として登場、劇場で踊りを披露中に何者かに毒殺されます。登場場面は短いものの「吸血鬼の舞」の禍々しさは印象深く、同作を代表する一場面として幾度となく引用されていくこととなりました。

『レ・ヴァンピール』(1915年)第2話より
『レ・ヴァンピール』(Les Vampires、1915年)第2話より

その後映画の出演は減っていき、そのまま忘れ去られてもおかしくありませんでした。しかしながら20年代になって再度脚光を浴びます。1921年『女郎蜘蛛』での女王アンティネア役です。

『女郎蜘蛛』(1921年)より
『女郎蜘蛛』(L’Atlantide、1921年)より

第一次大戦後の仏映画はリアリズムにこだわり話のテンポが悪くなる癖が抜けず、外国映画に押されてかつての勢いを失っていました。この苦しい状況で冒険やファンタジーを強く押し出した『女郎蜘蛛』は活路として期待されたのです。ナピエルコウスカは1922年に創刊された映画雑誌『シネミロワール』創刊号の表紙を飾っています。

『シネミロワール』創刊号表紙のナピエルコウスカ
『シネミロワール』創刊号表紙のナピエルコウスカ

同時期に初めて市販されたのが家庭用映写機のパテベビーでした。初期カタログにはナピエルコウスカ主演作『ミロール・ラルスイユ』(Milord l’Arsouille、1912)も含まれています。そしてもう一本、手持ちでは『カンボジア風舞踏』にも登場。これは社会派ドラマの中編『黄金に浮かされて』(La Fièvre de l’or)の一場面を抜粋したものです。

『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』
『ナピエルコウスカ嬢のカンボジア風舞踏』(Napierkowska in Danses Cambodgiennes)

フランス劇映画の始まり(1910年頃)から黄金期(1912~18年)、そして停滞期(1919年~)に関わった点で重要な役割を果たした女優だと言えます。伝記面はほとんど知られていないのですが、1922年の『シネ・ミロワール』誌に前後篇2回に分けた自伝エッセイが掲載されています。

[IMDB]
nm0621051

[Movie Walker]
スタシア・ドウ・ナピエルコウスカ

[誕生日]
12月16日

[出身]
フランス(パリ)

[サイズ]
11.0 × 16.5cm

[撮影]
ルーランジェ写真店

1926年4月17日 – 9.5mm 個人撮影動画『ニースにて/アントワーヌ・ジャロン一家』 Nice. Famille Antoine JALON 17-04-26

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

9.5mm Film d’amateur. « Nice. Famille Antoine JALON 17-04-26 »

昭和元年(1926年)に南仏ニースで撮影されたホームムービー。以前にデジタル化した『イラン・ゴレスタンの小さな家』と同一のカメラで撮影されたもの。ラベルの日付に従うならイラン編(1926年4月18日)の前日の動画。登場してくる人物も一部重なっています。

撮影場所は南仏の都市ニースの市街地。建物から出てきた家族連れが乗用車に乗りこむ前の様子を捉えています。カメラを意識している少年と蝶ネクタイの初老の男性はイラン編にも出ていました。少女が手にしている小さな傘は和傘でしょうか。彼の地でアジア趣味が好まれていた様子も伝わってきます。

デジタル化に際して幾つか問題がありました。撮影の途中フィルムが上手く回らず噛んでしまい、その部分が何度も露出され多重露出で白くなっていたのです。

sample08

フィルムを送る穴(パーフォレーション)のダメージもこの前後に見られます。フィルム送りが上手くいかなかった部分は動画化するとコマ落としした感じになってしまいました。個人による撮影なのでこの手のトラブルは時折あったと思われます。

アントワーヌ・ジャロン(Antoine Jalon)という人物が戦前フランスにいた記録は残っており末裔もご健在です。同姓同名の可能性もありますがひとまず連絡を取って確認を試みていきます。

ファルコネッティ Renée Jeanne Falconetti (1892 – 1946) 1920年代の直筆書簡

「国別サインリスト フランス [France]」より

1928年公開『裁かるるジャンヌ』で主演を務めたファルコネッティの書簡。2015年末に仏イーベイで戦前の興行師イゾラ兄弟の旧蔵品が出品された際に入手した一枚。同兄弟はオランピア劇場やサラ・ベルナール劇場の支配人で、役者から監督、作曲家や作家まで広大な人脈を築き上げていた大物でした。

レターヘッドを備えた水色の便箋の表裏にメッセージが書かれており、内容は次のようになっています。


「ペローネ様

御心配は無用です。
契約の解除を同意・確認した旨、イゾラ様宛の手紙にしたためて
投函させていただきました。
今晩、遅くても明日朝までには受け取りになられるのではと思います。

良い思い出になりました、御安心くださいませ。

ファルコネッティ」

« Cher Monsieur Perronnet,

Ne vous-inquietez pas. La
lettre pour Messieurs Isola
dans laquelle je confirme
notre accord de rompre
mon engagement est postée
par la
poste, et vous la recevrez
ce soir ou demain matin
au plus tard.
Soyez assuré, je vous
prie, cher Monsierur,
de mon meilleur souvenir.

Falconetti »

モーリス・ペローネは当時サラ・ベルナール劇場のマネージャーを担当していた人物です。存命中のサラとは家族ぐるみでの親交があり、ペローネ氏の洗礼時に代母(marraine)となったのがサラでした。また画家としての才能もあり、サラの肖像画を多く残しています。

ファルコネッティは1927年に同劇場と契約を結ぶのですが、『裁かるるジャンヌ』の撮影がずれこんだため一旦同年に役を降りた記録があります。手紙で触れられた「契約の解除」はその一件を指しているのではと推察されます。

エドゥアール・マテ Edouard Mathé (1886 – 1934 ) 劇場支配人宛ての書簡

「国別サインリスト フランス [France]」より

エドゥアール・マテ直筆書簡

Edouard Mathe Hand-written Letter Addressed to the Isora Brothers
Edouard Mathé Hand-written Letter Addressed to the Isora Brothers (c1915?)

やはりルイ・フイヤード活劇の常連で、『ジュデックス』でルネ・クレステの弟役を演じていたエドゥアール・マテが残した直筆書簡。ファルコネッティの手紙と同様、パリの大物興行師だったイゾラ兄弟が保管していたコレクションの一部となります。


「日曜に記す

劇場支配人さま。

今晩上演されるオペラ作品『ミニョン』の座席を二つ御手配いただくこと可能でしょうか。知人の歌手エドメ・ファヴァールの晴れのデビューに立ち会いたいと思っております。

誠にお世話になります。オペラ=コミック座には午後6時前後に着けるかと思います。

何卒よろしくお願いいたします。

エドゥアール・マテ」

当時オペラ=コミック座の支配人をしていたイゾラ兄弟に同劇場のチケットを所望しています。「知人」として紹介されているエドメ・ファヴァールは女性ソプラノ歌手で、オペラ=コミック座での初主役となった『ミニョン』が1915~25年まで10年に及ぶロングランを記録しています。「晴れのデビュー」とありますので大戦中の1915年ごろの手紙でしょうか。

Edmée Favart
エドメ・ファヴァール

マテが当時、映画俳優業の他に何をしていたのか全く知られていません。交友関係が伺い取れるだけでなく、パリでイゾラ兄弟と契約を結んでいたことも分かる資料です。

« Ce dimanche

Nos chers directeurs,

Voudriez-vous m’octroyer amicalement deux places pour ce soir « Mignon » afin que je puisse assister aux heureux débuts de mon [illisible] amie et interprète E[dmée]. Favart?

Je vous en serai infiniment reconnaissant et pourrai vers 6h à l’Op[éra]. comique.

Veuillez agréer, nos chers directeurs, l’expression de nos sentiments les plus dévoués et de nos sincère remerciement,

Edouard Mathé »

ミュジドラ Musidora (1889 – 1957)、昭和13年の従妹宛タイプ打ち書簡

「国別サインリスト フランス [France]」より

1938年、ミュジドラがブエノスアイレス在住の従妹ジョルジェット宛てに送ったタイプ打ちの書簡。フレンドリーな口調ながら女流作家らしく凝った表現も随所に混ぜられています。

文中に登場する「ジャコル」君はおそらくジョルジェットの子供さんの愛称で、その手術と家族の心労をいたわる気遣いが伝わってきます。

一方でブエノスアイレスの大手書店の所在地を訪ね、自身の著作の販路を広げようとしている辺りにしたたかさを感じます。

文面は裏まで続いていて、最後に本人のサインで〆てあります。表面の余白には手書きで息子のクレマン君が愛らしいメッセージを残しています。


7月20日 シャティオン=シュル=マルヌにて

ジョルジェットへ

このブエノスアイレスってのは超危険、磁石並に引き寄せられている私。なぜか知らないけれど息子の来年のバカンスはブエノスアイレスに行ってほしいと思ってしまうのよ。

残念ながら夢物語かしら。でもそんなことばかり考えてしまって。

日々の記録のお手紙と、私&息子の写真2枚を同封させてもらいました。

私が一秒たりとも無駄にしていない様子が伝わるかなと思います。「おちおち死んでもいられない」みたいな?ジャコルの手術があって大変だったのも分かっているしちょっとでも笑ってもらえると幸いです。

こちらでは家がようやく完成しました。庭に15×8メートルのプール付き。ザズーの素潜りが凄いったらありゃしない。

良かったらブエノスアイレスの大きな書店の連絡先を教えてください。自分の本をどこかに置いてもらいたいと思っていて、向こうも興味持つのではないかと。この辺のお金絡みの分野が苦手なので、ヒントになりそうなものを幾つか教えてもらえると嬉しいです。

良き報せを待ちながら、みんなに、一人ひとり順番にキスを送ります。あなたからの温かい言葉は皆に伝えておきました。百倍返しするそうですよ。

(クレマン君のメッセージ)
こんにちはジョルジェットおばさんとジャコルかぞくみんなにキスおくるね

Chatillon-sur-Marne le 20 Juillet 1938

Ma chère Georgette,

Ce Buenos-aires est périlleux pour moi, il m’attire comme un aiment, et j’aimerais, je ne sais pourquoi que Clément l’année prochaine prenne des vacances pour faire un voyage jusqu’à Buenos-aires.

Tout ceci malheuresement n’est qu’une idée, mais cette idée revient souvent dans ma tête.

Je t’envoie par ce même courrier des nouvelles journalistiques de ta cousine ainsi que deux photos de Zazou et de moi.

Tu vois que je ne perds pas un instant et comme on dit « je ne prendrai même pas le temps de mourir ». Je veux te faire rire un peu car tu as de mauvais quart d’heure avec l’opération du Jakol.

Ici, la maison s’achève doucement, le jardin à une piscine de 15 mètres sur 8 mètres, et le Zazou y fait des plongeons magnifiques.

Veux tu être gentille de m’envoyer l’adresse d’un grand libraire de Buenos-aires, je voudrais bien faire un dépot de mes livres et cela peut l’interesser. Mais ne connaisant pas cette partie uniquement commerciale je te serais gré de bien vouloir me donner quelques indications.

Dans l’attente de vos bonnes nouvelles à tous, nous vous embrassons tous ensemble, séparèment. J’ai transmis toutes tes amitiés à toute la famille qui te les renvoie centuplées.

Ta cousine,
musidora

[message écrit par Zazou] : bonjour je t’embrasse ainsi que Jakol et ta famillle zazou

 

1960年代? フリッツ・ラングの電報4通(マドレーヌ・オーズレー宛)

4 Telegraphs Sent by Fritz Lang (1960s?)
4 Telegraphs Sent by Fritz Lang (to Madeleine Ozeray, French actress starred in Liliom)

1930年中盤にフリッツ・ラングがドイツを離れ、ハリウッドに渡って第2のキャリアを築いた話は良く知られています。その際、直接アメリカに向かった訳ではなく一度フランスを経由したのは意外と知られておりません。パリでは同胞のプロデューサー、エーリヒ・ポマーと再会、提案を受けて映画を一本監督しています。それが異色作『リリオム』(1934年)でした。

同作は宗教色の濃い恋愛ファンタジーで、ドイツ時代のシャープな感覚やハリウッド期のヒューマニズムは希薄です。そのせいもあって一般からの評価は高くありません。しかしラング自身は大変気に入っており、晩年のインタビューでもお気に入りの一つに上げているほどでした。

『リリオム』でのマドレーヌ・オーズレー
Madeleine Ozeray in Liliom

『リリオム』で主演を務めたのが舞台出身のシャルル・ボワイエとマドレーヌ・オーズレーでした。ヒロインを務めたオーズレーさんとの交友はラングの亡命後、戦後も続いていました。ラングが折に触れて送ったメッセージをオーズレーさんが保管しており、その一部を手に入れることができました。

こちらがその電報です。日付が明記されていないものの、電報の様式から1960年代ではないかと思われます。

img063「恒例となった心からの誕生日おめでとうを。フリッツ・ラング」

img066「心からおめでとう。私の気持ちはいつだってあなたのものです。フリッツ・ラング」

img064「だいぶ遅れました、数日中に手紙送ります/親愛なる フリッツ・ランド[原文ママ]」

img062「誕生日おめでとう。心をこめてキスを送ります。フリッツラング」

独仏米の映画史を横切って繰り広げられた二人のやりとり。ラングのこまめな気遣いが凄いのと、電報が届くたびに嬉しそうに読んでいるオーズレーさんの姿が目に浮かびそうです。