1919 – 連続活劇 『ティーミン』 (ルイ・フイヤード監督)仏語小説版 ロマン・シネマ全12冊揃

「ルイ・フイヤード」より

« Tih-Minh » (1918, Gaumont, dir/Louis Feuillade)
1919 « Romans-Cinéma » French Novelization

2004年、米映画批評家のジョナサン・ローゼンバウム氏が自著の『エッセンシャル・シネマ』でお気に入りの作品千本をリストアップしました。国外の映画愛好家が「このうち何本見れるか」とチャレンジする機会も多く、英語圏では大きな影響力を持っています。同リストには94本の無声映画が含まれており、グリフィスの7作とキートンの6作に次いで多く取り上げられていた監督がフイヤード(5作)でした。

『ティーミン』(1918年)はフイヤード監督が第一次大戦後に初めて手掛けた連続活劇となります。全12話、トータル5時間ほどの上映時間。ゴーモン社が35ミリポジを保管しており2018年から4Kデジタル修復プロジェクトが始動、一般公開から百年目となる2019年に最新デジタル版が完成しました。

『ティーミン』の各エピソード公開にあわせ、毎週木曜日に小説版も出版されていました。24頁ページの冊子形式で、表紙は二色刷り。小説版は単に映像を文字に起こしただけではなく映画版で言葉不足のまま展開されていた個所が説明されています。

フイヤード活劇史において『ティーミン』は物語の「語り」を変える意識が表面化してきた一作となります。

前半4エピソードの主人公はどのような事件に巻きこまれているかを知らず防戦一方となっていて目につくアクションの要素が希薄。中盤4エピソードでは新登場のキャラクター(フランシス)を迎え次第に反撃に向かい、後半に敵を壊滅させる流れになっています。初期作と比べるとスロースタートな展開ながら計5時間の流れを配慮した起承転結と全体の完成度を意識。この傾向は次作『バラバス』にも継承されていくものです。

『ティーミン』のゆったりした物語の流れは同作の弱点にもなっている部分です。旧来の連続活劇のめくるめくアクションやジェットコースター的展開を期待していると肩透かしを食らいます。逆に活劇ジャンルを幼稚とみなしていた一部の映画愛好家がこの作品で初めて活劇を評価した例が見られます。型通りの連続活劇は十分に観てきたという中級~上級者、主流からは外れながらも個性のある活劇を見たいという方が楽しめそうな作品になっています。

2020年ボローニャ復元映画祭でデジタル修復版が上映された際に2021年末にDVD版が発売される旨が告知されており、今後フイヤード活劇再発見の中心となっていくのではないかと期待されます。日本語環境で見れる機会がいつになるか分かりませんので最後に各章の要約を付しておきます(各章のスクリーンショットはGPアーカイヴより)。全体の流れはある程度掴めるのではないでしょうか。

[IMDb]
Tih Minh

[Movie Walker]


[公開]
1919年2月~4月

[出版社]
ルネッサンス・デュ・リーヴル社

付録:連続活劇『ティーミン』各章要約

プロローグ:

冒険家ジャック・アティス(ルネ・クレステ)がインドシナから帰国、車から降りてきた青年の隣には黒髪の女性の姿。現地で世話になったティーミン(マリ・アラルド)であつた。互いに憎からず思っていた二人の運命を一通の電報が変えてしまう。ジャックは単身インドヘと向かわなくてはならなくなった。名残を惜しむ中、ふと不吉な予感に苛まれるティーミンであつた。

第1話:忘却薬

インドでの仕事を終えて帰途についたジャック。しかし彼の動きをこっそり追っている怪しげな一団。ジャックがインドで手に入れた一冊の書籍を狙っているようである。悪党団の狙いは見返しに残されたインド語の手書き文書。まずはキストナ(ルイ・ルーバ)が世間話に紛れて書籍を借りようと試みるが、ジャックの下男(ビスコ)がいたずら書きと勘違いして文章を消してしまったため失敗。悪党達はティーミンを拉致、催眠術をかけて彼女に紙片を奪わせようと試みる。だがしかしティーミンは無意識で抗い言なりにはならなかつた。悪党団は薬を飲ませ女の記憶を消すとジャックの元に返すのあつた。

第2話:事件は夜に二度起きる

インド語のメッセージを書き写した紙片があると知ったキストナ一団はその強奪を計画。「事件の真相を教える」を口実に海岸までジャックを呼び出してから溺死させようと画策。謀略を感じたジャックは下男プラシッドに身代わりを依頼し海岸へと行ってもらい、自身は部屋の薄暗がりに隠れて約束の時間を待つ。部屋の窓から侵入してきた一つの影。机を物色したところを取り押さえたところ以前にキストナという人物から紹介されたサンタフェ侯爵夫人ではないか。女から事情を聞こうとするも、一瞬の隙をついて逃げられてしまうのであつた。

第3話:シルケー館の秘密

記憶を失ったティーミンは病院で療養しながら次第に体調を取り戻していつた。悪党の一味は再度女を拐して紙片との交換条件にしようと画策。ティーミンを見張っていたアティス家の下女ロゼッタの気を逸らしている間に誘拐に成功。一方、キストナを疑い始めていたジャックは下男プラシッド共にキルケー館に潜入、地下室に幽閉されている多数の女を発見。表情は一様にうつろだった。最近巷で多発していた婦女子誘拐事件の被害者だと気づくまで時間はかからなかった。館の一角には怪しげな薬品を調合しているキストナの姿。いったんは館を離れようと試みた二人だったが、プラシッドが庭に仕掛けられた罠に掛かってしまう。館に鳴り響いた警報音。「私を殺すまではしないでしょう。行ってください」、プラシッドの言葉にジャックはその場を離れるのであつた。

第4話:ケースに潜む男

囚われの身となったプラシッドだったが機転を利かせ薬品をすり替えたのが功を奏し、意識を失わずに済んだ。服を運ぶための籠の底に身を隠す。使用人たちは何も気づかず籠を車を乗せた。行先は悪漢が秘密の拠点としているコートダジュールの豪邸であった。プラシッドは館の二階に幽閉されていたティーミンを発見。薬を飲まされていたが動けるようではあった。プラシッドは女を誘導して小舟に乗せ無事脱出に成功、ティーミンをジャックのもとに送り届けるのであった。ジャックは旧友の外交官フランシス(エドゥアール・マテ)に連絡をとり、ヒンディー語文章の解読を試みる。

第5話:精神病院にて

英国から到着したフランシスだったが、駅では悪漢たちが先回りして待っていた。「迎えに来ました」に騙されて乗った車の行先は精神病院であった。悪党一味のジルソン(ガストン・ミシェル)はフランシスの叔父だと身元を偽って「甥に妄想癖があって」と病院長に説明をしていた。病院職員たちはフランシスを独房に閉じこめてしまう。奸計を見抜いたジャック達は病院に乗りこみ友人の救出に成功。フランシスによるとヒンドゥー語の文章は「第29文書」と呼ばれる国家機密で、英仏の国防にも関わるこの書類の入手を目論んで独スパイが暗躍しているとの話だった。

第6話:夜鳥

「第29文書」がフランシスの手に渡ったと知った悪党団は狙いを外交官に変える。フランシスの執事として雇われた青年は隣室で働いている美しい小間使いに心を奪われてしまう。この小間使いに変装していたのはドロレス侯爵夫人だった。ドロレスは執事を薬で意識不明にさせると部屋の物色を始めた。だが帰宅したフランシスにつかまってしまう。ジャックは女を尋問し悪党団の所在地を突き止めようと試みる。

第7話:よみがえる記憶

旧知の医学者クルーゼルの力を借り、ドロレスに催眠をかけて尋問を開始。「機密文書の存在をどうやって知った?」女の口から語られたのは、かつて仏領インドシナで起こったある事件の話だった。当時ローランソンという外交官がトンキンに赴任していたが、在任中に老いた地元民からラジャーの隠し財産と欧州の国防に関わる秘密を記した書籍の存在を知らされる。その時の会話に偶然立ち会ったのがドイツの間諜ジルソンであった。深夜、ジルソンは外交官宅に侵入し秘密の書かれた書類を奪おうとするが見つかってしまう。ジルソンはローランソンを射殺し逃亡。このローランソンこそティーミンの父であった。女の告白を聞いていたティーミンは次第に過去の記憶を取り戻していく。

第8話:ヴェールの下に

悪党団は反撃の機会を狙っていた。ドロレスを奪い返したのち、次の目標はティーミンだった。尼僧に変装したキストナがジャック宅に入りこむのに成功。ティーミンを銃で脅して機密書類の在りかを白状させようとした。危うく命を失いかけたティーミンたちであるが、執事プラシッドとその婚約者ロゼット(ジャンヌ・ロレット)の活躍で悪人たちの撃退に成功する。

第9話:慈悲の枝

一旦は平穏を取り戻したかに見えたジャック達。だが悪党一味は次の襲撃機会を狙っていた。内通者として潜りこませた小間使いを通じてジャック達の動きは筒抜けだった。ジャックとフランシスが悪漢の捕縛に向かおうとした時ティーミンも同行を望んだのだが「危険さに晒す訳にいかない」と断られてしまう。諦めきれないティーミンは荷物の片隅に隠れこっそり後を追おうとするが、その動きをキャッチした悪党団が反撃に出る。

第10話:13日の金曜日

キストナは「金曜日」の伝言を付した白い粉末を内通者に送りジャック達を人事不詳に陥れようと試みる。小間使いの一人が敵に通じていると知ったジャックは謀略を逆手に取り、騙された振りをして悪党一味をおびき寄せようと試みる。金曜、何も知らずやってきたキストナ達を返り討ちにするのだが、一党が退却中にティーミンと鉢あわせとなり、これ幸いとばかりに女を拉致しようと試みる。再度危地に陥ったティーミンを救ったのは意外な人物であった。

第11話:第29文書

ジャック達の尽力が実り、スパイたちへの包囲網が着々と完成しつつあった。だがキストナ一味は最後の反撃を試みる。早朝、まだ就寝中のフランシスの部屋を襲い身動きをとれなくしてしまう。英国からフランソワ宛に届いた書簡を見ると第29文書がすでに無効化された旨が記されていた。「もはやこれまでか」。フランソワを救出にやってきたジャック、プラシッドらに追われ悪漢たちはアパルトマンの屋根伝いに逃走を試みる。

第12話:正義の鉄槌

ジャック達は車で逃走したスパイ団を追跡していく。逃げ場を失った悪党たちは次第に仲間割れを始めていた。最後に残ったキストナとジルソンの二人もまた互いを警戒しながらの逃避行を続けていく。車のガソリンが切れ、徒歩での移動を強いられたジルソンは地元の採掘場で使われていた鉱石を運ぶケーブルカーを思い出した。何としても逃げ切りたい悪党一味とそれを必死で追うジャックと仲間たち。最後の追跡劇、ジャックを待つティーミンらの想いの行方や如何に。

1918 – 『ぶどう月』 (ルイ・フイヤード監督) 撮影風景写真3枚

「ルイ・フイヤード」より

1918 - Vendémiaire (Louis Feuillade)

« Vendémiaire » (1918, Gaumont, dir/Louis Feuillade)
3 photos de tournage (3 behind-the-scenes shots with annotations on back)

第一次大戦終戦の大正7年(1918年)に撮影され、翌8年(1919年)に公開された劇作品『ぶどう月』撮影中の写真三点。販促用スチルではなく、撮影関係者が内々のやりとりで保管していたオフショットで、ここにある以外現存していない資料と思われます。

フイヤード監督の作品は1)初期習作(1913年まで)、2)前期活劇(1914~17年)、3)後期活劇と逝去(1922年まで)の大きく三つに分けることができます。

『ファントマ』『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』『続ジュデックス』など大戦中の作品で仏活劇に旋風を巻き起こした後、戦後から作風に変化が見られるようになってきます。『ティーミン』や『バラバス』といった後期作品は、アクションの要素を抑えドラマの流れや一貫性を重視し、さらに幻想色を加えたものに変わっていくのです。

前期から後期への橋渡しとなった作品が『ぶどう月(Vendémiaire)』でした。 この監督は「フイヤード組」と呼ばれた固定メンバーを軸に作品作りを進めるのが常だったのですが、終戦の前後に大きな入れ替えがありました。『レ・ヴァンピール』『ジュデックス』で存在感を見せたミュジドラ、喜劇の要素を加えていたマルセル・ルヴェスクの二人が一座を離脱。その代わりにアジア風の繊細さを持つ女優マリ・アラルドが加入、ルヴェスクの代わりに若い喜劇俳優ビスコが参加します。また『ジュデックス』主役を演じたルネ・クレステもこの後しばらくして『ティーミン』製作後に離脱しています。

『ぶどう月』はマリ・アラルドやビスコが初めて登場したフイヤード作品となります。

『ぶどう月』の物語は、軍隊を離れ、新たな生活を始めようと南仏にやってきた退役軍人(ルネ・クレステ)を軸に進んでいきます。盲目の貴族(エドゥアール・マテ)が所有するワイン園で雇われるのですが、ジプシーと間違われ追い払われそうになっていた貧しい未亡人(マリ・アラルド)を助け、次第にロマンスが生まれてきます。一方では敗走したドイツ兵(ルイ・ルーバ)が身分を偽ってワイン園に潜りこみ、盗みを重ねながらその罪を貧しい未亡人に押しつけようとしていく。未亡人の濡れ衣を晴らすため主人公は…という展開を持つ映画です。

冒頭、主人公はブドウ園の管理人に身分証明書を見せ、雇ってもらうことに成功します。この時ジプシーと勘違いされ雇用を断られた女性に話を聞くと、大戦で夫を亡くしたばかりとのこと、クレステはブドウ園の管理人に話をし、「ジプシーではなく英雄の妻だ」と誤解を解いてあげました。

ゴーモン社所有のプリントでは以下のような映像が続いていきます。

主人公を演じたクレステを中心に、未亡人を演じたマリ・アラルド、管理人を演じたエミール・アンドレを左右に配して撮影されたのが一枚目の写真。作中でマリ・アラルドは頭に布を巻いていましたが、こちらでは首の後ろに下ろしています。

この後悪役ドイツ人が登場、国籍を偽って農園に入りこみ、窃盗を繰り返していきます。途中にベルギー人の同僚が内緒話をしているのを見つけ、小耳を立てる場面がありました。

悪漢を演じたルイ・ルーバを撮影したのが二枚目の写真です。映画では正面と真横からのアングルでしたが、写真は斜め前からのアングルになっています。

最後の一枚はカメラマン。今回「1895」誌のフイヤード特集号に収められていた写真から『ジュデックス』等でも撮影を務めたレオン・クラウス氏と特定できました。

3枚の写真の裏面にはいずれも手書きの説明が付されています。


クレステがブドウ園管理人の元に薄汚れた女を連れて行く。管理人と握手を交わす。女に罪はないと信じていた。

Cresté amène la caraque auprès du régisseur, qui va lui serrer la main: il croit à sa innocence

René Cresté (Judex)


ベルギー人のおしゃべりを盗み聞きしているドイツ人

le boche écoute les belges parler


カメラを「回している」連中の一人

un de ceux qui « tournèrent »

別投稿で紹介したルネ・クレステ直筆の年賀メッセージ葉書と同じ出所で、1919年頃にクレステと親交のあった関係者が保管していた資料の一つです。

この3枚と同じ撮影者の手によるもう1枚の写真も併せて紹介しておきます。

『ぶどう月』に該当する風景・人物は登場していませんが、同時期に南仏の農村で撮影された一枚で間違いなさそうです。カメラマンがスチル撮影を手掛けた合間に見かけた農夫たちを撮ったのではないでしょうか。井戸のデザイン、人々の雰囲気など妙に心を揺すぶる何かがあります。

[IMDb]
Vendémiaire

[Movie Walker]


[公開]
1919年1月17日

] 映画の郷 [ 電子工作部:映写機用レンズの実写性能比較システムを作る(02)

映写機用レンズ比較システムの試作機でテストを行いました。テスト対象は仏エルマジ社のマジステール3本とメイヤー・ゲルリッツ社のキノン・スーペリアー。マジステールのF=1:1.6 40ミリは仏パテ社のリュクス映写機、F=1:1.9 40ミリはスイス製パイヤール・ボレックス社のD型映写機、F=1:1.9 45ミリはボレックス社のDA型映写機、キノン・スーペリアーF=1:1.6 40ミリは独パテックス社の200B型映写機についていたものです。

被写体は1922年公開『ちびっこギャング(Our Gang)』の英パテスコープ社抜粋版(「Fickle Flora」10240番)より犬の画像。

[エルマジ社マジステール F=1:1.6 40ミリ]

レンズ中央部付近の解像度は高く、犬の毛並みの質感や土表面の細かな陰影も綺麗に再現されています。周辺部では光量低下(ケラれ)が目立ち、流れるような感じのボケが発生しています。

[エルマジ社マジステール F=1:1.9 40ミリ]

中央で焦点を合わせているはずが何度やっても完全に結像しませんでした。レンズを一旦ばらして清掃しても結果は変わらず。他のレンズと比べて被写界深度が浅く、フィルムに発生しているわずかな凹凸でピントが外れてしまうようです。映写機で実使用する際にもピント合わせがシビアな一本ということになります。左上、左下の隅の光量低下はF=1:1.6 40ミリより大きくなっています。

[エルマジ社マジステール F=1:1.9 45ミリ]

四隅ぎりぎりはさすがに光量が落ちているもののケラレは比較的少なく、周辺部まできっちりピントがあっています。今回試した3本のレンズで実写能力は一番高かったです。画質がシャープで1:1.6 40ミリと比べてやや「硬い」感じの画質。また40ミリの2本が赤みを強調した色の出方をしているのに対し45ミリはモノクローム感が強いです。

[メイヤー・ゲルリッツ社 キノン・スーペリアー F=1:1.6 40ミリ]

「マジステール F=1:1.6 40mm」と「F=1:1.9 40mm」の中間位の画質、でしょうか。マジステールと比べて明るい部分がやや強く出ていてコントラストが強調されています。周縁部のボケ方はマジステール以上に激しく癖があります。

上に挙げたレンズの特徴(ケラれが目立つ、ピントがあいにくい…)は実写時に感覚として分かってくる話ではあります。今回のシステムを練り上げていくと複数のレンズを同一条件で並べた上で違いを可視化でき、必要ならグラフ化、数値化して定量的に比較できるようになります。

今回は試作機の位置付けで、テストによって幾つか問題がでてきました。

1)今回各レンズの焦点距離とF値から計算して3Dプリンタの補助パーツを製作したのですが、どこかで計算を間違ったようで焦点距離35ミリ以下のレンズで思っていた結果になりませんでした。

2)フィルムの平面性。フィルムは巻き癖がついてしまうためやや湾曲しがちで、しかも古い9.5ミリは湿度の影響で表面が凸凹しているものが多いです。一般的な映写機は金属(主に真鍮)のゲージ部でフィルムをサンドイッチ状に挟みこみ平面性を確保していますが、今回は2ヵ所の突起でフィルムを引っ掛けているだけなのでまだその意味で安定していません。

3)システムの精度の問題。今回のテスト方式ではレンズが僅かに斜めになっていただけでも結果が変わってきます。レンズの被写体深度を考慮しても十数ミクロン~数十ミクロンの精度が要求されており、測定ごとにピックテスターで条件を揃える必要がありそうです。

この辺をフィードバックした形で修正を施していく予定です。

ちなみに焦点距離35ミリ以下のレンズでもピントあわせには成功しています。ただし画像がセンサーの四方からはみ出る形になってしまいました。レンズの一番周辺の部分が見切れているため上のデータとは対等には扱えませんが、参考までにリュクス映写機用の32ミリレンズとパテベビー用のスタンダードレンズ、パテクソール・クラウス25ミリレンズの結果も公開しておきます。

リュクス映写機用32ミリとパテベビー用のスタンダードは解像度、ヒストグラム共に似たような結果が出ています。ただしベビー用レンズはサイズが小さいこともあって周辺部での光量低下が目立ちます。パテクソール・クラウスはサイズ的にパテベビー用レンズと同じくらいながらも光量低下が少なく全般的にクリアな映像になっています。

1923 – 9.5mm 『震災に見舞われた日本』 (仏パテ版)

小特集【関東大震災と9.5ミリ映画】

« Tremblement de terre au Japon » 1923 French Pathé 9.5mm Print

仏エクレール社が制作した関東大震災の記録映画。東京と横浜の被災状況を捉えた映像で後半には救援隊が訪れる様子が映し出されています。

本作品の最後には人々が救助の船に乗りこんでいく映像が収められ「怪我人優先」で作業が進んでいきます。甚大な被害にも関わらずパニックは見られず、秩序の保たれている様子が伝わってくるものです。地震直後は情報インフラが寸断され正確な状況が伝わりにくかった中で、心を痛めていた国外在住の邦人や関係者にとってこういった短い動画でも貴重だったのだろうなと思います。

また2018年春から夏にかけ江戸東京たてもの園で開催されていた「東京150年記念・看板建築展」を訪れた折、会場一角に設置されたモニターで関東大震災関連の動画をまとめた映像が公開されていました。ふと見覚えのある映像が出てきたのがこのフィルムの抜粋でした。里帰りした映像は後世に歴史を伝える役割を果たしてくれています。

[原題]
Tremblement de terre au Japon

[制作]
仏エクレール社

[フィルム版メーカー]
仏パテ社

[カタログ番号]
655

[フォーマット]
10m×1巻 無声字幕 白黒 ノッチ有

1924 – 9.5mm 『日本、震災のその後』 (仏パテ版)

小特集【関東大震災と9.5ミリ映画】

« Au Japon : après le cataclysme » 1924 French Pathé 9.5mm Print

同時に紹介している『震災に見舞われた日本』 の続編的な一本。前作が災害の切実さ、深刻さを伝えようとしていたのに対し『震災のその後』では支援活動や復興に向けた動きなどが収められ、人々の表情にも希望と明るさが戻り始めています。

10年程前に最初に手に入れた9.5ミリの一つで、仏フィルムコレクターが日本関連の作品6本(『震災に見舞われた日本』『震災のその後』『日本の芸者』『日本冬景色』『日本の七宝焼き』『日本の象牙細工』)をポッソ社製60メートルリールにまとめた形になっています。パテ社の9.5ミリ初期カタログには日本を扱った作品が多く、確認できている限りで16~17作ほどの動画が市販されていました。外国、特にアジア圏を扱った数としては異例の多さで、前世紀のジャポニスムなどの影響で日本への関心が高かった様子を伺い取ることができます。

[原題]
Au Japon : après le cataclysme

[フィルム版メーカー]
仏パテ社

[カタログ番号]
682

[フォーマット]
10m×1巻 無声字幕 白黒 ノッチ有

1928 – 『凸凹の狼狩人』 (Ulvejægerne、1925年、ラウ・ラウリッツェン監督) 仏語小説版 « フィルム・コンプレ »

« Loup, y es-tu? » (Le Film complet du jeudi, N° 514, 7 juin 1928)
based on 1925 Danish Film « Ulvejægerne »

「連休は父親の所に行ってこようかな、と。ユトランドのブレケルシュタット育ちって話しましたっけ。次いでにちょっと運動してこようと決めました」
ホテルレストランのオーナーは大きく目を見開いた。
「運動なんて毎日してるんじゃないか」
笑い出だした青年。
「今回はちょっと特別なんです。ユトランドの森に狼が沢山出てるみたいなんです」
ニコレ氏の驚きは驚愕に変わった。
「狼って。デンマークの森にまだ狼がいるなんて知らなかったよ」
ポール青年はうなずいた。
「僕もです。でも本当らしいんですよね。この記事見てもらえますか」
オーナーに差し出した新聞は朝刊のもので、該当記事に目をやったニコレ氏は得も言われぬ感情に体が震えるのを感じた。

– Je vais chez mon père, patron. Ne vous ai-je pas dit que j’étais de Brekerstatt, dans le Jutland…
« Je me promet, d’ailleurs, de faire du sport.
Le patron ouvrit les yeux tout grands.
-N’en faites-vous pas tous les jours?
Le jeune homme se mit à rire.
-Cette fois, il s’agit d’un sport un peu particulier. On annonce que les forêts du Jutland sont infestées par les loups.
L’étonnement de M. Nicolet se changea en ahurissement.
– Des loups! Je ne savais pas qu’il y avait encore des loups dans le Denmark.
Paul Lindsomm acquiesça.
– Moi non plus, mais c’est pourtant certain, lisez ce journal.
Il tendit au patron une feuille imprimée, qui datait du matin et M. Nicolet, dès qi’il eût jeté les yeux sur l’article qu’on lui signalait, se mit à trembler d’émotion.


自転車修理士として小銭を稼ごうとしていた凸と凹はペテンを見破られてあえなく廃業。

折しも新聞では狼が確認されたという報せが。狼狩に向かう村人たちに凸凹二人も合流します。

水辺でキャンプを張ろうとした一団でしたが先客の水着美女たちに見つかって追い払われてしまいます。 その後仲直り、思いもかけぬハーレム状態に何をしに来たのか忘れ果ててしまう始末

油断している一行の前に現れた狼の群れ、果たして狩人たちの運命や如何に…と物語は続いていきます。

「フィルム・コンプレ」は毎週木曜日に発行されていた16頁冊子形式の映画小説専門紙です。空気に触れているとボロボロになりやすい酸性紙で普段表に出さないのですが久しぶりに引っぱり出してきました。

フュー&ビの連作喜劇にはスラップスチックな追っかけ、サイドストーリーで絡んでくる恋愛要素、突然登場してくる謎の水着美女集団など幾つかの定型パターンがあります。『狼狩人』はそういった約束事を守った正統派の一作。今回見直してみてマック・セネット喜劇の影響が強いことに気が付きましたが、それも作品世界によく馴染んでいます。

[タイトル]
Loup, y es-tu?

[原題]
Ulvejægerne

[IMDb]
Ulvejægerne

[発行所]
Le Film complet du jeudi

[出版年]
1928年

[フォーマット]
26.0 × 18.0 cm、16頁

1992 – 『1895』誌 第12号 特集:エクレール撮影所 1907-1918(仏映画史研究協会編)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」より

Revue « 1895 », n° 12
Studio Eclair 1907-1918 (Octobre 1992)

1992年、伊ポルデノーネ無声映画祭でエクレール社初期作の回顧上映会が開催されました。この企画にあわせフランスの映画史専門誌『1895』からエクレール社の特集号が公刊されています。内容は大きく1)経営状況の分析、2)主要俳優紹介、3)現存初期作(≒映画祭での上映作品)の粗筋、の三本立て。

1)に関しては1907年の設立時の定款、翌年の増資、収支報告などの一次資料をまとめたもの。資本金15万旧フランという小さな規模で誕生したエクレールがどのような運営を行っていたか見えてくる資料群です。

2)は1913年のフィルム・ルヴュ誌の俳優紹介企画を転載したもので『ジゴマ』『プロテア』で主演を務めたアルキリエール、アンドリオ以外にも『ジゴマ』で探偵役を務めたアンドレ・リアベル、『猿人バラウー』や『プロテア』で存在感を見せたリュシアン・バタイユなどジャッセ映画の常連俳優が紹介されています。

またあまり脚光を浴びてこなかった喜劇連作(「ゴントラン」「ガヴロッシュ」「リトル・ウィリー」)の主演役者にも紙数が割かれていて初期エクレール社の全体像が伝わってきます。

3)もフィルム・ルヴュ誌からの記事転載。モーリス・トゥールヌールの初監督作がエクレール社で、初期作『イヴリーの女羊飼』の粗筋も含まれていました。1913年5月にジャッセが亡くなって数か月後にトゥールヌールがデビューした形。画家を志した過去があり、構図や細部へのこだわりなど共通点のある両監督の接点、因縁を感じます。

全体としては当時物の記事や紙データに特化した内容で、国外(そしてフランスでもパリ以外)では入手の難しい情報が一冊に集約されています。ジャッセ作品の背景理解だけではなく普通に読み物として読んでも楽しめる特集号でした。

[出版年]
1992年10月

[出版者]
仏映画史研究協会(l’Association française de recherche sur l’histoire du cinéma/AFRHC)

[ページ数]
192

[サイズ]
14.5 × 21.5 cm

1974 – 『サムライ – ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』(Le Cinéma selon Merville、ルイ・ノゲイラ著、セゲルス社) 仏語版初版

« Le Cinéma selon Melville » (1974, Rui Nogueira, First Edition, Ed. Seghers, Paris)

ノゲイラ:この頃すでに9.5ミリの映画を何本か撮られていたんですか。

メルヴィル:初めて手に入れた動画カメラが手回し式のパテーベビーで1924年の1月、私は6才でした。当時パリ9区のショセ・ダンタン通りに住んでいて、初めて撮ったフィルムは自宅の窓から通りを映したものでした。建物の屋根にかかった子供向け石鹸の大きな看板、通りを抜けていく車、小舞踏病にかかった小犬…あの犬は通り向かいに住んでいた素敵な婦人の飼い犬だったかな。[…] 逆にパテーベビー映写機は手離せなくてね。あれ一台あると世界中の映画を自宅で見ることができたので。各作品の粗筋と写真一枚が掲載されていたパテーベビーのレンタル用カタログは世界で一番美しい物でした。西部劇あり、キートン、ロイド、ラングドンにチャップリンのフィルムをサルトーニ写真館で借りたものです。こんな感じで2〜4巻組のフィルムを毎週4、5本見るのが常になっていました。あの熱中ぶりは完全に常軌を逸していたのですが、私の映画の素養の根っこでもあります。

Nogueira: A cette époque, vous avez déjà tourné plusieurs films en 9 mm 5?

Merville: J’ai eu ma première caméra, une Pathé Baby à manivelle, en janvier 1924. J’avais donc six ans. J’habitais alors la Chaussée d’Antin et mon premier film je l’ai fait sur cette rue, de ma fenêtre. On pouvait voir le Bébé Cadum, les voitures qui passaient, un petit chien qui avait la danse de saint Guy, lequel appartenant à une dame charmante, de l’autre côté de la rue. […] je ne me suis jamais lassé de mon Pathé Baby projecteur, puisque je pouvais voir chez moi tous les films du monde. Le catalogue de films de location Pathé Baby, un catalogue énorme avec la résumé et une photo de chaque film, était la chose la plus belle du monde. Il y avait des westerns, tous les Keaton, les Harold Lloyd, les Harry Langdon, les Chaplin, etc. que l’on louait chez un photographe, Sartoni. Ainsi, toutes les semaines je pouvais voir quatre ou cinq films nouveaux de 2, 3 ou 4 bobines. C’était l’amour fou, complètement. La base de ma culture cinématographique.

(Le Cinéma selon Melville, Rui Nogueira, p.18, Ed. Seghers, 1974)

仏フィルム・ノワール界の重鎮(『サムライ』『仁義』『いぬ』)として知られるジャン・ピエール・メルヴィル監督が自身のキャリアを辿りなおしたインタビュー集。2003年に晶文社から邦訳が出ています。同監督が幼い頃パテベビー映写機/撮影機と出会ったエピソードが含まれているのでその部分をご紹介。

入手したのは15年以上昔の話。「メルヴィルの選ぶ戦前ハリウッド監督63傑」のリスト目当てで学生時代に数年かけて見つけ出しました。

リスト以上に印象深かったのが動画カメラと映写機のエピソードでした。フランスではトリュフォー監督も少年時代にパテベビーのカメラを使っていました。お気に入りの監督が二人も「パテーベビー」を経由して映画世界に入ってきている、一体どんなものなのだろう…気になりつつもいきなり戦前の映写機を使う発想には至らず数年が経過。頭の片隅にひっかった疑問は消えず、上手く動かなくてもいいからひとまず一台手に入れてみよう、と中古のパテベビーを購入したのがかれこれ10年前。

当初は失敗ばかりでしたが経験値を上げていけばどうにかなるもので、9.5ミリの実写やデジタル化は今の自分の生活に溶けこんでいます。第一歩を後押ししたのはこのインタビュー集で、その意味で人生を変えた一冊になるのかな、と。

シルヴィア・バタイユ Sylvia Bataille (1908 – 1993) 仏

フランス [France]より

Sylvia Bataille 1930s Inscribed Postcard

ジャン・ルノワール監督作『ピクニック』のヒロインとして知られている仏女優さん。美しいブランコの場面でも有名な作品です。

『ピクニック』(1936年製作、46年公開)より

同作は1936年6月に2週間の予定でクランクインするも悪天候に見舞われて撮影が難航、資金調達の問題やスタッフ間の意見対立もあって8月に中断となります。未完成のまま放置されていたフィルムを戦後、プロデューサーのピエール・ブラウンベルジェがひとつの作品にまとめあげ1946年に初めて劇場公開されました。

劇場公開後の1946年9月、パリのラジオ局で本作のラジオドラマ版がオンエアされました。ヒロイン役の声を務めたのはシルヴィアさん本人で、本編に入る前に撮影を振り返ったコメントも残しています。自身の肉声で紹介された『ピクニック』は珍しい上、あまり知られていない音源でもありますので日本語に訳してみました:

ネッド・リヴァル:シルヴィア・バタイユさんが隣におられますので今夜は彼女自身から撮影について語っていただけたらと思います。

シルヴィア・バタイユ:作品のロケはマルロット近郊、ロワン川の川辺で行われました。元々は半月の予定だったのが悪天候でいつものペースで仕事ができず二ヵ月間も留まることに。撮影スタッフにとって本当のピクニックになってしまいました。ルノワール監督が映画の舞台に選んだあの場所は父上に当たられるオーギュスト・ルノワール氏が晩年によく絵を描いていて、監督自身も幼い頃に多くの時間を過ごした所だったんですよ。私たちは二ヵ月もの間1880年代の衣装に身を包まれ世の中から切り離された生活を送っていました。なので元の生活に戻らないといけなくなった時は皆さんどうしましょうって感じでしたね。

シルヴィア・バタイユ
『ピクニック(ジャン・ルノワール)』
1946年9月21日放映ラジオドラマ版紹介より

Ned Rival: Sylvia Bataille est près de moi et elle va vous dire, elle-même, quelques mots sur la réalisation cette nuit.

Sylvia Bataille : Les extérieurs du film étaient tournés en environ de Marlotte, sur les bords du Loing. Ce fut pour tout équipe une réelle partie de campagne, car partis pour 15 jours, nous somme restés deux mois, le mauvais temps ne nous ayant pas permi de travailler au rythme normal. Jean Renoir avait choisi comme cadre pour son film cet endroit, où il a passé une grande partie de sa jeunesse, car son père, Auguste Renoir, il peignait pendant les dernières années de sa vie. En costume d’époque 1880s pendant deux mois, nous vivion à l’écart du monde moderne. Nous avons été légèrement désemparés, quand il a fallu nous y ré-adapter.

Sylvia Bataille
L’Ecran sans image : « Une partie de campagne » de Jean Renoir
21 Septembe 1946
(Re-diffusion France Culture, 26 Mai 2019)

写真家ジャック・アンドレ・ボワファールによる
1930年頃のポートレート写真

『天使たちの地獄』(1941年、クリスチャン=ジャック監督作品)

[IMDb]
Sylvia Bataille

[Movie Walker]
シルヴィア・バタイユ

[出身地]
フランス(パリ)

[生年月日]
11月1日

1920年代中頃〜後半・フランス 9.5ミリ個人撮影動画 『無題』(パリ・トロカデロ宮殿と水族館)

« Palais de Trocadéro / Aquarium »
Mid-late 1920s 9.5mm French Home Movie

パテベビー撮影機が出回り始めた1920年代中頃~後半に撮影されたと思われる個人撮影動画。パリ観光に訪れた際の映像を記録した内容です。

エッフェル塔の手前に位置するトロカデロ広場は現在でも観光・撮影スポットとして知られています。この広場に建っているシャイヨー宮は1937年の建立で、それ以前にはトロカデロ宮殿がありました。19世紀後半のパリ万博の折に建設されたオリエンタル様式の宮殿で、今回の動画はその正面を捉えた映像から始まっています。

トロカデロ宮殿の前には4体の彫像が置かれていました。解体に伴い移設され、現在3体(象・馬・サイ)はオルセー美術館に、残りの1体(牛)はニームに置かれています。象とサイの動画に映っている年配の女性は撮影者さんの家族だと思われます。

この後広場近くに位置する水族館に移動。入口に向かう鳥打帽姿の青年が2度映し出されます。たまたま映りこんだ通行人ではなく撮影者さん本人で、先ほど登場した女性(母親)に撮ってもらった可能性が高いかなと。

水族館内で水槽を撮影。ガラス越しに撮影された魚たちが幻想的な動きを見せます。

最後はセーヌ川河畔の風景や往来する観光船の映像で終了。

初期のベビーカメラは暗い場所での撮影を想定していませんでした。屋内撮影、しかも水族館で撮影された個人撮影動画は珍しく驚かされました。

1930年代中盤 仏パテ社 Lux(リュクス/ルックス) 9.5mm映写機 YC型

映写機 [Projectors]より

c1933 Pathé Lux 9,5mm Silent Projector Type YC

パテベビー映写機の後継機として1930年代初頭に発売されたのがリュクス映写機(日本では「ルックス」表記)でした。1931年のYA型に始まり30年代中盤まで幾度かのモデルチェンジを行っており、今回入手した機体は1933年に市販されたYC型となっています。後期型の大きな変更点は以下の3点。

1)劣化しやすく不評だった合金製のフィルムゲート部の改良
2)100Wおよび150Wランプへの対応とランプハウスの大型化
3)排熱機構の強化

社名をあしらった金属プレートや電流計のデザインが変更されるなど他にもマイナーチェンジ多数。

錆び付きや汚れ、細かなペイントロスが見られ幾つかのパーツ(背面のプレート、ランプハウスの屋根)が欠品しているなど完璧なコンディションではありませんでした。欠品パーツに関しては手持ちのスペアで対応。フィルム送りのメカニズムや光学系は生きていて実写できる状態でした。

レンズはベーシックなタイプの仏パテ社オリジナルレンズ(F=32mm)。当時のカタログを見るとスクリーンとの距離10メートルまでの映写に対応しており、1メートルの距離だと21×16センチ程度、4メートルの距離で96×72センチ程度の出力ができたそうです。パテ社オリジナルレンズを含め5種類のレンズ・オプションがあった話はまた次回に触れていきます。

黄色い線の辺りにベビー映写機が隠れています

リュクス映写機を側面から見てみます。小さいハンドクランクの部分に10/20mフィルムの格納部分があってその下にレンズ、さらにフィルム送り機能を収めた箱、送られてきたフィルムを収納するスペース、一番下に変圧器を組みこんだ土台と続いていきます。この構造はパテベビー映写機そのままで、リュクス映写機には30年代インダストリアルデザインに進化したベビー映写機が隠されていると見る事もできます。

リュクス映写機は日本にも輸入されていました。ベビー映写機の倍以上の価格設定で、安価な国産9.5ミリ映写機の普及と重なったため流通は限定的でした。映写時にフィルムを焼いてしまうリスクが高く、モーター音が大きいなど改良すべき点が多く数年後には後継機種に代わられていったものの、仏パテ社の創意が詰めこまれている映写機だと思います。

[メーカー名]
仏パテ社

[発売時期]
1933年

[シリアル番号]
21274 YC

[対応ランプ]
O型(115V 50W)
S型(115V 100W)
SS型(115V 150W)

[対応電圧]
90〜130V

[レンズ]
パテ・パリ F=32mm

1920s – 9.5mm 『美しい浴客』(仏パテ社/英パテスコープ)

Graceful Bathers (Les Jolies Baigneuses) 1920s Pathé Baby 9.5mm film
Kino Type 9.5 Scanner Digitalization

水の清らかさに誘はれてこの温雅な水神達は、無作法者の目から隠れたと信じて 自由に水を浴びてゐます。パテベビーはあなた方の爲めに 彼女等の面白い飛躍をこゝに現します。

『パテーベビーフヰルム 解説書 No. 1』 (大橋善次郎編集・出版、1926年)

綺乃九五式スキャナーの調整テストの為に短いフィルムを動画化してみました。以前に紹介した『美しい浴客』で、元々ユーチューブに高画質の動画があったためそちらをリンク。動画が削除されていたので綺乃九五式版をアップしておきます。

当初「水着美女」で名高いセネット短編の抜粋と思ったのですが、石橋は欧州風の造り。静止画で確認すると背景に一瞬映りこんだフランス語の看板(「ルー川ホテル Hôtel du Loup」)を見つけることができました。以前、南仏の観光地ルー川周辺で撮影された個人動画を紹介しましたが、同地周辺で撮影された仏パテ社のオリジナル動画のようです。

[タイトル]
Graceful Bathers

[原題]
Les Jolies baigneuses

[メーカー]
英パテスコープ社(?)

[仏パテ社版カタログ番号]
378

[フォーマット]
Cleopatra

10m(ノッチ有)

イローナ・カロレヴナ Ilona Karolewna (生没年不詳) ウクライナ

Ilona/Jlona Karolewna Late 1920s Autographed Postcard

イローナ・カロレヴナ嬢はキエフの生れである。踊り子となつてサンクトペテルブルクで初舞臺を踏んだ。歐州を興行で回り伯林に留まる事を選んだ。映畫界に足を踏み入れ、独逸映畫協会(DEFU)で幾つか端役を経験した。その後、巴里のシネロマン社と契約を結び、同社で数年の活躍を見せた。現在は映画界から完全に足を洗つている。

(「A-Z:ルクセンブルグ週刊画報」1935年11月24日付)

Ilonka [sic] Karolewna wurde in Kiev geboren. Sie wurde Tänzerin und trat zuerst in St. Petersburg auf. Sie machte ein Tournee durch Europa und blieb in Berlin. Als sie zum Film trat sie in einigen kleinen Rollen bei der Defu [Deutsche Film Union] auf. Sie wurde ferner von der Direktionder Cinéromans in Paris engagiert und spielt einige Jahre für diese Gesellschaft. Jetzt sie sich ganz zurück gezogen. (A-Z : Luxemburger illustrierte Wochenschrift, 24/11/1935)

オーストリア演劇博物館所蔵のポートレート
https://www.theatermuseum.at/de/object/0efa0d1169/

1920年代半ばに踊り子として訪れた欧州で話題を集め、ファッション・モデルや商品広告など写真の被写体として活躍。ほぼ同時期に映画出演を始めていて、マックス・ランデがヴィルマ・バンキーと共演した『脱線曲馬王』の端役で女優デビュー。ドイツのハリー・ピールの目に留まり、同氏が監督主演した2作のサーカス物『黒い道化師』(1926年)『ビーリー曲芸団』(1927年)の主要キャストに抜擢。その後フランス拠点で女優活動を続け30年代初頭に製作された旅芸人映画を最後に業界を離れています。

『ビーリー曲芸団』(Was ist los im Zirkus Beely?、1927年)より

出演作のうち『ビーリー曲芸団』は以前から現存が知られていてデジタル修復もされていました。もう一方の『黒い道化師』は遺失作品とされていますが、チェコのフィルム収集家が35ミリポジを所有しているようで一部がユーチューブで公開されていました。

[IMDb]
Ilona Karolewna

[Movie Walker]


[出生地]
ウクライナ(キエフ)

[データ]
Phot. A[nton]. Sahm. München. 8.8 × 13.7 cm

1917 – 9.5mm 『意志』(アンリ・プクタル監督、ユゲット・デュフロ主演)

« Volonté » (1917, directed by Henri Pouctal, 1920s French Pathé 9.5mm Print)

資産家エロー家の跡継ぎルイ(レオン・マト)は日々周囲に流される人生を送っていた。

孫の将来を心配した祖母(ウージェニー・バド)は旧友の遺児である娘エレーヌ(ユゲット・デュフロ)をルイの嫁にしたいと考えていた。しかしルイは友人トジア(ポール・アミオ)に紹介された浮薄な貴婦人ディアンヌ(シュザンヌ・ランケル)との関係をずるずると続けていた。

周囲の勧めに従いエレーヌと式を挙げ、子供まで作ったルイ。だが過去と決別する事ができずいつしかディアンヌとよりを戻してしまう。正妻となったエレーヌに恨みを覚えていたディアンヌは偽の手紙で夫妻の仲を裂こうとした。偽りの告発を信じ、エレーヌとトジアが深い仲にあると疑ったルイはトジアに決闘を申しこむ…

監督のアンリ・プクタルは元々アンドレ・アントワーヌ人脈の舞台人で、1910年頃に映画界に参入してきました。パテ社を拠点とし1922年に亡くなるまで100作に及ぶ作品を残しています。中でもゾラの小説を原作とした『労働』(1919年)は映像美とリアリズムで突出した作品でした。しかしながら他にめぼしい現存作が無く、自国でも監督としての力量が正当に評価されないまま今に至っています。

中期作の『意志』(1917年)が9.5ミリ形式で発売されていたのは知っていて、何年も探していたのをようやく入手することができました。セットやカメラワークに舞台劇の硬さが残っていますが、時折挟まれるショットのアングル感や感情表現に垢抜けたセンスが見られます。

描かれているのは19世紀末のブルジョワ恋愛模様で現在からするとそこまで魅力的に映らないかもしれません。しかしよく見てみると資産はあるが意志が弱く正妻をないがしろにするダメ男、その正妻に敵意を抱きプレゼントの高価な扇を持ち歩くマウンティング好きな不倫女子、子育てに追われ自分の小さな幸せを守るのに精いっぱいのヒロイン…と実は今のワイドショーが面白おかしく暴きたてるゴシップの構造と変わっていなかったりします。色々と進化していないのかな、と。

フィルムケースのタイトル表示が赤地なのはキリスト教系の出版社「ボンヌ・プレス」がパテ社と提携して市販していた印です。夫が人生を悔い改める結末が評価されたものと思われますが、一方でクライマックスの決闘場面を丸々削除してしまったことで物語の説得力が弱くなっています。9.5ミリ版編集時に制作側で自己検閲が入ることもあった、と小ネタで知っておくのも良さそうです。

[IMDb]
Volonté

[公開]
1917年4月13日

[メーカー名]
仏パテ社/ボンヌ・プレス社

[カタログ番号]
852

[9.5ミリ版発売]
1925年8-9月

[フォーマット]
9.5ミリ、10メートル×6巻、白黒無声、ノッチ有

1929 – 『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』 米プロモ用プレス写真

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』より

« La Merveilleuse Vie de Jeanne D’Arc » 1929 US Press Photo

現在フランスで祝典が行われているジャンヌ・ダルク400年祭に関連した忘れ難い出来事のひとつが、仏歴史大作映画『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』のオペラ座プレミア公開である。映画はジャンヌの生き様を生き生きと描き出している。この写真は軍馬に乗り、兵を率いてオルレアン解放に向うジャンヌの姿を写したものである。

A memorable event in connection with the Quincentenary of St. Joan, now being celebrated in France, is the production, at the National Opera House in Paris, of Great French Historical Film, « La Merveilleuse Vie De Jeanne D’Arc, Fille De Lorraine. » The film portraits graphically the life of the immortal Joan of Arc. Photo shows Joan of Arc mounted her charger, leading her troops to relieve the siege of Orleans.

合衆国で紹介された際のプレス用写真。映画中盤にジャンヌ・ダルク(シモーヌ・ジュヌヴォワ)が兵を率いてオルレアン奪還に向かう場面を撮影した一枚。解像度の高い写真ではありませんがVHSや9.5mmフィルムで確認しにくいエキストラの表情や衣装が写っています。

裏面に映画の紹介文をタイプ打ちした紙が貼られており、ニューヨークの「アトランティック写真(Atlantic Photos)」「1929年5月22日(22 MAY 1929)」のスタンプが押されています。

IMDbによると『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』の劇場公開は1929年11月1日。その半年前の4月18日にパリ・オペラ座でプレミア公開されており、4日後の4月22日に文章がタイプ打ちされ、5月22日に写真が準備された流れになっています。

1931 – 9.5ミリ個人撮影動画の自家現像における染色術


染色法(Tinting)

通常酸性染料を使用する。それは炭酸曹達溶液叉は現像液によつて脱色することが出來て、且つ手に染まつても同樣にして洗ひ落すことが出來るからである。[…]

染料は各種類があるが、通常使用される種類は、
  ピンク(桃色、紅色)、赤、オレンジ、
  黄色、グリーン、ブルー(藍色)、紫、

染料は通常0.2%溶液即ち10リットルの水に對して20グラム位を溶解する。然し、赤色の濃いものを着けるには50グラム位、グリーン、ブルーなどは40グラム位を大略の程度と考へてよろしい。

酸性染料は、斯くして出來た溶液の中に、氷醋酸0.05%即ち10リットルに對して5c.c.を加へる。氷醋酸は酸性染料の媒染剤である。

フヰルムは、この溶液に浸されゝば適宜の濃度に染められるが、時間にして凡そ、1-3分間である。

染色を終れば、少時水洗して餘分な色素を除き、乾燥させるのである。

『シネ・ハンドブック』(歸山教正著
日本アマチュア・シネマ・リーグ、1930年)


歸山教正氏が『活動寫眞撮影術』の前年に公刊した入門書からの一節。

1920年代後半~30年代前半に9.5ミリで撮影したフィルムを自家現像し、なおかつ「色を付ける」手法が行われていました。薬品の配合まで自力で行う必要があるためそれなりにハードルも高く、実際の使用作品はそこまで多く残っていないようです。 こちらは1931年にフランスの地方の河畔で撮影された2本セット。古い家並みが点在する傍らに小川(プチ・マラン川)があって、友人たちと共にボートで川遊びに訪れた際の動画となっています。二本目は友人と共に食事中の映像がメインです。

フィルムにはオレンジ、青、紫、黄、赤の染色が施され、白黒部分も通常の現像と違って黒く染められた独特の質感に仕上がっています。

表面が流れている個所もあり必ずしも成功しているとは言い難いものの、白黒フィルムの時代に「色」がどう扱われていたのか、どう「見えていた」のか理解する手がかりになります。


1927 – 『新ロシア藝術:映画編』(ルネ・マルシャン&ピエール・ワインスタイン)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [03]

L’Art dans La Russie Nouvelle – Le Cinema
René Marchand et Pierre Weinstein (1927)

1927年初めに公刊された書籍で、当時発展しつつあったソ連映画の現状を紹介したもの。『アエリータ』(1924年)や『戦艦ポチョムキン』(1925年)が公開された後に書かれています。

この時期、多くの人々にとって新興国ソ連は実体のよく分からない怖い存在で、同国の映画製作の状況を客観的に整理し国外発信できる人はごく僅かでした。日本ではロシア文学研究者の昇曙夢氏が『プロレタリヤ劇と映画及音楽』(新ロシヤ・パンフレツト 第5編、1925年)を残していましたが、仏語圏ではこの書籍がそれに対応する位置付けです。

北方活動会社(セフザプキノ)の撮影風景(上)と『アエリータ』を製作した芸術コレクチーヴ「ルーシ」のアトリエ(下)

書籍の前半は新都モスクワと旧都ペトログラードの対立を軸に話が進んでいきます。旧都ペトログラードは映画製作のノウハウを持ち、映画館も多くあって革命発生後もしばらくは映画産業の中心となっていました。しかし電力不足で映画館が次々と閉鎖、車を改造した移動式の上映車を使って急場をしのいでいきます。一方の新都モスクワは物資や資本にはこと欠かなかったのものの政府の方針が定まらず満足な作品が作れない状態が続いていました。

首都での映画製作が停滞、政府の指針も明確ではない中、1920年代初頭にウクライナ、アゼルバイジャン、グルジア、ウズベキスタンの一部で映画作りが活性化していきます。『新ロシア藝術:映画編』中盤は、 国家映画委員会ゴスキノやペトログラード拠点の北西活動社と並べる形で各社の特色や代表作を紹介していきます。

書籍後半は1923・24年の共産党大会で映画政策の指針が決定された経緯と、その影響について触れています。ソ連における映画の役割を定義し、同国の映画産業の骨組みとなっていった重要な決定で、書籍の巻末に指針の仏訳が付録として掲載されています。

昇曙夢の『プロレタリヤ劇と映画及音楽』と比べてみると『新ロシア藝術:映画編』は1918~22年の動きを丁寧に追っているのが分かります。また数値データを多く掲載しており、年毎の制作数や映画館数の変化が分かりやすく示されています。一方の昇曙夢氏は良い作品とそうでないものの見極めが上手く、作品を見たくさせるプレゼン能力の高さが際立っています。

映画産業の政策策定にも共産党内部の力学が働いていた話はどちらの書物にも書かれておりませんし、この2冊だけで当時のソ連映画界の全貌が理解できる訳ではありません。またグルジア国営活動社や全ウクライナ活動写真部にしても現時点では各国の映画史と結びつけて考えていく必要があります。そういった要素を割り引いても当時のソ連映画の勢いが伝わってくる読み応えのある一冊でした。

[出版者]
リーデル出版社(Les Editions Rieder)

[出版年]
1927

[ページ数]
176

[フォーマット]
21 x 16 cm

ファルコネッティ Renée Jeanne Falconetti (1892 – 1946)

「フランス [France]」より

Falconetti late-1920s / early-1930s Autographed Postcard

サインを求めてくる者たちを毎晩のようにす相手した後、ファルコネッティがスタッフ用入口から出てくるといつも同じ青年とすれ違った。

『ファルコネッティ伝』
(エレーヌ・ファルコネッティ著、93頁)

実子エレーヌさんによる伝記では1923年頃の女優が毎日のようにサイン攻めにあっていた話が触れられていました。

こちらは1920年代後半~30年代初と思われる直筆サイン入りの絵葉書。パリのマニュエル兄弟写真社の撮影で右下に同社ロゴがエンボス仕様で刻まれています。

『ソムリヴ伯爵夫人』(La Comtesse de Somerive, 1917年)
GPアーカイヴスより

上の写真は女優キャリアの初期(デビューから2年後)の1917年に出演した短編映画の一コマ。下積み期ながら懊悩の表現が10年後の『裁かるゝジャンヌ』を予告しています。

[IMDb]
Maria Falconetti

[Movie Walker]
ルネ・ファルコネッティ

[出身地]
フランス(パンタン)

[誕生日]
7月21日

2013 -『アルデンヌ⁼ワロン誌増刊 ヴィクトラン・イポリット・ジャッセ 1862-1913』(ポワント・デ・ギヴェと周辺地域地方史研究会)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

2013 - Ardenne Wallonne (Hors-série) : Victorin-Hippolyte Jasset 1862 - 1913

ヴィクトラン・ジャッセ監督の死後百年となる2013年、同氏の生家があるアルデンヌ地方の地方誌が特集号を出しました。

序文が置かれた後、第1章)劇場に雇われていた青年時代からニック・カーター連作で映画監督として名を上げるまで、第2章)ニック・カーターから『ジゴマ』、第3章)遺作『プロテア』を含む晩年作品と展開していき、最後に「付録」として本作でも全訳を掲載したジャッセの論考『活動寫眞監督術考』が収められています。

ヴィクトラン・ジャッセがフュメ(Fumay)で過ごした幼少時や青年期の情報はほとんど知られていない。

冒頭の断り書きにあるようにジャッセ監督については若い頃の情報がほとんど伝わっておりません。それでも父親がイゼール県出身の大工さんで鉄道の敷設工事に関わっていたこと、母親は再婚でジャッセにとって義兄にあたる人物がいた話が触れられています。序文ではこの義兄の家に残されていた親族写真が掲載されていました。数少ないプライベート写真と思われます。

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第1章ではエクレール社の映画監督として名を上げるまでの話が触れられています。断定されてはいないものの現在でもパリのナシオン広場に置かれている「共和国の勝利像」作者である彫刻家エティエンヌ・ジュール・ダルーの弟子だった可能性があるそうです。世紀が変わって1900年代冒頭となりイポドローム劇場に雇われます。舞台背景のデザインやポスター制作を担当していたそうで、雑誌にはジャッセのデザインしたイベント告知用ポスターが掲載されていました。

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この後初期映画界と接点が生まれ、アリス・ギィ・ブランシュのアシスタントを経て自身が監督として生計を立てるようになっていきます。ニック・カーター物でヒットを飛ばし、ジゴマで一世を風靡、その後社会派作品や怪異色にも展開しつつ『プロテア』を遺作として1913年に病没。とりたてて新しい情報はないものの『ジゴマ』封切時に映画館前に貼り出されていたポスター、『ニック・カーター』演出中のバックヤード・ショット、『プロテア』主人公役のジョゼット・アンドリオの全身ポートレートなど貴重な写真が含まれていました。

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ジゴマ公開中の映画観の様子

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ジョゼット・アンドリオ

地元の歴史愛好家たちによる「自分たちの町からこんな凄い監督が生まれたんだよ」の思いがこめられた一冊。地方紙の増刊号ですのでフランス全土に流通しているものではありません。

とはいえジャッセ監督についての単独の著作物は1975年の『ジャッセ』が唯一で、本作は35年ぶりにその記録を変えたことにもなります。本誌が映画史視点ではなく、地方史の観点から出版されたのはある意味示唆に富むものです。

例えばジャッセの後継者となったフイヤード監督は当初パリを中心に活動しつつ、中期以降は出身地の南仏(ニース)に戻り地方色・郷土色を強めた作品を発表するようになっていきました。首都一極の世界観に逆らう感覚は「郷土色重視 (régionalisme)」とも呼ばれ、映画のみならず文芸・アート一般で重要な意味を持ってくるものです。

ジャッセ作品にはフイヤードほど直接に反=パリ指向を打ち出した形跡はありませんが、地方の労働者の子として生まれ育った記憶・経験が何らかの形で反映されている可能性は高く『活動寫眞監督術考』などと照らしあわせながら視点を掘り下げていくことはできると考えています。

[原題]
Ardenne Wallonne (Hors-série) : Victorin-Hippolyte Jasset 1862 – 1913

[出版者]
Revue Ardenne Wallonne

[出版年]
2013

[フォーマット]
ソフトカバー、32ページ、29.5 × 21.0 cm

1930 – 9.5mm『麗しき悪女』(Une belle garce、マルコ・ド・ガスティーヌ監督)

「9.5ミリ 劇映画」より

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』に次いで製作されたガスティーヌ監督初のトーキー作品。英9.5ミリ版は無声で英語字幕入り。

舞台は波止場で営業を続けている小さなサーカス一座。猛獣使いのラバス(ガブリエル・ガブリオ)は妻子ある立場にも関わらず新入りの娘ロゼッタ(ジーナ・マネス)に惚れ上げてしまいます。ところが女はラバスの息子レオに色目を使い、ラバスの心は乱れるばかり。ある日のショーで、ロゼッタに良い所を見せようとライオン二頭を相手に無理な芸を披露したところ…と続いていきます。

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曲芸団を舞台にした不貞と愛憎のドラマとしては1925年のドイツ作品『ヴァリエテ』が有名です。『ヴァリエテ』が生々しい欲望を劇的に描き上げていたのと比べると『麗しき悪女』はウエットなメロドラマ感が強く出ています。また幾つかのサイドストーリーが展開されていて、そちらに監督の趣味性が色濃く反映されています。

1)野生動物への愛着:

ガスティーヌは1932年にはパテ社を離れ短編ドキュメンタリーを撮り始めます。この時に多く主題とされていたのがアフリカの野生動物でした。『麗しき悪女』に登場するサーカス一座の猿やライオンはこういった監督の個人的な好みを反映したものです。

2)映像デザインとしての照明

画家として名を上げ、デザイナーとして映画業界に関わりはじめたガスティーヌにとってセットやコスチュームのデザインは大きな意味を持っています。『麗しき悪女』は照明を上手く使った構図が幾つか見られました。

サーカス一座の踊り子がダンスを披露する場面や、猛獣使いがライオンと対峙する場面では照明が画面上でキラキラする効果を強調しています。

3)女優の選択

中年男の心を狂わせる「美麗な悪女」を演じたのは演技派ジーナ・マネス。ガスティーヌ旧作で主役を張ってきた女優は古風なタイプが多いのですが、本作には自由奔放で気の強い新時代の女優を抜擢、フェミニズム的な流れを多分に意識した配役でもあります。

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一方で踊り子としてシモーヌ・ジュヌヴォワも出演。彼女自身がこの時期の書簡で「モダンな女性を演じたい」と語っていて、ガスティーヌが願いを叶えてあげた形になっています。上の写真で二人並んで踊っている右側がジュヌヴォワです。

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以前に『恋山彦』の投稿で触れたように無声映画からトーキーへの移行期はカメラの移動が重くなり今見るとぎこちない印象を与える作品が多かったりします。『麗しき悪女』にもその欠点は見られ、トーキー肯定派と否定派が激論を交わしていた1930年のフランスで賛否両論を引き起こしていました。正直どちらの言い分も分かるのですがそれでもガスティーヌ監督の個性やセンスは随所に見て取れると思います。

[タイトル]
Jealousy in the Circus

[原題]
Une belle garce

[公開年]
1930年

[IMDB]
Une belle garce

[メーカー]
英パテスコープ社

[メーカー記号]
SB846

[9.5ミリ版発売年]
1937年5月発売

[フォーマット]
9.5mm 無声 120m×2巻 ノッチ無