ヴェーラ・ハロードナヤ (Vera Kholodnaya, 1893 – 1919) 露/ウクライナ

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [07]

Vera Kholodnaya c1916 Autographed Postcard


帝政ロシア末期を代表する花形女優ヴェーラ・ハロードナヤ(Вера Васильевна Холодная)の直筆サイン入り絵葉書。1916~17年頃と思われます。

同時期、マクシモフやガイロフ、ナタリー・リッセンコ、オルガ・オゾフスカヤ、とりわけヴェーラ・ハロードナヤ等の役者たちが観衆によって偶像のようにもてはやされていた。ハロードナヤは貧しい士官の妻であったが夫が動員されると生活費を稼ぐために映画版『アンナ・カレーナ』の端役としてデビュー。同作は1914年にウラジミール・ガルディンが監督した一作である。1915~16年にかけ、エフゲーニー・バウエル監督作品を通じて大女優となり、一作毎に2万5千ルーブル(1万2千5百ドル)を稼ぐまでになった。大衆の熱狂はそれほどのものだった。(『世界映画史』ジョルジュ・サドゥール)

D’autres acteurs étaient à ce moment idolâtrés par le public : V. Maximov, Gaidarov, Nathalie Lissenko, Olga Ozovskaia et surtout Véra Kholodnaia. Celle-ci, femme d’un officier pauvre mobolisé, débuta, par nécessité de gagner sa vie, dans un petit rôle de la version d’Anna Karénine, dirigée, en 1914, par Gardine. E. Bauer en fit vers 1915-1916 une grande actrice qui finit par toucher 25 000 roubles (12 500 dollars) par film, tant le public l’idolâtrait.

ロシア語版ウィキペディアでの「ヴェーラ・ハロードナヤ」の項目は本文だけで2万5千字を超える内容となっています。英語版の4倍。様々な視点から女優を紹介している中にその評価をまとめている章段がありました。女優としての評価が「極端に二極化されている」とされているものの肯定的な例は僅かしかなく「同一パターンの演技を繰り返している」「情感(や創造力)に欠けている」の表現が目立ちます。

この章段で最初に取り上げられていたのがサドゥールでした。『世界映画史』を確認したところハロードナヤについてのまとまった記述を一ヶ所見つけました。

演技力や表現力、あるいは作品を通じて残した功績への言及はありません。その意味でサドゥールは女優としての評価を(少なくとも直接は)下していない、が正解になるだろうと思います。とはいえ「アイドル視する、偶像のように崇拝する(idolâtre)」の単語を繰り返し用いていることや直前でモジューヒンの創造性や功績を詳述している点を考えあわせるなら、そもそも演技力を期待する前提ではなかったと解釈することもできます。

個人的にもハロードナヤの演技にハッと驚かされたり、深い情感に心を動かされた記憶はありませんし、ロシア~ソ連の地軸、1910年代後半の時間軸どちらで見ても彼女より優っていた女優は多くいたと思います。といって見た目の美しさで刹那の人気を博しただけというのとは違うのかな、と。

『命には命を』(Жизнь за жизнь、1916年)より
背後に新郎役のイワン・ペレスチアーニ

バウエルの『命には命を』を見ていると、ある監督の価値観や世界観を表現するための「素材」、あるいは「媒介」として勝れたものを備えていたのは否定できないと思います。また女優単体の生き様、在り方が当時のロシアの社会を-様々な闇の要素を含めて-反映し、人々の欲望や不安に深く接触したからこそあれほどの共感を呼んだと考えることもできます。そういった意味ではオードリー・ヘップバーンやモンローに近い位置付けの女優さんだったことになります。


[IMDb]
Vera Kholodnaya

[Movie Walker]


[出身地]
ウクライナ(ポルタヴァ)

[誕生日]
8月5日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

イワン・ペレスチアーニとグルジア国営活動会社(グルジンスカヤ・ゴスキンプロム)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [08]

Ivan (Ivane) Perestiani c1916 Russian Postcard


ペレスチアニは帝政時代からの有名な活動俳優であつて、彼は革命後の同胞戰時代から引續きコーカサスのチブリスにあつて、一人で藝術的制作に從事していた。彼が最初の映畫は『アルセン・ジョルヂアシウィリ』といつて、これが三年前に初めて公開された時は全ロシアのキネマ界を驚歎せしめたものである。[…] ペレスチアニの傑作は何んと言つても一昨年暮れに出來上つた『赤色小悪魔』(十巻物)である。これは啻に彼一個の傑作であるばかりでなく、また過去七年間の唯一の傑作たるばかりでなく、ロシア全キネマ界の最も傑出した作品の一つと見られている。(『新ロシヤ・パンフレツト;第5編 プロレタリア劇と映画及音楽』 昇曙夢著、新潮社、1925年、93~94頁)

『アルセン・ジョルヂアシウィリ』(« არსენა ჯორჯიაშვილი » 1921年)より


『赤い小悪魔』の成功はペレスティアニ監督による處が大きい。原作・脚本はパヴェル・ブリャーヒンの手によるもので、蛇足ながら出版当時ドイツの帝国主義者たちの激しい怒りをかった事で知られている。連続仕立てとなったこの大層な作品は、所々間延びしたりぎこちなさが目立ったりもするのであるが、心が揺れるようなエピソードが多く、藝術的なセンスで描かれている。幾つかの場面は美しさに達していて、強烈な表現は政治主張の是非はともかくとしても作品に高い芸術的価値を与えている。にもかかわらずこの作品はスタジオ、さらに照明器具が無い状態で製作されたのである。作品の90%は戸外での撮影で、照明が必要な場面ではブリキ板でグルジアの強い太陽光線を反射させ代用したそうである!(『新ロシア藝術:映画編』(ルネ・マルシャン&ピエール・ワインスタイン著、リーデ出版社、1927年)

『スラムの要塞』(« სურამის ციხე » 1922年)より


ブリャーヒンによる素晴らしい脚本は、ウクライナのネストル・マフノに抗する赤軍パルチザンの戦いを自由に、想像を膨らませながら脚色したものである。マフノは1918年にゲリラを組織し自国を占領しているドイツ人と戦った。その後内戦時にマフノ一味は大きな役割を演じた。赤軍との抗争、略奪、強奪、ユダヤ人虐殺を繰り返す。1921年には完全に討伐されルーマニアに逃げ込んだ。

こういった歴史背景を元にブリャーヒンは『拳骨』風の連続活劇を構成してみせた。やりとりは生々しく、活気と陽気さ、時に革命の熱気に満ち溢れている。この古い映画作品を今見る。途中でだれることもない。ありえなさそうな冒険が雪崩のように続いていく中で、赤軍主導で行われた最初の戦いの息吹を感じることが一度ならずある。(『世界映画史:第5巻』(ジョルジュ・サドゥール著、ドゥノエル社、1975年)

『赤い小悪魔』(« წითელი ეშმაკუნები » 1923年)より


『新ロシア藝術:映画編』の紹介で触れたようにソ連では1923〜24年にかけ中央政府による映画産業の縛りがきつくなっていきます。この直前、中央の統制が緩やかだった時期に才能の輝きを見せたのがイワン・ペレスチアーニでした。

若くして役者を志し、旅芸人の一座に加わって演技のみならず脚本書きや演出の修業も重ねていきます。1916年にモスクワの劇場監督に就任、同年に映画俳優デビュー。エフゲーニー・バウエル作品(『命には命を』『瀕死の白鳥』『革命家』)で重用され次第に自身の監督作も手掛けるようになっていきました。

革命勃発後の1920年にグルジア(現ジョージア)に拠点を移し、新設されたグルジア国営活動会社の中心監督として活躍。1921年から23年に発表した3作品(『アルセン・ジョルヂアシウィリ』『スラムの要塞』『赤い小悪魔』)はいずれも興味深い作品でした。

グルジアで実際に起こった暗殺劇を下敷きにした硬派な政治物、古城を舞台とした民族色豊かなメロドラマ、喜劇と活劇色濃い能天気な革命冒険譚…扱っている題材は様々ですが、グダグダした展開(「所々間延びしたりぎこちなさが目立ったりもする」)とひらめきに満ちた美しい表現(「幾つかの場面は美しさに達していて」)が混在、ムラっ気のある天才肌を感じさせる辺りが共通しています。

また連続活劇や西部劇などハリウッド映画からの影響が強いのも特徴です。帝政ロシア~ソ連への過渡期に生れ、なおかつどちらの価値観からも距離を置き、独特の自由さを備えている。昇曙夢氏やサドゥールの高評価も納得、再発見されるべき監督の一人だと思われます。


[IMDb]
Ivane Perestiani

[Movie Walker]


[出身地]
ロシア(ロストフ州)

[誕生日]
4月13日

[データ]
8.7 × 13.4 cm
Фот. М. Сахарова и П. Орлова, 1916 (Phot. M. Sakharova and P. Orlova, 1916)

「チュヴァシ映画社」とタニ・ユン(Тани Юн、1903-1977)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [04]

Tani Yun 1929 Russian Postcard


チュヴァシ自治共和国の映画製作機関である「チュヴァシ・キノ」は共和国での国ぐるみの映画産業が見事に開花した特筆すべき例である。革命前夜の過去を描き出した『女』(Сарпиге、1927年)、チュヴァシの町での革命を描写した『ヴォルガの風』(Ял、1928年)はいずれもチュヴァシ共和国地元出身の芸術家たちによって生み出されたものである。チュヴァシ映画女優として最も名高いタニ・ユンは国外でも同様に絶大な人気を誇っている。革命十周年を祝うため、「チュヴァシ・キノ」は『チュヴァシア』と題された映画を製作。ヴラディミール・コロレヴィッチによるプロデュース作で、チュヴァシ共和国の経済、文化の成し遂げた成果をまとめ上げている。(「各共和国における映画産業」 、『ソヴィエト連邦レビュー』1929年6月号収録)


Chuvash-Kino, the film organisation of the Chuvash Autonomous Republic is extremely characteristic of the successful development of the national film industries. “Sar-Pigi” showing the pre-revolutionary past, and “Yal,” describing the revolution in the Chuvash village, were produced entirely by the native artistic forces of the Chuvash republic. Tani Yun, the most prominent Chuvash film actress, is extremely popular outside Chuvash as well. The Tenth Anniversary of the Revolution was celebrated by the ChuvashKino by a film called “Chuvashia,” produced by Korolevitch, summarizing the economic and cultural achievements of the Chuvash Republic. (« The Film Industry in the National Republics », in Soviet Union Review, 1929 June Issue, 105p.)


かつてのソ連邦で五本指に入る人口を有していた少数民族がチュヴァシ族です。1925年に自治共和国のステイタスを獲得、同時に「チュヴァシ映画社(チュヴァシ・キノ/Чувашкино)」が活動を開始します。同社の花形女優として活躍したのがタニ・ユンでした。

1903年に農家の娘として生れ、モスクワの体育学校に進学。1922年インストラクターとしてチュヴァシュの首都チェボクサリに赴いた際に見た舞台劇に感銘し女優転身を決めたそうです。劇団で修業中に俳優・劇作家のマクシモフ・コシュキンスキーと知りあい結婚。

この時期、チェボクサリにはまだ映画館がなく、劇場で無料の映画上映会が開催されていたそうです。そこで見た映画に感動し、タニ・ユンは夫に映画製作を持ちかけます。資金もスタジオもない状態からの制作は至難を極めたもののこの企画がチュヴァシュ初の長編劇映画『ヴォルガの乱』(1926年)となり、チュヴァシ映画社の公式設立(1927年)の原点となっていきました。

『ヴォルガの風』(1928年)の一場面と思われる映像より

この後『女』(1927年)から『メメント』(1932年)までチュヴァシ映画社で製作された長編映画の全てでタニ・ユンはヒロインを務めています。芯の強さ、素朴さと柔らかさを兼ね備えたプレ・ヌーヴェルヴァーグ的な演技スタイルは国内の映画雑誌でも高く評価されていました。

1930年、中央政府はチュヴァシ映画社を含めた複数の映画公社を統合しヴォストーク映画社を設立。共和国の個性を重視した制作活動ができなくなり、精彩を欠いた同社は数年もせず自然消滅。タニ・ユンは夫と共に劇場での舞台活動に戻っています。

1937年、夫マクシモフ・コシュキンスキーが「ブルジョワ的なナショナリズム」を理由とし粛清対象となります。タニ・ユンもまたスパイの嫌疑をかけられ職を、次いで家を追われ、カザフスタンの強制収容所へ送られました。この際彼女が出演した映画のフィルムは全て破壊されたとされています。

1940年にこの案件が再度審理され最終的に無実の結論になりました。しかし演劇界や映画界への復帰の道は閉ざされていました。戦後、正式に夫婦は復権。一人娘が1960年代に事故死した後、二人の孫を育て、1972年に自伝を執筆。1977年に逝去。

2000年代後半頃からチュヴァシ国内、さらにロシア全体でタニ・ユン再評価の流れが目立つようになってきます。2013年には自伝が復刻。2017年には地元の中学校でチュヴァシ映画社設立90周年を祝う式が開かれ、翌2018年は生誕115周年記念イベントも開催されています。


[IMDb]


IMDbには彼女のエントリーがありません(英語版ウィキペディアも同様)。出演作一覧は以下となっています。

1926:ヴォルガの乱 «Атăл пăлхавçисем» (Волжские бунтари)
1927:女 «Сарпике» (Сарбиге)
1928:黒い柱 «Хура юпа» (Чёрный столб)
1928:ヴォルガの風 «Ял» (Вихрь на Волге)
1930:洗ふ女 «Апай­ка» (Прачка)
1931:聖なる森 «Киремет кати» (Священная роща)
1932:メメント «Асу­т» (Помни)

[リンク]
チュヴァシ共和国ヤードリンスキー地区公式HPでのタニ・ユン紹介ページ(ロシア語)
2017年、チュヴァシ映画社90周年記念行事を紹介する記事(ロシア語)
2018年、生誕115周年を祝いチュヴァシで開催されたイベントを紹介する記事(ロシア語)
1928年公開の『黒い柱 (Хура юпа)』を紹介しているLivejournalのブログ記事(ロシア語)

マリア・テナジと『ザレ』(”Զարե”、1927年・アルメニア映画公社)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [05]

Maria Tenazi 1927 Russian Postcard


本名マリア・アレクサンドロヴナ・タデヴォシアン(Мариам/Мариа Александровна Тадевосян)。国籍はアルメニアでロシア帝国~ソ連市民。

1903年にバクー(現アゼルバイジャン首都)で生れる。フィルムのロケ地で探してアラヴェルジの町を訪れたバルスキー監督の目に留まり、1924年グルジア国営活動会社作品の端役で女優デビュー。

1926年、アルメニア映画公社第一回作品となる『ザレ』で主演のクルド娘役を務める。しかし次作『雲の隠れ家』(1928年)のロケ撮影中に風邪をこじらせ女優業を休止、療養に入るも1930年に27歳で逝去。

「彼女がクルドの女性服に身を包み、大きな銅の水瓶を肩に担いで泉へ向かう場面では、生まれてこの方ずっとクルドの牧草地で過ごしてきた人のように見えた」(『ある俳優兼監督の回想録』、アモ・ベク=ナザリアン、1968年)

アモ・ベク=ナザリアン(Amo Bek-Nazaryan/Համո Բեկնազարյան)監督はイワン・ペレスチアーニと並んで1920年代初めのグルジア国営活動会社隆盛に功のあった人物です。元々アルメニア出身で、1920年代中盤にアルメニア映画公社が結成されるとその中心となり同国初の長編映画『ナムス』(Намус、1925年)を完成させました。

『ナムス』のスタッフや俳優を母体に制作した長編第2弾が『ザレ』で、主演に抜擢されたのがアルメニア人女優マリア・テナジでした。羊や牛を飼って暮らしているクルドの小さな集落を舞台とし、相思相愛の男女が族長息子の横やりで引き裂かれていくメロドラマを描いた一作です。

『ザレ』でのマリア・テナジ


出演しているのはクルド人俳優ではありませんでしたが生活風習や衣装、価値観を丁寧に反映させており、現在のクルド人監督(Mizgîn Müjde Arslan, Kazim Oz)からも「映画史上初のクルド映画」と評価されています。

ソ連映画の一部として製作された経緯もあって中東のクルドの人々が『ザレ』を鑑賞できる機会はありませんでした。状況が変わったのがこの10年程で、2011年3月にイスタンブール映画祭で上映、また2016年には公開90年を記念した高画質リストア版がアルメニアで上映されるなど再評価の機運が高まっています。

マリアさんは若くして亡くなり、出演作が少なく(計8作)メディアの露出が少なかったこともあって伝記データや逸話がほとんど残っておりません。数少ない例外としてベク=ナザリアンが戦後に発表した『ある俳優兼監督の回想録』(«Հուշեր դերասանի և կինոռեժիսորի»、1968年)に『ザレ』撮影時のエピソードが紹介されています。


[IMDb]
Maria Tenazi

[出身地]
ソ連(アゼルバイジャン/バクー)

[生年月日]
5月1日

[リンク]
2011年、イスタンブールでの上映会のリポート(アルメニア語)
2016年、映画公開90周年にアルメニアでリバイバル上映された際のリポート(アルメニア語)

1935 ‐ 『映画におけるリハーサルの技法』レフ・クレショフ著 ロシア語初版

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [06]

« Repeticionnyj metod v kino »
by Lev Kuleshov (1935 1st Edition)


レフ・クレショフは帝政ロシア末期~ソ連の映画界で活躍した映画監督・映画理論家です。1917年から映画批評や理論の発表を始めておりその長い思索の軌跡は1987年の全三巻ロシア語本『映画論全集』でまとめられることになります。英語圏でも1970年代中盤に公刊された『クレショフ選集』(カリフォルニア大学出版)でその思想の一部が知られるようになりました。

クレショフが戦前に出版した書籍は以下の4冊。

1929: 『映畫藝術』(Иск-во кино)
1935: 『映畫におけるリハーサルの技法』(репетиционный метод в кино)
1935: 『映畫監督術の実践』(Практика кинорежиссуры)
1941: 『映畫監督術の基礎』(Основы кинорежиссуры)
このうち主著の一つ『映畫監督術の基礎』はインターネット・アーカイヴでオンライン公開されています。

今回手に入れたのは第二著作『映画におけるリハーサルの技法』の初版本(4000部限定)。全64ページ。サイズは縦19.7×横13.5センチで表紙は布張りになっています。滲んだ収蔵印あり。

「Виблиотена Львовского Кинотехникума」…

リヴィウ(Львов)はウクライナの都市名。リヴィウ映画技術図書館の旧蔵書でしょうか。同名施設は現在リヴィウに存在しておらず、随分と前に閉鎖されたか別組織に吸収または改称されたと思われます。

内容的にはプレテネフ氏による序文(предисловие)の後に
「最初の実験」(первые опыты)
「利点(メリット)」(преимущества)
「実践」(практика)
「諸相」(перспективы)
4章構成となっていて、自作の『紅の戦線にて』(1924年)、『死の光線』(1925年)、『掟によって』(1926年)、『ベネチア製のストッキング』(詳細不明)等を引きあいに自説を展開していきます。


[出版者]
Kinofotoizdat (モスクワ)

[フォーマット]
1935

[生年月日]
64頁。19.7×13.5cm。4000部限定

1915 – 帝政期ロシア俳優揃え(ピョートル・チャルディニンの誕生日会)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [01]


帝政ロシア末期に俳優としてデビュー、後に監督に転身し成功を収めたピョートル・チャルディニンの誕生日に集まった男女優の集合写真。1915年の撮影とされており別な構図で撮られた写真も存在しています。

前列左にオシップ・ルニッチ(Ossip Runitsch/Осип Ильич Рунич)
前列右にピョートル・チャルディニン(Pyotr Chardynin/Пётр Иванович Чардынин)

後列左より
ウラジミール・マクシモフ(Vladimir Maksimov/Владимир Васильевич Максимов)
ヴェーラ・ハロードナヤ(Vera Kholodnaya/Вера Васильевна Холодная)
ヴィトールド・ポロンスキー(Vitold Polonsky/Витольд Альфонсович Полонский)
イワン・フドレエフ(Ivan Khudoleyev/Иван Николаевич Худолеев)
イワン・モジューヒン(Ivan Mozzhukhin/Иван Ильич Мозжухин)

チャルディニン監督の代表作で帝政期のメロドラマの典型として知られる『静まれ、悲しみよ…静まれ』(Молчи, грусть…молчи、1918年)にはモジューヒン以外の6人が出演、それぞれの俳優の持ち味を見ることができます。

オデッサ撮影所の公式チャンネルより

モジューヒンは人脈的に別系統でヴォルコフやトゥールジャンスキー監督作品に多く出演。1918年にチャルディニン監督の下、ポロンスキー、ハロードナヤ、モジューヒンの共演企画が持ち上がっていたのですが国内の混乱の余波で製作中止となっています。

革命後にモジューヒンは亡命、チャルディニンとルニッチも国外に拠点を移します。1919年1月にポロンスキーが中毒死、翌2月にハロードナヤが病死。マクシモフとフドレエフは国内で細々と俳優業を続けていきます。同じメンバーが揃って写真を残す機会は二度とありませんでした。無邪気な笑顔が素敵だからこそ、その後の命運に切なさを覚えます。

1919 – ヴェーラ・ハロードナヤ葬儀実況

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [02]

Funeral of Vera Kholodnaya (1919 Russian Postcard)


女優ヴェーラ・ハロードナヤがウクライナのオデッサに引っ越したのは1918年の春のことでした。翌年2月、同地を襲ったスペイン風邪に罹患、人事不省となり見舞いにきた友人の見分けもつかなくなります。一旦意識を回復するものの4日後の午後7時半に永眠。20日に葬儀が行われ、亡骸はオデッサの墓地に埋葬されました。

葬儀の模様はニュース映画でも扱われ、実際に映画館でも上映されました。1992年にマイルストーン社から発売された全10巻VHS『初期ロシア映画』の第7巻に英語字幕付き版が収録されていました。

動画は2分程の短いものです。前半に出演作の抜粋とプライベート姿をとらえた映像、後半は棺を教会墓地に運んで行く様子。左下のスクリーンショットではヴェラの隣に立つチャルディニン監督の姿が見えます。

ハロードナヤの葬儀については映画プロデューサーのハンジョンコフ氏が回想録で触れています。また最近公刊された伝記によると、1917年のチャルディニン監督作『暖炉の傍で(У камина)』で皇女リディアを演じた際の衣装と同じだそうです。

亡くなった女優は一番きれいな服を着せられ丁寧な死化粧をほどこされていた。(『ロシア映画の始まりの日々』、ハンジョンコフ著、1937年)

Мёртвая актриса была наряжена в один из лучших своих туалетов и тщательно загримирована

Ханжонков А. А. Первые годы русской кинематографии.
— М.: Искусство, 1937. — 172 с.

棺に納められたヴェーラがまとっていたドレスは2年前に映画『暖炉の傍で』で着ていたのと同じものだった。(『ヴェーラ・ハロードナヤ:無声映画の女王』、イレーナ・プロコフィエヴァ著、2013年)

Ее положили в гроб в том самом платье, в котором она два года назад играла княгиню Лидию Ланину в фильме «У камина» – в одном из самых популярных своих фильмов.

Вера Холодная. Королева немого кино
— Елена Прокофьева, 2013.


内戦状態、慢性化した食糧不足、スペイン風邪流行の三重苦に襲われ人々が否応なく「死」を身近に感じていた時期、ヴェーラの訃報はロシア全土に大きな衝撃をもたらしたのです。

同時にこれらの映像記録は女優ヴェーラを神格化していく過程の一つになりました。美しい姿のままの夭折が強調されているのは遺族や業界・報道側の思惑が絡んでいますし、受け取る側の期待にあわせた形にもなっています。俳優稼業が決して夢の世界ではないと知っていたハンジョンコフ氏の指摘はその意味で興味深く、著名女優の死がスペクタクル化されている状況を見抜いていたと読むことができます。

1927 – 『新ロシア藝術:映画編』(ルネ・マルシャン&ピエール・ワインスタイン)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [03]

L’Art dans La Russie Nouvelle – Le Cinema
René Marchand et Pierre Weinstein (1927)

1927年初めに公刊された書籍で、当時発展しつつあったソ連映画の現状を紹介したもの。『アエリータ』(1924年)や『戦艦ポチョムキン』(1925年)が公開された後に書かれています。

この時期、多くの人々にとって新興国ソ連は実体のよく分からない怖い存在で、同国の映画製作の状況を客観的に整理し国外発信できる人はごく僅かでした。日本ではロシア文学研究者の昇曙夢氏が『プロレタリヤ劇と映画及音楽』(新ロシヤ・パンフレツト 第5編、1925年)を残していましたが、仏語圏ではこの書籍がそれに対応する位置付けです。

北方活動会社(セフザプキノ)の撮影風景(上)と『アエリータ』を製作した芸術コレクチーヴ「ルーシ」のアトリエ(下)

書籍の前半は新都モスクワと旧都ペトログラードの対立を軸に話が進んでいきます。旧都ペトログラードは映画製作のノウハウを持ち、映画館も多くあって革命発生後もしばらくは映画産業の中心となっていました。しかし電力不足で映画館が次々と閉鎖、車を改造した移動式の上映車を使って急場をしのいでいきます。一方の新都モスクワは物資や資本にはこと欠かなかったのものの政府の方針が定まらず満足な作品が作れない状態が続いていました。

首都での映画製作が停滞、政府の指針も明確ではない中、1920年代初頭にウクライナ、アゼルバイジャン、グルジア、ウズベキスタンの一部で映画作りが活性化していきます。『新ロシア藝術:映画編』中盤は、 国家映画委員会ゴスキノやペトログラード拠点の北西活動社と並べる形で各社の特色や代表作を紹介していきます。

書籍後半は1923・24年の共産党大会で映画政策の指針が決定された経緯と、その影響について触れています。ソ連における映画の役割を定義し、同国の映画産業の骨組みとなっていった重要な決定で、書籍の巻末に指針の仏訳が付録として掲載されています。

昇曙夢の『プロレタリヤ劇と映画及音楽』と比べてみると『新ロシア藝術:映画編』は1918~22年の動きを丁寧に追っているのが分かります。また数値データを多く掲載しており、年毎の制作数や映画館数の変化が分かりやすく示されています。一方の昇曙夢氏は良い作品とそうでないものの見極めが上手く、作品を見たくさせるプレゼン能力の高さが際立っています。

映画産業の政策策定にも共産党内部の力学が働いていた話はどちらの書物にも書かれておりませんし、この2冊だけで当時のソ連映画界の全貌が理解できる訳ではありません。またグルジア国営活動社や全ウクライナ活動写真部にしても現時点では各国の映画史と結びつけて考えていく必要があります。そういった要素を割り引いても当時のソ連映画の勢いが伝わってくる読み応えのある一冊でした。

[出版者]
リーデル出版社(Les Editions Rieder)

[出版年]
1927

[ページ数]
176

[フォーマット]
21 x 16 cm

サンドラ・ミロワノフ、1939年の直筆書簡 Sandra Milowanoff/Milovanoff (Александра Милованова, 1892 – 1957) 露/仏

「フランス [France]」より

1939-sandra-milowanoff-handwritten-lettr-01
1939 Sandra Milowanoff Handwritten letter to René Brest (Paris-Soir)

1939年1月9日

親愛なるブレスト様

貴方の素晴らしい記事にどう感謝して良いのか見当もつきません、目に涙を浮かべながら読ませていただきました。私について書いてくださった素敵な言葉にとても胸打たれました。決して忘れることはないでしょう。

いつかパリ・ソワール誌の編集部にお邪魔させていただく機会があれば直に御礼させていただきますね。夫と私より、多大なる感謝と最大の敬意をこめて。

サンドラ・ミロワノフ

追伸:感極まっております、悪筆と文法の間違いお許しくださいませ。

Cher Monsieur Brest,

Je ne trouve pas les mots pour vous remercier de votre admirable article, —c’est en pleurant que je le lu. Mille, mille fois merci, et croyez-moi que vos bonnes paroles dite sur moi, m’avait tellement touché, je ne les oublierai jamais.

Un jour je ferai ma visite au Paris-Soir, pour vous dire tout ça personnellement. Mon mari et moi vous prions, Cher Monsieur, de croir en notre grande reconnaissance et en nos sentiments les plus profonds.

Sandra Milowanoff

P. S. Excusez mon ecriture et mes fautes, mais je suis tres emu.

Sandra-Milovanoff-19240101-Cinea-01
仏『シネア』誌1924年1月号の特集記事より

[…] アンナ・パヴロワ団の一員として雇われた。欧州各国の首都で展開されたツアーにメンバーとして参加、偉大な芸術家パヴロワの下で2年を過ごした後、セルゲイ・ディアギレフの有名なロシア・バレエ団に転籍、多くの人々に知られているようにロンドンのドルーリー・レーンやパリのオペラ座、モンテカルロのグラン・カジノやベルリンのクロール劇場で大成功を収めている。

1918年、ロシア革命によりサンドラ・ミロワノフ嬢は亡命を余儀なくされる。コート・ダジュールに滞在、先に見たように映画女優としてのデビューと相成った。うなぎ上りの人気にメキメキと地位を上げていった。名高いフイヤードの一座に加わっていたこともあって短期間に映画女優としての腕をあげていったのである。

『スペクタクル』誌1925年9月25日付

Anna Pavlowa, qui l’engage dans sa troupe. Après deux années passées aux’ côtés de la grande artiste dans les tournées triomphales que cette dernière entreprend dans les capitales de l’Europe, Sandra passe dans la fameuse troupe des Ballets Russes de Serge de Diaghilev, qui remportent le succès que l’on sait successivement à Londres (Drury-Lane), Paris (Opéra), Monte-Carlo (Grand Casino), Berlin (Kroll-Theater), etc..

[…] En 1918, la Révolution oblige Sandra Milowanoff à fuir. C’est ensuite le séjour sur la Côte d’Azur — et enfin des débuts à l’écran, comme nous les avons retracés plus haut. Sandra Milowanoff offre un exemple particulièrement net de carrière sans cesse ascendante et de popularité rapide. Grâce à son séjour dans la troupe de Feuillade, bian connue pour son activité, elle a pu en peu de mois acquérir les qualités si particulières de l’artiste de cinéma.

Les Spectacles, 25 Septembre 1925

ロシア出身でバレリーナとしての修業を積み、ロシア革命後に活動拠点をフランスに移し映画女優として名を上げたサンドラ・ミロワノフがジャーナリストのルネ・ブレステ氏に宛てて送った礼状。

映画女優としてはフイヤードの後期活劇(『パリっ娘』『狂乱の悪鬼』)で注目を浴び、1924年の仏女性誌での人気投票でメアリー・ピックフォードに次ぐ評価を得ていました。ちょうどこの時期9.5ミリ小型映画が市販化されたこともありパテベビーからも『聖女ベアトリクス伝説』『氷島の漁夫』『噫無情』『ネーヌ』『ジョカスト』『コレットの涙』など多くの出演作がソフト化されています。トーキー到来の後は言葉のハードルに苦しみ映画界を離れています。

[IMDb]
Sandra Milovanoff

[Movie Walker]
サンドラ・ミロワノフ

[出身地]
ロシア(サンクトペテルブルグ)

[誕生日]
6月23日

[データ]
パリ・ソワール紙、ルネ・ブレステ氏。1939年1月9日付。封筒裏面にはパリ・ソワール紙の社名入り印あり。

ナタリー・コヴァンコ Nathalie Kovanko (Наталья Ивановна Кованько 1899 – 1967)

「ロシア [Russia]」より

Nathalie Kovanko 1920s Autographed Postcard
Nathalie Kovanko 1920s Autographed Postcard

わたくしは1899年の11月9日クリミア地方のヤルタにて生を享けました。父は皇帝軍の大佐をしておりました。幼い時か舞台が好きで、それが高じて11歳の頃には時に父の、時に母の服で姿を変え、両親が隠れ家に使っていた家でちょっとした劇を暗記しては同い年の仲間と共に演じていたものでした。

私の住んでいた町のすぐ近く、正確に言うならマサンドラに皇帝が所有していた広大な公園があって、陛下がご家族と共に避暑などでお越しになる際に時折音楽会や踊りの披露が行われていて、そういった夜会は劇で終わるのが通例となっておりました。

こういった芸術の夜は地元の人々が手塩をかけて保存に努めている鍾乳洞で開かれます。ある日、光栄にもそこでレールモントフの小説を下敷きにし、ルビンシテインが作曲、ヴィスコヴァトフが歌詞をつけた三幕物のオペラ『悪魔』を演じさせていただきました。大層な評価を頂き、素人としてですがロシアの有名作品を演じようとモスクワに上京することに相成ったのです。

1916年には映画に興味を持つようになり、ビオ・フィルム社で初めての作品を撮らせていただきました。新たなキャリアで最初に引き受けた役の一つはモーパサン短編を元にした『イヴェット』でした。室内撮影はモスクワの撮影所で、屋外ロケは生まれ故郷のヤルタで撮影されております。その後コズロフスキー社で数本映画を作り、モスクワのエルモリエフ映画社の花形の一人となって人気が出て來るようになりました。

その後は…あぁ、とても辛い(と目に涙を浮かべたコヴァンコ夫人)その後は…ボルシェヴィキのために自国を追われる羽目に。たった一時間半で祖国を離れないといけなくなったのです。アテネに辿りつきしばらくそこで過ごしておりました。イタリアでの映画撮影のオフォーがあったのですが断らせていただき、旧パテ社モントルイユ撮影所で数ヵ月映画作りをしていたエルモリエフ氏に合流したのです。

「巴里のロシア映画人二人:コヴァンコ夫人とトゥールジャンスキー氏」
シネマガジン誌1921年12月9日付47号掲載

Je suis née, me déclare-elle, le 9 novembre 1899, à Yalta, en Crimée. Mon père était colonel dans l’armée du Tzar. J’adorais le théâtre à un tel point que vers les onze ans, je me déguisais soit avec les vêtements de mon père, soit avec ceux de ma mère, j’apprenais quelques petites pièces de théâtre en cachette de mes parents pour les jouer ensuite avec quelques amis de mon âge.

Or, près de notre ville, à Massandra exactement, se trouvait un immense parc qui appartenait au Tzar et, de temps en temps, lorsque sa famille y villégiaturait, on donnait quelques concerts, quelques numéros de danses et la soirée se terminait par un drame.

Ces soirées artistiques se passaient dans des haos, c’est-à-dire des espèces de grottes que l’on entretenait soigneusement tout en leur laissant leur caractère pittoresque. Un jour, j’y jouai pour mon unique plaisir dans Le Démon, opéra en trois actes d’après le remarquabre roman de Lermontf, un de nos meilleurs poètes russes et dont la musique est de notre cher Rubinstein et le livret de Wiskowatoff. Je remportai un assez grand succès et je partis à Moscow jouer -toujours en amateur- les grandes pièces du répertoire russe.

En 1916, le cinéma commençait à m’intéresser vivement et je débutai à la Bio-Film. Un de mes premiers rôles dans cette nouvelle carrière fut Yvette, dans un film tiré de la célèbre nouvelle de Guy de Maupassant. Les intérieurs avaient été tournés aux studios de Moscow et les extérieurs à Yalta, mon pay natal.

Ensuite, je tournai pour la Société Koslowsky, puis je devenais une des vedettes des Films Ermolieff de Moscow et je devins bientôt populaire en Russie.

Puis… oh! non, c’est trop douloureux… ajoute mme Kovanko, les larmes aux yeux, puis, étant dans l’obligation de fuir la Russie à cause des Bolcheviki (pensez donc, en une heure et demie, je dus quitter mon cher pays) et partis à Athènes où je séjournai quelque temps. Là, on m’offrit un engagement pour tourner en Italie, mais je refusai pour revenir avec M. Joseph Ermolieff qui tournait en France depuis quelques mois aux anciens studios Pathé de Montreuil-sous-Bois.

« Deux artistes russes à Paris : Mme Kovanko & M. Tourjansky »
Cinémagazine No 47, 9 Décembre 1921

1918年のロシア革命後、帝政寄りだった一部の映画人が祖国を離れ、フランスに向かいました。モジューヒンやヴォルコフといった才能ある面々が同地でアルバトロス映画社を立ち上げ、第一次大戦後に停滞していた仏映画に衝撃と活力をもたらしていきます。

フランス亡命時代に頭角を現した女優の一人がナタリー・コヴァンコでした。ヴィクトル・トゥールジャンスキー監督のお気に入りとしてヒロイン級に昇格、1926年の秀作『大帝の密使』でもモジューヒンの相手役を務めています。

[Movie Walker]
ナタリー・コヴァンコ

[IMDB]
Nathalie Kovanko

[出身]
ロシア

[誕生日]
9月13日

[コンディション]
B+

[メーカー]
Ross Verlag

1936 – アラ・ナジモヴァ主演舞台劇『ヘッダ・ガブラー』 出演者寄せ書き Alla Nazimova

夫人が初めて米國へ渡って紐育の劇場に現はれたのは一千九百五年の事であつた。その頃は未だ花形といふ程ではなかつたが、三年間といふもの、殆ど日夜の差別も無い位に研究勉励して、やがて紐育に於ける第一位の女優となる事が出来た。今では夫人は世界的に名を成してゐる。夫人の得意な演物は主としてイブセンの作品で「人形の家」「建築士」「野鴨」「ヘッダ・ガブラー」などは何れも好評嘖々たるものであつた。

初めてレンズの前に立つたのは一千九百十七年セルツニック會社の依頼に依つて「戦争の花嫁」を撮影した時であつた。これは舞臺劇としては夫人の名を高らしめたものであつたが映畫劇としては餘り面白く行かなかった。第二回目の作品はメトロ会社のスクリーン・クラシク映畫「天啓」(卽ち今春キネマ倶樂部に上場された「奇蹟の薔薇」)で、これは極めて評判が好かつた。最近天活會社は夫人の出演映畫を全部輸入する計畫を立てたといふから、何れ續々吾々の目の前に現はれる事であらう。近く「紅燈」がキネマ倶樂部に上場される筈になつてゐる。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

昭和11年にブロードウェイで上演された舞台劇『ヘッダ・ガブラー』のパンフレットに主演ナジモヴァと他の出演者6名がサインしたもの。

ナジモヴァは1910年代にロシアから渡米し成功を収めた一人です。クセのある風貌で米女優では得難い退廃の雰囲気を見せつけました。映画では『椿姫』(1921年)と『サロメ』(1923年)がよく知られています。

プログラムの左上からグレース・ミルズ(Grace Mills)、レスリー・ビンガム(Leslie Bingham)、ナジモヴァ。右上からマッケイ・モリス(McKay Morris)、ハリー・エラーブ(Harry Elerbe)、エドワード・トレヴァー(Edward Trevor)、ヴィオラ・フレイン(Viola Frayne )。

[Movie Walker]
アラ・ナジモヴァ

[IMDB]
nm0623417

[誕生日]
5月22日

[出身]
ロシア

[コンディション]
B+

[入手年月日]
2017年9月

リナ・マルサ Rina Marsa (1904 – ?) 露/独

Rina Marsa

1920年代末に注目を集めヒロイン〜準ヒロインとして登場するも直後のトーキー化に消えていった女優さん。活動期間が短かったこともあって伝記データが少なく、引退後の動きや没年も分かっておりません。ドイツ時代のウィリアム・ディターレが監督・主演した『バイエルンの王、ルートヴィヒ2世』、主人公の婚約者役を演じた船上ミステリー『遊覧船「よしわら」号』 などが現存しています。

Rina Marsa in Ludwig der Zweite, König von Bayern (1930)
『バイエルンの王、ルートヴィヒ2世』 (1930年)より

[IMDB]
nm0550338

[出身]
ロシア(コーカサス)

[コンディション]
B+

[入手年月日]
2017年5月

[メーカー]
Ross Verlag

リディア・ポテキナ Lydia Potechina (Лидия Семеновна Потехина, 1883 – 1934)

「ロシア [Russia]」より

Lydia Potechina Autographed Postcard
Lydia Potechina Autographed Postcard
ロシア生まれ。10代後半から舞台で活躍、ロシア革命後に母国を離れドイツで映画女優としての新たなキャリアを積み始めます。1922年の『ドクトル・マブゼ』(フリッツ・ラング監督作品)では賭博場でマブゼ博士にだまされるロシア貴婦人として登場。1925年の『ワルツの夢』(ルドウィッヒ・ベルガー監督作品)ではオーケストラのコントラバス奏者として作品に軽快さを付け加えていました。

Lydia Potechina in Dr. Mabuse, der Spieler
Lydia Potechina in Dr. Mabuse, der Spieler (1922, Fritz Lang)

雑誌で特集を組まれるような女優さんではなかったものの一定の需要があるタイプ。私生活では独ウーファ社の大物プロデューサー夫人に収まっています。

[Movie Walker]
リディア・ポテキナ (Lydia Potechina)

[IMDB]
Lydia Potechina

[出身]
ロシア

[生年月日]
9月5日

イリーナ・レオニドフ Ileana Leonidoff (1893 – 1968) 露/伊

Ileana Leonidoff 1924 Autographed Photo
Ileana Leonidoff 1924 Autographed Photo

露國に生れ、露國劇壇に薫陶された南歐映畫女優は數多ある。エレナ・マコウスカ孃、ダイアナ・カレンヌ夫人、最近に至つてはタチアナ・パプロワ孃の如き、其れである。イレーナ・レオニドツフ孃も又露國生れの女優として一九一七年以来南歐に表れた女優である。我々は『アチラ』に於てイルヂゴに扮した孃を始めて見た。さうして孃もまた妖婦女優として、確に相當の技能を有する事を認め得た。その後『不滅の血路』に於ても近く孃の技藝に接し得て、その妖婦女優としての腕を認める事が出來た。尚孃のパスクワリ會社時代の映畫(アルマンドヴエイ發賣)『酒の罪』が日活に輸入されて居る。一九一七年以來アンブロジオ會社に結び、主腦女優として『アチラ』『不滅の血路』等數種の映畫に出演し、その後パスクワリ會社に一時契約し、昨年ベルチニ會社の主腦女優となり、數種の映畫に出演して名聲を得て居る。

「南歐映畫俳優月旦 イレーナ・レオニドツフ孃」
『活動画報』1919年4月号

イタリア未来派の代表作『Thais』 (1917年)でヒロインに抜擢され注目を浴びたのがイリーナ・レオニドフでした。

Ileana Leonidoff 03
『アッチラ』(1918年)より

ロシア生まれで若くしてイタリアに移り住み当初はオペラ歌手の修業を積みます。まず映画女優として名を上げて歴史映画(『アッティラ』)や恋愛ドラマに出演、1922年を境にバレエに活動を移していきました。ローマを拠点とし自身のバレエ団を結成海外公演を行っていた記録があり、1924年にロンドン公演を行っています。このサイン入り写真はその際の一枚と思われます。

綺麗な写真ですが数か所の汚れ、右下に目立つ破れがあります。

Ileana Leonidoff 1924 Autographed Photo

[サイズ]
15.0 × 20.0 cm

[IMDB]
nm0503064

[出身]
ロシア/ウクライナ

[誕生日]
3月3日

[コンディション]
C+

ウェラ・オルロワ Vera Orlova (1894–1977)

こちらは1910年代から活動を続けていた女優ウェラ・オルロワ。以前に紹介したオリガ・クニッペル同様、1921年にモスクワ芸術座がクロアチア首都ザグレブを訪れた際に残されたサインと思われます。サイン日付は1921年1月28日。

舞台が中心ではあるものの映画でも重要な役どころを多く演じており、1916年の『スペードの女王』、1923年の『罪と罰』、1924年の『アエリータ』など現在でも評価の高いロシア・ソ連初期映画で演技力を発揮しています。

[Movie Walker]
ウェラ・オルロワ

[IMDb]
nm0650153

[誕生日]
5月27日

[撮影]
トンカ・スタジオ(ザグレブ)

大正9年のアンナ・パブロワ・バレエ団(2)ヴェラ・カラーリィ (1889 – 1972) Vera Karalli

チャールズ・トープ氏旧蔵サイン帖より

ロシア帝政期~ソヴィエト時代に活躍した舞踏家・映画女優で、1910年代半ばのエフゲニー・バウエル作品(『瀕死の白鳥』1917年など)で重用されていました。

私生活ではニコライ二世の従弟ドミトリー大公の愛人。1916年、同大公を中心にラスプーチン暗殺が決行されます。猜疑心の塊となっていたラスプーチンをおびき出すために女性が使われたという噂もありました。関与を疑われ、警察の調査対象となった女性が二人いて、その一人がヴェラだったそうです(『真説ラスプーチン』、エドワード・ラジンスキー著)。真相は現在でも不明。

サインは鉛筆書きで名前のみ。仏文化の影響を強く受けた帝政ロシア期の女性らしくヴェラの「e」にアクセント記号を付しています。

[IMDb]
nm0832977

[誕生日]
7月27日

[出身]
ロシア

大正9年のアンナ・パブロワ・バレエ団(1)アンナ・パヴロワ (1881 – 1931) Anna Pavlova

チャールズ・トープ氏旧蔵サイン帖より


1920年4月、アンナ・パヴロワはドゥルリー・レーン王立劇場の舞台に立ちます。パヴロワ団にとって初の長期ロンドン公演で、英語圏での知名度を決定づける内容となりました。

アンナ・パヴロワ 1920年6月5日
Anna Pavlova 5/VI 1920

数字の後にスラッシュ(/)を入れ、ローマ数字で月を表記するのはロシア語圏の慣習でした。サインは鉛筆書きで途中で芯が割れて線が二重になっています。

パヴロワ自身は映画女優の活動は行っておりませんが、チャップリン、メアリー・ピックフォードなどと対面を果たしています。

[IMDb]
nm0667816

[誕生日]
2月12日

昭和6年のアンナ・ステン (1908 – 1993) Anna Sten Анна Стен

Anna Sten Autographed Postcard
Anna Sten 1931 Autographed Postcard

1910年12月1日、キエフの帝國ロシアオペラ座バレイマスターの娘として生を受けたのがアニューシュカ・ステンスキー(Anjuschka Stenski)であった。現在はアンナ・ステンとして欧州トーキー映畫界ピカ一の花形となっている。父がバレイマスターで母がモスクワ・オペラ座のプリマバレリーナであるが故、嬢の人生にはたった一つの選択肢しかなかった。バレイダンサーになることである。4才でロシア政府の援助を受けバレイのレッスンを始めた。その後両親が前線へと向かう。1917年に戦争は終わったが、ロシア帝国政府と帝国バレイスクールは過去のものとなっていた。アニューシュカの所在地は分からなくなった。その後、9歳の時に演劇学校の一種であるモスクワの専門学校にその姿を確認できる。父親が学校を辞めさせ、自身が一緒に国内興行をしていた舞踏曲芸団に籍を置くこととなった。11歳の時すでに嬢は旅芸人一座の花形となっていた。

父親の死とともに舞台に上る夢がかなう。幸運にも偉大なロシア人俳優インキジノフにその才を認められ、後にエイゼンシュタインからトーキー映画の基礎を学ぶことができたのである。現在はドイツ映畫のみに出演しておりそのキャリアは頂点に達している。『狂乱のモンテカルロ』でセンセーショナルな成功を巻き起こし、直近ではウーファのトーキー特作『激情の嵐』の女主人公を演じている。

世界映画辞典・1932年度版(フランク・アルノー編)

Am 1. Dezember 1910 wurde dem Ballettmeister an der Kaiserlich Russischen Oper in Kiew eine Tochter geboren: Anjuschka Stenski — heute Anna Sten, einer der bedeutendsten Tonfilmstars Europas. Wenn der Vater Ballettmeister und die Mutter Primaballerina an der Moskauer Oper ist. gibt es für das Kind nur einen Beruf: Ballettänzerin. Mit vier Jahren wurde die kleine Anjuschka Elevin; der russische Staat hatte die Sorge für ihre Ausbildung übernommen. Der Vater ging an die Front, die Mutter mit. Im Jahre 1917 war der Krieg zu Ende, aber das russische Kaiserreich und damit die kaiserliche Ballettschule auch. Wo Anjuschka war, wußte kein Mensch. Man fand die Neunjährige im Moskauer „Technikum », einer Art Kunstschule; sie hatte das Tanzen aufgegeben und sich dem Sprechtheater zugewandt. Der Vater holte sie zurück und fügte sie einer Tanz- und Akrobatengruppe ein. mit der er durch Rußland zog. Mit elf Jahren war Anjuschka der Star dieses wandernden Zirkus.

Erst nach dem Tode ihres Vaters konnte sie zur Bühne gehen; sie hatte das Glück, von Inkischinew, dem großen russischen Schauspieler, entdeckt zu werden. S. M. Eisenstein bildete sie für den russischen Tonfilm aus. Heute spielt sie nur Deutsch, ist auf dem Höhepunkt ihrer Laufbahn, hat in „Bomben auf Monte Carlo » einen Riesenerfolg gehabt und spielte zuletzt in dem Ufa-Großtonfilm „Stürme der Leidenschaft » die weibliche Hauptrolle.

Universal Filmlexikon 1932 (Europa),
Frank Arnau (Hg.), Berlin: Universal Filmlexikon GmbH, 1932

Anna Sten 02
『黄色の鑑札』(1928年)より

アンナ・ステンに関しては淀川長治氏の回想を通じたハリウッド期が知られています。氏の印象は好意的とはいえず、大物プロデューサーに気に入られて大役を射止めたものの、結果を出せず消えていった女優さんの位置づけでした。

この時期に何人も現れた「第二のガルボ」の一人、確かにハリウッド視点ではそうなると思います。でも元々は大きな瞳を自在に使いこなす20年代ソ連でも珍しいタイプの女優さんでした。無声映画視点からするとソ連で発掘され、ドイツで大事に育てられ、ハリウッドで使い捨てにされたと写ります。

こちらのサインはドイツで活動していた1931年の一枚、ローザ・パストールさん旧蔵品です。

[IMDb]
Anna Sten

[出身]
ロシア(ウクライナ)

[誕生日]
12月3日

イワン・モジューヒン Ivan Mosjukin/Иван Ильич Мозжухин (1889 – 1939)

Ivan Mosjoukine

1910年代ロシア帝政期の活躍(『歓喜する悪魔』)、革命~亡命後の20年代フランス期(『蒙古の獅子』、『大帝の密使』)、二つのディケイドで特筆すべき作品を多く残したサイレント映画界の名優、イワン・モジューヒンです。

1920年代初頭のフランス映画はハリウッドとUFAに押されて方向性を見失っていたように見えます。モジューヒンらの亡命人一派は祖国ロシアで養った技術をフランス趣味へとアレンジし、メリハリの効いた演出やカット割りで観衆たちを大いに沸かせました。

ニコラ・リムスキー Nicolas Rimsky (1886 – 1942) 露

Nicolas Rimsky Autographed Postcard
Nicolas Rimsky Autographed Postcard
ロシア革命後、モジューヒンらとともに亡命しアルバトロス社を中心に活躍した俳優さん。モジューヒンとは違って喜劇を得意としており、『5日間パリ一周』(Paris en cinq jours, 1925)ではドリー・デイヴィスと、『カーニヴァルの夜』(Nuit de carnaval, 1922)ではナタリー・コヴァンコと共演しています。

エドヴィーゲ・トニさん旧蔵の一枚、「楽しかった思い出に、エドヴィーゲ・トニさんへ、パリにて(Au bon souvenir, Edvige Tonni, Paris)」のメッセージ付。日付は1927年1月ではないかと思われます。