サンドラ・ミロワノフ、1939年の直筆書簡 Sandra Milowanoff/Milovanoff (Александра Милованова, 1892 – 1957) 露/仏

「フランス [France]」より

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1939 Sandra Milowanoff Handwritten letter to René Brest (Paris-Soir)

1939年1月9日

親愛なるブレスト様

貴方の素晴らしい記事にどう感謝して良いのか見当もつきません、目に涙を浮かべながら読ませていただきました。私について書いてくださった素敵な言葉にとても胸打たれました。決して忘れることはないでしょう。

いつかパリ・ソワール誌の編集部にお邪魔させていただく機会があれば直に御礼させていただきますね。夫と私より、多大なる感謝と最大の敬意をこめて。

サンドラ・ミロワノフ

追伸:感極まっております、悪筆と文法の間違いお許しくださいませ。

Cher Monsieur Brest,

Je ne trouve pas les mots pour vous remercier de votre admirable article, —c’est en pleurant que je le lu. Mille, mille fois merci, et croyez-moi que vos bonnes paroles dite sur moi, m’avait tellement touché, je ne les oublierai jamais.

Un jour je ferai ma visite au Paris-Soir, pour vous dire tout ça personnellement. Mon mari et moi vous prions, Cher Monsieur, de croir en notre grande reconnaissance et en nos sentiments les plus profonds.

Sandra Milowanoff

P. S. Excusez mon ecriture et mes fautes, mais je suis tres emu.

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仏『シネア』誌1924年1月号の特集記事より

[…] アンナ・パヴロワ団の一員として雇われた。欧州各国の首都で展開されたツアーにメンバーとして参加、偉大な芸術家パヴロワの下で2年を過ごした後、セルゲイ・ディアギレフの有名なロシア・バレエ団に転籍、多くの人々に知られているようにロンドンのドルーリー・レーンやパリのオペラ座、モンテカルロのグラン・カジノやベルリンのクロール劇場で大成功を収めている。

1918年、ロシア革命によりサンドラ・ミロワノフ嬢は亡命を余儀なくされる。コート・ダジュールに滞在、先に見たように映画女優としてのデビューと相成った。うなぎ上りの人気にメキメキと地位を上げていった。名高いフイヤードの一座に加わっていたこともあって短期間に映画女優としての腕をあげていったのである。

『スペクタクル』誌1925年9月25日付

Anna Pavlowa, qui l’engage dans sa troupe. Après deux années passées aux’ côtés de la grande artiste dans les tournées triomphales que cette dernière entreprend dans les capitales de l’Europe, Sandra passe dans la fameuse troupe des Ballets Russes de Serge de Diaghilev, qui remportent le succès que l’on sait successivement à Londres (Drury-Lane), Paris (Opéra), Monte-Carlo (Grand Casino), Berlin (Kroll-Theater), etc..

[…] En 1918, la Révolution oblige Sandra Milowanoff à fuir. C’est ensuite le séjour sur la Côte d’Azur — et enfin des débuts à l’écran, comme nous les avons retracés plus haut. Sandra Milowanoff offre un exemple particulièrement net de carrière sans cesse ascendante et de popularité rapide. Grâce à son séjour dans la troupe de Feuillade, bian connue pour son activité, elle a pu en peu de mois acquérir les qualités si particulières de l’artiste de cinéma.

Les Spectacles, 25 Septembre 1925

ロシア出身でバレリーナとしての修業を積み、ロシア革命後に活動拠点をフランスに移し映画女優として名を上げたサンドラ・ミロワノフがジャーナリストのルネ・ブレステ氏に宛てて送った礼状。

映画女優としてはフイヤードの後期活劇(『パリっ娘』『狂乱の悪鬼』)で注目を浴び、1924年の仏女性誌での人気投票でメアリー・ピックフォードに次ぐ評価を得ていました。ちょうどこの時期9.5ミリ小型映画が市販化されたこともありパテベビーからも『聖女ベアトリクス伝説』『氷島の漁夫』『噫無情』『ネーヌ』『ジョカスト』『コレットの涙』など多くの出演作がソフト化されています。トーキー到来の後は言葉のハードルに苦しみ映画界を離れています。

[IMDb]
Sandra Milovanoff

[Movie Walker]
サンドラ・ミロワノフ

[出身地]
ロシア(サンクトペテルブルグ)

[誕生日]
6月23日

[データ]
パリ・ソワール紙、ルネ・ブレステ氏。1939年1月9日付。封筒裏面にはパリ・ソワール紙の社名入り印あり。

ナタリー・コヴァンコ Nathalie Kovanko (Наталья Ивановна Кованько 1899 – 1967)

「ロシア [Russia]」より

Nathalie Kovanko 1920s Autographed Postcard
Nathalie Kovanko 1920s Autographed Postcard

わたくしは1899年の11月9日クリミア地方のヤルタにて生を享けました。父は皇帝軍の大佐をしておりました。幼い時か舞台が好きで、それが高じて11歳の頃には時に父の、時に母の服で姿を変え、両親が隠れ家に使っていた家でちょっとした劇を暗記しては同い年の仲間と共に演じていたものでした。

私の住んでいた町のすぐ近く、正確に言うならマサンドラに皇帝が所有していた広大な公園があって、陛下がご家族と共に避暑などでお越しになる際に時折音楽会や踊りの披露が行われていて、そういった夜会は劇で終わるのが通例となっておりました。

こういった芸術の夜は地元の人々が手塩をかけて保存に努めている鍾乳洞で開かれます。ある日、光栄にもそこでレールモントフの小説を下敷きにし、ルビンシテインが作曲、ヴィスコヴァトフが歌詞をつけた三幕物のオペラ『悪魔』を演じさせていただきました。大層な評価を頂き、素人としてですがロシアの有名作品を演じようとモスクワに上京することに相成ったのです。

1916年には映画に興味を持つようになり、ビオ・フィルム社で初めての作品を撮らせていただきました。新たなキャリアで最初に引き受けた役の一つはモーパサン短編を元にした『イヴェット』でした。室内撮影はモスクワの撮影所で、屋外ロケは生まれ故郷のヤルタで撮影されております。その後コズロフスキー社で数本映画を作り、モスクワのエルモリエフ映画社の花形の一人となって人気が出て來るようになりました。

その後は…あぁ、とても辛い(と目に涙を浮かべたコヴァンコ夫人)その後は…ボルシェヴィキのために自国を追われる羽目に。たった一時間半で祖国を離れないといけなくなったのです。アテネに辿りつきしばらくそこで過ごしておりました。イタリアでの映画撮影のオフォーがあったのですが断らせていただき、旧パテ社モントルイユ撮影所で数ヵ月映画作りをしていたエルモリエフ氏に合流したのです。

「巴里のロシア映画人二人:コヴァンコ夫人とトゥールジャンスキー氏」
シネマガジン誌1921年12月9日付47号掲載

Je suis née, me déclare-elle, le 9 novembre 1899, à Yalta, en Crimée. Mon père était colonel dans l’armée du Tzar. J’adorais le théâtre à un tel point que vers les onze ans, je me déguisais soit avec les vêtements de mon père, soit avec ceux de ma mère, j’apprenais quelques petites pièces de théâtre en cachette de mes parents pour les jouer ensuite avec quelques amis de mon âge.

Or, près de notre ville, à Massandra exactement, se trouvait un immense parc qui appartenait au Tzar et, de temps en temps, lorsque sa famille y villégiaturait, on donnait quelques concerts, quelques numéros de danses et la soirée se terminait par un drame.

Ces soirées artistiques se passaient dans des haos, c’est-à-dire des espèces de grottes que l’on entretenait soigneusement tout en leur laissant leur caractère pittoresque. Un jour, j’y jouai pour mon unique plaisir dans Le Démon, opéra en trois actes d’après le remarquabre roman de Lermontf, un de nos meilleurs poètes russes et dont la musique est de notre cher Rubinstein et le livret de Wiskowatoff. Je remportai un assez grand succès et je partis à Moscow jouer -toujours en amateur- les grandes pièces du répertoire russe.

En 1916, le cinéma commençait à m’intéresser vivement et je débutai à la Bio-Film. Un de mes premiers rôles dans cette nouvelle carrière fut Yvette, dans un film tiré de la célèbre nouvelle de Guy de Maupassant. Les intérieurs avaient été tournés aux studios de Moscow et les extérieurs à Yalta, mon pay natal.

Ensuite, je tournai pour la Société Koslowsky, puis je devenais une des vedettes des Films Ermolieff de Moscow et je devins bientôt populaire en Russie.

Puis… oh! non, c’est trop douloureux… ajoute mme Kovanko, les larmes aux yeux, puis, étant dans l’obligation de fuir la Russie à cause des Bolcheviki (pensez donc, en une heure et demie, je dus quitter mon cher pays) et partis à Athènes où je séjournai quelque temps. Là, on m’offrit un engagement pour tourner en Italie, mais je refusai pour revenir avec M. Joseph Ermolieff qui tournait en France depuis quelques mois aux anciens studios Pathé de Montreuil-sous-Bois.

« Deux artistes russes à Paris : Mme Kovanko & M. Tourjansky »
Cinémagazine No 47, 9 Décembre 1921

1918年のロシア革命後、帝政寄りだった一部の映画人が祖国を離れ、フランスに向かいました。モジューヒンやヴォルコフといった才能ある面々が同地でアルバトロス映画社を立ち上げ、第一次大戦後に停滞していた仏映画に衝撃と活力をもたらしていきます。

フランス亡命時代に頭角を現した女優の一人がナタリー・コヴァンコでした。ヴィクトル・トゥールジャンスキー監督のお気に入りとしてヒロイン級に昇格、1926年の秀作『大帝の密使』でもモジューヒンの相手役を務めています。

[Movie Walker]
ナタリー・コヴァンコ

[IMDB]
Nathalie Kovanko

[出身]
ロシア

[誕生日]
9月13日

[コンディション]
B+

[メーカー]
Ross Verlag

1936 – アラ・ナジモヴァ主演舞台劇『ヘッダ・ガブラー』 出演者寄せ書き Alla Nazimova

夫人が初めて米國へ渡って紐育の劇場に現はれたのは一千九百五年の事であつた。その頃は未だ花形といふ程ではなかつたが、三年間といふもの、殆ど日夜の差別も無い位に研究勉励して、やがて紐育に於ける第一位の女優となる事が出来た。今では夫人は世界的に名を成してゐる。夫人の得意な演物は主としてイブセンの作品で「人形の家」「建築士」「野鴨」「ヘッダ・ガブラー」などは何れも好評嘖々たるものであつた。

初めてレンズの前に立つたのは一千九百十七年セルツニック會社の依頼に依つて「戦争の花嫁」を撮影した時であつた。これは舞臺劇としては夫人の名を高らしめたものであつたが映畫劇としては餘り面白く行かなかった。第二回目の作品はメトロ会社のスクリーン・クラシク映畫「天啓」(卽ち今春キネマ倶樂部に上場された「奇蹟の薔薇」)で、これは極めて評判が好かつた。最近天活會社は夫人の出演映畫を全部輸入する計畫を立てたといふから、何れ續々吾々の目の前に現はれる事であらう。近く「紅燈」がキネマ倶樂部に上場される筈になつてゐる。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

昭和11年にブロードウェイで上演された舞台劇『ヘッダ・ガブラー』のパンフレットに主演ナジモヴァと他の出演者6名がサインしたもの。

ナジモヴァは1910年代にロシアから渡米し成功を収めた一人です。クセのある風貌で米女優では得難い退廃の雰囲気を見せつけました。映画では『椿姫』(1921年)と『サロメ』(1923年)がよく知られています。

プログラムの左上からグレース・ミルズ(Grace Mills)、レスリー・ビンガム(Leslie Bingham)、ナジモヴァ。右上からマッケイ・モリス(McKay Morris)、ハリー・エラーブ(Harry Elerbe)、エドワード・トレヴァー(Edward Trevor)、ヴィオラ・フレイン(Viola Frayne )。

[Movie Walker]
アラ・ナジモヴァ

[IMDB]
nm0623417

[誕生日]
5月22日

[出身]
ロシア

[コンディション]
B+

[入手年月日]
2017年9月

リナ・マルサ Rina Marsa (1904 – ?) 露/独

Rina Marsa

1920年代末に注目を集めヒロイン〜準ヒロインとして登場するも直後のトーキー化に消えていった女優さん。活動期間が短かったこともあって伝記データが少なく、引退後の動きや没年も分かっておりません。ドイツ時代のウィリアム・ディターレが監督・主演した『バイエルンの王、ルートヴィヒ2世』、主人公の婚約者役を演じた船上ミステリー『遊覧船「よしわら」号』 などが現存しています。

Rina Marsa in Ludwig der Zweite, König von Bayern (1930)
『バイエルンの王、ルートヴィヒ2世』 (1930年)より

[IMDB]
nm0550338

[出身]
ロシア(コーカサス)

[コンディション]
B+

[入手年月日]
2017年5月

[メーカー]
Ross Verlag

リディア・ポテキナ Lydia Potechina (Лидия Семеновна Потехина, 1883 – 1934)

「ロシア [Russia]」より

Lydia Potechina Autographed Postcard
Lydia Potechina Autographed Postcard
ロシア生まれ。10代後半から舞台で活躍、ロシア革命後に母国を離れドイツで映画女優としての新たなキャリアを積み始めます。1922年の『ドクトル・マブゼ』(フリッツ・ラング監督作品)では賭博場でマブゼ博士にだまされるロシア貴婦人として登場。1925年の『ワルツの夢』(ルドウィッヒ・ベルガー監督作品)ではオーケストラのコントラバス奏者として作品に軽快さを付け加えていました。

Lydia Potechina in Dr. Mabuse, der Spieler
Lydia Potechina in Dr. Mabuse, der Spieler (1922, Fritz Lang)

雑誌で特集を組まれるような女優さんではなかったものの一定の需要があるタイプ。私生活では独ウーファ社の大物プロデューサー夫人に収まっています。

[Movie Walker]
リディア・ポテキナ (Lydia Potechina)

[IMDB]
Lydia Potechina

[出身]
ロシア

[生年月日]
9月5日

イリーナ・レオニドフ Ileana Leonidoff (1893 – 1968) 露/伊

Ileana Leonidoff 1924 Autographed Photo
Ileana Leonidoff 1924 Autographed Photo

露國に生れ、露國劇壇に薫陶された南歐映畫女優は數多ある。エレナ・マコウスカ孃、ダイアナ・カレンヌ夫人、最近に至つてはタチアナ・パプロワ孃の如き、其れである。イレーナ・レオニドツフ孃も又露國生れの女優として一九一七年以来南歐に表れた女優である。我々は『アチラ』に於てイルヂゴに扮した孃を始めて見た。さうして孃もまた妖婦女優として、確に相當の技能を有する事を認め得た。その後『不滅の血路』に於ても近く孃の技藝に接し得て、その妖婦女優としての腕を認める事が出來た。尚孃のパスクワリ會社時代の映畫(アルマンドヴエイ發賣)『酒の罪』が日活に輸入されて居る。一九一七年以來アンブロジオ會社に結び、主腦女優として『アチラ』『不滅の血路』等數種の映畫に出演し、その後パスクワリ會社に一時契約し、昨年ベルチニ會社の主腦女優となり、數種の映畫に出演して名聲を得て居る。

「南歐映畫俳優月旦 イレーナ・レオニドツフ孃」
『活動画報』1919年4月号

イタリア未来派の代表作『Thais』 (1917年)でヒロインに抜擢され注目を浴びたのがイリーナ・レオニドフでした。

Ileana Leonidoff 03
『アッチラ』(1918年)より

ロシア生まれで若くしてイタリアに移り住み当初はオペラ歌手の修業を積みます。まず映画女優として名を上げて歴史映画(『アッティラ』)や恋愛ドラマに出演、1922年を境にバレエに活動を移していきました。ローマを拠点とし自身のバレエ団を結成海外公演を行っていた記録があり、1924年にロンドン公演を行っています。このサイン入り写真はその際の一枚と思われます。

綺麗な写真ですが数か所の汚れ、右下に目立つ破れがあります。

Ileana Leonidoff 1924 Autographed Photo

[サイズ]
15.0 × 20.0 cm

[IMDB]
nm0503064

[出身]
ロシア/ウクライナ

[誕生日]
3月3日

[コンディション]
C+

ウェラ・オルロワ Vera Orlova (1894–1977)

こちらは1910年代から活動を続けていた女優ウェラ・オルロワ。以前に紹介したオリガ・クニッペル同様、1921年にモスクワ芸術座がクロアチア首都ザグレブを訪れた際に残されたサインと思われます。サイン日付は1921年1月28日。

舞台が中心ではあるものの映画でも重要な役どころを多く演じており、1916年の『スペードの女王』、1923年の『罪と罰』、1924年の『アエリータ』など現在でも評価の高いロシア・ソ連初期映画で演技力を発揮しています。

[Movie Walker]
ウェラ・オルロワ

[IMDb]
nm0650153

[誕生日]
5月27日

[撮影]
トンカ・スタジオ(ザグレブ)

大正9年のアンナ・パブロワ・バレエ団(2)ヴェラ・カラーリィ (1889 – 1972) Vera Karalli

チャールズ・トープ氏旧蔵サイン帖より

ロシア帝政期~ソヴィエト時代に活躍した舞踏家・映画女優で、1910年代半ばのエフゲニー・バウエル作品(『瀕死の白鳥』1917年など)で重用されていました。

私生活ではニコライ二世の従弟ドミトリー大公の愛人。1916年、同大公を中心にラスプーチン暗殺が決行されます。猜疑心の塊となっていたラスプーチンをおびき出すために女性が使われたという噂もありました。関与を疑われ、警察の調査対象となった女性が二人いて、その一人がヴェラだったそうです(『真説ラスプーチン』、エドワード・ラジンスキー著)。真相は現在でも不明。

サインは鉛筆書きで名前のみ。仏文化の影響を強く受けた帝政ロシア期の女性らしくヴェラの「e」にアクセント記号を付しています。

[IMDb]
nm0832977

[誕生日]
7月27日

[出身]
ロシア

大正9年のアンナ・パブロワ・バレエ団(1)アンナ・パヴロワ (1881 – 1931) Anna Pavlova

チャールズ・トープ氏旧蔵サイン帖より


1920年4月、アンナ・パヴロワはドゥルリー・レーン王立劇場の舞台に立ちます。パヴロワ団にとって初の長期ロンドン公演で、英語圏での知名度を決定づける内容となりました。

アンナ・パヴロワ 1920年6月5日
Anna Pavlova 5/VI 1920

数字の後にスラッシュ(/)を入れ、ローマ数字で月を表記するのはロシア語圏の慣習でした。サインは鉛筆書きで途中で芯が割れて線が二重になっています。

パヴロワ自身は映画女優の活動は行っておりませんが、チャップリン、メアリー・ピックフォードなどと対面を果たしています。

[IMDb]
nm0667816

[誕生日]
2月12日

昭和6年のアンナ・ステン (1908 – 1993) Anna Sten Анна Стен

Anna Sten Autographed Postcard
Anna Sten 1931 Autographed Postcard

1910年12月1日、キエフの帝國ロシアオペラ座バレイマスターの娘として生を受けたのがアニューシュカ・ステンスキー(Anjuschka Stenski)であった。現在はアンナ・ステンとして欧州トーキー映畫界ピカ一の花形となっている。父がバレイマスターで母がモスクワ・オペラ座のプリマバレリーナであるが故、嬢の人生にはたった一つの選択肢しかなかった。バレイダンサーになることである。4才でロシア政府の援助を受けバレイのレッスンを始めた。その後両親が前線へと向かう。1917年に戦争は終わったが、ロシア帝国政府と帝国バレイスクールは過去のものとなっていた。アニューシュカの所在地は分からなくなった。その後、9歳の時に演劇学校の一種であるモスクワの専門学校にその姿を確認できる。父親が学校を辞めさせ、自身が一緒に国内興行をしていた舞踏曲芸団に籍を置くこととなった。11歳の時すでに嬢は旅芸人一座の花形となっていた。

父親の死とともに舞台に上る夢がかなう。幸運にも偉大なロシア人俳優インキジノフにその才を認められ、後にエイゼンシュタインからトーキー映画の基礎を学ぶことができたのである。現在はドイツ映畫のみに出演しておりそのキャリアは頂点に達している。『狂乱のモンテカルロ』でセンセーショナルな成功を巻き起こし、直近ではウーファのトーキー特作『激情の嵐』の女主人公を演じている。

世界映画辞典・1932年度版(フランク・アルノー編)

Am 1. Dezember 1910 wurde dem Ballettmeister an der Kaiserlich Russischen Oper in Kiew eine Tochter geboren: Anjuschka Stenski — heute Anna Sten, einer der bedeutendsten Tonfilmstars Europas. Wenn der Vater Ballettmeister und die Mutter Primaballerina an der Moskauer Oper ist. gibt es für das Kind nur einen Beruf: Ballettänzerin. Mit vier Jahren wurde die kleine Anjuschka Elevin; der russische Staat hatte die Sorge für ihre Ausbildung übernommen. Der Vater ging an die Front, die Mutter mit. Im Jahre 1917 war der Krieg zu Ende, aber das russische Kaiserreich und damit die kaiserliche Ballettschule auch. Wo Anjuschka war, wußte kein Mensch. Man fand die Neunjährige im Moskauer „Technikum », einer Art Kunstschule; sie hatte das Tanzen aufgegeben und sich dem Sprechtheater zugewandt. Der Vater holte sie zurück und fügte sie einer Tanz- und Akrobatengruppe ein. mit der er durch Rußland zog. Mit elf Jahren war Anjuschka der Star dieses wandernden Zirkus.

Erst nach dem Tode ihres Vaters konnte sie zur Bühne gehen; sie hatte das Glück, von Inkischinew, dem großen russischen Schauspieler, entdeckt zu werden. S. M. Eisenstein bildete sie für den russischen Tonfilm aus. Heute spielt sie nur Deutsch, ist auf dem Höhepunkt ihrer Laufbahn, hat in „Bomben auf Monte Carlo » einen Riesenerfolg gehabt und spielte zuletzt in dem Ufa-Großtonfilm „Stürme der Leidenschaft » die weibliche Hauptrolle.

Universal Filmlexikon 1932 (Europa),
Frank Arnau (Hg.), Berlin: Universal Filmlexikon GmbH, 1932

Anna Sten 02
『黄色の鑑札』(1928年)より

アンナ・ステンに関しては淀川長治氏の回想を通じたハリウッド期が知られています。氏の印象は好意的とはいえず、大物プロデューサーに気に入られて大役を射止めたものの、結果を出せず消えていった女優さんの位置づけでした。

この時期に何人も現れた「第二のガルボ」の一人、確かにハリウッド視点ではそうなると思います。でも元々は大きな瞳を自在に使いこなす20年代ソ連でも珍しいタイプの女優さんでした。無声映画視点からするとソ連で発掘され、ドイツで大事に育てられ、ハリウッドで使い捨てにされたと写ります。

こちらのサインはドイツで活動していた1931年の一枚、ローザ・パストールさん旧蔵品です。

[IMDb]
Anna Sten

[出身]
ロシア(ウクライナ)

[誕生日]
12月3日

イワン・モジューヒン Ivan Mosjukin/Иван Ильич Мозжухин (1889 – 1939)

Ivan Mosjoukine

1910年代ロシア帝政期の活躍(『歓喜する悪魔』)、革命~亡命後の20年代フランス期(『蒙古の獅子』、『大帝の密使』)、二つのディケイドで特筆すべき作品を多く残したサイレント映画界の名優、イワン・モジューヒンです。

1920年代初頭のフランス映画はハリウッドとUFAに押されて方向性を見失っていたように見えます。モジューヒンらの亡命人一派は祖国ロシアで養った技術をフランス趣味へとアレンジし、メリハリの効いた演出やカット割りで観衆たちを大いに沸かせました。

ニコラ・リムスキー Nicolas Rimsky (1886 – 1942) 露

Nicolas Rimsky Autographed Postcard
Nicolas Rimsky Autographed Postcard
ロシア革命後、モジューヒンらとともに亡命しアルバトロス社を中心に活躍した俳優さん。モジューヒンとは違って喜劇を得意としており、『5日間パリ一周』(Paris en cinq jours, 1925)ではドリー・デイヴィスと、『カーニヴァルの夜』(Nuit de carnaval, 1922)ではナタリー・コヴァンコと共演しています。

エドヴィーゲ・トニさん旧蔵の一枚、「楽しかった思い出に、エドヴィーゲ・トニさんへ、パリにて(Au bon souvenir, Edvige Tonni, Paris)」のメッセージ付。日付は1927年1月ではないかと思われます。

マリア・オルスカ Maria Orska (1893 – 1930)

Maria Orska Autographed Postcard
Maria Orska Autographed Postcard

元々はマックス・ラインハルト劇団での舞台経験もある正統派女優さん。現存している1922年の歴史映画『フリードリヒ大王』(Fridericus Rex)にも出演しているようです。

1926年に実の妹が自殺。2年後には恋人の男性がやはり自死を遂げています。ドイツでの人気を確立していたのですが本人も後を追うように1930年に自殺。モルヒネ中毒の噂が流れました。ユダヤ系ロシア移民でファッションアイコンの面白い立ち位置にいたため早世が惜しまれます。

Maria Orska in Kino (1919)
『キノ』(1919年)掲載のポートレイト
Maria Orska (1893 – 1930)

[IMDB]
nm1335202

[出身]
ロシア/ウクライナ

[誕生日]
3月16日

[サイズ]
8.7 × 13.6cm

[コンディション]
B