1916 – 9.5mm ダグラス・フェアバンクス主演 『電話結婚』 (The Matrimaniac)

「9.5ミリ動画 05a 劇映画」より

9.5mm Douglas Fairbanks in The Matrimaniac (1916)
9.5mm Douglas Fairbanks in The Matrimaniac (1916)

御なじみの名高いダグラスフエーヤバンクスは彼の獨得の妙技を振って演じた快味湧くが如く姿又眞に迫つた活劇である。彼は絶世の美人マルヂヨリーに戀したけれども父は頑強に反對したのである。彼は決心のほぞをきめてマルヂヨリーを奪ふやいち早く逃げた追急して來る追手からのがれんとして心膽を寒からしむる彼獨得の冒険を犯しつゝ迹け終り逸早く牧師を説得し目出度く結婚すると云ふ血沸き肉躍る活劇である。

『パテーベビーフヰルム 解説書 No. 1』
(大橋善次郎編集・出版、1926年)

フェアバンクス初期主演作の9.5ミリ版。

1910年代のフェアバンクス短編は後年の長編(『奇傑ゾロ』『ロビンフッド』)と質を異にしています。十数分の枠にお笑いやアクション、恋愛劇をバランス良く詰めこみ物語は勧善懲悪で綺麗にまとまっています。

また新人女優にとって良い登竜門になっていました。ジュエル・カーメン(『火の森』)、アルマ・ルーベンス(『アメリカ人』)、ポーリーン・カーリー(『ドグラスの跳ね廻り』)、アイリーン・パーシー(『ドーグラスの蛮勇』)、マージョリー・ドウ(『ドーグラスの現代銃士』)などがフェアバンクスとの共演を通じて女優キャリアのステップアップを実現していきました。

『電話結婚』はコンスタンス・タルマッジを相手に据えた一本で、ロミオとジュリエットを念頭に「相手の親の反対にも関わらず猪突猛進するドーグラス」を楽しそうに演じています。

[タイトル]
Mariage au téléphone

[原題]
The Matrimaniac

[公開]
1916年

[IMDB]
The Matrimaniac

[メーカー]
仏パテ社

[カタログ番号]
10025

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ有) 20m *2リール

マリー・オズボーン Baby Marie Osborne (1911 – 2010) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Marie Osborne 1923 Inscribed Photo
Baby Marie Osborne 1923 Inscribed Photo

映畫界に這入つたのは數年前で、最初はパセ會社のバルボア映畫に現はれた。大正六年の春電氣館に上場されたルス・ローランド嬢出演の連續映畫「赤輪」に、オスボーン嬢も姿を見せてゐた。その映畫はバルボア撮影所の製作に係つたもので、恐らく我國に於ける最初のお目見得であつたらうと思ふ。

房々とした髪、晴れやかな頬、明るい無邪気な瞳、そして子供らしい唇、それ等は映畫劇に於ける子役として、最も適當なものであつた爲めに、嬢の出演映畫はその製作の度に多大の拍手をつて迎へられた。その結果、パセ會社は特に嬢を主人公とする映畫を作つた。「可憐なマリー・サンシャイン」「ジョートと龍」「日蔭と日向」「黄昏の物語」「雙兒のキッディー」などがそれである。その頃から嬢はサンシャインという綽名で呼ばれるようになつた。この綽名が示すやうに、嬢の子供らしい無邪氣さには、少しの厭味もなく、唯春の空のやうな明るさのみが感じられる。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

1930年代にシャーリー・テンプル、1920年代にベイビー・ペギーやジャッキー・クーガンが名を馳せる以前、無声映画の最初期に子役として人気を博した一人がマリー・オズボーンでした。ヘンリー・キング監督の作品で見せた天真爛漫な演技から「サンシャイン」のあだ名で親しまれていました。

Marie Osborne Le Film, n°116
1918年仏ル・フィルム誌116号の表紙より

1919年には子役を引退、以後裏方として映画産業に関わっていきます(1965年のジャック・レモン主演作『女房の殺し方教えます』衣装担当他)。『活動名優寫眞帖』で挙げられていた『雙兒のキッディー(Twin Kiddies)』など出演作の幾つかが9.5mmフィルムで発売されていた記録が確認されています。

サインには役者業を引退した後の1923年の年号が付されています。この時期の直筆物を他に見たことがなく、役名で使用していた「Osborne」ではなく本名の「Osborn」を使用するなど現時点で紛れあり。

[IMDb]
Marie Osborne

[Movie Walker]
マリー・オズボーン (Marie Osborn)

[出身地]
合衆国(コロラド州デンバー)

[誕生日]
11月5日

[撮影]
エヴァンス L.A.

ネヴァ・ガーバー Neva Gerber (1894 – 1974) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Neva Gerber Autographed Photo
Neva Gerber Autographed Photo

ネヴァ・ガーバー嬢は、一千八百九十五年、米國のシカゴ市に生れた、同地の小學校を卒業をシカゴ聖心女學院に學んだ。その頃から演劇が好きで、學科の中でもピアノには特に秀でてゐた。

學生生活を終ると、暫く両親の膝下にあつて、家事の見習ひをしてゐたが、生來の芝居好きな心は、間もなく嬢を驅つて映畫界に身を投ぜしめた。最初に嬢が這入つたのはカレム會社であつた。同社では「探偵の妹」や「大秘密」などを撮影した。しかし、その頃は未だ大して評判にはならなかつた。カレム會社を去るとバルボア會社に移つて「分離された家」「運命の悪戯」などに出演し、更らにフェーボリット・プレイアー會社に轉じて「高壓手段」を製作した。この映畫はカーライル・ブラックウェル氏と共演したもので、嬢の役はエドナといふ娘であつた。大正五年の四月に東京倶樂部に上場された「總選擧」は、卽ちこの映畫の改題されたものである。嬢の名聲が次第に昻つて來たのは實にこの時代からの事である。

その後、同社を去つてアメリカン會社に轉じ、「雛菊」「各自の心」「家なき人」「母の忙しい日」「アニタの蝶」など數多の映畫に出演した。その中でも「家なき人」は特に評判の好かつたものである。嬢の評判が傳へられるに及んで、幸運な日が続いた。

一千九百十六年の夏、ユニヴァサル會社は辭を低うして嬢を招いた。嬢はアメリカン會社を去つてユニヴァサル會社に移つた。そして「望みなき城」「アイドル・ワイヴス」などを撮影した。「アイドル・ワイヴス」は大正六年の五月に帝國館に上場された。その映畫では、嬢は活動寫眞を見る娘を演じてゐた。嬢の入社後間もなく、ユ社は莫大な費用を投じて連續寫眞「電話の聲」を撮影したが、その時、嬢は選ばれて女主人公ポリーを演じベン・ウィルソン氏を相手にして活躍した。この映畫が大正六年の六月に帝國館に上場されて以来、嬢の名は我國にも喧傳されるやうになつた。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

1910年代中盤にカレム~バルボア社の短編劇で下積みを経た後、ユニヴァーサル社連続活劇で名を上げたのがネヴァ・ガーバーでした。『電話の聲』(1917年)を皮切りとしてベン・F・ウィルソン監督の手による活劇にヒロインとして登場、同時期の初期ジョン・フォード西部劇でハリー・ケリーとも共演を重ねています。

20年代になって大手との契約が切れた後もベン・F・ウィルソン監督作品に安定して出演を続けており、幾つかの作品の現存が確認されています。

キャリア初期に監督のウィリアム・デズモンド・テイラーと婚約していた時期があり、1922年に同監督が怪死を遂げ大スキャンダルとなった時にメディアで二人の関係(死の直前まで頻繁に金銭授受があった理由など)が取り沙汰されていました。

[IMDb]
Neva Gerber

[Movie Walker]
ネヴァ・ガーバー

[出身地]
合衆国(イリノイ州アルジェンタ)

[誕生日]
4月3日

[撮影]

1919年4月『活動之世界(最終号)』各国映画俳優人気投票

1919年4月『活動之世界』人気投票
『Katsudou no Sekai (Moving Picture World)』
« Hall of Fame » Poll (April 1919)

01:ウォーレン・ケリガン(761) Warren Kerrigan [IMDb]
02:山本嘉一(725) Yamamoto Kaichi [JMDb]
03:ルース・クリフォード(695) Ruth Clifford [IMDb]
04:ヴァイオレット・マースロウ(662) Violet Mercereau [IMDb]
05:ダグラス・フェアバンクス(657) Douglas Fairbanks [IMDb]
06:マルガリータ・フィッシャー(591) Margarita Fischer [IMDb]
07:メアリー・マクラーレン(580) Mary MacLaren [IMDb]
08:ドロシー・フィリップス(513) Dorothy Phillips [IMDb]
09:メアリー・マイルズ・ミンター(470) Mary Miles Minter [IMDb]
10:ウィリアム・S・ハート(465) William S. Hart [IMDb]
11:フランシス・ブッシュマン(457) Francis X. Bushman [IMDb]
12:ベッシー・バリスケール(435) Bessie Barriscale [IMDb]
13:パール・ホワイト(433) Pearl White [IMDb]
14:モンロー・ソールズベリー(408) Monroe Salisbury [IMDb]
15:メアリー・ピックフォード(397) Mary Pickford [IMDb]
16:グレース・ダーモンド(379) Grace Darmond [IMDb]
16:フランチェスカ・ベルティーニ(379) Francesca Bertini [IMDb]
16:メイ・マレー(379) Mae Murray [IMDb]
19:カーメル・マイヤーズ(361) Carmel Myers [IMDb]
20:ベッシー・ラブ(343) Bessie Love [IMDb]
21:チャールズ・チャップリン(305) Charles Chaplin [IMDb]
22:ルース・ローランド(295) Ruth Roland [IMDb]
23:ウィリアム・ダンカン(293) William Duncan [IMDb]
23:モリー・キング(293) Mollie King [IMDb]
25:ジェラルディン・ファーラー(265) Geraldine Farrar [IMDb]
26:ピナ・メニケリ(233) Pina Menichelli [IMDb]
27:ノーマ・タルマッジ(207) Norma Talmadge [IMDb]
28:片岡長正(201) Kataoka Chosei [JMDb]
29:クレイトン・ヘイル(199) Creighton Hale [IMDb]
30:藤野秀夫(177) Fujino Hideo [JMDb]
31:ウィリアム・ラッセル(151) William Russell [IMDb]
32:尾上松之助(147) Onoe Matsunosuke [JMDb]
33:エラ・ホール(141) Ella Hall [IMDb]
34:エディー・ポロ(125) Eddie Polo [IMDb]
35:衣笠貞之助(113) Kinugasa Teinosuke [JMDb]
36:アニタ・スチュワート(112) Anita Stewart [IMDb]
37:早川雪洲(98) Hayakawa Sessue [IMDb]
37:澤村四郎五郎(98) Sawamura Sirogoro [JMDb]
39:ハリー・ケリー(93) Harry Carry [IMDb]
40:ウィリアム・ファーナム(90) William Farnum [IMDb]
41:ドロシー・ダルトン(79) Dorothy Dalton [IMDb]
42:ビヴァリー・ベイン(72) Beverly Bayne [IMDb]
43:フランク・マヨ(69) Frank Mayo [IMDb]
44:東猛夫(65) Azuma Takeo [JMDb]
45:ネヴァ・ガーバー(65) Neva Gerbar [IMDb]
46:アルフレッド・ホイットマン(57) Gayne Whitman [IMDb]
47:アリス・ブラディー(50) Alice Brady [IMDb]
48:アール・フォックス(42) Earle Foxe [IMDb]
49:ベン・ウィルソン(37) Ben F. Wilson [IMDb]
50:セダ・バラ(22) Theda Bara [IMDb]
51:アラン・ホルバー(21) Allen Holubar [IMDb]
52:ジュエル・カーメン(17) Jewel Carmen [IMDb]
53:クララ・キンボール・ヤング(15) Clara Kimball Young [IMDb]
54:ブロニー・ヴァーノン(12) アグネス・ヴァーノン(Agnes Vernon)誤記 [IMDb]
55:ルイズ・グローム(9) Louise Glaum [IMDb]
56:モリー・マローン(8) Molly Malone [IMDb]
57:レオン・バリー(5) Léon Bary [IMDb]
57:ガブリエル・ロビンヌ(5) Gabrielle Robinne [IMDb]
59:フランセリア・ビリントン(3) Francelia Billington [IMDb]
59:アーヴィング・カミングス(3) Irving Cummings [IMDb]
59:花柳はるみ(3) Hanayagi Harumi [JMDb]

1919年初頭、雑誌『活動之世界』新年号で人気投票の開催が告知されました。当時合衆国で行われていた形に倣ったもので、年間を通じて票を募集し、各号で途中経過を発表しながら年明けに最終結果を発表するものです。残念ながら『活動之世界』誌はこの年の四月号で廃刊となったため最終結果の発表には至りませんでした。それでも最終号の第3回中間発表を見ていると当時の傾向が幾つか見えてきます。

人名表記は現在のものを使用。3票以上を獲得した61名の男女比は27名(44%)対34名(56%)、国別内訳は以下となっています。
アメリカ:48名(79%) 日本:9名(15%) イタリア:2名(3%) フランス:2(3%)

ハリウッド俳優ではヴァイタグラフ社が安定した人気ぶり(転籍していますがアニタ・スチュワートやノーマ・タルマッジも同社出身)。国内で安定して配給・宣伝されていたため知名度が高かったと思われます。一方でギッシュ姉妹やグロリア・スワンソンらが選外に漏れてしまいました。

アクションを十八番とする男優(ウィリアム・ダンカン、エディー・ポロ、ハリー・ケリー)が健闘、また連続活劇女優の人気が根強かった様子も伺えます。1910年代末はパール・ホワイトやルース・ローランドらの先駆者に続く第二世代(グレース・ダーモンド、モリー・キング、ネヴァ・ガーバー)が台頭していた時期で、ランキングにもその状況が反映されています。

国内組に目を転じると1917年に日活向島に入社した山本嘉一と藤野秀夫、東猛夫、衣笠貞之助に票が集まっています。松之助人気も健在。正式デビュー前で得票数は伸びていないものの(『深山の乙女』は1919年8月公開)日本初の女優花柳はるみさんが早くも食いこんでくる形になっています。

二名ながらもイタリア女優が上位にランクイン(ベルティーニ、メニケリ)。ドイツや北欧、ロシアの俳優名はありません。

この5年後になると日本でも女優ブームにブロマイドが飛ぶように売れ、連続活劇人気は収まり、イタリアの代わりにドイツ映画が存在感を増していく時代となりました。「映画」の言葉からイメージされる世界の広がりが20年代前半にガラリと変わっている訳で、この人気投票はそれ以前、ちょうど一世紀前の映画理解を反映している点で興味深く思われます。

なお、それぞれの国外俳優の写真は国立国会図書館所蔵の『活動花形俳優』(1921年)や『活動名優寫眞帖』(1919年)で見る事ができます。

1913 – スタンダード8 パール・ホワイト主演 『紙人形(ペーパー・ドール)』

「8ミリ 劇映画」より

1913 Pearl White in Paper Doll
Pearl White in The Paper Doll (1913) Standard 8 Blackhawk Print

『ポーリンの危難』公開の前年、1913年のパール・ホワイトはクリスタル映画社と契約を結んでいて、この年だけでも百作を超える短編に出演する人気を見せていました。

観衆から暖かく受け入れられているのは劇場に顔を出す度に響き渡る万雷の歓声からも伺える。ホワイト嬢を「我らがパール」と呼ぶのが多くの者の習わしとなっていた。

ヴィックスバーグ・イヴニング・ポスト紙
1913年5月10日付

The warm place she holds in the estimation of the public is forcibly illustrated in the applauses accorded to her personnal appearance in any theater. « Our Pearl » has become the popular characterization of Miss White.

Vicksburg Evening Post
May 10, 1913

クリスタル社作品で現存が確認されており、8ミリで市販されていた一本が『紙人形』でした。不幸な偶然の重なりで恋人に殺人の嫌疑をかけられてしまった女性主人公アリス(パール・ホワイト)が間一髪でその疑いを晴らす内容です。

冒頭はグラスハウスでの撮影で、登場人物が一通り紹介されると屋外撮影に切り替わりピクニックとなります。思惑のすれ違いから彼氏のクレメンツ(チェスター・バーネット)とアリスに想いを寄せるレイナー(ジョゼフ・ベルモント)との諍いが生じ、カップルは喧嘩別れしてしまいます。

その後レイナーは拳銃の暴発事故で亡くなってしまうのですが、直前にクレメンツがレイナー宅を訪れていた様子が目撃されていました。動機もあり、状況証拠も揃っていることからクレメンツが殺人犯として逮捕されてしまうのです。事件を知ったヒロインが悲しみに暮れていると幼い妹がやってきます。さて二人が如何にして無罪を証明していくか…が見どころとなっています。

物語のメリハリや伏線が上手く機能しており、1911~13年頃の脚本術や演出術の高い水準を伺わせる好編となっています。

1913-paper-doll-11

1910年代前半の映画流儀にならい、『紙人形』の大半は膝上ショット(ミディアム・フル・ショット)で撮影されています。手紙等を見せる場面では手元の接写が使われたりするのですが、本作では拳銃に寄った場面が含まれていました。単調な流れに視覚的アクセントが生まれてくる訳で、こういった経験が蓄積されていく中で数年後に表情や事物のクローズアップ法とそのヴァリエーションが確立されていくことになります。

[タイトル]
The Paper Doll

[製作年]
1913年

[IMDB]
tt0003252

[メーカー]
米ブラックホーク社

[メーカー記号]
810-424

[フォーマット]
Standard 8mm 400フィート

コンスタンス・タルマッジ Constance Talmadge (1898 – 1973) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Constance Talmadge c1917 Autographed Photo
Constance Talmadge c1917 Autographed Photo

 コンスタンス・タルマッジ嬢は、一千九百年四月十九日、米國紐育州のブルックリン市に生れた。一説には一千八百九十九年の四月十九日生れであるとも云ふ。ノーマ・タルマッジ嬢の實妹である。初頭教育はブルックリン市で受けたが、後に紐育市に出て、エラスマス學院に學び目出度く同學院を卒業した。嬢が卒業した頃に姉のノーマ嬢はヴァイタグラフ會社の花形として盛んに世間の人気を煽り、殊に「戰争?滅亡?」の主役を勤めて嘖々たる名聲を博してゐた。その姉の境遇を見て、コンスタンス嬢は少なからず心を動かした。そして自分も如何かして映畫界に身を投じたいと考へて、姉に相談をして見ると、姉も直に賛成したので、何等の舞臺經験も持つてはゐなかつたけれども、早速、姉の周旋に依つてヴァイタグラフ會社へ入社する事になつた。それは一千九百十五年の事で、嬢が恰度十五歳の時であつた。その第一回作品として撮影されたのは「ビル叔父さん」である。

 間もなく、姉のノーマ嬢が同社を退いてインターナショナル會社に移ると、嬢も共に去つてトライアングル會社に轉じ、ファイン・アーツ撮影所に行ってダヴィッド・グリフィス氏の配下に屬する事となつた。嬢が今日の名聲を得るに至つたのは、全く、この時にギリフィス氏の下に行つたからであると云つても可い。なぜなれば嬢の技倆を認めて、その技倆を充分に發揮せしめたのは、グリフィス氏であつたからである。グリフィス氏が豫て人に語った中に、「映畫を有名ならしめるものは俳優ではなくて監督者である。監督者は俳優を有名ならしめる事が出来る。」といふ言葉があるが、コンスタンス嬢は蓋しこの言葉を證明した人であるといつて可い。話は「イントレランス」の製作當時の事であるが、この映畫を製作するに當つて、氏は誰彼の差別なく藝の達者と役柄の相應するのとを標準にして俳優を選んだ。その時、嬢は數多の中から選ばれてバビロン時代の山の娘を勤める事になつたのである。この映畫が先頃帝國劇場に上場された時、嬢の藝風は一部の人々の問題となつた。三友館に上場された「疑問の釦」は姉のノーマ嬢がトライアングル會社に移つて來てから共演したものである。

 その後、セルツニック會社に轉じて十數本の映畫を製作したが、最近、またセレクト會社に移つたといふ。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

『活動名優寫眞帖』の後半にあるようにコンスタンス・タルマッジは1917年にファイン・アーツ社を離れ、セルズニック社に所属を移しています。

丁度この時期に姉のノーマはアメリカでも五本指に入る程の人気女優になっていたこともあり、セルズニックは好機到来と妹の売り出しにかかるのです。この1917年に撮影されたのがややうつむきがちな横顔のポートレート写真でした。

1917年12月6日付 『スキャンダル』宣伝記事
1917年12月6日付
『スキャンダル』宣伝記事

写真は万年筆のサイン入り。裏面に「セルズニック映畫社の新進花形 コンスタンス・タルマッジ」のスタンプが押されています。

”Constance Talmadge New Star om Selznick Pictures
”Constance Talmadge New Star in Selznick Pictures » stamped on the back
Constance Talmadge in Her Sister from Paris (1925)
ロナルド・コールマンと共演した喜劇『亭主教育』(1925年)より

[IMDB]
nm0848226

[Movie Walker]
コンスタンス・タルマッジ

[誕生日]
4月19日

[出身]
合衆国(ニューヨーク)

[サイズ]
19.5 × 24.3cm

[撮影]
Bangs-Selznick Photo

ローズマリー・セビー Rosemary Theby (1892 – 1973) 米

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

Rosemary Theby 1910s Autographed Photo
Rosemary Theby 1910s Autographed Photo

ローズマリー・セビー嬢はセントルイスで生れサージェント演劇学校にて教育を受けた。映畫女優歴の皮切りはユニヴァーサル社であり、同社にて「女が多すぎる」「ボストン・ブラッキーのお友達」「予期せぬ場所」など数多の作品に出演した。アートクラフト社やメトロ映畫社作品にも出演し、現在はメイフラワー印の映画社に所属。趣味は屋外スポーツ全般で、とりわけ水泳に堪能である。嬢は身長五尺五寸、體重十五貫、焦茶色の髪に榛色(はしばみいろ)の瞳を有し、つとに愛書家である。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)
Who’s Who on the Screen (Ross Publishing Co., Inc. New York, 1920)

Rosemary Theby in Who's Who on the Screen (1920)
Rosemary Theby in Who’s Who on the Screen (1920)

「銀幕名鑑」でユニヴァーサルで女優業を始めたとありますが、同社との契約(1915年)以前からヴァイタグラフ社の短編に多く主演・助演を重ねてきた長いキャリアの女優さんです。

Rosemary Theby in The Bachelor's Baby, or How It All Happened (1913)
『The Bachelor’s Baby, or How It All Happened』
(1913年、ヴァイタグラフ社)より

早くから性格俳優の実績を積み上げていき、喜劇から社会派ドラマまで芸域を広げていきます。1918年のグリフィス作品『偉大なる愛』と1920年のハウディニ主演冒険譚『恐怖島』での助演、1919年のエキゾチックな名作『キスメット』でのヒロイン役など時代に流されぬ活動を見せ、トーキー以後も1940年にまで渡る貢献を果たしました。

[IMDB]
nm0857302

[Movie Walker]
ローズマリー・セビー

[誕生日]
4月8日

[出身]
合衆国(セントルイス)

[サイズ]
12.6 × 17.7cm

[撮影]
Hall’s Studio/1456 Broadway/New York