1921 – 9.5mm 『僧侶の特権なしに』(ジェームズ・ヤング監督、ボリス・カーロフ他出演) 米パテックス版

« Without Benefit of Clergy » (1921, Pathex Exchange, dir/James Young)
Late 1920s US Pathex 9.5mm Print

英領印度の街にアミーラという十六才の少女が住んでいた。家は貧しく、母親は返せなくなつた借金のかたに娘を売り渡そうとする。「豊かな生活をさせてくれる男がお前さんを待っているよ」、その言葉を信じて金貸しの家に向ったアミーラを待っていたのは貪欲な欲望に目を輝かせた薄汚い老人だった。

騙されたと知り、手を振り払つて逃げ出した女。騒動に気づいた通りがかりの英国人の青年技師ホールデンが仲裁に入る。助けられたアミーラの目にはホールデンが神様に見えた。青年もまたアミーラの心の美しさに引かれていく。ホールデンは市街地の一角に豪華な家を建て、アミーラをそこに住まわせるのであつた。

トウタという息子も得て、教会によって祝福はされなくとも二人の結婚生活は幸せに続いていた。だがそんな折に町を襲ったのがコレラの流行であつた。ホールデンが赴任先から戻ると罹患したトウタはすでに息を引き取ったところだつた。

町全体が病魔に侵され、通りには死者が倒れてゐる。妻の身を案じたホールデンは「丘の上に隔離された清潔な一角がある」とアミーラを連れて行こうとするが女は白人女たちの元に身を寄せることはできない、と断るのであつた…

文芸作家キプリングの短編を映像化したもので、英国領インド(現パキスタン)の街ラホーレを舞台とし現地の貧しい娘と英国人技師の悲恋を描いた内容。ヒロインを演じたヴァージニア・ブラウン・フェアーはユニヴァーサル社が発掘、西部劇を中心に売り出し中の新進女優でした。

植民地主義型のメロドラマでいかにも欧米圏から捉えた感じのステレオタイプな描写が多く見られます。さらに原作を忠実に再現しようとしすぎて映画そのものの流れが良くない個所も多々見られます。一方では異人種・異教徒間の恋愛の困難さ、格差社会、女性の性的搾取など原作の提起していた問題も描かれていました。

Boris Karloff as Ahmed (right)

また本作は『フランケンシュタイン』の主演俳優ボリス・カーロフの初期作品の一つでもあります。同氏は本作では英国人技師ホールデンに使えるインド人従者アフメドを演じていました。

本作は16ミリや35ミリでの保管記録や上映記録がなくソフト化もされてこなかった珍しい作品。米パテックス・エクスチェンジ社が公開した経緯から9.5ミリのカタログに含まれています。デビュー間もないヴァージニア・ブラウン・フェアー、ボリス・カーロフの姿を見れただけでも探し出した価値はあったかな、と。

[IMDb]
Without Benefit of Clergy

[Movie Walker]
僧侶の特権なしに

[公開]
1921年6月19日

[9.5ミリ版]
米パテックス版

[カタログ番号]
D25

ブランシュ・スウィート Blanche Sweet (1896–1986)

ブランシュ・スウィート嬢はシカゴで生れ加州バークレーカリッジにて教育を受けた。幼い頃から舞臺に立ち始めチェインシー・オルコット氏や他の著名役者と共演している。舞臺を離れ銀幕に移るやいなや初の出演作「ベッスリアの女王」で忽ちにその名を上げた。爾来、多くの寫眞に姿を見せ益々人気を高めている。他に比べるもののない魅力的な性格のスウィート嬢は映畫界随一の慕われ振りで、舊作の素晴らしい演技から更なる将来の飛躍が期待せらる。スウィート嬢はグリフィス監督が発掘してきた最初の花形で、現在はパテ社連作のヒロインを任されている。金髪碧眼。

『銀幕名鑑』(ロス出版社、1920年)

Blanche Sweet was born in Chicago and received her education at Berkeley College in California. She began her stage career at an early age, appearing with Chauncey Olcott and other stars. Deserting the stage for the screen she found fame at once, her first appearance being in « Judith of Bethula. » [sic] Since then Miss Sweet has added to her popularity in the great number of productions in which she has appeared. The singularly appealing personality of Blanche Sweet has endeared her to lovers of the best in motion pictures and her delightful impersonations in the past give promise of greater things for the future. Miss Sweet was D. W. Griffith’s first star. She is now starred by Pathe in a series of productions. She has golden hair and blue eyes.

Who’s Who on the Screen (New York: Ross Publishing Co., 1920.)

以前に1920年頃のパラマウント社でスチル撮影を行っていたカメラマン、ドナルド・キース(Donald Biddle Keyes)氏旧蔵のサイン入りポートレート群を紹介しました。こちらは同氏によるブランシュ・スウィート(日本語版ウィキは「ブランチ」表記ですが古い表記に従います)の写真。1924〜25年にMGM社の『スポーツの女神』に出演した頃の一枚だと思われます。

キース氏は綺麗さ、可憐さといったスター女優の「型」に被写体を落としこもうとはせず、素に近い表情や雰囲気を切り取るのを得意とした写真家でした。素を演じていただけだよと言われると身も蓋もありませんが、晩年にメディアに登場していた頃の姿は白髪で皺が増えた以外ほとんど変わっていなかったりします。

メアリー・ピックフォードの代わりとなり最後は逆にリリアン・ギッシュに取ってかわられるまでの5年の間、ブランシュ・スウィートはグリフィスと米バイオグラフ社の下に留まった。この三女優は演技スタイル、外見上の相違が大きく比較は出来ない。ブランシュ・スウィートは天上的な儚さを備えたギッシュと違ってふくよかな十代の少女だったし、ピックフォードの明快な個性も備えてはいなかった。その二人どちらと比べても自然な演技の出来る役者ではあった。

『サイレント・プレイヤーズ』
(アンソニー・スライド著。2002年、ケンタッキー大学出版)

Blanche Sweet was to remain with Griffith and American Biograph for five years, replacing Mary Pickford and, in turn, being replaced by Lilian Gish. The style and appearance of the three actresses is so diverse that it is impossible to compare one to the the other. Blanche is still a teenager with « puppy fat », unlike the ethereal Gish, and lacks the obvious personality of Mary Pickford. She is a more natural actress than either of the two.

(Silent Players: A Biographical and Autobiographical Study of 100 Silent Film Actors and Actresses, Anthony Slide, University Press of Kentucky, 2002.)

また『サイレント・プレイヤーズ』の著者が最初にコンタクトをとったのが彼女で、その後もイベントでのエスコート役など縁が続いたそうです。「気分の波が激しい典型的なサイレント花形女優」の形容からは振り回された様子も伝わってきますがそれでも文章に静かな愛情が漂っています。

[IMDb]
Blanche Sweet

[Movie Walker]
ブランシュ・スウィート

[出身地]
合衆国(シカゴ)

[生年月日]
6月18日

1914 – 9.5mm ヘレン・ホームズ主演『ヘレン・ホームズの花嫁争奪戦』(カレム社、J.P.マクゴワン監督)1970年代初頭 英ノヴァスコープ版

« The Conductor’s Courtship » (Kalem, 1914, dir/J.P. McGowan)
1970s UK Novascope 9.5mm Print

アレン氏は娘のゲイルを溺愛していた。愛娘の結婚相手には同じ駅に勤めてゐる整備工のビル君を…と考えていたのであるがどうも気に入らないらしい。貨物列車の運転士をしているトムが娘の周りをウロウロしていたため追い払う。男が娘にこつそり手紙を渡していたのには気づかなかつた。

翌日もまたトムがやつてきた。今回もアレン氏は追い払ったのだが、ゲイルは父の一瞬の隙をついて機関車に飛び乗った。トムの手紙の計画通りに駆け落ち成功。一瞬呆然となつたアレン氏、我に返るとビルに命じて機関車を用意させ娘を追い始めるのであつた。

つひに二人きりとなり喜んでいたのも束の間、線路の背後から迫つてくるもう一台の機関車。その先頭にはアレン氏の姿があつた。果たして若き二人の恋物語の命運や如何に。

1914年11月に始まった連続鉄道活劇『ヘレンの冒険』によってパール・ホワイトらと並ぶ連続活劇女王となったのがヘレン・ホームズでした。十数話の現存が確認されておりその一部は廉価版DVDでもまとめられています。

こちらの9.5ミリフィルムは1971年に英ノヴァスコープ社から発売されたもの。『ヘレンの冒険』と銘打っていますが実際はヘレン・ホームズが連続活劇デビューする半年前に出演した単独の初期作。全体としては屈託のないラブコメで、アクションやかっちりした起承転結はないものの自由奔放で快活なヒロインの設定は後にも引き継がれていきます。

ムービング・ピクチャー・ワールド誌 1914年6月号よりカレム社広告欄

1913~1914年前半は「連続活劇前夜」に当たります。以前に紹介したパール・ホワイトのクリスタル期短編がこの時期ですし、カレム社ではルース・ローランドが恋愛短編ドラマや西部劇で人気を博していました。一方カレム社は『若き女電信技手の勇猛』など蒸気機関車を扱った作品を得意としていました。これらの要素がまとまっていくことで無声期の連続活劇で最大規模(全191話)となる『ヘレンの冒険』が生み出されていくことになります。

また本作では父親が蒸気機関車の先頭に立って娘を追っている場面が印象的。似た構図をどこかで見た覚えがあるな…と思ったところ『キートンの大列車追跡』(1926年)でした。

[IMDb]
The Conductor’s Courtship

[Movie Walker]


[公開]
1914年6月23日

[9.5ミリ版メーカー]
英ノヴァスコープ社

[カタログ番号]
S1007

戦前の映画解説本・説明本・ストーリー集(2020年度総括)

今年は古い解説本を探していた覚えがあって手元に25冊程のミニコレクションができました。サイト内でデータがばらけてしまったので時系列(公開順)に並べてみます。20年代半ばから30年代初頭の盛り上がりも伝わってくるのではないでしょうか。最初に入手した作品が紹介できていないのでその辺は追々。

春江堂大活劇文庫に関しては国立国会図書館、またトーキー文庫については日本大学の芸術学部にまとまったコレクションが所蔵されています。


映畫文庫(湯川明文館)

1925年7月公開『剣の舞』(東亜、市川小文治主演、松屋春翠)
1925年11月 『雄呂血』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、二川文太郎)
1925年12月 『落武者』(松竹蒲田、森肇主演、清水宏)
1925年12月『魔保露詩』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、志波西果)


出版者不明

1925年12月〜26年1月『南蠻寺の怪人』(東亞、高木新平主演、長尾史録)
1926年2月 『傷魂』(東亜、1926年 – 高木新平・生野初子主演、長尾史録)
1926年2月 『孔雀の光 前編』(マキノ、市川右太衛門主演、沼田紅緑)
1926年2月 『尊王』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、志波西果)
1926年6月 『幕末』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、宇澤芳幽貴)
1926年6月 『侠血』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、門田清太郎)


瀧本時代堂

1929年7月 『此村大吉』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、山口哲平)
1929年7月 『月形半平太』(東亞、草間實主演、枝正義郎)
1929年8月 『冷眼』(右太プロ、市川右太衛門主演、悪麗之助)
1929年8月 『傳奇刀葉林』(帝キネ、市川百々之助主演、渡辺新太郎)
1929年8月 『大利根の殺陣』(東亞、嵐寛壽郎主演、後藤岱山)
1929年9月 『斬人斬馬剣』(松竹、月形龍之介主演、伊藤大輔)


トーキー文庫(映画研究会)

1930年10月 『九条武子夫人 無憂華』(東亞、鈴村京子・三原那智子主演、後藤岱山他)


大島印刷株式会社

1931年7月 『海江田譲二の高田の馬場』(日活、海江田譲二主演、辻吉朗)
1931年7月 『野に叫ぶもの』(松竹、 鈴木伝明・高田稔主演、島津保次郎)
1931年11月 『阿波十郎兵衛』 (帝キネ、雲井竜之介主演、寿々喜多呂九平)


大活劇文庫(春江堂)

1918年公開 『曲馬団の秘密』(The Iron Test、ヴァイタグラフ社)篠田緑水訳
1919年公開 『蛸の手』(The Trail of the Octopus、ユニヴァーサル社)麻生重人訳


活動文庫(榎本書店)

1921年公開 『キッド』(The Kid、チャールズ・チャップリン)
1921年公開 『ハリケンハッチ』(Hurricane Hutch、ジョージ・B・サイツ)
1922年公開 『血と砂』(Blood and Sand、フレッド・ニブロ)
1923年公開 『十八日間世界一周』(Around the World in Eighteen Days、リーブス・イーソン&ロバート・F・ヒル)


1917 – 『シーザーの御代』 セダ・バラ&サーストン・ホール直筆署名

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Theda Bara mid-late 1910s Postcard
(w/facsimile signature)

Theda Bara (as Cleopatra) 1917 Autohgraph

Thurston Hall (as Antony) 1917 Autohgraph

一千九百八年、アントアンヌ座で初舞臺を踏んだ。四年を経て米國へ歸ると直にフォックス會社と契約して映畫界に身を投じた。第一回の作品は、フランク・ボーエル氏の監督の下に井口誠氏などと共演した「馬鹿者」であつた。

嬢がヴァンパイア(妖婦役)女優として最も巧妙な技能を有して居る事を認められるに至つたのは、名歌劇「カルメン」を演じて以来の事である。ヴァンパイア女優多しと雖も嬢の右に出づる者は絶無だと云はれて居る。しかし、一千九百十六年に制作した「ロミオとヂュリエット」では、ヂュリエットを演じて相當の効果を収めたと傳へられて居る。

主な作品としては「クレオパトラ」「悪魔の娘」「オードリー夫人の秘密」「手管女」「巴里の花」などが列擧される。其他「サロメ」「カミル」「永遠のサフォ」「牝狐」「罪」「ヂュ・バリー夫人」「莫連女」など總て妖婦役ばかりである。最近に制作されたものには「光」「蛇」などがあるが、「蛇」は平尾商會の手に依つて先頃本邦に輸入されたが上場禁止を見越して米國へ送り返された。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、玄文社、1919年)

セダ・バラ嬢の妖婦振りが如何に深刻寫實的であるかは、彼女がサーペント(日本にも輸入されたが封切するに至らずして移出されたもの)が、彼女の生れ故郷の米國シンシナツチ市で公開禁止された、その理由は善良なる平和な家庭を破壊する虞があるからと云ふにあつた事でも證據立てられるほどである。

「セダ・バラの面影」『活動寫眞雑誌』1920年6月号(八展社)

そこでボーウェルは、まずグッドマンという善良なアメリカ市民の名前をセダ・バラという異国的な名に変えさせた。セダはシオドシアの略であり、バラは彼女の親戚の一人のバランジャーという姓からとった。だがそれだけではまだ足りなかった。そこでフォックスの宣伝員たちは額をあつめてすばらしい伝説をつくりあげることにした。その伝説によると、バラ嬢はフランス人の画家とアラビア女との間にサハラ砂漠の砂の上で生まれた。Baraという姓は実はArabをひっくりかえしたもので、Thedaという名はdeath(死)の綴りを組みあわしたのである。このアラビアの死のごとき娘は、もと東方の水晶占いに通じ深淵な呪術を心得た妖女である。

「セダ・バラの伝説」『映画スター小史』(岩崎昶著 自由国民社 1951年)

ヴァンプ女優の代表格として名を馳せたセダ・バラは現在でも熱心な愛好家を有しています。絵葉書やトレーディングカードすら検索にほとんど引っかかってこないのは驚くばかり。今回日本の活動写真コレクターがまとめて保管していた絵葉書を一括で入手できたので数年前に手に入れた直筆物の投稿にまとめていきます。

サインは2016年に入手。『シーザーの御代』(大正6年)の公開時、セダ・バラ(クレオパトラ役)とサーストン・ホール(アントニウス役)がシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』の書籍ページの切れ端にサインを残したもの。頭文字「T」を書くとき万年筆の先端が紙に引っかかった跡があります。

手元にある1セット以外にも同種のサインが現存、2015年頃にeBayで売りに出されていました。一点だけなら個人愛好家が気を利かせて…の可能性が高いですが、複数点ある、しかも共演者が同席しているのは販促イベントで発生したと見るのが妥当かなと思います。

「セダ・バラの伝説」の紹介は手厳しいもので「美しくもなかったし、芝居もできなかった」の評価を下していました。実際、1910年代のセダ・バラ現象はフォックス社プロモーション戦略の産物に過ぎなかったと見ることもできるでしょう。それでもマーケティングの内情がこれだけオープンにされた今なお人々を魅了しているのは興味深いです。欲望や名声、若さや情熱すらたちまち消費されていく世界に何かを持ちこんできた、何かを残していった感はあります。

[Movie Walker]
シーザーの御代

[IMDb]
Cleopatra
Theda Bara
Thurston Hall

1915 – Super8 『呪の列車』(米ヴァイタグラフ社、ラルフ・インス監督) 英ペリーズ版

The Juggernaut (Vitagraph, 1915, dir/Ralph W. Ince)
1960-1970s UK Perry’s Films Ltd. Super8 Print


「おや」、工具を手にした点検技師は、木橋までやつて來たところで足をとめた。前回の点検では気づかなかつたが、ひどく朽ちた線路の枕木が今にも崩れ落ちさうである。「これは大変だ」、技師は踵を返して足早に報告へと向かう。

同時刻、一台の車が道端に停まつた。「お嬢様、申し訳ございません、タイヤがパンクしたようです」「いやねえ、こんな急ぎの時に…」「あちらの方向に駅がありますので」鉄道会社の令嬢ルイーズは父に頼まれた書類を届けようとしていた。運転手の言葉に從い木造の駅舎に向かう。「車が故障したので13時半の列車に乗りました」父宛に電報を一通したため、停車場に出るとちやうど機関車が着いたところであつた。

ルイーズの父親で、鉄道会社を経営しているフイリツプの手元に二通の電報が届いた。一通は娘からの連絡で二通目は線路異常の報告。「…おや?」、社長室の壁に貼つてあつた路線図に目を向ける。13時半の列車が向かう先には…枕木の崩れかけた橋が!「大変だ」、フイリツプは列車を停めるよう指示を出し、車へと飛び乗るのであつた。

危地に陥つた娘の身を案じフイリツプは車を急がせる、しかし列車は轟音とともに眼前を通り過ぎていつた。「かくなるうえは…」、湖を高速ボートで横断して先回りしようとする。白煙を上げ死へ突進していく呪ひの列車、はてさて、ルイーズ嬢と乗客たちの命運や如何に。

1915年のヴァイタグラフ社作品『呪の列車』は8ミリ文化が成熟した戦後に一度再発見されています。米ブラックホーク社版のスーパー8版と同時期に英国で市販されていたのがこちら。最終リールを編集した内容で物語のクライマックスとなる列車の転覆場面が含まれています。

タイトルや字幕はオリジナル版をそのまま使用。8ミリなのでさすがに細かな陰影は潰れてしまっています。16ミリベースのハーポディオン社新デジタル版と見比べると歴然ですね。それでも米ブラックホーク社の8ミリ版と比較するとクリアな画質でした。

『呪の列車』はヒロインが死地に追いこまれていくカタストロフ物でそこにメロドラマ要素を絡みあわせています。最終リールにそのエッセエンスが凝縮されているためこの場面だけでもある程度作品を理解することができます。

一方本作には親子二代に渡る因縁の物語が含まれていました。元々は1890年代と1910年代の出来事を前半後半でクロスさせた物語。両親の意向により相思相愛の男女が一旦は引き裂かれ、ヒロイン(アニタ・スチュワート)は望まずに鉄道会社社長の妻となり、娘を産んだ直後に若くして病死。20年経って母親と瓜二つに育った娘ルイーズ(アニタ・スチュワート二役)がかつての母親の恋人(アール・ウィリアムズ)と出会うことで運命の輪が再度開かれていく…という展開を取ります。

鉄道会社社長は自分の立身と幸福の為なら親友を裏切ることも厭わない人物として描かれていて、その強欲とエゴイズムが「呪ひ」を生み出し、最愛の妻の忘れ形見ルイーズの破滅をもたらしていく。1910年代の映画脚本としては最もギリシャ悲劇に近い構成になっていて、それを演者やスタッフが高い完成度で仕上げたからこその名作になっています。

本物の列車を湖に沈めて話題になった作品ではありますが、物語的な背景や必然性まで意識してみるとまた違った見方・評価ができるのではないかと思われます。

1915 – Super8 『呪の列車』(ヴァイタグラフ社、ラルフ・インス監督) 米ブラックホーク版

The Juggernaut (Vitagraph, 1915, dir/Ralph W. Ince)
Late 1960s US Blackhawk Super8 Print

こちらでは主にフィルムの話をしていきます。

初公開から5年経った1920年、ヴァイタグラフ社の旧作古典を振り返る企画がありその際に『呪の列車』が再上映されています(その際に本来5リール物だったのが4リールに編集し直されています)。確認できている限り一般向けに上映されたのはこれが最後となりました。1920年代には小型フィルムが普及し始めるもこの時期の米コダック社16ミリフィルムカタログに『呪の列車』の名はありませんでした。

状況が変わったのが第二次戦後、8ミリフィルムの文化が成熟してからでした。1960年代末、米ブラックホーク社を運営していたデヴィッド・シェパード(David Shepard)氏が本作の最終リールを8ミリ化し市場に投入、半世紀ぶりに本作を見ることができるようになりました。

このブラックホーク版は画質が悪いとされています。今回購入する際にその話は知っていて、確認のために綺乃九五式でスキャンをかけてみました(スキャン条件は同一)。その結果がこちら。左が米ブラックホーク版、右が英ペリーズ版です。

ブラックホーク版はコントラストが低く画面が暗くなっています。映写機で映すとさらに解像度が落ちるので目を細めても見えないレベル。批判は当たっているように見えます。

しかしよく見てみると英ペリーズ版はコントラストを無理に上げているため細部が潰れてしまっています。元ネガにあったグラデーションを残しているのはブラックホーク版でした。デジカメやスマホでの写真撮影もそうですが白飛びさせてしまうとその部分のデータが消えてしまうのに対し、暗い画像には陰影のデータが残っているので光量調整で何とかなる、の話と同じです。明るい光源(1500w位)と良いレンズで上映するならブラックホーク版の方が綺麗に映る可能性もあります。

箱にはフィルムだけではなく購入時(1975年11月28日)に発生した注文書コピー、発送記録の控え、72セント相当のブラックホーク社クーポン券が残されていました。

1915 – 『呪の列車』(ヴァイタグラフ社、ラルフ・インス監督) 米ハーポディオン社 2012年旧デジタル版 & 2017年新デジタル版

The Juggernaut (Vitagraph, 1915, dir/Ralph W. Ince)
2012 US Harpodeon Reconstruction DVD

アナログフィルム文化の衰退と共に『呪の列車』は再び忘却に埋もれていく運命となりました。世紀が変わり、デジタル文化の時代に同作を再度世に送り出したのが米ハーポディオン社でした。同社を運営しているW・ダスティン・アリグッド(W. Dustin Alligood)氏は2012年、ブラックホーク社が使用したのと同じ最終リールを元にDVDを発売しています。

2017年には新デジタル版を公開、オンラインストリーミング/DVD/ブルーレイの3つの形式に対応。今回は物理メディアは購入せずオンラインでデジタルデータのみ購入しました。

The Juggernaut (Vitagraph, 1915, dir/Ralph W. Ince)
2017 US Harpodeon Reconstruction Version

第5リールのみを扱っていた英ペリーズ版、米ブラックホーク版、ハーポディオン旧版と異なり、新デジタル版はジョン・グリッグス(John Griggs)氏の制作した「第4世代」の16ミリポジをベースにしていました。ダスティン氏によるブログの説明をまとめると以下になります。

第1世代)撮影時に発生したオリジナルの35ミリネガティヴ

第2世代)上映・レンタル用の35ミリポジティヴ

第3世代)ジョン・グリッグス氏個人製作による16ミリネガティヴ
レンタル用35ミリから16ミリネガを「自炊」した私家版。現存せず

第4世代)16ミリポジティヴ
数点現存。1点はイェール大学所蔵のジョン・グリッグス・コレクションに保管。
もう1点はフィルム収集家カール・マルケイムス(Karl Malkames)氏の死後に
ハーポディオン社ダスティン・アリグッド氏の手に渡る

第5世代)ハーポディオン社2017年デジタル版

ジョン・グリッグス氏は戦前から活動していた映画フィルム収集家。1930年代にレンタルで流通していた35ミリポジを入手、16ミリネガを作ってそこから複製した16ミリポジを発売、小銭を稼いでいたものです。数少ないこの私家版16ミリポジをハーポディオン社が入手しています。

染色プリントの美しさ、解像度の高さは一目瞭然ですがそれ以上に物語前半をデジタル化した功績が大きいのかな、と。初公開から百年以上が経過した2017年に初めて作品の全体像が見えたという話であって、このレベルにまとめあげたダスティン氏の情熱に敬意を表したいと思います。

【参考リンク】
Those Awful Reviews :ダスティン・アリグッド氏の個人サイト。『呪の列車』ジョン・グリッグス私家版ネガについて言及。それ以外にも面白い記事が沢山あって当サイトでも何度か引用しています。

Nitrate Ville:2016年に(当時まだ存命中だった)ブラックホーク社のデヴィッド・シェパード氏とダスティン・アリグッド氏が揉めた経緯を記録したスレッド。誤解に基づいた個人攻撃が含まれており、現在はスレッドが閉鎖され投稿できないようになっています。

1923 – 8mm 『国境の掟』 レオ・D・マロニー&ポーリーン・カーリー主演 米キャッスル社版 紫染色プリント

« Border Law » (1923, Leobee Films, 1940s Castle Films Tinted 8mm Print)

メキシコとの国境に近い町を保安官たちが守つていた。隊長の一人娘エレン(ポーリーン・カーリー)は若手保安官のチャック(レオ・Ⅾ・マロニー)に好意を寄せているが、奥手な青年は靡いてくれずヤキモキしている。ある日、町に瀟洒な身なりの男性がやつてきた。話を聞くと芸術家だという。エレンは男の車に同乗してチャック青年を嫉妬させようと試みる。青年は楽し気な二人の姿を見て落ちこむのであつた。

折しも隊長のもとに連絡がはいった。「ハンチング帽姿の男に気をつけろ」。芸術家と名乗つた男は荒くれ者のリーダーであった。そうと知らぬエレンは電話での男のやりとりを聞いてしまう。「お前さん、聞いていたな」、本性を現した男がエレンに襲いかかる。チャック青年が二人の争う物音を聞きつけ駆け寄るが、油断した一瞬の隙を突かれ椅子で打ちのめされてしまう。エレンは馬で逃れるが男は自動車で猛追してくる。はてさて、エレン嬢の命運や如何に。

米キャッスル社が1940年代に販売していた8ミリ版の西部劇で、B級西部劇俳優のレオ・Ⅾ・マロニーを主演にした一作。紫色に染められたコダック・プリントの映像がとても綺麗。

ヒロインの危地を救うため主人公の保安官が奮闘するありがちな設定ですが、マロニーの見せ場があまりなく物語はヒロインのエレン(ポーリーン・カーリー、以前にサイン物を一枚紹介済)を中心に回っていきます。縦ロール女子がリボルバーを振りかざして悪漢を威嚇する展開は胸が熱くなるものがあります。

1920年代、レオ・Ⅾ・マロニーは監督のフォード・ビーブ(後に『フラッシュ・ゴードン』連作で名を上げます)と組んで「レオビー映画制作会社」を立ち上げました。米国内配給をパテ・エクスチェンジ社が行っていたこともあり、レオビー社作品は1920年代後半に9.5ミリフィルム形式でも発売されています。『国境の掟』も米パテックス9.5ミリ版があるようでいつかキャッスル版と比較出来たら良いと思っています。

[原題]
Border Law

[IMDb]
Border Law

[公開]
1923年1月21日

[メーカー名]
米キャッスル映画社

[8ミリ版発売]
1940年代(1942年説あり)

[フォーマット]
スタンダード8、60メートル×1巻、紫染色コダック・プリント、無声

1929 – 『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』 米プロモ用プレス写真

『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』より

« La Merveilleuse Vie de Jeanne D’Arc » 1929 US Press Photo

現在フランスで祝典が行われているジャンヌ・ダルク400年祭に関連した忘れ難い出来事のひとつが、仏歴史大作映画『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』のオペラ座プレミア公開である。映画はジャンヌの生き様を生き生きと描き出している。この写真は軍馬に乗り、兵を率いてオルレアン解放に向うジャンヌの姿を写したものである。

A memorable event in connection with the Quincentenary of St. Joan, now being celebrated in France, is the production, at the National Opera House in Paris, of Great French Historical Film, « La Merveilleuse Vie De Jeanne D’Arc, Fille De Lorraine. » The film portraits graphically the life of the immortal Joan of Arc. Photo shows Joan of Arc mounted her charger, leading her troops to relieve the siege of Orleans.

合衆国で紹介された際のプレス用写真。映画中盤にジャンヌ・ダルク(シモーヌ・ジュヌヴォワ)が兵を率いてオルレアン奪還に向かう場面を撮影した一枚。解像度の高い写真ではありませんがVHSや9.5mmフィルムで確認しにくいエキストラの表情や衣装が写っています。

裏面に映画の紹介文をタイプ打ちした紙が貼られており、ニューヨークの「アトランティック写真(Atlantic Photos)」「1929年5月22日(22 MAY 1929)」のスタンプが押されています。

IMDbによると『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』の劇場公開は1929年11月1日。その半年前の4月18日にパリ・オペラ座でプレミア公開されており、4日後の4月22日に文章がタイプ打ちされ、5月22日に写真が準備された流れになっています。

1925 – 9.5mm 『三頭の熊』(ウォルター・ランツ監督)実写併用初期アニメーション

Three Bears (« Dinky Doodle », Walter Lantz, 1925)
French Pathé 9.5mm Version Retitled « Un déjeuner sur l’herbe » (Odd reels/Imcomplete)

後に『アンディ・パンダ』や『ウッディー・ウッドペッカー』等の作品で人気アニメーターとなるウォルター・ランツがキャリア初期に手掛けたアニメ/実写併用連作”ディンキー・ドゥードゥル”(1924-26)。9.5ミリ小型映画が市販された時期と重なり子供向け娯楽作として人気を博し、多くの作品が仏語版9.5ミリ化されていました。

フライシャー兄弟の『インク壺の外へ』(1919~28年)、ディズニーの『アリスコメディー』(1923~27年)に追随したもので、アニメと実写のコミカルな連動にどうアイデアを組みあわせるか各アニメーターが腕を競っていました。

『三頭の熊』(Three Bears)はDVD版『世界アニメーション映画史 6 ウォルター・ランツ』(2006年)未収録で、本国アメリカでもデジタル化されていない珍しい一作。今回入手したフィルムは不完全(3巻物のうち最初の2巻のみ)で状態も良くないものですが、ほのぼのした味わいが面白かったです。実写で出演しているメガネ姿の青年は若き日のランツ氏本人です。

[作品名]
Un déjeuner sur l’herbe

[原題]
Three Bears

[IMDb]
Three Bears

[公開]
1925年7月19日

[メーカー名]
仏パテ社

[カタログ番号]
965

[9.5ミリ版発売]
1927年3月

[フォーマット]
10メートル×3巻(3巻目欠)、白黒無声、ノッチあり

ヘレン・ギブソン Helen Gibson (1892 – 1977)米

合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]より

Helen Gibson 1920 Autographed Photo

映畫界に這入つたのは、一千九百十四年にカレム會社に雇はれたのが最初であるが、數箇月後、豫て活劇女優として知られて居たヘレン・ホルムズ嬢が同社を去るに及んで、その後を受けて「ヘレンの冒険」を完成する事になつた。嬢が鐵道冒險女優として、米國の映畫界に異彩を放つやうになつたのは、その以後の事である。目下はカレム社を去つてユニヴァサル會社に勤めて居る。

パリの音楽高等師範学校に入学、ジュール・トルフィエに師事するが程なく演技の勉強を離れ、1918年に映画初出演となる2作『他人の妻』『殺したのは誰だ』撮影に参加した。

嬢は本名をヘレン・ローズ・ギブソンと云つて、少女時代は兎も角も、今では其名のローズと云ふ綴字が示して居る通り、如何にも温順で極く内気な人であると云はれて居る。しかし、自分の仕事に對しては、至つて忠實で、あれ程の大冒險を、物の數とも考へて居ないさうである。自分がカメラの前で演じて居る事を、世間の人は何故あんなに珍らしがつて騒ぐのか解らないと、嬢は語つて居る。

『活動名優寫眞帖』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)


サイレント時代の連続活劇で最も長く続いたのが『ヘレンの冒険』(Hazards of Helen、カレム社、1914〜17年)です。アクション系ヒロインと蒸気機関車の鉄板の組みあわせは多くの心を鷲づかみにし計119エピソードが製作されるまでに至りました。

初代「ヘレン」を演じたのがヘレン・ホームズ(1892-1950)で、彼女はパール・ホワイト等に先行する女性連続活劇ヒロインとしてハリウッド史上に名を残すことになります。しかしすぐに自身の映画会社を立ち上げて離脱、過渡的な代役(エルシー・マクリード)を経た後、正式に「二代目ヘレン」として紹介されたのがヘレン・ギブソン(1892 – 1977)でした。

嬢は自身を「危難のスペシャリスト」と評し、とりわけ機関車でのアクションを得意として居る。[…]

最近の『断線』に切れた電信線を掴んで宙づりとなつた嬢が列車の客席に飛びこんでいく場面があつた。先の作品同様、機関車は恐ろしい速度で進んでおり、嬢はリハーサル中にタイミングを見誤り列車とあわや衝突の事態に相成つた。落下して意識を失い車輪がすれすれの距離を通り抜けていく。一ヶ月以上に渡る入院を余儀なくされたが退院を果たした嬢は果敢にも撮影に再挑戦し見事成し遂げてみせたのである。

「死と戯れる娘たち」クレイトン・ハミルトン
(『ピクチャープレイ・マガジン』1916年5月号)

馬の曲乗りなどを披露していた経歴の持ち主で技術的ハードルを難なくクリアし、途中から脚本にも絡むようになります。『ヘレンの冒険』終了後はユニヴァーサル社で活動を続けますが事故の影響などもあって同社を離脱、スタントなど脇役での出演が中心となり表舞台からは姿を消していきました。


[IMDb]
Helen Gibson

[Movie Walker]


[出身地]
合衆国(オハイオ)

[誕生日]
8月27日

[撮影]
Witzel L.A.

[データ]
12.7 × 17.5 cm

ファニー・ワード Fannie Ward/Fanny Ward (1872 – 1952)

「 合衆国・カナダ・オーストラリア [USA/Canada/Australia]」より

ファニー・ワード1927年の直筆サイン入り絵葉書
Fannie Ward 1927 Autographed Postcard

嬢をして今日の人氣を博せしめた作品は、一千九百十四年に、早川雪洲氏やヂャック・ディーン氏などと一座して撮影した日本劇「チート」である。この映畫を製作して以来、嬢は米国映畫界の首腦女優となつた。

爾来、「テネッシーの赦罪者」「國防の爲めに」などを撮影して、益々名聲を昂めたが、昨年の始めに、パセ會社のエストラ映畫の專属女優となつた。

目下は、ラスキー會社の初舞臺當時に戀に落ちたヂャック・ディーン氏と結婚して、幸福な樂しい生活を送って居る。

當年四十四であるけれども、尚未だ二八の少女のやうに、若々しい容貌と豊かな肉體とを持つてゐる。嬢が斯界に喧傳される所以も一つには、この絢爛たる名花の趣を備へて居る爲めである。しかし、技藝そのものから云つても、嬢は優に大花形の中に加へられるだけの天分を持つて居る。

『活動名優寫眞帳』(花形臨時増刊、大正8年、玄文社)

Fannie Ward in Cheat
『チート』でのファニー・ワード

1910年代にハリウッドで花形となった女優としては最も芸歴の長い一人で1890年代にはすでにブロードウェイの舞台に立っていました。英米を股にかける形でキャリアを積み上げていくものの、1910年代半ばに舞台での人気が翳りを見せる中でデミルの要請に応じて映画女優に転身。1915年公開の『チート』(ラスキー社)でトップ女優の仲間入りを果たしました。

その後しばらくラスキー社花形として活動、1918年にパテ社傘下のアストラ社に転籍。パテ社が「特選長編(Extra-Selected Feature)」として配給した第一作がファニー・ワード主演の『お雪さん(A Japanese Nightingale)』でした。

日本人から見ると不自然なセットや設定が目につきますが当時の欧米の観衆はエキゾチックな魅力を感じたようです。1922年には3リール物の短編に編集されて再公開されるという当時としてはやや珍しい運命を辿った一篇です。

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ムービング・ピクチャー・ワールド誌1918年8月17日

1920年代半ばに米パテックス社が9.5ミリ小型映画を市販し始めた時『お雪さん』が9.5ミリ化されたのもこの延長上にあります。ファニー・ワード出演作では実はもう一作『ミュージックホールでの初舞台』という作品が仏パテ社から9.5ミリ形式で販売されていました。短い抜粋ですが『チート』でも『お雪さん』でもありません。「遺失」作品の一部ではないのかなと気になっています。

サイン物は今回が2枚目の入手。絵葉書サイズのカードに名前と「1927年」の年号が手描きされています。もう一枚は仏シネマガジン誌のプロマイド写真で裏面に日付、仏語メッセージ、名前、住所が書かれています。

Fanny Ward's French Inscription dated Aug. 10 1921

謹しんで、1921年8月10日
ファニー・ワード
シャンゼリゼ通り114番

Sincèrement à vous, 10-8-21
Fanny Ward 114 Av. des Champs-Elysées

[IMDb]
Fannie Ward

[Movie Walker]
ファニー・ワード

[出身地]
合衆国(ミズリー)

[誕生日]
2月22日

[サイズ]
8.6 × 13.6cm(撮影:「S. Georges of Green St. W.C.2」)
17.2 × 23.8cm(シネマガジン製ポートレート写真))

ビリー・バーク Billie Burke (1884 – 1970) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

ビリー・バーク 1909年頃直筆サン入り絵葉書
Billie Burke c1909 Autographed Postcard

ビリー・バークは1939年の名作ミュージカル『オズの魔法使い』出演で多くの人々に記憶されています。主人公ドロシー(ジュディー・ガーランド)を導いていく「北の良い魔女」グリンダです。

Billie Burke in The Wizard of Oz
『オズの魔法使い』でのビリー・バーク

魔女グリンダの性格設定は(おそらく非現実の世界にしか存在しない)「包容力のある美しき母」でした。ビリー・バークの温かみのある、時にユーモラスな演技はあの役柄にマッチしていて他の女優さんでは替えが効かないのではないかと思います。

その芸歴は長く1900年代に舞台デビュー、若くしてブロードウェイの人気者になります。1910年代に映画に進出、パラマウント社初の連続劇『グロリア物語』(1916年)主演で成功を収めています。1914年には興行界の大物フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニアと結婚しており二人のロマンスは後に『巨星ジーグフェルド』(1936年)として映画化もされました。

Billie Burke in Motography Magazine 1916 April 29 Issue
モトグラフィー誌1916年4月29日号より『グロリア物語』の先行予告スチル

彼女は良く知られた美人さんというだけでなく、他に例を見ないほど完璧に演技の修練を収め、人を引き寄せる魅力に高潔な心、並々ならぬ人間力を備えている。その動きに見られるしなやかな才能は例外的と言ってよいだろうし、「銀幕値(スクリーン・バリュー)」も備えているのだがそれが「銀幕の天才」と呼べる位に達している。(モトグラフィー誌1916年4月22日号より。『グロリア物語』原作を手掛けた作家ルパート・ヒューズのインタビュー)

She is not only a famous beauty, but an actress of unusually thorough schooling and magnetism, high spirit and peculiarly human appeal. She has also an extrordinarily flexible pantomimic gift, and what is known as « screen value, » to a degree that might be called « screen genius. » (Rupert Hughes Interview in Motography Magazine 1916 April 22 Issue)

『オズの魔法使い』は技術・技法的に、そして美学的にも戦前ハリウッドの集大成と呼べる一作でした。そこに初期ブロードウェイやサイレント映画時代の経験値を持ちこんでいたのがビリー・バークだった、と見ることもできます。

サイン入りの絵葉書は英ロータリー・フォトグラフィック・シリーズの一枚で、英国南部の町ボーンマス在住のS・マクブロック嬢宛に送られています。消印はロンドン局1909年5月26日付。もう一枚同嬢が所有していたサイン無しの絵葉書とセットで入手したものです。

[IMDb]
Billie Burke

[Movie Walker]
ビリー・バーク

[出身地]
合衆国(コロンビア)

[誕生日]
8月7日

[データ]
8.8 × 13.7 cm

1913 – 16mm グヴェンドリン・ペイツ主演 米パテ社作品『凍てついた道の果てに(The Frozen Trail)』

Gwendoline Pates from 1913 Motion Picture Story Magazine January Issue
グヴェンドリン・ペイツ
『モーション・ピクチャー・ストーリー・マガジン』1913年1月号グラビアより

或る町にうら若き乙女マドレーヌ(グヴェンドリン・ペイツ)が住んでいた。この娘に想いを寄せる男が二人、ジョンとチャーリーの兄弟であつた。チャーリーは性格に難があり、かつとなると何をしでかすか分からない男であつた。マドレーヌが心を決めた相手はジョンであつたが、さうと知つたチャーリーは血相を変えて娘を責め始めた。やつてきたジョンと取っ組みあいの喧嘩が始まる。「二人でこの街を離れよう」、ジョンの言葉に娘はうなずいた。マドレーヌは荷物をまとめジョンとともに町を離れるのであつた。

五年後、アラスカの自然に取り囲まれながら、小さな丸太小屋で娘と暮らしている夫婦の姿があつた。貧しくはあつたが幸せであつた。或る日、二人の住み家から少し離れた酒場に無精ひげの男がふらり姿を現した。五年の間マドレーヌたちを探し続けたチャーリーであつた。酒場で得た情報を元に夫婦の家に向ったが、あいにくに天候に阻まれ遭難、ちょうどそこを通りかかったジョンに助けられた。

ジョンは仇敵の兄を助けたとは露知らず、男を小屋に連れて帰った。マドレーヌの懸命な介護のおかげでチャーリーは一命をとりとめる。しかし悪漢の心に感謝の気持ちはなかつた。夫婦が出かけた隙に犬ぞりを用意し、戻ってきたマドレーヌを拉致しようと試みる。驚いて自室に逃げこんだ女。男はマドレーヌの娘を人質にとり、自らの素性を明かして女に出てくるよう促した。子供の命には代えられず、マドレーヌは部屋の鍵を開けた。チャーリーは女を抱え上げると犬ぞりに放りこんで一路町を離れた。

自宅に戻ってきたジョンの気がついた異変。妻が見知らぬ男と駆け落ちしたと勘違いしてしまう。猟銃を手に追いかけていく。幸いにも愛娘を取り返すことはできたが、後の二人は手の届かない先へと消えてしまっていた。

ところがである。しばらくして丸太小屋の外で物音がした。扉を開けると妻が倒れていた。「何をしに戻ってきた」、ジョンの言葉は冷たかった。「雪に埋もれて死んでいるのはあなたのお兄樣ですのよ」。マドレーヌの蒼白な唇から放たれたのは驚くべき言葉であった。「あの方は私が貴方を愛しているのを逆恨みしてやってきたのでございます。たつた今…撃ち殺して参りました」。女は証拠として一枚の写真を取り出した。それはかつて、幼き頃のマドレーヌがジョン宛に送った自身の写真であつた。真実を知つたジョンは妻と娘をかたく抱きしめるのであつた。

◇◇◇

パテ社監督のレオ・ウォートンはサラナックレイクへのロケを目論んでいる。大規模なスタッフを同行予定で、チャールズ・アーリングとグヴェンドリン・ペイツが含まれている。雪景色を添えた大掛かりな長編映画が出来上がる予定である。(モーション・ピクチャー・ストーリー・マガジン1913年3月号)

Leo Wharton, Pathé director, contemplates a trip to Saranac Lake Region. Wharton will take with him a large company, including Charles Arling and Gwendoline Pates, and will produce some large feature pictures with winter backgrounds. (The Motion Picture Story Magazine, 1913 March Issue)

1913年米パテ社公開の短編映画。この前後のハリウッドは新興映画社(ヴァイタグラフ、ビオグラフ、エッセネイ、クリスタル、タンホイザー、パテ・フレール、カレムなど)による群雄割拠の時代となっていました。各社が発掘してきた俳優たち(アリス・ジョイス、ノーマ・タルマッジ、フローレンス・ラバディ、ブランシュ・スウィート、リリアン・ギッシュ、ルース・ローランド、パール・ホワイト)も粒ぞろいで、1910年代を通じて活躍していく重要な才能がそろい踏みしています。

米パテ社が1911年に契約したグヴェンドリン・ペイツもまたそんな新進女優の一人でした。幼いころからボードヴィルで鍛えられていたため舞台慣れしていてすぐに同社花形に出世していきます。しばらくは自身と同じ「グヴェンドリン」をヒロイン名とした軽喜劇に主演、知名度が上がるにつれて本格的なドラマにも進出。雪景色のアラスカ(撮影は近場のサラナックレイク)を舞台とした2リール物の情念ドラマ『凍てついた道の果てに』主演を果たしています。

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監督はレオポルド・ウォートン。10代初めから自身ステージに登場しローラースケートの軽業を披露していました。俳優として米パテ社に合流後ほどなくして監督業に携わるようになり、グヴェンドリン・ペイツとチャールズ・アーリングを主演とした軽喜劇でヒットを飛ばすようになります。1914年にパテ社から独立。弟のテオドアと共にウォートン映画社を設立、同社作品をパテ社経由で配給していくようになりました。実力を買われ1914年にはルイ・ガスニエと共にパール・ホワイト主演の『拳骨』監督に抜擢、この作品の成功で連続活劇の道が開け、以後『ミラの秘密』(1916年)、『パトリア』(1917年)、『ベアトリクス・フェアファックス』(1920年)などの名作を製作・監督していきました。

『凍てついた道の果てに』はウォートンが1)俳優、2)短編喜劇監督、3)短編ドラマ監督、4)連続活劇監督とステップアップしていく3)に位置しています。『拳骨』で名を上げる監督がその一年前にどのような作品を撮っていたのか見えるという話であり、ハリウッド活劇発展史の一断片としても興味深いものです。

一方のグヴェンドリン・ペイツは1914年にはパテ社を離れ夫と共に自身の会社(グリュー・ペイツ・プレイヤーズ)を設立、舞台に専念していきます。元々運動能力が高かったようで、1914年秋にはパテ社の許可を得た『ポーリーンの危難』舞台版の主演も勤めていました。この後映画史から忘れられてしまうのですが、短期間ではありながらもウォートン作品のメイン女優として活躍した功績は強調されても良さそうです。

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マートル・ステッドマン Myrtle Stedman (1885 – 1938) 米

「合衆国・カナダ・オーストラリア」より

Myrtle Stedman 1925 Autographed Photo
Myrtle Stedman 1925 Autographed Photo

マートル・ステッドマン夫人は1888年にイリノイ州シカゴに生まれ、スターレツト夫人経営による同地の学校で教育を受けた。舞臺での長い活動歴を有した実力派の女優である。1912年に銀幕デビューする以前、劇場で音楽喜劇や軽いオペラ作品に出演して大きな成功を収めている。映画女優の始まりはかつてのゼリグ映画社で、以来一流プロデューサーによる製作会社のほぼ全てで何がしかの出演を果たしてきた。尊厳や忍耐力、温かみあるユーモアの感覚や芸術力が必要とされる大人の女性役でその力が発揮されており、あちこちのプロデューサーから引っぱりだこになつている。息子のリンカーン・ステッドマンは将来を嘱望されている若手男優である。趣味はハリウッドに構えた大邸宅のお手入れ。身長5尺6寸、体重は16貫900匁、金髪に淡い褐色の瞳を持つ。

『銀幕著名人録』(ジョージ・H・ドーラン社、1925年)

Myrtle Stedman from Famous Film Folk (1925)

MYRTLE STEDMAN was born in Chicago, Ill., in 1888, and received her education in Mrs. Starret’s School of that city. She has had a wide theatrical career, and is an accomplished actress. She has had a successful stage career, having appeared in musical comedy and light opera, prior to her screen debut which was made in 1912. Her screen debut was made with the old Selig Company, and she has since appeared in the productions of almost every first class producer, her ability to portray roles of matured womanhood, wherein proper dignity, bearing, humor and art are so necessary, making her services by all producers always in demand. Mrs. Stedman is the mother of Lincoln Stedman, himself a promising young actor. Her hobby is naturally the care of her pretty Hollywood bungalow. She is 5 feet 7 inches in height, weighs 140 lbs., and has blond hair and hazel eyes.

Famous film folk; a gallery of life portraits and biographies
(New York; George H. Doran company, 1925.)

1910年代初頭、ゼリグ社のウィリアム・ダンカン主演西部劇でヒロイン役に重用されその後ボスワース映画社の人情劇や活劇へ活動範囲を広げていきます。彼女の名前を映画史に刻むことになったのは、ハリウッド女性監督のパイオニアであるロイス・ウェバーの『偽善者』(1915年、ボスワース社)のヒロイン役でした。社会派の傾向を持つウェバーの作風は当時のハリウッドで異彩を放っており、挑発的で鋭利な美的感覚は今見ても新鮮さを失ってはいません。

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1915年『偽善者(Hypocrites)』より

ステッドマンは20年代になってもフレッド・ニブロ監督の『性』(1920年)、早川雪洲主演の『黒薔薇』(1921年)などで存在感を発揮。20年代中盤から助演が増えますが、母親役から老け役までこなしトーキーにも対応、30年代末に心臓発作で亡くなるまで四半世紀に渡る女優人生を全うしています。20年代初頭の出演作『断腸の笛』をYouTubeで見ることができます。

Myrtle Stedman in The Whistle (1921)
1921年ウィリアム・S・ハート主演作
『断腸の笛(The Wilstle)』より

[IMDb]
Myrtle Stedman

[Movie Walker]
マートル・ステッドマン

[出身地]
合衆国(イリノイ州シカゴ)

[誕生日]
3月3日

[データ]
22.7 × 17.8 cm. 写真面に「エリザベス(Elizabeth)」の宛名書きあり。裏面に旧所有者の書きこみが多数見られ、1925年7月にニュージャージー州在住のエリザベス・ライド・ウォーカーさん(Elizabeth Reid Walker)が受け取った旨が印されています。

1923 – 9.5mm ノーマ・タルマッジ主演作 『愛の唄』(The Song of Love)

1923 9.5mm Fleur des sables (The Song of Love) starring Norma Talmadge

サハラ砂漠では進駐フランス軍とイスラム系遊牧民の間に対立が起こっていた。「族長が息子と共に反乱を企てている」の情報をキャッチした軍部は若き士官レイモン(ジョセフ・シルドクラウト)をスパイとして送りこむ。そこで出会ったのが踊り子のヤスミナ(ノーマ・タルマッジ)とだった。当初は情報源に利用するつもりだったが演技は次第に本物の愛情へと変わっていく。ヤスミナをだまし続けている訳にはいかない、レイモンは自分がイスラム教徒ではないと告げ、傷ついた女を残して関係を絶つのであった。

族長たちによる謀叛は深夜に決行と相成った。「例のフランスのスパイは手酷く拷問してやれ。殺してくださいと自分から嘆願するほどにな」、殺気立った人々の会話を聞いたヤスミナはいてもたってもいられなくなりレイモンの元に向かった。残された時間は少ない、武装反乱軍たちはフランス軍の基地を今まさに陥落せんとしているところであった…

1910年代にヴァイタグラフ社を代表する女優となったノーマは映画プロデューサーと結婚後、自身の映画製作会社「ノーマ・タルマッジ映画社」を設立して拠点を移しました。

制約の多い大手を離れ自身のプロダクションで活動する例は大半が短命に終わったなかで、ノーマ・タルマッジ映画社は『復讐の灰』(1923年、フランク・ロイド監督)や『キキ』(1926年、クラレンス・ブラウン監督)などヒット作をコンスタントに発表し続け無声映画末期まで最前線での活動を続けていきます。

『愛の唄』も同社制作、合衆国ではファースト・ナショナル社、フランスではパテ社からの配給となりました。『シーク』(1921年)でヴァレンチノ人気が爆発していた時期に当たり北アフリカのエキゾチックな設定を組みこんでいます。

セットや衣装、ライティングに贅を凝らした出来で反乱軍と仏軍の抗争場面も大掛かりに描写されています。とはいえ制作費と完成度が比例しているかというとそうでもなく、型通りの戦争メロドラマを一通りなぞっただけで終わってしまっています。士官役ジョセフ・シルドクラウトは悪くないのですがノーマ自身の演技が大袈裟で、ヒステリックな空気が出過ぎていて興を削がれました。

1920年代となり若手が次々台頭する中でベテラン女優が様々な試行錯誤をしながら生き残りを図っていた様子は伝わってきます。1910年代と20年代の「壁」は相当に厚く、この壁を乗り越えた役者は僅かだったと思いあわせるなら健闘とも言えます。『老いらくの戀』と比べるなら、20年代特作より初期のヴァイタグラフ作品をお勧めしたいです。

[タイトル]
Fleur des sables

[原題]
The Song of Love

[公開年]
1923年

[IMDB]
The Song of Love

[メーカー]
仏パテ社

[メーカー記号]
804

[9.5ミリ版発売年]
1925年

[フォーマット]
9.5mm 無声 10m×6巻 白黒・ノッチ有

1913 – スタンダード8 『老いらくの戀(An Old Man’s Love Story)』(米ヴァイタグラフ社、ノーマ・タルマッジ主演)

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1913 - An Old Man's Love (Vitagraph) starring Norma Talmadge

マーシャム夫婦には見栄っ張りなところがあり、身の丈にあわない生活を続けているうちにいつしか家計は火の車となっていた。夫婦にとつての一縷の望みは美しく成長した一人娘エスター(ノーマ・タルマッジ)で、金持ちの男と結婚してさえくれれば…と食事中にも口にする始末であつた。

旧友である富裕な老人グレイソーン氏を招いたのはエスターとの結婚話を今度こそ決めてしまうためであつた。エスターには以前から心を決めた若者フランクがいたのであるが、両親を悲しませる訳にもいかず、心に悲しみを秘めながら老人の求婚を受け入れたのであつた。

フランクと会う事は普段から諫められていたため、若き二人の通信手段は木の幹をポスト代わりに使った手紙が全てであつた。エスターが婚約の件を手紙で伝えると、「君を失うのであれば僕はもう町を出る」の返信。絶望に打ちひしがれたエスターが木の幹にもたれかかって泣いているのを偶然見つけたのがグレイソーン氏であつた。若者たちの置かれた状況を理解したグレイソーンは一世一代の芝居を売ってみせるのであった…

タルマッジ姉妹の長女ノーマの初期主演作8ミリ版。家族の軋轢から生み出されてくるメロドラマになっています。途中でオチが読める単純な物語ながら役者が持ち役をカッチリ演じきっているため思った以上に心地よい作品となっていました。ノーマのお姫様ぶりも堂に入ったもので、ヴァイタグラフ社でアニタ・スチュワートと並ぶ花形だったのもうなずけます。

確認できた限り、以下の3つの形でデジタル版が市販されています。
『ノーマ・タルマッジ ヴァイタグラフ短編集』(グレープヴァイン社) Norma Talmadge Vitagraph Shorts
『俳優:ノーマ・タルマッジ希少作品集 第一巻』 The Actors: Rare Films Of Norma Talmadge Vol. 1
・米ハーポデオン社は自社サイトおよびアマゾン・プライム・ビデオでデジタル版を市販・公開中

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ハーポデオン社で公開されている市販動画のスキャン。

ハーポデオン社も8ミリベースでスキャンしているようです。

[公開年]
1913年

[IMDB]
An Old Man’s Love Story

[メーカー]
米ブラックホーク社

[メーカー記号]
810-34-819

[フォーマット]
Standard 8mm 200フィート (60m)

1920 – 連続活劇『虎の足跡』 (ルース・ローランド主演、1919年)ロマン・シネマ叢書・仏語版

亡き父の旧友でもある鉱山王ゴルドンを訪ね、ボストンに向かっていたベル・ボイド嬢は汽車で親切な青年ランデルと知り合いになつた。話を聞くとその鉱山王の下で働いている技師とのことであつた。

道中二人が仲良く話しているその時、件の鉱山王は秘かな策略を張りめぐらせていた。ゴルドンとベルの父親、そしてもう一人の友人の3人がかつてインドで交わし、3つに割いてそれぞれに持ち帰った「契約書」を集め直そうとしていたのである。自宅に招待したベル嬢を息子と結婚させて懐柔しようとしたが、嬢は何としても首を縦には降らなかつた。

このやりとりを物陰で聴いていたのは女中ヒルダであつた。女はゴルドン家を離れると鉱山労働者たちの集う一角へ向かつた。外国人労働者が大半を占める中、一人白人の男がいた。彼こそがかつてゴルドン、ベルの父親と共に契約を交わした「虎の面」であった。男はヒルダとその仲間に命じてベル嬢の拉致を試みる。危難に陥った嬢を救おうとするのは青年ランデルただ一人であつた…

1910年代後半~20年代初頭のルース・ローランドは米パテ社連続活劇の稼ぎ頭としてパール・ホワイトに肉薄する勢いを見せていました。『覆面の呪』『幽霊騎手』『虎の足跡』『ルスの冒険』『森林女王』など多くの作品が日本でも公開されています。しかしその出演作はほとんどが断片でしか現存しておらず、映画祭などで上映される機会も少ないため評価されにくくなっているのが現状です。

『虎の足跡』のフランス語小説版はスチル写真を多く採録。蒸気機関車を絡めた追跡場面、谷間に張ったロープでスルスルと移動していく場面など活劇の「お約束」がきちんと守られているのが分かります。作品中盤では悪漢が丸太で扉を破っているシャイニング風の展開もありますね。

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大手パテ社が配給を手掛け大々的に宣伝していただけあってセットや衣装もしっかりしています。猪俣勝人氏『世界映画名作全史 戦前編』では「名金」、「鉄の爪」と「虎の足跡」の3作が活劇枠で紹介されていましたが、日本の愛好家にも良い印象を残した作品だったようです。

Serial Squadronが公開している現存フィルム断片

[タイトル]
Le Tigre sacré

[出版年]
1920年

[出版者]
ルネサンス・ドュ・リーヴル

[叢書]
ロマン・シネマ

[ページ数]
240頁

[サイズ]
16.5 x 24.5 cm

[原題]
The Tiger’s Trail (1919)

[製作]
アストラ映画社

[配給]
パテ社

1920 – 春江堂書店・大活劇文庫『蛸の手』(The Trail of the Octopus)麻生重人訳

探偵大活劇『蛸の手』(春江堂書店、大正9年)
1920 – The Trail of the Octopus (Japanese Novelization, Shunkodo) Cover

「はい、少し斗りお願の筋があつてまゐりましたの。此の手紙を御覧下さい。」
 恁う云つてラスは一通の書面をホルムスに差し出した。ホルムスが何が書いてあるかと怪しみながら取り上げて目を通して見ると、「死の商標は旋て我々の手に返つて來るであらう、紫の短劍を有してゐる九人の博士は一人一人に片附けて行く。ケニヨン博士は殺されたから、今度はお前の番だ」
 として、紙の一陽に羊の蹄の印が押捺してある。「ははあ、一體之は什うしたんですか?。」事情を知らぬホルムスは、先ず事情の筋道を聞かねばならなかつた。ラス、スタンホープは遂に、ホルムスの懇望によつて父博士から聞かされた一伍一什の物語をした。

octopusoctopus

エジプトの砂漠で発見された「悪魔の商標(Devil’s Trademark)」を巡り、学者二人が諍いを起こし片方が殺害される。生き残ったスタンホープ博士は帰国するも、以来自分を見張る「二つの赤い目」に悩まされるようになったた。愛娘のルース(ネヴァ・ガーバー)は父を心配し、事件の解明を探偵ホルムス(ベン・ウィルソン)に依頼するも一足遅く、博士は何者かによって殺害された後であった…「悪魔の商標」を解除する9つの短剣は国内の学者たちの手に渡っており、その行方をめぐって探偵ホルムスと悪党たちとの激しい駆け引きが繰り返されていきます。

一部(第9章)を除いて現存が確認されており、なおかつDVDで市販されている連続活劇『蛸の手』(The Trail of the Octopus)の日本語版ノベリゼーション。元々は15章仕立てだった内容を春江堂版は11章に再構成。

表紙は蛸の足にからめとられる登場人物を描いたもので、裏表紙にまで絵が回りこんでいます。表紙を開くと見開きで拉致された女性を探偵と警官が追いかけているイラスト入り。その後大活劇文庫の他作品同様、映画からのスチル写真が4枚あしらわれています。

ネヴァ・ガーバーは無声映画の中期活劇を代表する女優の一人でユニヴァーサル社ではベン・F・ウィルソンと共演を重ねながら(『The Mystery Ship(1917)』『The Voice on the Wire(1917)』)、その後ハリー・ケリーの西部劇ヒロインとしても知名度を上げていきました。

[原題]
The Trail of the Octopus

[公開年]
1919年

[IMDB]
The Trail of the Octopus

[出版年]
1920年(大正9年)

[出版者]
春江堂書店

[ページ数]
248頁

[サイズ]
18.2 × 12.5cm