1931 – 大島印刷株式会社・活動文庫(その一)『野に叫ぶもの』(松竹、島津保次郎監督)

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悌二(ていじ:鈴木伝明「あの海岸を埋立てられたら漁家二千人の生活はどうなると思ふ」
健(たけし:高田稔)「知らん」
悌二「二千人の人間を殺してまで君は金を儲けたいのか」
健「儲けたい」
悌二は云ふことを知らなかつた。そして呆れたやうに見つめた。
健「世の中は力だよ、強いものが勝つて弱いものが負けるのは當り前のことだよ」
悌二は福原のこの變つた樣に涙ぐましく健を見て淋しく微笑した。

かつて大学野球で同じチームに属し共に戦った北條悌二(鈴木伝明)と福原健(高田稔)。二人の父親もまたビジネスでのやりとりがあったが北條銀行の破産の余波を受け無一文となった福原健の父親(藤野秀夫)が自殺。不況の世界をどう乗り切っていくのか、意見の大きく分かれた親友は決別した。

二人が再開したのは6年後だった。弁護士となった悌二は弱い人々のために戦っていた。海岸の埋立計画で漁師たちが困っていると聞きその助けに乗り出したが、埋立賛成派として資金援助したのがかつての旧友の健であった…

佐藤紅緑の同名長編小説を元にした前後編仕立ての松竹現代劇。初期はスポーツ俳優として鳴らした鈴木伝明を上手く生かす大学野球のやりとりに始まり、中盤以降は傾向映画色を強めていきます。高田稔の妹に澤蘭子、鈴木伝明の妹に及川道子を配し、藤野秀夫や岩田祐吉、鈴木歌子のベテラン勢が物語を支えています。

淺草に拠点を置いていた「大島印刷株式会社」が手掛けた活動文庫の一冊。大きさはB7(13×9センチ)でページ数は16。以前に紹介した瀧本時代堂の説明本に似ていますが一回り小さいです。

[JMDb]
野に叫ぶもの 青春篇
野に叫ぶもの 争闘篇

[IMDb]
Noni sakebu mono seishunhen
Noni sakebu mono sotohen

[出版者]
大島金四郎

[出版]
昭和6年(1931年)9月10日

[フォーマット]
B7(13×9センチ)、16頁、スチル写真5枚含む

1930年前後 – 9.5mm個人撮影動画 『沖縄』(亀甲墓、バーキ/竹かご、民家、農作業など)【6/7 追記あり】

「9.5ミリ動画 05b 個人撮影動画」より

1930年頃 日本・個人撮影動画『沖縄』
c1930 Okinawa (9.5mm Private Film)

以前にデジタル化した『かごめかごめ』と同じ東京帝大薬学部関連のフィルム群より。研究者が何らかの理由(研究会?フィールドワーク?)で沖縄を訪れ、一人が手持ちの動画カメラで現地風景を撮影したものです。時期は1930年前後。フィルムの長さは20m、コマ数は2200弱で、13コマ毎秒で再生すると2分40秒になります。細かく見ていくと:

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1)湾岸部に広がる民家が映し出されます。極小さく人影が見えます。

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2)亀甲墓

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3)暗転後に海岸部が映し出されます。自生している木々を撮影している感じがします。

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4)ややぬかるんだ広い道の左右にお店が並んでいます。路肩に乗用車が一台。カメラが移動していくと左手には「明治 リボンキャラメル」の看板が見えます。

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5)やや深めの籠を抱えた地元民が民家の奥に消えていく後ろ姿

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6)路上に立っている男性の姿

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7)天秤をかついだ少年

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8)海岸に沿った細い道、向こう側からやってくる女性の影、同時にカメラの前を横切っていく別な女性の横顔

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9)先のショットの細い道を角度を変えて撮影

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10)橋を渡っていく3人の女性の後ろ姿。頭の上にバーキと呼ばれる竹かごを乗せています

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11)同じ橋の上で、幼い弟と妹の面倒をみながら働いている3人の若い女性

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12)集会所か何かの建物。入口付近に自転車が一台。

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13)笠をかぶり畑仕事をしている地元民

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14)自生している植物

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15)研究所の同僚と思われる男性たち

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16)同僚たちが道なりに歩いていく後ろ姿、その先には中国文化の影響を感じさせる屋根の建物が見えます

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17)畑の脇に並んでいるサイロのような背の低い建物

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18)自生している植物(細長く先が尖った葉っぱ。ツルアダン?)

フィルムそのものには撮影場所が明記されていません。2)、10)、16)から沖縄の(市街地ではなく)農村部〜漁村部を撮影したと考えることができます。また3)、14)、18)など木々や野草を撮影した映像が見られます。薬草学を研究していたためこういった要素に反応しやすかったものと思われます。

古いフィルムで汚れやキズなどが目立ちます。一部を綺乃九五式でスキャンし、その後デジタル修復したのが下の動画です。スキャンは2400×1800ピクセルで行いましたが抜粋版は1200×900まで画質を落としています。

1930年頃 日本・個人撮影動画『沖縄』

沖縄の戦前写真については時折メディアに取り上げられていますが、個人が撮影した動画は珍しいと思われます。撮影した正確な場所は分かりませんが、戦前の沖縄史に詳しい方であれば特定できそうです。

同時期の視覚資料として、国立国会図書館のデジタルアーカイブに収められていた
『沖縄県写真帖. 第1輯』(1917年、小沢書店)
『沖縄写真帖. 第1輯』(1925年、坂口総一郎)
『沖縄写真帖. 第2輯』(1925年、坂口総一郎)
を参考にさせていただきました。


【6/7 追記】

20200607-okinawa-times-01

「90年前の沖縄発見!」

2020年6月7日、沖縄タイムス紙で綺乃九五式スキャンによる動画『沖縄』を紹介していただきました。お時間を割いて対応してくださった編集部の皆様、および関係者の皆様に感謝申し上げます。同記事には本サイトでは特定できなかった詳細な撮影場所の情報が含まれています。この辺は専門家に任せるのが一番ですね。

補足の情報があるのでこちらで追記させていただきます。

昭和5年、朝比奈泰彦氏の下で学んでいた木村康一氏、新井俊次氏が『薬学雑誌』582号に学術論文「漢藥串羗の生藥學的研究」を発表、同論文ではシダの一種「ハカマウラボシ」を分析しており、その際に「琉球産ハカマウラボシ」のサンプルを比較対象として入手した旨の記述がありました。

上海品をハカマウラボシなりと決し得たるは日本羊歯類圖集の緒方正資氏より琉球産ハカマウラボシの生植物の惠與を得て比較解剖したるによるものなり。

「漢藥串羗の生藥學的研究」(木村康一&新井俊次、
『朝比奈泰彦及協力者報文集:
植物学生薬学之部』より、 昭和9-10年)

『沖縄』には野生の植物を映した次のショットが含まれています。

okinawa-sample

中央左の植物がメインの被写体に見えますが、実は手前に生えているシダも意識してフレームに収められています。昭和5年に朝比奈教授が地衣類の研究を本格化させ、その下で学んでいた研究者が沖縄に自生するシダに触れていた状況ともリンクする映像かな、という気もします。

もう一点、朝比奈泰彦氏の自伝『私乃たどった道』を読んでいて次の一節を見つけました。

地衣採集の布袋をブラブラさせて他の人々と一緒に活動している風景は私のパテーベビーのフヒルムに残っている。

(『私乃たどった道』、朝比奈泰彦、1949年、85ページ)

まさかのパテベビー登場。朝比奈氏自身が9.5ミリ動画カメラと映写機を所有しフィールドワークに活用していたのです。最先端のガジェットを趣味に仕事にとフル活用するのが同氏研究室では当たり前になっていたのでしょうね。

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事01キネマレコード誌 1914年10月号 『ジゴマール(第三編)』紹介記事02

過ぐる一九一一年九月エクレールは驚ろくべき活動寫眞のレコード破りの不可思議なる”ジゴマール”を作り世界各國にエクレールの名を成さしめたことは諸君に強く印象を殘されて居る所であらふ。第一篇より引續き第二篇(ジゴマールとニック・カルテー)は表われ前の福寶堂が輸入して未曾有の人氣を集め遂に”ジゴマ君”の名とあの顔とは誰も知らぬ者はない位荀も日本人たる者ジゴマを知らざる者は無い樣になつたのは實に奇性な現象で”ジゴマ”といふと今では”賊”といふ普通名詞になつてしまつた。以来警察は絶對に”ジゴマ”を禁止し名さへも許されずになつた。第三篇は昨年三月倫敦で發賣され直に日本にも輸入したが時しもジゴマ禁止の嚴命で出す所の騒ぎでない所からそのまゝ今日に至つたが、いくらジゴマ君でも日本の分ずやの〇〇〇〇君には凹まされて今日まで暗い日活の藏の中にとぢ込められてゐたが漸く九月末出獄して遊樂館に出ることになつたが、”Z”の名は使用をゆるされず、タイトルも ”A detective’s victory”(探偵の勝利)となり字幕全部タイプライターで日本製の幕に變更し、”ジゴマ”、”ポーラン・ブーケ”の名は”名知らぬ悪漢””某探偵”となり了つた、後は看客の御想像にまかせて置く。

ジャッセによるジゴマ三部作の最終篇(「探偵の勝利」、原題 »Le Peau-d’anguille »)が公開された際の紹介記事。

青少年への悪影響を理由に1912年10月にジゴマが上映禁止となった話は良く知られています。

兒童が探偵小説を耽讀して、窃盗になつたり汽車往生を遂げたりすることは甚だ多い。先年東京近郊の品川線に於て汽車を止めた兒童は、探偵が兇賊を追うて走りくる汽車に飛乗つたのを眞似たのである。また此間裁判の判決を仰いだ東京芝公園に於る少女殺しは、芝居を眞似て過つて一少女を絞殺したのであるといふ。その影響実に大なりといふべし。而て此等の影響は活動寫眞に於て最も大である。[…]

我國では東京に於て近年警視廳の訓令によりフィルムの種類を甲乙に分ち、甲種は十五歳以下の兒童に觀せない。又フィルムの検閲を行ひ、活動館内の座席を區別して、男子席、婦人席及び家族席としてゐる。

『輓近の児童研究』(関寛之、洛陽堂、1919年)

1912年帝国教育会は「活動写真取り締まり建議」を文部省に提出、また警視庁は「活動写真取り締まり規則」を制定、活動写真を甲種、乙種に分け、甲種は15歳以下を禁止としたのです。

『視聴覚メディアと教育』(山口榮一著、玉川大学出版部、2004年)

日本映画検閲史の記念すべき第一歩は作品上映を物理的に禁じただけではなく、「ジゴマ」の語そのものを社会悪とみなしNGワード化したという話でもありました。そこで映画業界側が「ジゴマで駄目ならジゴマールで行こう」と改名して切り返した展開となっています。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報 1912年9月 通巻第163号)

「『ジゴマ』/ヴィクトラン・ジャッセ [Zigomar / Hippolyte-Victorin Jasset]」 より

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平 著、日本實業新報1912年9月)

西洋の石川五右衛門といふジゴマは活動寫眞で大評判、以来ジゴマの眷属が八方に擴がつて、昨今では日本ジゴマなどが製造致されましたが初めは仏蘭西のル、マタン新聞に掲載された同國のサージ氏の作品が本物で其れを活動に仕組んでから雑多のジゴマが湧き出した譯で厶います、茲には其本ジゴマの内の極々面白い荒筋を伺ひまする。

「讀切新講談:ジゴマ」(久呂平、『日本實業新報』、1912年9月 通巻第163号)

「讀切新講談:ジゴマ」挿画

『ジゴマ』前後編(オリジナル三部作の最初の二作)が話題を呼び、一方で物議を醸していた最中に日本實業新報に掲載された一回読切のあらすじ紹介。冒頭に作者からの簡明な説明が置かれた後、『ジゴマ』『ジゴマ後編』の大筋を5段組み1頁にまとめたもの。中段に置かれた似顔絵が特徴をよく捉えています。

1920 – 春江堂書店・大活劇文庫『蛸の手』(The Trail of the Octopus)麻生重人訳

探偵大活劇『蛸の手』(春江堂書店、大正9年)
1920 – The Trail of the Octopus (Japanese Novelization, Shunkodo) Cover

「はい、少し斗りお願の筋があつてまゐりましたの。此の手紙を御覧下さい。」
 恁う云つてラスは一通の書面をホルムスに差し出した。ホルムスが何が書いてあるかと怪しみながら取り上げて目を通して見ると、「死の商標は旋て我々の手に返つて來るであらう、紫の短劍を有してゐる九人の博士は一人一人に片附けて行く。ケニヨン博士は殺されたから、今度はお前の番だ」
 として、紙の一陽に羊の蹄の印が押捺してある。「ははあ、一體之は什うしたんですか?。」事情を知らぬホルムスは、先ず事情の筋道を聞かねばならなかつた。ラス、スタンホープは遂に、ホルムスの懇望によつて父博士から聞かされた一伍一什の物語をした。

octopusoctopus

エジプトの砂漠で発見された「悪魔の商標(Devil’s Trademark)」を巡り、学者二人が諍いを起こし片方が殺害される。生き残ったスタンホープ博士は帰国するも、以来自分を見張る「二つの赤い目」に悩まされるようになったた。愛娘のルース(ネヴァ・ガーバー)は父を心配し、事件の解明を探偵ホルムス(ベン・ウィルソン)に依頼するも一足遅く、博士は何者かによって殺害された後であった…「悪魔の商標」を解除する9つの短剣は国内の学者たちの手に渡っており、その行方をめぐって探偵ホルムスと悪党たちとの激しい駆け引きが繰り返されていきます。

一部(第9章)を除いて現存が確認されており、なおかつDVDで市販されている連続活劇『蛸の手』(The Trail of the Octopus)の日本語版ノベリゼーション。元々は15章仕立てだった内容を春江堂版は11章に再構成。

表紙は蛸の足にからめとられる登場人物を描いたもので、裏表紙にまで絵が回りこんでいます。表紙を開くと見開きで拉致された女性を探偵と警官が追いかけているイラスト入り。その後大活劇文庫の他作品同様、映画からのスチル写真が4枚あしらわれています。

ネヴァ・ガーバーは無声映画の中期活劇を代表する女優の一人でユニヴァーサル社ではベン・F・ウィルソンと共演を重ねながら(『The Mystery Ship(1917)』『The Voice on the Wire(1917)』)、その後ハリー・ケリーの西部劇ヒロインとしても知名度を上げていきました。

[原題]
The Trail of the Octopus

[公開年]
1919年

[IMDB]
The Trail of the Octopus

[出版年]
1920年(大正9年)

[出版者]
春江堂書店

[ページ数]
248頁

[サイズ]
18.2 × 12.5cm

大正10年(1921年)『活動倶楽部』12月号

大正10年末に発売された『活動倶楽部』の12月号。冒頭は通常通りのグラビア。巻頭カラーはルイーズ・ラブリーで、メアリー・マイルズ・ミンター、ミルドレッド・ハリスなど当時日本でも人気の高かったハリウッド女優が並びます。

メイン企画が二つ。一つはアメリカ全土を騒がせていたロスコー・アーバックルによる若手女優過失致死事件。

[…] 直ちに當夜の嫌疑者と目すべきに充分なるアーバツクルに電報召喚状を發せるものなり。審問後ならざれば其死因を確かめ得られざれども記者の信ずる所によれば凌辱強姦の死因は疑ふに餘知なし。本事件は近來活動寫眞が我が米國に勢力を得たりし結果俳優連が益々有頂天になり社會に害毒を流しをり、はからずも今日彼等の極端な腐敗を社會に暴露せるものなり。

これを機會に我等ローサンゼルス市民は徹底的なる闡明を希望したし云々。(一九二一‐九‐十一日タイムス)

町の角の新聞賣りの少年等は『本日アーバツクル牢に入る』等と云ふ大聲の叫びを上げて居る。

「フアツテー女優殺しの眞相」ハリー・ウシヤマ

The Arbuckle Affair [Katsudou Kurabu 1921 Dec Iissue]
ファツテー女優殺しの眞相

「だがフアツテーは殺されない迄も死刑(リンチ)にされて了ふかも知れないぜ。桑港の人達は豪く興奮してゐると云ふからね…」のやりとりも紹介されています。事件発生から日が浅く情報が混乱している中、当初から映画を快く思っていなかった者たちが「それみたことか」の声を上げ、そうでない者までメディアに煽られ殺気立っている様子が伝わってきます。

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もう一つの企画は『活動倶楽部』発行人である森富太氏による『革新の時機臻る』と岡田宗太郎氏の『白日の下に曝されたる松竹キネマ』の2つの記事から成り立っています。

「革新の時機臻る」は映画誌が業界の内輪誉めをしている状況に危機感をいだき、ダメな物にはダメと言える編集方針に変えていきたい、という内容です。次の『白日の下に曝されたる松竹キネマ』が具体例となっていて、理論先行かつ採算を度外視した「素人」仕事が横行しているシステムを批判、小山内薫氏や村田實監督などを槍玉に上げていきます。次号でも「愈々(いよいよ)、筆鋒を進めて松竹キネマの内情を語」る旨の予告あり。

積み重なってきたものはあるのでしょうが特定の映画会社をピンポイントで攻撃するのは異例で、目に見えない何かの闇を感じます。

個々の記事で面白かったのが映画創始期から弁士として活動していた中川慶二氏による連載企画「活動寫眞今昔物語(其四)」。明治31年(1898年)頃の地方巡業の様子などが細かく綴られており、現場で奮闘していた人々の息遣いまで伝わってきそうな素晴らしい内容でした。

伊太利の國情は、由來日本と非常に類型的な傾向を持つて居ります。従つて両者の國民性には必ず、他に求め得られない共通點を多く享有する事を否定されないのです。[…] 

「あゝさらば さらば青春よ!」若樹華影

また1918年に公開されたイタリア映画『さらば青春(Addio giovinezza!)』の紹介記事。マリア・ヤコビニ主演、サイレント青春映画の秀作として知られている一作。Vimeoに置かれた抜粋動画は一見の価値があると思います。

イーフェン・アンデルゼン主演の『蛇身の舞』の評を見つけ、また谷崎潤一郎が制作した一連の映画では最後の作品となった大活作品『蛇性の婬』に触れた記事も収録されています。

] 映画の郷 [ 電子工作部:Python + Kivyによるスキャン画像修復システムを構築する(2)

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昨年末から作り始めているスキャン画像修復システムの進捗報告です。

フィルムによって、時によっては同じフィルムでも場面によってノイズの出方が様々で、一つのパターンだけ作ってはい完成!とはいかないな、と試行錯誤している感じではあります。それでも修復の精度は間違いなく上がっている実感があります。

数日前に手掛けていた日本の個人撮影動画の一部をGIFアニメにしてみました。

anigif
『初秋の頃』(9.5ミリ個人撮影動画、日本、1930年前後)

1976 – スーパー8 『阪妻 – 阪東妻三郎の名場面集』(大沢商会/テレキャスジャパン編)

「阪東妻三郎関連」より

1976 - super8 Bantsuma1976 super8 Bantsuma Back

1970年代半ばに発売されたスーパー8版のアンソロジー。中心となっているのは以下の6作で、それぞれ比較的長めの動画が引用されています。

『雄呂血』(1925年、阪妻プロ)


『影法師』(1950年、松竹)


『魔像』(1952年、松竹)


『破れ太鼓』(1949年、松竹)


『大江戸五人男』(1949年、松竹)


『あばれ獅子』(1953年、松竹)


この合間には1)初期作の短い断片、2)プライベートショット集、3)没後の葬儀の模様とお墓の映像が挿入されています。

フィルムの両端にやや劣化が見られますがビネガー臭や傷などの少ない綺麗なプリントです。フィルムの端を留めていたテープに「Yokohama Cinema」の文字が残されていました。

[タイトル]
阪妻 – 阪東妻三郎の名場面集

[メーカー]
企画・制作:テレキャスジャパン 提供:松竹 発売:大沢商会

[フォーマット]
スーパー8 白黒300フィート 磁器録音

大正10年(1921年)『活動花形改題 活動之世界 7月号:海の美人號』

表紙
映画雑誌の先駆けとして知られる『活動之世界』は1919年に廃刊となっています。大正10年(1921年)7月号の文字を見つけた時は二度見しました。「活動花形改題」?

この年、『活動花形』誌の編集体制が変わります。同誌を立ち上げた富田孝久氏が経営を退き、友人の齋藤芳太郎氏が社長に就任。

曾て大正五年一月より「活動之世界」を發刊せられたる井出正一氏と、井出氏の逝去の後井出夫人鈴木百合子氏に依りて繼續せられた活動之世界が、幾何もなくして廢刊の悲運に遇ひ、其後鈴木氏は映畫説明者の第一人者生駒雷遊氏に嫁したる爲め、再び活動之世界の出現を見る能はざるを遺憾とし、此處に活動之世界と改題した次第であります。

(「花形改題大發展に就きて」齋藤芳太郎)

井出氏元夫人で、すでに業界を離れていた鈴木百合子氏に許可を取った上での改題だったようです。意地悪な見方をするとブランド価値が残っている時点で名を乗っ取った展開ですよね。生駒雷遊との再婚話も含め、当時の映画雑誌業界の裏舞台が透けて見える興味深い内容です。

雑誌は「海の美人號」と題され水着姿を中心としたグラビアが前半1/3程を占めています。ミルドレッド・デイヴィスやノーマ・タルマッジ、マリー・プレヴォストなど現在でも名前が知られている女優たちが登場。ダグラス・フェアバンクスとの共演で知名度を上げていったアイルランド系のアイリーン・パーシーの顔も見えます。

記事では齋藤芳太郎氏による決意表明「花形改題大發展に就きて」、ヴァイタグラフ社の沿革紹介、ドイツ映画界の注目すべき女優紹介「正直なレンズ」、井上正夫主演『寒椿』作品評、読者による人気投票の中間発表が目を引きます。

映画を読み物化したコーナーには『陸軍のパール』『喘ぐ靈魂(ボディ&ソウル)』『寒椿』『甲賀伊賀守』の4作を収録。1921年はパール・ホワイト人気に陰りが見え始め、連続活劇から離れていた時期に当たります。愛好家が物足りなさを覚えているタイミングで唯一日本未公開だった『陸軍のパール』が封切られ盛り上がったようです。『甲賀伊賀守』は松之助の後期作で脇を固めるのは片岡松燕、長正、嵐瑠珀、大谷鬼若ら馴染みの役者たち。

呪文を稱へると二人の體は宙を飛んで今しも渡船を上つて意氣揚々として來かゝる團野逸平の行手を擁し忍術の極意を見せて奇々怪々の現象を演じ出し散々に逸平等を惱ました。

(『甲賀伊賀守』)

個人的な収穫は鈴木笛人氏による「独逸映畫界の今日此頃」でした。ハリー・ピール監督活劇『天馬』への言及を見つけました。

『天馬(てんば)』(ヴァイタスコープ社の作ルドウイツヒ・トロウトマンの演じたブラウン、探偵劇の中で最も成功したものです。戰前独逸探偵活劇の隆盛は此の映画の出現に依つて初まりました。)此の映畫程客を呼んだ映畫はありません。餘り頭腦の明晰でない-と云つては失礼かも知れませんが事實だから仕方ありません-活動屋さんも、此の『天馬』のことだけは末に記憶して居ます。そのブラウン探偵事トラウトマン氏は現在自社を設けて居ます。

『天馬』は『松竹8mmライブラリー 日本映画史 前編』に抜粋が収められていました。原題が不明だったのですが古い『キネマ・レコード』誌から1914年公開の「Die Millionenmine」だと分かりました。

また同氏は1914年の帝國館でスチュワート・ウェブス探偵劇を見ています。

丁度、ブラウン探偵の全盛期、ブラウン探偵の向こうを張つて、ウエツブ探偵といふのが現はれました。『地下室』と云ふ題で大正三年の夏頃帝國館で見た記憶がありますが、此のウエツブ探偵劇は『ヴエリタス』の作者ヨーエ・マイ氏コンチネンタル・クンストといふ會社-勿論、現在は此の會社はありません-に居た時書いたもので、主人公ウエツブ探偵は其の頃フランクフルトの新劇場に居たエルンスト・ライヤー氏でした。

此のウエツブ探偵は現在でも大活躍をやつて居ます。そしてライヤー氏は自らスチアート・ウエツブ映畫社を起し、最近では『大盗賊』六巻を完成しました。

(「独逸映畫界の今日此頃」鈴木笛人)

アスタ・ニールセンの『女ハムレット』が高く評価され、注目すべき新進女優にエルナ・モレナが挙がっています。第一次大戦によって独映画の輸入が途絶え情報がなくなっていたところに戦後、ドイツ映画再発見の動きがチラホラと。ウーファ社大作路線や表現主義でドイツの存在感が増していく前の段階ながら、すでに鋭い愛好家は「次に来るのはドイツ映画」と予感していたのでしょう。

他にも『カマルグ王』で触れた仏パテ社作品『戀のスルタン』寸評が含まれているなど、国籍を問わず良い作品が次々と紹介されていく勢い、活気が雑誌に漂っています。いつ頃まで続いたのか定かではないものの、新生第一号は『活動之世界』の名に相応しい充実した内容となっています。

1928 -『續水戸黄門』(池田富保)10枚綴り絵葉書セット

「池田富保 関連コレクション [Ikeda Tomiyasu Related Items]」 より

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昭和3年(1928年)に公開された日活オールスター作時代劇の販促品。

フィルムは一部現存していてDVD版も市販されています。二回見ていて、最初に見た時はよく分からなかったが正直な感想でした。面白い・面白くない、出来が良い・悪い以前の問題で、何をポイントに見ていいのか掴めないまま終わってしまった感じでした。

戦後TVドラマ版であれば水戸の御老公、助さん格さん等お馴染みのキャラを中心に勧善懲悪の予定調和を楽しむパターンが出来ています。同じ感覚で昭和3年版を見てしまうと外すのかなと思います。

絵葉書は10枚綴り。黄門一行(山本嘉一、河部五郎、尾上多見太郎)を中心としつつ他の役者も大きく扱われています。楠公の場面では久米譲と三枡豊が登場、海賊姿で啖呵を切る傅次郎の隣に梅村蓉子さんの姿があります。チンピラに絡まれているのは伏見直江さんで、酒井米子さんも町娘役で登場。黄門一行に難癖をつけてくる山賊には新妻四郎が扮しています。

当時の観衆もお気に入りの俳優の登場場面を心待ちにしていて一挙一動に盛り上がっていたのだと思います。その意味で典型的な日活オールスター時代劇。今の時点で完全版を見たら最初から最後まで楽しめる自信はあるのですが、この監督ならもっと高いレベルの映画を作る力があったのに、の複雑な思いも混じっています。

1923年頃 – 豆ブロマイド 『原色版・松竹キネマ 第二集』(女優篇)

c1923 - 豆ブロマイド 『原色版・松竹キネマ 第二集』(女優篇)

以前に紹介済みの『手彩色版小型ブロマイド』より少し後、『白黒版小型ブロマイド』とほぼ同時期、『松竹花形キネマカード』の2、3年前に出版された豆ブロ集です。水谷八重子さんと五月信子さんが同じセットに含まれているのは珍しい、とか洋傘を和装にあわせるのが流行っていたのかと見てるだけで楽しくなってきます。

c1930 – 9.5mm 『雪掻車の活躍』(伴野商店/鉄道省)

「9.5ミリ 伴野商店」より

映画と列車は浅からぬ縁があります。リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895年)を皮切りとし、ハリウッドでも『大列車強盗』(1903)や »鉄道活劇 »『 ヘレンの冒険』(1915-17)、キートンの『大列車追跡』(1926)など枚挙に暇がありません。

日本でも戦後8ミリの時代には多くの蒸気機関車がフィルムに収められて市販されていました。そういった傾向のルーツの一つとして、戦前の鉄道省が監修・製作した本作品を含めても良いのではないかと思います。

雪国の厳しい自然を背景にロータリー車やラッセル車、広巾雪掻車の実動している様子そして働く人々が映し出されていきます。


[原題]
雪掻車の活躍

[メーカー]
伴野商店

[カタログ番号]

[仏パテ社版カタログ番号]

[フォーマット]
9.5mm、無声、ノッチ有、20メートル

泉 春子 (1905 – 1998?)

「日本 [Japan]」より

izumi-haruko-autographed-postcard-mIzumi Haruko Autographed Postcard


吉村さだ子、明治卅八年九月長崎市生、舞臺生活の後マキノ等持院に入り時代劇に活躍す、マキノを去つて家庭の人となつてゐたが本年阪妻プロに入社「紫頭巾」

『現代俳優寫眞と名鑑』
(1927年11月5日、國民新聞附録)


マキノ~阪妻~東亜へと籍を変えていった女優さん。1928年の『坂本龍馬』に出演するも手元の9.5ミリ版に出演場面は収められておりませんでした。各社競作となった前年の『砂絵呪縛』では、原駒子や鈴木澄子と同じお酉を演じており、同社のヴァンプ女優的な位置づけをされてたのが分かります。

[JMDb]
泉 春子

[IMDb]
Haruko izumi

[出身地]
長崎県(佐世保)

[誕生日]
4月20日

[データ]
8.5 × 13.5cm

澤村春子 (1901 – 1989)

「日本 [Japan]」より

sawamura-haruko-autographed-postcard-mSawamura Haruko Autographed Postcard

「戦前・戦中 髙島栄一・康彰氏旧蔵の葉書群」より

澤村春子、1927年の残暑見舞い

川島実市氏の絵葉書帳より

澤村 春子(川島実市氏の絵葉書帳より)


明治四十三年北海道に生る。大正九年上京して小山内薫の松竹キネマ研究所を卒へて処女映画『路上の靈魂』に出演、後『山暮るる』に出演して退社し田中欽之の下で『春の命』を撮影し大正十二年の末日活に入る。同社では『白痴の娘』『街の物語』『血涙記』『月形半平太』『憂国の少年』最近では『下郎』『轉婚二重』の主演があり日活主腦女優に屬するスターである。趣味は乗馬、琵琶、讀書、三味線、琴、舞踊、の各方面。

『玉麗佳集』(1928年)


本名澤村春子。明治卅四年北海道に生る。裁縫女學校卒業。役所勤めなどの後女優を志し、松竹キネマ俳優學校を經て松竹蒲田に入社。二年の後大正十二年一月より日活に出演す。主な近作は「流轉」「斷魔閃光」「白井權八」等。身長四尺九寸五分。體重十四貫五百目。趣味は三味線、踊り、琴等。

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』
(1931年1月、冨士新年號附録)


ある日来客から「沢村春子のことが週刊誌にのっている」と教えられ、あわててその週刊誌を探しましたが、ついに手に入らずじまいになりました。たしか読売とか。それには「昔の映画スター沢村春子が苦労に苦労の末、いまでは自分の故郷近くの津軽の寒村で、うら寂しく一文菓子を子供相手に売っている」というのだそうです。[…]

想像どおり沢村さんは不幸の連続でした。要約すれば親類筋を浮草のように泊り歩き、年をとったのでどこでも使ってくれない、いまは他人の家の手伝いやせんたく物洗い程度の仕事をして、一人ぽっちの私はどうやら生きているが、この先どうなることやら、どうか笑って下さい、と結んでいます。

『髪と女優』(伊奈もと著、1961年)


映画の黎明期、無声映画のスターと云われた女優がいた。
沢村春子
女優にかけた思いを
浅虫で息絶えるまでの人生を、
三人の役者が演じる。

『驟雨激しく』 ―ある無声映画女優の生涯―
2011年6月17・18日青森県「ねぶたの家ワ・ラッセ」で
上演された舞台劇の宣伝文句より


日活が女優に本腰を入れ始めた初期から活動をしていた古参の一人で、1925年の女優揃えでも上座と思われる左端(左上位)に配置される評価を得ていました。切れ長の目でグッと堪えた悲劇調の役柄を得意とし、日活期の松之助作品ヒロイン(1925年『荒木又右衛門』池田富保監督)など20年代中盤の邦画界に功大なり。

『髪と女優』で紙数を割かれて述べられていたように、20年代後半の女優ブームの中で埋もれてしまい一時期は消息不明となっていました。晩年は青森で不遇な生活を送り80年代末にひっそりと亡くなっていますが、その後彼女の生涯を追った舞台劇が制作されています。

[JMDb]
稲田春子

[IMDb]
Haruko Sawamura

[出身地]
北海道

[誕生日]
1月20日

[データ]
8.6 × 13.7cm

9.5mm – 『日本雪景色』 Le Japon sous la neige (仏パテ社・1923年)

日本語字幕を付けてありますので画面下「字幕ボタン」を押してお楽しみください

6 films sur le Japon
Le Japon sous la neige (Pathé, 9.5mm)

仏パテ社が9.5ミリを市販化した最初の時点(1923年10月)で発売されたフィルムで、日本の雪景色にテーマを絞って様々な風景をまとめあげた一本です。

第一次大戦前の1910年代中盤から20年ごろ(大正初頭)にかけての複数動画をまとめたと思われます。雪に取られた足元を直している通行人の姿、軒先で竹馬に興じる子供たち、雪合戦など、おそらく当時の日本人にとって冬には当たり前の風景だったのではないでしょうか。むしろ海外の視線の方がその魅力に反応しやすかったのかもしれません。

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ゴーモン・パテ社動画アーカイヴには「VMJA 27 2830」の管理番号で編集順の異なった別字幕の35ミリ版が保管されています(竹馬の場面など収録されておらず)。「VMJA」は「街並みと建物/日本/時事(Villes et Monuments/Japon/Actualité)」の略のようで、他にも数本1910~20年代の映像をまとめた時事動画が制作されています。

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ゴーモン・パテ社動画アーカイヴス「VMJA 27 2830」より

またパテ社は1929年(昭和4年)にも同名タイトルのニュース短編を製作。1929年版は全体にモダンになっていて、洋装の人々がアイススケートに興じる場面なども収められています。

Le Japon sous la neige [1929 version]
1929年版『日本雪景色』(「PR 1929 52 3」)より

1912 – 9.5mm 『消えゆく民 アイヌの人々』(仏パテ・フレール社作品)

「9.5ミリ動画 05f 科学/歴史/地誌/産業」より

1912年末にフランスで公開されたほぼ同名の作品を9.5ミリ用に再編集したもの。この作品については海外の映像研究家が論文を発表(『オリエンタリア』2017年第17号)しているため、一旦そちらを参照させていただきます。

アイヌの民が登場してくるもう一つの1912年映像作品は『消えゆく民 アイヌの人々』(英題:The Hairy Ainos)で、パレ・フレール社の製作によるものであった。同社は1902年に映画技術の特許を購入、時事映像の分野でリュミエール兄弟の後を継いだ。忽ちにしてパテ・フレール社は当時最大の映画製作会社となり、1909年に日本にも拠点を設立している。『消えゆく民 アイヌの人々』は長さにして僅か三分足らずの作品である。冒頭ではチセ(アイヌ式住宅)の前に立った四人の男性、次いで四人の女性が映し出される。字幕により、アイヌの人々は大半が猟と漁で生活しているとの説明が入る。次の場面では、海を背景として女性と子供とが歩いてくる。さらに丸木舟に乗った二人の男性が登場。

『消えゆく民 アイヌの人々』が公開された時期、原初の映画術でもたらされた驚きはすでに乗り越えられていた。このパテ社作品には儀式などの伝統から一旦距離を置き、日常生活に密着したいとの意思を読み取ることができる。旧来の時事映像作品と違い、リュミエール兄弟の下でアイヌ民族を撮っていたジレル氏が描いた古い舞踏であるとか、その他の特徴的な要素は本作にない。その代わりとして、朽ちた小屋の前で子供をあやしている女性が登場するのだ。広角レンズで撮影された老人も儀式用の服は着ておらず、頭にラウンペはなく、髭もほとんど見ることはできない。

マルコス・センテノ=マルティン
「表象外の眼差し:初期映画におけるアイヌ民族の描写について」
(『オリエンタリア』2017年第17号)

The other film featuring the Ainu people in 1912 is entitled Un peuple qui disparaît, les Aïnos (aka The Hairy Ainos) and was produced by Pathé Frères Company, which had bought the cinematograph patents in 1902 and succeeded the Lumière brothers in the production of actulités. Very soon, Société Pathé Frères became the biggest film production company of the time, and in 1909, it established headquarters in Japan. Un peuple qui disparaît, les Aïnos, which only lasts for three minutes, begins with four men followed by four women posing before a chise and an intertitle explaining that the Ainu were mainly hunters and fishers. In the next scene, a woman and a child are seen walking with the sea in the background and afterwards, two men enter scene on a chip (Ainu canoe). […]

When Un peuple qui disparaît, les Aïnos was released, the astonishment produced by primitive cinema was already overcome. Pathé film demonstrated an interest to move away from ritualized traditions and a willingness to get closer to everyday chores. Unlike previous actuality films, this footage does not contain traditional dances or other distinctive elements depicted by Girel. Instead, the sequence features a woman and her child before a dilapidated hut; a wide shot framing an elderly man who does not wear the ceremonial clothes nor any raunpe on his head, and his beard can be hardly seen.

Centeno Martín, Marcos
“Gazes outside the Representation. Early Film Portrayals of the Ainu People (1897-1918)”,
Orientalia, issue 17, 2017, pp. 189-211

筆者センテノ=マルティン氏は実際に北海道を訪れ、アイヌ民族についてのドキュメンタリー映画(“Ainu. Pathways to memory”)も監督されている人物です。論考後半では、タイトルの「消えゆく」という表現が同時期にアメリカン・ネイティヴに使われていた(1925年出版のゼイン・グレイの小説『滅び行く民族(原題:The Vanishing Americans)』)点にも注意を促していました。

映画の発明当初から少数民族への興味は見られたものの、独自の踊りや入墨、髭といった表層的な関心が優先されていたのに対し、『消えゆく民 アイヌの人々』では生活に密着していく発想が顕著となり、結果として表現されている「リアリティ」の質が変化している、というのがセンテノ=マルティン氏の主張の一つです。

異文化との接触・理解は段階を置いて進んでいくものですし、当初の好奇の眼差しが次第に研ぎ澄まされていくという話は一般的に見ても分かりやすいのではないかと思われます。

[タイトル]
Les Peuple qui disparaissent. Les Ainos

[原題]
Un peuple qui disparaît, les Aïnos

[IMDb]

[メーカー]
仏パテ・フレール社

[公開]
1912年

[仏パテ社版カタログ番号]
1230

[フォーマット]
20m(1977フレーム、13fps、3分)、無声、ノッチ有

1930年代前半 – 9.5mm『海豹島の膃肭獸』 (伴野商店、樺太/オットセイ)

「9.5ミリ動画 05c 伴野商店」より

海豹島(露名、チェレニ島、ロッペン島)は樺太の東海岸、オホーツク海にうかぶ絶海の孤島で、敷香から海上八十浬、長さ二百五十間、幅三十間、全島第三紀の岩層からなる、テーブル状の小さな岩山の四周を、寂然たる砂浜がとり巻いている。

米領ブリビロッツ群島、露領コマンドルスキー群島とともに、世界に三つしかない膃肭獣(おっとせい)の蕃殖場で、この無人の砂浜は、毎年、五月の中旬から九月の末ごろまで、膃肭獣どもの産褥となり、逞しい情欲の寝床となる。[…]

明治三十八年、この特異な島が日本のものになると、猟獲を禁じ、樺太庁では、年々、この島に監視員を送って膃肭獣を保護していたが、四十四年に日米露間で条約(一九一一年の「膃肭獣保護条約」のこと)を締結する見通しがあったので、条約締結と同時に猟獲を開始することにし、同年夏、大工と土工を送り、膃肭獣計算櫓、看視所、剥皮場、獣皮塩蔵所、乾燥室などの急造にとりかかった[…]。

『海豹島』 久生十蘭
(初出: 『大陸』1939(昭和14)年2月号)
[青空文庫]

樺太東部に位置する海豹島は、時期になると数万頭のオットセイがやってくる繁殖地として知られていました。海岸を埋め尽くすオットセイの群れは壮観で多くの観光客が船でやってきていたそうです。

『海豹島の膃肭獸』はその戦前の様子を今に伝える映像です。前半は島の全景と、オットセイたちが映し出されていきます。後半は岩場に集うロッペン鳥が登場、最後は樺太庁による保護と捕獲の話題に転じ、海岸の社屋と海風にたなびく日本国旗の映像で幕を閉じています。

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また同地は戦前作家(北原白秋、林芙美子)も多く足を踏み入れていたようです。『ジゴマ』邦訳などで知られる久生十蘭は北海道出身で、「海豹島」と題されたミステリ仕立ての奇譚を残しています。

[メーカー]
伴野商店

[メーカー番号]
042

[フォーマット]
20m(約2分半)、無声、ノッチ有

1928 – 9.5mm 阪東妻三郎主演 『坂本龍馬』(枝正義郎監督、阪妻プロ)

「阪東妻三郎関連」より

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『雄呂血』『影法師』と並ぶ阪妻初期代表作の9.5ミリ縮約版。200mリール二巻仕立て。戦前~戦中期に信濃毎日新聞社のフィルムライブラリーが旧蔵していた品でリール側面に「貸出部」の印がありました。
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前半に当たる第一リールでは薩長同盟結成から後藤象二郎らを巻きこんで大政奉還に挑むまでの流れが描かれています。前半ハイライトは新撰組による寺田屋襲撃での立ち回り。足元をとられながらも屋根伝いに逃れ、お龍らが準備していた船に乗りこんで何とか一命をとりとめます。

第二リールとなり、大政奉還を促すため二条城に赴いた象二郎の帰りが遅くなり海援隊内部に動揺が走ります。「この上は二条城に乗りこみ、慶喜討つべし」と隊員が声をあげても沈黙を貫く龍馬。業を煮やした仲間が一人、また一人と去っていく中、龍馬がまさに決断を下さんとしたその時、象二郎が吉報を持ち帰るのです。

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第二リール後半は近江屋での龍馬暗殺を描いていきます。本作は京都見廻組による犯行説を採っており展開としては王道。ただ見廻組=実行犯説が定説化してきたのが大正期になってからですので、公開時にはまだ目新しい解釈だったのかなと思われます。

見廻組の佐々木只三郎(春日清)が名を偽って龍馬らに取次ぎを依頼、只三郎は返事を持ってきた下僕の藤吉(浪野光雄)を切って捨てると仲間を誘導し、龍馬と中岡慎太郎(春路謙作)を襲撃します。不意を突かれた龍馬は剣を抜く暇も与えられず、眉間に致命傷を負い、「身は死しても魂は…永久…皇国の…大海原を守護し奉る」と中岡に言い残して力尽きるのでした。

◇◇◇

9.5mm版の『坂本龍馬』はチャンバラと呼べる場面は前半の寺田屋しか見当たらず、それも決して派手な立ち回りではありませんでした。龍馬を剣豪、あるいはアクションヒーローとして扱おうとする意図はなかったと思われます。

また全長版でクレジットされている西郷隆盛や勝海舟は数秒のみ登場、女優陣(森静子、西條香代子、泉春子)の出演場面もカットされています。経済思想家、あるいは私人龍馬の姿はここにはありません。

30分弱に切り詰められたダイジェスト版で強調されていたのは、国の行く末を案じ、天皇主体の新たな日本を作るため組織間の調整に身を削り、夢半ばで倒れていく憂国の士、龍馬でした。

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端々のセリフ(「それは皇国に殉する言葉ではなくて」「将軍家に一矢を報ひ皇国の爲に気を吐きませうぞ」)から伺えるように元々の脚本にそういった側面は含まれていたようです。その意味では戦後に流布した無頼派で、海外の諸事情に明るく、超派閥的に時代を動かしていく自由人の龍馬像とは根本的に違った設定です。9.5mm版編集は1930年代に行われたため、時代の要請として皇国史観や滅私奉公の要素が強調された可能性は高いと思われます。

[原題]
坂本龍馬

[製作年]
1928年

[JMDb]
坂本龍馬

[IMDb]
Sakamoto Ryôma

[フォーマット]
9.5mm (ノッチ無) 200m *2リール

1928 – 9.5mm『輝く昭和聖代御大禮の盛儀』(伴野版)

「9.5ミリ動画 05c 伴野商店」より

昭和3年(1928年)11月に執り行われた昭和天皇即位大礼を収めた記録映画9.5mm版。今回入手したのは伴野版の二巻物(27番)ですが、同社が子供向けに発売していた「キードプレイ」9.5ミリシリーズのK5番として一巻物でも市販されていました。16ミリ版は横浜シネマ商会の「さくらグラフ」が200フィート六巻物を発売。国立映画アーカイブと山形県立博物館が35ミリ版を所有しています。

前編「東京御發輦ヨリ京都御着輦マデ」


まずは冒頭で大礼に使用される調度品が紹介されていきます。文官と武官用の纓(えい)二種(垂纓と巻纓)、小直衣(このうし)、萬歳旗など普段お目にかかる機会のない装束類が披露されていきます。

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11月6日京都に向け出発。神鏡を収めた御羽車、昭和天皇が乗車した6頭立ての馬車(「鳳輦」)、皇后の乗る4頭立ての馬車、皇族の乗る2頭立ての馬車…と続いていきます。

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東京駅を発つ御召列車が映し出されるとすぐに名古屋へ風景が切り変わります。名古屋離宮(名古屋城)で一泊されたようで城と名古屋駅(「日本ラインの秋色」)の姿を見ることができます。翌7日に京都着。京都駅前広場から御所へと向かう長い行列と、それを歓迎する観衆の映像で一巻目が終了。

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後編「大禮ノ都京洛ト伊勢大廟幷ニ御陵御參拝」

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11月19日に執り行われた大饗の儀が紹介され、「五節舞」が披露されました。この舞の場面は比較的長く収録されています。

その後伊勢神宮に行幸、さらに奈良の神武天皇陵、京都で孝明天皇陵、仁孝天皇陵、明治天皇陵への親謁の儀を進めていきます。11月25日に京都伏見桃山の明治天皇陵を訪れた天皇・皇后両陛下の姿で映像は幕を閉じました。翌日東京に戻り一連の儀式が終了します。

淡々と進んでいく行列と迎える民衆の熱気のコントラスト、大礼の全体像がスッと入ってくる要を得た編集で、単体のドキュメンタリー映画として見ても完成度は高いと思いました。

スナップショット歌人としての五月信子 (1894 – 1959)

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悪役によろしといはれ、たゝへられ
 わがいひしらぬもの思ひかな

皆様のみ胸に多く妖婦役としてのみ印されて居るわたくし。おもへば、多少のうら寂しい氣もちがいたさぬでもありません。至難な妖婦役への抱負の萌芽はその頃より、わたくしの胸に培はれてゐたのです。

(『五月信子』五月信子著、1925年)

1925年に公刊された自伝『五月信子』(こちらで閲覧可能)は芸名の由来、下積み時代の苦労話、映画女優となってからの発見など、キャリア初期の出来事を平易な言葉遣いで綴ったチャーミングな書物です。

靜かな散歩の疲れを、「葵」の二階で癒すのがまた堪らないよろこびのひとつでございました。

「砂漠の人影」におけるエルシー・ファーガスンを、「蛇苺」におけるポーリン・フレデリツクを、またはルイーズ・グロームやシーダ・バラの蠱惑的な微笑に、あやしくも胸を躍らすわたくしでございました。

「一頃は、あつばれ、キネマフアンを氣どつたこともありました」とあるように、銀座の金春館や赤坂の葵館に足しげく通って初期映画を楽しんでいたようです。「わたくしはよく、拙い歌にこれらのひとびとの印象をかきしるしておきました。今筐底よりひきだしてそれをみるのも多少の懐舊の情がないでもございません」(144頁)。彼女は和歌を趣味としており、この時期に映画俳優に想いを凝らした歌を多く詠んでいます。

泣き笑ひ君がするとき人情の
その哀れさにしみじみとす
(チャーレイチヤツプリン)

うな垂れて白夜にあつき喝(むね)の火を
つゝまひ居らむ小百合花
(リリアン・ギツシユ)

彼女の歌は技法的に凝ったものではありません。深い情感を伝えるでもなく特異な視点を持っている訳でもなく、強い個性を伺わせるでもない、折々の雑感をまとめたものが大半です。「拙い歌」はさすがに言い過ぎとしても「一流歌人」と称して良いレベルに達していない、とは言えるかもしれません。

Satsuki-Nobuko

それでも五七五七七で歌を紡ぐのが日常の一部になっていた様子は伝わってくるのです。そこには手を加えすぎていない、採れたての自然野菜のみずみずしさや素朴さがあります。五月信子さんにとっての和歌とはそうでもしなければ消えてしまう刹那の雑感を閉じこめ、結晶化させる極私的な手段だったのだと思われます。

大正期には優れた女流歌人が多く登場しており、原阿佐緒らは現在でも高い評価を得ています。彼女たちの歌人としての在り方はとても古典的で19世紀文学を多く引きずっているように見えます。『モデルノロヂオ』が素描きしたように他愛ない日常の断片が積み重なって時代を浮き上がらせていくのが「モダン」であるとするならば、無名の歌好きが引き出しに書きためていた歌たちもまた新しい時代のスナップショットとして評価されて良いのではないでしょうか。