1924 – 『浦邊粂子小唄集』(春江堂、キネマ花形叢書)

Urabe Kumeko : Songbook (1924, Shunko-do, Collection « Cinema Stars » )

春江堂が大正13年(1924年)に手掛けていた流行歌集のコレクション。14.2×10.5㎝、全80頁。

大正期~昭和初期の映画に興味のある方であれば、1923年公開の『船頭小唄』、翌年の『籠の鳥』を皮切りに展開された「小唄映画」の名に馴染みがあるのではないでしょうか。大正期のメディアミックスの流れの一つとして興味深いもので、近年になって幾つかの研究書、論文が発表されるなど再注目を集めているジャンルでもあります。

小唄映画の勃興は、日本における花形女優文化の誕生と時期を一にしています。浦邊粂子さんが日活作品の『清作の妻』で注目を浴びたのもこの大正13年(1924年)。春江堂によるキネマ花形叢書はこういった時代の流れに反応したもので、栗島すみ子を筆頭に8名の女優名を冠した小唄集を公刊。

(女) 指をさゝれよと恐れはせぬが 妾や出られぬ籠の鳥
(男) 世間の人よ笑わば笑へ 命がけした仲じやもの
(女) 命がけした二人が仲も 今は逢ふさえまゝならぬ
(男) まゝにならぬは浮世の定め 無理から逢ふのが戀じやもの
(女) 逢うて話して別れる時は 何時も涙が落ちて來る
(男) 落ちる涙は誠かうそか 女心はわからない
(女) うそに涙は流せぬものを ほんに悲しい籠の鳥

新籠の鳥

『浦邊粂子小唄集』と題されているものの、彼女に関係のある作品は『新籠の鳥』と『金色夜叉』だけで、その他の収録作品は「船頭小唄」(栗島すみ子主演作より)「水藻の歌」(同左)「戀慕小唄」(酒井米子主演作より)「闇の五本松」(梅村蓉子主演作より)と一人の女優に特化したものではありませんでした。他の女優編もおそらくは内容は同一で、表紙のみ差し替えていた可能性があるのかな、と。

こういった書物が時代やテクノロジーの変化に揉まれて後年の「映画主題歌集」に形を変えていきます。大正末期にはまだ「主題歌」の概念はなく音楽ソフトを再生できる環境(蓄音機)を備えた家庭も少数派でしたが、この手の冊子で歌詞を覚え、互いに教えあっていた風景というのがどこかにあったのだな、と想像させてくれる紙資料です。

1930年代前半 – 9.5mm 『廟行鎭肉彈三勇士模擬戰』(陸軍省撮影、伴野商店版)

「伴野商店」より

”Three Human Bombs, Sham Battle of Miao Hang Zhen” (1932)
Early 1930s Banno Co. 9.5mm Print

日本精神の精髄を外國までも傳へんとする意圖から、十六日の廟行鎭に於ける三勇士爆死實演の模擬演習は午前十一時半開始され午後一時終了した。日本義勇隊が支部兵に假装して支那塹壕陣地に着き、これに對し碇少佐の率ゆる一個大隊の歩兵は松下大尉引率の一個中隊の工兵掩護の下に鉄條網を越えんとして攻撃を開始し、小銃と地雷火、手榴弾など列爆中を三勇士は爆弾を背負つて鐵條網破壊に突進し、爆破作業を完了し、模造の三勇士の死體が空中に吹上げられるまで實に巧妙に演出された。陸軍省撮影隊の外フオツクス、ユニバーサルその他外國撮影會社も約五會社参加し、この感激的情景は完全にフイルムに収まつた。

「三勇士」模擬戰 – 各國撮影班を前に
キネマ週報 第百三號 昭和七年三月廿五日付


「大橋幸太郎主宰の軍事劇太陽団は、(中略)二十一日から二十八日まで八日間、昼夜二回南座で開演する。だしものは軍事社会教育連鎖劇「国の光人の妻」十三場(中略)昨年度陸軍特別大演習実況映画を映写する。特等八十銭、一等六十銭、二等四十銭。」(「大阪朝日新聞(京都版)」 4.17 ) ○「呼物は(中略)肉弾三勇士の鉄条網爆破の廟行鎮における模擬戦実写等いづれも一行の統率者大橋幸太郎氏が、講演する内容の一部として上場する時局中心の劇と映画である。」(「京都日出新聞」 4.20 )

昭和七年四月二十一~(二十八)日
京都南座 軍事社会教育連鎖劇『国の光人の妻』
近代歌舞伎年表京都篇: – 270 ページ

先日ご紹介した『復興帝都御巡幸』と同じ東北在住の9.5ミリ小型映画愛好家の旧蔵品。

肉弾(あるいは爆弾)三勇士については1932年3月初頭に映画会社6社競作でフィクション作品が発表されていました。こちらは陸軍省主導により実際の兵士を動員して「再現」した模擬演習を撮影したものです。

キネマ週報の記事によると1932年3月16日の昼に1時間半ほどかけて演習を実施。中隊長から命令の下達後、決死隊の青年兵に水盃が振る舞われ、その後煙幕に紛れ敵陣(廟行鎮/びょうこうちん)に進んでいきます。「勇壮なる哉三勇士 肉弾を以つて爆破」の字幕の直後に爆破による煙が立ち上がり、それを合図に兵士たちが突撃を開始。現場に立てられた木製の碑の映像でフィルムは終了。

鉄条網への突撃の場面に関しては敵地からの銃撃を避け、破壊筒を地面に置きながらしゃがみこむようにじりじりと進んでいく形で描かれていました。三兵士が大きな筒を小脇に抱えて勇ましく突進しているイメージが強いのですが、この作品の描き方はそういった一般に流布したイメージとは異なっています。

『廟行鎭肉彈三勇士模擬戰』が強調しているのは部隊全体による複合的なオペレーションです。煙幕を張る者たち、後方で掩護射撃を担当する兵士たち、鉄条網破壊後に突入を任されている面々が連携し、敵陣からの銃撃に苦労しつつも最後は攻略を成功させた。ただ、そのために若き兵士3名の命が失われた。当時のメディアによる過剰でいびつな神格化に対し、陸軍が「公式版」でその神話の微修正を図った痕跡、と個人的に読みました。

1961 – 『髪と女優』(伊奈もと著、日本週報社)

« Hairmaking and Actresses »
(« Kami to Joyu », Ina Moto, Nihon Shūhōsha, 1961)

日本映画の黎明期から髪結い/ヘアデザイナーとして活躍された伊奈もとさんによる随筆集。古くから原節子愛好家界隈で知られており、彼女の残した名言「自分を卑しくすると、 あとでさびしくなるのでそういうことは一切しないようにしています」の典拠となっています(159頁)。

宮城県生まれ。旧姓亀田。尋常小学校卒業後に上京し、後に美髪学会を設立する高木きくに師事。1917年(大正6年)頃から姉弟子の増渕いよのと共に活動写真(主に日活向島新派劇の女形)の結髪に関わるようになり、松竹蒲田撮影所発足時から女優の髪結いを担当。1923年(大正12年)、酒井米子が松竹から日活に復帰したのに伴い籍を移す。戦後は東映大泉に移籍。

日活で監督として活躍した伊奈精一氏を夫とし、その間に生れた娘の圭子さんもまたフリーの髪結師として原節子や対馬恵子を担当していました。1959年(昭和34年)の映画の日に勤続41年の表彰を受け、この表彰をきっかけに自身の辿ってきた道筋や出会ってきた俳優の回想をまとめたのが本書でした。

分量が多いわけではないものの1910年代末から20年頃にかけての「女優以前」の活動写真にも触れられていて、先日の「日活俳優名鑑」でも名が上がっていた木藤茂氏の女形時代の写真が掲載されていたりします。また「日本初の女優は誰か」の問いにも私見が述べられています。

本サイトで『髪と女優』を最初に引用したのは「大正14年の日活俳優揃え」。同書にはもう一点「昭和9年の日活女優揃え」の写真も掲載されています。星玲子、久松美津江、近松里子など30年代中旬の多摩川撮影所女優がアタミホテル裏で撮影した水着姿の集合写真で、それぞれの女優についてのコメントが情報の宝庫となっています。おそらくは「昭和4年の日活女優揃え」にも絡んでいるのではないかな、と。

『唐人お吉』(1930年)撮影スチル

駆け落ち事件後に岡田嘉子から届けられた書簡など邦画女優史の一資料としてその重要性は疑うべくもないのですが、化粧や衣装と並び映画産業を支えてきた結髪技術の確立者だった点も強調しておきたいところです。1922年(大正11年)の平和博覧界の折に出展用人形の髪を頼まれて考案した髪型「耳かくし」が評判を呼び一般女性の間で流行した話は知られています。

また梅村蓉子主演の溝口作品『唐人お吉』(1930年)で女優の額の形と前髪のボリュームを整えるためつけひげにアイデアを得た「前はり」と呼ばれる技術を初めて導入。現在でも様々な目的で使用されている「前貼り」のルーツに当たります。

澤蘭子の有名なポートレート
この髷も伊奈さんの「作品」のようです

髪(型)は社会的記号として機能するだけではなく、流行として世相や時代の雰囲気を映し出し、また個々人が個性を表現していく手段でもある。そういった前提から現場視点で邦画史を読み解いている点で唯一無二の書籍。向学心の強さと人懐っこさの伝わってくる文章も素敵です。

[出版社]
日本週報社

[ページ数]
221

[フォーマット]
19.9 × 13.3 cm

1926 – 9.5mm 『彌次喜多』(『新作膝栗毛』、日活、中山呑海監督)伴野商店版

「伴野商店」より

”Shinsaku hizakurige” (1926, Nikkatsu, dir/Nakayama Donkai)
Late 1920s Banno Co. 9.5mm Print

長屋の薄い壁の向こうから漏れ聞こえてきたのは夜逃げの相談である。そつと覗きこむと借金取りに追われた弥次と喜多が江戸を離れ伊勢参りに向かうとのことであつた。

今生の別れやもしれぬとあり、お調子者の二人の目にもきらりと光る涙があつた。ご近所仲間も別れを惜しみ、路銀の足しにと小銭を持ち寄るのであつた。

いざ出発。しかし桟橋に着いた時にはすでに舟は出たところであつた。「オーイ待つてくれー」、二人の声は船頭には届かない。舟を追って海に飛びこんだ弥次喜多の頭はやがて波間へと消えていく。前途多難な出立であつた。

20メートルの1リール物として発売された伴野初期の9.5ミリ作品。タイトル「彌次喜多」の後すぐに物語が始まっていて出演者や製作会社のクレジットがありません。手持ちカタログでは小泉嘉輔主演となっており1926年に公開された日活作品『新作膝栗毛』の一部のようです。彌次(小泉嘉輔)と喜多(児島三郎)が伊勢参りに出発する長編喜劇の冒頭を抜粋した形。

スキャン画像が綺麗ではなくスキャナー設定を失敗したと思いました。やや淡めでコントラストが低く、グラデーションの滑らかな画質…これってよく見るとパンクロマチック・フィルムの質感にも見えます。オルソクロマチックからパンクロに切り替わった最初の劇場公開作品はフラハティ監督『モアナ』(1926年1月)。日本でもすぐに大手が追随し、同年中には幾つかのパンクロ白黒フィルム映画が製作されていた可能性があるな、と。

『新作膝栗毛』公開は尾上松之助逝去の翌日の9月12日。この3カ月後には大正天皇が崩御し元号が変わります。この年の8月にはヴァイタホンで効果音を一部同期させた『ドン・ファン』のプレミア上映が行われていて翌年の『ジャズ・シンガー』の布石となっていますし、オルソからパンクロへとフィルムの種類も変わっていく…1926年は様々な意味で「変化」の年でもありました。

中山呑海監督のお孫さんがこんなツイートを残されています。

[Movie Walker]
新作膝栗毛

[IMDb]
Shinsaku hizakurige

[公開]
1926年9月12日

[9.5ミリ版]
伴野商店

[9.5ミリ版タイトル]
彌次喜多

[カタログ番号]
24

[フォーマット]
20m×1、ノッチ有、白黒無声

1921-22 『ハリケーン・ハッチ』(米パテ・エクスチェンジ社、ジョージ・B・サイツ監督)

« Hurricane Hutch » (1921-22, US Pathe Exchange, dir/George B. Seitz) 1924 Enomoto Shoten Novelization

蹴倒す、投げ出す、打倒す、ハツチは鬼の如く荒廻つた末遂に二人の幽閉されてゐる室へ飛び込んだのである、それツと二人の婦人を抱いて船室から飛び出ようとする時であつた、どうして焔へ上つたか船は炎々たる紅蓮の炎に包まれてゐるのである、もう仕方がない、ハツチは兩人を抱いたまゝザンブと海中へ躍り込んだのである、船はと見れは地獄の如く阿鼻叫喚の修羅の巷と替り果てゝ了つてゐる、ハツチとナンシー嬢は流れ來る破片に縋り、従妹テツド嬢は漂ひ來る木片に取り縋るのであつた[…]。

『ハリケン・ハッチ』(榎本書店 活動文庫、1924年)

『ハリケーン・ハッチ』は1921年秋から22年初頭に公開された米パテ社の15幕物連続活劇です。主演チャールズ・ハッチソンは旧作『伯林の狼』や『大旋風』で日本でも名を知られており、またパテ社の大掛かりなプロモーションが功を奏したこともあって人気を呼び、『豪傑ハッチ』『スピードハッチ』と次作以降も紹介が続いていきます。


『ハリケーン・ハッチ』の脚本を書いたのはハッチソン自身であるが、本人はこの作品でのアクションを「古びたもの」と切り捨てている。バイクに乗った主人公のハッチがまさに真下を機関車が雷鳴を立てて通り過ぎていく瞬間に壊れた橋を9メートルもジャンプして飛び越えていく。オーセイブルの急流に飛びこみ、その滝を泳ぎ切っていく。丸太に乗って木製の水路を流れていき、そのまま木材で埋め尽くされた川に突入する。ハドソン川の真上30メートルの端にかかったロープを滑り降りていき、揺れたまま通りすがりの帆船のマストに飛び移る。他にも観ているだけで血の気が引くようなアクション満載なのだが「古びたもの」だそうだ。

「ピクチャーゴーア」誌 1921年12月号

Hurricane Hutch was written by himself, but he dismissed his exploits therein as « old stuff. » When Hurricane Hutch is released, you will see « Hutch » leap thirty feet across a broken bridge on a motor-cycle just as a train thunders by beneath him. Also plunge into Ausable Rapids and swim over the falls there ; « ride » a lumber-sluice on a log into a river jammed with other logs; slide down a rope from a hundred-foot bridge over Hudson river, and swing to the mast of a passing schooner, and numerous other blood-curdling stunts. Old stuff!

Picturegoer Magazine (1921 December Issue)


多彩なアクションが伝わってくる記事です。フィルムそのものは遺失。パテ社製作の予告編をシリアル・スカドロン社がデジタル化(『ロスト・シリアル・コレクション』DVDの2枚目に収録)しておりユーチューブでも見る事ができます。

主演チャールズ・ハッチソンについて現在まとまったオンライン記事はありません。紙ベースでは活劇史を扱った『Bound and Gagged』(1968年)の第6章で幾つか作品が触れられていました。古い雑誌で調べているとピクチャーゴーア誌のインタビューを発見。その内容によると父親がスコットランド系イギリス人、母親がアメリカ人で幼少時をイギリスで過ごしているそうです。10代後半で舞台に立ち8年の経験を積んでから映画界に参入。当初トライアンフ社で活動しその後クリスタル社など転々とします。パテ社との契約第一弾となった『伯林の狼』(1918年)成功で連続活劇界の花形となりました。

上の写真は1922年のパテ・エクスチェンジ社の広告。パール・ホワイトと並ぶ扱いを受けているのが分かります。同じ雑誌に寄稿されたパテ・エクスチェンジ社マネージャー(エドガー・オスワルド・ブルックス)の一文では、旧来型の連続活劇と方向性を変え青少年に悪影響を与えない「健全」な作風に向かう旨が記されています。興行としても内容・表現的にも行き詰まりを見せていた活劇ジャンルの再興を目論んでいるのです。しかしパール・ホワイトは次作『プランダー』をもって活劇を引退、ハッチソンも翌年にはパテ社を離れています。

1914年後半から始まったハリウッド連続活劇のブームはこの1923~24年で一旦終焉を迎えました。ハッチソンの名も忘れられていくもののその血脈は『怪傑ハヤブサ』などに受け継がれていきます。

[Movie Walker]
ハリケーン・ハッチ

[IMDb]
Hurricane Hutch

[発行者]
榎本松之助

[発行所]
榎本書店(大阪)

[出版年]
1924年

[フォーマット]
A7:10.5×7.4㎝、32頁

1930年 – 9.5mm 『復興帝都御巡幸』(原題『輝やく大東京』 撮影・大日本教育映画協會 伴野商店版)

小特集【関東大震災と9.5ミリ映画】
「伴野商店」より

« Imperial Visit to the Reconstructed Capital » (March 1930)
c1930 Banno co. 9.5mm Print

震災から6年半、当時の金額にして7億円以上の巨費を費やした東京の復興計画(土地区画の整備、インフラ再建)が一区切りつき、1930年3月に復興帝都祭が開催されています。3月24日の昭和天皇による首都巡幸を記録した映像がこちら。

ルートとしては皇居出発後に九段坂上~府立工藝學校~上野公園~隅田公園~震災記念堂~市立千代田尋常小學校~私立築地病院と移動し皇居に戻るもので、所要時間は4時間40分を予定していました。

原題は『輝やく大東京』、撮影は大日本教育映画協會。明記されていませんが東京市教育局による製作。大阪芸術大学、京都のおもちゃ映画ミュージアム等が35ミリ版断片を所有しており、旧東京国立美術館フィルムセンターの企画「発掘された映画たち 2009」で南湖院コレクションの一部として15分全長染色版が上映された記録も残っています。伴野9.5ミリ版は字幕を入れて7分程の長さで約半分のダイジェスト版。ちなみにフィルムセンターは『輝やく大東京』と『復興帝都御巡幸』を別作品とみているのですが、本サイトでは編集と改題を経た同一作と解釈しています。

「皇室とメディア」は戦前から戦後まで続いていく重要なテーマですし、都市デザインや都市計画の視点で見ても発見が出てきそう。何より1920年代後半期(昭和元年~5年)はまだ大正期の文化が残っていてこの昭和6、7年辺りから本格的に「昭和的なもの」が形を取ってきた感覚があります。震災からの再生、首都のリセットを意味するこのイベントも一つの節目となったのかな、と。

[原題]
輝やく大東京

[制作]
東京市教育局

[フィルム版メーカー]
伴野商店

[カタログ番号]
278

[フォーマット]
20m×2巻 無声字幕あり(第一巻の冒頭タイトル部欠)

1923 – 9.5mm 『震災に見舞われた日本』 (仏パテ版)

小特集【関東大震災と9.5ミリ映画】

« Tremblement de terre au Japon » 1923 French Pathé 9.5mm Print

仏エクレール社が制作した関東大震災の記録映画。東京と横浜の被災状況を捉えた映像で後半には救援隊が訪れる様子が映し出されています。

本作品の最後には人々が救助の船に乗りこんでいく映像が収められ「怪我人優先」で作業が進んでいきます。甚大な被害にも関わらずパニックは見られず、秩序の保たれている様子が伝わってくるものです。地震直後は情報インフラが寸断され正確な状況が伝わりにくかった中で、心を痛めていた国外在住の邦人や関係者にとってこういった短い動画でも貴重だったのだろうなと思います。

また2018年春から夏にかけ江戸東京たてもの園で開催されていた「東京150年記念・看板建築展」を訪れた折、会場一角に設置されたモニターで関東大震災関連の動画をまとめた映像が公開されていました。ふと見覚えのある映像が出てきたのがこのフィルムの抜粋でした。里帰りした映像は後世に歴史を伝える役割を果たしてくれています。

[原題]
Tremblement de terre au Japon

[制作]
仏エクレール社

[フィルム版メーカー]
仏パテ社

[カタログ番号]
655

[フォーマット]
10m×1巻 無声字幕 白黒 ノッチ有

1924 – 9.5mm 『日本、震災のその後』 (仏パテ版)

小特集【関東大震災と9.5ミリ映画】

« Au Japon : après le cataclysme » 1924 French Pathé 9.5mm Print

同時に紹介している『震災に見舞われた日本』 の続編的な一本。前作が災害の切実さ、深刻さを伝えようとしていたのに対し『震災のその後』では支援活動や復興に向けた動きなどが収められ、人々の表情にも希望と明るさが戻り始めています。

10年程前に最初に手に入れた9.5ミリの一つで、仏フィルムコレクターが日本関連の作品6本(『震災に見舞われた日本』『震災のその後』『日本の芸者』『日本冬景色』『日本の七宝焼き』『日本の象牙細工』)をポッソ社製60メートルリールにまとめた形になっています。パテ社の9.5ミリ初期カタログには日本を扱った作品が多く、確認できている限りで16~17作ほどの動画が市販されていました。外国、特にアジア圏を扱った数としては異例の多さで、前世紀のジャポニスムなどの影響で日本への関心が高かった様子を伺い取ることができます。

[原題]
Au Japon : après le cataclysme

[フィルム版メーカー]
仏パテ社

[カタログ番号]
682

[フォーマット]
10m×1巻 無声字幕 白黒 ノッチ有

1918 – 『さらば靑春』 (イタラ映画社、アウグスト・ジェニーナ監督) 説明・丸山章治

Addio giovinezza! (1918, Itala Film, dir/Augusto Genina)
Japanese Benshi Narration by Maruyama Shôji (from 1986 Cassette Compilation « Oh Katsudo Dai-Shashin »)

はるばる片田舎から出てきてトリノ大學へ入學したばかりのマリオは 近眼でお人好しの友人レオンと一緒に下宿を探していました。
「あ、ここに下宿があるぜ。聞いてみやうぢやないか」
ドアをノツクすると扉を開けて美しい娘が出てきました。
「あの何か…御用ですか」
「部屋を借りたいんですがね。見せていただけますか」
「ええ、どうぞ。今母を呼んできますわ」

「おい、マリオ。僕は近眼で良く見えないんだがね。どんな人だ」
「え」
「おい、教えろよ。美人か、美人なら俺がこの部屋を借りるよ」
「まあさう興奮するなよ。この部屋は君のやうな金持ちには相応しくないから…僕が借りるよ」
たうたうマリオが部屋を借りて仕舞ひました。

この家の一人娘のドリナは新しい下宿人のマリオに心を惹かれ、用事にかこつけてはしばしばマリオの部屋に入つてきます。
「あのお、お水を持つてきました」
「ああ、ありがたう」
マリオの方でも強いて平静を装つてはいますが内心はわくわくして勉強も上の空です。
「あのお、他に何か御用御座いません」
「ええ、別に」
話の継穂もなく仕方なく出ていかうとすると「あ、ちよつと」
「御用ですか」
「あの、君に云ひたかつたんです」
「何ですか」
「君の名前…良い名前だと僕は思つて居ます」
「あの、仰りたい事はそれだけですの」
「いやつまり…云ひたかつたのは…君が好きだつて事です」

この愛の告白に始まり二人は急速に愛し合うようになつて、幸福な三年が過ぎ去りました。
ところが不図した事からマリオは金と暇を持て余している有閑夫人のエレナと親しい間柄になつてしまいました。
ドリナは自分から離れていくマリオを取り戻したい一心から、或る日マリオを訪ねてきたエレナに会ひました。

「あたし奥様にお話があります。奥様にとつてはマリオは只の遊び相手に過ぎませんけれども、あたくしにとつては命です。どうかあの人をあたしから奪らないでくださいまし。奥様はあの人をよくご存じないんです。あの人本当は貧乏な学生です。御覧ください、この下着や靴下。みんなあたくしが何遍も繕ってあげたものばかりです。奥様みたいな御身分のある方に相応しい人ではありません。お願いです、あの人を奪らないでくださいまし」
「まあ、さうだつたの。貴女、あの人を愛しているんですね。ええ、分かりました、もう二度と会いません」
このことがマリオに知れて、腹を立てたマリオは下宿を移つてしまつた。

そして二月の後、友達がドリナに「あんたのマリオさんが学位を取つたんですつてね。あら、あんた知らなかつたの。今日郷へ歸るつて話よ」。
聞いてドリナがびつくりしました。
あれ以来ドリナは一日として彼を忘れたことはなかつた。もし今彼に会わなかつたら二度と会えなくなるのではないか。さう思ふと居ても立つてもいられなくなつて足は自然にマリオの下宿へと向かひました。

おそるおそるドアを開けると、中にいたレオンが「あ、誰。あ、ドリナ。今もマリオと君の噂をしていたところだよ。よく來てくれたね。…おいマリオ、ドリナだよ。何をもじもじしているんだ。二人とも何とか云つたらいいだらう。え、どうしたんだ。…ははあ僕がいては邪魔か」、気を利かせて出てきました。


「マリオ…」
「ドリナ、もう会えないかと思つていたよ」
「あたしもよ。お郷にお歸りになるんですつて」
「父と母が待つているんだ」
「お願いです、いかないでください。あたし、貴方を愛しています」
「いや僕はまた歸つてくるよ。もう一度必ず歸つてくる積りだ」
しかし、果たしてマリオは歸つてくるであらうか。

マリオを乗せた列車が今橋の下を通り過ぎていく。ドリナは抱えていた花束を列車に投げた。列車はその花束を乗せて遠く過ぎ去つていく。過ぎ去つた靑春は二度とは戻つてこない。靑春よさらば、さらば靑春よ。

説明・丸山章治
(『⦅映画渡来90年記念⦆ おお活動大写真』 カセットテープ版 1986年)

昨年キングレコードよりCD版が復刻された『おお活動大写真』より丸山章治氏による『さらば靑春』の弁士解説。ライナーノートで触れられていたようにいわゆる弁士の語りといっても一様ではなく、丸山氏は平易な表現で穏やかに進んでいくスタイルを取っています。

1921年 『◆感想◆ あゝさらば、さらば靑春よ!』 若樹華影 (活動倶楽部・大正10年12月号)

« Addio giovinezza! : Impressions » by Wakagi Kaei, excerpts
(« Katsudou Kurabu » 1921 December Issue)

夢の樣な淡い内にも非常な華かな戀が、大學生マリオと、下宿屋の娘ドリナとの間に結ばれた戀でした。三年の間、彼等の樂しい生活が續けられた時、マリオは、ある富豪の妾をして居るエレナといふ美人の戯れに魅せられた。この結果として、彼は止むなくドリナと別れなければならなかつた。而もその間に螢雪の功は成つてマリオはあの慈愛深い父母の住む故郷に錦を飾るべく歸國する – 彼は都に於けるすべての思出や忘れやうとしうて忘れる事のできない戀人ドリナとも別れて歸國したのです。

今羅馬停車場を發して北へ北へと走つて行く列車を、陸橋の上から、悲し氣に見送りつゝ、せめてもの心盡しに一束の花を無心の列車に投げ與へる可憐の乙女ドリナ。列車の姿が遠く遠く消へて行く時、ドリナには云ひ知れない深い深い悲しみが俄に湧き起こつたのです – さらば靑春よ。もう再び靑春は永久に、永久に返らないのです。

斯うした構想を以て、劇は編み出されてあるのです。私は、私の今の境遇や、今の生活や、今の心情から『さらば靑春』を見て泣いたのです。人から見れば笑はれる程に泣いたのです。

私にも、もうあの懐かしい思出となる靑春は去る日が來ました。之から未だ幾年を靑春の夢に憧れつゝ、渡り行かうとする多くの人々は幸福です。そんな人は、必ず何時の日にか、靑春と別れる時の來る事を覺悟しなければなりません。その時こそ彼等は此映畫を思出して、少なくとも涙含まずには居られないと思います。

靑春と別れ行く、此の上ない悲しさを胸に抱きつゝ、『さらば靑春』を見て、心の奥底から滲み出る涙を禁じ得なかつた私を笑うた人々の現在は、實に羨しい程幸福に滿されて居るに違ひない。

けれども去り行く春の日の悲しみを、やがて味はう日を忘れてはなりません。

ドリナがマリオの下宿を尋ねつゝも、進んで入り得なかつた優しさや、エレナがドリナとマリオの間柄を知つて、優しくも自分の戯れな戀を棄てた事なども、伊太利女の或る特殊の性情の遺憾ない發現として、ほんたうに私達の内心に觸れる何物かを感ぜずには居られません。[…]

「◆感想◆ あゝさらば、さらば靑春よ!」 若樹華影
(『活動倶楽部』 大正10年12月号 52-53頁)


1910年代後半~20年代初頭に『活動画報』の同人として活躍していた若樹華影氏による『さらば靑春』講評。同性として主人公ドリナに感情移入しつつ、登場人物の情の動きに日本人と「何物か」が通底している点を強調した内容となっています。

この映画評は『さらば靑春』が当時の日本の女性に訴えかけた理由について考えるきっかけにもなりました。ヒロインの町娘ドリナは気になった男子学生に積極的にアプローチをかけ、納得できない対応があれば怒り、恋敵の出現に涙し、一対一で談判に乗り出して恋人を取り戻そうとします。社会関係、人間関係で「戦っている」感がはっきりと出ているんですよね。でも最後にはそういった凡ての喜怒哀楽、幸不幸は時に押し流され、消え去っていく「靑春」を惜しみつつ誰もが大人になっていく…

1920年前後の邦画界ではまだ「尽す女」のステレオタイプが優勢でしたし、当時の社会・文化の文脈を考慮するなら無下に否定はできないのですが、この手の固定観念を信じていない日本人女性も当然多くいた訳です。迷いと失敗を重ねつつ意志を貫いていくヒロインに彼女たちが共感、憧れを覚えたとしても不思議はありません。安易なハッピーエンドに落としこまなかったのも良かったんでしょうね。大人の鑑賞に堪えるリアリティを表現できたからこその「心の奥底から滲み出る涙」だったのでしょう。

月形龍之介 (1902- 1970)

日本・男優 [Japanese actors]より

Tsukigata Ryûnosuke Autographed Postcard

本名門田潔人。明治三十五年宮城縣で生る。元輝子ことマキノ智子と浮名を流した色男、東亜キネマが映畫俳優として振出し、マキノ主腦男優の一人で常に時代劇に主演して大向からヤンヤの喝采を博す。『討たるゝ者』が初演映畫で『怪物』『毒刄』『戦國時代』『轉落』『修羅八荒』『愚戀の巷』最近の主演では『毒蛇』『砂絵呪縛第二編』『雪の夜話』等でキビキビした胸のすくやうな演技を見せてフアンを喜ばしていゐる。

『玉麗佳集』(1928年2月、中央書院)


マキノ以来のケンゲキ俳優月形は今フリー・ランサーとなり、千惠藏映畫、阪妻映畫、下加茂映畫、新興映畫等にドシ〱出演してゐる。トーキー俳優として臺詞がうまく、ケンゲキ俳優として殺陣が鮮やかなので、各社からひつぱりだこになつてゐる。劍道三段の腕前があり、現在のケンゲキ俳優中、眞劍を使ふスターは彼を措いて外にない。その殺陣には獨特の凄味がある。何しろ眞劍を使ふので、捕手達もビクビクものだが、未だ嘗て一度も人を負傷さしたことがないといふからえらいもの。

『映画とレビュー 人氣花形大寫眞帖』
(1936年1月、『冨士』昭和11年新年號附録)

[JMDb]
月形龍之介

[IMDb]
Ryûnosuke Tsukigata

[出身地]
日本(宮城)

[誕生日]
3月18日

西條香代子 (1906 – ?)

日本・女優 [Japanese actresses]より

Saijô Kayoko Late 1920s Autographed Postcard

本名は中村香代子、明治卅九年正月の元日に神奈川縣鶴見に生れる、女學校卒業後、大正十四年五月一日日活へ入社、「闇の中の顔」へ出演好評を博す。「ダンスとピアノと琴が好きでイバニエズの戯曲物の愛讀を好み、バナゝと洋食と甘いお菓子が好きで、メリーピツクフオード愛好者です」住所京都市下京區西ノ京御輿ヶ岡町十五ノ五。

『日活俳優名鑑 1926+10』
(『大日活』二周年記念附録、1926年10月)


私は此の人の、あく事なき理智に輝いた眸の色に視入る時、恋の霊魂と化したあの静御前の姿が忍ばれてならない。

「佳人佳語」
(美町淑夫『うづまさ』1927年9月号)


明治三十九年一月一日極めてお芽出度い元旦の初日の出と共に神奈川縣の鶴見で孤々の聲を揚げた。中村香代子が本名で、當年二十三才。高等女學校卒業後大正十四年五月に日活に入社する。玉麗花のかんばせ、眞紅の唇、瀟洒たるスタイルは常に幾百萬のフアンをチャームしてゐる。主演『闇の中の顔』『日輪』『死の寶庫』『大陸の彼方』で好評を得。現に同社の花形女優。

『玉麗佳集』(1928年)


昭和元年〜2年にかけて人気を博した女優さんで、1926年8月『キネマ』誌の人気投票中間報告で25位(女優では11位)になっていました。

昭和3年(1928年)に髙島栄一氏とやりとりをしていた葉書が2枚手元にあります。一枚目は年賀状で「旅行中の爲失礼を致しました」の一文あり。もう一通は同年8月の暑中見舞いで「早速お尋ねを頂きまして恐縮し存じ上げました。私恙なく過して居ります」とのこと。

Saijô Kayoko 1928 New Year Greeting Card

Saijo Kayoko 1928 Summer Greeting Card

Saijô Kayoko 1928 Summer Greeting Card

この二通の間に阪妻『坂本龍馬』(1928年5月公開)に出演、同作を最後に映画界から引退。実質3年の短い女優活動でした。引退までの経緯とその後の消息が気になっていたところ1928年1月の新聞にこんな記事を見つけました。

阪妻プロダクシヨンの女優西條香代子こと中村かよ子は今度洋行することになり、先日京都府廰へ旅券下附願ひを出した。映畫俳優の洋行といへば大ていハリウッドと相場が決まつてゐるがこの人のはアメリカではなくフランスを中心にドイツ、イタ[リ]ーへ、しかも三年間滞在しようといふのである。

日布時事日曜版 1928年1月29日付 9面
(フーバー・インスティテューション
邦字新聞デジタル・コレクションより)

自身のキャリアアップのために邦画界を離れたい旨が語られています。実際に渡欧できたかは分かりませんが、映畫界からフェイドアウトしていった背景が理解できる内容で「そういう事情であれば」と納得できました。

[IMDb]
Kayoko Saijô

[JMDB] (二項目に分かれて記載されています)
西条加代子
西条喜代子

[出身地]
日本(神奈川県横浜市)

[生年月日]
1月1日

1932 – 35mm 『凱旋』(東活、安東太郎監督作品)

35mm « Gaisen » (1932, Tôkatsu, dir/Tarô Andô) 35mm excerpt

解散した東亞キネマの後継として設立され、短期間(1931年夏から32年後半)活動していたのが東活映画社でした。東亞の残党が多く在籍、この後に誕生した寶塚キネマの原型ともなっています。

東活映画社が活動していた時期、満州事変の影響を受け愛国的傾向を持つ作品が多く作られていました。最も有名な作品が肉弾(あるいは爆弾)三勇士で、東活からも32年3月に『忠烈肉弾三勇士』が発表されています。

その翌月に公開されたのが愛国映画『凱旋』でした。主演は帝キネ〜河合〜東亞で活躍した里見明。脚本は『忠烈肉弾三勇士』と同じ小国京二氏が担当。史実とされている出来事を元にした『忠烈肉弾三勇士』とは異なり『凱旋』は小国氏が原作を担当したフィクションです。

今回入手した35ミリ版は結末近い殉死場面のみの抜粋です。劇場公開版は7巻物の長編で女優陣(都賀静子、浅間昇子、小川雪子)の名もクレジットされており、大陸での戦闘場面だけではなく国内での家族や恋人との物語展開も含まれていたと思われます

[JMDb]
凱旋

[IMDb]
Gaisen

1920年代後半 – 9.5mm 『日光旅行』(伴野商店)

9.5ミリ 伴野商店より

« Visiting Nikko » (Late 1920s Banno 9.5mm Print)

1920年代後半に伴野商店が自社の9.5ミリ作品を展開し始めた当初、御当地物のフィルムはそこまで重要視されていませんでした。カタログ番号70番台辺りから次第に数が増え始め(74番に『日本アルプス』、78番に『日本三景』)、20年代末頃にはカタログ内で結構な比重を占めるようになってきます。『日光旅行』は同社カタログの76番となっていて初期の御当地物9.5ミリに当たります。

カタログの150番台で発売された「新日本八景」のシリーズ(華厳の滝も含まれています)は鉄道省の協力を得て製作されたものでした。文部省ではなく鉄道省扱いなのが興味深い所。1920年代の好景気を受け、整備された国内インフラを活用して旅行の内需を掘り起こしていく目的が見て取れるからです。

訪れたことのある場所を動画で追体験する、未だ見たことのない土地の風光明媚に思いを馳せる…現在「ヴァーチャルツーリズム」と呼ばれるものの雛型とも言えそうな気がします。

[タイトル]
日光旅行

[メーカー]
伴野商店

[カタログ番号]
76

[発売年]
1920年代後半(1927年頃)

[フォーマット]
120m 白黒無声 ノッチ有

1930年代中盤・日本 9.5ミリ個人撮影動画 『無題(素人劇)』

9.5ミリ 個人撮影動画 [日本]より

Mid 1920s Japanese 9.5mm Home Movie (Amateur Drama)

道端に座りこんでいた麦藁帽姿の老人。背伸びをしてふと目をやると道路に財布が落ちています。先ほど通り過ぎていった男が落としたようです。

恐々と財布を拾うと中には札束が。はてさて、どうしたものか。

料理屋に向かう男の後ろ姿。うどんを食べて腹一杯、酒も進みます。

店を出たところで、「おい待て」の声。警官に見つかったようです。慌てて逃げだした男、「逃げると撃つぞ!」。哀れ御用の身となるのでした…

…となったらさぁ大変だ。豪遊は夢想に留め、男は財布を届けることにしたのでした。

1930年代中頃~後半に制作された9.5ミリ素人劇。以前に紹介した『無題(草上の昼食)』と同じ東北で撮影された一連の動画のひとつ。短い時間内で起承転結をまとめ道徳的なオチもついています。料理屋の場面では壁の品書きも映っていますが光の加減から屋内ではないようで、戸外に簡易セットを自作したと思われます。

スーパー8 『邦画名作抄 美人女優列伝 サイレント時代・草分けの美女たち』

8ミリ 劇映画より

« Legend of The Shochiku Beauties, Chapter 1 : Pioneers from The Silent Era »
1970s Super8 Anthology


1) 伊豆の踊子(1933年、五所平之助監督) 田中絹代、若水絹子ほか [JMDb]


2)松竹スタジオ紹介他


3)不壊の白珠(1929年、清水宏監督) 及川道子、八雲恵美子ほか [JMDb]


4)与太者と海水浴(1933年、野村浩将監督) 井上雪子、光川京子、高峰秀子ほか [JMDb]


5)夜ごとの夢(1933年、成瀬巳喜男監督) 栗島すみ子、飯田蝶子ほか [JMDb]


6)金色夜叉(1937年、清水宏監督) 川崎弘子 [JMDb]

2018年初頭に入手したスーパー8版アンソロジー。トーキー篇の紹介にあわせてこちらもスキャンしました(前回は映写した画面をそのまま撮影)。

田中絹代さん主演の『伊豆の踊子』で始まり、松竹スタジオの外観などを挟みながら井上雪子さん主演の『与太者と海水浴』へ。浅瀬に着衣のまま飛びこんでしまう大胆な展開に。

名作『不壊の白珠』を挟んで『夜ごとの夢』。栗島すみ子さんキャリア後期の作品で子供に頬をつけて泣いている時の表情が圧倒的。最後に『金色夜叉』での寛一お宮のやりとりが紹介されています。どの女優さんも雰囲気ありますね。

[発売時期]
1970年代

[発売元/製作/提供]
テレキャスジャパン/大沢商会/松竹

[フォーマット]
スーパー8 白黒200フィート 磁器録音(24コマ/秒)

昭和2年(1927年)頃 パテーベビー フィルム目録(東京、三友商会)

Late 1920s Sanyu & Co. 9.5mm Film Catalogue (in Japanese)

1920年代後半、芝区の桜田本郷にあった三友商会が仏パテ社9.5ミリフィルムを輸入し各地の業者に卸していた際のカタログ。

リストは1番から始まり1050番位まで欠けの少ない形で続いていきます。タイトルの左に「×」印の付されたものは輸入予定の無い作品。時事ニュースや仏国の内政に関わるフィルムなどはこの時点で輸入予定から外されています。

裏表紙の見返しにフィルムと映写機(パテベビーD型とPB-Ex型)の定価、送料が記されています。10メートルフィルム一本の定価は2円50銭、箱入りD型映写機が250円(物価指数の差を考慮すると現在の15万円強に相当)でした。目録の発行年が明記されていないのですが120メートルリール作品が載っていないため1927~28年頃でしょうか。

戦前9.5ミリフィルムのリストは後年のものになるに従い絶版・入手不能な初期作欠番が多くなります(=連番が歯抜けになる)。三友商会版はこの欠けが少なく、輸入しない作品まで邦題を付している勝れ物でした。

戦前の映画解説本・説明本・ストーリー集(2020年度総括)

今年は古い解説本を探していた覚えがあって手元に25冊程のミニコレクションができました。サイト内でデータがばらけてしまったので時系列(公開順)に並べてみます。20年代半ばから30年代初頭の盛り上がりも伝わってくるのではないでしょうか。最初に入手した作品が紹介できていないのでその辺は追々。

春江堂大活劇文庫に関しては国立国会図書館、またトーキー文庫については日本大学の芸術学部にまとまったコレクションが所蔵されています。


映畫文庫(湯川明文館)

1925年7月公開『剣の舞』(東亜、市川小文治主演、松屋春翠)
1925年11月 『雄呂血』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、二川文太郎)
1925年12月 『落武者』(松竹蒲田、森肇主演、清水宏)
1925年12月『魔保露詩』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、志波西果)


出版者不明

1925年12月〜26年1月『南蠻寺の怪人』(東亞、高木新平主演、長尾史録)
1926年2月 『傷魂』(東亜、1926年 – 高木新平・生野初子主演、長尾史録)
1926年2月 『孔雀の光 前編』(マキノ、市川右太衛門主演、沼田紅緑)
1926年2月 『尊王』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、志波西果)
1926年6月 『幕末』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、宇澤芳幽貴)
1926年6月 『侠血』(阪妻プロ 、阪東妻三郎主演、門田清太郎)


瀧本時代堂

1929年7月 『此村大吉』(阪妻プロ、阪東妻三郎主演、山口哲平)
1929年7月 『月形半平太』(東亞、草間實主演、枝正義郎)
1929年8月 『冷眼』(右太プロ、市川右太衛門主演、悪麗之助)
1929年8月 『傳奇刀葉林』(帝キネ、市川百々之助主演、渡辺新太郎)
1929年8月 『大利根の殺陣』(東亞、嵐寛壽郎主演、後藤岱山)
1929年9月 『斬人斬馬剣』(松竹、月形龍之介主演、伊藤大輔)


トーキー文庫(映画研究会)

1930年10月 『九条武子夫人 無憂華』(東亞、鈴村京子・三原那智子主演、後藤岱山他)


大島印刷株式会社

1931年7月 『海江田譲二の高田の馬場』(日活、海江田譲二主演、辻吉朗)
1931年7月 『野に叫ぶもの』(松竹、 鈴木伝明・高田稔主演、島津保次郎)
1931年11月 『阿波十郎兵衛』 (帝キネ、雲井竜之介主演、寿々喜多呂九平)


大活劇文庫(春江堂)

1918年公開 『曲馬団の秘密』(The Iron Test、ヴァイタグラフ社)篠田緑水訳
1919年公開 『蛸の手』(The Trail of the Octopus、ユニヴァーサル社)麻生重人訳


活動文庫(榎本書店)

1921年公開 『キッド』(The Kid、チャールズ・チャップリン)
1921年公開 『ハリケンハッチ』(Hurricane Hutch、ジョージ・B・サイツ)
1922年公開 『血と砂』(Blood and Sand、フレッド・ニブロ)
1923年公開 『十八日間世界一周』(Around the World in Eighteen Days、リーブス・イーソン&ロバート・F・ヒル)


1934 – 9.5mm 日本・個人撮影動画 「鰊の話」(北海道、積丹、ニシン漁、刺網、モッコ、奇岩)長谷川久敏氏制作作品

9.5ミリ 個人撮影動画 [日本]より

« Herring Fishing in Hokkaido »
Early 1930s 9.5mm Japanese Private Documentary Film

1934年、北海道在住の9.5ミリ撮影家・長谷川久敏氏によって製作された50m物のドキュメンタリー作品。小さな漁村での鰊(にしん)漁の様子を記録した一本です。

人々が浜辺で漁の準備をしている場面で始まります。女性を中心に丁寧に網をほぐし修理していきます。

沖合の魚群に向けて船を進めていく漁師の姿。一糸乱れぬ動きで櫂を漕ぐ様子が壮観です

網起こしが始まります。ムシロをかぶせた「起し船」の男たちが網を興していきます。

舷に並んだ漁師たちが網を手繰ってニシンを網の端に寄せていきます。

学生と思われる若い漁師たちの姿も見られます。

港まで戻ってから陸揚げを行います。地元民が総出で「モッコ」と呼ばれる木製の四角い箱を背負い運搬を続けていきます。

木製のウィンチが稼働し網ごと運んでいく様子。

スタイリッシュにデザインされたの「完」の文字で動画は終了。

映像には看板など文字情報が含まれておらず、撮影場所の特定にてこずりました。ヒントになったのが一瞬姿を見せた奇岩。漁に向った船が回りこむように進んでいく中で撮影された場面。

ニシン漁が盛んな町で、漁場の近くに奇岩がある。この組みあわせであれば選択肢を絞れそうです。

調査の結果、余市郡余市町のローソク岩と判明しました。現在はもっと細い形になっているのですが、1940年代に地震の影響で割れたそうで、それ以前の姿が新聞記事に掲載されていました。

新聞記事にある「1934年」のシルエットを左右反転させたものと一致します

1932年公刊の『パテー・シネ』(大伴喜祐著、古今書院)には当時の9.5ミリ作品競技会の受賞作をまとめた「代表作品」の章があります。このリストに「北海道の鰊漁」が含まれていました(265頁)。東京ベビーシネマ倶樂部主催による昭和2年の競技会で第3等を受賞。製作者名は札幌在住の「長谷川久敏」氏。本編「鰊の話」には1934年のクレジットが含まれているため同一作品ではなく続編あるいはアップデート版でしょうか。9.5ミリ界隈で知られた実力者だったのは間違いなさそうです。

1918 – 『侠艶録』 (日活向島、田中栄三監督) 絵葉書2点 東猛夫・藤野秀夫主演

「まア、何うしたんだらう。こんなに詰まつちやつて。」と、懐紙を出して͡紙撚を撚り初めた。覺束無い手許を留守にして、ちらちらと男の顔を見てゐたが、ふと思ひついた様子で、
「アゝ、貴方も一つ撚つて下さいな。」
「僕は紙撚なんかうまく撚れないよ。」
「そんな事を云はないで。どうぞ只一本でいゝんだから。」
「下手ですよ。」
「下手でもいゝからさ。貴方が撚つたんでなくちや不可ないからさ。」
「面倒臭いね、種々の事をいふ人だなア。」と澁々ながらも、撚つて出した紙撚を力枝は受け取つて自分で撚つたのと合せて二つに折り、向かいの端を男の鼻先に突き付けて
「済みませんがね、どつちでも貴方の好きな方を結んで引いて見て下さい。」
「斯うですか」と男が結んで引いたのを見て、
「オヤ、結ばつた!」と首をすくめて鼠鳴きしたのであつた。
「夫は何です?」と男は不思議さう。
「縁結び!」
「下らん事を云つてゐる。」と男は苦笑して立上つた。

『侠艶録』(佐藤紅緑著、新潮社、1912年)

Azuma Takeo as Rikie (Left) and Fujino Hideo as Fujio (Right)

Azuma Takeo as Rikie Holding Her Baby

1912年に出版された佐藤紅綠の同名小説を映像化した日活の新派映画。

一枚目の絵葉書は木橋で思いつめた表情を浮かべていた文学青年・富士雄(藤野秀夫)の自殺を女役者・力枝(東猛夫)が思いとどまらせた場面に続く「縁結びの紙撚(こより)」のエピソードに一致。

二枚目は小説版に対応する描写はないものの、単なる立姿ではなく赤子を抱えているように見えます。力枝が役者稼業との両立に苦労しつつ、富士雄との間に生まれた愛児を懸命に育てている場面に相当すると思われます。

富士雄は爵位を持つ一家の跡取り、親の決めた許婚もいる設定でした。力枝と所帯を持ち、子供を設けるも父の死をきっかけに実家に戻らざるを得なくなります。力枝は母親の画策から子供を勝手に里子に出されてしまい孤独の内に次第に正気を失っていく。物語は力枝の現状を知った富士雄がそのもとに駆けつけることで収斂していきます。

1910年代中盤~20年頃まで隆盛を誇った日活向島の新派作品は現存数が少なく映画史でもあまり大きく取りあげてこられなかった流れでした。それでも2011年末に早稲田大学において「日活向島と新派映画の時代展」が開催され、2016年に東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイヴ)がスチル写真群をまとめて紹介するなど再発見・再評価の動きも見てとれます。

日本映畫は山本嘉一、東猛夫、衣笠貞之助、藤野秀夫一派の日活向島の新派[…]が創始以來相當の年月日を經ながら只撮影技巧等に幾分かの進歩の跡を示したのみで、映画劇の要素であるべき劇筋の思想、俳優の演技、監督術といつた方面には全然無關心で只無暗矢鱈に制作をつゞけてゐたといふに過ぎない。

「日本映畫界の成長」 井關種雄、枕野流三(『映画大觀』、1924年所収)

1920年代以降の邦画近代化の途上、先行の新派映画は否定される運命を辿りました。この時期の言説(「映畫劇としては全然価値のない舞臺劇をそのまゝカメラに収めたに過ぎないといつていい低級な舊劇や新派」)は現在の映画史観にも影を落としてます。1920年代のトレンドがそのまま日本映画史の勝者=正統になったため、新派映画や連鎖劇などの敗者に復権の機会を与える言説の環境を構築しにくい、という話なのだと思います。1910年代中頃の欧米映画(アメリカ、フランス、デンマーク、ロシア、イタリア)も十分舞台がかっていますがそれはそれで別枠の評価を出来る訳ですしそれならば新派映画も同じはず。

ちなみに学究肌で誠実ではあるが心ならずも妻と子供を捨ててしまう男、夫と子供を失い理性を失っていく女の関係性は『ファウスト』と同一です。そもそも『ファウスト』自体、魔=メフィストが差して女と子供を見捨てた男とその魂の救済を描いた「下種」な物語でした。『侠艶録』では感情の機微や描かれる風景に和の感覚があって、しかも明治期の和洋折衷感覚を残した独特の混ざり方をしています。

[JMDb]
侠艶録

[IMDb]
Kyôenrokû